読書感想205 菜の花の沖
著者 司馬遼太郎
生没年 1923年(大正12年)~1996年(平成8年)
初出版年 1982年
出版社 (株)文藝春秋 文春文庫 全6冊
☆感想☆☆☆☆
江戸時代に実在した高田屋嘉兵衛を主人公にした物語である。高田屋嘉兵衛は淡路島の水呑百姓の家に生まれ、兵庫の廻船問屋の奉公を経て、蝦夷地と大阪の間の北前船の航路に進出し、巨利を得た人物である。高田屋嘉兵衛の名前が歴史に残るのは、北方から進出してくるロシアとの間で起きた紛争を、身をもって解決したからである。江戸時代、ロシアは日本との通商をもとめて幕府に何度も使節を送っている。1804年に来航したロシア使節レザノフは体よく幕府に通商を断られたことを恨んで、ロシア政府の命令ではなく、独断で2名の士官に命じて日本の沿岸を襲わせた。サハリン、千島にかけて1806年10月から1807年6月まで十数か所に及んだ。択捉島も南部藩、津軽藩の藩士が守っていたが、2隻の武掠船の前に逃げるのみでなすすべもなかった。「フヴォストフ大尉事件」と言う。2隻の武掠船がオホーツク港に戻ったところ二人の士官は反逆罪で投獄された。その後、世界一周の途上でカムチャッカに入ったゴローニン少佐は、1811年にロシア政府から南千島の海域の測量を命じられ、国後島に上陸したところ召し取られてしまった。幕府がオロシヤに対して打ち払うべき、上陸してきたら召捕るか、打捨ててしまうべしという命令を下していたのである。ゴローニン少佐は松前で「フヴォストフ大尉事件」について厳しい取り調べを受けることになった。一方ゴローニン少佐の副長リコルド少佐は難を逃れていったんはオホーツク港に帰り、翌年1812年国後島に引き返し、ちょうどやって来た高田屋嘉兵衛の船を捕まえた。ゴローニンとの引き換えの人質としてカムチャッカ半島のペトロパヴロフスク港に高田屋嘉兵衛を連れて行った。高田屋嘉兵衛は9か月にわたるその抑留生活の中でロシア語を覚え、リコルド少佐との信頼関係を築き上げた。そしてその翌年1813年に国後島にリカルド少佐とともに戻り、ゴローニン少佐釈放の外交交渉をまとめ上げたのだ。最後に函館からゴローニン少佐とリコルド少佐の乗ったディアナ号が出発するときに、幕府は通商を認めていないからということで、有償で薪水、食糧を求めたリコルド少佐に対して、これを無償で与えた。リコルドとゴローニンはさらに幕府に対して国境画定することと、通商の希望も述べた。返事は来年夏に択捉島に来た時に受け取ると言い残して去ったが、翌年ロシア船は択捉島に現れなかった。リコルドとゴローニンに匹敵するような技量を持った海軍士官を送ることができなかったロシア側は海の難所で上陸できなかったのだ。そのためロシアとの国境画定は幕末まで持ち越すことになる。
この歴史小説の中で、著者は膨大な資料を読んで事実や人物についての裏付けをとっている。中でもゴローニン事件についてゴローニンが著した「日本幽囚記」があり、これをもとにしている。このなかにリコルド少佐の手記も含まれていて、日本側からだけではなく、ロシア側からの北方問題や日本人についての印象が語られている。この著書は1816年に出版され、欧州でベストセラーになったという。日本にも5年後にはオランダ語訳が輸入されすぐに翻訳された。
ゴローニン事件を解決し、ロシアとの関係が平和的に安定したことで、ロシアの脅威から北方を守るために、蝦夷地を直轄地とした幕府の目的は達せられた。莫大な費用のかかる蝦夷地経営に情熱を失った幕府は、1821年に松前藩に蝦夷地を戻してしまった。アイヌ人に適正な賃金を与え農業指導をし、生活の向上に資してきた幕府の開明的な政策は終わり、松前藩によるアイヌ人に対する奴隷に近い酷使の昔にもどってしまった。また幕府の蝦夷地支配を海運、経済、アイヌ人の生活向上の面で支えてきた高田屋の命運も決まった。松前藩は1831年に高田屋を密貿易の濡れ衣で取り潰した。
この書の中で江戸時代の物流の全国ネットワークが廻船によって張り巡らされ、商品経済が津々浦々にまで行きわたっている様子が生き生きと描かれている。北前船で運ばれた鰊滓が綿花栽培の肥料としてなくてはならないものになっている。灘の酒が太平洋航路で江戸に運ばれる。また干しアワビやフカヒレが俵ものとして清国に輸出される。蝦夷錦と言われる清国の役人の官服が沿海州からサハリンのアイヌ、蝦夷のアイヌを通して江戸に流入してくる。鎖国をしていても商品流通の流れはその枠を超えていく。
この書は歴史書として読む価値がある。しかし小説なので、人物の性格とかエピソードなどに著者の創作が入っていると思われる。高田屋嘉兵衛の子供時代のエピソードなどにはそれがある。大人によるかわいげのない奴、分を守らない奴、物おじしない奴という評価である。それは後の高田屋嘉兵衛の行動につながる性格として設定している。それはどうなのだろうか。実際の高田屋嘉兵衛は義理に厚いし、株仲間の独占状態だった廻船業界の外にあった函館を本拠地にしたりしているし、幕府の役人とか周囲の人に信用があるし受けがいい。自分だけの利益を追う人ではないし、アイヌ人も含めて共存共栄という行動をとっている。賢く暖かい人という印象がある。女性の描き方も司馬遼太郎好みのおおらかな女性が高田屋嘉兵衛の女房として出てきている。著者の創作した部分と実際に事実として確認した部分を分けてもらいたいという欲求に駆られるのはないものねだりなのだろうか。