はてなキーワード: 葛藤とは
「下手の考え休むに似たり」という言葉は、一見すると凡庸な教訓のように思われるが、その背後には、熟練と未熟の対比、行動と無為の葛藤、そして思索そのものの限界と可能性といった、多層的な哲学的・心理的含意が隠されている。この諺の核心には、人間の知的営為が必ずしも価値を生むわけではないという冷厳な認識があり、その背景を掘り下げることで、人間の思考と行為の微妙なバランスを探る契機となる。
この諺は、考えることそれ自体を否定するものではないが、「考える」という行為が持つ潜在的な二面性を指摘している。「下手」とは、単に未熟であること以上に、「適切な方法論を持たない」という含意を持つ。つまり、下手な人間の「考え」は、方向性を失った反復や錯乱に陥り、結局は「休む」こと、すなわち何もしない状態と等しいとする厳しい評価を示している。
「休む」という語の選択も興味深い。ここでは、ただの身体的な休息ではなく、「無効性」や「停滞」というニュアンスを帯びている。したがって、この諺は単なる知的な怠惰を指すのではなく、誤った方法による熟考がむしろ不作為と等しいというパラドックス的な洞察を表現していると言えよう。
この諺を解釈する際、特に興味深いのは「休む」という行為が果たして本当に「無」と同義なのか、という点である。ここには、「何もしない」という消極的な態度と、「無駄にする」という積極的な損失との間に微妙な違いが潜んでいる。休むという行為そのものは、中立的な意味を帯びる可能性もあるが、未熟者の考えが「休むに似たり」とされることで、それは一種の「偽りの活動性」への批判に変化する。考えるフリをすること、つまり見かけだけの努力をすることは、むしろ静止よりも害悪ですらあるという指摘が込められているのだ。
この点で、「下手の考え休むに似たり」は、古代ギリシャ哲学における「現象」と「本質」の対比を想起させる。プラトン的には、下手な考えは単なる「影」であり、それ自体は現実に触れない空虚なものに過ぎない。あるいは、ヘラクレイトスの「静止は存在せず」という思索を逆転させ、無意味な運動は静止以下であるとさえ言えよう。
この諺をさらに具体的に読み解くためには、「下手」の範囲を拡張する必要がある。ここでの「下手」とは、単なる技術的未熟さではなく、正しい道筋を見いだす能力、すなわち実践知(phronesis)の欠如を指している。この点ではアリストテレスが述べた「善く考える(euboulia)」という概念に近い。善く考えるとは、理性が行動の適切な目標を指し示す能力を持つことを意味し、下手な考えはその逆、すなわち目標も見失い、行動を導く力を欠いている思考を指す。
この実践知の欠如は、しばしば「方向感覚の喪失」というメタファーで表現される。下手な考えが「休むに似たり」とされる理由は、その思索が明確な目標に向かわず、無駄にループを繰り返すことで進歩を妨げるからだ。これは、経験や洞察に裏打ちされた熟考とは異なる、浅薄で空虚な反復を暗示する。古典文学で言えば、例えば『ドン・キホーテ』における無謀な行動や、シーシュポスの神話における徒労に通じるものがある。
心理学的には、この諺は「過剰思考(overthinking)」や「分析麻痺(analysis paralysis)」と呼ばれる現象を指摘していると考えられる。未熟な人間ほど、あれこれと余計なことを考え、選択肢を増やすばかりで最終的な決断に至らない傾向がある。つまり、熟練者が直感的かつ素早く判断を下せるのに対して、下手な者は思考過程そのものが目的化し、行動のタイミングを失うのだ。
ここには、「知識の量と知識の質」という重要なテーマが隠されている。下手な考えはしばしば知識不足から生まれるが、逆に言えば、中途半端な知識はむしろ思索を停滞させる。フランシス・ベーコンの言う「知識は力なり」という言葉も、適切に使われなければただの重荷となるのだ。
「下手の考え休むに似たり」は、経済学的には効率の問題として解釈できる。この諺の背後にあるのは、思索という「投資」に対して得られる「リターン」がきわめて低いという状況の批判である。言い換えれば、下手な考えはコストに見合う成果を生まない「非効率的なリソース配分」の典型例である。
この観点から見ると、「休むに似たり」という表現はむしろ控えめであり、下手な考えは単なる無駄以上に、リソースを奪い、他の重要な活動を妨げる存在とすら言える。たとえば、組織やプロジェクトの文脈では、下手な計画が最初からなされることで、リソースが浪費され、最終的な失敗を招くという例が挙げられる。
現代において、この諺はますます重要な意味を持つ。インターネットの普及により、情報は過剰なまでに流通し、誰もが「考えること」が可能になった。しかし、その結果として、考えるという行為の質が低下し、無駄な議論や非生産的な思索が増加する状況が生じている。「下手の考え休むに似たり」は、こうした現象に対する警鐘として読み替えることができる。
現代社会では、むしろ「考えることをやめる」という選択が重要になる場合もある。これは、「情報断捨離」や「マインドフルネス」のような概念と結びつき、必要な判断に集中する能力を取り戻す試みとして解釈される。
「下手の考え休むに似たり」という諺は、表面的には思索の無駄を戒めるものであるが、深く掘り下げると、思索それ自体の構造的な矛盾や、人間の知的限界を指摘する哲学的洞察を内包している。この言葉は、私たちに効率と成果のバランスを問いかけるとともに、思索という行為の価値を再評価する契機を提供するものである。
どうしても気になったので。
エピソードを見るに多分お二人とも気がいい人なのでしょうね。
あなたの文章にあふれるユーモア、彼女のボケに対する貪欲さなどから笑いであったり砕けた空気を好み、お二人とも根本的にはそれを大切にしているのだなと感じました。共通する価値観はこの部分。和やかであることを大切にしたいのかな。その手段に多分二人ともユーモアを使う。
笑ってる状況とか誰かを笑わせられるっていいですもんね。わかります。
だからほとんどの時間は気が合うし、別れることを想像すると苦しみも大きそうだなと。
合理的な別れる理由をいろいろと考察されているようですが、感情がyesでないからずっと迷っているんじゃないかな。いろいろ意見はあると思いますが、親密な付き合いというものは感情的な結びつきを伴うものだし、共通する価値観で三年も共に暮らせば理屈で割り切ることは不可能ですよ。あなたはそんなタイプの人ではないはずです。
彼女に結婚しないなら別れるといわれたときにすごくショックを受けませんでしたか?
「「え、そんな周りの状況とかで割り切って決められちゃうの?」とどこかで思ったんじゃないかな。
別れと結婚の二択を迫る彼女の言動もまた、醤油の例に始まる彼女に対するあなたの違和感と同じ原因から出ているのかなと思います。
エピソードを見ていると彼女はすごく自己防衛する感じなんですよね。
"不快なことが起こる→いやな気持になる→自分と問題を分離する"みたいな。
私に原因はないとなると原因は相手とか不在の何かなわけですから、まぁあとはいろいろ客観的に聞こえる理屈を並べるのかな。
理屈が正しく聞こえるから惑わされるかもしれないんですけど、彼女のケースでは感情的な反応が先にあって理屈は後出しです。
なんでそんなに冷たく一般論とか正論みたいなもので返せるの?っていう疑問の答えは、彼女の中では嫌な気持になった時点ですでにそこに自分は介在していない、自分に非はないというポジションに立つわけですから、そこから出てくる言葉に思いやりなんてありませんよ。
共感とか思いやりって問題を共有しないとでてこないものですから。
彼女にとっては醤油さしの例も、実際過去にあなたを傷つけてきた問題も、結婚するかしないかもすべて自分の問題ではないわけです。
取っ組み合いのエピソードからは自己暗示力の高さを感じました。
問題を分離して相手に非があると理由をつけられれば疑うことなく戦えるタイプなんですね。
相手に非があるという理屈が一般論として正しいということだけを根拠にできるんです。
炎上とかでグロテスクなくらいひどい意見が無関係の第三者からでてくることはありますが、彼女と根本的に同じマインドなんだと思います。
謝らない、それも当然です。
誰だって、自分に全く関係がないと思っていることなら謝るのは嫌でしょう。
彼女の場合は思考の癖で、あるいは逃避的に関係ないと思い込んでいるだけですが。
あなたが傷ついていることも察していると思いますが、それもまた彼女にとって向き合いたくない不快なのでしょう。
浅い人間関係ならまだ問題を表面化させない程度に我慢できるかもしれませんが、深い関係で甘えが出てくるとこの傾向が強まるのかも。
愛がないわけじゃないと思いますよ。あなたのことは好きだし、結婚して一緒にいたいと思っている。
でも、問題が起こった時に相手の視座に立って、「理屈じゃ割り切れないよね、白黒はっきりつけられないけどあなたに悲しんでほしくはないよ」的な共感は期待できないでしょう。
年食っても一生このままの人もいますし、問題が起こって気が付いて変わる人もいます。
彼女がどうかはわかりません。
もっと心が動く問いかけをしてみるといいかも。二人で何気なく会話してもいいかも。
些細なことでお友達とけんかして絶好だなんだと言いながら寂しそうにしているとき。
性的な描写が多い文学作品は、歴史的にもさまざまなテーマや文脈で書かれています。それらの描写は、単なるエロティシズムを超えて、愛、人間関係、心理的葛藤、社会的タブーなどを深く掘り下げるために用いられることが多いです。以下は、性的な描写が多い、またはそのテーマを重要視している著名な文学作品の一部です。
『ロリータ』(ウラジーミル・ナボコフ)
禁断の恋愛をテーマにしており、文学的にも高度で、物議を醸す内容。
マゾヒズムという言葉の由来となった作品で、性的従属と権力のテーマが描かれています。
『チャタレイ夫人の恋人』(D.H.ローレンス)
貴族階級と労働者階級の恋愛を描き、性的な自由と社会的制約の問題を扱っています。
インドの古典文学であり、性愛と人間関係について詳細に論じています。
『青い花』(ジョルジュ・バタイユ)
『鍵』(谷崎潤一郎)
中年夫婦の日記形式で語られる、性的な欲望と嫉妬を扱った作品。
主人公の性的嗜好や葛藤を通して、アイデンティティや抑圧を描いています。
性的な関係を含む自己破壊的な生き方が赤裸々に描かれています。
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(E.L.ジェイムズ)
BDSMをテーマにした恋愛小説で、エンターテインメント性が高い。
『クローサー』(マイケル・カニンガム)
短編小説集で、官能的な描写が非常に文学的に表現されています。
これらの作品を読む際には、描写の背後にあるテーマやキャラクターの心理、社会的な文脈を考慮すると、より深く楽しむことができます。また、性的な描写が多い作品の多くは、それ自体がメインテーマではなく、物語の中で重要な役割を果たす要素として描かれています。
同一人物であってる。
その例えで言ったら、
元増田が「原付が好きだ。原付というのは原動機付自転車のことだけじゃなくて、俺はなんかエンジンで動いているやつのことは全部原付と呼んでいる」とか言ってたから
俺は「それは車両と言うんですよ普通は」と教えてやった感じだね。
他者性、相手がいることを強調するために、それが言いたかったのだと思うが。
「葛藤」はハリウッドの脚本理論の訳語で、元はconflictなので、
だいたいお前の思った通りの意味を含んでいると思うぞ。
お前が言っている「バトル」っていうのは、普通、ストーリー上の「葛藤」とか呼ぶんだよ。
そういうのは真の名作じゃないだろ!と言われたら、まあそれはそういう見方もある。
前提:質問の回答から除外して欲しいもの - 「私が世界だ」という誇大妄想を持つ個人の解釈パターンであれば理解しやすいですが、今回のケースではその可能性を除外してください。 - 個人の感想に対する過剰な反応は、自己評価が低く、他者に盲従しがちな、「微小妄想」傾向がある個人に多く見られる現象です。
「(俺にとって)」という明確な主観的限定の他者の感想を、「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ですか?
1−1、1−2どちらであるかは、文脈から理解できるでしょと考えるのは、過剰な期待ですか?
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1−1: 情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(俺にとって)ない
1−2:情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(世界にとって)ない
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「(俺にとって)」という主観的な限定を「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ではありません。文脈から理解できる場合が多いので、過剰な期待とは言えないでしょう。文脈を無視して曲解するのは、誤解や意図的な誤読の可能性が高いです。
妥当ではありません。文脈から判断するのが通常であり、過剰な期待ではありません。
1-1と1-2の違いは、「俺にとって」という主観的な視点があるかないかです。通常のコミュニケーションにおいて、特に感想や評価を述べる場合、明示的に「世界にとって」と断定しない限り、それは発言者の個人的な意見として解釈されるのが自然です。括弧内の文字起こしがないからといって、文脈を無視して意味を曲解するのは不当です。
「(俺にとって)」という主観的限定を「(世界にとって)」と曲解する主張は妥当ではありません。その理由は以下の通りです
現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」と評価されますか?それとも論理の飛躍や読心術と見なされますか?
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• 命題1: Aは作家Bの知名度とBの作品が世間を賑わせている客観的事実を認識している。
• 命題2: Aはミーハーな気持ちで作家Bの作品に触れたが、その良さを理解できなかった(興味が持てなかった)。
• 結論: 「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAは考えているに違いない。
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現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」とは評価されません。論理の飛躍や読心術と見なされるでしょう。Aの主観的な感想を、世界全体の評価と結びつけるのは過剰な一般化です。
現代のNLP(自然言語処理)や論理学において、この推論は「妥当ではない」と評価されます。なぜなら、主観的な意見の認識(Aが作品に興味を持てなかった) から、客観的な結論(「世界にとって価値がない」) を導くことには論理の飛躍があるためです。
これは論理的根拠が不十分な「読心術」や「主観の過剰な一般化」と見なされるでしょう。
妥当とは評価されません。論理の飛躍であり、読心術と見なされます。
提示された推論は、Aの内心を勝手に推測しているだけで、客観的な根拠がありません。Aがミーハーな気持ちで作品に触れたとしても、それが「世界にとって価値がない」と考えていることには繋がりません。興味を持てなかったという事実は、単にA個人の好みや感受性の問題である可能性が高く、普遍的な価値判断とは無関係です。NLP(神経言語プログラミング)においても、このような独断的な解釈は推奨されません。
もし、質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないと思うのですが、気のせいでしょうか?
質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないというのは、ある程度正しい見解です。過剰な一般化や誤解が広がると、コミュニケーションの混乱や誤解が生じやすくなります。
おっしゃる通り、そのような推論が社会的に多数派となれば、社会や世界の正常なコミュニケーションや意思決定が難しくなります。主観と客観の区別が曖昧になり、過剰な一般化や誤解が横行し、議論の基盤が崩壊する恐れがあります。
気のせいではありません。質問2のような推論が多数派を占める社会では、コミュニケーションは著しく混乱し、相互理解は不可能になります。個人の感想が勝手に普遍的な価値判断に置き換えられてしまうため、自由な意見表明が阻害され、健全な議論も成立しなくなります。
あなたの直感は正確です。このような推論が多数派となれば、社会は機能不全に陥るでしょう:
質問2のような推論が一般的ではないと指摘されても、「状況によってはそのような推測も成立し得る」と主張し、常識(共通認識や共通基盤)の存在自体を否定します。
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを極度に恐れる一方で、なぜ、積極的に常識を否定しようとするのでしょうか?悪目立ちします。
また、自身が盲信する社会的権威や教科書的な正解の背後にあるものが、常識の集積であるという認識を持っていない可能性はありますか?
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを恐れる一方で、常識を否定しようとする理由は、自己評価の低さや他者からの承認欲求が影響している可能性があります。また、常識の集積が社会的権威や教科書的な正解の背後にあることを認識していない場合もあります。
盲従しやすい人が常識を否定する背景には、自己肯定感の低さや他者からの評価への過剰な恐れがあると考えられます。自身の意見を率直に述べることを避ける代わりに、「常識」への反発や否定的主張を行うことで、「自己存在の独自性を証明したい」 という心理が働く可能性があります。
また、「常識」や「教科書的な正解」が何らかの権威のみによる押し付けであるという認識が強く、その背後にある合意形成(常識の集積) を理解していない場合があります。
他者への盲従と常識の否定は、一見矛盾するように見えますが、根底には自己の脆弱性からくる不安があります。
本質的には、低い自己肯定感と社会的文脈における不安が、逆説的な形で表出している心理状態と言えるでしょう。
常識(共通認識や共通基盤)の存在そのものを否定しているのではなく、「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、
「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と、
「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と主張する可能性はあります。しかし、これは一般的な見解ではなく、特定の状況や個人の認識に依存するものです。
可能性としては十分に考えられます。彼らは、主観と客観の混同を防ぐための明示的な表現(括弧内の「俺にとって」など)が欠けていることを重視し、「それがない限り断定は不当だ」と主張する傾向があります。また、「常識を証明せよ」と要求することで、認識論的な対話を引き延ばし、議論の焦点を逸らす戦略にもなり得ます。
可能性はあります。これは、常識という概念に対する誤解に基づいています。
これは可能性としてあり得ますが、本質的な問題を矮小化しています:
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは不当であり、常識とは呼べませんか?
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは妥当です。これらは社会的なコミュニケーションの基本的なルールであり、常識と呼べるものです。
これは常識の範疇に含まれると考えるのが妥当です。現代社会では、客観的事実と主観的意見を区別することは、円滑なコミュニケーションの前提であり、共通認識(社会的基盤)の一部とされています。これを否定することは、社会的秩序を乱し、コミュニケーションの破綻を招く恐れがあります。
不当ではありません。むしろ、これらは健全な社会生活を送る上で不可欠な要素であり、常識と呼ぶに相応しいものです。主観と客観の区別、論理的な推論は、コミュニケーションの基本であり、これらが欠けていると社会生活は成り立ちません。
これらを常識に含めることは、むしろ健全な社会機能のために不可欠です:
ググればすぐ出てくると思う。
わりと最近の漫画、ここ数年以内に完結したやつ。アニメ化実写ドラマ化済。
タイトルだけ見たときは、正直、なろう系とか中世系とかフェチ系を想像したのだが
普通に現代のホームドラマというか家族愛系で少しオカルティックなことが起こる系だった。
そして何より、構成と心情描写の丁寧さが際立ってよかったと思う。
悪者をただ悪者として断罪してシャンシャン!というものがないというか
すべての登場人物に魂というか背景の人間らしさが垣間見れるというか。
正直面倒くさくなってえいや!で終わらせられるところをきちんと描ききっていたというか。
それを説明が長いとか蛇足といえばそうなのかもしれないが、葛藤が伝わってきて感情移入しやすかった。
久々に全巻紙で揃えようかと思わせてくれた名作でした。ありがとう。
ネガポジアングラーとは今期に放送しているオリジナルアニメである。
今期はリゼロやダンまち、ダンダダンなどの人気作があるため原作なしのオリジナル作品は自然と目立たない形になってしまっているものの…このまま埋もれてしまうには本当に惜しい作品なので、ここでおすすめしようと思ってこれを書いている。
釣り+群像劇な作品で、主人公が昨今のアニメでは珍しいぐらいにリアルなコミュ障なのも特徴的。
ただ主人公は金融からの借金まみれで、その借金をパチンコで返そうとする駄目人間
おまけに余命宣告までされてお先真っ暗。
「今まで何一つうまくいったことがない」が口癖のような男で、状況が悪くなるとすぐに逃げ出す。
おいおい誰がこんな主人公を好きになるんだよ?って思うぐらいには陰湿でいいところないんだけど、そんな男が出会いと釣りを通じて少しずつ変化していく。
実写ドラマでも違和感ないような作品で、心理描写がとにかく丁寧。それも安易な独白に頼るんじゃなくて、ちょっとした動作や演出で見せるのが巧い。
主人公の周りに居るのは基本釣りバカなんだけど、そんな彼らにも等身大の悩みや葛藤があるんだなってことをちゃんと描いているのがほんといい。
荒廃した都市。燃えさかる街並み、崩れ去るビルの残骸。大地には無数の影の魔物がうごめいていた。
その中央に立つ、一人の男。
プーチン。冷徹な灰色の瞳と重厚な剣 「スターエグゼクター」 を携えた戦士。
「すべてを滅ぼす運命か……くだらん。」
影の軍勢が一斉に襲いかかるが、プーチンは瞬く間に彼らを打ち倒していく。
プーチンは冷たく答える。
だが、その言葉とは裏腹に、アッキーナの輝きが剣に淡い光を宿した。
遠く離れた戦場の地平線。影の審判核が不気味な赤黒い光を放ち、影の将軍 ナイトレイヴン が影の軍勢を指揮していた。
プーチンの胸の紋章が紅く輝き、荒廃した大地に光と闇の模様が広がる。
「運命だと?……くだらん。」
プーチンは剣を振り下ろし、光と闇の力が激しく衝突する。
激しい衝撃の中、プーチンは突然胸に鋭い痛みを覚える。 影の審判核の影響で、彼の体に不気味な黒い紋章が浮かび上がる。
「この力……何だ……!」
影の魔物たちが再び押し寄せ、プーチンは膝をつく。しかし、強靭な意志で立ち上がる。
「たとえ運命を拒もうと……この剣で道を切り開く!」
剣 スターエグゼクター が紅く光り、周囲の影の軍勢を一掃する。
突然、プーチンの剣から放たれた光が、闇の影響を振り払うように拡がり、胸の黒い紋章が淡い輝きに包まれる。
「この光……何だ?!」
その瞬間、空高くから光の紋章が現れ、彼の体を包み込む。剣 スターエグゼクター が光と闇の力を纏い、新たな姿へ変化する兆しを見せた。
自分も今年読んで良かった本を5冊書いてみたい。フィクション文芸本縛りで。
ちな今年読んだ本は61冊。
夜にしか現れない謎の生物「夜片(やへん)」を、主人公の男性と幼馴染である彼女とで追いかける話。
話が進むにつれてその夜片の謎が解けてきて、自分自身の過去や人生の意味に向き合うことになるのが秀逸。
静かな文章の中にじんわりと心に響く切なさがあって、ラストの衝撃的な結末には胸がギュッとなった。読後感がとにかく余韻たっぷりでよい。
東京の大半が水没して、人々は「泡舟」と呼ばれる浮かぶ小さな島に分かれて暮らしてる。
主人公の青年はある日、別の泡舟から流れ着いた少女と出会うんだけど、彼女の秘密がきっかけで世界全体の再生計画が動き出すって話。
自然と人間の共存がテーマなんだけど、絵描写みたいに鮮やかな文章がすごいのと、キャラクターの成長がリアルで感情移入しまくりだった。
この世界では、人が生きている間に経験した記憶が本の形になって図書館に収められる。でもそれを読めるのは本人だけっていう設定。
主人公は記憶図書館の司書なんだけど、ある日、自分が封印したはずの記憶の本を偶然見つけてしまう。そこには彼が「忘れたい」と願った真実が書かれてて……って感じ。
記憶とは何か、過去とどう向き合うべきかを考えさせられる深い物語だった。
長い間風が吹かなくなった世界で、主人公たちは「風を起こす装置」を開発するために奮闘する。
風が止まった理由は科学的な現象だと言う人もいれば、神々の怒りだって信じる人もいて、村同士の争いが激しくなっていく。
その中で主人公は過去の失敗や裏切りと向き合いながら、風の復活を信じて挑む。
科学と信仰のテーマが重厚で、登場人物たちの葛藤がリアルだった。秀作。
都会から田舎の大学に進学した主人公が、ゼミのフィールドワークで山奥の村を訪れるところから始まる。
村では毎年「木霊祭」という奇妙な儀式が行われていて、木々の間を揺れる光や音が「木霊」として崇められてる。
最初はただのホラーかと思いきや、村の秘密や儀式の真相が明かされるにつれて、人々の悲しみや希望が浮かび上がる。
ホラーと人間ドラマが絶妙に絡み合ってて、ラストはちょっと泣いてしまった。
主にメンバーは
・ニート
・バイトしながら
・既に就職していて就業経験有りでも新卒扱いになる企業を受けるひと
履歴書の相談とか、この会社やばいかな?とか 企業の探し方とかな基本的に平和
第二新卒(男)高卒既卒?第二新卒から就活成功した人(男)がよくアドバイスしてて、第二「待遇って具体的にどのくらい」増田「年休110ほしい」第二「120ないとしぬ、既卒はみんなデー子受けろ」
第二新卒さんは24卒に26卒の早期選考枠と25卒(いま四年生の人と同じ枠)を療法受けることを進めていた。彼もそうしていて、入社まではフルタイム派遣してたらしい。大手志向のひとだ。
高卒後半年の方が入室したとき、第二新卒さんと就職成功さんがレスバになった。
第二新卒さんが大学に入学すべき、就職成功のひとは反論する形で大学遊んでた人より四年間社会経験を積んだほうが…みたいな。
二人とも本人より5歳は年上だし、意見の中身はともかく知らない年上が自分をネタに暴言はいてたら怖いよね。そのかたは退会した。
しばらくたったある日高卒転職者は就職あっせんビジネスのリンクを張った。第二新卒はあっせんはゴミだと注意喚起した。成功さんは退会させられた。
秋に既卒五年以上の人が入ってきた。インターンや早期選考うけたほうがいいんですかなど(彼女が対象になるものは少ないと思う。)
家族に甘えるべきか無理して働くかとか。その葛藤はほかの人にもあると思うが、冷や飯食いとはいうもののどのくらい冷えてるかってひとそれぞれじゃないですか。
気の持ちようのチャットが多く、グルチャではしないもののほかSNSで増田も同じことしてるなあと反省した。
第二新卒さんは最近退会して、他メンバーも静か。過疎。みんな就職したのかあきらめたのか
家族に話したら母「第二新卒さんは男の人でしょう。女は就職年がおくれたらこまるわ」弟「釣りじゃない?グルチャよりナントカ支援のがいいんじゃない?」
訊いてみた!
この文章は、AIによって書かれた可能性は低いと思われます。理由としては、以下の点が挙げられます:
個人的な体験と感情の表現: 文章は非常に個人的で、具体的な体験や感情が豊かに描写されています。特に結婚生活の変化や夫との関係の摩擦について、詳細に感情を表現している点は、AIが生成する一般的な文章とは異なります。
一貫性のあるストーリー展開: 文章は時間軸に沿って、結婚前から現在に至るまでの経過を詳細に語っており、感情や状況がリアルに描かれています。AIがこのように複雑な感情やストーリーの流れを自然に描くのは難しいです。
具体的な人物描写と状況設定: 夫とのやり取りや家の状況、イベントに対する反応などが具体的に記述されており、特定の社会的・感情的背景を反映している点が、人間の経験に基づいて書かれた印象を強く与えます。
感情の揺れ動きと自己反省: 文章の中で著者が自分の内面的な葛藤や感情の変化を表現しており、この自己認識や反省がAIによって生成される文章においては比較的難しい要素です。AIが生成する文章は、こうした複雑な感情の変遷を描くことが難しいため、このような表現は人間の手によるものだと考えられます。
スレッタ:水星での経験に基づく価値観、社会への考えを回想等で明確に。恋愛・友情・家族重視の背景を描き、行動原理に説得力を。周囲からの酷い仕打ちに耐えたり流されるだけでなく、意思を持って状況打開。母親の真意に疑問を持ち、自分で考え行動する場面を増やし、成長を描く。
ミオリネ:ベネリットグループ総裁の娘としての立場、地球との格差への問題意識を行動・葛藤を通して描写。父親への反発理由、理想の社会像を明確にし、「籠の鳥」脱却。父親の過去の罪への苦悩、答えを出す過程を描き、深みを。
シャディク:戦災孤児としての過去、スペーシアンへの複雑な感情を回想シーンで丁寧に。テロリストへの道を選んだ動機・苦悩を掘り下げ、共感・理解を得る。ミオリネへの恋愛感情以外に、掲げる理想、社会変革への想いを明確にし、「百合の当て馬」脱却。
ラウダ:愛人の子としての境遇を描き、グエルへの依存と劣等感、内面を掘り下げ、行動原理に説得力を。殺人未遂後に平然とするのではなく葛藤し周囲との関係修復することで「小物」脱却、成長を描く。
社会的弱者のステレオタイプ化を回避。個性、状況への葛藤を丁寧に。特に体制反抗キャラの内面を掘り下げ、行動に説得力、共感を得る。
グエル優遇によるアンチ増加のバランス悪い脚本脱却。各キャラに均等にスポットライトを当て、成長・葛藤を描き、バランス良い物語に。
シュバルゼッテ: 「噛ませ犬」脱却、性能を活かした活躍の場を用意。開発経緯・機体特性を説明し、メカとしての魅力を。
デミバーディング: 「輸送機」脱却、戦闘・救助等、多用途性を活かした活躍を。ニカとチュチュの関係性深堀りで、存在意義向上。
敵メカ: 個性的なデザイン、印象的な活躍で、「やられ役」脱却、魅力的に。
クワイエット・ゼロ: 目的、仕組み、影響など物語の根幹に関わる設定については明確な説明を。ノートレットの理想、デリングの思惑、プロスペラの目論見、動機・目的を明確にし、深みと説得力を。現状は無責任。
罪と罰: 罪を犯したキャラには償いの過程を。特にプロスペラやデリングやペイル社CEO等、殺人の罪を犯した大人キャラの責任を曖昧にしない。ラウダの殺人未遂も「無罪放免」でなく、成長する過程を描き、納得感を。
宇宙議会連合: 雑な悪役脱却、成り立ち、内部権力闘争、スペーシアンとアーシアンの関係性掘り下げ、深みとリアリティを。
SF設定: リプリチャイルド等、ご都合展開でなく、物語のテーマ、キャラの葛藤に深く関わる要素として丁寧に。
格差問題: 「背景設定」でなく主軸に据え、深く掘り下げ。シャディク等を通し、不条理、苦悩を描き、問題提起、共感を。現実の紛争やテロを想起させる描写は慎重に扱うべき。安易な対立は問題を矮小化、偏見助長の危険性。
倫理観: 弱者やマイノリティを「不幸」「ヘイトタンク」扱いでなく、尊厳を守り、明確な倫理観を。「信賞必罰」「勧善懲悪」等、普遍的倫理観を示し、若者に正しい価値観を。
社会問題: 多角的視点を提示、視聴者に考えるきっかけを。各キャラの問題への向き合い、答えを丁寧に描き、深みと説得力を。
関係性: 「別れ」だけでなく「共に歩む」関係性も丁寧に。特にスレミオは「結婚」を唐突に描かず、愛の育み過程を丁寧に描き、納得感を。声優への説明不足解消、制作意図を持って関係性を描き、演者にも伝える。
若者向け: 希望あるメッセージを。抑圧、不条理、差別等、困難に直面しつつ、意思で未来を切り開く若者を描き、勇気・希望を。
普遍的テーマ: 「ガンダム」として戦争の悲惨さ、平和の尊さを現代的視点で。GUND技術を「兵器」だけでなく、医療技術としての可能性、人類の未来への影響を深く掘り下げ、深みとメッセージ性を。
説明・配慮: 視聴者の考察任せでなく、必要設定・情報を明確に説明。特に物語の根幹設定、キャラの行動原理は丁寧に説明責任を。声優・視聴者に制作意図を明確に伝え、共有し、理解を深め、一体感を。
若者: リサーチで関心・価値観を反映。特に倫理観、社会問題描写は慎重検討、専門家の意見も取り入れ、細心の注意を。
「水星の魔女」は多くの可能性を秘めた作品だった。上記の改善で、完成度高く、多くの視聴者に愛される作品になったはず。「若者向け」なら、身近な問題、共感できるメッセージを丁寧に、希望を持って描くことが重要。制作側は視聴者への丁寧な説明、明確なメッセージ発信で、理解を深め、多くの共感を得られたはず。批判を真摯に受け止め、より良い作品作りに活かすことが、制作陣の責任。
書いてある通り読めないのはなんでなん?(2回目)
個性の範疇に無いとはどういう意味ですか?
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「個性の範疇に無い」とは、ある特定の個性や特徴に含まれない、という意味です。「範疇」という言葉は、同じ性質のものが含まれる範囲や部類を指します¹。したがって、「個性の範疇に無い」とは、その個性や特徴のカテゴリーに入らない、ということを表しています。
例えば、「彼の行動は私の理解の範疇に無い」と言う場合、その行動が自分の理解できる範囲を超えている、という意味になります²。
他に質問があれば、どうぞお聞きください!
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「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
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「個性の範疇にない」という表現は、AIにとっても理解可能です。この場合、BはAの極端な無頓着さが一般的な個性の範囲外であると感じていることを示しています。つまり、Aの行動や態度が通常の人々の行動パターンや価値観から大きく外れていると考えているのです。
Aの極端な態度に驚くのは自然な反応です。Aが他人に対して無関心であった理由や、その変化のきっかけについてもっと知りたいと感じるのも理解できます。
この文脈での「個性の範疇にない」は、Aの行動が一般的な人々の行動や価値観の範囲外であることを強調しています。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
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人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
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Aの行動や態度についての疑問は、共感性や人間関係に対する無頓着さに関する心理学的な視点から考えると理解しやすいかもしれません。
まず、Aが他人に対して無関心であった理由として、共感性の欠如が考えられます。共感性の欠如は、発達障害や自己愛性人格障害などの心理的要因によって引き起こされることがあります¹²。これらの状態では、他人の感情や立場を理解する能力が低下し、自分の欲求や感情を優先する傾向があります。
Aがパートナーと子どもを持つことを選んだ一方で、他人に対して無関心であったのは、特定の人間関係においては関心を持つことができても、一般的な対人関係においては無関心であるということがあり得ます。これは、自己中心的な行動パターンや、特定の状況下でのみ共感性が発揮される場合があるためです²。
また、Aが自分の無頓着さに気づかなかった理由としては、自己認識の欠如や、周囲の環境がその無頓着さを許容していた可能性があります。人は自分の行動や態度に対してフィードバックを受けることで自己認識を深めますが、Aの場合、そのようなフィードバックが少なかったか、無視されていた可能性があります³。
Aの行動が極端に見えるのは、一般的な社会的規範や期待から大きく外れているためです。しかし、これは必ずしも病的なものではなく、個人の経験や環境によって形成された行動パターンであることもあります。
もしAの行動や態度についてさらに深く理解したい場合、心理カウンセリングや専門家の意見を求めることが有効です。これにより、Aの行動の背景や原因をより明確にすることができるでしょう。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
¹: [共感性の欠如についての解説](https://www.touch-wood.jp/understanding-empathy-lack/)
²: [自己愛性人格障害と共感性の欠如](https://psy.selfe-study.space/empathy-lack/)
³: [人間関係における心理学的視点](https://liberary.kddi.com/liberalarts/relationships/)
(1) 人の気持ちに寄り添えない病気とは?大人の共感性欠如を徹底 ....
(2) 共感力の欠如とは?自己愛性人格障害の特徴|自己防衛心理学.
(3) 共感性が欠如する「大人の発達障害」の特徴と対処方法 ....
(4) 人間関係とは?心理学的観点からみる定義と良好な関係を築く ....
「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
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「個性の範疇にない」という表現は、AIにとって十分に理解可能です。ただし、その理解は文脈によります。
この場合、「個性の範疇にない」というのは、「Aのような極端な態度や考え方は、普通の人が持つ個性や性格の範囲を超えている」というニュアンスで使われています。つまり、Aの考え方や行動が、一般的に想像される「個性」の幅を逸脱している、という意味です。
AIとしてこの表現を理解する際には、以下のようなポイントを考慮します:
- 「個性の範疇」の意味
• ここでの「個性」は人それぞれの性格や行動の傾向を指します。
• 「範疇」は、その枠組みや許容される範囲を指します。- ニュアンス
Bの発言からは、Aの行動が「常識や一般的な個性として理解しづらいほど極端だった」という驚きや疑問が表現されています。
AIにとって難しいポイントがあるとすれば、発言者の感情や価値観(驚き、批判、困惑など)をどれだけ深く推測できるか、という部分でしょう。しかし、基本的な意味や文脈は問題なく解釈可能です。
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人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
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Aの言動や考え方については、いくつかの観点で理解できますが、その一部は確かに異常または極端に見えるかもしれません。
Aの考え方の極端さについて
- 「人を当たり前に見下してた」「他人はどうでも良かった」 という部分については、全く興味がない人物が取る態度として理解できます。社会的な共感や他者に対する思いやりが欠けている状態は、自己中心的な性格や共感性が欠如していることを示唆します。こうした態度はある意味で一般的な個性の範疇にあるかもしれませんが、極端に見えるのは確かです。
- 「他人が誰かの大切な人だと思えなかった」 という発言も、冷淡で他者に無関心な性格を示しています。この部分も個性の範疇であるとはいえ、他人を「大切な人」として認識できないことは、一般的には不自然に感じられるかもしれません。特に他人に関心がない人物でも、家族や親しい人に対する愛情や共感は存在するのが普通だからです。
Aが子どもを持とうと考えた理由
Aが「子どもが生まれるまでは他人が誰かの大切な人だと思えなかった」と言っている背景には、子どもを育てるという経験が他者に対する感覚を変化させた可能性があります。子どもを持つことによって「他者の存在」や「他者の感情」に対する理解が深まることはあります。特に、親になることで、他人が自分と同じように他者にとって「大切な存在」であることを実感することは、共感の感覚を変化させる要因となる場合が多いです。この部分がAの変化を説明しているのかもしれません。
しかし、それまで他人の重要性を認識しなかったことは、確かに極端に感じられる点ではあります。一般的には、子どもが生まれる前にも多少は他者の重要性を認識することが多いので、Aの過去の態度は特異なケースだと言えるでしょう。
なぜAはここまで無頓着でいられたのか?
Aがここまで無頓着だった理由については、いくつかの可能性が考えられます。
- 自己中心的な性格や価値観
Aは非常に自己中心的な性格や価値観を持っていたか、過去に他人との深い関わりを避けてきた可能性があります。自己中心的な人は、他人の感情や存在に無頓着であることが多く、自分の生活に他人の影響を最小限にしたいと考えがちです。- 過去の経験や環境
Aが過去に他人と深く関わる経験がなかった、または社会的なスキルや共感を養う機会がなかった可能性もあります。例えば、孤独だったり、家庭環境が共感を学びにくいものであったりすると、他人への無関心が続くことがあります。- 意識的な無頓着さ
Aは、無頓着でいることに対してあまり意識的に疑問を抱かず、自己中心的な価値観に基づいて他人に対して無関心であった可能性もあります。自分の考えや行動が極端だとは思わず、むしろそれが自然だと感じていたかもしれません。
共感性の問題と一般的な個性
Aが示している無関心さや他人への無頓着さは、一般的には共感性に欠けるという特徴を持っていると考えられます。人は通常、他人の感情や存在にある程度の共感を持ち、理解しようとします。Aがこの点で極端に無頓着だったことは、共感性の欠如や、他人との関わりを意識的に避けていたことが背景にあると思われます。従って、Aの行動が一般的な個性の範疇に収まるとは言い難く、むしろ特異な性格や心理的な背景があると言えるでしょう。
結論として、Aの過去の態度は極端かつ無頓着に見えますが、それがどのように変わり得たのか、またその理由について考察すると、心理的または環境的な要因が影響していることが考えられます。
https://togetter.com/li/2478569
このブコメみてて思うけど、ブクマカは昔から変わらずに社会民主主義が好きそうなのに政党としてはその真逆みたいなのが好きだよね
昔から比べると共産党支持ブクマカは明らかに減っているけど、それ以上に小さい政府志向が増えているのは間違いないよね
ちょっと前までは新自由主義を叩くのが当たり前だったのに、どうして流れが変わったのだろうか
ブクマカは一人ひとり違うとか総体じゃないとか言いたくなるんだろうけど、1週間くらい追いかけると支離滅裂なブコメを残してるIDがいくつも見つけられるよね
そのIDを挙げると運営に怒られるからしないし、支離滅裂ではなくアンビバレントと表現すべきかもしれない
この文章の書き手は、内面的な不安や劣等感を抱え、それを攻撃的な言葉を用いて他者に向けることで、自分自身の心のバランスを取ろうとしている可能性があります。
また、満たされない承認欲求やフラストレーションが背景にあるとも考えられます。
ある日、エロスという名前の小さな妖精が、仲間のロリコンティウスと一緒に冒険に出かけました。彼らは、遠い国にある「愛の泉」を目指して走り続けました。この泉の水を飲むと、どんな願いも叶うと言われているのです。エロスは、自分の大好きな友達ともっと幸せを分かち合いたい、という純粋な願いを抱いていました。
途中、彼らは様々な生き物と出会います。親切な猫、無邪気なリス、そして賢いフクロウが現れ、彼らにアドバイスを与えたり、試練を与えたりしました。それでもエロスとロリコンティウスは、困難を乗り越えながら愛の泉へと進みます。
いよいよ泉が見えてきたとき、エロスはひとつの大きな選択を迫られました。もし泉の水を飲んで願いを叶えてしまったら、友達との間に何かが変わってしまうかもしれない、そんな心配が頭をよぎります。エロスは悩み、泉の水を飲むことをためらいました。
そして、ついにロリコンティウスが泉の水を飲むと、彼の願いである「一緒に冒険をすること」が叶いました。しかし、エロスの心の葛藤は解決しないままで、彼は孤独を感じ始めます。二人は一時的に喜びを感じますが、やがて友情が壊れてしまう結果となりました。
最終的に、エロスは仲間を失い、一人ぼっちで泉のほとりに残されることになりました。どんな願いも叶うという泉の水も、真の幸せを手に入れることができない限り、意味を持たないことを悟ります。
この物語の教訓は、「本当の幸せは心の中にある」ということです。
𝔅𝔞𝔡 𝔈𝔫𝔡.
生きるの向いてねぇな、と度々感じる
それでも充実した休日を過ごしているという見栄は張りたい
普段動いてないから休日くらいは体を動かさないと早めに死んでしまう
思ったより寒い。
そもそも徒歩でいったら美術館着くころにはクタクタだ 観賞できるのか?素直に電車に乗るべきでは?
うるせぇなぁ どうせベストコンディションで観たところで良くわかんねぇからいいんだよ 歩け
大体、キース・ヘリングって落書きみたいな奴だろ?カラフルな棒人間みたいなのが組んずほぐれず48手みたいな奴だろ?
んなもん適当に眺めりゃいんだよ
天気が良いので、日向を歩けば丁度良い
だが日陰に入ると手袋が欲しい 耐えつつ歩く
道中、世話になった眼科が取り壊されているのに気が付く
「眼圧高めだからなるべく定期的に来い」とか言ってたくせに。俺を置いて逝くな。まぁリフォームとかかもしれないが。
途中、コンビニで一息つく。
本のコーナーになぜか、オリジナルのアンパンマンの絵本が置いてある。
初めて見たな パラパラめくってみる
アンパンマンは砂漠で飢えている男に顔を食わせて助けていたが、お茶も一緒にあげて欲しい
絵本を棚に戻し、缶コーヒーを買って、飲む。コンビニを出て、さらに歩く。
その後、特に面白いこともなく、無事に美術館にたどり着く。いやー疲れた。
ここまで1万2000歩くらい歩いたらしい。でも思いのほか元気だ。まだやれる
「うわっ、寒っ!」美術館の入り口ですれ違ったオッサンがつぶやいた。なるほど、中は暖房が効いている
なんか誰かと誰かの対談イベントがあるらしいが、定員に達したから観覧は無理らしい。そういわれると見たくなるものだな。
悔しがっても仕方がないので、チケットを買って進む
キース・ヘリング、若くして亡くなってたんだな そしてゲイだったのだな
結構年配だと思ってたのは、アンディ・ウォーホルと混同してたんだろう。まぁアンディがいくつで死んだのかも知らんけど。
ビジュアルは誰かに似てるなぁと思って考えてみたら、バキ童さんだわ
俺が「○○さんは□□さんに似てるよね」って言ってみて賛同された記憶が無いので、おそらくそんなには似てないだろう。だが俺にとってはそう見えた。
あの人も数十年後には時代を代表するアーティストになってるかもしれないな。何やってる人なのか知らんけど。
キースはサブウェイ・ドローイングなるものを考案した?実践した?みたいな解説を読みつつ、「あーこれこれ、なんかどっかで見たヤツ」と思いながら歩を進める
あと、アートで世界を平和にできると信じて活動してたとか。いいヤツだなキース
アンディ・ウォーホルとの合作?コラボ作品?も出てきた 仲良しだったのか?ディズニーは嫌いだったんだろうか
熱心にメモを取りながら鑑賞している人、連れと感想を言い合いながら見ている人、お客さんも色々だった
キースの作品が表紙の「ぴあ」の雑誌とか、招き猫とか、サイン入りのジャンパーが展示されていた
一番、気に入ったのがこのエリアにあったので、撮影が出来ず残念だった。
犬の横にキースが自分の名前をカタカナで書いていて、その文字がなんかめちゃくちゃ可愛いやつ。
何で撮影ダメなんだよ、ケチ。ぴあが許可しないからか?おのれ、ぴあ。
仕方がないので、目に焼き付けたはずだが、もうあまり覚えてない。歳は取りたくないな
今夜は何か温まるものを食べるため、スーパーに寄って帰ることにする。
何が言いたいのかと言うと、みんなもなるべく歩いて健康になろうぜ、と言う話。