中国・韓国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:43 UTC 版)
古代中国では都城制が発達し、東西南北の城壁に城門が設けられていた。2008年には漢代の長安、直城門の発掘調査が行われ、黄土をつき固めた版築工法によって作られた長さ20メートル、幅32メートルの城門であったことが判った。張衡の「西京賦」にあるとおり、長安城には東西南北に3門ずつ設けられ、それぞれの門が3つの門道を持ち、計36の門道があった。門道は幅約8mで当時の車幅4台分に相当していた。門道の両脇には木製の門柱が立てられ、梁を組んで上部の版築と門楼を支えていたという。門楼奥(もんろうおく)に中庭を囲み、中心軸上に左右対称に配される。 唐代長安城の皇城へと続いていた含光門の遺跡では、長さ37メートル、幅19メートル、高さ8メートルの版築構造であったことが判明している。版築は城壁、城門だけでなく建物の土台や土塀などに古くから使われていたが、表面を磚(煉瓦)や土磚(日干し煉瓦)、石材で覆う工法も漢代には一般化しており、明代に入り煉瓦の生産量が増加すると、城門や城壁に広く利用された。版築を煉瓦や石材で覆う工法は、中国の支配領域が南方の多雨高湿な地域にまで広がったことと関係があるという見方もある。明代の西安城壁は規模こそ唐代の9分の1となったが、高さは12メートル、厚みは20メートル近くで、全体が石と煉瓦で覆われている。城門は半円形の小郭である甕城(おうじょう)を備え、闕楼・箭楼・正楼からなる三重の門楼を設け、門道はアーチ工法によるトンネルとなっている。 城門は都市城壁の急所であり、特に壁を厚く高くして、箭楼や甕城により防備を固めた。一方の寄せ手は破城槌や攻城櫓などを使って門楼や城門を攻撃した(→攻城戦)。近代にいたり中国が清朝の支配に入ってからも、城壁と城門の重要性は引き継がれ、北京城では外城7門、内城9門、皇城には4門が設けられた。内城の正門である正陽門は皇帝専用の城門としてその威容を誇り、皇城には天安門、地安門、東安門、西安門の4門が設けられたが現存しているのは天安門だけである。 西安城の甕城 紫禁城(北京宮城)の午門。両翼前面に伸びた城闕(じょうけつ)が特徴的 韓国の水原城甕城 城門と同じ幅で出来ている塞门刀车(塞門刀車)。これを城門に押し込み、即席のバリケードとして隙間から槍・矢で対抗した。
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