有名な観光スポットであればみんな写真を撮る。自分も行けば同じように写真を撮る。他人が自分と同じ場所の写真を所有していても何も珍しいことはない。当り前のこと。ネットで検索すれば同じような写真はゴロゴロとしている。それなのに、今回はなぜか他人が撮った写真を見て「おもしろい」と感じた。なぜだろう?
京都にて
2、3 ヶ月ほど前に京都で何枚かの写真を撮った。これもその一つ。通称「八坂の塔」。外はまだ肌寒い季節で、朝食前に散歩にでかけ撮影したものだ。石畳の道を歩いていると、突然一角に塔がそびえ立つ。さすが京都。こんな風景他の場所では見たことがない。
場所はこちら。
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法観寺 - Wikipedia によると、
伝承によれば、当寺の五重塔は592年聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際、仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという。聖徳太子創建との伝承は文字通りに受け取ることはできないが、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かなようであり、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。
Tumblr で見かけた八坂の塔
たんぶら部 - Tumblove - 経由で、ある Tumblr を眺めていたら上記と同じ「八坂の塔」を見つけた。 → http://hatayasan.tumblr.com/post/31823675
こちらは闇にたたずむ八坂の塔。石畳の道の脇で提灯がやわらかな光を等間隔に放っている。ライトアップされた塔の表情は朝早くに写したぼくの写真とは対照的だった。
reblog
最近よく目にする機会がある tumblr 。そのシステムの中心となる概念 reblog 。
tumblrの摩訶不思議システム。
ほかの人の書いた記事・引用・画像をそのまま自分の記事にしてしまうことができる。
つなげる力。つなげる意図がないこと。別の視点。別の角度。日常。コンテクスト。時の流れ。時間。
(reblog - たんぶら部 - Tumblove - より)
4U と tumblr
「世界中の美女画像をみんなで共有するネットサービス」 で紹介されているのを見て 4U を知った。そして再び tumblr に注目した。 4U で投稿されている画像のリンクを辿ると tumblr に行きつくことが多い。
tumblr を知ったのは twitter を仲間内ではじめた頃。今では twitter に飽きてしまい全く twit ってない。当初はもの珍しさも手伝ってみんな twit ってた。短いフレーズで 同報通信。チャットで話すほどではない内容を書き、何となくみんなと繋がっている感覚が心地良かった。独り言をつぶやくには、これほど最適なメディアはないと、当時感じた。
独り言をつぶやくシステムとは了承していたものの、誰かに聞いてもらいたいと感じていたものをつぶやく。そもそも「つぶやく」とは、自分自身の行動をモニタリングするメタ意識が言語化され、それを積極的に活用しようという意図がない限り、誰かに聞かれることを望んでいるものかもしれない。つぶやきといえどスルーされると何となくさみしい。期せずして反応をもらうと何となくうれしい。 ^^;
twitter 離れ
mixi中毒という言葉を思い出す。
「コメント欲しさに日記を書く」→「コメントが付いて嬉しくなる」→「コメントをくれた人の日記にもコメントを返す」→「自分の日記へのコメントが途絶えると、コメント欲しさに新たに日記を書く」──というサイクルが際限なく続くのが“mixi日記中毒”の正体と言える。
(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/21/news061.html より)
仲間内で twitter をやっていると、チャットとの境界が曖昧になってくる。違うのはリアルタイム性だけ。
仲間内での twitter = チャット - 返信をせかされる感
と言ったところか。されどそこは仲間内。「返信が楽しい」から「せかされる」に変ったとき、本質的に面倒なチャットと変わらなくなる。都合のよいときだけつながっていたいという欲求は脆くも崩れ去った。
当時、同様のサービスが乱立した。日本語でサービスをはじめるところもあった。本家 twitter は日本語に対応したようだが、今更という感は否めない。ぼくの中では 2007 年に終ったサービスだ。使い続けている人は、自分とは違う使い方を見つけた人なのだろう。せっかくなので何か新しい使い方を見つけることができたらと思う。今のところ twitter で培われた技術が Web アプリ, サービスにおいて今後どのように利用されていくのかに関心があるくらいになってしまった。(cf. twitterブームの陰で注目を集める“Erlang” - @IT)
追記 (2010.2.5) : retweet の機能はTumblr 的なものと感じる。特に最近本家が実装したことにより、RT で転載せずボタン一つで retweet できるので気兼ねしなくていい ^^
二年坂
hatayasan@tumblr を眺めていたら、先ほどの写真の近くを撮影したものが reblog されていた。 → http://hatayasan.tumblr.com/post/31823664
電柱を見るとちょっと違う場所なのかな?(?_?)
場所はこちら。
京都パノラマ観光 を見ると、「二年坂」という名称のようだ。写真は南から北方向へ向いて撮ったもの。地図を見ても階段があるのがわかる。昼間は観光客でごったがえしになるようだけれど、朝早かったので人がほとんどいない。
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祇園枝垂桜
引き続き同じ tumblr 、hatayasan@tumblr を眺めていたら、先ほどの写真のすぐ下を見て、「あっ!」 (@_@) と驚いた。 → http://hatayasan.tumblr.com/post/31823657
桜が咲いている!「祇園枝垂桜」
ぼくが見たときは夕暮れ時で、枝が不気味に垂れ下っていた。しかも、カラスみたいなのがいてとても寂しげ。 ^^; 思わぬところでこの桜が咲いているのに出会えた。アングルも似ている。 ^^
場所はこちら。八坂の塔を見た前日の夕方にこの辺りを散策。
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ついでに、こちら (大雲院) も同じ場所を撮影したもののようだ。
建物の右側に桜があったとは。このとき全く気がつかず。 hatayasan@tumblr で reblog されていたリンク先を眺めていたら写真を見つけた。
tumble の意味
タンブラーと言えば、思い出すはスタバのタンブラー。そもそもどういった意味なのか?
タンブラーグラス - Wikipedia によると、
タンブラーグラス (英語:tumbler) は寸胴型のグラスである。語源は『倒れるもの、転ぶもの』。その理由は、もともとはこの言葉が獣の角で作られた器などを指していたからである。ハイボールグラスとも呼ばれる。ソフトドリンクやロングカクテルを飲むのに用いられる。
なるほど、カクテルを飲むときのコップがタンブラーか。
動詞形で調べると、Yahoo!辞書 - tumble には、
1 [I([副])] 倒れる;(…につまずいて)転ぶ((over ...));(…から)転がり落ちる((off, out of, from ...));(…を)転がり落ちる((down ...))
とあるが、tumblr の意味はこれかな?それとも、こちらの意味かな?
2 …を投げ散らす, ひっかき回す;…をくしゃくしゃ[めちゃめちゃ]にする
She tumbled the contents of her purse out onto the table.
テーブルの上にハンドバッグの中身をぶちまけた.
なんとなくカクテルを作るときのイメージをすればいいのか... ^^;
興味深いことに tumble には次のような意味もある。
6 (…に)偶然出くわす((in, into, upon, on ...)).
8 ((略式))(事実・事情に)はっと気づく, 合点する, 察知する, (人の)本当の性格がわかる((to ...))
tumble: Definition, Synonyms and Much More from Answers.com には、
To come upon accidentally; happen on: We tumbled on a fine restaurant.
自分の場合で言うと、tumble されたものを見ていたら、tumble しちゃったということだろうか。 ^^; tumblr というネーミングは言い得て妙なのかもしれない。
拡散の tumblr
以前に、思考を拡散させるためのツールとしての画像検索 について考えた。 tumblr を眺めるという行為に、そういった側面も含まれている。それは reblog されるものとして画像がとても多いため。
ある人がなんらかの意図で画像・文字列のコレクションを作成する。それをぼくは眺める。陳列されたものをさっと見渡す。この短い時間の行為に、人為的に織込まれた見知らぬ人の意図ならぬ糸をたぐり Web を browse する。
この偶然の流れの中でふと見つけた自分との接点。それを自分が積極的に探したというよりは「提示」されたという感覚。 Web の本質はリンクにある。 Mixi などの SNS は、リンクを知合いの連鎖に置き換えてリンクを再提示した。 tumblr は Web を remix したものを簡単に提示できる。また、他人の remix を眺めることができる。 remix した人の視点によって別の世界へ飛ばされる。それが心地良い。
そんな流れの中で出会った写真だからこそ「おもしろい」と感じることができたのかもしれない。他人の視線と自分の視線が交差する瞬間を演出する道具としての tumblr 。読ませるブログではなく、提示されたもののなかから選びとり考える入口を与えられる tumblr 。この舞台装置を通したからこそ新鮮な驚きがあったのだろう。