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睡眠レベルと瞑想

腕に常時フィットネストラッカーをつけて、活動量と睡眠時間やレベルとかみている。 座っている時間が睡眠時間とされてしまう。Fibitというメーカーの活動量計を使っているが、どう睡眠時間やレベルを計測しているのか、ググってみた。 心拍数と身体の動きを計測して睡眠時間やレベルを分析しているようだ。1時間動かないと寝ていると見做すようだ。睡眠中の心拍数は、安静時より、徐々に下がって目が覚める時に上がっていく谷型になるようだ。 私は、心拍数がすぐに上がり、仕事中は上がりっぱなしになる。交感神経優位な状態だ。座っているときだけは、平常時より下がっているようだ。当然、座っているときは、1時間動かないとそれは睡眠状態とされる。動いていないが寝てはいないんだけど、実は、寝てる?! 瞑想している夢をみていたりして…

秋の気配

朝、虫の音が聞こえるようになった。 まだ、暑い日が続いているが、朝晩は、涼しく感じることがある。 早朝、虫の音が途切れることなく、ずっと聞こえていた。 ふと、いつものルーティーンの中、意識が途切れ、息をはききった時、一瞬間、虫の声が聞こえない。 全くの無音になった… ついに来たか これは、意識変容かと思った。 暫くすると虫の音は、途切れることがあった。  虫はずっと鳴いているわけではなく、偶然(シンクロニシティ?)、無音になっただけだった。 なんかすごいことだと思ったけど、残念、気のせいだった (笑 でも、鳴いている虫が皆、一斉に鳴きやむ偶然なんてあるのだろうか? 来た〜! と意識した瞬間、落ちたか~ (笑 喜んじゃいけなかった。 欲深いと未那識が首をもたげるのか? 莫妄想!  

明晰夢

明晰夢(めいせきむ、英語: Lucid dreaming)とは、睡眠中にみる夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のこと。 記憶に残っている明晰夢は、あまりにリアルな質感であり得ない設定だったのでよく覚えている。 すごく現実感がある感じの小学校の教室の4、5階あたりの教室。窓が開いていて、カーテンがたなびいていた。そこに、あり得ない攻撃型のヘリ(アパッチかな?)がきて、バルカン砲を撃ってきた。リアルに破壊されていく。これは、あり得ないな…だから夢だと気づいた。夢と気づいた上で、成り行きが気になったので、見ていたけど、若干上下左右の空間にブレ、音圧(風圧)が変わってくるホバリングとかみごとだった。五感(味はしなかったけど)に凄い質感で迫ってきた。 わたしは、夢と気付くきっかっけは、ん?という思考、違和感があるという意識だ。えっ?と違和感を感じると夢と気付き、深追いし、思考し頭を使い過ぎると覚醒、夢から醒めて起きてしまう。 マインドフルネスの瞑想だと、明晰夢を見るようになり、その明晰夢を使いながら、 タイムリープ、「自分自身の意識だけが時空を移動し、過去や未来の自分の身体にその意識が乗り移る」なんてことをするらしい。 だから…なに タイムリープではないけれど、瞑想中に昔の記憶をたどると、都電の椅子に正座して外の景色、レンガ造りのビルヂングにこころひかれて見ていた記憶がリアルによみがえる。庭のありんこが白い砂糖を運んでいる様子や、少しさびが浮いた古い蛇口、木の物干し、トタンの波板やだまになっている下手なペンキ塗装など、集中するとどんどん蘇ってくる。 でも、こういうのって、雑念と呼ぶのだよね。  

ホームポジション

寝る前に1時間程、 あれから 毎日リビングで座ってみた。寝る直前だからか、ボ~とした感じが残る。そのおかげさまで、寝付きはよくなった。昔は、ギリギリまで起きていて、ストンと5分も経たずに眠っていた。今は、寝つかれないこともあって、つい、タブレットに手が伸びる。老いたと思った。 今日は、春秋館で座らせて頂いた。やっぱり座りやすい。すっとホームポジションに入れる。鮮明にぼっとした感じになる。この感じの時、忘れていて思い出せないことが出てくることがある。昨夜は、顔は浮かんでくるのだけど、誰だったか、どこだったが…となっていた名前とプロフィールが、座って5分もしないうちに湧いて出た。便利、便利。あとで検索したらビンゴだった。 これから、また座ってみる。

意識のトンネル効果

ポテンシャル障壁を超えて流れてくるようだった。 ストンと意識レベルを落とした状態から、湧き出た感じだったが、素直なところだった。 いつもの馴染んだ感じなのだが、その意識から引き出していくのは新鮮な体験だった。普段はそこで何か積極的にすることはなかった。 そこからさらに進んでいくとは思ってもいなかった。只管をとどまることと勘違いしていたようだ。偏見は、間違う。

リビングで座る

普段、寝室で座っているが、家内が先にやすんでいるので、リビングで座ってみた。 少し寒かったが、エアコン入れているし、照明も調光で少しおとした。Youtubeにつないで、Technicsのスピーカーから瞑想用の音楽が静かに流れる。寝室の音よりずっといい。香も、寝室よりも上品な香りのものを使う。 座る前にYogi社の「 Honey Lavender Stress Relief 」温かいハーブティーを飲んだ。からだも温まった。 前五識、眼・耳・鼻・舌・身、整えて臨んだつもりだったけど、いまいち座りがわるかった。 なにが違ったのか、寝室は祈りの場でもあったから、座りやすかったのかもしれない。 もう少し、リビングでも座って、なにが違ったのか観てみよう。

リモートで気功法と座法

実践すること 維摩会 春秋館では、リモートで気功法と 座法 を教えて下さる。 家に居て、簡単に受法できる。有難いことだ。 気功法は、基本的なことからはじまり、コアなところまで御指導頂ける。そしてとても心身が癒やされる。 もう、初心者ではないはずなのだが、同じをことを教わっても毎回新鮮に感じる。 飽くることはない。感覚が更新されていく。(もの忘れ?ではないですよ) 座法もそうだ。只、座る。しかし、毎度のように新たな発見がある。 結論と過程 釈尊の御教えの基本は何だったろうか。 一切皆苦 、 四苦八苦 、 四聖諦 、 八正道 、 一切皆空 … 涅槃寂静 。 お経には、たくさん釈尊の御教えが書いてある。 釈尊の御言葉は、総て正語であり、真理の御言葉。 釈尊は、既に結論は述べておられ、それを僧が経典にしたのではないか。 第一結集までは、迦葉尊者ら十大弟子、五百羅漢で話合われたそうだ。 その後の口伝や記述言語、記載、編集によるバイアスが気になるが、 一切皆苦、ならば答えは、総ては苦と知ることだと思う。 その答えに至るには、四苦八苦し、四聖諦、八正道、因縁果を知り、正しく生きなさい(正しくないを去るか)ということなのだろうか。 さて、表面的な苦は実感しているが、その由来は分からない。 正しいこと、正しくないとは何? 凡夫の私には、これが結論ですと示されても、答えに至る過程が欠落している。 智慧がない。 一切皆空。総てが空って、どういうことなのか? 空を空じて…とか利いた風なバカなことはしゃべれる。 とどのつまりは、涅槃寂静なのか? 釈尊の結論、その答えに至るためには、智慧を得て、慈悲の実践が必要なのだろうか。 しかし、どうやって? そもそも、真理の御言葉は、結論なのか。 只、真理であって、結論ではないのではないか。 智慧、慈悲とは何か。それは言葉の定義を知ることで得られることではないことは確かなことだと思う。 どのように智慧、慈悲、義を獲得していけばよいのか。 凡夫の私は、維摩会 春秋館で御指導仰ぎたいと切に願う。  

灌仏会 維摩会 春秋館にて

灌仏会 昨日は、維摩会 春秋館の灌仏会で三時間ばかり座った。 維摩会 春秋館では灌仏会に 座禅 を行う。 呼吸、姿勢を整え、集中していく。 開始、30分前ぐらいから、一礼して座について準備をしていると、10分前ぐらいになると整い、座りやすくなった。 本山、別院、名刹、禅宗のお寺で座ったことがあった。 宗派によって、座る向きが異なり、曹洞宗は面壁九年と云われるように、壁に向かって座る。 座蒲も曹洞宗は丸、臨済宗では四角で、 手は、印、叉手の重ね方が違っていたりする。 どちらのお寺でも参禅会では、初参加の時に座り方、作法を教えてくれる。 坐禅堂 維摩会 春秋館の他で、 私が座りやすいと感じたのは、冬は膝上まで雪が積もったお寺だった。 本山に次ぐ第二道場とのこと、750年以上の歴史がある。 永年にわたり、修行者が座っていたという場の力、後押しがあるのかもしれない。 そこに居た僧侶の友人に、誘われて真冬に座りに行った。 僧侶は、一炷香、お線香が燃え尽きる時間(四十分ぐらいか)座り、経行(きんひん)、歩く禅をされる。 友人からそのまま座っていてもいいよと言われていたので、私はそのまま、何時間か座っていた。 維摩会 春秋館は、経行を入れずに続けて座る。1時間、2時間、3時間があっと言う間だ。 終わった後、甘茶を頂いた。甘いお茶なの、これ?…じわっと甘くなってくる。 はじめての方も全員、三時間座り通した。 卓越した座禅の指導と仲間と一緒だから、座れるのだと思う。 あっ、それと場の力と後押し。 善き、時を共有させて頂きました。有難うございます。 一礼して終わる。  

座禅

座法 座りはじめた頃、日常の雑事から離れ、座るのが楽しかった。 当初は、5分も座るともぞもぞしていたが、続けていると長く座れるようになった。 先ずは、足を組む練習をした。 リビングのダイニングテーブルを片付けて座る生活をはじめた。 職場でも背があった椅子にも足を組んで座っていた。 丁度よいことに、背の部分が壊れていたので、外して座った。 しかも、グラグラしてしまう座面で、不安定この上ない。 座面の真芯を捉えないと、足を組んで座るとグラグラと揺れる。 ついでに インナーマッスル も鍛えることになり、姿勢制御のトレーニングになった。 瞑想 少し長く座れる ようになると、 わくわくどきどき、誰しもが通ることなのかもしれないが、何か起こることを期待していた。 来るな~と思うと、来た。それはもう目眩くような体験!?だった。  今度はどんな状態になるのかと楽しみにしていた。 乱暴にそのチャンネルを抉じ開こうとしていた。 禅宗の教えでは、なにか目的があってそれを達成するために座るのではないとか、 目的を持たないようになるのが目的とか云われる。 目的なく、要は只々座るということが「御仏の姿」の実践ということのようだ。 更に座るようになって、私が追い求めていた「出来事」は座禅とは違うことと気づいた。 求める気持ちは生じない。 座禅の入り口かもしれないし、そうではないかもしれない。 今は、姿勢と呼吸を整え、あと一つの要を保って座っている。 維摩会 春秋館の法友は、銀碗に雪を盛ったような、凜として清々しい雰囲気を持っている。 それは、接すればわかるとしか言いようがない。 あなたも座ってみませんか? 先ずは、足を組むところから。