「佐久間盛政」(さくま・もりまさ 1554~1583)は、戦国時代の武将。織田信長に仕えて活躍した。金沢城の初代城主。後に賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と戦って敗北、処刑された。
概要
織田家臣・柴田勝家の甥。玄蕃允を自称した。
佐久間盛政は各地の戦に参加して功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれた。
叔父の柴田勝家が越前の国主になると、盛政は寄騎として柴田勝家を支えた。
その後は加賀一向一揆や上杉家との戦いで活躍し、信長から加賀の統治を任された
本能寺の変で織田信長が横死、織田家中の派閥争いが始まると、盛政は引き続き柴田勝家に協力。
賤ヶ岳の戦いでは羽柴軍の陣地を急襲する作戦を進言。
柴田勝家の反対を押し切り作戦を実行した盛政は、羽柴軍の中川清秀を敗死させて陣地を制圧した。
しかし早く撤退しろと柴田勝家に催促されても無視した盛政は、美濃から神速で駆け戻った羽柴秀吉の攻撃を受け敗走してしまう。
こうして猪武者の佐久間盛政は、柴田軍の敗因を作ってしまった・・・というのが世間一般のイメージとされる。
敗北後、囚われた盛政を秀吉は家臣に取り立てようとしたが、盛政は降伏を拒否して処刑された。
出自
織田家臣・佐久間盛次の長男。母は柴田勝家の姉だが、異説もある。
弟に柴田勝政(勝安)〔1〕、保田安政、佐々勝之がいる。
妻は佐久間盛重の娘。
佐久間家は相模国の三浦家を祖とする鎌倉以来の名門武家。
尾張の佐久間家は尾張・三河国境周辺に所領を有し、熱田神宮と結びつきを強めて伊勢湾の流通にも関わっていた可能性が指摘されており、その利害関係から織田家に仕えて今川家や三河の国人衆と激しく争った。
また織田信長の尾張統一戦では一貫して信長に味方したので、信長から厚い信頼を寄せられた。〔2〕
織田家重臣の佐久間信盛(父盛次の従兄弟)や、桶狭間の戦いで玉砕した佐久間盛重(叔父、舅)らを輩出した。
主君の信頼厚い名門の家に生まれた盛政は、武人としての誇りと、身の丈六尺=180cm以上という巨躯を備えていた。赤ら顔で頬髭豊かな豪傑らしい容貌だったとされる。
初陣~元亀年間
1568年、織田信長は将軍候補・足利義昭を奉じて上洛作戦を開始。
佐久間盛政は父に従い近江箕作城攻めで武功を挙げて初陣を飾った。
1570年4月の越前攻めでは早くも兵を率いて手筒山城攻めで活躍した。〔3〕
同年6月、織田軍の主力が美濃へ引き揚げた隙に、南近江で六角家が蜂起。
柴田勝家と佐久間信盛は出陣して野州河原で六角軍に決戦を挑んだ。
盛政は、この戦いが初陣となった弟の保田安政(佐久間安政)と共に先駆けして敵陣へ攻め込み、大活躍した。
当時の盛政は、近江南部の国人衆を率いた柴田勝家の与力だったとされる。
河内畠山家臣・保田家に婿入りした安政は同年8月、三好家との合戦にも参加して一番槍の手柄を立てた。
1571年の比叡山攻めでは、盛政の弟で柴田勝家の養子になっていた柴田勝政が初陣で参戦。
1572年4月、織田家から離反した三好義継と松永久秀が河内国で畠山昭高を攻撃。
佐久間信盛は織田軍を率いて救援に向かい、保田安政も参戦した。
佐久間信盛と保田安政は同年11月の三方ヶ原の合戦にも参戦した。
1573年、将軍足利義昭が挙兵して織田家と対決した槇島合戦が始まった。
盛政は柴田勝家に従い参戦して柴田勝政と先陣争いをした。
同じく保田安政は佐久間信盛・信勝父子に従い、真先に川を渡って佐久間勢を先導した。
さらに敗北した足利義昭を匿った三好義継を佐久間信盛が攻撃。
保田安政は佐久間信盛に従い河内国若江城へ攻め込み、三好義継を自害に追い込んだ。
元亀年間は信長が朝倉・浅井・六角・三好・武田・延暦寺・本願寺・将軍家と敵対して存亡の危機に立たされた時期であり、窮地の中で獅子奮迅の働きをした佐久間兄弟を信長は激賞した。
天正元年~一向一揆との戦い
信長包囲網が消滅した後も、織田家と佐久間兄弟の苦難は続いた。
1574年1月、越前一向一揆が挙兵。
隣国加賀から援軍を得た一向一揆は越前の織田軍を駆逐し、5月までには越前のほぼ全域を掌握した。
続いて3月には甲斐の武田勝頼が美濃へ侵攻。織田家は武田軍への対策に追われて越前を奪還できなかった。
同年4月、畿内の反織田勢力と阿波・讃岐の三好党が結集して攝津・和泉・河内で織田方の城を攻撃。
河内では前年、保田安政の主君だった守護の畠山昭高(信長派)が守護代・遊佐信教(将軍派)に謀殺されていた。
保田家は信長に救援を求め、佐久間信盛が派遣された。
保田安政は佐久間勢の先鋒として高屋城攻めに参加。この時は織田方が劣勢のまま決着はつかなかった。
しかし1575年4月に入ると織田軍は反撃して三好軍に勝利し、 三好一門は相次いで信長に降伏した。
5月には長篠の戦いで織田・徳川軍が武田軍を打ち破り、続いて美濃東部を武田家から奪還した。
後顧の憂いを絶った織田軍は同年9月、越前一向一揆を攻撃して完勝。加賀にも攻め込み南部の江沼郡・能美郡を征服した。
佐久間盛政も越前攻めに参加した。
戦後、柴田勝家が越前の統治を任されると、盛政は引き続き柴田勝家の寄騎として配属された。
同僚は前田利家・佐々成政・不破光治・金森長近・簗田広正・武藤舜秀たちで、彼らはいずれも信長に重用された武将だった。
1576年5月、越前で本願寺教団と対立していた浄土真宗高田派の専修寺に対し、盛政は門徒の武装を勧める書状を送った。〔4〕
また前年には柴田勝家も専修寺に武装を指示した。他方で徴税の一環として武器を納めるよう劔神社に命令した。
当時の越前は、滅亡した朝倉家を慕う領民たちが反織田家の活動を行うために改宗して一向一揆に参加するなど不穏な情勢が続いていた。
朝倉家の残党は加賀一向一揆に合流し、柴田勝家が率いる北陸方面軍と戦い続けることになる。
同月、畿内では保田安政が石山本願寺攻めに参加。苦戦の末に強敵・雑賀衆を敗走させた。
11月、加賀・越前の一向一揆が挙兵。織田家の梁田広正が守る加賀大聖寺城などを攻撃した。
梁田は善戦して敵を撃退したが、すぐに加賀の国中の一揆が挙兵して大軍で押し寄せた。
盛政は柴田勝家の指示で援軍として駆けつけ、一揆に奪われた城砦を奪還。
この戦いでは柴田勝政とその軍勢も奮闘して敵を多数討ち取った。
戦後、加賀の旗頭だった梁田とその寄騎たちは尾張に呼び戻された。
一方、佐久間盛政は大聖寺城の支城である日谷城に駐留し、次いで大聖寺城に移った。
この異動により盛政は梁田の後任として加賀の旗頭に据えられたとみられる。〔5〕
加賀平定戦
加賀へ移った佐久間盛政は織田方の城砦を改修して守りを固める一方、諸将と協力して一向一揆の城砦を攻略していった。
この頃には旧国主・富樫家の遺臣や彼らを支持した寺社、一向一揆から離れた国人衆や僧侶が合流し、能登国を治める畠山家との同盟交渉も進展するなど織田家が優勢になっていた。
当時の北陸地方では一向一揆と越後の上杉謙信が抗争を続けていたが、1576年に一向一揆と上杉家の同盟が成立。上杉謙信は、一向一揆の背後を脅かす越中・能登の親織田派への攻撃を開始した。〔6〕
上杉軍は加賀にも攻め込み、敵対していた現地の国人衆に力ずくで同盟を認めさせた。
翌1577年、畠山家も上杉軍の攻撃を受け、能登の七尾城に籠城して織田家へ救援を要請した。
しかし加賀北部は一向一揆の勢力圏だったので、織田軍が通行できる状況ではなかった。〔7〕
七尾城も陥落し、畠山家中の親織田派は殺害された。
当時の佐久間盛政は、織田軍と一向一揆が争奪を繰り返した御幸塚砦を確保して大規模な改修を行った。
御幸塚砦は加賀国小松の近くにあり、北国街道を押さえる加賀中部の重要拠点だった。 上杉軍や一揆の軍勢が南下したら必ず襲撃しただろう拠点である。
盛政はこの砦に駐留して、加賀一向一揆の大将格だった若林長門守と対峙した。
その間に織田家の北陸方面軍は加賀南部の完全制圧を目指して行動した。
同1577年冬頃、加賀南部の谷城を柴田勝家の一門衆・柴田義宣が包囲。
柴田義宣が戦死すると、養子の柴田勝安(佐久間盛政の弟)が領地と任務を引き継ぎ、翌年城を攻略した。
柴田勝安は以降2年に渡り現地の一揆と戦い続けて、ついに彼らを屈服させた。その後は善政を敷いたので、現地の情勢は落ち着いた。〔8〕
翌1578年、上杉謙信が死去して越後で内乱が勃発。(御館の乱)
濃尾地方の織田軍は越中に攻め込み、上杉軍を撃破して越中に拠点を確保し、北陸の友軍を支援した。
越前と加賀の織田軍は加賀北部への侵攻を開始。佐久間盛政、拝郷家嘉、徳山則秀らが活躍した。
1580年を迎えた頃には近畿や中国地方でも織田家が優勢になっていた。
同年3月、柴田勝家は加賀北部を制圧するために1万5千人の大軍を編成し、佐久間盛政と柴田勝政が先鋒を務めた。
盛政は畠山家の遺臣・長連龍と協力して、一揆の拠点だった加賀光徳寺などを攻め落とした。
佐久間盛政、柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀、長連龍が各々兵を率いて北上。各部隊は連携して途上の一揆側の施設を襲撃、焼き討ちした。〔9〕
佐久間勢は能登まで進撃して南西部の末森城〔10〕を攻撃。敗走した敵将を追いかけて加賀へ戻り、加賀の霊峰・白山近くにあった鳥越弘願寺〔11〕を包囲した。
盛政は寺に織田家への協力を求めたが、拒否された。〔12〕
佐久間勢は弘願寺を焼き討ちした。
弘願寺を焼き払った佐久間勢は南下して他の織田軍と合流し、各地を制圧。そして加賀一向一揆最大の拠点、金沢御堂(金沢御坊、御山)の攻略に取り掛かった。
佐久間勢は御堂の周辺にあった砦を全て攻め落とし、御堂を孤立させた。〔13〕
同1580年4月、盛政は調略で現地の領民を味方につけて、籠城を指揮した僧侶たちを開城に追い込んだ。
僧侶たちは御堂を佐久間勢に引き渡し、各々が所属する寺へ帰った。
戦が終わると盛政は御堂に留まり、軍事要塞となっていた金沢御堂を金沢城と改名して改修工事を行った。〔14〕
加賀平定は畿内の織田軍が行った石山本願寺の包囲戦にも影響を及ぼし、本願寺の法主顕如は交渉の末に石山本願寺から退去した。
しかし後継者の教如は石山本願寺で籠城を継続し、織田家に対する徹底抗戦を主張して各地の門徒に檄文を送った。
加賀では白山周辺の一揆が織田軍と戦い続けた。
同1580年6月、佐久間盛政は白山麓の鳥越城を攻略するために出陣した。鳥越城は加賀と能登を結ぶ重要拠点であり、佐久間勢が焼いた鳥越弘願寺の近くにあった。
迎撃した一揆の軍勢と佐久間勢は二度の野戦を行い、佐久間勢は惨敗した上に多数の死傷者を出してしまった。〔15〕
見かねた柴田勝家は一揆側に和睦を持ち掛けた。
鳥越攻めの失敗は盛政にとって大きな痛手となったが、加賀一向一揆は織田軍を加賀から駆逐できるだけの軍事力をすでに失っていた。
翌月には北陸方面軍が能登と越中にも攻め込み、越中の織田軍と合流して順調に勢力を拡大した。
同1580年8月、石山本願寺から教如たち主戦派も退去した。
その直後に、佐久間家の出世頭だった佐久間信盛、信栄父子が織田信長から書状で非難されたすぐ後に出奔した。
佐久間家出身で信盛の与力だった保田安政は、信長の仕打ちに落胆して居城から退去し、紀州根来に引き籠った。安政は後に北陸方面軍に加わった。
佐久間信盛の失脚は遠く加賀にいた佐久間盛政にも衝撃を与えたようで、盛政は自ら進んで屋敷で謹慎した。 だが信長はすぐに盛政を復帰させた。
同年10月、上杉家の内紛を制した上杉景勝が加賀一向一揆への支援を再開した。
このため織田家に従っていた加賀国人衆の一部が挙兵して織田家に敵対した。
現地へ派遣された佐久間盛政と柴田勝政は、勝利して反乱を鎮圧した。
翌11月、白山周辺の一揆は和睦交渉の為に代表者を加賀松任城へ送り出した。
ここで柴田勝家は一揆側の代表者たちを皆殺しにして、彼らの首を近江安土の信長へ送った。〔16〕
事件のすぐ後に佐久間盛政は鳥越城を攻撃し、指導者を失った一揆の軍勢を攻め崩して城を奪った。 そして捕まえた敵兵を磔にして見せしめとした。
同時期、加賀一向一揆の指導者だった若林長門守も織田家によって殺害された。〔17〕
盛政は白山周辺の他の城砦も攻め落として加賀の征服事業を成し遂げた。
鳥越城の攻略後、同城には柴田勝家麾下の吉原次郎兵衛が、隣の二曲城には同じく毛利九郎兵衛と三戸田久次郎が駐留した。〔18〕
戦後、加賀平定の一番の功労者だった盛政は、織田信長から加賀北部の石川郡と河北郡に13万石の領地を与えられた。〔19〕
加賀の諸将は盛政の与力となった。盛政は20代の若さで国持ち大名となり、その軍勢は以後も北陸方面軍の主力を担い続けた。
上杉家との戦い
1581年2月、柴田勝家は北陸平定の経過報告と京都で開催される馬揃えの行事に参加するために、養子の柴田勝豊を連れて上洛した。
他には柴田勝政、前田利家、佐々成政、不破光治、金森長近、原長頼、神保長住らが参加した。
北陸方面軍の主要な武将たちが離れたため、北陸方面は手薄になっていた。〔20〕
一方、北陸で織田家と対峙する上杉家は、密かに反撃の準備を進めていた。
翌3月、上杉家重臣の河田長親は越中と加賀の国人衆を扇動し、両国の織田家拠点を同時攻撃させた。
河田の挙兵から僅か三日後、加賀白山では各地から一揆の軍勢が集結して鳥越城と二曲城を包囲した。
佐久間盛政は兵を集めて現地へ急行したが、間に合わず両城は陥落。城将たちは戦死し、守備兵も尽く討ち取られるか捕虜にされてしまった。
盛政は悔んだが、落城の後だったので一旦は撤退の指示を出した。
しかし盛政は悔恨の念が強すぎたのか、引き返して一揆の軍勢と戦い、結果として大勝利を収めた。
この時の佐久間勢の戦いぶりは凄まじく、以後盛政は鬼玄蕃と呼ばれて恐れられた。
前年の1581年には加賀・能登・越中の親上杉派や一向一揆の国人衆が集結して能登国の荒山城に籠城し、荒山合戦が始まった。〔21〕
能登を治めた前田利家は救援を要請し、柴田勝家は佐久間盛政たちを派遣した。
盛政は諸将と協力して荒山城を猛攻撃したので城はすぐに陥落し、救援に駆けつけた上杉軍は何もできず撤退した。
翌1582年も白山の一揆は挙兵したが、事前に調略を進めていた盛政は一揆を鎮圧した。
さらに徹底的な残党狩りを行い、一揆方の集落を襲撃して焼き払ったという。
この苛烈な作戦により、遂に加賀一向一揆は解体消滅した。
白山一揆との戦いでは、盛政の弟で柴田一門の養子になった柴田勝之が初陣で参戦して奮闘し、織田信長から賞賛された。
1582年1月、佐久間信盛が死去した。
翌2月、織田信忠が大軍を動員して武田家を滅ぼした。柴田勝之も従軍して戦功を挙げた。
同年5月、本能寺の変で織田信長、信忠父子が死去。
本能寺の変の後、柴田勝之は越中に赴いて佐々成政に仕えた。時期は不明だが成政の娘婿になり佐々の名字を名乗った。
保田安政はすでに柴田勝家に仕えていたので、佐久間兄弟は揃って北陸で再会した。
荒山合戦~賤ヶ岳の戦い直前
本能寺の変が起きた時、北陸の織田軍は上杉家の魚津城を攻撃中で、主力は越中に展開していた。
佐久間盛政は別働隊を率いて越中松倉城を攻撃し、魚津城の救援に向かう上杉軍を足止めした。
魚津城を攻め落とした直後に上方の異変を知った柴田勝家は撤退を決断。盛政も城攻めを止めて従い、加賀へ引き揚げた。
能登国では情勢が不穏になっていたので、前田利家は舟を使って急いで能登へ戻った。
柴田勝家は速やかに越前へ戻り、明智光秀と戦う準備を進めた。
勝家は柴田勝豊、柴田勝政、保田安政の軍勢を近江へ派遣し、前田利家にも出陣を要請した。
しかし前田利家は能登の情勢を理由に挙げて、出陣を断った。〔22〕
結局、北陸方面軍は柴田勝豊たちが近江北東部を制圧しただけで、織田信長の弔い合戦には参加できなかった。〔23〕
山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を倒した後、尾張国清須で織田家の今後を決める清須会議が行われた。
柴田勝家は柴田勝政を伴い出席した。
会議の結果、柴田勝家は勝豊たちが明智方から奪還した近江北東部を手に入れた。だが秀吉は京都がある山城国を含めて遥かに多くの地域を治めることになり、その勢力は著しく強大化した。〔24〕
清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。
上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。〔25〕
反織田家の軍勢は能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。
天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と佐久間盛政に援軍を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。
盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。〔26〕
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。
盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。
盛政は先ず斥候を出して状況を把握することに努めた。
そこで前田勢と天平寺僧兵団の遭遇戦が行われ、敗れた僧兵団が荒山へ向かっていることを知ると、直ちに反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。
佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。〔27〕
友軍を失い孤立した石動山は前田利家が制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が独力で上杉軍を抑え込み、北陸の情勢は安定した。
その頃、中央では羽柴秀吉が清須会議の約束違反の築城を行ったり、織田信雄と滝川一益の対立を煽るなど内紛の火種を作っていた。
柴田勝家は近江長浜を統治する養子の柴田勝豊を通じて秀吉と交渉の機会を設けて、前田利家、金森長近、不破勝光を派遣した。
一方で柴田勝家は近江と越前を結ぶ兵站基地として国境の柳ヶ瀬という土地(の中尾山)に玄蕃尾城を築かせた。〔28〕
11月、柴田勝家は軍勢を近江へ派遣した。
12月、秀吉は5万の大軍を率いて長浜城を包囲。長浜城主の柴田勝豊は降伏し、家臣団と軍勢は羽柴軍に組み込まれた。
さらに羽柴軍は江北で砦群の構築を始めた。
1583年3月、秀吉の専横を憂慮した柴田勝家は雪解けを待たず挙兵。諸将を従えて南下した。
対する秀吉も大軍を揃えて北上した。
近江に集結した柴田軍の兵数は2万~4万5千、羽柴軍は5万~12万ほどだったとされる。〔29〕
佐久間兄弟は盛政、勝政、(勝安)、安政が賤ヶ岳の戦いに参戦した。佐々勝之は越中に留まった。
賤ヶ岳の戦い
※以後の項目では佐久間盛政の行動と戦闘の経過を中心に記述しています。
日本史における位置づけ、政治的な経緯と戦後に及ぼした影響を含む大局的な視点からの記事内容は「賤ヶ岳の戦い」の記事を参照のこと。
佐久間盛政の軍勢は先発隊として柳ヶ瀬に入り、西の山々に砦を築いて友軍を迎える準備を整えた。
到着した柴田軍は北国街道の要所である柳ヶ瀬に本陣を置き、各砦に諸将が入り、羽柴軍を迎え撃つ構えを見せた。
南の天神山砦は柴田勝豊の部下たちが守っていたので、柴田軍はまず天神山砦に圧力を掛けた。
柴田軍の強固な守備を見た羽柴軍は短期決戦を諦めて天神山を放棄。
北国街道に土塁を築いて封鎖し、土塁の後ろと東西の山々に砦を築き、守りを固めた。 さらに後方の山々にも砦を築き、柴田軍の側面攻撃に備えた。〔30〕
さらに秀吉に味方した丹羽長秀と細川忠興の水軍が越前沿岸を襲撃し、若狭から近江西部までの要所を丹羽家の軍勢1万人が分散して守備した。
秀吉自身は主力2万の軍勢と共に木ノ本に留まり、田上山では弟の羽柴秀長が1万5千の大軍を統率した。〔31〕
柳ヶ瀬方面(柴田勝家)
│
行市山(佐久間盛政、柴田勝政) |
↓
集福寺坂
↓
↓ │
↓ 天神山(前田利家) │
↓ ↓ │
↓ ↓ │
↓ ↓ ┃ ☓ 左祢山(堀秀政)
↓ ↓ ☓ ☓ ☓
↓ 神明山 堂木山 ☓ ☓ ×
権現坂 茂山 (木村定重) (木下一元) │
│
↘ ━━━━━ │
↘ ┃ ┃ 岩崎山 |
↘ ┃ ┃ (高山右近) │ 北国街道
↘ ┃ 余呉湖 ┃ ↑ │
↓ ┃ ┃ ↑ 大岩山 │
↘ ┃ ┃ ↑ (中川清秀) │
―――― ↘ ━━━━ ↑ ↑ │
\ 飯浦坂 ↘ → → → → → ↗ → → │
\ ↘ │ 田上山
\ → 賤ヶ岳(桑山重晴) │ (羽柴秀長)
琵琶湖 \ ↗ \
↗ \
↗ \ \
↗ \
↗ 木ノ本方面
坂本方面 (羽柴秀吉)
(丹羽長秀)
決戦は両軍の陣地構築から始まり、その後は睨み合いが続いて両軍ともすぐに本格的な攻撃を仕掛けなかった。柴田勝豊の家臣団(山路正国、木下一元)や木村定重が柴田軍に寝返るという噂が流れたため、羽柴軍は陣地替えを行ったが隙を見せず、柴田軍に南進の機会を与えなかった。
堅陣を築いた秀吉は総指揮を弟の羽柴秀長に委ねて長浜へ戻った。〔32〕
秀吉は3月30日付けの文書で羽柴秀長に対し、長期戦の構想を伝えた上で賤ヶ岳砦周辺の小屋を秀吉腹心の武将たちに破壊させることを命じた。
また賤ヶ岳方面に軍勢を送り込むことを伝えた上で、現地にいる軍勢が撤退することを禁止した。
4月2日頃、羽柴方で参戦していた大和国の筒井順慶たちが軍勢を連れて帰国した。〔33〕
江北から離れた羽柴軍は、筒井勢だけでも4千人の大部隊だった。
羽柴軍の減少を知った柴田軍は街道を南下して正面から羽柴軍の砦を攻撃したが、堅固な陣地に篭り防衛に徹した羽柴軍に隙はなく、攻撃は失敗してしまう。
防衛成功の報告を受けた秀吉は喜ぶと共に重ねて出撃を戒める手紙を羽柴秀長へ送り、秀吉自身は他の戦線へ出陣する準備を進めた。
睨み合いが続く中、4月13日に佐久間盛政は柴田勝豊の家老・山路正国を寝返らせることに成功した。〔34〕
しかし羽柴軍に厳しく監視されていた山路は同僚や軍勢を連れて行けず、戦況に変化は生じなかった。
江北の戦況が膠着している間に美濃国で織田信孝が挙兵し、秀吉に味方した国人衆を攻撃して彼らの城下町を焼き討ちする勢いを示した。
秀吉は織田信孝を討つために自ら兵を率いて美濃へ入った。
秀吉軍が来ると知った信孝軍は撤収して岐阜城に籠城。
秀吉は岐阜城を攻め落とすための準備を進めたが、大雨による長良川の増水で足止めされたので大垣城に留まった。
秀吉が織田信孝討伐のために美濃へ向かったという情報を掴んだ柴田軍は、織田信孝を救援するために作戦を立てた。
作戦の内容は、柴田勝家が率いる柴田軍本隊が北国街道の敵陣を牽制し、その間に諸将の軍勢も加えて6千人を超える奇襲部隊〔35〕が山間の道を越えて余呉湖を西から迂回、南岸を通過して余呉湖東方の敵陣を急襲して占拠するというものだった。〔36〕
日 | 時 | 盛政ほか柴田軍 | 羽柴軍 |
---|---|---|---|
16日 | 織田信孝が挙兵し、美濃西部で秀吉に味方した稲葉一鉄らの領地を襲撃 | ||
17日 | 江北の戦況に変化なし | 秀吉、1万5千~2万の軍勢を率いて美濃国大垣へ移動 | |
18日 | 柴田軍は動かず | 稲葉一鉄、氏家行広が岐阜周辺を放火 | |
19日 | 日中 | 柴田軍は動かず | 秀吉、岐阜城総攻撃の準備を指示 |
23時 | 奇襲部隊と柴田勝政勢、総勢9千~1万5千が南下を開始。翌日の攻撃に合わせて、前田利家勢3千と柴田勝家が率いる柴田軍本隊7千~1万も動く | ||
20日 | 6時 | 奇襲部隊が余呉湖の南東岸を通過し、大岩山砦への攻撃を開始(攻撃開始時刻には8時説などもあり) | 中川清秀、奇襲部隊の襲来を知り将兵に防戦を指示。岩崎山と賤ヶ岳に救援要請の伝令を派遣 |
10時 | 奇襲部隊が大岩山砦を攻略。続いて岩崎山砦を攻撃 | 中川清秀が戦死。高山右近は岩崎山砦を捨て、羽柴秀長軍に合流 | |
12時 | 奇襲部隊は正午頃に大岩山砦を攻略したという説あり | 秀吉、美濃国大垣近くで柴田軍襲撃の報告を受ける | |
14時 | 勝政勢、賤ヶ岳砦の接収に失敗。引き続き賤ヶ岳の麓に布陣 | 丹羽長秀、海津から呼び寄せた二千の兵を待たず賤ヶ岳砦を救援。 秀吉、主力部隊の行軍手筈を整えた後、数名の供を連れて馬で大垣から出発 |
|
16時~17時 | 岩崎山砦を攻略後、奇襲部隊が何をしていたのか不明 | 羽柴軍の主力が大垣から出発。その大半が歩兵 | |
19時 | 野営の準備を済ませていた部隊が秀吉の帰還を報告。盛政、物見を派遣して事実と判断する | 秀吉、木之本へ到着 | |
23時 | 奇襲部隊が撤退を開始 | 秀吉は田上山に移動し、主力部隊の到着を待っていた? | |
21日 | 2時 | 撤退作業を継続 | 秀吉が山を降りて追撃戦を開始 |
深夜~払暁 | 奇襲部隊と羽柴軍が交戦。勝政勢が奇襲部隊を掩護 | 丹羽・桑山勢も参戦して勝政勢との戦闘を始めた? | |
6時 | 奇襲部隊、羽柴軍を撃退して権現坂まで移動し布陣。 飯浦坂の東で戦っていた勝政勢が、盛政の指示で撤退を開始。 |
羽柴軍が勝政勢を攻撃。 | |
8時 | 勝政勢、羽柴軍の追撃を受け苦戦。 奇襲部隊が陣地から出陣し、羽柴軍を攻撃して勝政勢の救援に成功 |
羽柴軍、勝政勢を追い詰めるも奇襲部隊の横撃を受け失敗。更なる攻撃の準備を始める | |
8時? | 茂山の前田利家勢が西へ逃走。続いて金森長近らも離脱 | 秀吉、柴田軍の動揺を捉えて奇襲部隊を猛攻 | |
12時 | 奇襲部隊が壊滅 | 秀吉、集福寺坂まで追撃戦を指揮 |
(『第九師管古戦史』等を基に作成。時刻や軍勢の規模には異説もあり)
4月19日の夜、奇襲部隊は行動を開始。砦群から出発し、羽柴軍に察知されないよう山間部を南進した。
20日未明、奇襲部隊は山路正国の先導で余呉湖を迂回して南東岸で敵兵2名を斬り、北上して夜明けと共に大岩山砦を攻撃した。
柴田軍はさらに柴田勝家が自ら主力部隊を率いて街道を南下し、羽柴軍の陣地に近い狐塚という土地に布陣(史料によっては、左祢山を襲撃)。
前田利家の軍勢も南下して茂山に進出。
奇襲部隊に途中まで同行した柴田勝政の軍勢は賤ヶ岳の麓に布陣し、広範囲に渡り羽柴軍を牽制した。
大岩山砦を守る中川清秀とその軍勢は奮戦したが、田上山の軍勢は救援に動かず、砦は陥落して中川清秀は戦死した。
奇襲部隊は隣の岩崎山にも攻め掛かり、守将の高山右近は岩崎山を放棄して羽柴秀長軍に合流した。
一方、余呉湖の南では賤ヶ岳砦が孤立。羽柴軍はこちらにも救援軍を送らなかったので、桑山重晴は砦からの退去を始めた。
しかし桑山勢の退去中に、琵琶湖を渡った丹羽長秀が少数の兵を率いて駆けつけた。
丹羽勢と桑山勢は退去を見守っていた柴田勝政の軍勢を挟撃し、勝政勢は後退。その隙に丹羽・桑山勢は賤ヶ岳砦に入り守りを固めた。〔37〕〔38〕
盛政は秀吉帰還の報告を受けると斥候を出して確認を行い、事実と判断して撤退を決めた。〔40〕〔41〕
20日深夜、奇襲部隊は大岩山とその周辺から撤退を開始。数時間後に秀吉が自ら軍勢を率いて追撃戦を始めた。
奇襲部隊は山道を進みながら、幾度も引き返して羽柴軍を撃退。夜明け頃に権現坂まで戻り布陣した。
追撃に失敗した秀吉は、賤ヶ岳に留まり奇襲部隊を支援していた柴田勝政の軍勢に矛先を向けた。〔42〕
羽柴の大軍に対し僅か三千の勝政勢は苦戦したが、負傷者を置き去りにせず庇いながら戦い、賤ヶ岳の西にある飯浦坂を進んだ。
羽柴軍の猛烈な追撃を受けた勝政勢は追い詰められたが、友軍の危機を見た奇襲部隊が出陣して羽柴軍を横撃し、勝政勢を救援した。
追撃どころか多大な損害を受けた羽柴軍だったが、秀吉は諦めず更なる攻撃の準備を進めた。
盛政も勝政勢を迎え入れると、撤退どころか陣地に留まる構えを示した。
そして両軍の本当の決戦が始まるのだと諸将が注目したその時、東の茂山から前田利家が出陣した。
ところが前田利家は総勢を連れて茂山を放棄し、奇襲部隊と合流せず真っ直ぐ西へ逃げてしまった。
味方の逃走を見た柴田軍は全軍に動揺が走り、金森長近ら諸将が相次いで戦場から離脱。
その機を秀吉は見逃さず、奇襲部隊に猛攻撃を仕掛けた。
裏切りに動揺した奇襲部隊はそれでも戦い続けたが、遂に崩れて敗走した。
秀吉は自ら追撃戦を指揮して集福寺坂まで進撃。
奇襲部隊は砦に入って立て直しを図ることができず、壊滅した。
神明山方面を牽制していた前田勢が退却し、奇襲部隊が瓦解したことにより、羽柴軍は総攻撃が可能となった。
諸将の離脱で大軍を失った柴田勝家にその攻撃を食い止める術はなく、犠牲の殿軍を残して越前へ撤退した。
盛政は羽柴軍の追撃から逃れて北へ向かった。
柴田勝政は退却する前田勢を引き留めようとしたが断られた。勝政は陣地に踏み止まって羽柴軍と戦い、その後の消息は不明。
保田安政は乱戦の中で秀吉の首を狙ったが果たせず、敵の包囲を突破して逃走。
佐々勝之は越中で敗戦の報せを受けるとすぐに金沢城へ向かい兵を集めようとした。しかし敗戦の報せは加賀中に伝わっていたため兵が集まらず、越中へ戻った。
金沢城は佐久間家の家臣団が守っていたが、前田利家が羽柴軍の先鋒として加賀へ侵攻。
城主は遂に戻らず、守備軍は翌日城を明け渡した。
盛政の家族は加賀から去って、親戚を頼り尾張へ移った。
最期
戦に破れた佐久間盛政は再起を図るため供回りと柴田勝家の息子を連れて自領の加賀を目指した。
しかし道中で落ち武者狩りに遭う。
抵抗は無駄だと悟った盛政は最後に秀吉との対面を望み、囚われの身となった。
柴田勝家の子は盛政と引き離された後に処刑されてしまい、盛政は連れて行かれた陣で秀吉ではなく秀吉の側近の浅野長政と対面させられた。
浅野から「鬼玄蕃ほどの武人が大戦に負けて、自害を選ばなかったのは何故か」と質問されると、盛政は源頼朝など大負けして身を隠し再起を図って成功した武将の例を挙げて、諸将を唸らせた。
京都へ護送された盛政に対し、秀吉は盛政が織田家に尽くした功績を惜しみ、助命と肥後一国を与えることを約束して仕官を求めた。
「確かに俺が征けば一年で九州を平定できる。だがその後、上洛して秀吉に対面したら俺は怒りのあまり秀吉を斬るに違いない。討ち損じたら肥後に戻り謀反を起こすだろう。命を救われ、国主にまで引き立てられた恩を、仇で返すことになる」
盛政は自身に対する秀吉の高い評価を喜びながらも、上記の言葉を告げて降伏を拒否。
返答を聞いた秀吉は自分の言葉を盛政が信じていないと考え、約束を守ることを再度伝えた。
盛政は秀吉に悪意がないことは承知していると返答した上で、勇者は言葉を覆さないと告げた。
秀吉も遂に諦め、盛政の意志を尊重した上で死装束を贈った。
翌日、世に名高い鬼玄蕃を見物しようと京都中の人々が押し寄せた。
敗者の盛政は全く気弱な素振りを見せず、彼らを傲然と睨みつけた。
京都引き回しの後、宇治の河原で刑死、晒し首となった。
盛政の亡骸は、家臣の鈴木八郎治が密かに運び去って鈴木の故郷の三河国に葬ったと伝わる。
生き延びた安政と勝之は、諸勢力を渡り歩いて秀吉に抗い続けた。
しかし1590年の小田原征伐で、二人の恩人だった北条氏政が亡くなったと知ると、死を覚悟して出頭した。
秀吉は佐久間兄弟の武勇を高く評価して、二人を助命した。
兄弟は知己を頼って蒲生氏郷に仕えた後、秀吉の直臣大名に取り立てられた。
関ヶ原の戦いでは安政も勝之も東軍に味方し、江戸時代に入ると将軍徳川秀忠に重用された。〔43〕
安政は後に兄盛政や叔父勝家、お市の方を弔うために近江の自領に幡丘寺を建てさせた。
盛政の幼い娘・虎姫は伯母が嫁いだ新庄家の養女に迎えられ、後に秀吉の指示で中川秀成の正室となった。
中川秀成は、賤ヶ岳の戦いで佐久間勢に討たれた中川清秀の息子だった。
中川清秀の妻や家臣たちから憎まれた虎姫は彼らと距離を置いたが、夫婦仲は良かった。
長男の中川久盛は祖父の佐久間盛政を供養するために英雄寺という寺を建てさせた。
安政と勝之は、虎姫が嫁いだ中川家と協力して盛政の佐久間家を再興するために尽力した。
公家衆や幕閣も含めて多くの人々が協力したこの活動は、安政たちの死後に実を結んだ。
こうして勇将の誇りと血脈は後世に受け継がれた。
後世の評価
佐久間盛政は、賤ヶ岳の戦いで柴田軍を敗北させた愚将の烙印を押された。
相手の秀吉が戦国三英傑の一人なので、賤ヶ岳の戦いは取り上げられることが多い。
日本史の教科書に書かれている戦であり、秀吉が登場する大河ドラマの見せ場になったりもしたので、戦国時代にあまり興味を持たない人でも、盛政が慢心して敗北する場面を見た人は多いかもしれない。
しかし江戸時代初期までの史料では、佐久間盛政は名将として評価されていた。
後世の評価に特に影響を与えた『柴田合戦記』(『天正記』の内、賤ヶ岳の戦いについて記された史料)と『太閤記』は、盛政を高く評価している。
- 『柴田合戦記』
- ・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉の祐筆)
・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。
・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。
・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという意気込みである。
・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。 - 『太閤記』
- ・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣)
・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』にも記された佐久間盛政の傲慢に加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし『太閤記』では降伏した柴田勝豊を厳しく批判している。
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。
『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。
敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。
- 『渡辺勘兵衛記』
- ・撤退戦で奇襲部隊は善戦した。
・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの友軍が布陣していたので、勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。
・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。
・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。 - 『一柳家記』
- ・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。
・その時盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。それでも奇襲部隊の撤退は速かった。
・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだったことが記されている。
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。
・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。
・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。
・次に藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。
・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。
・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。 - 『江州余吾庄合戦覚書』
- ・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。
・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。〔44〕〔45〕〔46〕
・ところが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。 - 『佐久間軍記』
- ・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。
・柴田勝家は佐久間盛政に、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。
・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。
・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。〔47〕
各史料の記述で合戦の様子には多少の差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは味方の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後の事実として、
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡(佐久間盛政が治めた土地)を加増した。〔48〕
ことも併せて考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら、小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。
こうしてみると『太閤記』や後の時代の史料の「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」、「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述の信憑性も疑わしくなってくる。
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。
『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。〔49〕
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
もっとも賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛だったし、前田利家は柴田勝家の家臣ではなく、織田信長の生前の指示で勝家に協力していただけだった。
「合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代に入ってから武士の価値観の変化で問題視されるようになり、史家は前田家に配慮して曖昧に記述した」という可能性も考えられる。
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ、大身の支持者だった中川清秀(息子の嫁は織田信長の娘)の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため、岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損害を与えないと、美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し、待ち構えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可能にした一手だった。〔50〕
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いではなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」、「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな柴田軍が嵌った」というわけではなかった。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と、織田信長譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使した。
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのである。〔51〕
対して佐久間盛政たち奇襲部隊は、「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなど、よく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りだった。
これが江戸時代初期からさらに時代を下ると、
・奇襲部隊は神速で戻った秀吉軍を見ただけで総崩れして味方を巻き込んだ情けない軍勢
となり、佐久間盛政はどうしようもない愚将にされてしまった。
後世の史料では、秀吉軍帰還から奇襲部隊の敗走に到るまでの幾つかの経緯は省略された。
結果として佐久間盛政の愚かさが強調されてしまった。
秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に、柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて、奇襲部隊が敗走
経緯が省略されたことに伴い、当然のこととして時間の経過についても記述が省かれるようになった。
戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いた。秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ、奇襲部隊が大活躍した時間だった。
<盛政の人物評と柴田勝豊との確執>
佐久間盛政の人柄については、柴田勝豊との確執で傲慢な人物だったというのが定着している。
(人柄については他に参考になる記述が乏しい)
だがこの件も、濡れ衣の可能性が考えられる。
越前丸岡2万石の大名だった柴田勝豊は、近江長浜13万石を治めることになった。当然より多くの人手が必要になったので、柴田勝家は柴田家の家臣や与力を柴田勝豊の下に付けた。
長浜では新任の柴田勝豊が独裁的な権力を持てたとは考えにくい。
そして部下には山路正国のように秀吉への降伏に不満を抱いた武将たちがいた。
つまり柴田勝豊の部下には他に秀吉への降伏を熱心に勧める人々がいて、彼らは山路たち反対派を抑え込んで秀吉への降伏を柴田勝豊に決めさせた、と考えられるのである。
もし降伏派が多数を占めたなら、勝豊の意志がどうだったとしても降伏することになっただろう。
また秀吉の立場なら、柴田勝豊の部下たちにも調略を仕掛けていたはずである。
『柴田退治記』でも他の史料でも、賤ヶ岳の戦いにおいて大義と正義は秀吉の側にある。
賤ヶ岳の戦いは、羽柴軍の長浜城包囲から始まった。 秀吉は同じ織田家の武将の居城に対して、包囲という攻撃を仕掛けた。さらに織田信孝の岐阜城も包囲した。
だが秀吉が仕掛けたこれらの攻撃は、どの史料でも批判されていない。批判されているのは、柴田勝豊を追い詰めた佐久間盛政(史料によっては柴田勝政)の傲慢さだけである。
<他の悪評>
一例として、1630年頃に成立した『七国志』(北陸の歴史をまとめた史料)を挙げる。
- 『七国志』
- ・著者は京都の儒学者。
・荒山合戦で盛政は、織田信長父子が他界したのをいいことに、前田利家に協力する振りをして前田勢を背後から攻撃し能登国を奪おうと企んだ。前田利家が天平寺の人々を寛大にも許して戦を早く終わらせたので、この企ては失敗した。〔52〕
・盛政は陰謀などなかったかのように前田利家に接し、佐久間勢が討ち取った敵将の首を贈って戦勝を祝った。前田利家は陰謀に気づいていたが、気付かない振りをして盛政の使者をねぎらった。
・賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、佐久間盛政と前田利長の軍勢がそれぞれ焼き働きを行った。
・賤ヶ岳の戦いの際、盛政は前田利家を疑い、前田利家の謀殺を柴田勝家に進言した。前田利家は盛政に憎まれていたことを知っていて、側近たちに「盛政は侫人で貪欲、義もなく信もない。利益のためなら兄弟親戚も顧みない禽獣のごとき輩だ、碌なことにならないだろう」と語った。
・奇襲作戦の立案実施に盛政の進言があったことは記されていない。
・撤退作戦で奇襲部隊が善戦したことは一切触れられていない。秀吉が戻ってきて、慌てた奇襲部隊は動揺して惨敗し、越前へ向かって敗走した。
・奇襲部隊が敗走したとき、前田父子とその軍勢は茂山にいた。周囲を羽柴の大軍に囲まれた前田勢は撤退を開始。将兵の奮戦により、死傷者を出しながらも撤退に成功。
『七国志』には佐久間盛政の卑劣な性格が記されている。『太閤記』には盛政の傲慢さが記されているが、盛政が前田利家を謀殺しようと図ったという記述は一切ない。〔53〕
『七国志』に記された前田勢の奮戦と損害も、小瀬甫庵の『太閤記』には何故か記されていない。
逆に『太閤記』に記された奇襲作戦の進言話は、盛政を酷評した『七国志』に記されていない。
江戸時代は史学や軍学が盛んで、多くの史料が作成された。 それらの史料は他の史料を参考に作成され、また別の史料作成の参考に活用された。
そうして幾つかの史料に載せられた別々の悪い話が吸い上げられて纏められた結果、佐久間盛政の人物像が出来上がった。
『太閤記』は江戸時代以降のベストセラーであるし、『七国志』は江戸時代の北陸史研究で幾度も参考史料に採用された。
『七国志』が著された頃、前田家は三代目の前田利常が当主を務めていた。
前田家は加賀百万石の大大名であり、前田利常の妻は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の娘である。
つまり著者たちは前田家に(頼まれてもいないのに)配慮して筆を曲げた可能性が考えられるのである。
一方で、佐久間家も盛政の弟たちが徳川秀忠の側近を務めた家である。
ところが『七国志』が著された頃から数年前に佐久間安政は亡くなっていた。
安政は賤ヶ岳の生き証人でもあったから、その生前は史家も伝記家も軍学者も賤ヶ岳の戦いについてあまり無茶な話は書けなかったのだろう。
佐久間勝之も数年後に死去。佐久間兄弟を重用した徳川秀忠はすでに世を去り、時代は変わっていた。
<参考>
- 『昔日北華録』
- ・『七国志』から百年以上経ってから成立したとみられる。
・賤ヶ岳の戦いでは、前田利家は越前府中にいて合戦に参加しなかった。 - 『越登賀三州志』
- ・成立は1805年。
・賤ヶ岳の戦いで羽柴軍に包囲された前田父子は、柴田勝家を助けようと羽柴軍の重囲を突破して帰還した。前田勢は多数の戦死者を出した。
※ただし後の時代に古い史料の発見や誤りの訂正が行われたかもしれず、「古い時代の史料の方が正しく、新しい時代の史料は間違いが多くなる」が必ずしも成り立つわけではないことに注意する必要はある。
<鬼玄蕃の悪名>
加賀で一向一揆と激戦を行い、残党狩りも行った佐久間盛政は、死後も加賀の人々から恐れられたという。
佐久間勢に追い詰められて村人が玉砕あるいは全員が自殺して長く無人になったという地域もあり、その凄まじさは現地の地名に残っている。
対して前田利家が加賀を領有して以降、前田家の統治の元で加賀は繁栄した。
これは盛政の時代には先ず敵対勢力を掃討する必要があったからで、決して盛政が悪政家だったわけではない。
しかし当時を生きた人々からすれば盛政は恐ろしい武将であり、その記憶が語り継がれた。
『越登賀三州志』には、
・加賀国の人民は佐久間盛政の苛政に苦しめられた。前田利家公は仁政を敷いたので加賀の人民から慕われた。
と記されている。
ただし・・・『越登賀三州志』には、前田利家が越前一揆や能登国荒山合戦で殺戮を行ったこと、江戸時代に前田家が領分の特定の地域で苛政を敷いたこと等、前田家の負の面は記されていない。
そして対照的に盛政は貶されている。
著者に悪意があったというより、江戸時代中期の北陸ではすでにそれが常識になっていたのだろう。
もちろん『越登賀三州志』も、成立後は北陸史研究の重要な史料として引用されていった。
<佐久間盛政の名声>
しかしながら佐久間盛政は江戸時代以降、それなりに(脇役として)人気があったようである。
というのも同時代のベストセラーになった『太閤記』には、盛政の武将としての活躍と壮絶な最期も記されていた。
最後に戦った相手の豊臣秀吉は、徳川の世でも庶民に人気があった。その秀吉の見せ場を作る手強い敵として、盛政は歌舞伎などの登場人物になった。
盛政は筋骨隆々の豪傑として浮世絵に描かれた。
物語では純粋な武辺者、しぶとくも潔い最期は敵ながら天晴という分かりやすいキャラクターが、人々に受け入れられたのかもしれない。
賤ヶ岳の敗因を作った武将という評価は明治時代以降も変わらなかったが、脳筋でも愚か者として嫌悪されたわけではなかったようである。(一部の史書を除く)
武勇の将としては高い評価を受けた。〔54〕
盛政がただの脳筋ではなく愚か者とみなされたり、戦働きしか能のない旧世代の武将として秀吉(時代の先駆者)と対比されて描かれるようになったのは、戦場の勇者を蔑む時代になってからのことなのかもしれない。
・優れた武将だったことは、多くの史料に記されている。
・織田家最大の敵だった本願寺教団の牙城加賀国を平定した功績。
・二十歳そこそこで加賀平定戦の主力を担い、二十代で国持大名になった。
・後の天下人秀吉からも認められた力量。
と名将だったことは間違いない。
織田信長や柴田勝家からの信頼は厚く、同僚や部下とよく協力し、死後も娘や弟たちが御家再興に尽力した。 等々、人望もあったようである。
他の関係者
- 柴山長次郎
- 加賀の国人で佐久間盛政の寄騎。早い時期から織田家に味方したので織田信長から賞賛された。
他の国人衆の調略を行った。
息子の名前は「柴山盛政」。偶然でなければ長次郎は寄親を尊敬していたのかもしれない。 - 後藤家俊
- 加賀守護を務めた富樫家の遺児。父と兄二人は1574年の越前一向一揆と戦って討死。家俊は逃げ延びて後に佐久間盛政に仕えた。
加賀平定を目指す織田軍が神輿に担ぐ価値のある人物だったはずだが、一人の武者として一向一揆と戦った。
その活躍を盛政が讃えた書状が現存している。 - 吉竹壱岐
- 盛政の寄騎。盛政が鳥越城を奪還した後、同城の城主を務めた。
一揆勢から城を守り、白山一揆の再起を阻止した。
近江高島郡の国人で初めは浅井家に仕えたが、明智光秀の攻撃を受けて没落し織田家に従った。
親子二代が壱岐守を称した。あるいは代々の受領名か。
後に村上頼勝という加賀の大名が越後へ転封となった際、村上家の重臣として吉竹壱岐の名前が出てくる。 - 原長頼
- 織田家直参。武勇に優れ、柴田勝家の寄騎に配属された。しばしば畿内の合戦に動員された。
賤ヶ岳の戦いでは奇襲部隊に参加。撤退戦で殿軍を務め、拝郷家嘉(または安井家清)と連携して羽柴軍を撃退。
敗戦後は前田家に仕えたが、秀吉の直臣大名に取り立てられた。 - 拝郷家嘉
- 尾張の国人、織田家直参。越前一向一揆攻撃に参加し、そのまま柴田勝家の寄騎となった。
盛政が大聖寺城から金沢城に移ると、拝郷家嘉が後任の大聖寺城主となった。
武勇に優れ、加賀平定戦から荒山合戦まで盛政と協力し、 賤ヶ岳の戦いでも拝郷勢は佐久間勢と行動を共にして奮闘。
撤退戦で殿軍を務めて羽柴軍を打ち破ったが、柳ヶ瀬で討たれた。 - 徳山則秀
- 美濃の国人、織田家直参。柴田勝家の寄騎となり、盛政と共に北陸平定戦に参加。
父親の徳山少左衛門も北陸方面軍の一員で活躍したが、白山一揆の挙兵で戦死した。
徳山則秀は松任城の城主を務めて白山一揆指導者の謀殺に加担したか。
賤ヶ岳の戦いでは奇襲部隊の先鋒を務めて奮闘した。
敗戦後は丹羽長秀に仕えた。丹羽家が領地の大半を失うと前田家に仕えたが、後に出奔して徳川家に仕えた。 - 不破勝光
- 美濃の国人、織田家直参。信長に重用された不破光治の孫。
賤ヶ岳の戦いにおいて不破勝光の動向は複数の説がある。
・奇襲部隊の先鋒を務めて最後まで戦った後に降伏した。
・金森長近と同じく、柴田勝家を裏切って戦場から離脱した。
いずれにしても前田利家や金森長近のように巧く立ち回ったわけではないようで、戦後は前田家に仕えた。 - 安井家清
- 柴田家臣。加賀和田山城主となり、佐久間盛政の家老も務めた。
越前丸岡城主の柴田勝豊が近江長浜に移った後、家清は丸岡城代として赴任。
賤ヶ岳の戦いで戦死。安井家清も佐久間勢に同行して撤退戦を戦い、活躍したとされる。 - 近藤無一
- 柴田家臣。越前一向一揆攻撃に参加、後に盛政の寄騎となる。
賤ヶ岳の戦いでは佐久間勢に同行し、中川清秀の弟を討ち取った。
(後に佐久間家と中川家が親戚になったので、配慮して討ち取られたのは弟にした?) - 山路正国
- 伊勢の国人、柴田家臣。柴田勝家、勝豊に仕えて勝豊の家老を務めた。
出身地や奇襲作戦の提案から考えると、柴田家ではなく織田信孝に仕えた人物だったのかもしれない。
賤ヶ岳の戦いでは病床の柴田勝豊に代わり兵を率いて参加した。
盛政に誘われて柴田軍へ寝返り、奇襲部隊を先導して作戦を成功させた功労者。
しかし戦は柴田軍の敗北に終わり、山路は戦死した。逃げる途中で引き返して奮闘した末の討死だった。 - 神部兵衛門
- 奇襲部隊に参加した人物。
大岩山砦の戦いで中川勢の無双ぶりを見た盛政は、神部に砦の裏手へ回り放火することを命じた。
神部はこの任務を成し遂げ、敵の混乱を突いて佐久間勢は砦に攻め入り中川勢を撃滅した。
よく似た名前の人物が賤ヶ岳の七本槍、脇坂安治に討ち取られた。同一人物だとすれば、その首に価値のある勇士だったのかもしれない。 - 青木法斉、原可永、長井五郎右衛門、豊島猪兵衛、鷲見源次郎、鷲見九蔵、毛屋新内
- 奇襲部隊に参加した猛者たち。撤退戦で鉄砲隊と連携して羽柴軍を撃退した。
彼らの凄まじい戦いぶりを見た秀吉は奇襲部隊の捕捉を諦め、柴田勝政勢に狙いを変えたとされる。
青木はその後も戦場を渡り歩いて活躍を続けた。 - 種村三朗四朗
- 柴田家臣。佐久間盛政の与力となり加賀平定戦に参加。
荒山合戦では猛者たちを率いて佐久間勢の主力を担った。
賤ヶ岳の戦い後、前田利家から仕官を求められて一度は断ったが、再度の懇願を受けて前田家に仕えた。
前田家臣としては佐々成政との抗争で活躍した。
後に訳あって前田家から離れたが、前田利長(利家の子)との交流を続けた。 - 新庄直頼
- 近江の国人、元は浅井傘下。妻は佐久間盛重の娘。
賤ヶ岳の戦いでは寄親の羽柴秀吉に味方し、丹羽長秀と共に坂本を守備した。
戦後は虎姫を養女に迎えた。 - 清姫
- 盛政には虎姫の他にもう一人娘がいたという説があり、清姫と呼ばれたという。
盛政の家族は佐久間家の地盤がある尾張へ戻って熱田神宮の千秋家を頼り、清姫は佐久間一門の男性に嫁いだ。
後に清姫は迫害されて家族と共に命を落としたという。
小牧長久手の戦いで保田安政、佐久間信辰や佐久間信勝(佐久間信盛の弟と息子)が秀吉と敵対した織田信雄を支持して奮戦したことから、秀吉側に睨まれてしまったか。 - 二曲姫
- 白山一向一揆の指導者・鈴木出羽守の娘。
父親と兄弟は和睦交渉で赴いた松任城で柴田勝家に謀殺され、姫は鳥越城の陥落時に捕虜にされた。
城を攻め落とした佐久間盛政から婚姻を迫られたが拒絶し、故郷で尼になることを願い出た。
盛政はその願いを聞き届けて姫を解放した。
その後地元の人々が再び挙兵して鳥越城を奪還したが、佐久間勢に再び攻め落とされた。
佐久間勢が残党狩りを始めたことを知ると、姫は自分も捕縛されて殺されるだろうと覚悟し自害した。
補足
1. 柴田勝政は初め勝安と名乗っていた。ただし別人説もあり、その場合は両者の事跡を区別する必要がある。^
2. ちなみに柴田家は婚姻や養子縁組を通じて佐久間家との関係を積極的に強化したとみられる。
佐久間の名字を持つ人物が多数、柴田家の家臣や寄騎として史料に記されており、また盛政の寄騎や家臣には柴田家の家臣だった人物もいた。
軍事作戦でも両家の将兵は行動を共にすることが多かった。^
3. それ以前に父盛次は死去したか隠居して盛政が跡を継いだと考えられている。^
(盛政の初陣だった箕作城攻めで戦死した説あり)
4. 同月には府中で一揆が織田家に対する反乱を起こしており、盛政たちが挙兵を予測して対策を講じた可能性がある。^
5. 尾張へ戻った梁田は、織田家当主となった織田信忠(信長の嫡男)に仕えた。
梁田は元々信長の馬廻り衆(親衛隊)だったので、加賀からの退去は左遷ではなかったのかもしれない。
また信長の馬廻り衆だった前田利家や佐々成政たちは、柴田勝家の与力となった後も畿内の合戦に頻繁に動員された。
同じ与力でも加賀攻略に専念した盛政とは違い、前田利家たちは信長の戦に参加するのが主任務だったのだろう
盛政は馬廻りを経験しなかったことから消去法で梁田の後任に選ばれたのかもしれない。
勿論盛政が信長から期待されたからこその人事だった。^
6. 織田軍が快進撃を続けた1575年、将軍足利義昭や武田勝頼、石山本願寺が北陸の一向一揆と上杉家の仲裁を行った。^
7. 同年9月、加賀では手取川の戦いが行われた。ただし戦闘の規模や戦闘が実際に行われたかどうかも不明な点が多い。
いずれにしても上杉軍の作戦により織田家は越中・能登の協力者を失った。
この合戦が実際にあったとする証拠としては石山本願寺の坊官・下間頼廉が加賀の国衆に宛てた書状と、『歴代古案』(に収録された上杉家の書状)がある。
ただし前者から分かるのは織田軍と一揆の間に戦いがあったことだけであり、上杉軍が本格参戦したかは分からない。
当時の北陸方面軍の動きを伝える他の史料(『信長公記』など)によると織田軍は加賀一揆と戦っていた。
後述のように佐久間盛政が加賀中部の重要拠点である御幸塚砦を確保したこと、大敗した筈の織田軍相手に加賀一揆が勢力を盛り返せなかったことから考えると、
「織田軍が手取川を越えて一揆の勢力圏へ侵攻したが、一揆の軍勢に撃退された。ただし織田軍の損害は少なく、加賀中部の維持に支障はなかった。七尾城が陥落したので急いで加賀北部を平定する必要はなくなり、織田軍は加賀南部の一揆鎮圧に矛先を向けた」
というのが実際の出来事だったのかもしれない。^
8. 柴田勝安は義父を供養するために、現地に義宣寺という寺を建てさせた。
柴田勝安と柴田勝政を同一人物とする説によると、柴田勝家は養子の勝政(当時の名前は勝安)を戦死した義宣の養子にして家督を継がせたという。^
9. この時、佐久間勢は山道を進んだ。加賀の国人衆を加えて、さらに一揆との戦いを通じて山岳戦に慣れていたのだろう。^
10. 江戸時代の史料によると、末森城の守備には三河一向一揆の残党が参加していた。^
11. 鳥越弘願寺は、本願寺教団を黎明期から支えた由緒ある寺院だった。^
12. 寺に逃げ込んだ敵将の引き渡しを要求したと思われる。^
13. 一揆側の抗戦も激しいものだったという。信長の元馬廻りだった勇士も一揆軍に参加した。^
14. 現在まで続く金沢の城下町と百間堀は、佐久間盛政が同地を治めた時期に基礎が作られた。
次の領主になった前田利家は金沢を「尾山(御山)」と改名したが定着せず、跡を継いだ前田利長は地名を金沢に戻した。^
15. 一揆の軍勢の主力だった山内衆は多数の銃兵を抱えていた。山内衆は領内で鉄砲の製造を行っていたという説もある。
また一揆の指導者には鈴木の名字を持つ武将がいた。^
16. 織田家と石山本願寺の和睦の条件には、加賀国で織田軍と一揆の軍勢が停戦し、織田軍が占領地から撤退することも含まれていた。
白山一揆の指導者たちが、松任城の城に出向いたのは、この和睦も関係していた可能性が考えられる。
代表者たちは一揆に参加した国人衆の権益を織田家に認めさせ、彼らは上杉家と手を切って織田家に従う、といった落としどころを考えていたのかもしれない。
柴田勝家が一揆の代表者たちを初めから殺害するつもりで招いたのか、あるいは交渉が決裂したために殺したのかは不明。
ただし柴田勝家はその後も加賀や能登の国人衆を呼び出して殺害することがあった。^
17. 若林長門守を謀殺したのは佐久間盛政だとする史料もある。
この時期の謀殺について盛政が実際にどの程度関わっていたかは不明だが、少なくとも上司の柴田勝家は謀略にも長けていた。^
18. 三将が最前線に配置されたことや佐久間家と柴田家の付き合いを考えると、彼らと佐久間盛政との関係は良好だったと思われる。^
19. 同郡に領地を与えられた時期や石高には異説がある。^
20. 朝廷に圧力を加えるために行われたともいわれるこの時の馬揃えだが、当時の帝と織田家の関係は良好だった。 さらに後に皇位を継がれたのは、馬揃えの当時、織田家臣団が信奉した親王の御子だった。
馬揃えは威圧よりも政情安定を広く知らせる宣伝を兼ねたお祭りだったようである。
そしてこの晴れがましい催しに、盛政は参加しなかった。北陸を守るための人事だったが、前年の佐久間信盛の失脚が影響したのかもしれない。^
21. 『佐久間軍記』に記された合戦だが、本能寺の変後に起きた荒山合戦の年代が間違えて記された疑いあり。^
22. 信長の親衛隊だった前田利家が仇の明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実から、当時の北陸の情勢は織田家の武将たちにとって深刻だったと考えられる。^
23. 佐久間盛政も近江に出陣した形跡が見つかっていない。加賀の織田軍は能登の争乱に備えて待機したのかもしれない。^
24. 秀吉の勢力が大きくなりすぎることを危惧した柴田勝政は、秀吉を殺害するようにと柴田勝家に進言したが、勝家は同士討ちをしている場合ではないと答えて却下したという。^
25. 天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登国のみならず北陸地方全域に強い影響力を及ぼした強大な宗教勢力だった。北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。
また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に従ったが、七尾城の件で彼らに恨みを抱いた長連龍から攻撃を受けて越後へ亡命し、故郷へ戻る機会を窺っていた。^
26. 拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、兵の召集から現地入りまで二日は驚異的な速さになる。
おそらく天平寺の挙兵に備えて、予め兵を集めていたのだろう。^
27. 荒山合戦における佐久間盛政の働きは、350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた
・速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・友軍とよく協力した
・佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を前田利家に譲った。(前田利家の名声を高めて能登を安定させるために手柄を譲ったか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した。^
28. 城の名前に「玄蕃」が入っていることから、佐久間盛政が築城を行ったという説がある。
柴田方が築城を行った時期には異説あり。また昔から重要な土地だったので、砦がすでにあって改修工事を行ったか。^
29. 羽柴軍の兵数は複数の史料で10万人以上の人数が記されているが、当時の情勢でそれほどの大軍を1つの戦場に動員できたのかどうかは疑問視されている。
この人数は羽柴方の総戦力を誇張したものと考えられている。^
30. なお遺構の調査から、大岩山・岩崎山・賤ヶ岳砦の防衛設備は簡素で脆弱だったことが判明している。
逆に田上山の設備は充実していて、大軍が駐留した可能性を示している。
賤ヶ岳や大岩山の砦の改修が不十分だったのは、工事の人手が足りなかったからと考えられる。
羽柴軍は大軍で近江に入ったので多数の設備が必要となり、工事の人手も資材も不足した。
この点は柴田軍も同様だった。
佐久間盛政は現地の集落の家屋を壊して資材の足しにした。盛政は勝利の暁には必ず報いると地元民に約束したが、敗北して処刑されたため約束は果たされなかった。
また両軍への協力は地元民にとって稼ぎ時であり、戦後の厚遇を獲得するチャンスでもあった。
一例として本願寺教団の称名寺が挙げられる。称名寺はかつて織田家と敵対したが、賤ヶ岳の戦いでは羽柴軍の砦造りに協力した。戦後、秀吉は称名寺に手厚い支援をした。^
31. 『柴田退治記』には蜂須賀(家政)、神子田(正治)、小寺(黒田官兵衛)、赤松といった武将たちが、各戦場へ送られる救援部隊として木ノ本にいたことが記されている。
(秀吉の祐筆大村由己が記した『柴田退治記』は、羽柴軍の布陣に関する記述については信頼できる)
黒田官兵衛は黒田家譜や後述する秀吉が送った手紙から、秀吉が木ノ本から離れた後も現地に留まっていたことが分かる。
さらに羽柴秀長は家臣の藤堂高虎を木之本に配置した。
以上から賤ヶ岳や大岩山方面の防衛体制は、砦という施設よりも田上山と木ノ本から援軍が送られることを前提に成り立っていたと考えられる。^
32. 羽柴秀長は織田信長存命時に国持大名にまで出世した歴戦の名将であり、名実共に秀吉軍のNo.2だった。当然柴田軍の面々も羽柴秀長に対する警戒は怠らなかっただろう。
羽柴秀長が率いた羽柴軍は、敵奇襲部隊の襲来によって味方の砦を見捨てた上、現地に居座った奇襲部隊の圧力に晒されたが、遂に離反者を出さなかった。
(もっとも戦後に秀吉が複数の武将を内通容疑で処罰しており、離反の動きはあったのかもしれない。奇襲を成功させた盛政の元には、羽柴軍の諸将から協力を約束する文書が殺到したとする史料もある)^
33. 秀吉と敵対した隣国紀伊の高野山や国人衆に対する備えとみられる。
高野山は織田家と敵対し、信長が遂に攻め降すことができなかった強大な勢力だった。
翌年に起きた小牧長久手の戦いでは、紀伊の寺社・国人連合軍が河内国・和泉国(秀吉の新しい地盤)を蹂躙した。^
34. 山路正国がその時に柴田軍に価値のある情報を伝えたとしたら、(長期対陣の間に柴田軍が斥候を出して調べただろう)大岩山・岩崎山・賤ヶ岳の各砦の脆弱さよりも、砦の脆弱さを後詰で補う後方の田上山や木ノ本に駐留する軍勢の規模(羽柴軍の砦群と哨戒に阻まれて確認が難しい)だったのかもしれない。
『太閤記』によると、奇襲作戦を初めに提案したのは山路である。^
35. 盛政が率いた軍勢は、史料によっては1万5千人。
いずれにしても大軍であり、彼らを送り出した柴田勝家には戦局を大きく動かそうとする意図があったことが窺える。^
36. 『太閤記』等によると、柴田勝家はこの作戦を危険と考え、思い留まるよう佐久間盛政を何度も説得したという。
賤ヶ岳の戦いを取り上げた本では羽柴兄弟は柴田軍に敢えて奇襲させ、その部隊を叩き一気に勝敗を決しようと計画していた、とされるものが多い。
そのため作戦の提案・実行者である盛政はまんまと敵の罠に嵌った愚か者として、脳筋扱いを受けることとなった。^
37. 賤ヶ岳砦を守り抜いた桑山重晴は戦後に加増を受け、その後も順調に栄達した。
後の追撃戦に際して、賤ヶ岳砦を保持していたことは羽柴軍にとって大きな助けとなった。
羽柴兄弟が柴田軍を誘い込む策を仕掛けたとする説が正しいとすれば尚さら賤ヶ岳砦は保持すべき拠点だったが、羽柴秀長と田上山の軍勢は賤ヶ岳の救援にも動かなかった。
この事実から、秀吉が大軍を連れて美濃へ移動した後の田上山と木ノ本には、奇襲部隊に対抗できる規模の軍勢が残っていなかった可能性も考えられる。
その場合、羽柴軍にとって最悪の展開は「奇襲部隊に劣る戦力で砦の救援に出向いたところを、待ち受けていた敵に襲われて負ける」ことになる。^
38. 奇襲部隊は岩崎山制圧後の動向が不明。
後述の『佐久間軍記』に羽柴秀長の陣=田上山を攻めるために現地に留まったと記されているだけである。
この辺り、大岩山・岩崎山に居座った奇襲部隊と、街道の反対側にあった田上山砦の羽柴秀長軍との間で、あるいは大岩山襲撃の前から(史書には記されなかった)熾烈な駆け引きがあったのかもしれない。
当時は「敵の城砦を囲み、敵の援軍を誘き出してこれを叩く」、「自陣の兵数を敵味方に対して多く見せ掛け、味方の動揺を防ぎ、敵には攻撃を躊躇させる」といった戦術が盛んに行なわれた。^
39. 帰還に際し秀吉は、沿道の住民に松明を掲げさせた。街道を照らして行軍を容易にすると共に、大軍を率いて戻ったことを敵味方に伝える派手な演出だった。
これにより秀吉の大軍が神速で帰還したと知った奇襲部隊は仰天し、逃げ出したせいで柴田軍は敗北してしまった――という話は江戸時代最初期までの史料の記述には見られない。
上記の説は、秀吉帰還後から幾つかの出来事を省略・編集して記されたものである。
後述の通り、奇襲部隊は撤退戦で追撃してくる羽柴軍相手に善戦した。また秀吉が追撃戦を始めたのは深夜に入ってからだった。
秀吉が行わせた演出は、「大軍を率いて戻ったことを味方や敵に報せるため」ではなく、「大軍を率いて戻ってきたように見せかけて、美濃から軍勢が本当に戻ってくるまで時間稼ぎをして味方の動揺を防ぐこと」が狙いだった可能性が考えられる。^
40. ただし秀吉の近江帰還を知った後も、奇襲部隊はすぐには撤退しなかった。
撤退の準備に時間を要したのか、神速の秀吉軍=強行軍の休息は長時間になると判断したのか、あるいは奇襲作戦の目的=織田信孝の救援を達成したことを確認するために、秀吉が美濃へ連れて行った軍勢の帰還も待ってから撤退を始めたのかもしれない。^
41. この日、月が昇ったのは23時半頃とされる。^
42. 戦国時代の野戦は、敵に対して有利に戦える場所を押さえる陣取りの棋戦が重要だった。
奇襲部隊が後退を止めて布陣したことは、羽柴軍に対して有利に戦える場所まで移動した=勝算を立てたことを意味する。^
43. 特に佐久間安政は策謀の相談相手も務めたとされる。^
44. この史料で示された「退路の確保」、他の史料にも記された「追われる奇襲部隊が追う側の羽柴軍に痛撃を加えた」戦果、加えて『一柳家記』の記述から考えられる奇襲部隊や勝政勢が「大量の矢弾を想定される退路の要所に運び込んだ可能性」から、奇襲部隊は初めから撤退戦も想定した入念な準備を行った可能性が考えられる。
この戦いは柴田軍が結果的に「羽柴軍を堅固な陣地から誘き出して山岳戦に引き摺り込んだ」という見方もできる。^
45. 近江西部にいた丹羽長秀は現代の知名度は今ひとつだが、尾張統一戦の頃から大活躍を続けた名将だった。
丹羽勢の襲撃に備えるためにも奇襲部隊は後方の備えが必要だった筈で、逆に警戒を怠ったとしたら脳筋と評価されても仕方ないことになる。^
46. 奇襲部隊の善戦はあるいは、こうして退路に配置されただろう部隊=疲労が少ない部隊が奇襲部隊に順次合流し、殿軍を交替で引き受けることで実現したのかもしれない。
対して羽柴軍の追撃部隊は全員が長距離を移動しなければならず、特に美濃から戻ってきた主力部隊の疲労は深刻なものだったと推測される。^
47. 荒山合戦の年代が『太閤記』などと異なるなど、『佐久間軍記』の記述には注意が必要。
実際は上記の史料群よりも後の時代に作成されたものかもしれない。^
48. 周知の通り、秀吉は戦後に前田家を厚遇し続けた。秀吉は前田利家の子供たちも大切にした。
最終的に前田家は百万石を超える領地と、徳川家康に次ぐ官位・豊臣政権内の地位を得た。
前田利家は上方に詰めて秀吉の相談役を務めることが多く、豊臣政権を支えた。
秀吉の死後、豊臣子飼いの武将たちも支持する徳川家康に前田利家は対抗し、死ぬまで豊臣の天下を守った。^
49. 『太閤記』には、「前田殿の軍勢が茂山にいてくれるから」と佐久間盛政が後退を止めて布陣し羽柴軍に決戦を挑もうとしたところへ、拝郷家嘉が盛政を諌めてさらに後退すべきだと進言する場面がある。
拝郷が決戦を諌めた理由は「羽柴軍があまりに大軍だから無茶」というものだった。
そして羽柴の大軍に怯えた後方の部隊が逃走し、奇襲部隊は動揺して羽柴軍に敗北した。
盛政は刑死、拝郷は戦死したので拝郷の諫言の部分は創作かもしれないが、拝郷が本当に懸念したのは敵だったのか味方だったのか考えさせられる場面である。
50. 賤ヶ岳の追撃戦で秀吉は奇襲部隊に何度撃退されても諦めなかった。
最後には前田利家が味方になって勝利をもたらしてくれると信じていたのか、あるいは前田勢の行動次第で羽柴軍が逆転勝利できる状況=大手柄を立てる機会を作り出すことで前田利家に決断を促したのかもしれない。^
51. 美濃大返しは驚異的な行軍速度ではあったが、織田信長存命時に信長が指揮した織田軍も似たような強行軍を美濃―近江間で行った。
秀吉はその経験を活かしたのかもしれない。^
52. 天平寺については、前田利家は荒山合戦で焼き討ちし、後に再建を許可したというのが正しい。
天平寺に対する前田家の方針転換は、利家ではなく息子の前田利長が行った可能性が考えられる。^
53. 地図から分かる通り、賤ヶ岳の奇襲作戦は奇襲部隊の後方を誰かが守る必要があった。
佐久間盛政は(内心は疑いを抱いたとしても)前田勢を信じることが前提の作戦を行った。
そうでなければ神明山方面から羽柴軍が進出して奇襲部隊の退路を脅かす事態を防ぐ大事な役割を、別の武将が行うよう進言したはずである。
(北陸で長年共に戦った柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀など)^
54. さらに日本陸軍では北陸地方を管轄した第九師団が北陸地方の合戦を調査し、佐久間盛政の智略や協調性の方を絶賛した。
『第九師団管古戦史』では賤ヶ岳の戦いについて、「盛政に慢心があった」という通説ではなく、逆に「盛政が慎重すぎたせいで戦機を逃した」ことを敗因の一つに挙げている。^