はてなキーワード: 主食とは
米価が上がってこんなデマを目するようになった。
輸入米は関税がかかっても日本の米より安い!だから日本の米価は異常に高い!!利権だ利権だ!!!
間違ったコメントのイメージ
これは間違いで
以下に解説しよう。
国産の安いブレンド米が1kgあたり500円程度。仮に最終小売価格だけで考えたとしても、これより安いというと1㎏辺り150円になってしまうという時点で何かがおかしいと気づいてほしいものだが、今市場で出回っている米には、ほぼ関税がかかてっていない。
なぜかというと、非関税枠があるから。これをミニマムアクセス枠という。
これは、ウルグアイラウンドでの交渉の結果設けられたもので、コメの関税を維持する代わりに、一定量を無税で義務的に輸入するとい制度だ。
政府はこれを「加工用や飼料用として使う」として一般には流通しないのだ、と説明してきたが、実はさらにこの中にSBS輸入米という分類がある。
このSBS輸入米というのは、要するにそのミニマムアクセス枠のなかで、一般に流通させることのできる米を非課税で輸入できる制度である。(一応有名無実の「業務用に限る」という規制はある)
今国内で出回っている輸入米のほとんどはこのSBS輸入米なので、関税はかかっていないのだ。
また、外国産の米は日本の米より高い。例えばよく言われるカリフォルニア米の落札実績では、1㎏あたり250円ほどになる。
同じ条件で日本は170円ほどになるのでカリフォルニア産のコメは価格競争力はない。ところがアメリカから要求される義務枠があるため、政府はこの高い米をずっと買っている。
タイ米などはさすがに日本米よりは安いが、種類が全く異なるので主食用にはならない。
さて、こうして購入されたミニマムアクセス枠の米は、通常、国内の市場に影響を与えないため、という名目で一般市場には流れず、加工用や飼料用として流通する。
この時の価格は入札によって決まるのだが、この価格はすでに輸入価格よりも安いのである。毎年数百億円規模の逆ザヤになっており、赤字である。
この数百億円は実質的な補助金として作用していて、輸入の加工用米が安いという状況を作っている。
最近この輸入米の入札に参加する企業が増えて、MA米の落札価格が上がっている。国内加工用の米も値上がりしているから補助金付きのMA米を検討する業者が増えたからだ。
結果、最近、国産の加工用米よりもMA米の落札価格が高くなるという現象が発生している。
国産の加工用米、飼料用米は国から補助金が出ている代わりに加工用飼料用以外で流通させることが禁じられているという米なのだが、それに対してMA米のほうが高くなったのである。
それでなぜMA米が売れるかというと、国産の加工用米も減っており不足しているということ。
そして、特に今までMA米を利用してきた企業では、加工や生産のレシピが輸入米を前提にしているため、国産の加工米で簡単に代替できないからである。
タイ米系統の品種は1㎏あたり35円くらい、カリフォルニア米、台湾米も、1kgあたり600円くらい。無関税でだ。
その間、「うどんおいしい…瀬戸内海の幸おいしい…」だけで気を紛らわしてたように思う
離れて分かる香川の異常性
・食生活の違い
しかも香川ネイティブの人はうどんをほんの数秒で食べきってしまう 美味しさより喉越しを楽しんでいる(何度も言質を取った)
お雑煮にあんもちを入れてしまうセンス(これに関しては当人たちも恥ずかしそうだった)
あと人気のラーメン店がことごとく不味かった(何の変哲もない塩ラーメンが一番うまかった)
骨付き鳥は自分にとって塩辛いだけだった …そんなにありがたかって食べるほどでもないはずだが、香川原住民とは話を合わせる必要があった(骨付き鳥美味いよな圧が高い)
・車社会
どこに行くにも何をするにも車
香川で最も都市化されているはずの高松のビジネス街に通勤するのもみんな車
方向指示器を使わない
踏切は止まらない(線路がすべて単線であるため、踏切の幅が狭いことも影響しているかもしれない)
車に乗ると人格が変わってしまう人ばかりなのかと疑う 運転が荒すぎる
・方言(アクセントが関西弁に近い コテコテの大阪弁のような話し方をする人も少数存在する)
・山間部の闇
休日に気分転換で、行く当ても決めずにドライブをしてみたことがある
山道を行くと上下水道が通ってなさそうな山村にたどりつくことが何度かあった
まるでタイムスリップしたかのような感覚を味わえた グーグルマップで調べると今もそれらは点在し続けている
四国以外の都市部で暮らしていると当たり前のように享受できるはずの最新の現代的なサービスやインフラがそこには存在しない
彼らはこれからもそこで生きていくのだ 何となく香川全体を俯瞰できたような気持ちになった
もしかすると四国こそが日本で最も時間の流れが遅い地域なのではないだろうか
つまり、現代的な時間感覚や文化に対して抗っているフロントラインが香川(高松)ということなのかもしれない
衝突を楽しみたいなら行くべき
増田は、深海探査用の小型潜水艇の窓越しに、暗闇の中に浮かぶ光の粒を眺めていた。
「34歳で独身。将来…俺はどうなるんだろうな」
心にぽっかりと穴が空いているような孤独感に苛まれる毎日。そんな彼が今回訪れたのは、深海レストラン「ディープテーブル」。
「深海で料理を味わう…なんだか不思議な気分だが、それがいいんだよな」
潜水艇がゆっくりと光り輝く球形の建物に接続される。そこは、深海4000メートルの世界にぽつんと浮かぶ不思議な空間だった。
球体の建物に入ると、内部は落ち着いた木のインテリアと青白い照明に包まれ、窓の外には暗闇の中で光る深海生物がちらちらと泳いでいる。店内には無言で動くロボットのスタッフが数体。彼らが給仕を担う姿には、静かな哀愁が漂っている。
「いらっしゃいませ。本日は山の幸をご堪能ください」
冷たい機械音の案内を聞きながら、増田はメニューに目を走らせた。信州から取り寄せた食材を中心にした山の幸の数々が並んでいる。
「ふむ…深海で味わう山の幸か。これは興味深いな」
増田はあれこれ考えた末、気になる料理を次々とオーダーした。ロボットが無言で配膳する様子に一抹の寂しさを感じつつも、目の前には豪華な山の幸の料理が並ぶ。
香り高い信州そばに、カリカリの山菜天ぷらが乗り、つゆと絡んで最高の一品に仕上がっている。
舞茸、しめじ、エリンギが香ばしく焼き上げられ、塩でシンプルに味付けされている。
柔らかくジューシーな鹿肉に、信州産のハーブを使った特製ソースがかかり、絶妙な風味だ。
「うん…香りが食欲をそそるな」
山椒のピリッとした香りが特徴的なご飯は、ふっくらと炊かれ、鶏肉の旨味が染み渡っている。
パリッと揚げられた春巻きの中に、チーズの濃厚さと野沢菜の塩気が絶妙にマッチ。
もちもちの生地に甘辛いくるみ味噌が詰められた一品は、懐かしさを感じさせる味だ。
フレッシュなリンゴと胡桃、特製ドレッシングが絶妙なバランスを生み出している。
ぷるぷるのわらび餅に、濃厚な信州黒蜜がたっぷりとかかり、舌の上でとろける甘さ。
増田は次々と料理を平らげていった。しかし、途中でふと気づく。
「うーん…そばと炊き込みご飯で主食がダブってしまったということか」
すでに腹八分を超えていたが、目の前の料理が残っている。箸を止めるわけにはいかない。だが、最後のデザートを前にして、ついに満腹感が頂点に達した。
深海の暗闇を背景に、増田はゆったりとした時間の中でふと考える。
「こんなに美味しいものを食べても、将来への不安は消えないな…いや、そうじゃない。この瞬間だけでも幸せを感じられれば、それでいいんだ」
外には光を放つクラゲや小さな魚たちが漂い、静かな世界が広がっていた。
食事を終え、深海のレストランを後にした増田は、再び潜水艇に乗り込んだ。外の窓には暗闇の中、ぽつんと光るレストランが遠ざかっていく。
「これだけ贅沢な料理を食べても、やっぱり心の穴は埋まらないんだな…」
「34歳年収700万、貯金は3000万しかない。これからの人生どうなるんだろう。老後は? いつか仕事がなくなったら? それ以前に…この孤独はどうする?」
暗い海の中で、潜水艇のモーター音が響くだけだ。レストランの機械的なロボット店員たちが脳裏に浮かぶ。
「あのロボットたちも、孤独だったのかもしれないな…機械にだって感情があれば俺と同じように寂しいと思うのかな…」
誰とも言葉を交わさず、ひたすら料理と向き合う自分の姿が、どこか無機質で哀れに思えた。
「結局、何を食べても、何を持っていても、この孤独は変わらないんだよな。こんな気持ちで俺はどうやって生きていけばいいんだろう…」
地上への帰路、深海の闇が増田の心に重なるようだった。静寂が深まる中、増田はぼそりと呟いた。
「弱者男性の俺がこのまま孤独で人生終わるなんて、笑えないよな…」
目を閉じても消えない不安と寂しさ。それでも、潜水艇は黙々と地上へと進む。いつもの生活に戻るために。
「今日の飯も美味かったけど、誰かと分け合えたらもっと良かったんだろうな…俺には、それがないんだ」
潜水艇が地上に到着すると、増田は一人、冷たい夜風を浴びながら深呼吸した。
「孤独な俺に、今日みたいな贅沢は分不相応だったのかもな。でも、またどこかで、こんなひとときを楽しめる日が来るといいな…」
昔から赤飯が好きではあったけど、米不足で白米のパックご飯も品切れになってた時パックの赤飯まとめて何個か買って、それ以来常食するようになって今では主食。俺は1日2食なんだけど毎日2パック必ず食うし、間食夜食でも食う。
それで思ったんだけど、同じような奴結構いるんじゃないかな。スーパーのパックご飯売り場って、白米に次ぐ2番手を玄米ご飯と赤飯が争ってないか?俺が行くスーパーでは3種類の赤飯が置いてある。主食にしてる奴がそれなりにいないとこうはならないんじゃないか。
その割にパック赤飯グルメみたいな情報はあんま見ない。アレンジしようがないのかな。確かに俺もごま塩かける以外の食い方をしたことはない。
俺はもち米が好きなだけなんで赤くなくていいんだよな。あずきは欲しい。そういうの売り出してくれんかな。
ちなみにおれの実家は米農家なので、これまでの人生パックごはん以外の米を買ったことはない。実家からは米5キロ(に何年か前から減らしてもらった)送ってもらうと全然減らなくて1年以上保つ。パック赤飯以前もパックご飯ばっか食ってたんだよね。ただ俺にも良心はあるので、親にはパックご飯ばっか食ってることを言えてない。麺類とパンが大好きな米農家に生まれた突然変異みたいなキャラで通してる。そういうキャラの方が同じ米であるパックご飯主食野郎よりも自称しやすいというのも皮肉な話だ。
もう何年も食べてなかったけど、家族が珍しく買ってきてたし他に朝ご飯の主食になるものもなかった(1から用意するのも面倒だった)から食べることにした
なんかマーガリン入りって書いてあったからパンを半分に切ってみたら1個に対する量とは思えないほどマーガリンが詰められてたからスプーンで取り除いた
それから温めて食べたけど、外側は変な風に硬くてゴムみたいなグニグニした食感で内側はパサパサでなんか甘い
あと取り切れなかったマーガリンがしみた部分がベショベショしてた
あまりにもまずかったから次からは面倒がらずに主食ポジションのものをちゃんと用意することにした
あんなの食べるんじゃなかった…
黒羽の10工場は、手提げ袋を作るところで、作業強度がちいさいから、5等食で、1800キロカロリだろう。
※ 受刑者の処遇は,特殊な拘禁環境下で行なわれるので,身体,精神両面に対する衛生的配慮を忘れることはできない。また,日常生活の必需物資である,衣類,寝具,日用品,食糧などは,受刑者には,給貸与されるが,これらのものの管理には,科学的な注意が払われている。給食については,健康管理上,最も重視し,主食偏重の欠陥を是正して,その改善に努力している。刑務所における,主食は,原則として,米四,麦六の割合で,性別,年齢,従事する作業の強度などによって,五等級に分けられている。一等食は,一日三,〇〇〇カロリー,五等食は,一日一,八〇〇カロリーといったように,その熱量が定められている。副食も,一日六〇〇カロリー以上を確保することが要求されている。
今回のアメリカ大統領選でハリスが負けてトランプが勝った、というのはつまりそういう事。
もっとさかのぼると東京都知事選で蓮舫が負けて小池百合子が勝った、というのもつまりそういう事。
何故か?
それは、「それなりの数のリベラルがフェミニズムに嫌気がさしているから」これに尽きる。
トランプが勝った、というよりもハリスが負けた、という事が重要なのである。
蓮舫とハリスに共通しているのは、「最初はある程度の支持率を持っていたが、時間と共に支持を失い大敗した」ことである。
そして、彼女らに共通しているのは、「フェミニズムやポリコレ、DEIに傾倒していた」という話である。
少し話が飛ぶが、立憲民主党では、代表選で野田佳彦が勝利したが、この時彼は、若手女性候補である吉田晴美に推薦人を出している。
様々な意図があったと思われるが、一つクリアになったのは、彼女への投票者の多くは「フェミニズムへのコミットメントが高い」という側面が強いこと。
推薦人一覧 → https://www.tokyo-np.co.jp/article/356101
当時の国会議員56人/270人(21%)であり、党員・協力党員票では26票/185票(14%)。
党の支持者は、上層部が考えてきた程フェミニズム的なものや「若い女性が社会を変える」というムーブメントには興味が無く、冷ややかな反応を示している。
見ようによっては、野田氏はフェミニズム議員の勢力と「身の程」を可視化したともいえる。
そして、野田氏は総選挙ではフェミニズム的な主張を抑え込んで政権交代と裏金追及を主張して勝利した。
ベタな夫婦別姓というテーマだけを表に出し、「フェミニズム」は前面に出さなかったわけである。
何故かと言えば、フェミニズム的な政策を標榜した蓮舫が東京都知事選挙で大敗したからであろう。
もっと言えば「フェミニズム」は、あまり票にならないのである。
岩盤支持層はフェミニズムを標榜しなくても立憲民主党に投票する層であり、フェミニズムが党内で過大評価されてきた、という話でもある。
何故フェミニズムが過大評価されてきたか、というと、それは安牌だったから、と推測できる。
お金が絡む利権を動かす(公共事業の扱いや軍事の扱いなど)のは難しいが、「男女差別をなくしましょう」という主張は、そういう既存の組織との軋轢なく行う事が出来る。
「女性が不当に力を抑え込まれている」という主張には抵抗しにくいし、フェミニズムだから票を入れてくれる、という層もいる。
しかし、フェミニズムを政治の主食にすべきかどうか、という局面では、NOが突き付けられた。それが東京都知事選挙における蓮舫の敗北だったわけである。
立憲民主党と共産党のフェミニズム勢力が手を組んで大々的に押し出した蓮舫キャンペーンは、かなりの反感を買い、まさかの3位に終わった。
フェミニズムやポリコレは、安牌ではあったものの、優先順位の一位という程のテーマではないのである。
もっというと、リベラル勢力の中でもフェミニズムは嫌われ始めている、というのが実態だと推測する。
フェミニズムの多くの主張者は、「自分の勢力に甘く、相手の勢力に厳しい」
LGBTをフェミニズムサイドに入れるか、敵サイドに入れるかでフェミニズムが内ゲバを起こしているのも、自分サイドか敵サイドかで扱いが180度違うから。
その底の浅さが明らかになってきている。
現状の多くのフェミニストの振る舞いは、リベラル的な寛容とは最も程遠いふるまいであるのも確か。弱者男性という概念に対し、ただ無視するか攻撃する選択肢が中心になっているのを見ても、理論的基盤の弱さを感じざるを得ない。
東京都知事選挙における蓮舫の敗北は、「女性だからダメ」ではなく「フェミニズムを前面に出したからダメ」という現実を浮き彫りにした。
総選挙でフェミニズムを抑え込んだ立憲民主党が躍進したのもつまりそういう事。
そして、圧倒的有利な立場でスタートしたはずのハリスがここまで大敗したのも、つまりはそういう事なわけですな。
フェミニズムはバブルだったし、そこまで喫緊の課題ではなかった。それが民意で示されたという事。
コメントにもいくつかお返ししとく。
hunglysheep1 フェミニズムに傾倒してる共産党も更に議席を減らしたし… https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-09-07/2021090702_06_0.html 受け入れがたい議員もいるとは思うが現実を受け入れた方が/ともあれ目を逸らさせる意見が優位になるだろう
もともと「フェミニズム」を旗頭にしても勝てない、という状況は今に始まったものではない。2021年にその予兆を確認することは出来た。
2021年の東京12区に出馬した「党都常任委員・ジェンダー平等委員会責任者」として出馬した池内沙織候補が落選している。これ以上なく「フェミニズム」を旗頭にしている人物である。
https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/shugiin/2021/13/
結果はこちら。
彼女がどういう人物か、という事はここでは掘り下げない。少なくとも元職である以上、有力候補としてみるのが妥当であるためだ。
当時のこの選挙の構図は「公明1・維新1・共産1」であり、マクロ的には自民と立民の票が3者に分かれる(+維新支持者の票が維新に流れる)構図である。
客観的に見て、立民支持者の何割か+共産党支持者の票を合わせてもなお、28.4%というのは多いとは言えない。右寄りの票が岡本氏と阿部氏で分かれる事は容易に想像が付くが、左寄りの票は池内氏が集められる構図である。
自民・維新・共産で争っている東京20区の宮本徹候補と比較すると、状況がよりクリアになる。
惜敗率は異なるものの自民・維新候補の得票の合算と共産の得票で比較するとほぼ同じであった。
つまり、フェミニズムを選択しても、選挙に影響するほど票が増えることは無い というのが2020年代の現実なのである。
ということを噛みしめる必要がある。
トップを女性に差し替え、フェミニズムへの傾倒を深めても、残念ながらガツンと支持を失ったのが日本共産党の現実である。
マジで、「消費税やめろ」をスローガンに、代表がふしぎなおどりを踊ったれいわ新選組に支持を丸ごと持っていかれた現実を直視したほうが良い。
フェミニズムを叫ぶ勢力を党内に掲げながらも軸をブラさなかった彼らの方が、ずっと共産主義的なイデオロギーを標榜しているし(本人たちが同意するかは別として)、実際に選挙に勝っている。
フェミニズムがどれだけ票になるのか、という事を測る上では、表現の自由サイドに居る山田太郎参議院議員の活動が参考になる。
「表現の自由」ワンイシューで参議院議員選挙に立候補し、比例54万票を得た。
フェミニズムが本当に価値があるというのならば、それを票数にして可視化すればよいのである。
現時点では、「大して票を稼げるわけでもなくアンチも多い」フェミニズムが政治において実力以上にデカい顔をし過ぎであった、というのがわかった、という話である。
別に票にならないテーマであるという事が明らかになった以上、身の丈に応じたふるまいに改める局面にきている。
こっちに追記の続きを書いた。
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。