今回のお題ですが、どうやって膨らませようか悩んじゃいます。大した材料がないので。
正直、一行で済んじゃうのです。それでは何だか味気ないのでデコレーションを重ね回り道して書いてみたいと思います。
さて相撲と言うと、最初に相撲を取ったのが野見宿禰と当麻蹴速ですね。
大和国の当麻村に蹴速さんと言う力自慢の人(神?)がおりまして、大山倍達よろしく牛の角をバギッと折ったり、鉄の鈎を真っ直ぐに伸ばしながら「ワシより強い者がいたら戦ってみたいものじゃ、ウシャシャシャシャシャー」と自慢していた訳なんです。
時の天皇がこの噂を聞き、「当麻村の蹴速と言う奴が天下で一番強いと威張っているそうだが、コイツより強いと思う奴、出てこいやぁー」と発し、一人の家臣が「出雲国の野見宿禰と言う勇者がいますんで、ちょっくら戦わせてみましょうや」と言う事に。
そしてナガオイチと言う人がその日のうちに出雲に行き、野見宿禰を招集。いざ勝負。ハッケヨーイとなったんです。
宿禰と言うとその発音から三すくみと言うか、レスリングをイメージ。蹴速は其の名の通り空手をイメージしちゃうのですが、この時代の相撲は現在とは違うみたいで、お互いに大きく足を上げ、踏み潰す戦いだった様です。
相撲の「相」は「お互いに」、「撲」は「殴る、打ち叩く」と言う意味です。つまり「互いに殴る、蹴る」と言う意味です。今で言う「空手」、「キックボクシング」に近い戦いと考えられます。
多分ですが、オスモウさんが勝負の前に大きく足を上げ四股を踏むのは、踏み潰して戦っていた名残なのではないでしょうか。
さて勝負の結果ですが、最初はお互いに踏み潰し合いしていましたが、野見宿禰が「燃えよドラゴン」のブルースリーよろしくジャンプ一番、蹴速の背骨や腰骨を踏み砕いて撲殺。蹴速に見事勝利し、「蹴速が所有していた土地を分捕ったとさ」という結果になりました。
実は何を隠そう私の家系なのですが、この時の相撲で勝利した野見宿禰に繋がります。証拠は大阪に鎮座する野見神社(野見宿禰を祀る)に行き、境内社を探れば分かります。
因みに神社は境内社の方が一般的には古いです。暇な人は大阪まで行って野見神社を調べてみて下さい。直ぐに判りますから。
まっ、それはどうでもいいのですが、出雲出身の野見宿禰は天穂日命の家系、そして大和出身の当麻蹴速は天日矛命の家系です。つまり双方とも朝鮮系の人物です。
こんな事書くと誇れるものが殆ど無い朝鮮の人たちは「日本の相撲は朝鮮が発祥だ、何もかも朝鮮のものだ、金払え」と歓喜するかも知れないですが、相撲のルーツはモンゴル、トルコ、インド、そしてシュメールにもありましたので、朝鮮が発祥とは言えませんね。
それに野見宿禰が天穂日命の家系と言いましても、出雲神族との婚姻が続き、当時の宿禰には出雲人の血が流れています。当麻蹴速よりも日本人の血が濃かった。
つまりこの相撲は出雲族と大和族の戦いで、出雲族が勝利したと言う話です。今の大相撲の横綱は3人ともモンゴル出身ですが、昔は日本の血筋の方が強かったと言う事ですね。もっとも大和は元々もう一つの出雲でナガスネ彦が支配していた土地でした。天孫族の拠点にされちゃいましたけど・・・・・・・。
さてその後、野見宿禰はどうしたかと言うと、今で言う葬儀屋さんになりました。
当時の垂仁天皇の皇后が死亡。しかし垂仁天皇は殉死を禁止していた。それに応え野見宿禰が故郷の出雲人を100人連れてきて粘土でヒトヤ馬等を製作。それを生きている殉死者の代わりに墓に埋める様にしたんです。
当時、お偉い方がお亡くなりになると殉死者と言うか、お供の人達、乗っていた馬等も生きたままお墓に一緒に埋められていた。それも何か生々しいという事で垂仁天皇が禁止。そしたら皇后が死んでしまった。野見宿禰さんはその代わりに粘土で埴輪をこさえて殉死者たちの代わりにした。それを垂仁天皇は喜んだ。そして天皇は野見宿禰が「土師」の称号を贈ったと言う事となります。
この土師氏から一応名門の大江氏と、菅原道真の菅原氏が生まれる事になります。因みに私は大江流となります。
続く。