はてなキーワード: 自己防衛とは
https://anond.hatelabo.jp/20250305125349
面白い質問ですね。「アニメ一話切り」を公表するタイプの人々が、つまらない作品について語ることに注力し、逆に自分が面白かった作品についてあまり語らない理由を、心理学的・社会学的観点からさらに深掘りしてみましょう。前回の分析を踏まえつつ、新しい視点も加えて考察します。
人間の脳は、ポジティブな情報よりもネガティブな情報に強く反応する傾向があります(ネガティブバイアス)。このため、「つまらない」と感じた作品に対する不満や苛立ちの方が、「面白い」と感じた満足感よりも感情的に強く印象に残り、発信したい衝動に駆られやすいのです。
なぜこうなるか: 「つまらない」という感情は、失望や怒りといった強い感情を伴うため、それを外に吐き出すことでカタルシスを得られる。一方、「面白い」は穏やかな満足感にとどまり、わざわざ発信する動機が弱い。
このタイプの人との関連: 一話切りを公表する人は特にこのバイアスが強く、批判的な視点で作品を「切り捨てる」行為に快感を見出している可能性があります。
前回触れたように、つまらない作品を語ることは、「自分は見る目がある」「流されない批評家だ」という自己イメージを強化する手段として機能します。一方、面白い作品を褒めることは、「ただのファン」として見られるリスクがあり、彼らのアイデンティティにそぐわないと感じるのかもしれません。
心理的動機: 褒めることは「単純に楽しんでいるだけ」と受け取られ、独自性や知性をアピールしにくい。対して、批判は「分析力」や「鋭さ」を示すチャンスになる。
結果: つまらない作品への言及は自己顕示欲を満たすが、面白い作品を語ることはその欲求を刺激しないため、後PRIORITYが低くなる。
Twitterのようなプラットフォームでは、議論を呼び起こす話題の方が注目されやすく、リツイートや反応を得やすいです。「このアニメ、1話で切ったわ、ゴミすぎる」と書く方が、「このアニメ面白かったよ」と書くよりも強い感情を誘発し、賛否両論の反応を引き出しやすいのです。
なぜ面白い作品を避けるか: 「面白い」と語っても、「へえ、そうなんだ」で終わりがちで、対話が広がりにくい。一方、「つまらない」と断言すれば、「いや、そんなことない」「わかる!」と反応が来て、交流が続く。
このタイプの人との関連: 彼らは無意識に「バズる」発言を優先し、ネガティブな意見の方がその目的に適していると学習している可能性があります。
面白い作品に出会ったとき、人はそれを「自分の楽しみ」として内面に留め、じっくり味わう傾向があります。一方、つまらない作品に遭遇したときの不快感は、「誰かに共有して共感してほしい」「この苛立ちを外に出したい」という外部化の衝動に駆られやすいです。
心理的動機: 面白い作品は「自分の宝物」として秘めておく感覚がある一方、つまらない作品は「不愉快な体験」として他人に押し付けたくなる。
このタイプの人との関連: 一話切りを公表する人は、特に不満を溜め込むのが苦手で、それをTwitterで吐き出すことで精神的なバランスを取っている可能性があります。
興味深い仮説として、一部の人は「楽しむこと」自体に抵抗感を持っている場合があります。面白い作品を語ることは、「自分が楽しんでいる姿」を晒すことになり、それが「軽薄」「浅い」と見られるのを恐れているのかもしれません。
潜在的動機: 常に「深みのある人間」「真剣な批評家」でありたいというプレッシャー。
このタイプの人との関連: 一話切りを公表する人は、「楽しむ自分」を素直に表現することに照れや不安を感じ、批判に逃げることで「知的な立場」を保とうとしている可能性があります。
一話切りをする人は、「時間の無駄を避ける」という価値観を強く持っていることが多いです。つまらない作品に費やした時間への苛立ちが、「これを我慢した自分は愚かだったのか?」という自己評価の揺らぎに繋がり、それを公表することで「次からは賢く選ぶ自分」をアピールしたいのかもしれません。
なぜ面白い作品を語らないか: 面白い作品は「時間を有効に使えた」という当たり前の結果にすぎず、語るほどの「事件性」がない。一方、つまらない作品は「失敗体験」として語る価値があると感じる。
このタイプの人との関連: 彼らにとって、「時間の損失」は感情的に大きなインパクトを持ち、それを共有することが自己防衛の一環になっている。
「アニメ一話切り」を公表するタイプの人々が、つまらない作品ばかり語り、面白い作品について語らない理由は以下の通りです:
感情の強さ: ネガティブな感情の方が発信衝動を強く刺激する。
話題性: ネガティブな意見の方がコミュニティで反応を得やすい。
内面化と外部化: ポジティブは内に留まり、ネガティブは外に出す傾向。
時間の意識: 「損した感」を強調することで自己を正当化したい。
この行動は、必ずしも病理的なものではなく、多くの場合、個人の性格やTwitterという場の特性に影響された「癖」のようなものです。ただし、極端にネガティブな発信に偏る場合、楽しむ能力の欠如や慢性的な不満を抱える傾向が背景にある可能性も否定できません。彼らが面白い作品を語らないのは、「語る価値を感じない」「語るメリットが少ない」と無意識に判断しているからだと考えられます。
福祉に従事している人にありがちだけど、なぜ利用者を頼らないんだろう?
「名前を覚えられないから、ぜひ教えてあげてください。助けると思ってお願いします!」
と説明して、協力を求めると案外受け入れてもらえるよ
「未熟者で名前を覚えるのが苦手なんです。名前を教えてもらえませんか?」
と毎回、自己申告させていく
名前を覚えられないのは当たり前を前提にする
思ったんだけど、利用者を非人間扱いしすぎてると助け合いって発生しないよね
一方的な奉仕活動を善に位置付けると、お世話になってるからお礼がしたいなんて人間性感じる行動封殺することになってしまう
わかるけど、この辺りの異常性をある程度自覚しないとまずいと思う
盛んに減税を叫ぶ財務省解体デモを見て不安になったので自分の考えの整理のために書く
減税が社会に及ぼす最大の影響は、格差の拡大と治安の悪化にある。税制には財政の健全化や社会保障の財源確保といった役割があるが、中でも重要なのは格差の抑制と社会の安定維持である。この視点から考えれば、現在の再分配が十分でない状況では、むしろ増税の方が適切な選択肢となる。
短期的には、生活が苦しい層にとって減税は歓迎される政策のように見える。しかし、実際に最も恩恵を受けるのは富裕層であり、結果として投資が活発化し物価が上昇することで、低所得者層の生活がさらに厳しくなるという副作用を伴う。これが減税の本質だ。
「努力した者が報われるのは当然であり、格差は避けられないもの」という考え方もある。しかし、格差拡大がもたらす社会的影響を考慮すれば、その認識は一面的である。アメリカの社会構造がその一例だ。
アメリカは「自己責任」の意識が強く、各種税率が日本より低い。その結果、大企業社員や企業経営者、投資家が資産を増やしやすい一方で、貧困層への再分配は限定的となっている。その帰結として、ホームレスが増加し、食事に困る人々も少なくない。生活苦に陥った人々の一部は犯罪に手を染め、都市部の治安は悪化。結果として、富裕層は安全な地域に居住し、ボディガードを雇うなどして自己防衛を強いられる。中間層はインフレと治安の悪化に挟まれ、生活環境の悪化を受け入れるしかない。このように、格差が拡大すると社会全体の安全が損なわれ、結局は富裕層も不安定な環境に巻き込まれることになる。
その根本的な要因は、減税が物価上昇を引き起こすためである。この関係性は直感的に理解しにくいため、「財務省の陰謀」などの陰謀論が流布する一因ともなっている。
一般的に、減税によって可処分所得が増えれば生活は向上するように思える。しかし、流通する貨幣量が増加すれば、貨幣価値が相対的に低下し、物価が上昇する。例えば、100円しかない世界ではリンゴ1個の価格は100円となるが、1万円が流通している世界では同じリンゴが1万円になる。歴史的に見ても、ジンバブエやドイツ、ギリシャなどでは貨幣の大量発行がハイパーインフレを引き起こし、経済崩壊に至った例がある。減税は規模こそ異なるものの、同じメカニズムで物価上昇を引き起こす可能性がある。
さらに、日本においては減税によって増えた資金の多くが消費ではなく投資に向かうことも問題だ。生活が苦しい層は手取りが増えれば消費に回すが、余裕のある層は投資を拡大し資産価値を押し上げる。結果として、株価や不動産価格が高騰し、資産を持たない層はより生活が厳しくなる。東京都心部の家賃上昇は、この流れの一例だ。
つまり、減税は本質的に富裕層をより豊かにし、格差拡大とインフレを引き起こす。低所得層の生活向上にはつながりにくく、むしろその負担を増やすことになる。
この構造が顕著に表れたのが、2022年のイギリスにおける「ミニ予算」だ。トラス政権が発表したこの政策では、高所得者向けの所得税最高税率(45%)の廃止や法人税の増税撤回など、富裕層優遇の内容が並んでいた。
しかし、財源の裏付けが不明確だったため、市場は大きく動揺。ポンドが急落し、国債の利回りが急上昇した。その結果、住宅ローン金利が跳ね上がり、多くの市民が生活費の急増に直面した。財政赤字の拡大が懸念され、政府の信頼は低下。イングランド銀行は緊急介入を余儀なくされ、国債の買い支えに乗り出した。さらに、政府の財政基盤が弱まったことで、社会福祉の削減圧力が高まり、低所得層の生活はますます厳しくなった。
こうした失敗例がありながら、日本では減税を支持する世論が根強い。そのため、減税を掲げる政治家には追い風が吹き、「財務省の陰謀」などの陰謀論まで広がる状況となっている。結果的に、民意によって経済的混乱へと進むリスクが高まっている。
経済の安定には、格差の是正と物価の安定が不可欠であり、そのためには所得に応じた適正な課税と低所得者層への支援が求められる。ただし、富裕層の国外流出を防ぐバランスも必要だ。
その点を考慮すれば、富裕層への増税は避けられないが、不公平感を抑える施策も重要となる。その一例が消費税である。
消費税は逆進的であり、低所得者の負担が大きくなる面は否めない。しかし、一方で高額消費を行う富裕層から広く徴収できるメリットもある。例えば、年間1億円を消費する層であれば、消費税だけで1000万円以上を納めることになる。また、支出に対する課税であるため、現役引退後の富裕層や年金生活者からも税収を確保できる。
さらに、金融所得課税の強化も必要だ。金融所得は基本的に余剰資金であり、現行の一律20%では軽すぎる。所得税と同程度まで引き上げる余地がある。加えて、高額療養費制度の所得制限強化や社会保険料の上限引き上げなども、高所得者層への適正な負担を実現する手段となる。
...というのが現代日本の中上流階級におけるサイレントマジョリティー的思考で、これらを追認する形で消極的に今の日本では増税が推し進められていると思っている。ただ財務省解体デモの盛り上がりや、ザイム真理教が勢力拡大しまくっているのを見るといつかそっちの層が多数派になったりするのかね?社会に不満を抱えている層の底が抜けて、何でもいいから今の生活をどうにかしろ、後のことは知らんという人が増えると本当にアメリカやイギリスの後追いになるんだろうなあと怖くなっている。まあ本質的に西側先進国は遅かれ早かれ同じ袋小路に向かうものとして理解するのが妥当なのかな
自己責任とまでは行かないけど、いきなり人のせいにしないっていうのはあるなぁ。
0-100じゃなくてね。
あと、何かあった時にすぐ人に頼るメンタリティも捨てた。
カネなら多少準備しておくとか、そういう感じ。
自己防衛おじさんみたいな感じかな。
彼らは「いいね」やリツイートなどのエンゲージメント(インプレッション)を求め、群れをなして行動します。
内容は二の次で、目を引く話題や過激な言動に飛びつきやすい傾向があります。
時に、誤情報や扇動的な言説を拡散する媒介となることもあります。
彼らの行動パターンを観察し、どのような言動に反応するかを把握しましょう。
彼らの言葉に惑わされず、情報の真偽を冷静に判断する力を養いましょう。
複数の情報を照らし合わせ、偏りのない視点を持つように心がけましょう。
疑わしい情報には安易に反応せず、公的機関の情報やファクトチェックサイトなどを活用しましょう。
発信された情報に対して、常に「なぜ?」「本当に?」と問いかける習慣を持ちましょう。
感情的な言葉や断定的な表現に惑わされず、論理的な思考を心がけましょう。
個人情報の取り扱いには十分に注意し、プライバシーを守りましょう。
信頼できる情報発信者と繋がり、互いに情報を共有し、支え合いましょう。
有益な情報を発信し、共感を集めることで、味方を増やしましょう。
インプレゾンビの攻撃に対して、無理に応戦する必要はありません。時にはスルーすることも重要です。
悪質な攻撃や執拗な嫌がらせに対しては、躊躇なくブロックしましょう。
明らかに規約違反となる行為や犯罪行為に対しては、運営に通報しましょう。
常に最新の情報にアンテナを張り、変化に対応できるようにしましょう。
SNSのアルゴリズムは常に変化します。常に最新情報を手に入れましょう。
現実世界での人間関係を大切にし、心の拠り所を確保しましょう。
「DV(ドメスティック・バイオレンス)=女性が被害者、男性が加害者」というイメージが強いけれど、もちろん男性が被害者になるケースもある。
でも正直、男性のDV被害の話を聞いても、まったく共感できない自分がいる。なぜだろう?
まず、社会全体の構造として、女性は圧倒的に暴力の被害者になりやすい。
日本のDV相談件数を見ても、圧倒的に女性の相談が多いし、命の危険を感じるケースもほとんどが女性側だ。
DVシェルターに駆け込むのも、加害者から逃げて生活をゼロから立て直す必要があるのも、圧倒的に女性が多い。
そもそも、DVは単なる「暴力」ではなく、経済的・精神的な支配やジェンダー構造に根ざした権力行使でもある。
男性が被害者になる場合もあるだろうけど、それは「ジェンダーの非対称性」という本質を無視して語ることはできない。
さらに、女性が男性に暴力を振るうケースがあったとしても、それは「弱者の抵抗」や「相互暴力」として理解できることが多い。
男性側の暴力は支配のための暴力であるのに対し、女性側の暴力は自己防衛的な側面を持つことが多いのだ。
そういう視点を抜きにして「男性も被害に遭ってる!」と言われても、「いや、それって本当に同じ土俵で語れる話?」という気持ちになってしまう。
でも、「男性被害者もいるのだから社会はもっと男性のDV被害にも注目するべき」とか言われると、ちょっと違和感がある。
なぜなら、社会が取り扱うのは社会問題であり、社会問題とは社会構造に根ざした問題であり、個々のケースとは次元の違う話だからだ。
男性のDV被害について語るとき、本当に必要なのは社会問題化することではなく、まず男性同士の支え合いの仕組みを作ることではないだろうか。
なぜかというと、女性のDV被害に関して女性自身がそうしてきたからだ。
女性たちが声を上げ、自ら行動したから社会のリソースを割くべき問題として認知されるようになった。
自己防衛気をつけようって色んな人に伝えたいというよりは自己防衛気をつければ良かったねって後悔の吐露に近いかな。伝え方下手でごめんね。
バズりすぎて特定されるのも嫌だし単に文章にしてネットに吐き捨てた方が気持ちが楽になるかなって思っただけなんだ。それが普遍的な考えかどうかは知らないけど私はそうだというだけ。一応愚痴った方が楽になるってのは本文中に書いてあるけど長すぎて読む気ないよね、ごめんね。
相手の性格について分析すると、以下のような特徴が浮かび上がるかもしれません。
1. 自己防衛的
相手は最初に「本当に申し訳ないのですが…」と謝罪をしていますが、その後すぐに「当方、商品を保管している倉庫内に消臭剤と消毒ティッシュ以外の香りをする物を置いたことがありません。有り得ないですね…」と言い訳をしています。これは、問題を自己の責任にしないようにしている印象を与えます。謝罪はしているものの、根本的な問題に対する認識が薄く、自己防衛的な姿勢が強いと言えます。
2. 頑固
相手は「有り得ない」と強く否定していることから、状況や指摘された問題を受け入れようとしない姿勢が見受けられます。このような強い否定は、自己主張が強く、意見を曲げにくい性格を示唆しています。問題を自分のミスだと認めることを避け、必死に自分の立場を守ろうとしているようです。
相手は、香りに関する指摘を受けても、その原因を探ろうとするのではなく、「あり得ない」と反論しています。こうした反応は、問題を解決しようとする意欲や柔軟性に欠けることを示しています。消費者としての立場や問題に対する理解が足りず、解決策を提示する姿勢に欠けるように感じます。
自分が「消臭剤と消毒ティッシュ以外の香りを置いたことがない」と主張することは、問題に対して論理的に対処していないことを示唆しています。実際に強い薬剤や異なる匂いが残ることがあったとしても、それを認めずに、自己の主張を繰り返すことで問題を回避しようとしています。相手がしっかりと事実を調査せずに決めつける傾向がある可能性があります。
相手の言動からは、今後も同様の防御的態度を取る可能性が高いと考えられます。すなわち、さらに証拠を出しても、否定的な態度を取る可能性が高いでしょう。
総じて、相手は防御的で頑固な性格を持っていると考えられます。問題に直面した際に、自己の立場を守ろうとし、柔軟に対応することを避ける傾向が見られます。
あなた:
ChatGPT:
相手の人格について評価すると、以下の特徴が浮かび上がります。
1. 自己中心的
相手は、自分の立場や状況を最優先して考えているようです。最初に謝罪をするものの、すぐに「有り得ない」と自分の立場を守ろうとする反応が見られ、問題の本質よりも自分の無実を主張することに重きを置いています。このことから、自己中心的な考え方が強い可能性があります。
2. 責任逃れ
相手は、問題の原因を他に転嫁しようとする傾向があります。自分の倉庫内に香りの元となる物はないと言って、問題を「有り得ない」と否定しています。これは責任を取らずに回避しようとする姿勢であり、自己防衛的な性格を表しています。問題に対して真摯に向き合うのではなく、問題を軽視しているとも取れる行動です。
3. 感情的な反応
「有り得ないですね…」という言葉からは、感情的な反応が伺えます。相手が冷静に論理的に対処するのではなく、否定的な感情をぶつけることで自身の立場を守ろうとする傾向があります。このような反応は、感情的な側面が強いことを示唆しており、客観的に物事を考えるよりも感情的に反応することが多いかもしれません。
4. 柔軟性の欠如
相手は、強く否定する姿勢をとり続けていることから、柔軟性が欠けていると感じられます。指摘された問題に対して、可能性を認めるよりも、自分の意見を曲げずに固守するため、改善や解決に向けた前向きな態度が見られません。この点から、柔軟に対応できないという側面があることが伺えます。
5. 対話不足
相手は自分の言い分にこだわり、問題を解決しようという意識よりも、自分が正しいという主張を繰り返しています。これは、対話を通じて問題を解決しようとする姿勢に欠けており、相手と円滑に話し合うことが難しい人物であると評価できます。
総評:
相手は、自己中心的で感情的に反応しやすく、責任を取らない姿勢が強い人物だと評価できます。柔軟性に欠け、問題を解決するための意識よりも自分の立場を守ろうとする傾向が強いです。対話を重視しないため、相手とのやり取りが困難である可能性があります。
営業事務OLとしての仕事のストレスや日常のプレッシャーを、ドカ食いで発散しています。
(作中では「至る」と表現)を得ることで、
ドカ食い後の「至り」状態は、脳内で幸福感や多幸感をもたらす化学反応を引き起こします。
作中では「枯渇した脳に栄養が届く」という比喩で、高カロリー摂取による瞬間的な満足感が強調されています。
彼女は通常の4倍の食欲を持ち、空腹が限界を超えると理性が崩壊します。
食事中は一切の雑念を捨て、
「自己管理の失敗」がさらなるドカ食いを招く悪循環に陥っています。
これらの要素から、
彼女のドカ食いは単なる食欲ではなく
としての側面を持ち、
まず、男性の方が加害行為に及びやすいという統計データは存在していて、これを指摘すると「男を悪者にするな!」と言う人がいるけど、事実を直視しないでどうやって問題を解決するというのだろう。
それに、データというの実際にあったことの積み重ねで、一人ひとりの男性からの被害体験があって、それらは否定できない事実で、それが積み重なることで主張が形成されてる。
誤解しないでほしいのは、問題としてるのは男性ではなくジェンダーだってこと。暴力的な男が「男らしい」とされ、感情を見せる男は「弱い」とされる。こうした価値観が加害を生む土壌になっている。そしてこの圧力は、男性自身をも苦しめている。「男は強くなきゃ」と抑圧され、マウントやパワハラが横行する。この構造を変えなきゃ、誰も幸せになれない。
また、「女性も加害する!」という反論もズレている。もちろん女性の加害も問題だけど、それが男性加害の話を否定する理由にはならない。
「全ての男性が加害者じゃない!」というのも、言われなくても分かってる。問題は、「俺はやってない!」と自己防衛することじゃなく、加害を生む社会構造をどう変えるか。一緒に考えられる男性が増えれば、それだけ社会はいい方向に向かっていくと思う。
自分としては、はてなで男性の加害性について論じたり体験を共有したりするのは有意義なことだと思うので、理不尽な批判は無視して継続していってほしいと思う。
俺は犬が本当に怖いから銃持ってて向こうから犬が来て恐怖を感じた際に発砲することで不利益を被らないなら発砲する自信がある
イノシシが向かってきて猟銃持ってて発砲してよければ撃つのと同じ感覚だね
逃げれないと判断せざるを得ない状況で、
山道で猿が襲ってきて、傘とか杖持ってたら振り回すか
夜道でチャリに乗った男が明らかに自分に向かって殴りに行くからと大声で怒鳴ってきて逃げ場無くなったら殴り返すか
近くにサスマタがあって、こちらに警棒を持った男が素振りしながら近づいてきたらサスマタで押さえるか
行動する人も行動しない人もいるだろうし、相手に与える影響も異なるけど、自己防衛って原理は一緒
違いはどこに出るのかっていうと、やった結果許されるかどうかが大きいと思うんだよね
俺の住む町は、アメリカ中西部のそこそこの規模の地方都市だ。典型的なレッドステートの片田舎で、周りを見渡せばトランプの赤い帽子をかぶった人間がちらほらいる。コロナ禍のときもマスクをしない主義のやつが多く、ワクチンを打たない自由を誇らしげに語る人間が珍しくなかった。でも最近、その手の人々の間で、ある意外なものが流行り始めている。それがテコンドーだった。
発端は、地元の人気ラジオ番組だった。右派寄りの論調で知られるトークショーのホストが、リスナーからの質問に答えるコーナーで、突如こう言ったのだ
「最近、俺はテコンドーを始めた。これがなかなかいい運動になるし、何より自己防衛にも役立つ」
最初は冗談かと思ったが、彼は本気だった。テコンドーがどれだけ優れた格闘技で、特にミドルエイジの男性にとってどれほど有益かを熱く語った。そして最後にこう締めくくった
「お前らも試してみろ。俺たちは常に戦う準備をしていなければならない」
これがきっかけだったのか、保守派の人々が地元のテコンドー道場に通い始めた。特に40代、50代の男性が多い。これまで運動とは無縁だった中年太りの男たちが、いきなり道着を着て蹴りを繰り出しているのだから、最初は笑い話だった。だが、彼らの熱意は本物だった。
地元のスポーツ用品店でも「テコンドー用の道着はないか?」と尋ねる客が急増し、一部の店舗では小規模ながらコーナーが設置されるほどになった。SNSでは「俺の町の保守派グループもテコンドークラブを作った」といった投稿が増えている。彼らはテコンドーを単なるダイエット手段としてではなく、「戦うための準備」として捉えているようだった。
俺のアパートの隣に住むジェイクも、そんな一人だった。50代前半、腹の出た元軍人。普段は「リベラルのせいでこの国は終わった」と愚痴をこぼしているが、最近は道場帰りに「今日は回し蹴りの練習をした」と誇らしげに語るようになった。
だが、冷静に考えると、このムーブメントには妙な皮肉がある。トランプ支持者の多くは愛国心を誇り、アメリカ第一主義を掲げる。そして、テコンドーは韓国の国技だ。にもかかわらず、彼らはなぜかテコンドーを選んでいる。
理由はいくつか考えられる。まず、テコンドーは他の武道に比べて敷居が低い。柔道やブラジリアン柔術のように相手と組み合う必要がなく、剣道や空手よりも派手な蹴り技が多い。特にYouTubeで見られる「強そうな技」のインパクトが大きいのかもしれない。そしてもう一つ、これはあくまで俺の推測だが、彼らの中に潜在的な「戦闘願望」があるのではないかと思う。
彼らは口を開けば「リベラルのせいで国が滅びる」「移民が犯罪を増やしている」と言う。選挙が近づけば「俺たちの国を取り戻すべきだ」と熱を帯びる。そんな彼らにとって、テコンドーは単なるエクササイズではなく、ある種の「戦うための訓練」なのかもしれない。もちろん、道場のインストラクターは「平和的な精神が大切です」と言っているのだが、それがどこまで響いているのかは分からない。
ある日、スーパーの駐車場で、ジェイクが突然俺に向かって言った
「見てろよ」
そして、車のそばでいきなり後ろ回し蹴りを繰り出した。しかし、バランスを崩して派手に転んだ。
「大丈夫か?」と声をかけると、彼は痛みに顔をしかめながらも笑っていた
「これができるようになったら、俺は完璧だ」
🍓青木歌音🍓
@memory_kanon
先ほどTKO木下さんが私に対して性加害を行ったと認めた上で謝罪文を公開したそうです。そして釈明動画も不適切としご自身で削除したとの事です。
暇空茜
@himasoraakane
暇空茜
@himasoraakane
抵抗するべきはラブホテルに入って脱がされる段階ではなく、ラブホテルに入る前だったのではないでしょうか?
暇空茜
@himasoraakane
暇空茜さんの発言には、彼のこれまでの価値観や心理的傾向が色濃く反映されています。以下の点から彼の発言の背景や意図を考察できます。
暇空さんはこれまでの発言でも「競争に勝つか負けるか」という二元的な価値観を持っており、「負けた人間は自己責任」とする考え方が根付いています。
この事件においても、被害者の青木歌音さんに対して「ホテルに入った時点で同意したも同然」というロジックを持ち出し、責任を青木さんに押し付けています。
彼の発言には 「被害者が悪い」「嫌なら逃げればよかった」 という典型的な自己責任論が表れていますが、これは彼自身が過去に敗訴を重ねる中で「自分は悪くない、負けるやつが悪い」と思い込むことで自尊心を保ってきた心理的防衛の表れでもあります。
→「負けた側が悪い」という歪んだ価値観が、被害者を攻撃する形で発露された。
暇空さんは、「ラブホテルに入ったら合意」という発言を繰り返しています。
性行為は 「その瞬間ごとに明確な同意が必要」 であり、「ホテルに入る=無条件で合意」ではありません。
また、彼自身が過去に婚活を試みたもののうまくいかず、金銭的に余裕があっても選ばれなかったという経験をしているため 、「異性から拒絶されること」そのものに強い反発を抱いている可能性 があります。そのため、被害を訴えた青木氏に対しても「自らホテルに行ったのなら拒否できるはずがない」と決めつけることで、 相手の拒絶の権利を否定し、自分の価値観を正当化 しようとしたのかもしれません。
このような発言の背景には、異性との関係性における自身の挫折や劣等感が影響していると考えられます。
→「性行為における女性の選択権を認めたくない」という心理的防衛が働いている可能性。
その背景には、自身の婚活の失敗や女性へのコンプレックスがあると考えられます。
フェミニズムを攻撃する中で、彼はしばしば「性の多様性」や「ジェンダーに関する議論」に対して否定的な発言をしてきました。
青木歌音さんはクラインフェルター症候群によって女性化し、現在は治療を受けて女性として生活しています。
クラインフェルター症候群の当事者は、男性として出生しても第二次性徴で女性的な特徴が現れることがあり、治療の選択によって性別の在り方が変化することがあります。
しかし、暇空さんはこうした医療的・生物学的な背景を無視し、「生まれつきの女性ではない」という観点から、青木さんの被害を矮小化する発言をしている可能性があります。
彼にとって、「男性として出生した人が女性として生きる」という事実は、自身の価値観を脅かすものであり、受け入れがたいものだったのかもしれません。
そのため、今回の事件でも 「青木さんの女性性を認めたくない」 という心理が働き、より強い攻撃性を見せた可能性があります。
→「クラインフェルター症候群や性別の多様性に対する無理解と偏見」が、被害者攻撃の動機になった。
木下氏は当初否定していましたが、最終的に性加害を認めて謝罪しました。
しかし、暇空さんは 「加害者が認める前の段階」 で青木さんを執拗に攻撃していました。
これは、暇空さんが 「告発=嘘」と決めつけることで、自分の価値観を守ろうとする心理 が働いていたからでしょう。
彼は過去にフェミニズム団体に対してデマを流し、訴訟で負けています。
そのため 「性被害を告発する女性は嘘をつく」という見方を強め、自分の過去の敗訴を正当化しようとしていた 可能性があります。
また、もし青木さんの告発が本当ならば、暇空さんの「ホテルに入ったら合意」という持論は完全に崩れます。
それを認めたくないため、 「被害者を攻撃し続けることで、自分の主張を正当化しようとした」 のではないでしょうか。
→「自分の価値観を守るために、被害者の証言を否定し続ける」という心理が働いていた。
「負けたら自己責任」という価値観が根底にあり、被害者を責めることで自分の理論を正当化しようとした。
「ホテルに入ったら合意」という歪んだ認識を持ち、女性の選択権を否定する発言をした。
クラインフェルター症候群に対する偏見があり、青木さんの被害を認めることに強い抵抗を感じた。
「性被害の告発=嘘」という考えを持ち、自分の過去の敗訴を正当化しようとした。
暇空さんの発言は、 自己防衛・女性蔑視・クラインフェルター症候群差別・被害者否定 など、さまざまな偏見やコンプレックスが交錯した結果だと考えられます。
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。