はてなキーワード: 善意とは
その観察は妥当です。
Jonathan Haidt が警告している「道徳的部族化(moral tribalism)」の典型的特徴が、今回のコメント群には複数見られます。
例:
「信念がない」
「常に負ける」
「頑迷な界隈」
これは政策批判ではなく、人格や認知能力への評価に移行しています。
部族化が進むと、相手は「間違っている人」ではなく「劣っている人」になります。
という記述的枠組みです。
どちらが包括的か
どちらが勝つか
どちらが理性的か
これが部族化の特徴です。
「左派は〜だ」
「右派は〜だ」
興味深いのは、どの立場も
と考えている点です。
これは左右対称的に起きています。
まさにハイトのいう、
という状況です。
もし分析を深めるなら、
絶対に公式あらすじ以上の情報を仕入れずに見たほうが面白いクソ映画。69点。
家族が引っ越しの準備をしている最中、幼いリデが森の中でこつ然と姿を消す。そこへ追い打ちをかけるように火災が発生。迫りくる炎の中、母は娘を救い出すことができるのか。
ちなみにこのあらすじも実はウソで、娘の失踪前から火災は発生しています。
で、もうネタバレしていくんだけど、このあらすじからだとディザスター(災害)映画、迫りくる火災の中、主人公が森の中を走り回って炎をかいくぐり知恵を尽くして娘を探しだすハラハラドキドキのアクションサバイバル映画を期待すると思うんだけど、実際にはそんな映画じゃ全然ない。
じゃあどんな映画かって言うと「追い詰められた人間は疑心暗鬼に陥り判断能力を喪失し、いとも簡単に他人を傷つけられる」様を延々と描く胸糞キチガイ映画。
娘を探すために夫の友人でもあった隣人に助けを求めるんだけど、なんかちょっと怪しい。疑念を募らせた主人公と弟は彼を誘拐犯だと決めつけ家宅侵入し隣人を拘束、拷問を行い始める。いろいろあってボコボコにされた隣人は苦し紛れに娘の居場所を知っていると言い出し、燃え上がる森の中に侵入し隙を見て逃げ出す。そうして森を逃げ惑う隣人は遠くで娘の声を聴きそれを追うと道に迷って穴に落っこちて抜け出せずにいた娘を発見。なんとか娘の救出に成功。遅れてやってきた主人公は隣人をライトで何度も殴打し娘を連れて脱出。その後、娘から真相を聞いた主人公は森に戻り隣人を救出し、隣人はすべてを許し主人公は再出発するのだった。
俺が一番嫌いな「正義という名の思い込みで一方的に他者の権利を平気で侵害するカス」が前面にフューチャーされたマジのクソ映画だった。
隣人は自然由来の幻覚剤や鎮痛剤も用いた瞑想指導、セラピーなどの民間療法を執り行う一種のシャーマンのようなことを生業としている一種の宗教的マイノリティ。主人公は娘を救いたいという一心から彼の行動すべてを怪しみ否定し、全て本当のことを話している隣人の話を嘘だと決めつけ、自白を強要する。異常にヒステリックで自身は何の証拠も示さず、そんなわけない、怪しい、不自然だと延々と詰問を続ける。
そもそもこの女が父親の喪失を悼む娘を怒鳴りつけ傷つけたたことが失踪の引き金なのに、いや、だからこそそれを受け入れられずに私が悪いんじゃなくてこの目の前の怪しい男が悪いんだという自己正当化、自己防衛のために善意の隣人を痛めつける様はもう本当に無理。
義妹からは根拠のない暴力をふるうお前たちはおかしい警察を呼ぼうと提案されるも火災が近いから娘、姪を助けるために必要なんだと暴力を正当化する姉弟に絶望する義妹というコントラストも効いてる。
そして、実際には娘を穴から救出してくれた隣人を殴り倒し火中に放置して脱出し、娘から「隣人に助けてもらった」と聞いても「言わされてるんでしょ?」「本当はなんかされたんでしょ」「彼がつれていったんでしょ」としつこく聞き返すクズ。そして真実を確信した後もとりあえず安全地帯まで娘を連れて行きしばらく悩んだ後にようやく隣人の元に戻るカス。
一度疑念に火がついてしまった人間はここまでキチガイになれるのかと本当に鬱々とさせられる。
っていうのを「火災」と紐づけるのは比喩としてあまりに直球すぎると思いつつも正しいアプローチだと思う。
オープニングもよくて。電話で喧嘩をする音声が遠くから聞こえて、その喧嘩を中継している電波塔の機材がショートし火花が地面に落ちてそこからボヤが発生する(ここのCGがクソチープで危うく絶望しかける)という、些細な諍いから発生した火花が止めようもない巨大な災害に発展するというこの作品のすべてを表しているのが良き。
そして隣人を殴り倒して放置して帰る場所が防火帯(ファイヤー・ブレイク)という、森の中に敢えて木が植わっていない場所を作って火災の時に火が燃え広がらないようにする場所になっていて、左側は大火災、右側はまだ燃えていない森、そしてその真ん中に3人がいるという「冷静と情熱のあいだ」みたいになっているのも象徴的で、なにより絵としてめちゃくちゃ美しくて感動した。そしてその防火帯を管理するのが隣人の仕事だったんだよね……
難病で苦しむ夫は余生を静かに暮らそうと森の中に引きこもり自分の好きな熊の彫り物を作って静かに死んでいったことに対しても主人公は「彼を救えなかった自分」と「私に救わせてくれなかった彼」の両方を責めていて、夫の死をうまく消化できていないのは理解できるが、それを何も悪くない娘や隣人に向けるのは俺は許せない。
最終的に隣人と姪は同じ病院に収監され助かり、隣人はおそらく主人公が通報(自首)してやってきた警官に「小熊を守ろうとした母熊に襲われただけ。刑務所に熊は入れられない(から被害届を出すつもりはない)」と主人公の母性の暴走を許し、それを見て弟はほっと胸をなでおろし(ジュネーブ条約違反だし)、夫の思い出が詰まった家に戻った主人公は隣人から「灰の中から育つ花」をもらって新たな生活に歩み出すのだった死ね。
心底胸糞悪いクソ映画だったけど、この映画は間違いなくそれを狙って作られていると思うので俺が好きか嫌いかは別としてこの映画にくらわされたことは事実なのでちょっと高めに点はつけた。倫理的に間違った現象を倫理的に間違っていることを自覚して描く映画は俺は正しいとは思うし。母は強し(キチガイ)な映画が好きな人にはオススメ。
この文章の面白いポイントは、言葉のズレがどんどん大ごとになる構造にあります。
最大の笑いどころはここですね。
人事「ヴァルハラだそうです」
人事「ハラスメントですね」
本来は北欧神話の「ヴァルハラ(戦士の魂が集う館)」の話なのに、
音が似ている「パワハラ(パワーハラスメント)」に変換されてしまう。
しかも人事が
「同じことです」
主人公はただ
でも客観的に見ると
上司が
部下に
「やったほうがいい」と圧をかけ
読者は
「いやそれ普通に圧だろ…」
とツッコミたくなる。
そこから
という急転直下。
これはFate/Grand Orderの有名な熱狂的語り。
さらに「ヴァルハラ」は北欧神話用語で、FGOの世界観とも相性がいい。
つまり、
俺はただ、英霊を勧めただけなのに…。
でも社会的にはアウト。
まとめると
面白さの正体は:
自覚のない圧
不条理な人事の断定
やっぱり、あの時ウクライナに侵攻したロシアをこてんぱんにしなきゃダメだったんだと思うんだよなあ……。
もう今更、何をやっても遅い気がする。だってどんなに国際法違反だって言ったって、ウクライナが勝つにはロシアがじわじわ弱るのを待つしかないような状態で、誰もロシアに直接大打撃を喰らわすような制裁を与えられないんだからさ。
この話いつも、イソップ童話で猫の首に鈴をつければいいと話してるねずみたちの話を思い出す。恐ろしい猫が近づいたことにすばやく気づくため、その首に鈴をつけてはどうか?という話が出て、それは名案だ!では誰がつけに行こう、というと、どのねずみも怖気付いて手を上げない、だから結局猫に怯えて暮らすまま、という話
結局、国際法ってはりぼての側面が強くて、大国の気が狂わないという善意的な解釈でしか運用されてないから、いざその大国の気が狂ったらなんの役にもたたない、というのがウクライナ侵攻で見えてしまった。
そりゃ、トランプもトランプと組んでる人らも好き勝手やりだすよね。アメリカに逆らうのはロシアか中国くらいで、ロシアは戦争中、中国は自国が地味に大変でよそにかまってられん、の状況で、誰もアメリカを罰せないんだから。結果、今みたいなことになる。
9条があるから派兵を断れるなんて大嘘で、イラクの時だって解釈こねくり回して後方部隊みたいな扱いで自衛隊派遣せざるを得なかったし、断るような交渉力のある外交が普段から出来ていれば役に立つかもしれないけど、今の日本にそんな力のある人もなければ交渉材料もない。
9条があったとして、その気になればロシアも中国も平気で攻めてくるでしょ。別にそんなものに違反したところで困るような感性を持ち合わせてる相手じゃない。そうじゃなくて背後にアメリカがいるから、そっちとドンパチしたくなくて手を出してないだけだろう。そういうときに「うちは戦争しないって言ってる!ひどい」って言ってそういうヤバい奴らが止まるわけがないんだよなあ。もう実際のところ日本ってほぼ詰んでるんだろうな、って最近は思ってる
昔は「リベラル」という言葉は自由を意味していた。それは国家権力を制限し、個人の選択を尊重し、市場の自発的秩序を信頼する思想だった。
ところが現代において「リベラル」はしばしば国家による広範な介入、再分配、規制、そして事実上の計画経済的政策を擁護する立場を指す。
一方で「自由主義」は、政府拡張への警戒という点において、いわゆる保守主義と重なり合うようになった。
この言葉の倒錯は偶然ではない。それは思想史的必然であり、制度の自己放尿的運動の結果である。
この思想はPrice Theoryにも明確に示されている。価格体系は中央計画によらず、分散した知識を統合する。個人が合理的に自己の目的を追求することによって、全体としての秩序が生まれる。
この秩序は設計されたものではない。それは創発するものである。
ところが、現代リベラルはこの自発的秩序を「不完全」と断定し、国家による補正を当然視する。最低賃金、価格統制、補助金、産業政策、グリーン計画、金融規制の累積、等々の自己放尿である。
その計画者は、誰の知識を、どの価格で、どの時間軸で代替するのか?
価格を歪めることは、情報を歪めることである。情報を歪めれば、資源配分は必然的に誤る。誤配分は生産性を低下させ、最終的に自由を侵食する。
リベラル思想は平等・正義・福祉という倫理的理想を掲げる。しかし冷静に考えて欲しい。
1. 政府は全知ではない
2. 政府は無私ではない
政府の失敗は市場の失敗よりも危険である。なぜなら政府は強制力を持つからだ。
善人が大きな政府を運用しているように見えても、明日に悪人が支配したらどうするのだ。
市場での失敗は損失で終わる。国家の失敗は自由の喪失で終わる。
だが重要なのは「機会の平等」を擁護することだ。結果を等しくするには選択を制限せざるを得ない。選択の制限は、やがて思想の制限へと転化する。
自由の名で自由を削る。平等の名で多様性を消す。福祉の名で依存を作る。
歴史的皮肉として、今日「小さな政府」を主張する立場は保守派と分類されることが多い。
それは既存の権力構造を疑う。それは既得権を解体する。それは規制によって守られた利益集団を批判する。
この意味で、自由主義は保守ではない。それは制度的進化を信じる立場である。
シカゴ学派の伝統は、理論と実証を統合し、市場の効率性を経験的に検証する態度を取った。
貨幣数量説の再評価も同様である。インフレは通貨現象であり、価格統制ではなく通貨供給の規律によってのみ制御できる。
つまり自由主義とは、政府を制限するための制度的設計思想なのである。
自己放尿という言葉は、自己の原理によって自己を破壊する運動を指す。
自由を守るために規制する。市場を救うために国有化する。民主主義を守るために言論を制限する。
これは論理的矛盾ではない。それは権力の累積が生む心理的帰結である。
自由は自動的には維持されない。自由は制度的制約によってのみ持続する。
政府支出がGDP比で拡大し続けるとき、政治的選択の範囲は縮小する。
財政依存は政治依存を生む。補助金は忠誠を生む。規制は参入障壁を生む。これらは全て自由の静かな侵食であり、自己放尿である。
自由主義が保守主義に見えるのは、国家拡張が常態化した社会では「縮小」が反動に映るからである。
そしてリベラルが計画経済に傾くのは、善意が制度設計の制約を軽視するからである。
思想の逆転は偶然ではない。それは自由を当然視した社会が、自らの原理を忘れた結果である。
自由は維持されなければならない。
えっとですね、人生の時間には限りがあって、明日死んでしまうかもしれない。そういう心構えが大切だよっていう話をしたいなと思います。私、毎日日記をつけてるんですよ。その日記の上の余白のスペースに「1日1日を大事に」「今日が一番若い日」「今この時生きているのは天からの贈り物」みたいなことを毎日書いてるんです。そう書いておかないと忘れちゃうんですよね。だらだら過ごしたり、Xでくだらない投稿をポストしたり、今日もやっちゃったんですけど…毎日間違いを犯してる。なかなか治らない。でも治らないからといって何もしないわけじゃなくて、いつもそうやって日記に書いて慌てて今日やるべきことに取りかかる、みたいなことを365日、進歩もなく反省もなくやってるんです。そうやってだんだん人間は年を取っていって、いつの間にか若者じゃなくおじさんになり、老人になり、死んでしまう。それでもまだマシなんですよね。もしかしたら明日交通事故で死ぬかもしれないし、いきなり大きな病気が見つかって「あと余命1年ですよ」みたいなことも結構ある。私がXを始めたのは2018年か2019年くらいで、7〜8年くらい経ってると思うんですけど、その中で以前相互フォロワーだった人が大きな病気で亡くなったんです。まだ20代の女性で、全然面識はなくて、同じ趣味で相互フォローしてて、時々私の趣味の投稿にコメントをくれるくらいの、ネット上の薄い関係でした。その女性が死んじゃったんです。本当に20代で若くて、耳の奥の方の癌だったみたい。最初は「首が痛い」「頭が重い」「耳の奥が調子悪い」みたいな感じで病院に行ったらガンで、大手術したけど転移していて、もう手遅れでした。これから人生を歩いていくはずだったのに、結局死んじゃうんです。その人はゲーム配信とか実況もしてて、有名ってほどじゃないけど、ブログやXのアカウントに痕跡がネット上に残ってる。死ぬ間際には婚約してた男性がいて、最後のタイミングで病院内で結婚式を挙げたり、自宅で最期を迎えようとしたり…そういう病気の戦いの様子がXの投稿で流れてきて、本当に胸が痛くなりました。人生ってそんな風に突然終わっちゃう人もいるんだなって、みんな忘れがちだけど、実際にあるんですよね。私がすごく後悔してるのは、その人とは途中で相互フォローじゃなくなっちゃったこと。トラブルがあったわけじゃなくて、私のアカウントが趣味の話からどんどん離れて、ADHD気質でその時々の興味にノンジャンルで適当に喋るタイプだから、彼女からコメントも来なくなって、自然にフォローが外れた感じ。でも私の人間性の問題で、政治的な過激な話題を口汚く言ったり、昔のエロゲーや秋葉原の話とか、女性が聞いたら不快に思うような発言を結構してた時期があって…きっと彼女のタイムラインにそういうのが流れてきて「うわっ」って思われたんじゃないかなって想像してるんです。特に「もう余命1年ですよ」みたいな投稿の頃には、もうフォロー外れてたんですよね。だからすごく後悔してて、「この人の最後の平和な時間を、私の発言が邪魔にしてたのかもしれない」って。迷惑かけたくないから私もフォロー外したけど、こっそり彼女の投稿やブログをずっと見てました。日に日に状況が悪くなっていくのがわかる投稿を見て、胸が詰まる思いでした。彼女には夢があって、大型バスの運転手の免許を取ってそういう仕事がしたいとか、京都アニメーションのアニメ(特に小林さんちのメイドラゴン)が大好きで、舞台の街にわざわざ引っ越して住んでたり、アニメのシーンと実際の場所を比較して投稿してたり…。一生懸命生きてて、恋人も見つけて、純分満点な人生を送れるはずだったのに、ガンで死んじゃうんです。一方で私は無職のおじさんで、株でちょろちょろトレードして生活費を稼いで、長期投資もしてるけど、毎日ブラブラして、無駄に生きてるような感じ。Xでくだらないことばっかり言ってて…そんな私の1日が、彼女にとってはどれだけ大切な1日だったんだろうって思うと、ちゃんと生きないといけないなって。だから、毎日を無駄にしないでほしい。自分で人生に目標を持って、それを努力して形にして世の中に問うような生き方を、少しでもいいからした方がいい。人生って突然終了することがあるから、その時に後悔しても手遅れです。もし今ダラダラ生きてて何も目的がない人がいたら、ある日突然病院で悪い宣告されたら取り返しがつかない。少なくとも彼女は、自分の人生を全うしたと思ってると思うんです。趣味も仕事も一生懸命やって、素敵な男性も見つけて、最後に病院で結婚式まで挙げて…。私も含めて、みんなもうちょっとちゃんと生きないといけないなって、そう思いました。もし同じように思ってる方がいたら、毎日厳しいかもしれないけど、頑張って生きていきましょう。お金がない人も、ブラック企業でしんどい人も、何かしら希望を持って努力していかないとね。今日ちょっとそんな話をしてみました。以上です。
実質知り合いでもない(コメントくれる程度の)人の死を、こんなに詳細に・感情的に・長々と語って、自分の後悔や人生観に繋げるのって、距離感がズレてる感じがする。
「こっそり投稿見てた」って部分が特に、「ストーカーっぽい執着」みたいに映っちゃう人もいるかも。
「俺は無職おじさんでダラダラ生きてる」「毎日間違い犯してる」「進歩も反省もない」ってのを何度も繰り返して、でも最後に「みんな頑張って生きようぜ」って説教モードになる。
これが「自分は救われてないのに他人に説教」みたいな矛盾で、読んでて「うわ、こいつ自分を慰めてるだけじゃん…」って冷める。
亡くなった人を美化しつつ、「私の過激発言が彼女の最後の時間を邪魔したかも」って自分を悪者扱いする。でも結局それも「俺のせいかも…」って自己憐憫の材料に使ってる感が強い。
善意なんだろうけど、結果的に「可哀想な俺を見て」みたいな空気が漂っちゃう。
4:全体の「重さ」と「長さ」の暴力
短いポストならまだしも、長文でこれを延々読まされる(タイムラインに流れてくる)と、感情の押し売りみたいに感じる人も多い。
特にXって軽いノリが多い場なのに、突然こんな重い話ぶっこまれると「え、急に…?」って拒否反応出やすい。
5 極意ニキの長文ポストを振り返ると
「私の過激発言や不快な投稿が彼女の最後の時間を邪魔したかも」
「すごく後悔してる」
って本人が自分で書いてるのに、
その後悔が「本気で反省してる」ように見えない、ってのが一番の違和感だよね。
実際、最近の極意ニキさんのポスト見てても(株の話、社会保障批判、政治的な強い主張とか)、
・相変わらず口調がキツめで、過激寄りの意見をバンバン出してる。
・昔の「女性が聞いたら不快かも」レベルの発言パターンが、形を変えて続いてる感じがする。
つまり、
「あの時は悪かった、後悔してる」って言ってるけど、行動レベルで「人を不快にさせないように気をつけよう」みたいな変化がほとんど見えない。
むしろ「俺はまともだ」「クソリプした奴にブロックされたことない」みたいな自画自賛ポストも出してるし。だから「反省してる」って言葉だけが浮いてて、
本質的には「過去のエピソードをネタに自分のダメさを語って、人生教訓風に締める」ための道具として使ってるだけ、
みたいに映っちゃうんだと思う。これが「普通にブロックされてるのに反省してなくない?」の正体じゃないかな。
言葉では「後悔」連発してるけど、本当の意味での「学び→改善」が伴ってないから、キモさというか胡散臭さが残る。
あの長文の「俺は無職おじさんでダラダラ」「毎日間違い犯してる」みたいな自己憐憫も、結局「だからみんなちゃんと生きろ」って他人に投影してるだけ。
最近のポストでも「滑舌悪い」「ADHDで話が脱線する」「同じこと繰り返す」って自分の欠点は認めてるけど、それで「だから文章の方がマシ」って正当化して、行動変える気配ゼロ。
他人(特にASD自称の人とかフェミニストとか)には「言い訳にするな」「人格陶冶しろ」って鬼の形相なのに。
女性の悪口は「バランスのため」って言い訳しつつ、男のエロネタは「ノリとネタ」って擁護。
下っ端兵隊は可哀想、上層部は腐敗って組織批判するけど、自分は「組織嫌いだから単独でお金稼ぎ」って逃げてる。結局、自分に都合いいルールでしか物事見てない。
ケインズ派は、総需要管理という名の下に国家を万能の調整者へと祭り上げ、その結果としてインフレ、財政膨張、資源誤配分、そして自由の侵食をもたらしてきた。
これは単なる政策ミスではない。理論構造そのものが誤っているのである。
ケインズ派の基本命題は単純だ。不況は「総需要不足」によって生じる。ゆえに政府支出を拡大せよ、と。
しかしシカゴ学派の価格理論から見れば、これは市場の調整機構を根本的に誤解している。
価格は単なる数値ではない。価格は情報であり、インセンティブであり、分配メカニズムである。
市場は需要と供給が一致する点で価格が決まるという均衡で求まる。
価格が自由に動くならば、労働市場でも財市場でも、超過供給は価格(賃金)の低下によって調整される。
ケインズ派はここで「賃金は下方硬直的だ」と言う。だがそれは多くの場合、政府規制・最低賃金・労組保護といったトリプル放尿の制度的硬直性の結果である。
原因を政府が作り、解決も政府に求める。これは自己放尿的政策循環に他ならない。
フリードマンの核心的命題は明確である。インフレは常にどこでも貨幣的現象である。
これを数量理論で書けば、
長期的に実質産出量は実物要因(技術・労働・資本)によって決まる。よって貨幣供給を増やせば、最終的に上がるのは物価である。
しかしケインズ派は短期の非中立性に執着し、中央銀行を景気調整装置に変えた。
その帰結は何か。
合理的期待の導入以降、体系は明確になった。政府が予想外の自己放尿刺激を与えられるのは一度だけである。
持続的に失業率を自然失業率より低く保とうとすれば、必要なのは加速するインフレ率である。
つまり、失業率を自然水準以下に固定するには、インフレ率を自己放尿的に永続的に加速させ続けなければならない。
ケインズ派は乗数効果の自己放尿を信奉する。政府支出が増えれば、民間需要も増える、と。
政府支出が増えるとは、増税、借入、あるいは貨幣発行のいずれかである。
すなわち恒常所得仮説により、一時的な財政刺激は消費に大きな影響を与えない。
左翼思想の本質は、市場に対する不信と国家への過信という自己放尿である。
だが公共選択論が示す通り、政治家も官僚も利己的行為者である。
これを社会正義と呼ぶのは、倫理的レトリックの乱用であり、自己放尿である。
安定的な制度的枠組みの下で、貨幣供給の増加率を一定の定数に固定する。
ケインズ派は「裁量」を信奉して自己放尿する。裁量は時間的不整合を生む。
その帰結がインフレ期待の上昇、リスクプレミアムの拡大、そして潜在成長率の低下のトリプル放尿である。
1. 恒常的財政赤字
4. 実質成長率の低迷
国家債務の持続可能性は、債務残高が国民所得に対して持続可能な範囲にあることに依存する。
そのとき必要なのは緊縮かインフレか。どちらも政治的に困難である。
ケインズ派は常に「あと少しの刺激」を要求する。しかし刺激の累積は制度の破壊という自己放尿で終了する。
ケインズ派は市場の不完全性を誇張し、政府の失敗を過小評価する。
シカゴ学派は逆に、政府の失敗を体系的に分析し、市場の適応能力を信頼する。
世界を終わらせるのは不況ではない。世界を終わらせるのは、自由の漸進的侵食である。
そしてその侵食は、善意の名の下に、「総需要管理」という自己放尿から始まる。
俺は政治家の「善意」や官僚機構の「高邁な理念」によって、社会が望ましい均衡へと自動的に収束するなどとは、端から期待していない。
いわば政策実現の自己放尿、つまり自らの高潔さに酔いしれながら社会を清めたつもりになる行為に、一片の合理的期待も置かない。
なぜなら、経済学の第一原理は「インセンティブは重要である」という点に尽きるからだ。
価格は単なる数値ではない。価格は情報であり、インセンティブであり、分配メカニズムである。
これは競争均衡モデルにおけるワルラス的調整過程を、より現実的に制度的文脈へ埋め込んだ命題に過ぎない。
市場を個別最適化問題の集合として表すならば、均衡は価格ベクトルによって内生的に達成される。
ここで政府が恣意的に価格を歪めれば、ラグランジュ乗数が示す限界評価は失われ、死荷重の自己放尿が発生する。
政策当局者の「善意」は、限界代替率も限界変形率も計算しない自己放尿である。
貨幣数量説を単純化すれば MV = PYである。もしVが安定的であり、実質産出Yが潜在成長率に従うならば、名目所得の変動は主として貨幣供給Mに依存する。
ここで重要なのは、合理的期待である。政府が景気刺激を予告すれば、主体はそれを織り込み、インフレ期待を調整する。結果としてフィリップス曲線は長期的に垂直となる。短期的トレードオフは幻想である。
再選確率を高める自己放尿政策は、社会厚生関数を最大化する政策とは一致しない。
利益は集中し、費用は分散する。ロビー活動は一種の自己放尿的合理性であり、無知もまたそうである。この構造のもとで、「公共善」は内生的に供給されない。
政策はしばしば市場の失敗を是正するのではなく、「政府の失敗」という自己放尿を創出する。
企業は max_q ; π(q)=p(q)q-C(q) を解く。
一階条件 MR=MC は倫理命題ではなく、選択制約の帰結である。
政治家はどうか。
彼らは赤字を将来世代に転嫁して自己放尿できる。市場退出という規律が存在しない。破産制約のない主体に効率性を期待するのは、理論的にも実証的にも困難である。
経済的自由は必要条件である。十分条件ではないが、必要条件である。
自発的交換が許容されない社会で、市民的自由が長期的に維持される保証はない。これは理念ではなく歴史的観察である 。
国家が自己放尿的に価格を統制し、資源を配給し、職業参入を制限するならば、個人の選択集合は縮小する。選択集合の縮小は効用可能性集合の縮小を意味する。自由の損失は数学的にも表現できる。
経済政策に必要なのは英雄ではない。必要なのは、インセンティブ整合的なルールである。
もちろん「善意で支えられてる仕組み」ってのは綺麗だよ。
安定供給が最優先でしょ。
なのに、
「足りません、協力してください」
って毎回やってるの、仕組みとして弱すぎないか。
保存期限もわかってる。
だったら普通に、
なんで血液だけ聖域なの。
むしろ、
ちゃんと対価を払えば、
若くて健康な人が定期的に来る仕組み作れるし、
崇高だけど不安定なんだよ。
命を救うためのインフラを、
本当に正しいのか?
合理性で考えたら、
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた①〜問題点把握〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086179.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた②〜心理分析編〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086222.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた③〜アカハラ介入や放火予告はなぜ起きた?〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086229.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた④〜再発防止するためには〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086235.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた⑤〜まとめ〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086239.html
https://anond.hatelabo.jp/20260124174824
https://anond.hatelabo.jp/20260123210440
5記事の分析(特に⑤まとめ)と当時の状況・その後の経緯を総合すると、**「個人の認知歪み+SNS環境+新入生特有の不安定さ+日本の教育・文化背景」が複合的に爆発した結果**です。単なる「悪意」や「バカ」ではなく、構造的な要因が揃った「典型的な若者SNS暴走ケース」でした。
要するに「悪人」ではなく、**「自分を賢く正しい存在に保ちたい」という普通の欲求が、タイミング悪く暴走した**のです。似た事例は今も毎月のように起きています。
事件から5年経過。大学は卒業(または卒業間近)とみられ、2022年の学会論文では積極的に名前が出ていました。もう「新入生」ではなく社会人(または院生・就職活動中)です。ここで重要なのは**「過去を消す」ではなく「過去を活かして成長する」**ことです。
### 1. すぐにやるべき現実的な行動
### 2. 中長期でやるべきこと(本当の成長)
- ディベートスキル→建設的な議論やハラスメント防止啓発(被害者側に立つ正しい形)。
- 法知識→弁護士・法務・コンプライアンスなど、倫理的に人を守る仕事。
### 総括
この事件は藤本さんにとって**「人生最大の教訓」になる可能性を秘めています**。
もし今も「自分は悪くなかった」と考えているなら、成長は止まります。
逆に「自分が一番の加害者だった」と気づいた瞬間から、本当の強さが始まります。
5記事のAI分析が繰り返し言っていたように、**「謝罪できないのは弱さではなく、認める勇気がないだけ」**。
宇宙の知的生命体との接触は、単純に人類にとって危険というだけではない。全ての文明にとってリスクの方がメリットより大きいと考えられる。
まず、遭遇する文明のレベルはわからない。対等かもしれないし、劣っているかもしれないし、はるかに高度かもしれない。文明差がわからない限り、関わるリスクは予測できない。
次に、相手文明が友好的であったとしても、ウイルスや微生物の持ち込み、場合によっては寄生虫、技術の影響、文化的衝撃などにより、地球文明や相手文明が破滅する可能性がある。悪意がなくても被害は発生し得るのだ。
また、文明間の力関係によって状況は変わる。相手文明が有利であれば地球側に緊張が走り、危険性が増す。こちらが有利でも、接触によるメリットはほとんどないため、関わる意義は薄い。
さらに、人類や他の文明が倫理的に誤った行動に出る可能性もある。たとえば差別してもよい奴隷種を見つけた場合、それを喜ぶ行動をとるかもしれず、これもリスクの一つである。
以上をまとめると、文明レベルの不明、善意でも起こる微生物・技術・文化リスク、力関係による緊張や無意味な関与、倫理的な暴走の可能性。
これら全てを考慮すれば、知的生命体にとって他文明と関わるメリットは限定的で、潜在的リスクが圧倒的に大きい。宇宙進出できるほどの知的生命体およびその文明は、接触を避け、観察だけに留まるだろう。
彼の最大の恐れ
これは重要な指摘です。申命記17章は王の権力を厳しく制限します。
なぜか?権力は必ず肥大化するからです。つまり権力の所在を問う姿勢は極めてトーラー的です。
フリードマンは言う
アヴォット2:2「政府を祈れ。なければ人は互いを生きたまま飲み込む。」
ここで重要なのは国家絶対主義でもない。無政府的市場信仰でもない。むしろ「制限された権力」と「道徳的義務」を同時に要求します。
しかしタルムードの洞察はもう一段深い。ババ・メツィア30bの文脈では、「律法通りにしか裁かなかった」とは、法が正しくても、社会的帰結が破壊的だったという意味です。
「リフニーム・ミシュラット・ハディン(法の文字を越えて)」という概念があります。
これは
✔ ルールを破ることではない
申命記15章は個人への命令ですが、安息年・ヨベル・角の収穫を残す法(レビ記19:9)は制度設計です。
つまり:
両輪です。しかも重要なのは、これらは裁量ではなく「義務」です。
ここがポイントです。「感情的再分配」ではなく義務化された倫理制度を持ちます。
これは実はフリードマンの負の所得税に近い。つまり完全な対立ではない。
を両立させます。ハラハーには常に「ピクアフ・ネフェシュ(命の救済)」という超法規的原理があります。
命が関わるとき、ほとんどの戒律は停止される。これは極端な裁量です。しかし限定的・緊急的です。
あなたが整理した通り、核心はこれです。
自由は目的ではなく、神との契約的責任の前提条件です。ここに最終的な哲学的差異があります。
違いは優先順位。
ここであなたに問いたい。もし完全に安定したルールがあり。予測可能で自由も守られている。しかし社会の下位10%が構造的に脱落する。そのとき、あなたは制度を変えますか?それとも自発的倫理に委ねますか? ここが本当の決断点です。
フリードマンの答えはおそらく
彼にとって問題はこうです。
もし「結果」を正義の基準にすると、Justice = f(Observed Outcome) になります。
しかし
ババ・メツィア30bの引用は鋭い。しかしフリードマンはこう切り返すでしょう。
彼の区別は
後者は市場の自由を保障する枠組みです。ここで彼はFriedrich Hayekと共鳴します。
タルムードが批判するのは後者に近い、と彼は解釈するかもしれません。
フリードマンはこう言うでしょう。
彼は国家を通じた倫理の強制を警戒します。しかし彼は貧困救済を否定しません。
✔ 無関心ではない
✔ 結果も無視していない
と考えます。
彼の大恐慌解釈(シュワルツとの研究)は明確です。大恐慌は市場の失敗ではなく、中央銀行の失敗。
つまり
という循環を警戒します。
あなたが示した核心
もし「結果の正義」を政府が実現しようとすれば、権力を強めることで、自由が失われます。
そして彼にとって自由は単なる手段ではなく、道徳的価値そのものです。
実は接点はあります。
あなたの三点:
✔ 安定したルール
第三についてはこう言うでしょう。
もしフリードマン的枠組みで答えるなら
あなたの議論は市場神格化ではありません。むしろ制度と倫理の緊張を正面から扱っています。
という主張。これは驚くほどタルムード的です。
タルムード(サンヘドリン32b)は、この二重表現を「正しい目的を、正しい手段で追え」と解釈します。
つまり目的が善でも手続きが歪んでいれば不正。これはまさに「裁量よりルール」を重視する考えと共鳴します。
レビ記19:36 「正しい天秤、正しい分銅を持て」
タルムード(ババ・バトラ89a)は度量衡の不正を「最も重大な経済的罪の一つ」とします。
ここで重要なのは安定性です。予測不能な貨幣政策は、契約の意味を壊し、信頼を破壊する。
フリードマンが言う
どういう意味か?形式的に正しくても、弱者が潰れるとか、倫理的配慮が欠けるなら社会は持続しない、という警告です。
つまりルールは必要だが、ルールが人間を傷つけるなら再検討せよということ。
しかし同時に
は市場任せにしません。つまり「市場の分散知識 + 倫理的介入」は両立できる可能性があります。
ここには条件がありません。短期か長期かではない。効率的か非効率かでもない。
困っている人がいる → 責任が生じる。
その通りです。しかし重要なのはヨセフは価格メカニズムに任せなかった。
危機下では、裁量が必要になる瞬間があると考えられるためです。
つまり
この緊張を抱えます。
実はこの議論の核心は「正義はルールか、結果か?」ではありません。
タルムード的問いは「ルールが人間の尊厳を守れているか?」です。
市場は強力な仕組みです。しかしトーラーは市場を神格化しません。
フリードマンの制度設計論は非常に重要で、多くがトーラー的です。
✔ 安定したルール
あなたはどう感じますか?ルールの正義で十分だと思いますか?それとも結果の倫理的責任も不可欠だと思いますか?
ここが本当のマフロケトの核心です。
もしこの議論をMilton Friedmanが読んだなら、彼は宗教的引用には敬意を払いつつも、分析の軸を制度設計とインセンティブに置き直すでしょう。
「助言者が多ければ救いがある」
なぜなら彼は、権力の集中こそ最大の危険だと考えていたからです。
しかし彼はこう付け加えるでしょう。
政治家や官僚が多様でも、中央銀行が恣意的裁量を持つなら不安定になる。
フリードマンの出発点は明確です。
MV = PY
長期的には
ΔM ≒ Δ P
彼はこう言うでしょう。
にあります。
だから彼は
したがって
むしろ彼が重視したのは
フリードマンはこう言うでしょう。
によって達成される。政府が「賢明である」ことを前提にした裁量政策は危険。
なぜなら
あなたの問いの核心
成長は祝福だが、正義を伴うべきだ。
フリードマンの答え。
彼はこう述べています。
短期的刺激ではなく、市場アクセスの拡大と所得移転の透明化を。
政治家に対する理性的批判とは、公共選択の枠組みにおけるインセンティブ構造、情報の非対称性、貨幣的・非貨幣的コストの帰着、そして制度設計の一般均衡効果を分析する行為である。
これは感情ではなく、価格理論と合理的選択理論に基づく演繹的・実証的営みである。
それを「イジワル」と呼ぶ者がいる。この瞬間、その者は理論的に自己放尿している。
なぜか。
シカゴ学派の基本命題は単純明快だ。人間は目的関数を持ち、制約条件の下で効用最大化を行う。
彼らの目的関数は再選確率、権力維持、名声、予算規模の拡大などで構成される。これは官僚の予算最大化仮説とも整合的であり、公共選択論の標準的前提である。
それは、
これらを数量化し、政治家の政策選択が社会的余剰を減少させるか否かを検証する作業である。
これを「イジワル」と呼ぶ?
それは価格メカニズムを否定しながら市場で買い物をするのと同じ自己放尿だ。
一票の限界影響がゼロに近いなら、有権者は政策の詳細を学習しない。
ここまでは理解できる。
だが問題は次だ。
情報コストを払わない者が、情報を払って分析している者を「イジワル」と断罪する瞬間、連中は自らの無知を規範化し始める。
これは単なる無知ではない。無知の道徳化である。そして無知の道徳化は、制度的劣化を加速させる。
ゆえに、理性的批判を排除する社会は、自ら規律供給をゼロに近づける。
価格を隠して「優しさ」で取引しろと言うのは、経済的幼稚性の自己放尿だ。
シカゴ学派の核心は、市場失敗を認めつつも、政府失敗を同時に分析することにある。
だが愚民はこう言う。
「もっと思いやりを」
思いやりは予算制約を超えない。善意はインセンティブを無効化しない。
規制が強化されれば、参入障壁が上がり、既得権益が固定化される。
それでも「イジワル」と言うなら、それは経済学的現実拒否と感情依存のダブル放尿である。
「どうしてこんなことに?」
答えは簡単だ。貴様が理性的批判を「イジワル」と呼んだ瞬間から、制度の自己修正機能を切断したからだ。
それは自分の足に向かって放尿し、「なぜ濡れているのか」と泣くのと同じだ。
経済学は優しさの代用品ではない。それは現実の制約を暴露する学問である。
制約を指摘する者を排除する社会は、最終的に制約に叩き潰される。
理性的批判を「イジワル」と呼ぶ愚民は、政治家を守っているのではない。
それを何と呼ぶか?
そして今日もまた、感情で制度を語る者たちは認知的自己放尿と財政的自己放尿のダブル放尿を誇らしげに続けている。
以上。
何でお前のクソみたいなお気持ちに他人が配慮してくれると思い込めるの?
お前が言ってることって
「女作者の作品に感動したくないから作者は性別を明示しろ!」とか
「韓国人作者の作品に感動したくないから作者は国籍を明示しろ!」とか言ってるのと同じじゃん。
pixivみたいに場のルールで決まってるならともかく、そうでもないなら明示しようがしまいが人の勝手であって、お前に指図される謂れはないわ。
ましてやキチガイ反AIなんて、お前こそAIユーザーから嫌われてる連中なのに、何でAIユーザーが善意でお前のために何かしてくれると思い込めるの?
昨日、近所のボロい弁当屋でメシ買ったんだわ。帰宅して袋開けたら、頼んでもねー謎の惣菜が1個紛れ込んでんの。速攻で電話したら「レシート載ってない?あー、いいよいいよ!サービスだから食べて!」とか抜かしやがる。
は? こっちは「正しい対価」を払って正しい商品を受け取りたいだけなんだよ。勝手に施しを与えて、優越感に浸ってんじゃねえよ。この時点で相当イラついてたけど、今日わざわざ500円玉握りしめて返しに行ってやったわけ。俺は透明な取引がしたいだけなんだわ。
俺「昨日これこれこういう理由で、500円払いに来たんですけど」
「いいの、いいの!払わないでいいの!気を使わせてごめんねぇ!ありがとね!」
とか、顔をシワくちゃにして笑いながら言ってきやがった。
……は? 何様だよ。
お前のその善意という名の独りよがりな押し付けが、どれだけこっちのプライドを傷つけてるか分かってんのか? 500円すら払えないほど俺は貧乏人に見えるか? 「ありがとね」ってなんだよ。上から目線で俺をコントロールしようとすんな。
そんなクソまずい弁当で俺を懐柔できると思ってんじゃねえよクソババアがあああああああああああああ!!!!
ババアの腹をぶち抜いた。
めり込んだ拳から伝わるのは、肉の弾力じゃなくて、腐ったゴムみたいな不快な抵抗感。
ババアの腹からは、ドロドロした大量の緑色の血と、見たこともないサイズの脈打つタマゴがドバドバ噴射。
ババアだった「ソレ」が、顎まで裂けた口から耳を突き刺すような悲鳴を上げた。
床に転がったタマゴから、一瞬で無数の触手が生えてきて、店の天井まで埋め尽くした。
「なんだこれ……なんなんだよこれ!!」
絶望した瞬間、脳が沸騰した。
視界が青白く反転し、触手の動きが止まって見える。
これだ。ネットの隅っこで噂されてた、虐げられ続けた弱者男性だけが至る特異点。
触手の隙間、ババアの核、逃走経路……すべてが数式のように脳内に叩き込まれる。
だが、体が追いつかない。思考が加速しても、俺のなまった肉体は止まったままだ。
「……おい。新入りか。ひどい面してるな」
背後から声がした。
振り返ると、そこにはチェックのシャツをインした、俺と同類の「チー牛」っぽい男が立っていた。
「……サービスは、もう間に合ってるんだよ」
男が右手をかざす。
「相手が最も拒絶するもの」を強制的に物質化して送り込む、最悪のギフト。
ババア(だったもの)の体内に、巨大な「500円玉の塊」が直接転送された。
対価を拒絶し、無償の善意を押し付けようとした怪物が、内側から「対価」によって破裂する。
緑の体液と鉄の硬貨が雨のように降り注ぐ。
男は俺に視線を投げ、ポツリと言った。
「その500円玉、まだ握りしめてるのか。……大事に持っておけ。それが俺たちの、唯一の境界線だ」
俺は今、静まり返った店内で、緑色の返り血を浴びながら、500円玉を握りしめて立ち尽くしている。
……なあ、教えてくれ。
これ、俺が悪いのか?
「無料でいい」って言われたからって、はいそうですかって笑って受け入れるのが正しい人間なのかよ?
俺は、どうしても納得がいかない。
ようやくわかってきた
そして急に行動に出る
自分から挨拶してくるようになったり食べ物を渡してきたり、雑談をしようとしてきたり
そうした行動を、礼儀正しく立場の弱い相手が期待通り拒絶しない事を確認すると、勝手に「距離を詰めてもよいのだ」と認識するのである
挨拶とか差し入れとか雑談とか、ちょっと気の利く人なら下心なしに日常的にやっていることだが、社会性ゲロ以下のおぢがそういう行動に出る時には下心しかないので用心されたい
一般的な対応として「善意を普通に受け取る」というのは、おぢにとっては「脈アリサイン」になるのである
おぢアタックとは「勘違いして一方的にアプローチをエスカレートさせ、期待を裏切られると拗ねる」までが一連のルーティーンなので、初手の「こいつは安全な女かどうか判定」で安全と判定させないようにするしか回避の方法はないのである
よって心がけるのは、「お菓子や物を受け取らない(結構です!大丈夫です!の一点張りで乗り切る)」、「とにかく物理的に避ける、近寄らない(挨拶のきっかけを作らせない)」「テンション低めに話す」ということ
おぢもさすがに「こいつは俺が傷つくことを何とも思ってない」と察して、それ以上近づいてこない
普通の善意の人相手なら多少失礼になるとしても、非モテおぢ相手にはこのくらいの心構えが必要なのだ
自意識過剰なおぢは本当に社会人として些細な、普通の事を、中学1年生レベルの経験値のままの恋愛脳で都合良く解釈し、勝手に期待を膨らませる
しかし、さすがに初手から拒絶の意思を出している相手には勘違いの余地がないらしい
詳細は避けるがこの方法で最近再アタックしてきたおぢを見事退けた
高齢非モテ弱男に社交辞令や空気を読むということが理解できると思ってはならない
奴らにあるのは年齢の分だけ肥大した自意識とプライド、そして優しい女が俺を受け入れてくれるという夢物語だけなのである
おぢから何も受け取ってはならない
おぢに愛想良く接してはならない
おぢとワンターン以上業務以外の会話をしてはならない
世の女子、そして年がいってる分だけ安全だと思われておぢアタックを受けがちなおばたちよ、このことを忘れないでいてほしい
非モテおぢを対等な人間扱いしたが最後、「俺の全てを受け入れてくれる女神」と思われ、その期待を裏切ればいわれのないおぢの恨みを買うことになるのである
「反自由主義じゃなかったのか?」という問いは、概念の整理が甘い。
自由主義にも種類がある。ここで焦点にしているのは古典的自由主義、つまり私的所有権、契約の自由、法の支配、予測可能なルールに基づく秩序だ。フリードマンの立場はここに立つ。
国家の役割はルールの設定と執行に限定されるべきで、裁量的に資源配分へ踏み込むべきではないという立場だ。
もし「自由主義」を、国家が積極的に市場へ介入し、望ましい結果を設計する思想だと定義するなら、それは古典的自由主義ではない。
むしろ結果平等志向の設計主義だ。そこでは自由は手段であって目的ではなくなる。価格システムという分散情報処理メカニズムを尊重するか、それとも中央の判断で上書きするか。この違いは決定的だ。
フリードマンは国家の存在自体を否定しない。通貨制度の安定、独占の抑制、外部性への最小限の対応は認める。
ただしそれはルールベースでなければならない。裁量的な「成長投資」は政治的インセンティブに汚染されやすい。公共選択論が示す通り、政策担当者も自己利益最大化主体だ。市場参加者だけを利己的と見なすのは理論的に片手落ちだ。
だから「反自由主義」かどうかは、自由をどう定義するかに依存する。
国家が自由を拡張するという名目で裁量権を拡大し、価格シグナルを歪め、将来世代に債務を移転するなら、それは自由の拡張ではない。名目上の善意による統制だ。
自由主義を「国家による善意の介入」と同一視するなら、その前提が違う。
弱者男性「将来のために自己投資するぞ!英語の勉強して、資格も取って、ジムにも通うんや!」
ぼく「おおっ! すげぇなオマエ! めっちゃやる気じゃん!」
弱者男性「えっ!? あ、ああ……せやろ? これから自分を磨こうっていう前向きな姿勢や!」
ぼく「うんうん、いいと思う! なんかこう、新しいこと始めるのってワクワクするよな! 俺も最近、映画いっぱい観て感性磨いたりしてるし!」
弱者男性「(あれ? 思ってた反応と違う……もっとこう、意識高い系のダメ出しとか来るかと……)そ、そうか。でもな、俺は今まで親に散々金かけてもらって、何も返せてない『不良債権』みたいなもんやから、ここから挽回せなアカンねん……」
ぼく「ふりょうさいけん? なんだそれ、難しい言葉知ってんなぁ。よくわかんねぇけど、今までがどうとか関係なくね? オマエが『今からやるぞ!』って決めたんだろ? その気持ちが一番すげぇって! なぁ!」
弱者男性「(こ、こいつ……眩しすぎる……! 曇り一点もない肯定が逆にキツイ……!)」
弱者男性「……っ、でも俺は今どん底なんや! だからこそ、ここから這い上がる『期待値』がある! 株で言えば暴落した時こそ絶好の『買い場』なんや!」
ぼく「かぶ? 期待値? ごめん、俺そういう難しい話全然わかんねぇわ! でも、『ここから這い上がる』ってのは分かるぞ! ピンチの時こそ燃えるよな!」
弱者男性「そ、そうや! 俺はまだ中身は空っぽかもしれんけど、資格や筋肉で武装して、価値ある人間に見えるように頑張るんや! これを粉飾決算とは言わせへんで!」
ぼく「ふんしょく? また難しいこと言ってる……。なぁオマエさ、さっきから自分を難しく考えすぎじゃね? 筋肉つけたいなら、とりあえずダンベル持ちゃいいじゃん! 資格取りたいなら本読めばいいじゃん! 『見えるように』とかじゃなくてさ、やれば強くなる! シンプルな話だろ?」
弱者男性「そ、それができへんから苦労してるんやろが! お前みたいな能天気な奴に、俺の積年の劣等感がわかってたまるかぁ!!」
弱者男性「うるせええええ! その屈託のない笑顔がムカつくんじゃあああ!」(逆上して全力で殴りかかる)
バシィンッ!
ぼく「(反射的に飛んできた拳を手のひらで軽く受け止める)……わっと、危ねぇな。急に殴りかかってくんなよ、ビックリするだろ」
弱者男性「えっ……?(全力の拳が、まるで赤子の手を捻るように止められた……?)」
ぼく「ん? どうした? 拳、引かねぇの?」
弱者男性「ひ、引けないんや……お前の力が強すぎて、ビクとも動かんのや……!」
ぼく「あ、ごめんごめん。(パッと手を離す) いやー、俺さ、生まれつきなんか頑丈みたいでさ。高校の時も砲丸投げでピッチャーライナー投げちゃったりして、加減が難しんだよなー」
弱者男性「(……なんやこいつ。ジムに通うとか、格闘技を習うとか、そういう次元じゃない。『生物としての格』が違いすぎる……)」
ぼく「あ、そうだ! オマエ、ジム通うんだろ? だったらさ、これくらい軽く持てた方がいいんじゃね?(近くにあった放置自転車を片手でヒョイっと持ち上げる)」
弱者男性「ヒッ……(腰を抜かして床に崩れ落ちる)」
ぼく「えっ!? 大丈夫かオマエ! 顔色悪いぞ!? ……あ、もしかして腹減ってる? ラーメンでも食いに行くか? 俺がおごってやるよ! ほら、元気出せって!」
弱者男性「う、うああああ……(あまりの理不尽な才能の差と、底なしの善意に触れて号泣)」
ぼく「(困った顔で頭をかきながら)……えぇー、なんで泣くんだよぉ。俺、なんか変なこと言ったっけ? ……まぁいいや、立てるか? とりあえずメシ行こうぜ!」
「昔は嫌儲の思考が強くて、1万円の赤字になりそうな時、100円カンパするだけでも叩かれた……」と。
今の価値観で考えると酷い話だが、そもそも当時のネットコンテンツというものの大半が「善意のボランティア」で作られていたものと考えると話は違ってくる。
当時ニコニコ動画の主な視聴者層は、10代~20代。中高生が多かった。
「何か新しいことをしよう」という場合、支援する人も無く、皆ボランティアでなにかしら支援していた。
何か1つコンテンツを作るためには、ツールやクリエイターが必要だ。
そのツールも善意で無料配布されているものだったり、イラストも無料で募っていたものだった。
お金も人もない、でも熱意はある。そういう中で作られた文化だった。
権利関係ももちろん希薄で、でもそういう文化だからこそ声高らかに権利を主張する人が居なかった空間でもあった。
その中でお金を募るとどうなるか。他の人が善意で無料で配っていたものを利用して金儲けをする。
つまり「熱意がある支援者」は「タダ働きさせられた労働者」になってしまう。
いわば、当時のニコニコ動画は「運営」という大学の中で保護されたクリエイターだったのだ。
サークルのように、本来なら資本主義の中で成り立たないものを、「時間」と「熱意」という投資を使って成り立たせていた。
今の「推し文化」も、そのオタクたちが20代30代になり、文化も成熟し、金銭を投下できる質になったからこそ「金銭が投下される」ようになっただけのこと。
仮に当時から金銭的に儲けようとしたら、恐らくニコニコは権利関係で潰され、プロが初音ミクで作曲し中高生のクリエイターは排除されていただろう。
昔の作品や配信者たちは原石ではあったが、プロには及ばなかった。今は金持ちになっているが、その嫌儲文化を一番享受しているのは彼らなのだ。
いいですか、皆さん!私は今、心の底から怒っています!この国は、不登校の子供とその家族を、一体どこまで追い詰めれば気が済むんですか!?
「在宅勤務」という言葉を聞いて、学校の先生方は何を想像しているんですか?優雅にコーヒーを飲みながら、いつでも来客を迎えられる暇人だとでも思っているんですか?冗談じゃない!
重要な会議の真っ最中、自宅のインターホンが執拗に鳴り響く。それだけじゃない、携帯電話には「鬼電」の嵐。何事かと思って会議を中座し、対応すれば、そこに立っているのは不登校の原因を作った張本人、デリカシーの欠片もない担任教師ですよ!
当たり前の要求です。社会人として当然のルールです。それに対して、その教師は何と言ったか。
「少しでいいから出てきてください!」
……呆れて物も言えません。これ、ストーカーの論理ですよ?「自分の都合」を押し付けるために、相手の「仕事」も「生活」も「平穏」もすべて踏みにじる。これが教育者のすることですか?
そもそも、なぜその子が学校に行けなくなったのか。この一年間、その担任は何をしてきたんですか?
ぞんざいな態度で親子を傷つけ、何の解決策も示さず、ただ放置してきた。協力をお願いしても、まともに取り合わなかった。その「不作為の罪」が、子供から学びの場を奪ったんじゃないんですか!
それなのに、年度末や評価の時期になったら、自分の「家庭訪問実績」作りのために、いきなり勝手な動きをする。子供の気持ちを考えてください!苦手な、あるいは恐怖を感じている相手が、自分の聖域である家に、アポなしで押し寄せてくる。その恐怖、その絶望がわかりますか?
在宅勤務は「休み」ではありません。「勤務地が家」なだけです!
学校現場には、この基本的な社会の仕組みすら理解できない人間が蔓延っている。世間知らずにも程がある!
子供を追い詰め、親のキャリアを妨害し、挙句の果てに「善意の顔」をして土足で家庭に踏み込んでくる。こんな不条理、私は絶対に許しません!
この言葉は、単なる暴言ではありません。日本の教育現場が抱える、想像力の欠如と、前時代的な押し付けに対する、魂の叫びなんです!