はてなキーワード: チャタレイ夫人の恋人とは
チャタレイ夫人の恋人とか寄贈する人もいるの?
そして名作「チャタレイ夫人の恋人」が書かれるのであった
「性交類似表現物ゾーニング展示販売の違法性不存在確認集団訴訟」
とかで最高裁までいって、警察の運用かえさせるしかない気がする
そもそも「わいせつ物」とは卑猥ともいうように、卑しい意図あるいは犯罪的意図で相手の体を使うことを指していた。
だから昭和中期だと小説でも不倫小説で下男に欲情する奥さんの描写が「わいせつ」とされ発禁とされた(チャタレイ夫人の恋人、四畳半ふすまの下張り)
ところが昭和から基準がふらふらになり、宮沢りえのサンタフェにわき毛が見えてる程度でわいせつとかいわれるわけ
おかげさまで乳首乳輪と万げ万すじのないビニール人形表現が主流になっちゃったし女は半そでの季節に腋毛それって親がうるさくしつけるようになった。中国人ぼっさぼさやぞ
おまえら無毛無乳首でタツのすごいおかしいから。イスラム圏でヒジャブかぶってない女の長い髪の毛みて即立って痴漢に及んだみたいな話を日本人は笑えないからね。
で、fc2の夫婦ビデオ投稿で億稼いで捕まったやつ(脱税の余罪逮捕)https://itest.5ch.net/asahi/test/read.cgi/newsplus/1586417287/とか
まんだらけ中野店の倉庫にあったお宝ビニ本(販売目的所持じゃないのに、中野界隈の住人にゾーニングしない店頭展示が迷惑ということで余罪逮捕)https://bunshun.jp/articles/-/54820とかゆがんだことになるわけ
成人夫婦が合意で中田氏したところで、成人にとってみればひわいなものか、むしろ崇高だろが。アメリカではがっつり局部映すやんけ。
でもまあわかるよ犯罪につながりやすい。まあそういうふうにわいせつ罪がアングラ化させたからね。
だからこそ「リベンジポルノとか児童ポルノ法とか青少年保護育成条例とか不同意性交罪」とか細かくできてきたわけじゃん。
ならもう「リベンジポルノとか児童ポルノ法とか青少年保護育成条例とか痴漢防止条例とかに反する表現、不同意性交表現(ゴム無しAV含む)」を除いたものはわいせつじゃないよね
たとえばありきたりでごくステディなご夫婦の性交はわいせつでないものとして、成人向けサイトで有料管理してみられるようにしようよ。
まあわざと未成年にみせたら児童虐待ってのもそこそこコンセンサスとれてきたやろ。
乱交パもこないだつかまってたけど唐笠連判状にサインしてご近所にご迷惑じゃないようにすれば別にわいせつじゃなくねとおもうわけ
(だって乱交パの通報理由、外部じゃなくて内部の三角関係で通報が相手を蹴落とすのに利用されてるだけだったというつまらない話なんだよ)http://tskeightkun.blog.fc2.com/blog-entry-17804.html
「チャタレイ夫人の恋人」は1996年に発禁になった個所を含む完訳版が出てるし、写真や絵の規制も時代に合わせて見直すべきなんやけどね。
anond:20220702054142の追記。基本引用元は元記事ブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220702054142)。
frothmouth 公権力でないから規制でない、ってのも今の時代の実態にそぐわない気がするなあ。キャンセルカルチャー批判とか考えるとね/真面目に書いた増田に「精液で全身ドロドロ〜」みたいなブコメ付けられて気の毒
ここで問題にしているのは一般人の抗議運動やボイコットのことで、その手のものは「規制」と考えることは不適切だということである。公権力でないから規制ではないとは言っていない(私人間効力の論点はもう半世紀以上前からある)。せっかくだから書いておこう。
2022年現在、公権力以外の「規制」を論じる意味があるとすれば、デジタルプラットフォーマーの問題だろう。我々の言論はあまりにも出版・放送・通信のインフラに依存している。たとえばツイッターやフェイスブック、「マンガ・アニメ」の類を配信しているプラットフォーム、pixivなんかの同人投稿サイト。こうしたプラットフォームに言論は依存しているので、もはや作者の書く自由を擁護するだけでは何の意味もない。その手のプラットフォーマーが恣意的な管理をすれば言論は生き残れない。一方で、こうしたプラットフォーマーもまた出版の自由を有するから、「持ち込まれた言論は絶対に出版しなければならない」義務を政府が課すことは許されない。そして実例として、SNS各社はプラットフォーム内でのヘイトスピーチを禁止しているし、pixivも同様である。みんなプラットフォーマーというとGAFAしかイメージしないが、もっと小規模なレベルのプラットフォーマーに目を向けるのが大事だ。
言論の流通過程全体を保護するためには―わかりやすく言えば2chの削ジェンヌみたいな滅茶苦茶な「管理」をされないようにしないとけない―プラットフォーマーが私人とはいっても、その行動を公権力によって規制する必要が出てくる。そしてプラットフォーマーのもつ出版の自由との慎重な調整が必要となる。その繊細な調整が表現の自由論の課題にますますなっていくだろう。
なぜ繊細慎重な調整と必要となるか。DPへの介入は、プライバシーや名誉毀損にあたる言論を裁判所が差止めるのと同じ構図だし、言論の分野ではないが、旅館業法が、ホテル・旅館(これも私人だ)に宿泊者を原則として拒否できないとする義務を課すのと同じ構図がある。似たような調整はこれまでも行われてきたわけである。ただ、後者の営業の自由は、もともと社会権を保障したり公平な自由を確保するために制限することが幅広く認められると観念されているのと違って、前者は、差止めの要件がかなり厳しく設定されている(『宴のあと』事件などを見れば明らか)。それは表現の自由がそれだけ「重い」権利だという観念があることによる。プライバシーや名誉毀損と営業に対する介入を比較すれば分かるように、表現の自由(就中送り手の自由)を重視すればするほど、プラットフォーマーのもつ「表現の自由」へ介入するのは困難となる。ブコメした多くの人が「表現の自由」はとにかく大事なんだという観念を持っているようだが、果たして一般論として表現の自由を称揚すればするほど、プラットフォーマーの地位が向上していき、利用者の立場は低下していく関係にある。DPに限らず、出版社も独自のポリシーを持っていて、刑法175条の要求とは別に、原稿に対していろいろな要求をして、修正しないなら出版を拒否する。表現の自由を称揚し、表現の自由の地位を向上させればさせるほど、出版の拒否に対して裁判所が介入するのは困難となっていく。皮肉な話である。「表現の自由」を称揚すればするほど、公権力以外の「規制」はつよくなりうる。私人間同士の対立場面で「表現の自由」を登場させないことには、それなりの理由がある。
なお、私は一般人の抗議運動を「規制」と言っているような人に調整作業をやらせたいと直感的に思えないところがある。その人こそが削ジェンヌになるのではないか。
minominofx66 まずは宇崎ちゃんにしろたわわにしろ、萌え絵やアニメが規制されるべき「エロ」なのか、健全な表現の範囲内なのか、この際だから徹底的に議論して白黒はっきりさせるべきだと思う。
第一に、さしあたって規制されるのは「わいせつ」(刑法175条)である。「エロ」ではない。そして「エロ」とか「健全」かそうでないかという問題は、表現の自由を擁護する上でどうでもいいことである。重要なのは「不健全」でも公権力によって規制されないということではないか。「不健全」なら規制しても良いという観念が前提にあるように見えるのは驚くほかない。アニメ・マンガの類の少なくない作品が不健全とか不道徳とか退廃的とか言わざるを得ないのは確かだろう(少なくともハード・コア・ポルノ的なものなら、だいたいどれかには当てはまるだろう)が、だからといって公権力が刑罰をもって発売頒布を禁止することは許されない。それが表現の自由論ではないの。
第二に、「規制」がどんな規制かも考えなければならない。仮に刑法175条が廃止されたとする。そうすると性器修正処理などは全廃されるだろうが、成人向けの書籍・ビデオ等は依然として年齢制限が課せられる(公権力が法律・条例をもって年齢制限を課すこともあれば、出版業界の内部協定として行うこともある)。販売頒布は禁止されなくても、流通過程が制限されることがある。それは言論の内容に着目したものではなく、付随的害悪(たとえば見たくない人の目に偶然触れるのを防ぐため)の阻止するための規制(内容中立規制というやつだ)である。一般論としてそのような規制は認められなければならないだろう※。付随的害悪を阻止するための規制もいっさい認められず、街路に成人向け書籍の広告を出したり、街頭モニターでビデオを上演したりすることも制限なく認められなければならないというのなら、もはや見解の相違としか言えないが。
第三に、宇崎ちゃんの欠缺ポスターやたわわのポスターに対する抗議や批判は、いかなる意味でも規制ではない(国連からという声もあるが、それは「日本の」公権力ではないし、日本国に対して強制力を持ったなにものでもない)。批判や抗議は、表現の自由がもともと予定するものであろう。「不健全な表現は規制せよ」と主張することすら(私はそうは思わないが)、表現の自由である。それに反論するのも自由だが、そういう主張自体が「規制」と言うのは馬鹿げている。
※
とはいってもこれがかなり厄介で、そのような規制によって出版社に過剰な経済的負担を課し、実質的に内容規制をしていこうという方法がないではない。しかし、付随的害悪の阻止のために合理的な規制を行うことは、一般論としては認めなければならないだろう。あとは個別事例による。
(1)
daydollarbotch 用語はそれっぽいが内容が所々おかしい。嫌がらせがあるなら不法行為たり得るし、間接適用説の下で表現の自由は考慮され得る。判決の引用部分では特にわいせつ表現が表現の自由の保護範囲外とは読み取れない(2階へ
①「わいせつ」に該当してもただちに保護範囲外にならないと最高裁が認定しているという趣旨か。だったら以下は何なのだろうか。なお、これはわたしやあなたが考えているところのあるべき「わいせつ」概念ではなく、最高裁の判例法理では「わいせつ」がどういう扱いを受けているかという問題である。
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法一七五条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
②間接適用説のもとで「誰の」表現の自由を考慮するかが問題である。抗議者の言動を裁判所が差止めれば、それこそが表現の自由の制限となるから、裁判所が差止の権限を行使するにあたっては、表現の自由の趣旨を取り込んで適用しなければならない、というのが間接適用説だろう(ドイツのリュート判決はこれとそっくりな構図だった)。表現の自由の私人間効力は、抗議者に対して、一般論として相手の表現を一切抑制しないように注意する義務を課すものではない。もしそうだとすれば、あらゆる抗議の類が不法行為になるはずである。
③嫌がらせがあるなら不法行為なのは違いない。それは個別事例による。
関連して。
type-100 175条にしても猥褻物の作成・所持を禁じているわけではない。猥褻性を持つものも表現言論の自由の保護を受け、他の権利との綱引きで規制されている。
確かに、刑法175条はわいせつな文書・図画等の作成・所持を禁じていない。その限りであなたのいうとおり、「保護を受け」ると考えてみよう。しかし、販売・頒布は禁止される。警察が刑法175条の取締りの方針を変更して、性器が露出したり、性行為を描写するあらゆる作品を取り締まったとする。そこで作成・所持だけが保護されたとして、何の意味があるのか。「保護されない」という言い回しが気に入らないなら、「保護のレベルが著しく低い」という風に言い換えた上で読んでいただきたい。加えて、最高裁は作成・所持の禁止まですれば違憲となる、とも言っていない(アメリカなら、Stanley v. Georgia, 394 U.S. 557 (1969) 判決がそう言っているが)。
(2)
CocoA "一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである"<-えっ、廃止に賛成している表現の自由の戦士たちを知らない・・・?
「戦士」なら刑法175条を廃止する署名運動なり政治運動なりをやるべきであろう。あるいは「戦士」とはただのネット弁慶か。廃止が提案されたら賛成するが、そうでなければ特に何かしないのか。
(3)
hom_functor これだけ長文書いても表現を規制する合理的な理由は絶対に説明しないんだよな。「抗議をやめる~ように請求する法的資格を有する」なんて見かけない主張を創作したり反論しやすいブコメをチェリーピッキングするだけ
「規制」なのかという問題か否かを読み取っていただけてないらしい。上記で書いたように、抗議運動なりボイコットなりは「規制」ではない。政治道徳的な観点からそれに理由があれば正当だし、理由がなければ不当だというだけのことである。むろん嫌がらせの類は、不法行為である。抗議運動なりボイコットに理由があるかという部分はともかく、「規制」というおかしな問題設定をしていることが馬鹿げているということだけはくみ取っていただきたいのだが。
(4)
sirobu 表現の不自由展に対する街宣カーも自由を制限する不当な圧力だと思ってるんだけど、増田はそう思わないってことかな?
あなたが街宣カーで街宣される時点で表現の抑圧だと考えていることはよく分かった。そういうレベルから見解が異なるのなら、議論がかみ合うことはないだろう。以下は参考まで。街宣カーで道路を走りながら何か言うだけなら、それは自由である(馬鹿なことを言っているなとは思うが)。問題は街宣カーそれ自体ではなく、殺害予告だったり大量電話のような嫌がらせだろう。また、名古屋市長の支出拒否しかり、大阪府知事の会場施設利用不許可しかり、公権力が規制に乗り出していることを考えれば、表現の不自由展では「不当な圧力」どころか、ズバリ「規制」が問題だった。公権力が嫌がらせを煽っていることも見逃せない(特に名古屋市長の愛知県知事リコール運動)。
(5)
thesecret3 憲法は法律ではないので専門家や判決がどうでも各自が独自の解釈で主張してもいいと思う。自由を保障すると言ったら基本は保障されなければならないのであって政府が邪魔しなければいいってもんではないと私は思う。
なんか進次郎構文っぽいトートロジーが・・・。
下記のエントリー(anond:20220701074807)で色々と書いてある点について。目下話題になっている「表現の自由」について。自分用の整理として。
目下話題の「表現の自由」は、いかなる意味で表現の自由なのだろうか。それは憲法21条1項に見られるような法的なそれだろうか。それとも、憲法21条1項のようなものとは異なった何かなのだろうか。たとえば、JAなんすんが制作した『ラブライブ! サンシャイン!!』のキャラクターを利用したポスターについて、絵の内容がが性的である※1という批判があった(なお、これや宇崎ちゃん欠缺ポスター事件の余波で、赤木氏らツイッター凍結騒動があったりした。覚えているだろうか?)。
ここで、抗議をJAなんすんが考慮して、ポスターを撤回したとする。すると、「誰の」自由が「誰によって」侵害されているのだろうか。侵害者をざっくりと抗議する者として捉え(本来、ツイッターで批判的な言葉を言っている者、電話をかけて意見を伝える者、付和雷同していたずら電話をする者、大量の手紙を送りつける等のいやがらせをする者等を十把一絡げに全部抗議者として捉えるのは適切ではあるまいが)、被侵害者をさしあたってJAなんすんとして、JAなんすんが抗議者に対して抗議をやめる(たとえば、ツイッターで「ポスターを撤回すべし」等の意見をつぶやくのをやめさせる)ように請求する法的資格を有する、というのが表現の自由主張の趣旨か。
はっきりいえば、そのような主張は法的には認められない。私人間効力の論点を見直すべきであるとしか言い様がない。ここで、抗議をやめるように要求する資格があると裁判所が肯定すれば、抗議者の表現に裁判所(=国家機関!)が介入することになり、それこそが表現の自由の侵害である。この構図において、憲法21条1項が保障する表現の自由の恩恵に浴するのは抗議者の側となるだろう。目下話題の「表現の自由」は、憲法21条1項とは異なる問題であると解するのが相当である・・・のだろう。
元々のエントリーでは次のような言明がある。
言いたかったのは、フェミニストはあくまで「女性の実質的な表現・言論の自由を高めるための環境づくり」を目指しているのであって、「表現規制派」というレッテル貼りは間違いだということ。フェミニストやリベラル派が目指すのは、あらゆる階級や属性の人が等しく表現の自由を行使できる社会だ。
これに対するブコメはこう言っている。
preciar おまえ等がぶっ叩いてきた作品のほとんどが女性の手になる物である時点で、ただの妄想というか開き直りでしかない/そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ?恥に加えて知恵も無い
後段の「そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ」という部分に注目したい。再びポスターを題材とする。「規制」という言葉を使うのは公権力ではないから不適切のように思うけれども、例のポスターに対する抗議は、ポスターを掲示することを抑制しようとする意図を有し、ある一つの表現を抑圧する行動である、という部分を問題として切り出すことにしよう。ここで想起するべきなのは、表現すべてがまったく自由(というより、放縦のまま)とされることなどあり得ないということである。たとえば名誉毀損的な言動は認められない。名誉毀損的言動をしている者を叱りつければ、それは一つの表現の抑圧には違いない。しかし、名誉毀損をされないというのも重要な利益であり、自己表現の利益と考量される対象となる(そうならないという人はいないだろう)。プライバシーも同様である。ノンフィクション『逆転』事件を想起すれば良い。前科を実名で暴露されない利益を重視する見地から、『逆転』における表現が抑制されている(この事件では、慰謝料の請求を裁判所が認めているから、公権力による「規制」ですらある!)。プライバシーの保護のために表現を抑制するべきであるという主張は「規制派」であろうか。
名誉毀損やプライバシーは具体的な個人の利益が問題となっているが、女性蔑視の問題はそうではないと思うかもしれない。しかし、番組準則のように、社会に薄く広く広がる利益保護(たとえば、放送番組の政治的公平性)を保護するために、表現を抑制する(番組編集準則であれば、放送局の自由)ということは、そうおかしな話ではない(なお、憲法学では、番組準則は、それへの違反が総務大臣による放送免許の取消原因になり得る等の効果をもつ限りで違憲であるとしている。)。たとえば、大阪府知事・大阪市長・橋下徹のトーク番組に対して、政治的に公平ではないという批判は、無論番組作りを抑制する可能性がある。実際、激しい批判を浴びて、大阪毎日放送は社内調査を行って検証したのである。これも「平等のために表現を規制しろと言う主張」だから「規制派」となるのだろうか?それはそれで一貫した立場ではある。それこそ「知恵も無い」と思うが。
なお、念のためにいえば、プライバシーも名誉権も日本国憲法は明文で保障していない。そのような利益であっても、憲法21条が保障する表現の自由にとっての対抗利益となることができる。憲法の明文で保障されていない権利は表現の自由の対抗利益になり得ないという考え方は、畢竟独自の見解に過ぎない。
選挙において「表現の自由」を掲げる政治家がいる。彼らの問題意識は極めて偏頗ではないか。日本の表現の自由をめぐる問題状況は深刻なものがある。ところが、こと選挙で「表現の自由」を旗印にする者の言動を見ていると、選挙運動の規制、公務員の政治的意見表明やストの広範な禁止、放送資源の分配問題、政府情報の保全・公開等々、様々な形で存在しているはずの問題状況が捨象されて、取り上げられているのは「マンガ・アニメ」の自由ということになっている。また、「アニメ・マンガ」だけを対象にしても、取り組む分野が偏っているのではないか。たとえば、これ(https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1542366137979400193)には『国が燃える』事件が入っていないが、右翼の抗議は免罪されているのか。あるいは、最近の『「神様」のいる家で育ちました』も入っていないが、宗教団体からの抗議は免罪されているのか。上記は、批判としてはマージナルかもしれない(忘れていただけかもしれない)が、刑法175条の廃止等(ポルノの合法化;「有害図書」販売規制の廃止ないし合理化)を公約に入れていないのはどうしたことか。
「表現の自由」を掲げる政治家の言動を観察していると、一つ気づくことがある。彼らは、表現の自由を抑制している制定法を改廃するのではなく、規制の対象外となるように関係機関に働きかけを行って「免除」(制定法の外部で活動しているのだから、お目こぼしに近い)するという活動に主眼を置いているようである。念のためにいえば、そういった活動を政治家が行うこと自体は奇妙なことではない。問題は、「表現の自由」といった一般的・普遍的権利を掲げながら、規制の廃止を唱えるよりも、特定の表現に限って規制を免除するように(制定法の改廃ではなく)法執行機関に働きかけをしていることである※4。取締当局に働きかけをして有利な方針を引き出すという方向性は、自由にとって脅威であることに変わりはない。結局、働きかけをする人物の意向によって「自由」の内実が左右されることになるからである。「免除」の仕組みを動かす人物が特定の出版社や特定の作品群を代表している場合、その他の出版社・表現には「免除」を拒否するという形で脅威となる可能性が存在し続ける。政治家の言動をナイーブに受け止めてはいけない。
なお、私は実は「アニメ・マンガ」の中の特定の作品群のみを対象とした偏頗な政治運動自体がけしからんというつもりはない※5。しかし、「表現の自由」という看板は下ろしてもらいたい。
「表現の自由」を掲げる政治家ないしツイッターアカウントを見ていると、「エロ(・グロ・ナンセンス)」の自由を重視しているような印象がある。こういった表現一般について、公権力の介入を排除する防御権があるのは当然だ、という前提があるような気がする。しかし、「わいせつ(obscenity)」にあたる言論は憲法上の権利として保護されないはずである。憲法上の権利として保護されないということは、内容規制をしても合憲であるということになる。日本の最高裁の考え方もそうであろう:
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
「エロ」の自由を擁護していくとなると、「保護されない言論」の判例法理の桎梏をいかに除去していくかを考えるべきであろう。スウェーデンではポルノも出版の自由の対象とされていることに注意する必要がある。スウェーデンの憲法典の一部を構成する出版の自由に関する法律は、出版の自由を制限できる場合を限定列挙する。児童ポルノは出版の自由を制限できる場合に挙げられている※6が、ポルノ一般は挙げられていない。他方で日本の状況を考えてみよう。もはや何の修正もなく『チャタレイ夫人の恋人』は出版されているが、刑法175条自体は生きている。最高裁は判例を変更していない。捜査機関が取締りの方針を変更すれば、刑法175条でもって再び刑事罰が科されるであろう。他の成人向けのアダルト・ビデオにしても、マンガにしてもアニメにしても同様である。一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである。しかし、この最大の桎梏の存在を認識していない者も少なくないように思う。もしかすると、このような規制状況はもはや動かしがたいので、所与としなければならないと考え、より低い脅威度のものを優先しているのかもしれない。あるいは、彼らが取り組んでいる「マンガ・アニメ」は実は「わいせつ」にあたらない物件のみで、ハード・コア・ポルノ的な「マンガ・アニメ」は眼中にないのかもしれない。しかし、それでは『チャタレイ夫人の恋人』や『悪徳の栄え』、あるいは『蜜室』に取り組んだ人々と比べてあまりにチャチな取り組みだと思う。
丸山眞男を引き合いに出すまでもなく、日本人は既成事実に弱いと指摘される。いったん規制されると大変だから、規制される前に対処する政治家が必要であるという言い分を聞くが、既成事実に屈服して「一端規制されると大変」な状況を強化しているのは誰なのだろうか。
※1 ここで「性的」として批判されているのは、単に裸体だとか性器が描写されているという意味ではなく、ほぼ女性蔑視的という意味に等しいことに注意するべきである。
※2 書いているうちに思ったが、リュート判決の構図に似ている。
※3 スウェーデンなどの欧州諸国ではポルノが合法化されている。スウェーデン等で購入したヌード写真集を日本に輸入して税関検閲に引っかかる、というのが税関検閲諸事件の流れだ。
※4 なお、児童ポルノ禁止から創作物を除去せよとの主張は、一般的な規制の問題として評価できよう。
※5 むしろ、出版社の利益を守るためと考えれば、個別の出版について規制をお目こぼししてもらう活動も大事だろう。だが、あくまで出版社の権益であり、表現の自由という共通財の問題ではない。
※6 日本で出版されている成人向けマンガ・イラストが児童ポルノにあたるかと言った事件があったのだが、スウェーデン最高裁はマンガの表現形態に十分配慮した判断を行っている(NJA 2012 s. 400. 翻訳もある。外国の立法255号[2013年]223頁)。このような判断を日本の最高裁がするかというと、全然しないだろう。
個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 105 | 14667 | 139.7 | 33 |
01 | 117 | 17587 | 150.3 | 52 |
02 | 68 | 6803 | 100.0 | 48 |
03 | 25 | 1873 | 74.9 | 24 |
04 | 24 | 5353 | 223.0 | 64 |
05 | 12 | 5369 | 447.4 | 53 |
06 | 22 | 7032 | 319.6 | 44 |
07 | 85 | 3869 | 45.5 | 30 |
08 | 82 | 5213 | 63.6 | 34.5 |
09 | 90 | 6168 | 68.5 | 46 |
10 | 77 | 6949 | 90.2 | 28 |
11 | 143 | 13553 | 94.8 | 46 |
12 | 199 | 12836 | 64.5 | 39 |
13 | 190 | 12352 | 65.0 | 34 |
14 | 108 | 9816 | 90.9 | 35 |
15 | 203 | 21013 | 103.5 | 42 |
16 | 259 | 14761 | 57.0 | 30 |
17 | 269 | 13545 | 50.4 | 27 |
18 | 145 | 13396 | 92.4 | 39 |
19 | 196 | 23392 | 119.3 | 45.5 |
20 | 160 | 17021 | 106.4 | 47 |
21 | 200 | 11716 | 58.6 | 27 |
22 | 220 | 14001 | 63.6 | 28.5 |
23 | 111 | 8966 | 80.8 | 45 |
1日 | 3110 | 267251 | 85.9 | 36 |
27時間テレビ(4), ガンアクション(5), 助監督(5), 立憲主義(6), 振付(3), 偽陽性(3), 11月4日(3), 子宮頸がんワクチン(8), 妊娠検査薬(8), 中目黒(5), チャタレイ夫人の恋人(3), ジャンプ(42), 店主(19), 少年漫画(20), ハンバーガー(11), 昭和天皇(18), 少年(24), ツイフェミ(9), ゾーニング(16), Mac(7), 宇崎(22), フェミニズム(31), 少女漫画(12), 編集(18), 接客(10), そっか(9), ポスター(32), コーヒー(18), 弁当(14), 女性差別(15), スタッフ(14), 撮影(14), 雑誌(18), フェミニスト(30), 公務員(20)
■ゲームで時間を潰せる奴がちょっと信じられない /20191102151637(30), ■みんなは生きてるのが苦しい時どう切り抜けた?【追記】 /20191105141115(29), ■某カセット・レコード専門店で怒られた増田です。anond:20191104195708 /20191105004911(23), ■anond:20191102173100 /20191105063119(22), ■anond:20191102173100 /20191104195708(15), ■Steamのゲーム開発者は何故macOSを軽視するのか /20191105110635(15), ■フェミニズム先進国 /20191105025423(14), ■ハンバーガーって /20191105134432(13), ■テトリス /20191105212556(9), ■コメダ珈琲は本当に高いのか? /20191105104138(9), ■20代、最後の夜 /20191105222538(8), ■ /20191105144707(8), ■ /20191105163108(8), ■3連休明けの体調不良(大嘘)で欠勤【追記しました】 /20191105101741(7), ■東京の子供が誰も外に出てこなくなった理由 /20191105213940(7), ■ /20191105224507(7), ■健康的に太る方法 /20191105225714(6), ■鬱になった友人がどんどん幼児退行していくんだが、見てて辛い /20191105122700(6), ■専業主婦の友人家族と出かけるのに気を使う /20191105160224(6), ■鬼滅の刃がフェミニズム的といわれると困る /20191105172026(6), ■男には生理が無くて良いなぁ /20191105173537(6), ■ここが完全匿名と思って油断してる奴を特定するのが楽しい /20191105175716(6), ■「不快だからゾーニングせよ」という意見 /20191105201410(6), ■炎上してるなでしこ寿司の件 /20191105204052(6), ■お疲れちゃん、フェミ、表現の自由、お前ら、コミュ障 /20191105204551(6)
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何が相応しいか相応しくないか、何の規準もしめせないのでは意味がない議論だ。
「エロ」はダメ、が理由か? いま公共図書館で「チャタレイ夫人の恋人」を置いていないところはないと思うが、かつてこの作品は問答無用に「超弩級のエロさ」(法廷発言ママ)を指弾されて発禁処分をくらった作品だ。数々の文豪達の発禁作品も、全集には入っているからたいてい図書館にはある。「エロ」いものが図書館にない、というのは端的に言ってあなたが図書館のことをよく知らないだけだ。エロいか否かは公共図書館の収集規準ではない。「ポルノグラフィ」の多くは、経年的な価値が低いからと判断されて図書館に収集されないことは考えられる。要は、生鮮食品だから博物館に置く物ではない、という判断だ。限りある予算で、すぐ腐る物を買って誰も利用しないのでは意味がない。規準かあるとしたらそれだけだ。
「公共図書館ではエロいものはダメなのです」というのは、要するにただの妄想だ。
もちろん、現下の法律でただちに規制される猥褻物であれば、それは「明らかにダメ」だ。では、件のポスターは? まったく「猥褻物」ではない。「男性の性的興味をひく」という意味では、AKBを使ったポスターと何一つ変わらない。(まさか男性がろくな芸もないアイドルに興味を示す理由が「性的」ではない、とか言い出さないだろうな。)前者のみを排し後者を許容することに、一体どのような規準と正当性があるのかを示してくれ。
そもそも「性的消費」という概念で殴りつけられるのは、どこまでか? を少し考察してみよう。
たとえば、昔あった「ビール広告に水着女性」が×となったのは、単に女性の飲酒率が上がったためでもあるが、表向きの理由としてある程度の正当性があると言えるのは「海水浴場やプール以外の場では通常水着を着ない」というコンセンサスがあるからだ。街中のビール広告で水着を着た女性がこれを宣伝しているというのは、「性的な服装でヘテロ男性の注目を集めるため」以外の理由を見出しづらい。一応明らかに「性的消費」だと言える。――(1)
では、「性的なものを強調した服装」はどうだろうか。古くはアンナミラーズ、あるいはHOOTERSといった店は店内ならともかく、街中の服装として適切とは言えない。これらが、その制服を前面に出した広告をデカデカと駅に張り出したら一定数の人々からクレームが来るだろうことは想像に難くない。その意味では、これらもまた「性的消費」であることにはそれほど異論が無いと考えられる。――(2)
では、「セクシーなアイドル」はどうだろうか。いや、そもそも大なり小なり「セクシー」でないアイドルなど存在しないという意味では、あらゆる「アイドル」を利用したポスターの是非は?(たとえばhttps://www.watch2chan.com/archives/20190615092712.html) またそのアイドルは男女問わないとしたらどうか? あるいはアイドルではあるがアニメ絵のアイドルならどうなのか? このあたりについてクレームを付ける人は実際そう多くない(からこんなのがあるのだろうhttps://www.walkerplus.com/article/166328/)かなり減ると推測できるが、これもまた「性的な興味で広く注目を集める」以外の理由を見出しづらいという意味で、まさしく「性的に消費」の実例なのだが、なぜかそれほどクレームが来ない。実際、先の乃木坂のポスターは「実は彼女らが一人も献血したことなかった」という理由で炎上したわけで、彼女らに求められていたのは必然性ではなく「性的な魅力」であったに過ぎない。――(3)
では、「一般的には普通の表現だが、記号的に一部の特定層に性的に受けとめられることを期待した」ポスターならどうか。たとえば制服の女子、メイドさんの服装、などがそれに相当するだろう。
「制服の女性は若々しさ、凜々しさ、清々しさを表現するためのものであり…」とか「萌えは性的なものではなく…」とかそういう御託は全部嘘だ。むしろ「マズいな」と思っているからそんな言い訳が出てくるので、これも一般的には批判されない/されにくいが、一部では燃えることがあることは実証されている。(もはや人間ですらなく、メイドらしい恰好をしたロボットの表象が叩かれた例https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/04/jinko-chino_n_4900699.html)ただし、これを「性的消費」という文脈で叩くのは難しいので、一般には「学生にこんなことを」とか「ジェンダー固定化の懸念がある」とかそういう文脈を用いて叩く。これを混ぜこむのが混乱の原因というのが元増田の主張でその指摘は理解できるが、批判者はむしろそこを混ぜるところに意図があるのである。――(4)
それから、「表現者や対象には明らかにその意図がないかあっても薄いが、そう見られる可能性を排除できないもの」はどうだろうか。(例:ある公的なポスターコンクールの作例 https://twitter.com/abo_saitama/status/1023415216208470018 )この作者に性的なデザインをしたという意図は全く無いだろうが、明らかに構図は胸を強調しているし、いわゆる「乳袋」表現すらある。世にある(セクシーな)漫画的記号表現やデザイン、構図を踏襲したこと、そして、無意識下の「こういうのが受けるだろうな」というイメージが影響したと想像される。…そんなことを述べると一般人的には「?」となるが、学者が意見を述べるのがこういう対象である。時代の中で生きている我々は、同時代の様々なイメージの中で、日々ソレを呼吸しながら自分を形作り、つまり〈時代を内面化〉している。そのように個々人やその表現に内面化された表象を分析するのは学問分野の領域であるし、「一般人には分からないが学問的に危険性が明らかなモノ」に対して警鐘を鳴らすのは、文系理系問わず学問に期待される役割だ。ただ、学者の意見が正しいとしても、それを規制することに社会的合意が得られるまでには段階が必要で、いきなり規制するのは乱暴である。――(5)
最後に、思考実験として二つの例を挙げたい。ひとつは「まいてつ×くま川鉄道」事件。鉄道をネタにしたエロゲを作っていたエロゲメーカーが地元鉄道会社に善意で「そのキャラの差分」みたいな画像をキャンペーン用に提供した(普通に着衣の絵)ことが大問題となり取り下げさせられたケース。(https://togetter.com/li/1031033)。もう一つは、「セーラー服の少女が、ボロボロになり、へその間際や太ももが丸見えのセクシーな姿になった画像を献血ポスターに使ったが全く問題視されていないケース」(https://eiga.com/news/20120528/10/) これらの線引きに対して「主観」以外の適切な理由が見いだせるだろうか? そして、主観以外の理由が見いだせないようなルールを作り運用するような状況で、表現は本当に萎縮しないか? 多少厳しくても合意が得られたルールが明確な基準で運用されていれば、表現はそれほど萎縮しないどころか工夫を凝らして隆盛しさえするだろう。だが、曖昧なルールが曖昧に運用される状況というのは、過剰な自粛が進み、結果的に表現の衰退を招く。
いま本当に必要なのは、上で挙げた(1)~(5)のような例のどれを許しどれを許さないのか、その明白な根拠は何か、をしっかりと論じることだと思う。戦後に猥褻と表現の自由を論じて争われた「チャタレイ夫人の恋人」事件では、弁護側が「文学性」とは何か、「わいせつ」とは一体何か、ということを定義するため客観的なデータを示して懸命に論陣を張ったにもかかわらず、規制を主張した側が極めて感情的、主観的に「明らかに猥褻」、「超弩級の猥褻」といった無茶苦茶な陳述で切って捨てたため、結局、何の議論の深まりも得られなかった。(そしてもっと猥褻なものは普通に社会で流通していた。)昨今のいくつかの表現に対する「明らかにエロい」といった極めて感情的な告発は、残念ながら、魔女狩りにも似たこのような表現規制の過去を彷彿とさせる。
ずっともやもやを抱えていて、アート界隈の方の上から目線の「アートを知らないお前らを啓蒙してやるよ」的なエントリなどいくつか読んだのですが、
全くしっくり来るモノがなかったので、自分なりにまとめてみようと思いました。なお私はアートについて全然詳しくありません。
まず大前提として、これから話されるのはすべて自主規制の話です。公的な検閲の話ではありません。
あいちトリエンナーレ補助金交付取りやめなどといい出したことは完全にfuckです、あれは表現の自由の侵害以外の何物でもありません。
そういった話とは別に、他者を傷つけるような作品はクレームを受けたら取り下げられるべきか?どこからがアウトなのか?という、自主規制についての話をしようと思います。
宇崎ちゃん献血ポスターも表現の不自由展も、どちらも市民からのクレームに端を発する話でしたよね。
マーケティング界隈の言葉ですが、世の中の情報は大別すると「pull型」と「push型」に分かれます。
「pull型」というのは、対象者が自分から見ようとしなくても目に飛び込んでくるたぐいの情報で、広告ポスターやテレビCMなどがそれに当たります。
「push型」というのは、対象者がそれを目当てにして自分からアクセスしなければ目に入らない情報で、映画や演劇、美術展などはそれに当たります。
前者はパブリックな物で後者はプライベートな物とも言えるでしょう。
欧米では、ジェンダーロールの強化を招くような要素が入ったものが苛烈な批判にさらされて、掲示を取りやめさせられたりすることがよくあるそうですが、
これは主に「pull型」の、テレビやインターネット広告などに於いての話です。黙っていても目に飛び込んでくる情報だからということですね。
そう聞くと、「その程度で規制するのか」とギョッとする方もいると思いますが、日本で言えば東日本大震災の映像などはそれに当たるでしょう。
2011年3月11日から数日間、テレビは繰り返し被災地の悲惨な状況を流し続けました。それは報道の使命であるという矜持に基づいたものだったでしょうが、
あまりの惨状に心を痛め、PTSDになる人が多くいたことが国立病院機構災害医療センターの調べで報告されています。
そのような事態を受けて、BPOは各テレビ局に「震災報道ストレスについての注意喚起の要望」などを出していますし、実際テレビ局内部でもそのような懸念から配慮が話し合われたことでしょう。
かと言って、震災についてもっと詳しく知りたいという人間が書籍や記録映像などでその情報にアクセスすることは規制されるものではありません。
嫌でも目にしてしまう「pull型」の情報は規制が厳しいが、自分から見に行かなければならない「push型」はそうでもないよ。ということです。
宇崎ちゃんポスターは前者、表現の不自由展は後者に当たると思います。
というわけで「pull型の情報には自主規制がつきもの」ということは納得いただけたと思います、ではどこからが規制されるべきなのかという話です。
「宇崎ちゃん献血ポスター」は「pull型」の情報ですが、あれは規制されるべきなのでしょうか?
かつては、ゴールデンタイムのテレビでも女性の裸が平然と出ていましたが、いまはそういうことはありません。出すべきだという人もあまりいないでしょう。
「チャタレイ夫人の恋人」という小説が「わいせつ過ぎる」という理由で発売禁止を受けた時代もありました、いまはあの程度の内容でそんなことにはならないでしょう。
つまり、何を規制すべきかすべきでないかは「その社会の市民の意識によって絶えず変わっていく」としか言いようがありません。
宇崎ちゃんポスターについては、あれを性的過ぎると思う人もいれば、そんなことないと思う人もいて、単にオタクが気持ち悪いと思う人もいるでしょうが、
(個人的な感想を言うならば、「あの程度で性的消費なら男女ともにアイドルとか表で活動できないよな」と思いますけどね。)
と、大体このような補助線を引くと議論に筋が通りやすいのではないかと思いますが、どうですか?
ただ、
・「pull型」と「push型」に明確に峻別出来ない情報はたくさんある。(雑誌の表紙はどっちなのか、大きく広告を打ち出しているような大作映画は本当に「push型」でいいのかなど)
・「push型」でも規制される場合はある(暴力的ゲームなど)
という二点は一応付記しておきます。
1昭和時代のエロ目的コンテンツは本当に棲み分けがきっちりしすぎていて都市圏のユーザーにしか手が届かなかったためユーザーがあまり多数生き残っていない
2昭和世代がエロを求めるときはリアルなワイルドさ、野蛮さが好まれそのような味付けになっており(不倫ものや強姦ものやライトSMが主流か)、合法エロ現代の若者が求める人間ドラマにはそぐわない
アダルトアニメはオタクが秘密で入手したというくりいむれもんあたりか
ピンク映画は女性では見に行けないのでなんか臭い映画館でしか見られないとか
官能小説、成年コミックはまあフランス書院とかその前にあったゲンダイ連載か
3.ユーザーがつかない低予算のためクオリティが悪くますます見るに耐えない品質、まともに残るのはエロシーンのみの悪循環
ってことだと思うぞ
なおエロゲ(エロじゃない)は単価が高いこともあってコンピューターショップがかなり置いてくれていた
表現規制については昭和で裁判がいくつかあったことも踏まえてほしい。
「四畳半襖の下張り」
エロのない不倫ものだって不倫というだけでセンセーショナルに大騒ぎだったな。
社会構造上離婚がしづらく、不倫自体も不貞罪とかあったからか。
まあ、糾弾側も援護側も法廷に出て堂々と語りおわってるんだからそれ以上を素人が述べることはないわな。
さらに
でロリは二次元でも犯罪者予備軍とされ今よりずっと人権がない時代が続いた。
宮崎勤自身は、幼女誘拐、シリアルキラー、死カン撮影、死体損壊、死体遺棄、なりきり文書投函とどこからみても倍満なヘンタイだがそれが所持していただけのコンテンツ、コンテンツをコピー提供していたオタクサークルも糾弾されるってひどい話。
Fateでイリヤ(外見も人格も幼女だが成長した年数でいえば成人であるという設定)にエロシーンがない理由はほぼこれだとおもってもよいだろう。
飲酒で身を持ち崩したhttp://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1704/15/news038.html
少し前ラノベの性的な表紙は規制すべきか、という話が盛り上がったが、このキズナアイポルノ論争も同じ線上にある問題だと考えている。
つまり「性的な表現を公共の場所に出すことの是非」という論点。
他の論点もあるのかもしれないが、本稿ではこの論点についてのみ語らせていただきたい。
まず、その表現が性的であるという理由で規制されることは正当であろうか?
ここで刑法175条や青少年保護育成条例などについて引いておくべきだろうが、ここでは割愛する。
そういった法理とは無関係に、性的な表現は規制されるべきという想いが先験的に私の中にある。つまりこの場合の規制は自主規制のことを言っていると思っていただきたい。
中には表現の自由を錦の御旗に、「どのような表現でも規制されるべきではない」という意見の持ち主もいるかもしれないが、
そのような論者も、例えば性行為そのものを誰もが見える場所(公共交通機関内など)で実行している人間を目の当たりにすれば、
子供への悪影響、女性の性的な消費、公共秩序の擾乱などが認められなかったとしても許しはしないだろう。
性的な営みというのは、日常昼日中に属する類のものではない。非日常の閨房に属するものなのである。
性交は閨房で実行する分には非難されるいわれのないものだが、衆人のなかで行うようなものではない。それは子供が見ている見ていないなどとは無関係にそうだ。
この点については異論もないものと思う。(それとも性交をおおっぴらに見せびらかしてもなんの問題もないという考えの人もいるだろうか?)
さてそれでは、どこからが一線を越えた性的表現で、どこで表現することが公共の場或いは閨房だと考えるべきだろうか?
昭和の「チャタレー事件」では、「チャタレイ夫人の恋人」という小説が最高裁でわいせつであると判断され発禁を受けたが、
今の時代あの程度の内容は公開されている個人のSNSなどでいくらでも溢れかえっている、いやもっと過激な内容だって。
逆に白昼堂々テレビで女性の裸を晒すことが許容された時代も、深夜番組でアダルトビデオの紹介をする番組などもあったが、これはいまや批判にさらされてテレビという場からは消えた。
つまりどこで線引きされるかは社会通念の問題であり、時代と場所によって今までも大きく移り変わってきたし、当然これからも移り変わっていくものだ。
書店の棚というのは公共の場だろうか?そうかもしれないし違うかもしれない。
ライトノベルの表紙の萌えキャラは過剰に性的だろうか?そうかもしれないし違うかもしれない。
女性アイドルは過剰に性的だろういか?そうかもしれないし違うかもしれない。
ことほど左様に線引きは曖昧で、その時代その場所の人間たちがなんとなく合意していくしかないというのが実情であり、
「性的であれば規制しろ!orするな!」「この表現は性的だ!or性的じゃない!」と、罵り合うのは全く無益だと思う。
個人的には、現在巷間に於いて許容されている程度の他の表現の性的な度合いを過剰に逸脱しているとは思えず、
キズナアイを性的だという理由で排斥することに正当性があるとは考えられない。
言えることは、この程度だと思う。
なおチャタレイ夫人の恋人はわいせつ物のもよう
情報は反脆い。情報を広める努力よりも、情報を壊す努力のほうが、情報にとっては糧になる。たとえば、自分の名声を守ろうとするばっかりに、かえって名声に傷をつけてしまう人は多い。
賢いヴェネツィア人は、秘密だと偽って情報を広めるすべを知っていた。あなたも噂を広めるとき、こんな実験をしてみるといい。誰かに秘密を教える。そして、それが秘密であることを知らしめるために、「誰にも言わないでね」と釘を刺すのだ。秘密にするよう頼めば頼むほど、噂は広まるだろう。
誰でも若いころに気づくように、本や思想は反脆く、批判を糧にする。ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス(ストア哲学を実践する作家のひとり)の言葉を借りれば、「火は障害物を糧とする」のだ。
禁書には独特の魅力がある。禁書は禁止命令に対して反脆いのだ。私が子どものころに初めて読んだグレアム・グリーンの本は、『権力と栄光』だった。その本を選んだ理由はほかでもなく、カトリック教会の禁書目録に載っていたからだった。10代になると、国外在住のアメリカ人、ヘンリー・ミラーの本をむさぼり読んだ。彼の主要作が23州で発禁になると、1年で100万部が売れた。『ボヴァリー夫人』や『チャタレイ夫人の恋人』にも同じことがいえる。
本に対する批判は、紛れもない正真正銘の注目の証であり、その本が退屈でない証拠でもある。本にとって最悪なのは退屈なことだ。アイン・ランド現象を考えてみてほしい。彼女の著書『肩をすくめるアトラス』や『水源』は、残酷なくらい辛辣な批評や、彼女を貶めようという画策にもかかわらず(いや、むしろそのおかげで)半世紀以上にもわたって数百万、数千万人に読まれつづけている。いちばん大事な情報は、批判の激しさであって、内容じゃない。評論家がその本を他人に読ませないためにどれだけ必死になるか。人生全般でいえば、相手をこき下ろすのにどれだけ必死になるかだ。だから、誰かに本を読ませたければ、怒りを込めて「評価されすぎだね」と言えばいい(「評価されなすぎだね」と言えばその逆になる)。
(「反脆弱性」より)
反脆弱性・歩く・マネーマーケット|新・山形月報!|山形浩生|cakes(ケイクス)
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/cakes.mu/posts/17337
よって、個人的には、上記の山形氏およびブクマ家諸氏のコメントは全く評価していない(と書けば、反脆さが発揮されるか(笑)?)
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160219013645
まとめサイトで取り上げられたこともあって多くの意見が寄せられているこの話題だが、このエントリーの筆者(以下筆者)の考えはおよそ普通の女性(筆者が本当に女性かは、そもそも釣りかもしれないとかキリがないのでさておき)が陵辱という言葉に対して抱くであろう普通の考え方だと思う。
さて事の発端は女子差別撤廃条約の定例報告会が2月16日に行われたが、この条約の批准状況を検討する同条約委員会から今回の報告会のテーマの一つ(しかもまとめサイトの見出しにあるような筆頭扱いではなく実際の質疑項目としては7番目)として女性に対する性的暴力を伴うビデオゲームや漫画の販売を「禁止」することを求めたものが波紋を呼んだことだ。
まず念頭に置きたいのは、この委員会には安保理決議や国連総会のような権限は無く数多ある国連関連機関のひとつに過ぎないことと、国際的な批判だとかの重々しい話ではなく委員会を構成するのは各国から選ばれた弁護士など専門家であって国家の代弁者が集う場ではないということだ。
また定例報告会とあるように日本だけが特別に呼びだされて叱咤されたのではなく、直近ではアイスランドやスウェーデンを含めた数か国が同様に報告会を行っている。
そして日本においてはゲームマンガの話だけでなく雇用や年金での男女格差など複数の議題があったものだ。
この委員会がどういうところに突っ込むかを言えば、アイスランドに対しては最高裁判事が男性しかいない点や強姦事件での有罪の少なさを指摘する。スウェーデンに対しては割礼と強制結婚の防止に関するデータの提出を求めるなど、一見してかなり細かい。つまり女子差別と見なせるものは手当たり次第とも言えよう。
話を戻そう。政治的には無視できないものの影響力は微々たるもので昨日と変わらぬ明日が来る程度の見解というのが今回の報告ということになり(国連の威を借りたい各種団体はいるが)しかしこういったことをきっかけに色々と考えるのは良いことだ。
冒頭リンク先の話はまさにそうで、ひとまずリンク先筆者の意見を要約すると以下のようらしい。
妄想は自由だけど、形にして世に流通させるのはまた別だよ。そんなもんはせめて、裏の世界で超高額で売買するか、無償でひっそりとやり取りしてほしい。
その理由は、そういった表現まで法で肯定されていたら、怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」この3つが揃った時、その作品は表現の自由の範疇を超えてしまう。ゆえにそれなりの規制はあってしかるべきということ。
中略省略は挟んでいるが概ねこうだ。特別な意見という感じではなく、ごく普通の感覚と言えるだろう。
しかしこのような普通の感覚とされるものが本人が想像しない危険性をはらんでいることに注意したい。
憲法で保障されている表現の自由だが、古くはチャタレイ事件でわいせつの定義が成され、公共の福祉のためにならわいせつ物の規制は妥当であるとされた。つまり公共の福祉に反しないということが表現の自由の大前提にある。
近年でそれを強く受けているのが松文館事件で、成人向けマンガにおける消し処理の甘さを指摘したものだが、どのような成人向け作品もいつ告訴されるかわからないしされれば有罪は免れないことを改めて認識させられたものだ。
定義そのものは変わらないが社会の変化とともにわいせつの要件に合致するかは変わる。チャタレイ夫人の恋人にしろ悪徳の栄えにしろ現在は文庫化され気軽に手に入る。つまり今現在悪だとされたものが数十年先にどう判断されるかはわからないのだ。無論、今は悪だとされれば裁判にかけられれば有罪になることに変わりはない。
怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから表現は規制されるのではない。公共の福祉に反するから規制されるのであって、法的には代表的なのはわいせつ図がに当たるから違法となる。誰かが不快だからという理由で規制してしまうことは表現のみならずあらゆるものを違法としてしまえる危険な考えであり、この先も健全な法の精神がある限りそれは守られるだろう。
先述したようにあらゆる成人向け作品は現在でもいくらでも禁止できる。だがそれは陵辱物に限ることではないし、また販売を特定の書店に限るなどの規制ではなく違法な出版物として流通そのものを禁止することになる。いくら筆者が「全面禁止しろよ」とは言ってないとしても、法で規制しろということは即ち禁止しろということになる。
現在は法ではなくその下の条例単位で成人向けとそうでない作品が分かれている。先述したように作品のジャンルではなく性的表現そのものが法的に重要なのであって、陵辱も純愛もそこには関係ない。この手の話は東京都青少年健全育成条例改正や児童ポルノ法改正などで過去に各所で散々出尽くしているが、行政も出版社もすでに作品のジャンルではなくもっと大きな単位での区分けがされている。コンビニで成人向け雑誌が他の雑誌とは別に置かれているのはそういう理由だ。
コンビニ雑誌の表紙やスマホ広告に載せるなよという筆者の言葉には、最近もコンビニにおける成人向け雑誌の表紙に女子高生が~という似たような話題があったと思う。これに関しては出版社や広告代理店などが対応する問題であって難しい。スマホに関しては広告表示に関する設定やアプリを導入する自衛策があるし、コンビニ雑誌についてはコーナーが明らかに区分けされている以上、不快なら見るなというほか無い。存在自体が不愉快だというのであれば、それは行き着く先はやはりそういった出版物そのものを禁止するべきだという論になるだろう。なにしろ全てのコンビニや書店から撤廃され特定の小さな通販サイトでしか買えないとなって筆者がそれに満足したとしても、世の中には筆者より恐らく強力で熱心な団体が存在する。今回の女子差別撤廃条約委員会の見解についても各種民間団体が絡んでおり、そもそも今回の見解では規制ではなく女子に対する性的暴力ゲームマンガの廃止を求めている。筆者は廃止された所で安全安心な世の中が得られるだけだろうが、それは当初のこっそりやれという目的から外れているが、筆者は何ら疑問の声を挙げないだろう。結局は自分の不快なものを消し去りたいだけと言えてしまうのだ。そうではないと言うのなら、ならば筆者は禁止すると法が言い出した時に「そこまではしなくて良い」と声を上げられるだろうか?
そりゃいろんな嗜好があるから、中には、対象を虐げたり傷つけたりしないと駄目な人もいるかもしれないけど、それって異常者か精神疾患ではないの?病院行けよ。
筆者は最初には嗜好と言いつつ特定の嗜好については健常者ではないとしている。性的嗜好というのは千差万別だがある種の思想を持っている場合は矯正するべきだ、というのは他者に対する尊厳を踏みにじる行為だ。50年前のアメリカならば白人に逆らう黒人は矯正するべきだとなるし、50年前の日本なら夫に逆らう妻は矯正するべきだとなる。いずれもその時代には当たり前のことであり、しかし現代人から見ればひどく差別的だろう。だからといって他者を傷つけるという行為が50年後に許容されるとは思わないが、しかし現代でも黒人差別や亭主関白を頭の中で考えることを誰が違法にできるだろうか。
特にこれは性的嗜好という、教育的思想などと違い本能に関わる難しい問題だ。法では正しい性道徳という考えがあるが、これを基本にして正しい嗜好を持つように義務付けられるような世界が筆者は望ましいのだろうか。無論、そんなことになれば事態は正しい性道徳に限らず、正しい社会規範や正しい労働者など、あらゆる面で模範的で優秀たる人間性を義務付けられるのは想像に難くないが、まさか筆者に都合の悪い趣味嗜好だけ消える世の中になると考えるほど筆者は愚かではないだろう。
いずれはこうした性的嗜好も脳機能の解明によりそのプロセスが明らかになるだろうが、まだ犯してもいない罪に対し犯罪的思考を消し去ることを是とするならば、それは個々の人格を倫理的かつ道徳的に操作しても良いということであり、当然筆者もその対象として正しい真人間にされる覚悟はあるだろうか? 少なくともこの筆者には、他者の人格を一方的に精神疾患と判定するという独善的な思想を治療する必要あり、と判断されるのではないだろうか。
現実的に、女性が男性に性的虐待を加えるというのは、①腕力・体格差があるので〈無理矢理〉が成立しにくい。②女性が見ず知らずの男性をいきなり襲っても、反撃されて傷つけられる可能性が高く、現実の犯罪率から言っても一般の男性にとってリアリティが無い。③むしろやってほしい、多少痛くてもご褒美、という嗜好の男性も散見される。
まず①に関しては、近年強姦罪が男性被害者に適用されないことが問題視されているように男性の女性からの性的被害については筆者のような「ありえない」という考え方が男女ともに強いので泣き寝入りするケースが女性の性的被害より深刻である。さらに女性被害者のような支援も充実していない。②も同様だが、犯罪率という観点について指摘がある。犯罪における男女比は細かく分けるとだいぶ違うが、総じて女性が20%ほどである。無視できるほどの数字ではなく、具体的には平成26年の殺人犯967人のうち227人は女性である。これをリアリティが無いという数値とは言えないし、また最近ではデートDVに関する大阪での調査で女性から暴力を受ける男性が倍以上の率であることが明らかになるなど、暴力で女性が敵わないからリアリティが無いというのは例え話の喩え話にしても筆者の知識不足である。③にも関連することだが、筆者自身は陵辱系ゲームマンガに対して怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから規制して欲しいと語るのに、ならば男性の性的被害者に関してはとなるとリアリティの無さやあろうことか一部の男性は好むからという理由で蔑ろにしている。
このことから
や
などの言葉に一切重みを感じられない。
筆者が女性として一般的な恐怖を感じるのと同様に、また筆者は女性として男性に対する陵辱などに想像が及ばないし世の男性が実はBLゲームの表現に恐怖しているかもしれないなどという考えもない。故に男性に対し筆者は、思慮が足りないなどということは出来ず、陵辱ゲームに対する意見も自身の嫌悪感からの消し去りたいという個人的要求が第一であると知るべきだろう。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」
を筆者は規制されるべきものとしている。二番目でちゃっかり同性愛物を省いているのはわざとか天然かはさておき、いずれもどうとでも解釈できるものであり、極めて危険極まりない規制理由である。
まず第一の
被害者という言葉について、そもそも創作表現上の被害者とはなんだろうか。作中で犯罪被害に遭う存在だとして、それを現実の法で守れというのはナンセンスな話だ。大体被害者の定義はどうするのか。家が燃えたら家は被害者だから作者は建造物放火罪になるのだろうか。人間だと限ってもその属性は幅広い。誰かを殺せばその人物の役職が大統領だから実在する特定の属性になるから規制だと出来てしまう。性別に限らず年齢も服装も人種も、なにもかもが属性である以上、そもそも創作表現で一切の犯罪被害者は出せないことになる。ミステリーでも刑事物でもだ。
第二に
は、これこそ差別的だ。男性が男性を殺すのは良いが男性が女性を殺す表現は駄目だとか、それに属性の定義が難しい。男性同士の殺人であっても片方が日本人で片方がアメリカ人なら属性を持ってないから規制対象だろうか。双子であっても服が違うから駄目だとか、どうとでも言える。
第三に
これもまたどうとでも解釈できる。大体だ、その描写によって誰が快楽・興奮を得るのかが不明だ。推測するに筆者にしてみれば病的な嗜好を持つ読者なのだろうが、表現規制より悪質な思想規制がここにある。なにしろ読者が興奮すればすべてアウトにできるわけだが、虫オスがメスを組み伏せる交尾の動画に興奮する人間がいたらそれはアウトにできるのだろうか? アウトに出来るのならこれほど馬鹿げた話はないが、出来ないというのならそれは筆者の嫌悪感に基づく趣味嗜好の篩分けを是とする危険な考え方だ。「普通の人は虫の交尾に興奮しない」を後者の定義としてセーフの条件にするならば、同様に「普通の人は陵辱物に嫌悪感を抱くので興奮しない」と出来るのだが、そこを捻じ曲げてアウトにしたいならば「こういうのに興奮する人がいるから」や「これだけは例外」など法に頼らない独善的な判断でなくてはならない。
仮に筆者の希望通りに陵辱物といえるものが規制され目につかなくなったとして筆者は満足するだろうか? 一時的には満足するかもしれないが、まず一度自分の願いが達成された万能感と高揚感、そして正義感は覚え続けることだろう。そしてそもそも筆者は女性を性的対象とする作品に目をつけるだろう。なにしろ成人向け作品そのものが性的にかつ男性向けとしてあるならば、当然そこに映る女性は純愛にせよ男性にとって都合の良い女性に違いない。それを筆者は不快だと言わないでいられるだろうか、それとも女性が現実味のない都合の良い存在として描かれておりそういうのを好む男性がいるのだと不快を覚えるだろうか。私はきっと次の規制対象に選ぶだろうと推測する。
そうやって限りない規制を繰り返しついに女性を性的に取り扱うことも差別的に取り扱うこともない輝かしい作品ばかりになったとしよう。筆者はようやく安堵するどころか、さらに不安を募らせるのではないのだろうか。なにしろ事の発端はそういった陵辱物を好む男性がいることであり、そこに恐怖や嫌悪を覚えていたのである。たかが創作表現で描写されている行為にすら嫌悪していた筆者が、果たして我慢できるだろうか。
人格改造か、去勢義務化か、男性の隔離か。筆者は妄言だと笑い飛ばしたいだろうが、筆者の考えの行き着く先はこうなのだと私は言いたい。筆者がなにかに恐怖を抱き続ける限り、目に見えなくなったからといって安堵することはないし、対象を滅ぼしたとしてもまだ生き残りがいるかもしれないと恐怖し続けるだけだ。
程々で良い、少しで良いなどという考えは行政や国といった単位に上がった時、当初の理念とは大きく外れてさらに巨大な制限となる。最近も児童ポルノ法改正で様々な規制への波及を危ぶむ声が出ていたのは、つまり個人での裁量によるあれは良いこれはダメという基準は法律に存在しないということだ。
最初の話になるが、女子差別撤廃条約委員会は陵辱ゲームマンガの「禁止」を求めている。これを錦の御旗として掲げ、その通りだと禁止を呼びかけることはできるし、この先にそういった団体が動くことは目に見えている。だがその禁止が成った時に、一つの創作表現が失われることに筆者は恐らく何も抱くことはない。むしろ嫌悪するものが消え去って小躍りしたくなるだろう。だが筆者の語る所の病気である嗜好の持ち主たちは悲しむだろう。そんな奴らが悲しんだ所で筆者は何も困らないが、しかし筆者が趣味嗜好とするものが何らかの形で規制を受ける時、彼らは味方することはないしむしろ仕掛け人かもしれない。
筆者は自分が悲しむ対象になるようなことは無いと思っているだろうが、表現の自由に手をかけるとはそういうことだ。たかが創作物というものに負の感情を根底とした規制をかけられるということは、創作物以上に影響力のある現実的存在にも同様に手をかけられるということだ。筆者が好む筆者が健全で正しいと思う存在が、誰かにとって不快で汚らわしい存在でないと言い切れるだろうか?
自身が自由でありたいと思うのならば、他者の自由も許容しなければならない。それは現在のこの国において公共の福祉という最低限度の規制を受けるが、それ以上に自分自身の負の感情を理由とする個人的要求を、同様の理由で合致した他者と共謀して排除しようという試みは慎むべきだろう。現実に犯罪を犯せば処罰される。逆に言えば犯罪を犯さないかぎり自由であり、それを無理矢理に犯罪者に仕立てあげて住み心地を良くしようなどという考えを持つならば、あなたもまた誰かに犯罪者として告発され自由を奪われることを許容しなければならない。
世の中には不快と思えるものが多くある。しかしそれをすべて排除して生きたいというのは無理のある話だし、かといってすべて許容するのも無理な話だ。
しかしコンビニ雑誌の表紙が不快ならば、あなたは見ないでやり過ごすことが出来る。 Permalink | 記事への反応(3) | 09:02