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『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

秋の俳句(2011年11月下旬)

2011-11-29 23:28:17 | 日記・エッセイ・コラム

 

頭頂がはげて寒そうなもみじの木<o:p></o:p>

 

山茶花の蕾膨らむ垣根かな<o:p></o:p>

 

耳元をよぎる風音ごうごうと<o:p></o:p>

 

柚子の香がパッと広がる口の中<o:p></o:p>

 

お茶うけの和菓子に寄せる京の秋<o:p></o:p>

 

みかん剥き夕飯食べてもう一つ<o:p></o:p>

 

窓際にひやっと冬が忍び寄る<o:p></o:p>

 

カレー鍋ぐつぐつ煮込む夜長かな<o:p></o:p>

 

木枯らしがピューピュー駆ける坂の上<o:p></o:p>

 

襟を立て通りを急ぐ寒空に<o:p></o:p>

 

漢江の青くくねって遠ざかる<o:p></o:p>

 

あっ辛い舌がひりひり水ごくり<o:p></o:p>

 


そぞろ歩き韓国30 昌徳宮と秘苑

2011-11-25 23:25:21 | まち歩き

昌徳宮は地下鉄3号線安国駅を出たところにある。

ソウルの中心部にある5つの宮殿の中で唯一ユネスコの世界遺産に登録されている。朝鮮王朝時代に歴代の王様から愛され最も長く暮らした宮殿だという。

また宮殿の北側に続く秘苑は山の地形を生かした自然あふれる後苑である。

11月の下旬に訪れた。

まず秘苑を散策し、それから宮殿を観光した。

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秘苑に通じる道
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芙蓉池。四角の池は大地を丸い島は天を象徴している。

ドラマ「大長今」でチャングムが子供から大人に変わる

シーンの撮影が行われた所。

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イ・サンこと正祖が建てた図書館。

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不老の門。一枚の石をくりぬいたもの。

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王妃の勉強部屋。

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両班の屋敷を模して造られた演慶堂。

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紅葉の中の観?池。

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観?亭。

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杯を流して遊んだ跡。

秘苑はここまで。

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仁政殿へ通じる仁政門。

ここから宮殿の部分に行く。

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仁政殿は宮殿の正殿。

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王妃が暮らした大造殿。

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意外にも大造殿の中は洋風。


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昌徳宮の片隅にある住居、楽善斎。

高宗の四男英王と夫人の李方子様が晩年に暮らした。

続きの棟には高宗の皇女や朝鮮王朝最後の皇后も晩年暮らしていた。


翻訳 宇宙の橋を渡って11

2011-11-24 12:45:10 | 翻訳

 

不安と欠乏に苦しめられながらも休むと死ぬという強迫観念で新鮮な創作ではなく、ないところから無理に絞り出して創作したのだ。それで李箱文学賞を受賞するようになったという電話を受けた日の朝8時頃に、僕を捕らえたものは喜びではなく、強烈な絶筆への欲求だった。内面から突き上がってくる厳しい叫び声は僕の作家生活の1時期が終わったことを、そうして新しい時期を準備するために直ちに筆を断てという叱責に他ならなかった。空っぽにしろ、いっぱいにしろ、そうしてもう一度始めろ。<o:p></o:p>

 

 1999年から2008年まで僕は10年間作家として出直すために充電の生活をおくった。僕の絶筆について誰にも説明せず、欠乏と出直しに集中した。無知のまま残っていた分野について勉強をして、文学と自分との関係を再整理し、作家としての自分の存在に対しても新たな認識に至った。しかし10年の歳月を耐えるということは決してたやすいことではなかった。それで意欲に溢れる自我を眠らせるためにカメラを一つ肩にかけ山へ島へ海へと狂ったように歩き回った。そのすべての過程が僕には余すところなく生まれ変わる過程になった。<o:p></o:p>

 

 若い日の僕は文学が僕のすべてだと信じた。それが僕の宗教だと信じ、それが僕の救いだと信じた。作家になった後でも長い間その考えに変化はなかった。死ぬ覚悟で懸命に文だけを書き、文を通して心の問題すべてを解決すべきだと思っていた歳月が流れた。その歳月を通していくつか悟ったことがあった。僕から抜け出して独立した存在になった作家の肩書と僕の小説が世間に与える影響や、また世間から与えられる評価など、世間との間の様々な交流や関係に気が付き始めたのだ。<o:p></o:p>

 

 小説は一人で始めて一人で終わらせなければならない苦しいマラソンだ。その過程で作家は人間と人生に対して探究し苦心する。この世のすべての小説がそれを扱うのだ。人間と人生を扱わない小説はない。それを扱わなければ小説ではなく、それがなければ初めから小説にはならない。それが小説の特徴であると同時にこの世のすべての分野とコミュニケーションできる通路である。作家の意識がこれぐらいにまでなっていれば自分を虜にしていた狭い自我から抜け出さないわけがない。文学に対して持っていた盲信と過度な情熱が恥ずかしくなり始めるのだ。それで毎日酒を飲んで恥ずかしいな、恥ずかしいなと生きてきた日々を反芻するようになる。<o:p></o:p>

 

 今では僕は文学が僕の人生の全部だと考えない。文学は人間と人生を探る1本の鍬にすぎない。それは道具であり手段であってそれ自体が絶対的な価値ではないのだ。文学に対する信仰心で使い果たした数多くの不眠の夜、文学に対する過度の情熱で行った数多くの論争、文学の名で作り出した数多くの免罪符が今は古ぼけた雑誌の表紙のように擦り減ってしまった。しかしこんな代償を支払わなければ、今こんな言葉も口にすることができないのだ。捨てなければならないことを通して人間は学ぶ存在ではないのか。<o:p></o:p>

 

僕は今では小説に追われていない。若い時代にはそれに追われて戦いながら生きていた。<o:p></o:p>

 


そぞろ歩き韓国29 駅

2011-11-18 16:52:44 | まち歩き

たまたま立ち寄った有名な駅

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ソウル駅 KTX(韓国の新幹線)の乗り場。

地下鉄は階段を下ったところに入り口。

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ソウル駅の隣のロッテマート、店員さんが日本語を話す。

階段の横にあるのは昔のソウル駅で,今はギャラリー。

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龍山(ヨンサン)駅。大型ショピングモールとイマートが併設。

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ヨンサン駅から階段を降りた広場のイルミネーション。

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大邱の繁華街の中にある大邱駅。

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東大邱駅。
ソウルからKTXで1時間45分、料金は2,500円ぐらい。

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東大邱駅を飾る花柱。

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大田駅。周囲は何もない寂しい所。

ソウルからKTXで1時間、料金は2,100円ぐらい。

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大田駅の改札を出ると食べ物屋さんが乗客を迎える。


翻訳 宇宙の橋を渡って10

2011-11-17 11:52:06 | 翻訳

 

 文壇デビューと同時に僕は学校に辞表を提出した。そして20代が幕を下し30代が幕を開けたその時、無鉄砲にも上京し職業作家の道へ足を踏み入れた。無数の小説家の中で生き残ることができるというわずかな保障もなく、一種の無茶をやったのだ。一体全体何を信じてそんなに果敢な決断を下すことができたのか。<o:p></o:p>

 

 当時僕が持っていたものとは文学に対する厚い信仰心だけだった。厚い信仰心ではなく狂信的な信念だったかもしれない。文学のためなら命をかけることもできるという若い日の過度の熱情、それ以外僕が持っているものは別に何もなかった。その時はっきりと悟ったことはただ一つ、職業作家というのは「明日がない人間」だということだった。<o:p></o:p>

 

 僕は文壇デビュー直後から夜作業するフクロウ型の生活をした。その時は毎日徹夜で創作し、朝6時ごろに就寝した。正午頃に目覚めて湧水に行きぶらついているうちに、深夜になりまた作業を始めた。1日に3箱ほどの煙草を吸い、小説1編を書き終えると2泊3日ずつ暴飲した。当然体に無理が来るのは仕方なかった。いつからか寝床から起きることもできないほど深い疲労を感じはじめた。机にたった10分も座っていることもできないほど疲労していた。睡眠不足のせいかと思って長く寝てみたがどんなに寝ても疲労が消えなかった。漢方医院に行くと、若い漢方医が脈を取って「どうして今まで来なかったんだい。」と気の毒そうな目つきで僕を見つめた。それで気分が悪くて別の病院に行ったら、慢性疲労症候群で煙草をやめなければ回復しないだろうと言われた。<o:p></o:p>

 

 数日病床に伏していたら名状しがたいほど悲しくて耐えられなかった。作家になるために生きてきた歳月、たかが慢性疲労症候群によって挫折させられるためにここまで苦労してきたのかと思うと、まぶたがうずいた。ぱっと起きて鬱憤の力で煙草を丸ごと折ってしまった。小説を書くために煙草を完全にやめてしまったのだ。<o:p></o:p>

 

 煙草をやめても煙草よりもっと恐ろしい内面的な欠乏感が残っていた。文壇デビューするや否や「90年代作家」という肩書で活発に作品発表をするようになったのは本当に幸運なことだったが、発表をすればするほど内面的な欠乏感と不安感が高まり毎回文を書くことが苦痛で苦行の過程のように思われた。どうしてそうなのか、七転八倒しても根本的な答えを得ることはできなかった。時間がたてばたつほど僕が文を書くのではなく、無理に絞り出しているという思いがして耐えられなかった。一生の間文を書こうとデビューしたのに序盤からこんな枯渇状態に苦しむとは、僕自身があまりにも情けなく感じられた。<o:p></o:p>

 

 1988年文壇デビューしてから1999年「僕の心の屋上の部屋」でイサン文学賞を受賞するまで10年間僕は休まず前だけ向いて進んだ。<o:p></o:p>