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英国の「日本小説ブーム」でとくに売れ行き絶好調の3ジャンルとは | 「村上より村田をもうひとりくれないか?」ただの糞フェミ代理店による少子化工作で、イギリスに金払って売れたことにし、日本で宣伝のために記事書かせてるだけだろ。特に村田なんて。最近の日本の代理店は、日本での宣伝のため海外に金ばら撒いてるとしか2024/12/13 22:13
なんとなく書きたくなった奴だよ
実際に見た奴しか書かない
視聴は偏っているよ
◆マジンガーZ(初代)
序盤:主人公は運動神経抜群の熱血ヒーローさ、主役機は無敵で最強
中盤:敵は主役機に対抗するためにいろいろ手を尽くしてくるよ、でも主役機だってパワーアップさ
終盤:主役機でも敵の攻撃に耐えるのは難しいよ、でも僕らの主役機なら負けないさ
◆ガンダム
機械いじりの好きな少年が乗り込んだのはスーパーロボットだったよ
序盤:主人公はちょっと勘が良いだけの少年、でも主役機には敵の攻撃が効かないよ
中盤:敵は強くなって闘いは苛烈になっていくよ、主人公も経験値を積んでいくよ
終盤:主役機は時代遅れになったよ、でも主人公は超人だからへっちゃらさ
これをずっと見ていくと、不思議と抵抗なく、アムロと言う超人を受け入れられる造りになっていて
後半は敵に同情すらわいてくる
序盤:最新のロボットが警察に配備されたよ、でも人間側はバラバラだね
中盤:ライバル機の登場だよ、人間側の個性がうまくかみ合いだしたね
終盤:また戻ってきた日常、あるふぉんすともお別れ?僕たちの戦いはこれからだ
色んな人が夢見た未来にはならなかったけど
序盤:主役機は最強だよ、でも人間側の問題で強さは発揮できないよ
中盤:人間ドラマを陽に振ってみたよ、なんか操縦にも慣れてきたみたい
終盤:ドラマなんて放り投げよう、これがロボット物だと何時から錯覚していた
私はあの最終回が割かし好きだよ
LDの1巻を買うのに秋葉原をマグロのように回遊したのもまだ覚えてるよ
序盤:俺の歌を聴けー
中盤:俺の歌を聴けーー
終盤:俺の歌を聴けーーー!!
凄い好きだったよ
CDは全部買ったよ
序盤:理想のロボを、僕は作る
中盤:動き出す悪意、間に合え人馬ロボ
終盤:圧倒的火力の空飛ぶロボが立ちはだかるよ、やっつけろ僕らのイカルガ
ロボのデザインも好み
ある種のなろう的なノリに抵抗がなければ、是非見てもらいたいよ
とんでもなく筆が遅い。
理由は明白だ。演繹的に小説を構成しようとしすぎて、不必要な描写が書けない。
主人公たちの会話中の都合上、一瞬だけ登場させるような小道具にも、オチや意味や象徴を求めてしまう。
たとえば、主人公たちがイカを食べるシーンがあったとすると、「話の流れ的にイカをなかなか噛みきれず苦戦する主人公のダサさを表現しなければいけないんじゃないか」とか考えてしまう。
セリフも厄介だ。登場人物の心情を忠実に反映したものでなければならないと思ってしまうし、その心情も各節のテーマに沿った動きをするように誘導しなければいけないし、さらに言えば、心情の動きは現代日本でバズりうるくらいの共感性を持たなければと思ってしまう。
子曰く、「善く戦う者は、その勢いを駆る者なり。その敢えて寄せ之を撃ちて反りて無事なく、是非を決するや易し。」と。増田、ウェブ小説の行く先が行き止まりに見えるとしても、それを避けるために新たな「勢い」を見つけ出すのです。
増田が述べた「AのAダッシュ」の繰り返しは、まさに「その勢いを駆る者」となっていない故の結果とも言える。増田がもし同じ道を避けたいと思うなら、自己の創造力を駆使し、新たな切り口や独自の視点を持ち込み、他者が舵を取る「勢い」に囚われるのではなく、増田自身がその「勢い」を作り出す存在となるべし。
どんな分野であっても、創造性と独自性が求められる。戦場においても小説においても、競争者の一歩先を行くためには自らその変化を起こすのです。これが未来の行くべき道筋を開く鍵となることでしょう。
短め(~1万字)の小説ならココナラとかでお金だして感想もらえるよ。普通モードとやわらかモードも選べるよ。
もう開き直ることにしたよ。
印刷費用も高くなるしそれを最後まで読める人もあまりおおくないみたいだ。
だがそれを買うからには全力好意。100%であり言うことなし、だとおもってる。
どうしてもほしけりゃ拍手お礼ssみたいなやつやればいいけど。
そもそも支部試し読みで8割くらい出しちゃうのがいいとおもうぞ。それでゾウスタンプとかもらえりゃ拍手御礼ってことよ。
あとたぶん、この腐女子さん()はだいぶ高齢(紙にこだわる時点で)。
イベならイラストでもグッズでもなんでも出られる世の中。
高齢なりに自信持たないとやってけないのが今の腐女子界(だって小説書きは印刷代を回避するためたいてい温泉から始める世の中から)。
腐女子増田、マジで100人中99人がこういう、ねちょねちょねちょねちょした書き方をするのですごい。
(腐女子の人間関係話は、アタシ悪くないっ!アイツが悪いっ!が何百行も延々ダラダラと続くので読むと吐く)
こんなことを愚痴っていることをフォロワーに知られたくなくてここで吐き出すことしかできなかった。優しいフォロワーはきっと構ってくれるだろう。けれど、自分は自分自身で折り合いをつけなくては行けないと思った。
どちらにも振り切れず、ただ人がいない壁に向かって話し続ける。いつまで続けることができるのかな。
普段からあんまり本は読まないけど、今年はぼちぼち読んだ年だった。聞いたことあるけど内容は知らない本を古本屋で2,3冊買って読むの繰り返し。
昨日読み終わったのは安部公房の「砂の女」。主人公が昆虫採集で出かけた先の集落で一面砂の壁に囲まれた一軒家に監禁される話。言ってしまえばそれだけで、で?って感じだった。
この前読んだカフカの「変身」もそうだった。朝起きたら幼虫になってた。で?なんかジャンプ+の読み切りとかでありそうじゃね。起きたらドラゴンの角生えてたとかさ・・・
この2冊は主人公がとんでもない状況になるという渾身のフルスイングが自分にとって空振った結果、それ以降の展開にあんまりのめりこめなくて困った。
登場人物が想像もつかない境遇になるっていうのは近年のサブスクまみれの時代において目に入ってくるファストフード的な映画、漫画に普遍的にみられる要素でやや食傷気味というか新鮮な驚きに乏しかった。
でも文庫本の最後の解説とか読むと「二十世紀の人間が誇るべき小説である。」とか書いてある。もしかしたら、昔はエンタメが少なすぎた結果、朝起きたら幼虫になってたとか言うだけでバカ驚いて本にくぎ付けになったのだろうか。
それともこの手の本には何か全く別の、魅力的な要素があって、その辺のアンテナがぶっ壊れている自分に響いてないだけなのだろうか。
より後年の(つまり現代に近い)小説になると、奇抜な展開の一発屋みたいな小説が減って、より練りこんだ設定というか細部が詰まってるものが多いと思った。例えば「プロジェクト・ヘイル・メアリー」はフィクションのエネルギー物質をでっちあげてここまでいろんな試行錯誤をする、一冊の本の中に別の世界が丸々入っているようなまさにSFという感じの作りこみに驚いた。村上龍の「コインロッカーベイビーズ」は二人の人間の10年くらいの人生を様々な場所を転々としながら追体験しているようで、2回目を読もうとは思わなかったけど、濃密さに夢中になった。(カンブリア宮殿で見かける村上龍がこんなに倒錯した人物だということには驚いた。)
話が逸れたけど、要するに一番上に挙げたような作品の食べ方が分からないという話。かもしれない。ヘミングウェイの「老人と海」もでっかいカジキを一冊掛けて釣り上げる話で で?って感じだった。本の面白さを感じる受容体がぶっ壊れてるのか、まだ活性化されていないだけなのか分からないけど、俺は本の面白さが中々わからない。でも今挙げた老人と海なんかアメリカで雑誌に掲載された瞬間、2日後には売り切れるほどの人気ぶりだったという。読んで何を感じたんだろうか。
ずっとこんな感じなのでブラッドベリの「華氏451度」は主人公が自分と少し重なって何回も読んでいる。買ったのは結構前なのに、あんまり変わらない。
いわゆるBLで自分が書いているのはマイナーCPといわれる組み合わせだ。
といっても人口0人で自分ひとりだけが書いている状態ではない。かといってジャンルの規模がそもそも中〜小程度なので自カプを書いているのは知り合いばかりという状況である。
もちろん読み手も少なく、これまた知り合いだけが読んでくれている状況だ。
ここまで書いて自分はまだ恵まれているほうなのかもしれないと思うこともある。
しかし、隣を見れば同ジャンルで何百人も書き手読み手を抱える大手カプがいる。大手カプは売れるので公式もセット売りをしたがる。雑誌インタビュー、グッズetc
自カプの片割れがそっちにいるのも自カプがいまいち盛り上がらない原因だと思ってる。
ただでさえ小説はイラストや漫画と違って見てもらいにくい。それは仕方ないと思っているし、自分がイラストや漫画で表現できないのが悪いのだ。
しかし一方で大手カプ小説書きは読み手がたくさんいる。返ってくる反応もさまざまだろう。それがどうしようもなく羨ましい。
自分が書いた文章がどのように見られてどのように受け取られているのかをマイナーCP書きの自分は知ることができない。
いいのか悪いのかの判断もつかず、淡々と小説を書くことしかできない。
こんなことを愚痴っていることをフォロワーに知られたくなくてここで吐き出すことしかできなかった。優しいフォロワーはきっと構ってくれるだろう。けれど、自分は自分自身で折り合いをつけなくては行けないと思った。
自分が書いた話を読んでほしい、萌えてほしい、影響を受けて表現をしてほしい。
自分は書き手でもあり読み手でもある。おこがましいかもしれないが、自分がきっかけでなんとか自カプが盛り上がってくれないかと考えてしまう。
このような状況がつらくてしばらく書き手を離れていたがひょんなことから戻ってきてしまった。それが周りから見たら喜ばれているのか疎まれているのかわからない。いや、どうでもいいんだろうな。
趣味なんだからやめればいいのにと自分でも思う。あとは圧倒的な文章力をつけるとか正攻法で闘うしかない。
どちらにも振り切れず、ただ人がいない壁に向かって話し続ける。いつまで続けることができるのかな。
絵だったら、評価されるエロ絵ってある程度デッサン整ったり上手くないと伸びないじゃん?
性的な描写が多い文学作品は、歴史的にもさまざまなテーマや文脈で書かれています。それらの描写は、単なるエロティシズムを超えて、愛、人間関係、心理的葛藤、社会的タブーなどを深く掘り下げるために用いられることが多いです。以下は、性的な描写が多い、またはそのテーマを重要視している著名な文学作品の一部です。
『ロリータ』(ウラジーミル・ナボコフ)
禁断の恋愛をテーマにしており、文学的にも高度で、物議を醸す内容。
マゾヒズムという言葉の由来となった作品で、性的従属と権力のテーマが描かれています。
『チャタレイ夫人の恋人』(D.H.ローレンス)
貴族階級と労働者階級の恋愛を描き、性的な自由と社会的制約の問題を扱っています。
インドの古典文学であり、性愛と人間関係について詳細に論じています。
『青い花』(ジョルジュ・バタイユ)
『鍵』(谷崎潤一郎)
中年夫婦の日記形式で語られる、性的な欲望と嫉妬を扱った作品。
主人公の性的嗜好や葛藤を通して、アイデンティティや抑圧を描いています。
性的な関係を含む自己破壊的な生き方が赤裸々に描かれています。
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(E.L.ジェイムズ)
BDSMをテーマにした恋愛小説で、エンターテインメント性が高い。
『クローサー』(マイケル・カニンガム)
短編小説集で、官能的な描写が非常に文学的に表現されています。
これらの作品を読む際には、描写の背後にあるテーマやキャラクターの心理、社会的な文脈を考慮すると、より深く楽しむことができます。また、性的な描写が多い作品の多くは、それ自体がメインテーマではなく、物語の中で重要な役割を果たす要素として描かれています。
読書メモの整理のために便乗。今年の読書は文芸、短歌、仕事の専門書(ソフトウェア開発)が中心だった。
6冊を良かった順で挙げる。
本書の長所は最初期短編から晩年の短編までを収録しており年代による作風の変遷をたどれること。
ダントツに良いのは「雨の木」の連作。ストーリーは「雨の木」というシンボルや高安カッチャンという重要人物の周縁をぐるぐるし続け、いつまでも核心に踏み込まないため、最初は要旨をつかめない。しかし読み進めるにつれその構成が多角的な視座を提供するための仕掛けだとわかる。短編であるにもかかわらず印象が何度も覆され、様々な味わいがある。
小説は物語の意図が最初は分からないくらいが丁度いい、というようなことを三島由紀夫が何かに書いていたが、全くその通りである。構成や内容が三島由紀夫「豊饒の海」と少し似ている。豊饒の海は松枝清顕(早逝した親友)の生まれ変わり(と推測される人物たち)を数十年追い続ける物語で、ラストシーンでは清顕の存在自体が薄らぎ核心にぽっかり穴があく構成なのだが、大江健三郎「雨の木」もシンボルの雨の木の周縁をさんざんなぞった結末として木自体がほぼ焼失してしまう。「豊饒の海」は仏教的死生観や死者に対する忘却が根底に据えられているのと同じく、「雨の木」も死生観や忘却(作中ではoblivionと表現される)が重要なテーマである。テーマに対するアンサーは正反対だが。なお先に書かれたのは「豊饒の海」。
物語の道具立てとして海外の大学におけるシンポジウムや海外作家の引用、原爆問題があり、衒学的な雰囲気を作っている点もわたしの好み。
「奇妙な仕事」などの最初期短編はさすがに時代を感じる。「セヴンティーン」は発表当時右翼団体からの脅迫を受けるなどかなり真剣に世の中に受け止められたようだが、令和の目線ではカリカチュアライズが激しく、大江健三郎が絶対ゲラゲラ笑いながら描いただろうというノリの良さが全編にみなぎっている。また当時は右翼に対する攻撃という見方が大勢だったようだが、左翼側の非論理性も指摘する内容のため、私の感覚では左翼小説と思わない。
最後の「火をめぐらす鳥」は大江健三郎流の引用の繰り返しや観念の世界に入り込む構成といったスタイルを貫きつつも、おそらく意図的に情報量を落としており、ゆとりと円熟を感じさせる。
乳幼児の育児の心構えを説く名著。以下は印象に残ったポイント。
今年は家事育児ワンオペ + フルタイム勤務に忙殺され、子供への対応が雑になっていることを自覚しつつも改善策を見出せない期間が年末近くまで続き苦しかったが、本書の心構えを持っておくことで自信をもって育児ができるようになった。
夏目漱石が1914年に学習院で行った講演録。青空文庫で読んだ。https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
ごく短く、読むのに30分もかからないが、内容はキャリア論、社会思想、フェミニズムにまでわたる。
キャリア論の概略は以下の通り。
どこかに突き抜けたくても突き抜けられず、何かを掴みたくも掴めておらず悩んでいる者は、どこに進めばよいか分からない以上、何かにぶつかるまで進む他ない。自らの個性で行けるところまで行ってツルハシで何かを掘り当てれば、自分なりに道を作ってきたことに安心と自信が生まれる。反対に、行けるところまで行かないかぎり、悩みと不愉快が一生ついて回る。
昨今は会社員に主体的なキャリア開発が求められる一方で、異動を会社の都合で命じられたり、顧客への責任を第一に優先すべきという考えもあり、主体性を発揮してばかりいられないという板挟みを感じていた。しかし「私の個人主義」を読みとりあえず行けるところまで行くしかないと開き直ることができた。
社会思想については、自らの個性を尊重すると同時に他者も尊重しなければならないとか、裕福な人間は相応の責任を負うべきだ、など。
いわゆる秀歌、つまり散文と異なる詩的な文体で、細部の描写を通じ、多層的な意味を表現する、という歌ではないものが多いが、わたしは好き。岡野大嗣の中ではいまのところこれがベストの歌集。
ライブの楽しさが伝わる。ドラマーがボーカルのトークに関心を持ってきちんと聞いておりハイハットで反応してあげるという仲の良さがほほえましい。
どの店もゆかいな高低差の街でみるみる減っていく体力だ
高低差、という単語を発見したのがこの歌の成果だと思う。坂が多くておしゃれな店ばかりの街で、ついつい歩きすぎて疲れてしまったことの充実感が歌われている。
オセロ相手との関係性を想像させる表現が巧み。"広いソファー"もゆとりある生活を感じさせ心地よい。
漫画。
冬目景は遅筆だが近年は順調に出してくれていることに、まず安心する。
冬目景は恋愛モノが多く、登場人物たちがうじうじ悩みながら自分の意志で一歩を踏み出していく様子を丹念に描いていることが、本作に限らない多くの作品の特徴。本作も登場人物がおっかなびっくり、逡巡しながら実に遅々たるペースで接近してゆく。時には後退することもある。しかし自分の意志で進むからこそ人間味があり、納得感がある。
またこれも冬目景作品に共通の特徴だが、登場人物は基本的に善人ばかりであるものの皆わりと淡白でコミュニケーションが暑苦しくないところに品の良さがある。
中国SF短編集。「中国太陽」が最良。「良いSFは未来技術ではなく技術がもたらす新たな社会を描く」ということをアシモフか小松左京か高千穂遥あたりの誰かが言っていたが、その好例。SFなのに人生の苦労と発展にフォーカスしておりすごくウェット。
『三体』はまだ読んでいないが読むべきかな。
竜がめっちゃ強くて普通の武器じゃ硬い鱗を貫通して傷をつけることすら難しい
なので、竜の屍を操って生きた竜を倒すという屍竜遣いが活躍する
屍を操る術は竜以外のいろんな生き物に使えるが、魂の迷路を精神体となって彷徨い核を見つける作業が必要
竜の魂は奇妙複雑で核にたどり着くのが難しく、掌握できずに死ぬリスクが高い
屍を操る術は血液を代価として、モタモタしていると全ての血液を失い術者の体は干からびて死ぬ
全2巻だけど、1巻と2巻で主人公が違って、1巻の続きどうなったんだよーと気になる終わり方だった覚え
どっちの巻だったか、術者の中に裏切り者の女がいて、処刑することになる
主人公は大きな狼の屍を操り、処刑寸前だった女をさらって背に乗せて遠くまで逃がした