はてなキーワード: 本質とは
私より年上の人であっても結構「お金がある=口座にお金がある」とか「現金じゃないとうっかり使い過ぎちゃう」とか「今月の出費はクレカの引き落としが〇〇万円で〜」とかいう話をよく聞くけど、意味がわからない。
支出管理をしていれば、自分は何に対してお金を払っているのかということが本質であって、クレカは手段に過ぎないこと、支出分類としてクレカ引き落としを計上するのはおかしいことくらいわかるはず。
そして現金もキャッシュレスも決済手段でしかないし、手段に買いたい気持ちや買いたくない気持ちが左右されるって本当によくわからない。
ていうか現金じゃないとうっかり使い過ぎちゃう人の気持ちガチでわからない。懇切丁寧に教えて欲しいレベル。
「お金がある=口座にお金がある」は日本語として間違ってはないんだけど、貯金ゼロで入ってきたお金全部使える人っていくらなんでも肝座りすぎじゃない?
同性パートナー制度の真の本質はパートナーが重篤になっても相手に医療判断を委ねられることだ
「愛する相手と結婚できる」だけの尺度で同性婚を語るな的ツイートを見て
そう考えると同性婚は生産性ないどころか早死にしてたかもしれない人間を救う生産性ある制度なのでは的なことをぼんやり考えていた
ならパートナーとか結婚相手という関係でなくても家族以外に互いの法的手続きを委ねられる制度が増えていいかもしれないともぼんやり考えていた
恋愛の話題になると必ず湧いてくるやつがいる。「身長で選ぶのは差別」「年収で選ぶのは優生思想」とかいうやつだ。
まず大前提として整理したい。
優生思想が問題になるのは、社会・国家が制度として人間を選別・排除するときだ。強制不妊手術とか、特定属性への婚姻禁止とか、そういう話だ。旧優生保護法が批判されるのはまさにこれ。
個人が「この人とは付き合いたくない」と思うことは、これとは根本的に次元が違う。
そもそも恋愛・結婚という営みは構造上、全員を排除して一人だけを選ぶという徹底的に「差別的」な行為を内包している。それを社会は容認どころか祝福してきた。「この人じゃなきゃいやだ」という感情こそが恋愛の本質なのに、選別基準にいちゃもんをつけるのは矛盾していないか。
好みじゃない相手を断ることを優生思想と呼ぶなら、すべての恋愛は優生思想の実践ということになる。その言葉はもはや何も意味していない。
中国製レーダー、本当に「ガラクタ」か?——ベネズエラの教訓が示す技術と運用の真実
https://seculligence.com/special-feature/846/
2026年1月3日未明、米軍はベネズエラの首都カラカスへの急襲作戦を敢行し、マドゥロ大統領を拘束した。
この作戦で世界の注目を集めたのが、中国製レーダー「JY-27A」の存在だ。
「ステルス機を探知できる対抗兵器」として売り込まれていたこのレーダーが、150機以上の米軍機の侵入を許したとされる。
報道の多くは「中国製レーダーは米軍に敗北した」「ガラクタだった」と断じているが、JY-27Aが採用する「低周波レーダー」を理解すれば、まったく異なる景色が見えてくる。
Twitter(現X)には「クソデカ主語警察」なる存在がいる。クソデカ主語警察というのは何かというと、ある文章の主語が指す集合が大きい場合にどこからともなく湧き出てきて「主語がクソデカですよw」などのリプを残していく存在である。そして、このリプには「主語がクソデカですよ(なので、あなたの発言は間違っていますよ)」という含意がある。例えば、「女性は〜なとき暴力的である」といったツイートが炎上していると、決まってリプ欄(あるいは引用欄)には、こういったクソデカ主語警察が湧いて出てきて、毎度のごとく論破芸を披露してくれるのだ。
そして、私はこのクソデカ主語警察が本当に嫌いだし、この世から消えて欲しいとさえ思っている。正直、台所の隙間から這い出てくる黒い虫よりも嫌いだ。見た瞬間に全身の毛が逆立つレベル。ただ、誤解のないように予め述べておくと、私自身はこうした主語の大きい発言をすることはほとんどない(ではどういうときにするか、ということは後述する)。むしろ、「女性は〜である」のような、ジェンダーバイアスを明確に再生産する言説が蔓延っている現状には、正直かなり辟易しているし、こうした不健全な状況は是正していくべきだとさえ思っている。にもかかわらず、では何故そんな私がクソデカ主語警察が嫌いなのか。
クソデカ主語警察が嫌いな理由を先に述べておくと、まったく問題の本質を捉えられていないくせに、紋切り型の指摘を繰り返して、問題の所在を不明確にするから、である。このことについて以下で詳細に述べる。
クソデカ主語警察が害悪であることを話す前に、そもそもクソデカ構文とは何かについて確認しておこう。
クソデカ構文には当然ながらアカデミックな定義は存在しないので、ここではさしあたり「主語がある属性を指す文」としておく。この定義にも異論はあるだろうが、暫定的定義なので一旦受け入れてほしい。例えば「リンゴは赤い」とか「インターネットはクソ」とか「日本はオワコン」とか、そういう文のことだ。
さて、我々は実はこうしたクソデカ構文というものを日常的に用いている。例えば「リンゴは赤い」という文章は、日常的な文脈で使用される場面が想像できるだろう。友達と会話をしているときに相手が「リンゴは赤い」と言ったとして、我々は別に何の問題もなくそれを受け入れるはずだ。逆にそこで「いやいや、主語がでかいですよw青いリンゴもありますからw」などと言おうものなら、LINEはブロックされ、あなたの表示名は「クソデカ主語警察」に変更され、そしてあなただけのいないLINEグループで一生そのことをいじられ続けるだろう。
これは何故だろうか? つまり、何故クソデカ構文に対して「それは違う。◯◯なものもある」という反論が妥当ではない場合があるのだろうか。これに回答するためには、そもそもクソデカ構文という文章がどういう性質のものかを明らかにしておく必要がある。小々専門的な話題になり恐縮だが、「◯◯は〜〜である」という形式の文章は、「すべての◯◯は〜〜である」という全称命題の解釈と、「◯◯は典型的には〜〜である」という総称文の2通りの解釈があり得る。前者の典型的な例は数学的命題だろう。例えば「2以上の素数は奇数である」という文章は通常「2以上のすべての素数」として読まれる。後者の典型的な例は統計的な文章だが、性質を表す日常的な文にも見られる。例えば「犬は吠える」という文章は通常「犬は典型的には吠えるという性質をもっている」として読まれる。そして、全称命題と総称文の両者には、ある重大な違いがある。それは、全称命題の解釈の場合には反例が一つでも見つかれば元の文が誤っていると言うことができるが、後者の場合にはそうではない、ということだ。「2以上の素数」かつ「奇数ではないもの」はもしもあったとしたら、先ほどの数学的命題は一気に誤りになる。他方、「犬」かつ「吠えない」ような存在がいたとしても(そして実際にいるのだが)、そのことは「犬は吠える」という総称文をただちに誤りにはしない。これは「犬は吠える」という文章が意味するところが、「典型的な犬」についてに文だからであり、根本的に例外を認めているからだからだ。先ほどの「リンゴは赤い」の例で言えば、この文は「典型的にはリンゴは赤い」という意味であって、青いリンゴのような存在は初めから想定しているのである。クソデカ主語警察は、このような総称文を勝手に全称命題に都合良く読み替えることで、いわば藁人形を叩いているのである。
おそらく、クソデカ主語警察からは「全称命題であるかのように話すのが悪い」といった反論が飛んでくるだろう。これにも反論しておく。我々がコミュニケーションを行う際には、我々は通常「必要な量の情報だけを話す」という量の格率に従っている。これは円滑なコミュニケーションのために我々が従っているルールのうちの一つとされている。クソデカ主語警察の検閲に引っかからないように発話をしようとすると「私がこれまでに観測した範囲内、かつ統計的に有意と思われるデータ、および社会通念上の傾向を鑑みると、リンゴのうちかなりの割合のリンゴが、赤い傾向があると言えるかもしれない(※ただし青いリンゴも存在する)」となるが、これでは円滑なコミュニケーションは成立しない。むしろ我々は、「リンゴは赤い」という文章を全称命題で解釈するとすぐに不整合が生じるという事実と、発話者が量の格率に従っているという前提に基づき、発話者が総称文を意図しているというチャリティを発揮して、コミュニケーションを行っているはずだ。
つまるところ、クソデカ主語警察というのは、総称文を勝手に全称命題に取り違えるカテゴリーミステイクを犯している上、そのミステイクに気づかずに「自分はコミュニケーションができません」と大声で宣伝する、非常に恥ずかしい行為なのである。
さて、ということでクソデカ主語警察が実はコミュニケーションの原則をまったく理解できておらず、それ故、紋切り型をコピー・アンド・ペーストすればお手軽に相手を論破できると思っているだけの単なる凡愚であることは明らかになったわけだが、クソデカ構文がまったく問題がないというわけではない。むしろ、ここからが本当に自分の言いたいことになる。
クソデカ構文というのは本質的に問題含みのものであって、それ故、慎重に使わなくてはならないことは事実だと思う。たしかに、主語がデカいことによって必然的に問題が生じるわけではない。例えば「2以上の素数はすべて奇数である」という文章の主語の指す集合は無限であり、考え得る限りほぼ最大のクソデカ主語(とは言え高々加算ではあるの)だが、普通に真である。だから、主語がデカいことそれ自体は一般に問題にはならない。しかし、世の中には問題になるクソデカ構文というものはたしかに存在している。それは大きく分けて2種類あり、①そもそも事実とは異なるクソデカ構文②仮に事実だとしても望ましくないクソデカ構文、である。
まず1つ目について。クソデカ構文には、単純に事実誤認になっているケースがある。そうしたクソデカ構文の典型例を挙げると「B型は自己中心的である」のようなものがそうだろう。もはや常識となっていると思うが、血液型とその人間の性格にはまったく関係はない。こういった血液型診断は事実とはまったく異なるデタラメであるので、完全に間違えている。ただし、注意が必要なのは、血液型診断が誤っているのは、主語がクソデカだから「ではない」ということである。こうした疑似科学が誤っている根本的な理由は主語のデカさではなく、科学的な根拠の無さに由来している。他にも「若者は本を読まない」といった例も考えられる。統計的には不読率は全世代を通して年々減少傾向にあるし、むしろ学校の読書教育を考えれば若者の方が読んでいる可能性すらある。
しかし、仮に事実だとしても問題のあるクソデカ構文というものは存在するし、これこそが一番の問題だと思う。それが問題となるクソデカ構文の2種類目「仮に事実だとしても問題のあるクソデカ構文」である。統計的な事実(マジョリティ傾向)が仮に含まれていたとしても、それをクソデカ主語で語ることが社会的な害悪を引き起こすことはある。例えば、「低学歴は犯罪を犯しやすい」という事実が仮にあったとしよう。強調しておくが、これは仮の話であり、そういった事実が実際にあるかは知らない。あくまで「もし事実だとしたら」という体で話を進める。つまり「低学歴は典型的には犯罪者予備軍の性質がある」という総称文を確証する統計的相関が仮にあったとしよう。そうだとしても、このクソデカ構文には問題が存在する。それは、「統計的相関」と「属性への本質化」のすり替えである。「低学歴ほど犯罪を犯す傾向がある」という事実は、「低学歴だから犯罪を犯す」という因果関係の説明にはならない。例えば「貧困」や「劣悪な成育環境」といった第3の変数が教育機会を奪い、それが同時に犯罪への原因にもなっている可能性は十分にある。このとき、もしこの言説の問題点が「主語がデカいこと」にあると主張してしまうと、「学歴の低さそのものに犯罪を誘発する性質がある」という本質主義的な前提を暗に認めることになってしまう。そうではなく、本当の問題は「低学歴」と「犯罪率」には相関はあるが因果はない、ということのはずだ。「アイスの売り上げが増えると溺死者が増える」という相関データから「アイスは溺死を招く悪魔の食い物だ」と騒ぐ馬鹿がいたとして、そいつに対して「主語がでかいから間違ったことを言っている」などと、もっと馬鹿なことを言う必要なんかないのだ。
そして、第2種のクソデカ構文が余計に問題なのは、それが差別を助長するからに他ならない。例えば先ほどの統計的相関に従って、「低学歴=危ない」という言説が流布すれば、おそらく企業の採用担当はは低学歴の雇用を控え、周囲は低学歴に偏見の目を向けるだろう。その結果、彼らは正当な労働から不当に排除され、生活のために余計に犯罪に手を染めるしかなくなる。これは少し誇張して書いてはいるが、好ましくない事実自体が、その事実をさらに悪化させる機能を果たしてしまうこと自体は往々にしてある。
この記事を読んでいるあなたが高等教育(特に自然科学)を受けた経験があるとしたら、おそらくこの論点は受け入れにくいかもしれない。つまり、科学的な事実は事実であって、社会的な価値とは無関係だ、という科学の価値自由性を引き合いに出されるかもしれない。しかし「事実だから言っても構わない」という態度は、自分が石を投げて相手を転ばせておいて「ほら、あいつは転びやすいという事実は正しいだろ」と言い張るようなものであって、それは事実の公表に伴う社会的影響をあまりにも軽視しすぎていると思う。
話を戻そう。では結局、何故クソデカ主語警察はインターネットに漂うゴミなのか、一言で言えば、それはクソデカ主語警察自身が、彼らが批判している奴らの「共犯者」になってしまっているからだ。以上で確認したように、問題のあるクソデカ構文には大きく分けて2つの類型がある。そして、それぞれが問題である理由は異なっており、発言ごとに核となる部分を潰していかなくてはならない。にもかかわらず、クソデカ主語警察の指摘は、批判相手の問題含みの前提は基本的にすべて無視している。 本来ならば「その相関は教育格差や貧困という社会問題の結果であり、属性のせいにするのは筋違いだ」と論理的欠陥を指摘するか、あるいは「その発言は差別を助長するヘイトだ」と倫理的な視点から叩くべき場面であるにもかかわらず、だ。結局、クソデカ主語デカ警察は、差別発言の内容には目もくれず、発言の形式だけをたしなめることで、本来の問題点そのものを温存する共犯者に成り下がってしまっている。彼らの「主語がクソデカですよw」などという空っぽの指摘は、問題を本当に解決したい側からすれば、救いでも何でもない、ただのノイズでしかない。
ここまでクソデカ主語警察が何故害悪かを、かなり憎悪混じりで書いたが、もしもあなたが今現在クソデカ主語警察であって、あなたがリプを送りつけようとしているツイートの内容が本当に問題だと思っているのだとしたら、これからは「主語がクソデカですよw」などというクソリプを送りつけて悦に入るのをやめることを強くオススメする。差別を助長するようなツイートに強く反発し、憤りを覚えるという点では私はあなたを強く支持する。しかし、それを表明するために「主語がクソデカですよw」などという薄っぺらな借り物の言葉を脳死で使えば、むしろ相手の主張を助長することになる。もし本当に、クソデカ主語警察のあなたに良心があるなら、ちゃんと何が問題なのかを一つ一つ見極めてほしい。我々の社会に本当に必要なのは盲目な警察ではなく、不条理に立ち向かう勇気と理性なのだから。
こりま
@korimakorima
『エルム街の悪夢』や『スクリーム』の1、2、3を作った監督、ウェス・クレイヴンは何度も同じ質問をされ、律儀に同じ回答をしていた人だ。なぜ人々はわざわざ、怖い思いをしにホラー映画を観にいくんでしょう?と聞かれるたびに「違う。観客は怖がりに行くんじゃない。もう、すでに怖がっているんだ」と答えていた。
観客たちは確認しにいく。日常生活で自分が抱いている恐怖の源が作品化されてるのを見に行く。だから、心のどこかでほっとしている。ああ、私だけじゃなかった。私以外の誰かも私と同じ恐怖を抱いてくれていた。
とくに子供。子供の観客はホラー映画の裏にいる理解者を確認する。周りの大人はニコニコしてもっともらしい美辞麗句を連ねているが、一皮剥けば本質は残酷だと自分は嗅ぎ取っている。映画製作者もそれを知ってくれている。
『エルム街の悪夢』のフレディ・クルーガーが良い例で、監督はフレディを「子供から見た、現実の大人が持つ冷徹な冷酷さ」の象徴だという。
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ウェス・クレイヴン監督「『エルム街の悪夢』のフレディは、“あなたの苦しみを望む大人の男性”なんです。
子供たちと話すと、彼らはこう言う。「自分たちが人生で何をしたいのかわからない。だって、どのみち、もう詰んでるじゃないか。自分たちはエンドゲームを生きてる、と。
この子たちが感じているのは、大人たちが世界を完膚なきまでにだいなしにしてしまった、という感覚です。資源は使いつくされ、何もかもが汚れている。動物の種は絶滅しつうけている。
彼らはこう思ってる。“大人たちは自分たちが得られるだけの利益をむさぼり尽くし、後の世代のことなんか知ったことかと思っている。The adults are crazy。おとなのひとはくるっている。
自分よりも年上で、自分たちよりもずっと多くの知識を持ち、自分たちを恐怖に陥れることで楽しみを得ている。それは、逃れようがない、絶対的な恐怖です。
(1997)
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一見マトモそうに見える大人も、他人の子供たちがハァハァと息をきらし、スポーツの練習で苦しむのを見て嬉しそうにする。ごろごろ寝転びくつろいでいると「甘やかされている」と不満そうな顔をする。
そしてクレイヴンは、「ホラー映画のおそろしいシチュエーションは、個々の変わり者の監督の頭から自動的に発生するわけじゃないんだ」と言う。けして独自のアイデアじゃない。
2003年以降、ホラー映画における拷問シーンは大きく変わった。ゴア描写も変わった。アブグレイブ刑務所でイラク人を笑いながら虐待し、全裸にして犬をけしかけ、その様子を撮影する米兵の動画やキューバのグアンタナモ収容所で捕虜を家畜のように扱う米兵の写真が流出し、しかも、政府はそれを「悪い行為ではない」と主張した。一応、今までは囚人や捕虜の扱いに大義名分を持っていた政府が堂々と虐待を「何か悪いか?」と言い出した。当時のホラージャンルは現実に激しく反応し、逃げ場のない場所で人間の身体が肉の塊として扱われ、損壊し、撮影される場面を積極的に描きはじめた。それまではファンタジーとしてのゴアが主流だったのに、映画内のゴアが現実味を帯びていった。 法が及ばない秘密の場所で、独自のルールを持つ冷酷な管理者が、対象者の身体を損壊する。そして、写真や動画で「記録」をする。
「ホラー映画に出てくる要素は、けっして、変わり者のフィルムメーカーの頭から勝手に湧き出てくるものではありません。現実と密接に結びついています」(クレイヴン監督)
(これは日本ではあまり歓迎されない意見だと思う。日本にはなにしろ、ひとりで脚本も美術も手掛けるマンガというジャンルがあるので、荒木飛呂彦作品なら荒木飛呂彦の世界、藤子不二雄A作品なら藤子不二雄Aの世界、と、個の作家性への還元が作品鑑賞の基盤になっている)
「田舎に行ったら襲われた」「因習村」の物語は、田舎蔑視が作者の心に潜んでいるからしっくり馴染むというより「自分と共通の話題を持たない人間達とコミュニケーションがとれる気がしない」という、ネットに慣れきった現代人共通の自信のなさを示している、ともいえる。
そして何より、「いかなるときにも何かを書き、描き、残すのに意味がある」と思わせてくれる。大きな事件があると「マンガなんか描いてる場合か」「娯楽小説を書いている場合か」と自分を責める作家さんが出てくるが、個人が思ったことにはいつも価値がある。個人の頭の中から勝手に湧き出たわけではなく、何を考えついたとしてもそれは、現実を反映しているのだから。
「喝采民主主義」(かっさいみんしゅしゅぎ)という言葉は、主に20世紀のドイツの政治思想家カール・シュミット(Carl Schmitt)の民主主義論に関連して使われる概念です。
シュミットはヴァイマル共和政時代(特に1920年代)に、民主主義の本質を次のように捉えました
:民主主義とは「治者と被治者の同一性」(支配者と被支配者が本質的に同じであること)を前提とする。
人民の意志(Volkswille)は決して誤らないとされ、それが政治の究極の正統性(Legitimität)の根拠になる。
しかし現実には、この「人民の意志」は秘密投票や議会討論のような自由主義的・手続き的な方法で表現されるものではなく、直接的で情動的な「喝采」(Akklamation)、つまり群衆の歓呼・拍手・賛同の叫びによって表明される。
指導者(あるいは提案)に対して人民が「喝采」を送る瞬間こそが民主主義の核心であり、
それによって指導者と人民が「同一化」し、正統性が成立するという考え方です。シュミットの有名な表現(代表例)「国民の意志は歓呼、喝采によって、自明の反論しがたい存在によって表明されうるのであって、それは…統計的な装置(=投票制度)によってよりもいっそうよく民主主義的に表明され得るのである。」
この考えは、 議会制民主主義(議論・妥協・多様性重視の自由主義的民主主義)を人工的・非本質的と批判
代わりに直接的・情動的・同質的な人民の現前(群衆が一丸となって喝采する状態)を民主主義の純粋な形とみなす
という点で、非常にラディカル(かつ危険視される)ものです。現代的な文脈・評価ポピュリズムとの親和性が高いとよく指摘される(指導者への熱狂的支持=喝采が民主主義の正統性を与える)
ナチス政権への協力歴があるシュミットゆえに、「喝采民主主義」はファシズムや権威主義への理論的道筋を提供したと批判されることも多い
一方で、現代のポピュリズム現象(大衆集会での熱狂、SNS上の「いいね!」の集中など)を理解する際の参照点として、再評価・再検討される動きもある
最近の日本では、2025年に松本彩花さんの書籍『独裁と喝采――カール・シュミット〈民主主義〉論の成立』(慶應義塾大学出版会)が刊行され、このテーマが再注目されています。
投票や議論ではなく、人民の直接的な熱狂的賛同(喝采)によって指導者と人民が一体化する民主主義
という、シュミット独特の(そしてかなり挑発的な)民主主義観を指す言葉です。
「メモはデジタルで残せ」という主張は一見合理的に見える。検索可能、共有可能、保存も容易。
しかしその合理性は前提条件に依存している。前提とは「将来参照する」「他者と共有する」「情報を資産化する」という目的だ。
ここで少し枠組みを置く。人間の注意資源は有限であり、しかも脆弱だ。これは認知心理学でいうワーキングメモリの制約に対応する。
注意は分散すれば性能が落ちる。これは気分の問題ではなく、構造的制約だ。
デジタル端末は多機能性を持つが、それは同時に高い選択肢密度を意味する。通知、ブラウザ、SNS、ニュース。
たとえ開いていなくても、脳はそれらの存在を知っている。これは認知負荷を増やす。
注意のスイッチングにはコストがある。数秒の逸脱でも、深い思考状態に戻るには時間がかかる。
紙は単機能デバイスだ。誘惑が物理的に存在しない。これは集中において決定的だ。
手で書くという行為は、運動野、視覚野、空間認知、言語処理を同時に使う。単なる文字入力よりも多層的な神経活動を伴う。
さらに紙ではレイアウトが連続空間だ。余白に矢印を書き、図を追加し、線を引き、ページ全体を一つの思考マップとして扱える。
デジタルの多くは直線的で離散的だ。思考が枝分かれする速度に、インターフェースが追いつかない。
第三に、数式や抽象図形との相性。
バックスラッシュ、括弧、コンパイル。これは表現の整形には優れるが、生成には向かない。
数学的思考は連続的な試行錯誤の連鎖だ。紙なら、途中式を斜めに走らせ、思いついた変形を横に書き、誤りを囲み、矢印で戻ることができる。
速度と摩擦の少なさが重要になる。思考の流速を落とす媒体は、創造性を削る。
いきなりデジタルに書くと、公開可能性という誘惑が入り込む。文章量で押し切ることが可能になる。
だが量は質の代替にならない。紙に書く段階は、思考の粗鉱を精錬する工程だ。多くは棄却される。
これは科学的方法に近い。仮説を立て、検証し、ほとんどを否定する。そのプロセスがなければ、未検証の断片がそのまま流通する。
多くのメモは将来検索するためのデータではない。思考の一時的な足場だ。
建設現場の足場が完成後に撤去されるように、多くのメモは役割を終えれば消えてよい。
数学者のノートの大半は論文にならない。重要なのは保存率ではなく、思考の進展率だ。
ここで整理する。デジタルは外部化と共有に強い。アナログは生成と検証に強い。
用途を混同すると議論が混乱する。保存効率が高いことは思考効率が高いことと同義ではない。
さらに付け加えるなら、摩擦は必ずしも悪ではない。完全に滑らかな入力は、思考のブレーキを失わせる。
手書きは遅い。その遅さが、無駄な言語化を削ぎ落とすフィルターになる。速度制限は質の担保装置にもなる。
思考の生成、仮説の実験、抽象的探索が目的なら、紙とペンは依然として合理的選択だ。
技術は進歩するが、認知構造は急には変わらない。媒体選択は流行ではなく、脳の制約から逆算して決めるべきだ。
そして多くの思考は、公開されない段階で既に価値を持っている。そこを軽視すると、アウトプットだけが肥大し、思考そのものが痩せる。
■左翼を馬鹿にするのが流行っているがそもそも左翼は反省しないのでいくら馬鹿にしてもノーダメージで意味ないぞ
普通は馬鹿にされたら反省して改善するが左翼に自分が反省するという機能はない
上記の意見は、道徳的部族化が進んだ状態を非常に分かりやすく示しています。
「反省しない」
「機能がない」
「何度も同じことを間違える」
これは立場への批判ではなく、人格・能力の否定に移行しています。
といった表現は、個別の事例ではなくカテゴリー全体の本質化です。
部族化の特徴は:
> 相手は“たまたま間違っている”のではなく、“本質的にそういう存在だ”
という理解に変わること。
文章全体は、
という構図になっています。
これは実質的に
説得
部族化の最終段階は、
という判断です。
をすべて含んでいます。
政治的対立が激化すると、
「相手は壊れている」に移行する。
今回のトリプル安は、前回のような内政的自己放尿だけではない。きっかけは中東の軍事緊張と原油高騰という外生ショックだ。
だが問題はショックそのものではない。それにどう反応するかという政策的自己放尿だ。
今回の出発点は明確だ。
ここでエネルギー価格が上昇すれば、同じ資本・労働でも実質産出は低下する。
こうした供給ショックを需要刺激で埋め合わせることを警戒すべきだ。
原油高 → 期待インフレ上昇 → 利下げ期待後退 → 債券売り。
これは合理的反応である。インフレ期待が上がれば、名目金利も上昇圧力を受ける。
市場はこう読んでいる。「原油高でインフレが再燃するなら、金融緩和は遠のく」
同時にドルは、
だがここで政策が景気下支えと称して再び大規模緩和に傾けば?
これは極めて素直な因果だ。
エネルギーコスト増は企業マージンを圧迫し、消費購買力を削る。したがって株安は当然である。
これは悲観でもパニックでもない。実質ショックの価格化である。
供給ショックそのものは避けられない。問題は、政治がそれをどう扱うか。
市場はこう問うている。「このショックを、また自己放尿で乗り切るのか?」
もし答えがYesなら、
1970年代に、供給ショックは実質的問題であり、それを貨幣で解決しようとすればインフレになるという現象が起きる。
つまり
今回のトリプル安は、「第一段階:原油高という外的衝撃」だが「第二段階:それにどう反応するか」
ここで歴史は分かれる。
それとも、財政拡大・金融緩和という安心感の自己放尿で乗り切ろうとするのか。
トリプル安はまだ警告にすぎない。
さっき絶望しちゃったんだけど、まだVSCodeとか使ってる系?
「拡張機能入れすぎて重い〜」とか言ってる暇あったら、もっと本質見たほうがいいよ、マジで
VSCodeなんて結局、情弱を甘やかすためのおままごとエディタなんだよね
マウス使ってポチポチして、重厚長大なElectronでメモリ食い潰して
え、恥ずかしくないの?そんなの、スタバでMac開いてドヤってるだけの意識高い系(笑)と一緒じゃん
プログラミングって思想だから。その点、Vimこそが至高であり、崇高な真理なわけ
まずHJKL移動こそが正義。矢印キーとかマウスに手を伸ばしてるその数秒、人生の無駄
ホームポジションから動かないのが美学だし、それができないならコード書く資格なくない?
ciwとかdapとか、呪文みたいでカッコいいし。思考とコマンドが直結するあの感覚。あ、ごめん、マウス派には一生理解できない領域だったねw
全人類.vimrcに魂を込めろ。自分で環境構築もできないで、誰かが作ったプラグインに依存して「エンジニアです」とか言っちゃうの、マジで無理みが深い
VSCode使ってる人って「自分がいかに効率悪いか」にすら気づけてないんだよね。それってエンジニアとして致命的っていうか、シンプルにセンスない
「VSCode重い」じゃなくて「お前の意識が軽いんだよ」って話
ごのいさん事件のときのヤフコメの論調とか見てると加害者の身分でまず判断されてそうで尊厳がどうとかの理屈が素直に信用できない
本質はそこではない別の要素があって何故か底に触れていない気味の悪さ
ひでぇ事件だなと思う一方、自分が世間の流れに対して違和感を覚えたので、書く。
まず今回の一番問題は会社側が説明責任を果たさなかったことだと思う。一回表に情報を上げて、それでも読んでくれる人に向けた作品を書けばよかったと思う。売春してた島袋も結局復帰してトリコ当てたじゃん。(ある程度までは)犯罪者でも漫画を描いて売れるんだから、ウダウダ言ってないで禊をしろと、そういう話なんじゃないの?
で、今回の話から犯罪者の更生の話してるやつ、全然本質突いてないです。今回の問題は編集部に蔓延している隠蔽体質であって、性犯罪者は漫画を描くなとか、そういう話は全部お気持ち。お前が読まなきゃいいだけじゃん。大して有名な作品でもないんだしさぁと思う。「どれだけ面白くても自分はこの話を読むのが嫌です。読みません。」でいいじゃんね。
客観性のかけらもない自己中心主義なファシスト思想でしかない。
凶暴なファシストというのが右翼の本質。「批判され妄想を覚まされたら
できなければ話にならない。自分が偉いと思ってたいだけのテロリストは公共の敵。
そういうわけで「しばき隊」なども本質は特高や憲兵や創価公安や統一教会と同じ
AIに投げてみた。
返信では、「民事法的に同意=違法性阻却事由」という表現が、刑事法の枠組みと混同していると正しく指摘しています。
ご指摘ありがとうございます。 確かに私の説明で「違法性阻却事由」という表現を使ったのは、民事法のニュアンスを少し簡略化しすぎていました。申し訳ありません。
民事法(不法行為・民法709条)では、被害者の同意は刑事法のような「違法性阻却事由」ではなく、違法性の有無を判断する際の重要な評価事実(または違法性の評価を妨げる事実)として扱われますね。ご指摘の通りです。
被告が強く争ったのは、 「これは真剣交際だった」「原告は同意していた」 「だから違法ではない」「PTSDとの因果関係もない」
「清潔感」とは、見た目の問題ではなく、生き方の姿勢が外側ににじみ出たものだと思う。
↑これがすべて。
弱者男性はそれを自覚している。どんなに外見を取り繕っても滲み出るマイナスのオーラは消せない。
男に本当に必要なのは清潔感じゃない。自信というオーラの根拠だ。
収入、資産、スキル、社会的地位、名声、恵まれた人間関係、健康で頑丈な身体。全てとは言わないが、最低でも一つ、できればバランスよく複数を獲得することが男の自信につながり、ひいては清潔感にも気を配るモチベーションを得ることができる。
① 20代
特徴
初任給上昇(2023–2025で顕著)
リターンの源泉
低生産性業種に定着
→ 結論:
② 30代
特徴
うまみが出る条件
専門性あり
停滞するケース
昇進枠が限定
→ 結論:
③ 40代
特徴
昇給ペース鈍化
強い層
高度専門職
弱い層
汎用事務職
→ 結論:
固定化が進む。逆転は難しくなる。
日本は:
低成長
人口減少
だが同時に:
全体が沈んでいるわけではない。
⑤ 本質
⑥ 数量感(単純化)
30代後半:500–600万
40代後半:600–700万
上位層はこの1.5〜2倍。
分散が拡大。
✔ 30代:分岐点
この事件は、被告は『自分は何もしていない』とは主張しておらず、
という立場を取っていたんです。
・『排泄物を食べさせた』
被告が強く争ったのは、
裁判所はそれを退けて、
冤罪主張をする人はよく『全部嘘なんじゃないか』と言いますが、被告本人が法廷で被害事実の大部分を認めていて、しかも笑いながら平然と陳述していたことまで判決文に書かれているので、
『全部被害者の嘘』という主張はかなり難しい状況です。
◦ 「排泄物を食べさせた」「屋外全裸撮影をした」「グリセリン浣腸をした」など、具体的な行為自体はほとんど認めていた(争わなかった)。
◦ 「同意があった」 → 行為は原告の自由な意思に基づくものだった。
◦ 「違法性がない」 → 暴行・脅迫はなく、強制性交等罪・強制わいせつ罪は成立しない。
◦ 「因果関係がない」 → PTSDなどの精神的損害は、行為とは無関係(または原告の既存の問題)。
• 被告(加害教師)と学校法人の立場:被告は個人として1100万円支払い命令。学校法人(恭敬学園)は請求棄却(免責)。
• 理由:被害行為の多くが授業外・課外時間・校外 で発生し、職務(授業)と密接に関連しない私的関係 と認定されたため、使用者責任(民法715条)は生じない。
• 刑事法的に(事件当時=2023年改正前) 「暴行または脅迫を用いていない」「被害者が反抗を著しく困難にされるような状態ではなかった」 → 強制性交等罪・強制わいせつ罪は成立しない。 (だから児童ポルノ所持でしか立件されなかった)
• 民事法的に(不法行為・民法709条) 「原告は性的行為に同意していた(真剣交際だった)」 → 違法性阻却事由(違法性を阻む事情)があるので、不法行為は成立しない。 仮に成立するとしても、損害との因果関係はないので賠償責任はない。
被告は 「事実(何をしたか)は認めるが、法的責任(違法性・損害賠償義務)は否定する」 という、民事裁判ではよくある部分認諾・争点絞り込み戦略を取っていました。
• グルーミングによる同意の無効 教員の優位性・30歳の年齢差・被害者の未熟さ・自己肯定感の低さを悪用して
• 因果関係の認定 行為とPTSD・解離性同一性障害の間に相当因果関係があると明確に認定。
• 反省の欠如を慰謝料増額の根拠に 法廷で笑いながら陳述し、「彼女自身に対しては特に思うことはありません」と述べた態度を問題視し、慰謝料を1100万円まで引き上げた。
被告が取っていたのは、 「事実レベルでは認めるが、法的評価レベルでは全力で争う」 という典型的な民事防御戦略でした。
これは冤罪主張(「何もしていない」)とは全く異なり、 「やったことは認めるけど、違法ではないし、損害も発生していない」 という、かなり高度な法的ポジションです。