自らが歩んできた音楽の軌跡──Kotoe Suzuki、待望の1stアルバムを独占ハイレゾ配信スタート

ブラジリアン、ラテン・ジャズ、ポップス、クラシックを見事に融合し、独自の音楽を表現するピアニスト「Kotoe Suzuki」。そんな彼女が待望のデビュー・アルバム『Kotoe』をリリースする。今作には、これまでに書き溜めてきた情感豊かなオリジナル曲と斬新にアレンジされたジャズ・スタンダード曲が収録されている。レコーディングには、ベテランから新進気鋭の若手ミュージシャンまで参加し更に強力な楽曲に。OTOTOYでは本作のハイレゾ配信をスタートするとともにインタヴューを掲載。記念すべき今作をぜひインタヴューとともにお楽しみください。
待望の1stアルバムを独占ハイレゾ配信
Kotoe Suzuki / Kotoe
【配信形態】
ALAC、FLAC、WAV(配信形態 24bit/ 48kHz) / AAC
>>>ハイレゾとは?
【配信価格】
単曲 200円(税込) / アルバム 2,000円(税込)
【収録曲】
1. Teardrops from Heaven
2. Bebe
3. Samba da Pergunta
4. Solidấo
5. In the Shower of Rain
6. Nostalgia in Times Square
7. Timeless
8. Invitation
9. Intangible Line
10. The Force of Nature
11. Amazonas
12. Pavane Op. 50
Kotoe Suzuki (Kotoe Suzuki Quartet)「Sin Tiempo (Timeless)」Kotoe Suzuki (Kotoe Suzuki Quartet)「Sin Tiempo (Timeless)」
INTERVIEW : Kotoe Suzuki
3歳からピアノを始めて、現在は音楽療法士として病や障害をもった多くの人々と向き合っている、Kotoe Suzuki。そんな彼女がリリースしたデビュー・アルバム『Kotoe』は12年間のNY生活を経て書き溜め、培ってきたクラシック、ジャズ、ボサノヴァ、ラテンの要素が1枚に詰まっている。クレジットを見て驚くのが、参加ミュージシャンの豪華さ。プロデューサーはラテン・ジャズ・グラミー賞に2回もノミネートされたヘクター・マルティニョン、ベイ・シューや青木カレンを手掛けた塩田のりひで。伝説のパーカッション奏者、ミノ・シネル、サミュエル・トレス、クリストフ・ラファリデスが顔を揃える。一体、Kotoe Suzukiとは何者なのか? 彼女の人生を振り返った。
インタヴュー&文 : 真貝聡
音楽を媒体に何か世界に貢献したり、人の役に立つことをしたい
──今回はこれまでの生い立ちから、『Kotoe』リリースに至るまでをお聞きしたいと思います。
Kotoe : はい、お願いします。
──音楽家のご家庭に生まれたんですよね。
Kotoe : 祖父が独学でトランペットやピアノをやっていて。ジャズのビッグバンドで演奏していたそうです。その影響で母は中学から音楽学校へ通って、声楽を習っていました。父は「ライヴハウス」という言葉の名付け親というか、40年前に日本で初めてライヴハウスを作った人で。
──Kotoeさんは3歳からピアノを習っていたそうで。
Kotoe : そうですね。物心ついた頃には家にピアノがありました。7つ上の姉がいるんですけど、姉が母から音楽のスパルタ教育を受けてまして(笑)。私はその様子を見ながら自分1人で音をさぐりながら弾いていたのが始まりです。

──その後、本格的に音楽の道へ進まれます。
Kotoe : 実家の調布市に小澤征爾さんや中村紘子さんなど、多くの素晴らしい音楽家を輩出した桐朋音楽大学がありまして。大学付属の音楽教室のオーディションを受けて、6歳から音楽の理論、コーラス、ピアノのレッスンを受けていました。
──平日は学校へ行きながら、音楽教室に通われていたんですよね。
Kotoe : そうです。それで中学3年生になった時、本当に音楽一本で行くか決めかねていた自分がいて。悩んだ結果、高校は一般の公立高校へ進みました。
──小さい頃からずっと「音楽の道へ歩もう」と決めていたわけではなく、葛藤があったんですね。
Kotoe : 葛藤は常にありました。コンクールなどにでるレベルになってくると、「いかに上手く演奏するか」を求められたんです。私にとって音楽は自分を表現する場だったですが、技術を高めることで、自分がどんどん音楽と離れていった気がして。「このままやっていて良いのかな」と思うようになりました。そして、音楽よりも自分の身の回りで起こっている社会問題に興味を持つようになって、音楽大学ヘ進まずに一般の大学へ行きました。
──そして上智大学に進学。大学時代、「国際会議で出会った紛争地の人々の奏でる音楽に突き動かされ音楽の力を再認識する」とプロフィールに書いてます。これはどういうことでしょう。
Kotoe : 大学では国際関係法学科という国際法を使って世界平和に貢献することを学んでいて。ある時、オランダのハーグで開かれた国際会議に参加したんです。
──何を話し合うんですか?
Kotoe : 要するに「世界を平和にするためには」という議論をするんです。平和を求める会議なんですが、世の中にはいろんな人がいて。そこで、対立だとか口論や、平和とは言えないような現場も目の当たりにしました。議論が終わったあとに「これで良いのかな……」と会場の近くを歩いていたんですね。そんな時、どこからともなくリズム感の良いドラムの音が聴こえてきて、その音に誘われるように会議のホールへ行ったんです。
──ドラムの音ですか。
Kotoe : 後でわかったのは、コソボという紛争地から来た難民の方たちが会議に来ていて、自分たちの音楽をドラムで表現していたんです。でも、そんなことを何も知らずに演奏に見入ってました。そしたら、私だけじゃなくて、1人、2人とだんだん人だかりができて。気が付いたらみんなが笑顔になって踊っていました。そんな状況を見た時に「音楽ってシンプルに人と人を繋げるし、音楽を媒体に何か世界に貢献したり、人の役に立つことをしたい」と改めて音楽を見つめ直したんです。
患者さんが障害や病気と、どう付き合っていくかが音楽療法の目的
──音楽への向き合い方を変えたきっかけなんですね。
Kotoe : あと、もう1つあります。大学の図書館に『創造的音楽療法』という分厚い本が置いてあって。その本と音源テープに衝撃を受けたんです。
──どんな内容だったんですか?
Kotoe : 人とコミュニケーションが取れず対人的に関わりが持てない、今でいう自閉症の男の子とのセッション音源を聴いたんです。その施設にいるお医者さんやスタッフが、アメリカの有名な作曲家であり、ピアニストのポール・ノードフに「音楽を使って、男の子から何らかの反応を引きだしてくれないか?」と相談したんです。その音源は、ポール・ノードフがその子の声のトーンや、声の持つリズムを即興で汲み取って格闘技のように音楽で対話を図るところから始まります。そしたら、最初は喚いているだけの男の子が徐々に相手のポールの返す音に耳をすませるようになって。そんなやりとりがどんどんコミュニケーションに変わっていったんですよね。次第に男の子の叫び声がメロディになっていったり、ポールの歌声と音楽による働きかけでそのメロディが「HELLO」という音に変わって。

──言葉を話せない男の子が、音楽の治療によって他人とコミュニケーションができるようになったんですね。
Kotoe : 音楽はただ聴かせたり、「私はこんなに上手いんですよ」と演奏をするだけじゃない。人が元々持っている生きる力を引き出したり、コミュケーションが苦手な人にも関わりを持つきっかけになる、と気づいた時に「私は音楽と関わる仕事がしたいし、今までとは違う付き合い方で音楽と共に生きていきたい」と思ったんです。それで、大学を卒業する前には海外へ行く決断をしました。
──どうして海外へ?
Kotoe : ポール・ノードフと一緒に仕事していたクライブ・ロビンズ博士が、当時ニューヨーク大学で教鞭をとっていることをNHKのドキュメンタリー番組(『ニューヨーカー』)で知って。その頃は日常会話レベルの英語もできなかったんですけど「この人に習いたい!」と思って、2001年8月にはニューヨークに飛んでました。行ってみたら、先生は他のスタッフと共に、大学付属の音楽療法センターで音楽を用いて様々な障害を持つ子供さんから成人を治療に取り組んでいたんです。
──すいません。まだ「音楽で治療する」ということが、どういうことか理解できていなくて。Kotoeさんはどのように学んでいったのでしょう。
Kotoe : 音楽療法士を学ぶ1年目のコースはすごくユニークで、あらゆる音楽に対応する技術を身につける授業から、自分が音楽と向き合ってきた音楽史みたいなものを生まれた年まで遡ったり。あとは自分を見つめる作業が続くんですよね。というのは、音楽療法は言葉でのカウンセリングやセラピー、他の治療が向かない人に対する“音楽を使った心理療法”でもあるので、心理学の授業も勉強します。「まずは人を癒す前に自分のことを見つめましょう」ということで学生たちを集めて、自分のための音楽療法をやるんです。
──演奏技術とは違う次元の授業ですね。
Kotoe : 授業は椅子もテーブルもない教室に打楽器から管楽器、ピアノなどいろんな楽器が置いてあって。そこにいる構成メンバーがどんな行動を起こすのかという事実と、どういう音を出したいのか、何の楽器でその音を表現するのか。それを鳴らすことで相手はどう思うのか、そういう一瞬一瞬の気持ちの移り変わりを授業後にうちに帰ってから全部記録して毎週先生に提出するんですよ。その人が起こした行動に対して、自分はどんな感情になったのかも正直に書かないといけないんですね。それに、最初は全然慣れなくて。日本で教育を受けてきたからなのか「今、私は何を思ってるのかな? 嬉しいの? 悲しいの?」という、自分の感情に気づくことが出来なかったんです。そのせいで、他の生徒から「Kotoeは何を考えているのか全くわからない」と言われたこともありました。
──まずは自分を理解することから始まった。
Kotoe : 例えば、心の深い傷、トラウマを持っている人と接するのに、自分の心のトラウマに目をふさいでいたら自分の問題と相手の問題が混在してしまう危険が潜みます。相手を癒しているはずなのに自分を癒す作業をしてしまったら、自分はセラピストなのか患者さんなのか、すごく危ないことになる。だから「自分の問題は自分で処理しましょう」と。その後、私が学校を卒業したのが2004年で、音楽療法士という資格を取って14年になります。
自分が歩んできた音楽の軌跡。それが収録された12曲だと思う
──自身が鳴らした音楽が相手に伝わっていると、どこで分かるものなんですか? 言葉で会話ができないなら、その判断は難しい気がして。
Kotoe : 患者=クライエントさんの目の前で即興演奏をして、相手が反応をしたら「今、こんな感情でいるのかな」と表情や仕草から分析します。さらに、その患者が目の前にあったバチで木琴を叩いたとしたら、それをモチーフに音楽を作っていくんです。今度は音を発展させて、メロディーやハーモニー、さらには歌詞をつけて一緒に歌ったりすることもあります。グループならメンバーがやりがいを感じて合奏ができるように、アレンジしたりもします。障害とか病気というのは完全に治癒できるものではなく、どうそれと共に生きていくかが焦点になる。その人らしい表現を引きだし、より良く生きていく糧となるようサポートしていく、それが最終的な治療の目的です。

──本当にデリケートな作業ですね。そこから現在の音楽活動はどのように繋がったのでしょう。
Kotoe : 音楽療法士の仕事をニューヨークでやっていた時、特殊学校だったり、脳損傷やアルツハイマーのある高齢者の方の施設や病院など、いろんな場所でやってきたんですけど。キャリアを重ねていくうちに、果たして自分が大学生の頃に聴いたポール・ノードフのように、自由で創造的に音楽を出来ているのか疑心暗鬼になった時期がありました。「自分の音楽を耕してないと、仕事の場でも自分のクリエイティビティがどんどんなくなる」と自信をなくしたんです。これは自分のためにも音楽をやらないとダメだなと思いました。
──なるほど。治療のためだけに音楽をやっていると、逆に表現の幅が狭くなったわけですね。アーティスト活動はどのように始まったんですか?
Kotoe : バリー・ハリスという有名なジャズ教育家が立ち上げたジャズの寺子屋がハーレムにあって、そこに1年通いました。あとは教会へゴスペルを聴きに行ったら感動したんです。「人のために音楽を聴かせよう」というよりも、「音楽があるから自分は生きているんだ!」みたいな喜びに満ち溢れた表情で皆歌っている姿に胸が熱くなりました。
──幼少期から本格的な音楽指導を受けてきたKotoeさんだからこそ、自由に音楽を楽しむ姿勢に心を動かされた。
Kotoe : クラシックの音楽をやっていたのもあって、昔は正解とか不正解に対して敏感になっていたし「どうあるべきか」に縛られてました。だけど、音楽療法の世界に入った時に、音楽に正解も間違いもないと思ったんです。鳥のさえずりも、子供の金切り声も音楽になりうるというか、音楽の定義が広がりましたね。
──そこが他のアーティストと違う面ですよね。ちゃんと音楽理論を学んだ上で、感性を大事にされている。
Kotoe : そうですね。
──『Kotoe』はどのような経緯で生まれたのでしょう。
Kotoe : 知り合いに高校生の息子さんを持つ方がいまして。「今、ラテン・ジャズ・グラミー賞に2回もノミネートされているすごい先生に習っているの」と聞いて。私自身、リズミカルな音楽には惹かれていたので「その先生に習いたい!」と思ったんです。それで、次の日に先生のところへ行って、個人レッスンの相談したら「僕は子供しか今教えてないけど、大人の生徒でも良いよ」と言ってくれたのが、今作のプロデュースをしてくれたヘクター・マルティニョン。彼との出会いが私の中で音楽表現へ向かうきっかけになったんですよね。
最初に彼が弾いてくれたのがショパン。そこからアントニオ・カルロス・ジョビンを境目なく弾きだして、リズム展開がクラシックから、急にブラジリアンのボサノヴァになるようなアレンジをしてくれたんです。その時に「あなたがやってきたクラシックの音楽は、ジャズにも繋がってるからそれは活かした方が良い。僕も両方やってきたんだよ」と言われて。そこで自分のやってきた音楽を肯定するきっかけになりました。『Kotoe』は2016年に夫の仕事の都合で日本に帰ることが決まっていたので、今までの集大成としてニューヨークで録音をさせてもらいました。
──『Kotoe』に込めた想いは何ですか。
Kotoe : 自分が歩んできた音楽の軌跡。それが収録された12曲だと思うんですよね。もしも、あのまま音大に進んでいたら、全然また違った道があったと思うし。もしも音楽療法士をしていなければ、こういうアルバムを作れなかったかなと思うんです。そういう意味では、私のアイデンティティが詰まっている作品になってます。
──ちなみに、現在はアーティスト活動もされながら、音楽療法士もなさってるんですよね。
Kotoe : そうです。音楽家であり音楽療法士であることは一生変わらないです。今後はどのような活動をしていくのかは未知の部分で、今まではセラピストとして人の表現を助ける立場にいて、今、自分の自己表現をしたい気持ちが強く出ている時期でもあるので。今後はどの面が強く出るのか自分でも楽しみです。
──そして6月30日からライブ・ツアーも始まりますね。
Kotoe : ギターは西山HANK史翁さん、ベースは塩田哲嗣さん、ドラマーは木村紘くんを迎えて、6月30日に南青山MANDALAと高知県のライラホールで連続公演をします。ぜひCDだけじゃなくてバンド演奏も生で体感してもらえたら嬉しいです。
『Kotoe』のご購入はこちらから
【配信形態】レーベル Hamilton Heights(ハミルトン ハイツ) 発売日 2018/02/07
01. 02. 03. 04. 05. 06. 07. 08. 09. 10. 11. 12.
※ 曲番をクリックすると試聴できます。
ALAC、FLAC、WAV(24bit/ 48kHz) / AAC
【配信価格】
単曲 200円(税込) / アルバム 2,000円(税込)
【配信ページ】
https://ototoy.jp/_/default/p/111482
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南壽あさ子 / forget me not 【通常盤】(24bit/96kHz)
郷愁とともに蘇らせてくれる不思議な魅力の歌声を持つ南壽あさ子。約2年ぶりのオリジナル・アルバム。「勿忘草の待つ丘」で歌われているこのメッセージは、「君には出来ない」そんな事を言われる事が多くなっている現代の琴線に「ともに歩んでいこう。あせらず、ゆっくりと…」そんな思いと共にそっと触れる。“forget me not”、南壽あさ子がそっと手を差し伸べる。
ピアノとゲスト・ミュージシャンたちの化学反応を、生々しいDUOフォーマット中心に収録。ギタリスト“馬場孝喜”との珠玉のスタンダード、ホセ・ジェイムズとの未発表曲を収録するほか、気鋭の作編曲家“挾間美帆”がアレンジを施したオペラ曲「柳の歌」では、TVで話題の〈ぱんだウインドオーケストラ〉のメンバーも参加するなど、クラシック界とのコラボも見逃せない。
自宅のピアノでレコーディングされた10曲からなる完全即興演奏の今作は、タイトルの通り“弱い音”から“強い音”までを指先の赴くがままに任せ、自由自在に操り、心象風景および感情の起伏を繊細かつ大胆に表現し、解放させている。“piano”から“forte”へ向かって疾走していく様は、まるで幻想の世界から次第に現実味を帯びて続いていく“永いひととき"のようである。Takuro Kikuchiの真骨頂である即興演奏の世界をぜひ堪能して頂きたい。
LIVE SCHEDULE
1stアルバム『Kotoe』リリース・ツアー2018
東京公演〈One Man Live〉
2018年6月30日(日)@南青山MANDALA
時間 : 開場 18:00 / 開演 18:30
料金 : 前売り 3000円(+1drink) / 当日 3500円(+1drink)
※学割有り (学生証ご提示にて、1000円キャッシュバック)
高知公演
2018年07月01日(日)@ライラホール(イオンモールOpus内)
時間 : 開場 17:30 / 開演 18:00
料金 : 前売り 3000 円 / 当日 3500円
※学割有り (学生証ご提示にて、1000円キャッシュバック)
出演 : Kotoe Suzuki / 南壽あさ子 お問い合わせ : 曼荼羅音楽出版 0422-23-5214
PROFILE
Kotoe Suzuki

東京生まれ。ジャズ・ビッグ・バンドのトランペット奏者だった台湾人の祖父、老舗ライヴハウスのオーナーの父、声楽家の母をもつ影響で3歳からクラシック・ピアノを始める。内向的だった幼少の頃から、即興演奏や作曲を通じて心の声を表現してきた。2001年、音楽療法士になるためNYに渡米し2008年に再渡米。本格的な創作、演奏活動を始めたのはNY生活計10年を経た2012年頃から。音楽療法士として病院に務める傍ら、ハーレムに居を構え、〈ジャズ Mobile〉でジャズ・ピアノを学び、ヘクター・マティニョンに師事。様々な音楽スタイルに触れてきた経験からオリジナル曲を創作。自身のバンドでトップ・ミュージシャンたちと、NYの“DROM”や“Somethinʼ Jazz”などで単独ライブをしてきた。