http://sankei.jp.msn.com/photos/politics/situation/091019/stt0910192201013-p1.htm
はっきり言って増田は非常識だと思うよ。偉そうなことばっかり書いてるけどさ。
私も数年前に結婚式と披露宴をして、そのとき姉が当時1歳の息子を連れて参列したのね。
うちは新郎も新郎の両親も「赤ちゃん大歓迎!」って笑顔で受け入れてくれたけど、それでも私はものすごーく新郎側に気を使ったよ。
赤ちゃんが機嫌良くいてくれるよう入念に準備もしたし当日は心の中でずっと祈ってたよ。
新郎側には事前にも当日にも事後にもお詫びとお礼を自分なりに尽くしたよ。
なぜなら「赤ちゃんを連れて結婚式、披露宴に出席するのはマナー違反」という一般常識があるから。
いくらその赤ちゃんが新婦の姉の子でも内心では「赤ちゃんが泣き出したらちょっとな」と思われても当然のことだから。
増田は「俺の家族の赤ちゃんは絶対に笑顔で受け入れられるべき。俺は赤ちゃんが新婦側でも同じ対応をしたんだから、俺の正義は身びいきなんかじゃない」と思っているようだけど、そういう問題じゃないんだよ。
もちろん、分かるよ。私も赤ちゃんはかわいいし、姉が赤ちゃんを連れて遠くから来てくれて大変だっただろうな、本当にありがたいな、と思ったし、だから姉には個別に私なりに最大限配慮やお礼もしようと思ったし。
でもね、「赤ちゃんは結婚式、披露宴を遠慮すべし」という一般常識がある以上、自分の親族が赤ちゃんを連れてくるなら相手方に対して配慮をすべきなのは当然なんだよ。何の配慮もせず「俺の甥or姪を受け入れるのは当然、てか正義」なんて当然のごとく押し付けるなんて、どんだけ子供なんだ。
配偶者側に対して世間の一般常識程度の配慮(こんなの配慮として最低ラインだ)もできない・しないなんて、いい大人が非常識なんだよ。善悪以前の問題だよ。
嫁も赤子の列席が嫌なのじゃなく、泣くから嫌なんだろうな。
赤子を排除しているわけじゃなく、突発的なアクシデントが嫌なんだろうかな。
まぁ、全くの横だけど
自分のこととして置き換えて考えてみたら・・・
まともに収入得られない人が人並みの暮らしができると思うことはおかしいと思おう。
ええー?生存権・社会権に関して元増田がどのような意見を持っているのか聞いてみたいな。
「人並みの暮らし」をどのように定義するか、にも拠るけど、そこの定義にはっきり言及せずに無邪気にこういうこと言うのはちょっとどうなの。心情的にはわからなくもないけど、そういう心情をそのまんま社会に適用しようとすることは凄く危険なんじゃないかなあ。そういう「素朴な感覚」みたいなスパルタ式思考は、社会全体をまとめて地盤沈下させていく可能性を孕んでいると思う。庇護を求める層への救済を減らす態度は、庇護を求めなければならない層を減らすことには繋がらず、むしろ庇護を求めなければならない層を再生産することに繋がるのではないかしら。
今、生活を守るとか安楽に暮らすって基準が上がり過ぎだと思う。
社会が進歩すれば、その分基準が上がるのはごく普通のことじゃないかなー。例えばPCであるとか、携帯であるとか、そういうツールに対する適性は現代社会を生きて行くに当たって非常に重要な技能だと思うのだけど、基準を低く保ったままでは、より酷い技能しか持たない人しか生まれないわけで。元増田が問題視したような旅行・化粧などはこういう技能には当たらないだろって反論も返って来そうだけど、文化的な素養・経験も一つの技能としてみなしうると思うし(ていうか、旅行はまだしも、化粧は職業上必要になってくることもあるわけで…そういう社会のありようをどう考えるかはまた別の問題だけど)、スポ根じゃねえのだから、貧乏人は焼肉とか食ってねえでガマンしろよ、みたいなのも歪んだ社会観を抱えそうでやだな。別にいいんじゃないの、焼肉ぐらい食っても。ていうか、そりゃ焼肉食ってるところだけ見りゃ腹も立つかもしれんけど、そういう貧乏人がそれ以外のところでガマンしてないという保証もないわけで。いちいち道徳的に非難する意味はやっぱりよくわからん…。
あと、オチの文章もどうかなあ。
「普通に勉強して並より上の大学行って普通に働いて家族養いたのに、なんでバカのために税金使われなあかのやって」
もっと頭のいい、優秀な人から同じことを言われたときにも、それを受け入れるつもりなのですか。
くだらなさすぎてワロタw
増田は小せえ男だなぁ。オレが女だったら本気で離婚を考えるわ。
正直こんなしょうもない事でお互い意固地になってるとホントに離婚するぜ?
こんなクソくだらない事で一生根にもたれるデメリットが分からないのか?
ここで意地を通すくらいなら離婚した方がいいぜ?どっちみち離婚する事になるだろうから。
とにかくくだらなさすぎてワロタ。
ネット上で見かける活字の関西弁ってどうしてこうも下品に見えるのか
気持ち悪いのでやめてもらいたい
分かち書きと同じくらい気持ち悪い
一連の投稿を読んで学んだこと:
大雑把な話以外は嫁さんに殆ど投げてるしなぁ。ワタシは(汗)
主役張って張り切ってくれるんだったらそっちの方が決定がスムーズだと思ってね。
投げっぱなしは流石に怒られるけど、嫁さんに逆らうなって事は無い。
変に意地を張らない方がラク出来て良いよ。
(こういう時リベラル女性陣からの批難ってのはキツいけど、ヤバかったらとりあえず謝っとけ。彼女らの恨みってそこまで根深く無いし、下手に返り討ちにしないほうが身の為でスゾ、鬱にでも成られたら男としては”詰み”いや、”罪”ですからなぁ。)
〜T.H.
最近は「オカマ」とかも自称してる人を除いては言ってはいけないらしいから、「この人は自称してるからOKなんですよ」っていう注意書きなんじゃないかなあ。
親のためなら社会秩序もへったくれもない、というのが、その節の主旨だ。
「大切な人」は親限定。
舅に飲ませた嫁が激賞される、それが中国の孝道。
オタクでない立場から、『「自称」オタクの皆さんが秋葉原に集まり…』というようなマスコミ的な用法の話のつもりだった。
おれはオタクを自称してるけど、とか、自称オタクの私ですが、というような用法は考えていなかった。
しかし、卑下の成分が入らないで、自ら名乗っている、自ら認めている、という意味を表すときの言葉は
「自認する」か「自任する」だと思う。日本語の使い分けとしては、自称というのは、自称でしかない、という意味合いが本来は入る。
卑下というか、自分はまだまだですよ、的に、自ら使う自称という用法があるのは分かるけれど、
そういう感じ方をするひとたちにとって、「オタク」というのは、称号みたいなもので、自ら本来名乗るものではない、
多分、私が違和感を感じるのは、オタクというのは、単にそのひとの趣味のジャンルという受け取り方をしてるから、
自称も何もないよ、ということなんだと思う。
しかし、それが麻生さんのような用法とどう繋がるかは、よくわからん。
でも一生に一度なんだしそこがんばればいいのにと。もう一ふんばりさ。
なんだか「俺は正義」と思い込んで、善とか悪とか傲慢だとか偉そうなことばっかり言ってるけど、あなたにとって大切な大切な「ゲストである妹」自身が必要としているであろう配慮が全然なされていなそうなところが何だかもう・・・あなたはただの自己満足じゃん。
べつに私は怒り狂わないが怒り狂う人もいるかもなあ
「妄想」だのなんだのとずいぶんな言われようで、それに対して一々事細かに反論していたらまた感情逆撫でされるだけだと思うので、論点と関係ある部分のみ。
東洋ってどこの東洋?まず前近代の日本は違う。伝統仏教的にも動物と植物は区別されてて、そのために(動物を殺さない植物だけ使った)精進料理なんてものができたわけだし、前近代の日本では仏教的な発想のせいで肉食は抑制されていたよ。
元々「現代の日本」がどうであるかだけが重要なのであって他の点は本筋と関係ないのでスルーしても良いのだが一応一言。
植物と動物は区別されていたが、植物が生物扱いされていなかったというのは誤り。これは過激な菜食主義者でも普通は人間と動物を区別するというのと同じこと。「山川草木悉有仏性」という言葉を見ればわかるとおり、むしろ「山」とか「川」のような、現代的視点では無生物であるものまで生物扱いされていたと考える方が正しい。それからジャイナ教では根菜や球根を食べない。
あと、この文脈でイスラム圏を「東洋」に入れて考えるのはどう考えても言いがかり。確かにそういう言葉の使い方も歴史的にはあったけれど、宗教的も文化的にもアラブなんかは「西洋」とはるかに同質であるのは明らかなわけで。インドネシアやウイグルになると事情は若干異なるけれども。
そもそも「前近代」と一括りに言っても、たとえば戦国時代と生類憐れみの令以降では全然違う。肉食禁忌の江戸時代でさえ、「肉食は抑制」といいながら魚や鳥は食べられていたし、なんだかんだと理由を付けて兎は鳥扱いしたりして、抜け道はたくさんあった。それに、馬肉や猪肉はなし崩し的に食べられるようになっていったわけでね。
「厭う」ってあのな。漁師だってサディストじゃないんだよ。「もっとマシな方法があるからそれを使えば」という建設的な提案なら聞く耳も持つだろうよ。単に「人道的な屠殺」というのが見え見えの口実だから依怙地になってるだけだろうに。屠殺方法が「人道的」だったら批判がやむかと言ったら絶対別の口実がでっち上げられるだけなんだから。
そもそも、日本人が奴らに反発するのは「お前が言うな」という心理が一番強いだろう。人間に対して「人道的な屠殺」という言葉を使った奴らにまさにナチスというのがいるんだが(ガス室は人道的な処刑法だと強弁していた)、「牧場での牛や豚の屠殺は人道的だからいいんだ、それに対しておまえらの屠殺方法はなんだ、野蛮人!」というのは、まるでヒットラーがスターリンや毛沢東やポルポトをえらそうに罵倒してるようなもんではないかね。
他人を見下すための「罪の意識」って何の役に立つの?
「他人を見下すため」という理由付け自体が言いがかりなので反論の必要なし。
私はいわゆるテキストサイトというのがはやっている時代(ブログの前)ぐらいから、日記のようなものを綴っているんだけれど、あるタイミングから「自分の考え」を書くことができなくなった。それは当時付き合ってた人の言葉。「お前の文章をネット上に載せるってことは汚染してるってことなんだ。無駄なこと垂れ流すな。」と言われた。「恥ずかしいから書くな。」とも言われた。別に彼のことを書いた覚えもないのに。ものすごい勢いで罵られた。確かそのころはブログが少しずつはやり始めていたころだったけれど、そこら中にブロガーがいたり、mixiで日記を公開したりするような気軽さはなかったかもしれない。周りでやってる人が少なかったかもとも思う。ただ、私にとっては「書くこと」は続けていた趣味の一つだったしそれをやめろと言われるのはかなりしんどかった。言われて、やめたこともあった。けれども「書くこと」から完全に離れたくなくってひとりで誰にも知らせずにミニブログみたいなものをしていたこともある。結局今書けるのは、「誰かにとって有益な情報になる可能性があること。」や「明るくて楽しいイメージを伝えられるような出来事。」ばかりになってしまった。嫌だったことや自分の考え方を提示するような文章が書けないでいる。でもそれではつまらないなってずっと思っていた。陰と陽があってはじめて、その人がわかるのに、陽の部分しか表現しないのであれば「私」が全然伝わらないから。
時代は変わった。みんなが気軽に日記を公開し合っている。ツイッターで日常の出来事や愚痴をつぶやきあっている。彼も変わった。ツイッターで仕事中もつぶやいているようだ。
私が抱えたトラウマなんて、彼はずっと知らなくていいと思う。けれど私はこのエントリを書いたこの瞬間から、また「自分の考え」を書くことが出来るようにここで練習していこうと思う。
まあ、新婦の言うとおりにしないとすごく面倒なことになるのはわかるけどさ。
おれの人生はいつでもおれが主役だからなあ。それが大事なことだ、ってのが理解できない。セレモニーってとこに特別な意味があるのか。
あんまり関係ない内容の横だけど、なんでそんな大事なものを「結婚式場」という最もださいところで挙げられるのか、全くわからん。それは妥協に入らないのかという。