Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

「常識」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 常識とは

2025-01-19

anond:20250119212848

バイトが「優れた能力があるわけでもトレーニングを受けてるわけでもない人間」ってのはただの偏見

ほとんどのバイトトレーニングを受けてるぞ?

おまえの頭の中の定義一般化するな?常識だぞ?

釣りの中の真実

https://anond.hatelabo.jp/20250118142333

元増田言及した釣り増田では無いんだけど(自分は「これ釣りでした~」とネタバラシする様な露悪的且つ詰まらない真似はしない)

いわゆる釣りネタ増田に限らず時折投稿している。


とは言え、記事投稿の中身が全部釣り=嘘・ネタかと言われると、必ずしもそうでは無い。

何故なら殆ど場合家族や友人・知人、会社の同僚等から聞いた話をネタにしているから、所謂元ネタ」があるからだ。釣りと言われればそれまでなんだけど。


もちろん誰かから聞いた話をそのまま転載したらバレの可能性が高くなるし、細部はぼかしたり一部を変更したりしている。

知人から聞いた知人の友人(知人)のエピソードなど、そもそも細部が分からない事の方が多いので、文章化する時は背景等を勝手に想定して書いたりもする。

また大前提として、「人から聞いた話」が全て真実であるとも限らない。例えば「ひどい目に遭ったよ」という被害者視点での話と、もう一方の当事者では、見えているものが違うからだ。

案外当事者から話を聞けばどっちもどっちか、それお前の方が悪いだろ、という話も多々あると思う。(相手方視点を想定してネタを書く事もたまにある)

これを釣りと言われればそれまでなんだけど、少なくとも誰かしらが「真実」「本当の事」として体感したエピソードが、自分が書いてきた釣りネタの中には多分に含まれている。


また、複数人間の話を混ぜて一人の人間エピソードとしてネタにする事もある。例えばあるとんでも社員に関するエピーソードを、自分・同僚A・同僚Bが聞いた、された事を混ぜて書いたりした事もある。

これは「釣りネタ」なのか、それとも「本当の事」を多少フェイク入れて書いているだけなのか、自分でもわからなくなる事もある。釣りと言われればそれまでなんだけど。


元増田言及している釣り野郎記事はまあほ架空且つ詰まらないフィクションだし元増田が怒るのも分かるんだけども、いわゆる釣りネタにも様々な種類があり

その中には「釣り」でありつつも「真実」が含まれている話があるのも、また事実なのである



ちなみに増田運営evilである事には割と同意している。

釣りネタしている身ではあるものの、明確な誹謗中傷等は当然避けている程度の、最低限の常識倫理観はあるつもりなので

以前、明らかに酷い且つ個人特定した誹謗中傷や、特定可能個人情報を晒してる増田については何度も通報した事がある。

が、いずれもロクな対応はされなかった。


意訳すれば

過激な内容ではあるもの誹謗中傷とまでは言えないからセーフ」

個人特定して誹謗中傷してる訳じゃないからセーフ」

個人情報を投稿してたけどすぐ削除してたからセーフ、アカウント停止等の処置しませーん」

みたいな感じ。


裁判にしたら100%アウトであろう表現のどこがセーフ?とか、「◯◯(某有名人)の親族」のどこが個人特定してないんだとか、書き込んでも削除したらセーフとか疑問に思うし

その癖、某はてなでは有名な人の言動についてやや批判的な論調で書いたら速攻で「削除しないと垢BANするで」ってメール来てて削除せざるをえなかった。


あの低能先生事件を受けて尚、悪質な誹謗中傷特定個人ターゲットにする様な書き込みに対し、異常なまでに寛大な姿勢理解出来ないのだが

一部の人物・トピックについては異様なまでに迅速な処理をする辺り、運営低能先生みたいなユーザーに甘い、もしくは何らかのシンパシーを感じているが、特定事柄に関してのみ忖度しているのだろう。

運営の「中の人」の思想が見え隠れする程度には判断基準が謎過ぎるので、いっその事AIに処理を任せた方が平等だと思われる。

中居さんも被害者と言える

フジテレビの内部事情暴露されてくるに従って、これは中居さんが悪かったのか?

と疑問を呈するべき事態となり始めていて事態は風雲急を告げつつある。

そもそも、このようなアナウンサーによる接待というのは常態化されていて、

それは一般人感覚からすれば異常としかいいようがないのは言うまでもない。

しかし、当事者である若年の頃から芸能界しか生きてこなかった中居さんに罪があるのか?と問われれば、

即答しかねる状況を呈しつつある。

そもそもが、上納されるのが常識である世界で生き続けていたのだとしたら?

そもそもが、異常が正常である世界しか生きてこなかったのだとしたら?

そもそもが、、、

果たして中居さんが悪かったと言えるのか?

私達も自身を翻って見てみればいい。

日々の仕事の中で「当たり前」とされていることでも、

外部から見たときにそれが必ずしも「正しい」と言い切れることばかりなのか?

業界慣行、みたいなものですっかり意識が低くなっているが厳密には少々の後ろめたさがあることをしている人はいないのか?

第三者からの、客観的視線に耐えうる人ばかりなのか?

そのようなことを突き詰めて考えていくと、

芸能界という異常が横行する世界で生きてきた人が、

常識を失いつつあったことを責めれる人がどれだけいるのだろうか?

中居さんの罪、それを問える人はもういないんじゃないだろうか?

2025-01-18

ガチャピン中の人などいなかった

 子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たち真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。

 ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキースキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物動作しか言いようがなかった。

 確かに人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピン場合、頭の上から足の先まで完璧シンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである

 さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツスキースノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみ構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しか映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。

 その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。

 もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしかテレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムック存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。

 さら子ども向け番組世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組マスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。

 また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間声優存在するとしても、そのピッチトーンを常に一定に保つの至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。

 その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。

 以上のような理由から、私は「ガチャピン中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情からガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキージャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである

 では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間性質によるのだろう。未知や不思議ものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピン超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈はるか凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。

 私はむしろ大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子もの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコ笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルガチャピン”だったのだ。もし、あのころ私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界もっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。

 思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。

 だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピン中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジー証明であり、あの緑色恐竜いつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋気持ちは、決して間違っていなかったのだ。

 誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たち大人になるにつれ忘れかけた好奇心冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつ生命”——それがガチャピンなのである

 きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たち子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。

 そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピン中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。

 こうして振り返ってみると、ガチャピンテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピン勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たち自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界もっと広がるのだと教えられる。

 結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割ひとつではないだろうか。私たち想像余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピン中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。

 そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントステージで、そして私たち想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日自分を取り戻すためにも

アザラシ幼稚園チャット欄のこと

どこに書こうか迷ったが、長文だしnoteアカウントもないからここに書き捨てることにする。


去年の夏に話題になったアザラシ幼稚園(Zeehondencentrum Pieterburen)の一番大きなプールライブチャット欄が、揉めている。

日本ではアザラシ幼稚園と可愛らしい愛称で呼ばれてはいるが、Zeehondencentrum Pieterburenは弱ったアザラシ保護施設である

ライブでは、怪我病気になって保護された後、回復してきたアザラシプールの様子を流している。

何がトラブルになっているかというと、チャット欄での馴れ合いだ。

これは当然のことだが、ライブチャット欄はそのライブの内容に関係あることを話す場である

長く居着いていわゆる常連となった人達が、ライブチャット欄で自分達の世間話に花を咲かせるようになったのだ。

そして、それを注意されてもやめない。

それどころか逆に注意してきた人々をやりこめてしまう。

そんな状況が既に何ヶ月も続いている。

これまでに何人もその世間話についてやめるよう注意してきた。

アザラシ関係ない話をするべきではないと窘めてきた。

しかし最終的にはあまりに話が通じない集団のため、注意する側が疲弊して終わる。

アザラシの様子を見に来たのに、チャット欄では見知らぬ誰かの世間話が垂れ流しな上、時に諍いも発生する。

早々に嫌になって、世間話をする常連達をブロックしたり、そもそもチャット欄をオフにして視聴している人は多い。


世間話の内容の一例はこんな感じだ。

おはようおやすみ

・〇〇に行ってきます

掃除洗濯等をしてきます

・(↑を受けて)いってらっしゃい

今日献立

・今自分がどこで何をしているか

自分の好きなものごと

完全な井戸端会議だ。

それを毎日アザラシ保護施設チャット欄で繰り広げている。

ネットリテラシーなんてどこ吹く風、プライベートな内容が大公開だ。

ちなみに、おはよう等の挨拶があるが、これはアザラシに対してではない。

アザラシ相手独り言なら返事をされることもすることもないが、〇〇さんおはよう等と常連同士で挨拶を返し合っているからだ。


さて、注意されたことに対する常連達の反応はこんな感じ。

脱線は仕方ない

施設運営している〇〇さんが雑談しても良いと言っていた

挨拶は人としての常識

・嫌ならチャット欄を見なければいい

・もしくは自分達をブロックすればいい

・注意されたことに傷付く

・(↑を受けて)注意して傷付けるなんてひどい

・注意してきた人を揶揄する

自治厨風紀委員と呼んで厄介者として扱う

言い訳がましい意見もある。

関係ない話はNGかもしれないが、その基準は人それぞれであり、自分達の基準はゆるいだけ。

挨拶だって単なるおはようではなく「おはようワッデン」というふうに地名を絡めているかアザラシ関係がある。

ワッデン海オランダアザラシの生息地)

無関係雑談をするなというのは、自分ルール押し付けである

こんな具合だ。

暇つぶしにさっき挙げた常連達の主張についてひとつずつ考えてみる。

まず、脱線は仕方がないという主張について。

四六時中アザラシ話題があるわけではないから、違う話題になることは自然だというらしい。

プールアザラシがいない状況はあるし、アザラシオタクでも専門家でもないか話題が尽きるのは道理

からといって、テレビ番組等の話題になるのは仕方がないかといえばそんなわけはない。

話題がないなら静かにしていればよくて、常にチャットを続ける必要などない。

から2番目、雑談しても良いという発言については、字面通り受け取れば雑談しても良いことになる。

しかしそれは、アザラシやこのアザラシ保護施設関係する雑談についてという前提のもとに発言されているはずだ。

なぜなら、該当のライブオランダアザラシ保護施設保護されているアザラシライブからだ。

ライブの主役は保護されているアザラシ

視聴者個人的な話がOKなわけがないのだ。

なお、それに加えて、その発言よりも前に別のボランティアからアザラシに関わる話をするようにという発言があったことがXで指摘されている。

そのことについて常連からの反応はない。

挨拶については上で書いたが、現実では挨拶はされたら返すのが普通対応である

しかし、そこはライブチャット欄だ。

ライブ配信者に向けた挨拶はあれど、同じ視聴者に向けた挨拶一般的ではない。

常連の一人と思われるXのアカウントでは、挨拶アザラシに向けての発言なのだという旨の主張があった。しかしその後に、チャット欄で挨拶をした人物挨拶を返していた。

ということは、彼あるいは彼女は、プールにいるアザラシ本人(本アザラシ?)でなければ矛盾している。

嫌なら見なければいい、ブロックすればいいという主張は一見それっぽく思えるかもしれない。

実際、そうして離れていった人々は多い。

しかし該当のチャット欄がアザラシが主役である以上、他の話題で盛り上がっているほうが部外者であって場を移すべきなのだ

自分達のことが嫌なら見るなブロックしろという主張すること自体おかしい。

傷付いた、傷付けるなんてひどい。

申し訳ないがこれはちょっと理解が及ばない。

関係ない雑談はここでせず、やるなら他でやるようにと言われて、一体どう傷付いて何がひどいのだろうか?

雑談の場を変えることは何も屈辱的なことではない。

当たり前のことである

揶揄したり、自治厨だとか風紀委員だとか言って厄介者にすることについて。

のものに例えて悪口を言ったり、スラングで呼んでみたり、まるで覚えたての中高生のような振る舞いだ。

日頃の雑談の内容を見るに、常連達の多くは60代以上である

筆者はそれよりもずっと年下であるが、この子供のような振る舞いは見ていられない。

本当に馬鹿馬鹿しい。



この件は夏の終わり頃から度々問題になっている。

つい数日前にも、あるnoteが公開され、話題になった。

あれこれ言われて煩わしくなったのか、常連達は一時Xに移動した。

しかし1日も経たずに戻った。

そしてまた馴れ合いチャットを行っている。

よその国の動物保護施設チャットに居着いて、世間話を繰り広げる厚顔無恥日本人。

筆者は、このような振る舞いを続ける人達を大変恥ずかしく思う。

このような醜態晒し続けるくらいなら、いっそチャットは閉鎖されてほしい。


他にも常連なかには、チャットが目当てでアザラシはどうでもいいとか、到底保護施設チャット欄ですべきでない悪趣味な内容を発言する者もいるという。

常識的な振る舞いを切に願う。


今は少し話題になったためか、昨日と今日の夜の少しの時間常連でない人々がいつもより参加している気がする。

内容もプライベート世間話ではない。

これはほんの僅かな時間かもしれない。

健全チャット流れる時間は消えてほしい。

社会人常識がないと言われたこリスト

自分の生まれ年の干支を知らない

郵便の返信で御中を書かなかった

メールで目上に殿を使った

・旨をうまと読んだ

タクシー上座がわからない

・瓶ビールの注ぎ方がてきとう

・奢って貰った翌日にお礼を言わなかった

スラックスの前ポケット携帯を入れていた

スーツに白靴下

エレベーターで奥に陣取る

思い返してみるといろいろあるな・・・

ガンダムコンテンツにおける有害一年戦争おじさんについて

ガンダムシリーズ1979年の『機動戦士ガンダム放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張さら小説漫画ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズ長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。

一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争宇宙世紀0079年から始まる連邦軍ジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまタイプファン揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しか問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。

彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からガンダムリアルタイム経験した世代、あるいはビデオプラモデル雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメ常識を覆すようなリアル戦争描写群像劇、そしてプラモデルガンプラ文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。

しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さら宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。

にもかかわらず、「有害一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野由悠季監督が関わってないか駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクガンダムRX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。

こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファン参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダム一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。

さらに、「有害一年戦争おじさん」はしばしば他の作品ファン同士の交流の場を“自分たち思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNS掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダム宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的コミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツ可能性を狭めてしまうのだ。

また、宇宙世紀作品一年戦争のものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情排他主義攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。

さらに、一年戦争時代考証を「現実軍事政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダム世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み他人解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMS存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。

そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃん資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダム多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈テーマ作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。

では、この「有害一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのはファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダム作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体ポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性ガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。

次に、若い世代新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。

また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争けが特別なわけではない。むしろ宇宙世紀アナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。

さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点テーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品多面的戦争悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。

結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは自分視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまタイプファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズファンダムで起こりうる軋轢と言える。

からこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメであると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。

以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやす環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ

結論として、「有害一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティ健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダム世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれから世代国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。

イーロン・マスクが憎い

 世界中メディアイーロン・マスク天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新宇宙事業への投資さらにはSNSプラットフォームを買収して世界言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境一方的に変革しようとする独善性垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。

 特に、彼がSNS上で見せる軽率発言は、私の中にある嫌悪感さらに増幅させる。刺激的なツイート株価暗号通貨相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。

 テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいいか企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益スピードのためなら人間性犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。

 さらツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場ユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。

 イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存常識を打ち破り、火星移住ハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会ルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ自分けが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。

 なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分あくま一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。

 また、彼のコミュニケーションスタイルがしばしば相手嘲笑するように感じられることも、嫌悪理由だ。議論批判に対して真摯に向き合うより、自分正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さら対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴言論空間助長しているようにさえ感じる。

 もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。

 私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているかであるテスラ工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的リストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。

 「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。

 彼のメディア露出SNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言ひとつひとつ見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。

 こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである

 また、彼のビジネス戦略資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつ暗号通貨価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスク承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれ一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外から判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか

 イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。

 私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分ビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なくみつきさらには軽率一言世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。

 もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。

 だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしま可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。

 最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見存在することこそが社会前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功カリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれしまうかもしれないのだから

 私は、イーロン・マスク存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。

 イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーン未来希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれ軋轢や混乱、そして彼自身傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たち社会本来つべき「相互理解」や「多様性尊重」が欠けているように思えてならない。

 だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか

 私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会未来微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。

 私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たち社会の抱える矛盾欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。

 最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情社会にとっては大切な警鐘であり、そこからまれ議論検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新光と影直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たち葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会未来にとっても重要なのだろう。

anond:20250117221655

示談守秘義務のせいで誰も「トラブル」の詳細を語れないおかげで

「でも示談金9000万円だし……(この金額被害者否定した」)

「大した事してないなら、どうしてテレビ出られなくなったの?」

タレントテレビ局もいつまでも擦られ続ける展開になったの面白い

もしも、実際のところ、ちょっと女遊びでおイタしたね、という程度の「トラブル」に過ぎず、示談金も常識範囲だったとしても、

守秘義務のせいで誰もそれを口に出せないのである

2025-01-17

anond:20250117111902

海外では名前の後に父姓・母姓を並べるのが常識。どちらかしか付けられないからこんな情けない議論をしている国は日本だけだよ

anond:20250117131818

9000万受け取ってないって(女が手取りとして)得てないとかい非常識発言可能性もあるのか。

常識で考えれば支払う側が出した全額のことを指して被害者弁護士が何割か取るのは経費って考えるけど

社会常識が分からないとそうなる可能性は高いな

Netflixエミリー・ザ・クリミナル

・もう少し面白くできそうだったけ面白くなりきらず残念感ある

・「後悔してる…」「もっと理解らせしていれば通報されてなかった」の下りは目茶苦茶よくて「ナーメテーター案件でこの後見てるこっちが痛い位の「暴」が吹き荒れるんや…!」とワクワクしたがそんなに常識を外れた暴力は無くヌルーッと侵入フェーズが終わり「え?」って思ってるうちにエンディングを迎えていた

前科理由は「性暴力を受けて抵抗のためにやり返したら不本意な結果になり世間理不尽を浴びた経験」的なものかと思ったらそんなことはなかった

フランクなお礼として犯罪への手がかりを紹介してくる同僚、嫌すぎる 

・「犯罪の指示役」と「いつでも切れる現場要員」の関係からヌルッとステディ関係になるの、海外恋愛脳が大変すぎる…ってなった

女優さんの骨格が美しかった

骨格ウェーブじゃない骨格すき

タンクトップよく着るからなお映える

anond:20250117084430

>年食って四段にも上がれず奨励会放り出されるリスク考えると

そもそも男女関係なく、その辺の実家太くもない親が能天気応援するような道だとは思えねえんだよなあ

独立リーグみたいなもんだろ野球で言ったら

  

まあこれは同意だけども

女児場合は放り出されるだけじゃなくて傷物にして放り出されるおそれがたかいんよ

突撃されて人生くるった人、実際におったやん

   

いまはともかく、一昔前の将棋連盟って相当やんちゃ組織で、それを題材として社会全体的な議論するのはおかしいと思うのよね

 

 

なんかうまい例えがあればいいなと思ったけど、歌舞伎界の常識社会全体の夫婦倫理を語ろうとするような危うさを感じるのよね

 

2025-01-16

anond:20250116182619

車で3分の所に取りに行けって119したら教えてくれるのが常識なんすか?

anond:20250116164941

なんで先に119番しないと思ったの?するに決まってるよ?

田舎の道は人が歩かない?1人で山登ってるやつもトレッキングしてるやつもしょっちゅういるよ?

お前は常識が通じなくてやばい

anond:20250115224311

他の人も指摘しているけど日本語おかしい。

他人自分気持ち物事説明する能力に欠けている印象が残る。

 

人になにかを説明したり説得する場合には相手がすでに得ている知識常識理解力を把握し、

そのうえで相手に欠けている箇所を埋めてやらなきゃならない。

自分相手共感し知見を共有するには相互が埋め合わなきゃならない。

ところがキミこの感覚が無いのよ。

相手自分を同価、同じ知識レベルで同じ常識感性だという前提で他人と接している。

かつ自分には埋める箇所が無いと思ってる。

 

そこです

端的に言えば悪いのはアナタです

おそらく学習障害ASDといった先天疾病なので治らないでしょう

諦めて離婚してあげてください。

養育費はしっかり払うように

養育費は元妻のためではない、娘の健全な発育のためだよ

anond:20250116012302

なにも難しい話してないんですけどね

ぶっちゃけIQで興味ある話題って変わるよなって思ってはいるが(なおワイは高い方)

それ以上に認知スタイル問題は大きい

 

たとえば、いわゆる発達障害とかなら興味がある分野に興味が偏り過ぎて常識の構築が不可能だったり、

統合失調やそれに近い状態にあると妄想ベースに話すから

 

学者データサイエンティストを名乗る人が陰謀論にハマるのはこれ

 

そもそもちょっと知識量の違いで会話ができなくなるとかあったら分業制なんて取れないし、

投資判断なんて出来ないし、科学読み物を娯楽として消費するとか出来ないでしょうよ

anond:20250116010006

もっと簡単に言うと

中居にやられたんは女子アナなんかになったアンタの自己責任

中居がカマ掘られたんも芸能界に足踏み入れた中居自己責任(あるいは親の責任

あっちに行ったらこっちの常識通用しません

それでもチヤホヤされたくていったんなら

何が起きても自己責任

anond:20250116005419

河原もかつてはある種の特権的場所ちゃうかな

法や常識支配が及ばんいう意味でね

芸能ってのは我々一般人安全なとこから

自分ではせえへんようなアホや色事危険スリルをやってる河原者達を観覧して喜ぶもんなんよ

一般人芸能世界にはちゃんと線引きがあったしあるべきなんよ

埒外からこそ観ててオモロいんやろ?

なんで埒外人間をこっちの常識で裁こうとするんよ

なんで自ら埒外に行ったのにこっちの常識に縋ろうとするんよ

それが俺には分からん

芸能界が性に乱れててもなんとも思わない

河原乞食には河原乞食ルールとかしきたりとかあるんやろ

そんなん外野がどうこう言うことでもない

好きにせえとしか思わん

ハリウッド女優だろうが女子アナだろうが

そんな世界に足踏み入れたんなら性被害覚悟するべきなんちゃう

あっちの業界行くならこっちの常識通用せんってのを折り込み済みで行くべき

プロスポーツも含め興行に関わる奴らはみんなどっかヤクザ埒外の人々やで

そんな奴らに一般常識押し付けてもしゃあない

加害者も完全なカタギに手ェ出したんちゃうんやろ

2025-01-15

最近見つけためちゃくちゃ便利なサービスがあるんだよ

その名も「Amazon.com」!いや、これマジですごいの。もうさ、買い物の常識が完全に変わっちゃう感じ。

例えば、欲しいものがあったらどうする?

普通だったらお店まで行って、探して、レジに並んで…って感じじゃん?

でもね、このAmazon.comなら家でゴロゴロしてるだけで全部解決ちゃうんだよ。

しかも、種類がめっちゃ豊富!本とか服とか家電とか、あとちょっとしたガジェットとかも全部あるの。探すのも超簡単で、欲しいもの検索バー入力するだけ。え、これ本当に便利すぎない?

でね、買うとkも簡単すぎて笑っちゃう

ポチッてするだけで、あとは待ってるだけなの。しかも届くのが早いんだよね。

あとさ、レビュー機能が最高なの!買った人の感想がいっぱい載ってるから、これ良さそうだな~とか、あ、これはちょっと微妙かも…みたいなのがわかるんだよね。だから失敗がほとんどないの。

なんかさ、これ一回使っちゃうと、もう普通の買い物に戻れない気がする。

いや、マジで。これから何か買おうと思ったら、とりあえずAmazon.comチェックしてみて!人生変わるよ、ほんと。

風俗問題は「若いイケメン」と「金持ち中国人」への嫉妬ってことか

売春婦存在に対しては「体を売りたい女性自由」ということで放置されてきたけど、ホスト・コンカフェ・メン地下・イケメンアイドルゲームなどの推し貢ぎ問題が発生したのと、

中国人男性買春目的来日してホス狂の立ちんぼを買い始めてから、急に問題視され始めた。

以下の理由によって急に問題視され始めたのではないか?と思う。

貢いでもらえる若いイケメンへの嫉妬

酷い容姿男性や、中年男性などが貢いだ金が、風俗嬢奨学金返済や家族生活費などの美談に使われるのは良いけど、イケメンがタワマンに住むために使われることに対しては、若いイケメンへの嫉妬でキレてしまう。

あと「男が女にお金を払うもの」という常識感覚が、「性的魅力が劣るもの相対的に優れたものに払うもの」という性別の要素がない弱肉強食構造にされ、「若いイケメンと比べて劣っている自分」を突き付けられてしまう。

外国人に競り負ける

若くて可愛くてサービスが良い女性を安く買いたいが、金持ち外国人円安を利用して押し寄せると、低所得日本人男性は競り負けて、良い女性を買えなくなってしまう。

また、日本より防疫が雑な国から来た外国人男性穴兄弟になることで、海外から持ち込まれた新型のわけのわからない性病をもらうリスク高まるなど、醜かったり中年だったりする日本人男性にとっては何も良いことがない。

自分は1から100まで聞いてくるのに自分からは1しかさないやつなんなん

こっちが話すときはそんなん常識で分かれよという内容まで根掘り葉掘り聞いてくるのに、自分はなーんも話さないやつ何なの?

anond:20250114200618

お前の知ってることが世間常識ではないんやで

ちなみに学生時代国語テストはほぼ全部満点や

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん