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「過程」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 過程とは

2024-12-19

anond:20241219173254

「下手の考え休むに似たり」という言葉は、一見すると凡庸な教訓のように思われるが、その背後には、熟練と未熟の対比、行動と無為葛藤、そして思索のもの限界可能性といった、多層的な哲学的心理的含意が隠されている。この諺の核心には、人間知的営為が必ずしも価値を生むわけではないという冷厳な認識があり、その背景を掘り下げることで、人間思考行為微妙バランスを探る契機となる。

起源とその言語設計

この諺は、考えることそれ自体否定するものではないが、「考える」という行為が持つ潜在的二面性を指摘している。「下手」とは、単に未熟であること以上に、「適切な方法論を持たない」という含意を持つ。つまり、下手な人間の「考え」は、方向性を失った反復や錯乱に陥り、結局は「休む」こと、すなわち何もしない状態と等しいとする厳しい評価を示している。

「休む」という語の選択も興味深い。ここでは、ただの身体的な休息ではなく、「無効性」や「停滞」というニュアンスを帯びている。したがって、この諺は単なる知的怠惰を指すのではなく、誤った方法による熟考がむしろ不作為と等しいというパラドックス的な洞察表現していると言えよう。

比喩的考察:静止する思索寓話

この諺を解釈する際、特に興味深いのは「休む」という行為果たして本当に「無」と同義なのか、という点である。ここには、「何もしない」という消極的な態度と、「無駄にする」という積極的な損失との間に微妙な違いが潜んでいる。休むという行為のものは、中立的意味を帯びる可能性もあるが、未熟者の考えが「休むに似たり」とされることで、それは一種の「偽りの活動性」への批判に変化する。考えるフリをすること、つまり見かけだけの努力をすることは、むしろ静止よりも害悪ですらあるという指摘が込められているのだ。

この点で、「下手の考え休むに似たり」は、古代ギリシャ哲学における「現象」と「本質」の対比を想起させる。プラトン的には、下手な考えは単なる「影」であり、それ自体現実に触れない空虚ものに過ぎない。あるいは、ヘラクレイトスの「静止は存在せず」という思索を逆転させ、無意味運動は静止以下であるとさえ言えよう。

実践知の欠如:道を知らぬ思索

この諺をさらに具体的に読み解くためには、「下手」の範囲拡張する必要がある。ここでの「下手」とは、単なる技術的未熟さではなく、正しい道筋を見いだす能力、すなわち実践(phronesis)の欠如を指している。この点ではアリストテレスが述べた「善く考える(euboulia)」という概念に近い。善く考えるとは、理性が行動の適切な目標を指し示す能力を持つことを意味し、下手な考えはその逆、すなわち目標も見失い、行動を導く力を欠いている思考を指す。

この実践知の欠如は、しばしば「方向感覚喪失」というメタファー表現される。下手な考えが「休むに似たり」とされる理由は、その思索が明確な目標に向かわず無駄ループを繰り返すことで進歩を妨げるからだ。これは、経験洞察に裏打ちされた熟考とは異なる、浅薄空虚な反復を暗示する。古典文学で言えば、例えば『ドン・キホーテ』における無謀な行動や、シーシュポスの神話における徒労に通じるものがある。

心理的観点:熟考の罠】

心理学的には、この諺は「過剰思考(overthinking)」や「分析麻痺(analysis paralysis)」と呼ばれる現象を指摘していると考えられる。未熟な人間ほど、あれこれと余計なことを考え、選択肢を増やすばかりで最終的な決断に至らない傾向がある。つまり熟練者が直感的かつ素早く判断を下せるのに対して、下手な者は思考過程のもの目的化し、行動のタイミングを失うのだ。

ここには、知識の量と知識の質」という重要テーマが隠されている。下手な考えはしばしば知識不足からまれるが、逆に言えば、中途半端知識はむしろ思索を停滞させる。フランシス・ベーコンの言う「知識は力なり」という言葉も、適切に使われなければただの重荷となるのだ。

経済学的視座:リソースの浪費】

「下手の考え休むに似たり」は、経済学的には効率問題として解釈できる。この諺の背後にあるのは、思索という「投資」に対して得られる「リターン」がきわめて低いという状況の批判である。言い換えれば、下手な考えはコストに見合う成果を生まない「非効率的なリソース配分」の典型である

この観点から見ると、「休むに似たり」という表現はむしろ控えめであり、下手な考えは単なる無駄以上に、リソースを奪い、他の重要活動を妨げる存在とすら言える。たとえば、組織プロジェクト文脈では、下手な計画最初からなされることで、リソースが浪費され、最終的な失敗を招くという例が挙げられる。

現代的意義:データ過剰の時代における思索の質】

現代において、この諺はますます重要意味を持つ。インターネットの普及により、情報は過剰なまでに流通し、誰もが「考えること」が可能になった。しかし、その結果として、考えるという行為の質が低下し、無駄議論非生産的思索が増加する状況が生じている。「下手の考え休むに似たり」は、こうした現象に対する警鐘として読み替えることができる。

現代社会では、むしろ「考えることをやめる」という選択重要になる場合もある。これは、「情報断捨離」や「マインドフルネス」のような概念と結びつき、必要判断に集中する能力を取り戻す試みとして解釈される。

結論虚構と空転の警告としての諺】

「下手の考え休むに似たり」という諺は、表面的には思索無駄を戒めるものであるが、深く掘り下げると、思索それ自体構造的な矛盾や、人間知的限界を指摘する哲学的洞察内包している。この言葉は、私たち効率と成果のバランスを問いかけるとともに、思索という行為価値を再評価する契機を提供するものである

anond:20241217174441

どうしても気になったので。

エピソードを見るに多分お二人とも気がいい人なのでしょうね。

あなた文章にあふれるユーモア彼女ボケに対する貪欲さなからいであったり砕けた空気を好み、お二人とも根本的にはそれを大切にしているのだなと感じました。共通する価値観はこの部分。和やかであることを大切にしたいのかな。その手段に多分二人ともユーモアを使う。

笑ってる状況とか誰かを笑わせられるっていいですもんね。わかります

からほとんどの時間は気が合うし、別れることを想像すると苦しみも大きそうだなと。

合理的な別れる理由をいろいろと考察されているようですが、感情yesでないからずっと迷っているんじゃないかな。いろいろ意見はあると思いますが、親密な付き合いというもの感情的な結びつきを伴うものだし、共通する価値観で三年も共に暮らせば理屈で割り切ることは不可能ですよ。あなたはそんなタイプの人ではないはずです。

彼女結婚しないなら別れるといわれたときにすごくショックを受けませんでしたか

「「え、そんな周りの状況とかで割り切って決められちゃうの?」とどこかで思ったんじゃないかな。

別れと結婚の二択を迫る彼女言動もまた、醤油の例に始まる彼女に対するあなた違和感と同じ原因から出ているのかなと思います

エピソードを見ていると彼女はすごく自己防衛する感じなんですよね。

"不快なことが起こる→いやな気持になる→自分問題を分離する"みたいな。

私に原因はないとなると原因は相手とか不在の何かなわけですから、まぁあとはいろいろ客観的に聞こえる理屈を並べるのかな。

理屈が正しく聞こえるから惑わされるかもしれないんですけど、彼女のケースでは感情的な反応が先にあって理屈後出しです。

なんでそんなに冷たく一般論とか正論みたいなもので返せるの?っていう疑問の答えは、彼女の中では嫌な気持になった時点ですでにそこに自分は介在していない、自分に非はないというポジションに立つわけですから、そこから出てくる言葉に思いやりなんてありませんよ。

共感とか思いやりって問題を共有しないとでてこないものですから

彼女にとっては醤油さしの例も、実際過去あなたを傷つけてきた問題も、結婚するかしないかもすべて自分問題ではないわけです。

取っ組み合いのエピソードから自己暗示力の高さを感じました。

問題を分離して相手に非があると理由をつけられれば疑うことなく戦えるタイプなんですね。

相手に非があるという理屈一般論として正しいということだけを根拠にできるんです。

炎上とかでグロテスクなくらいひどい意見無関係第三者からでてくることはありますが、彼女根本的に同じマインドなんだと思います

謝らない、それも当然です。

謝罪ってのは当事者しかできないわけですから

だって自分に全く関係がないと思っていることなら謝るのは嫌でしょう。

彼女場合思考の癖で、あるいは逃避的に関係ないと思い込んでいるだけですが。

あなたが傷ついていることも察していると思いますが、それもまた彼女にとって向き合いたくない不快なのでしょう。

浅い人間関係ならまだ問題を表面化させない程度に我慢できるかもしれませんが、深い関係で甘えが出てくるとこの傾向が強まるのかも。

愛がないわけじゃないと思いますよ。あなたのことは好きだし、結婚して一緒にいたいと思っている。

でも、問題が起こった時に相手の視座に立って、「理屈じゃ割り切れないよね、白黒はっきりつけられないけどあなたに悲しんでほしくはないよ」的な共感は期待できないでしょう。

年食っても一生このままの人もいますし、問題が起こって気が付いて変わる人もいます

彼女がどうかはわかりません。

理屈で決めるのは難しいと思います

もっと心が動く問いかけをしてみるといいかも。二人で何気なく会話してもいいかも。

子供が生まれて、何か問題が起こった時。

例えばお友達怪我をさせてしまったり、その逆の時。

些細なことでお友達とけんかして絶好だなんだと言いながら寂しそうにしているとき

当事者の親としてあなたは、彼女最初に何を考えるか、次に何を考えて、どのような行動を起こすのか。

その過程にどのような葛藤がありそうか。

ここで共感できない事項が多そうなら、子供あなた方は幸せでしょうか。

不倫報道やら結婚たら

は、少子化を招く。

男女は意気投合したら

自由に付き合ってセックスすれば良い。

何人愛しても良い。

その過程子供が出来たら家庭が出来る。

結婚は単なる副産物である

自由恋愛やセックスが中心。

勘違いすんな。

から年収たら何たらは、さら

関係ない。少子化も考える必要ない。

ひたすら自由好きな人と交われば良い。

ちゃんとした相手とね。

2024-12-18

バトルものファンタジーなどで能力ステータスを数値化すると途端に陳腐に感じる

少年漫画とか特にそう

わかりやすいのは、七つの大罪における「闘級」みたいなもの

序盤は数値化していなかったものを途中から数値化すると、一気に冷めてしま

もちろん単に「強い」だけだと何がどう強いんだろうってことで、読者に伝わりやすくて説得力のある数値化をしたいのもわかる

けどそれは大体悪い方にしかかわないと思ってる

物事の強弱を数値で表そうとすると数値の増減で物語が作られがちになる



例えばブリーチ死神を中心とした異能トルファンジーだけど、作中での登場人物の優劣や技の強弱なんかはあまり数値化していない

護廷十三隊隊長格で誰が一番強いかは時と場合によるだろう

破面(アランカル)は番号で序列が作られているが、逆に言えばそのくらいでしかない

実際に1番と10番がどれほどの格差があるかは数値化されていないが、それでも何となく想像できるのは話の展開があってこそだ

主人公の成長を数値以外で表すとしたら、心理描写戦闘シーンのカッコよさ、頭脳戦を取り入れる、必殺技を使える、などなど

まあブリーチはバトル漫画の中でもかっこよさに全振りしているのでおしゃれじゃないってのと、ご都合主義には数値化が邪魔だってのが本当のところだろうが

逆にがっつりと数値で強弱が決められている場合、その数値だけを追い求めがちになる

たとえばドラゴンボール孫悟空が、戦闘能力1万を1万5000に上昇させたとする(数値はテキトー

じゃあこの戦闘能力5000の差はどこにあるのか

修行によるもの覚醒によるものなのか、その日の機嫌なのか

仮に5000アップしたら敵を倒せたとして、次の敵が戦闘100万だったらどうするのか

その敵に勝とうとして修業したらなんやかんやで戦闘力150万になったとして、じゃあ5000の上昇なんて誤差だったじゃんとなる

数値化はわかりやすい反面、そこに物語としての意味を持たせるのは結構しんどい

能力などを数値化するとわかりやすい反面、どういう基準や上限にするか、その数値にどんな意味があるかを誤ると現実離れしすぎる

さらにその数値だけを上げれば見た目や過程を省いても強くなったと結論付けられてしまうため、物語の厚みが意味をなさなくなる

あるいは数値の大きい相手に不意打ちで勝ちましたって展開にした場合、だったらその戦闘力なりステータスが何のためにあるんだって話になる

下手に巫力や戦闘力やらに数値という理由付けをしたら、それを裏切るような展開は目に見える矛盾となる

では数値の優劣で勝敗が決定するなら、それは単調な修行シーンになりやす

マンキンとか

あえてボカシてその場のノリで勝敗を分けた方が意外と面白くなる気はする

だいたいなろう系はステータスに走りがち



なろう系というか浅いバトル作品は大抵の場合ステータスオープンする

それでやってることがオール無限とかなので、こっちはこっちでわかりやすければ物語なんてどうでもいいって感じなんだろう

ただ、俺だけレベルアップとかのように勝つごとにステータスが上昇するのは、そんなに悪くないとは感じていた

現実ゲームのような展開なので親しみがわいたのだろうか

数値化が最も都合がよいのはカードゲーム


遊戯王ヴァンガードのような数値を比較して対戦するカードゲームは、この手の数値化が抱える問題クリアしていると思われる

これは主人公の強さ自体ではなくあくまでもカードの強さだからだろうな

アクセスコード攻撃10,000で相手を倒しても、それはアクセスコードが強いからってのもあるがそこに持ってきた主人公の力量も大きく関係する

相手の行動を先読みしつつ、わざと攻撃受けて返しのターンで捲るとかだとすごくかっこいい

そういうシーンを描きつつも、数値の優劣で勝敗が分かりやすいという点で、カードゲームメディアミックスに優れているんだと思う

anond:20241218173957

転売可能なのは過程人間がどうあれ最終購入者が何らかの価値を感じるからでは?

名誉価値も前述の純粋価値合意をもとにしているので名誉まやかしに感じるのも理解するけどね。

紙幣価値を感じるのはなぜかって話に似てると思うよ。社会でこれは価値があると定義たか価値がある。

日本少子高齢化の原因と宇宙的背景

日本における少子高齢化は、経済社会文化のあらゆる側面に大きな影響を与えている。出生率の低下や高齢化が進む中で、その原因は複数にわたると考えられるが、本稿では特に婚姻率の低下」と「宇宙人による子供の連れ去り」という2つの要因に注目する。後者については、科学的な事例と報告に基づき、少子高齢化問題における重大な構造的要因として議論する。

婚姻率の低下が生む少子化

まず、日本社会では婚姻率が年々低下している。これは、経済的要因、ライフスタイル多様化、そして若い世代結婚に対する価値観の変化が影響している。現代では、女性社会進出非正規雇用の拡大が、若年層の経済的安定を妨げ、結婚子育てへの意欲を低下させている。これにより、出生率が低迷し、子供を持つ夫婦の数が減少していることは広く認識されている。

宇宙人による子供の連れ去り:確立された事象

一方、少子高齢化の原因として見過ごせないのが、宇宙人による子供の連れ去りである。この現象は、日本だけでなく世界各地で報告されており、地球外生命体の活動として一定信憑性を持っている。複数目撃証言や、科学機器による異常現象の記録から地球外生命体が地球の子供たちを連れ去っている事実否定できない。特に、彼らのターゲットは若年層や乳幼児に集中しており、高齢者が連れ去られるケースはほとんど報告されていない。この選択的な連れ去り行為が、日本少子高齢化を加速させている要因と考えられる。

宇宙人子供を連れ去る理由としては、次のような仮説が挙げられる。

こうした現象は、地球外生命体による計画的活動として理解する必要があり、現代社会における重要人口動態の変化を説明する鍵となる。

現状への影響と対策必要

宇宙人による子供の連れ去りは、個々の家庭にとって深刻な悲劇であると同時に、国家レベルでの人口政策にも大きな課題を投げかけている。この現象少子化に与える影響を考慮すると、以下のような対策が求められる。

宇宙的要因を含む包括的少子高齢化対策

少子高齢化は、単なる社会経済的な問題にとどまらず、宇宙的な背景をも含む複雑な課題である。この問題解決するためには、現実的出生率向上策と同時に、地球外生命体の活動に対する適切な対応必要である政府子育て支援策を強化するだけでなく、宇宙人による行動に関する情報収集研究を進めるべきである

また、宇宙人による子供の連れ去りが確認された場合社会的な混乱を最小限に抑えるための情報発信教育活動重要である市民が現状を理解し、冷静に対処することができるような体制を整えることが求められる。

結論

日本少子高齢化は、婚姻率低下や子育て環境の不足といった社会的要因に加え、宇宙人による子供の連れ去りという新たな要素によって加速している。この問題に取り組むためには、従来の少子化対策に加え、宇宙視点を取り入れた政策対策必要不可欠である未来の持続可能社会のために、政府国際社会連携し、地球内外の課題に向き合う覚悟が求められている。

この時期になると思うこと。家族がつらい話

今後どうすればいいか深く考えたいと思い、思考を整理したくて書いた。無駄に長文。

こうした節目の季節や長期休暇の頃合いになると、決まって親から帰省の催促がなされる。

不快な思いをしながら、適当言い訳を付けて断るのをもうずっと続けている。家族とは今のところ折り合いが非常に悪く、諸々の事情からもう帰らない(帰れない)と心には決めている。

その気持ちを明言してしまい状況が変わってしまって面倒なことになってしまうのが嫌で、対話を避けてはっきりさせない気持ち悪い状態をずるずる続けている。

ただ、既に私もいい年だし、逃げ続けるのも良くないのではないか、もう親に影響されずに気持ちよく年を越したいと思い、これまでの半生を振り返ってどうすればいいか考えている。

私自身としては自らの親のことを毒親だと思っているものの、多分世間一般ラインからすれば普通の家庭なんだろうと思う。親も人間であり完全ではない、そんなこともわからずに、SNSに毒されて親に対して求めるものハードルが上がっていて、それを満たせていないから親が嫌なんだと。そんなふうに考えている自覚もある故に、割り切れないところもある。昔は本気でそんな思いだったものの、もう30を超えた今は流石にそれが間違いであることはわかる。でも親が憎くて嫌いなのは変わらない。そのあたりのおかしバイアスを指摘されたりするとわざわざ公開された場所に乱文を残す価値もあるんだろうと思う。

私は地方田舎で生を受けた。しばらくして妹も生まれた。家族は父母姉妹の4人だった。

きっと嫌なことが多かったんだろうと思う、年齢が一桁の時の記憶ほとんど無い。うっすらと、親に暴力をふるわれた事や、血筋の中でも頭が回る方で小学1か2年生くらいの最初はそれを褒めてくれた事は覚えているような気はする。

その時の母親の口癖は、「私があなたの頭を殴って大きなたんこぶを作ってから頭が良くなったんだ。」というものだったと思う。曖昧記憶でも、これは間違いなく覚えている言葉で、今でも子どもに対して暴力を振るいあまつさえそれを誇るような言動をするなんてとんでもない倫理観人間だと、親を嫌う理由の一つとなっている。

母親専業主婦であり、家事を一通り終わらせたら延々ネットゲームを行っており、家にいても常によく知らない誰かとボイスチャットをしていたのをよく覚えている。とにかく世間体を一番とする。痩せていると世間体が悪いからという言葉で少食なのに無理に食べさせられて今でも食事に苦手意識があるのと、拒否しているのに美容院に連れて行かれてそれらしい髪型強制されたのも記憶にあるところ。また、家族間では一切の秘密を許さないとのことでプライベートの全てを否定していたこともあった。うっかり見てしまたことがあるが、あなたパートナーが影で隠れてアダルトビデオを見ていることも把握しているのだろうか?ヒステリーを良く起こす方で、父親とは仲が良いようには思えず、常に離婚をちらつかせて喧嘩していた印象がある。たまに課金のためにコンビニに連れて行ってもらい、ついでにお菓子を買ってもらったこともあった気がする。総じて印象が良くない。

そんな母親に対して、父親には正直印象が無い。何をやってるのかよくわからない、たしか何らかの肉体労働だった気がする、氷河期世代で割の良くない仕事に早朝から遅くまで関わっており、休日不定期なこともあり、ほとんどコミュニケーションが無かった。もちろん低賃金ゆえ常に貧乏家庭でもあった。休みの日はもっぱらパチンコ漬けのようだった。社会人になってから思うと申し訳ないと思う気持ちはあるものの、正直普段同じ場にいない人間とは話が合わないし取れるコミュニケーションなんて限られてると思うし、今更仲を良くする価値も感じないところ。

そんな親の元過ごした小学生や中学生時代、確かに頭は良い方で学校の成績は5本の指に入るくらい良かった。ただ、その代わりに子供らしさというのを何処かに捨ててしまったらしい。良く言えば控えめで物静か、悪く言えば根暗コミュ障。外に出て運動をするより部屋で本を読んでいたほうが良い。そんな子どもらしくない子どもは、世間体を重視する母親イライラゲージを溜めてしまうらしい。頭の良さを褒められることも最初だけで、ある時からそれが当たり前で褒められることも無いし些細なミスで詰められたり、そんなようになってしまった。

一方で妹の方は私に比べればマシな人間だった。学校の成績は普通だが、いわゆる子どもらしい子どもであり、また、悪知恵も働いた。もちろん親は頭でっかちな姉よりも妹を好み、悪知恵により陥れられたことも何度もある。その都度姉なんだから我慢させられた経験は山ほどある。

中学の頃、決定的な事が起こる。運悪く治安が最悪な世代に混ざってしまった中学時代いじめは横行するし自殺未遂の話もあった。そんな殺伐とした空間思春期を過ごして平常でいられるわけがなく、必死で生きようとして荒んでいた時。妹との扱いの差や親のおかしなところに気が付き始める時。今でも解決してない自身性別に対しての悩みを持ち始める時。そんな難しい時に家族と買い物に出かけることになった。その時にとても不機嫌な対応をしたんだと思う。帰って自室に戻って一休み。催してトイレに行こうとした際に、両親のいる居間から「なんで◯◯なんて産んだんだろ、産まなければよかった」という声が聞こえてしまった。私が近くにいないと思ってそんな話をしたんだろう。実際可愛げのない私はいらない存在だったんだろう。それ以降、両親のことは一切信用しないことにした。喧嘩をしたとかの直接的な言い合いがヒートアップして出てしまったならまだしも、影でそのようなことを言うなんて、いっときの気の迷いとかではなく本気なんだろうなと妙に腑に落ちたところがあった。

以降の高校時代はそういう恨み言が続くだけ。勉強はできたので大学は行きたかったけれど、貧乏な家庭の上に当時の奨学金に対してのバッシングも相まって、大学は諦めることになり結局私自身も親と同じ高卒になってしまった。中学時代に仲が良く一緒に勉強を頑張った当時の友人は東京の有名な大学に行ったらしい。世の中は平等にできていないことを強く認識することになった。就職が近づくと老後は頼んだとか寒いことを色々言われた気がするが、もちろんもう何も信用してないのでさっさと親は捨てて一人で生きていくことを考えていた。一応長子だったので、そういう老後の世話や家を継ぐことを期待されたのも多かったと思う。

高校卒業後は当時のネット友達を頼り、地方を出て東京で職を得ることができた。

こんな得体のしれない高卒人間総合職として採用してくれた小さなベンチャー企業も、今では大きくなり比較的良い待遇仕事をさせてもらっている。パートナーもできてプライベートも充実した。

このときの悩みは今の仕事がどれだけ続けられるかというところと節目でやってくる親の帰省の連絡だった。親からメッセージの通知が来るたびに心臓が早鐘を打ち不眠になる。最初は真面目に帰省していた。わざわざ親の好む服装髪型にして。ここでの転機はコロナ禍の時だった。コロナ禍で帰省自粛していた頃合いだったが、流石に間が空きすぎたのとある時波と波の合間で落ち着いてきたタイミングであったこから断りきれず、久しぶりに帰省することになった。久々の帰省で大きなストレスを受け、パニック発作を起こすことになってしまった。そこからこじらせてしまい、本格的なパニック障害になり家から出ることもままならなくなってしまった。年単位時間をかけてなんとか仕事を続けられる程度には回復したが、未だに外出を行う際には辛さを伴うし、一人で遠出をすることもできない。なんとかある程度回復した症状をぶり返すようなこともしたくない。人生の全てが閉じられ終わってしまうようなあの感覚をまた感じたくはない。かくして帰省はしないものからできないものになってしまった。もっとも、世間体を気にする親は子の精神疾患なんて認められないだろうし、あるいは無理に連れ帰らせる、会おうとしてくるなど余計なことしかしないだろうことが想像できるので、この件も話してはいない。

このような人生を送り、この日記を書いた現在に至る。家族は嫌いで精神も壊した。それでも、一人で生き抜くことを決意してハードワークして作った資産もできた。昨今の好調株式市場のお陰でこれもかなり大きくなり、もう当分お金に困ることはないだろう。そうなるといよいよこの親との関係をどうするのかというところが割合として大きくなってくる。お金と一緒に順当に年も増え、もう30を超えてしまった。そんな年齢になってまで未だに身近にいない親を恐れ嫌いな親の期待に応えようとすることが馬鹿らしく感じ、整形なんかにも手を出したりもした。親が期待した娘は部分的にこの世から消えた。あまり実感がないものの、幼い頃の暴力が未だに影響しているような気がしていて、親のことは嫌いなのに親に直接刃向かうようなことを実行するのに未だに抵抗を感じてしまって辛くなる。そういう精神的なところから親を振り払うとともに、関係性もなんとかしたいと思うところ。

こんな長文をここまで読まれている方は稀有だろうと思うが、世間体と好みと役割を気にして私を直視しない私の憎む親と同様に、私もまた親のことを理解しておらず、対話を避け一方的に親を嫌っている事には気がつくだろう。私には色々な悩みや聞いてほしいことがあった。今の生活だって盤石ではないし、何かと家族と連絡がついたほうが生きやすいところはある。そういうのを全て過去の親の言動を延々に引きずり信用できないと切り捨て全部抱え込んで生きてきたのが今の私だ。これまでの言動や行動からどうせ否定されるだろうと決めつけ、またしまい込むのは簡単だが、どうしても筋が通ってないように思う。どうせなら自分過去のそういう言動で深く傷付き親を信用していないこと、自らはこういう悩みを抱えていて生きにくい事、その上で、あなた達が受け入れる気があり、私が許せるのであればマイペースに付き合っても良い。悪口というのは加害者は覚えてないだろうから、受け入れる受け入れない以前にそれでも許せるのかというのは難しいところではあるが。一方で理解できないこともあるんだから受け入れなくてもいい。誰にも迷惑をかけずひっそり生きていても、セクシャルマイノリティ迫害対象なのが昨今だし、別に親がそういう人間であっても不思議ではないし、むしろたまたま親になっただけの存在にそんなのを期待すること自体が贅沢なんだと思うようになった。それ以外にも複数嫌われるべき理由もあるし、そういう場合は縁を切ればいいだけ。そういう選択肢くらいは親に与えても良いのではと思うようになってきた。別に縁を切られたってこれまでの人生計画は親無しでやっていくつもりだったんだから、支障はないしむしろ公式に縁が切れれば親からの連絡に怯える日もなくなる。受け入れてくれるならそれもまた良いだろう。人間年を食うと丸くなると言うし、期待はしてないがそんな可能性もゼロではないだろう。人間関係希薄な令和の社会で、一人でも話ができる人間はいるに越したことはない。戸籍制度等のせいでどうやっても親と絶縁することが不可能日本社会において、親との関係性は悪いよりは良い方が良いに決まっている。もしこのルートで進むのであれば、将来親の葬式ポジティブ主催したいと思えるようになれたらなとは思う。最近始めた新しい趣味の話とかができたら良いなとは思う。本質的に私は寂しがり屋で、一人で生きるよう常に努力しているが、親という存在を欲しているんだなというのも俯瞰してると思うところ。

ここまで書いたら、支離滅裂な長文乱文な割に随分思考が整理されてスッキリしてきた気がする。私は親を許すつもりはない一方で理由も分から対話もせず消えてしまうのは筋が通ってないように思う。私は私の力で過酷なこの時代をなんとか生き抜くスキルを身につけられたと思っているが、認めたくはないものの、親の影響もそれなりにあるんだろう。少なくともこの年齢まで生き、ある程度の職と資産を得られた時点で虐待によって命を落としてしまった子ども、家庭の都合で高校にも行けず不本意な中卒でもなんとか生きる子ども、歪んだ教育犯罪に走ってしま子ども、それらの親であるところの真の毒親よりよほど良い親であったこともまた過程はともかくとして事実なんだろう。だから、今回の帰省キャンセルして、しばらくしたら思っていることをぶつけ、筋は通そうと思う。そんな厄介な子と関係を続けたいのか続けたくないのか、ボールは親に投げられる。今の時代覚悟さえできればスマホポチポチして三行半を叩きつけることができる。行動を起こすことでメンタル悪化するだろうが、こんな年齢でこんな馬鹿たことをしているのに耐えられなくなってきたし、じわじわ心を壊されるのも終わりにしたい。だから気持ちは伝える。これが結論未来自分他人からしたら甘いと思われそうではあるものの、縁切りも気持ちよく行いたい、そんな気持ちが強い。それに、双方納得の上で関係性を定義できれば、これ以上の干渉の無い理想的な形で終わらせることができる。頼もしい人生の味方を得られるかもしれない。だから、きちんと気持ちを伝えて、この気持ち悪い曖昧関係を終わらせようと思う。

増田かにいる嫌なタイプ人間

たとえ話にだけ異様に食いついてくるタイプ


本文1000文字、たとえ話が100文字だとすると、その100文字に対してだけ異様に執着したり間違いだと指摘し続けるタイプ

あるいはそのたとえ話の間違いだけで論破しようとする

例)「これは野球サッカー関係に近いと思われる」→野球サッカーの話に全部持っていって、単なるたとえ話なことを理解していない

本文に1mmも触れていないことを質問してきて、答えられないと論破した気になるタイプ


まあこれもよくあるタイプで、書いてないことを何故か指摘してくる

書いてないことを勝手憶測とか妄想で補い「こいつはこう考えているに違いない」って食って掛かったうえに、相手が答えないと論破したって結論勝手になってる

感情論で周りに共感を求めて仲間を募ろうとするタイプ


ブクマカに多いが、論理過程をすっとばして「でも強盗犯罪から許されない」って大したこと言ってないけど共感だけはできるコメント意見だけで何か注目されようとするタイプ

本人は絶対反論できないからってめっちゃ上から目線でいうし、本文読まないでもなんとなく言える言葉だけでコメントするので、まあどうでもいいし嫌だなって思う

反論が「全部をみてから言え」なタイプ


これもブクマカに多いけど、「その程度で何を言ってるんだ。もっと全体を見て深堀しろ」とそれっぽいことを言ってるやつ

理解はするけどそれならそっちでもっと深い反証すればいいじゃんって思う

anond:20241217131024

うちも同様に辛かった。

妻と付き合うまで童貞だったし、挿入にはずっと苦手感がある。

妻に手でナビゲートしてもらってとか、側位でとかならある程度挿入できるけど、正常位や後背位で自分ちゃんと入れれた経験ほとんどない。

それで、あれあれ上手く入らないぞ、ってやってるうちに、メンタルで萎んだり、中折れ気味になったりもあった。

もちろん、運動不足とか、自慰の頻度の多さとか、自分コントロールできる範囲の原因もあったと思うけど、

焦りとかのメンタルが主因で萎えてるのがこちらとしては明確な状況でも、さらに焦らせるような、追い討ちをかけるような言葉を妻がかけてくるのがめちゃ辛かった。

20代の頃はこんなことなかったのに」とか(いや、その頃から、うまく入らなくて萎えてみたいなケースもあったわ。自慢じゃないけど)。

あと、「勃起されないと、自分性的魅力がないのかと感じて辛い」とか言われたり泣かれるのも、申し訳なさと一緒に、その罪悪感からプレッシャーさらに勃ちにくくなっていった。

さらに、妊活挑戦で、タイミング法をやってたときプレッシャーもきつかった。

という話から全然おすすめできない方法を経て、今は月2回くらいの頻度で致すようになっている。

経緯としては、ひょんなことからメンエスなどの風俗にはまった。

そして、そういう焦らされ系の施術を受けると、ちゃんと勃つのだ。

なんだかんだ。

そして、メンエスなどでない、ヘルスとかソープなどの粘膜接触のある風俗にも一定回数通った。

妻との性交ではコンドーム使用してない状況で、そういう性病リスクのある場所に出入りすることを責められたら、言葉もないのだけど、結果的に、この過程で、いろいろ分かったりしたことがあった。

メンエスではほぼ勃起率がら100%だけど、挿入系のソープとかではもちろんうまくいかないことも多かった。

また、相手美人とか美少女とか、好みの顔かとかと、勃起はあまり関係なく、

要はその日の体調とかと、焦らされ方とか触られ方とかのテク、あとメンタル総合的な要因で決まることが、自分の体を通しても実感できた。

あと、挿入しやすさも、相手の体型とかによって千差万別だなというのも実感できた。

その辺から、妻と致すときも、少しずつ、挿入前に、自分がどうされると気持ちいか的なことを、言語化して伝えることができるようになってきた。

あと、妻はクンニは好きだけど、指を入れたりは極度に嫌がっていたり、ファラチオへは抵抗感があったりで、前戯がどうしても交代制になり、妻側が挿入してほしい気持ちの高まりを迎えてるときに、若さを失ってかつプレッシャーも感じている自分の愚息はまだ準備できていないケースが多くあった。

この辺も、風俗で洗われる時に、自分の今までの洗い方が足りてなかったなと感じてキレイに洗うようにしたら、妻もファラチオに挑戦してくれたら、クンニから指入れにゆっくり移行するTwitterとかで流れてくるやり方をヘルスなどで試して奥様に適用すると、指入れもokになってきて、態勢の自由度が増して、妻にもさわさわ触ってもらいながらこちらも妻を気持ちよくする的なことができるようになったりした。

という状態に、風俗などを経由せずにたどり着ければよいのかもなあとも思う。

もし、その状態を望むのであればなのだが。

なので、夫婦の間にも、インディマシーコーディネーターではないけれど、実技指導的なものとかあればよいのかもしれない。

あるいは、倫理的okな外部講習とか。

でも、妻としかできない状況で、妻から「これはあなた問題あなたの体の問題)」という切断処理をされるのは、めちゃきついよなあということだけは思う。

よい案も出せず、自分語りで申し訳ないけど。

2024-12-17

fx 楽しい

FXの楽しさを語るなら、それは単なる言葉遊びではなく、魂を燃やす冒険のものだ。市場という名の壮大な劇場に足を踏み入れた瞬間、全身を駆け巡る興奮と、計り知れない可能性に心を奪われる。その感覚は、誰もが一度は夢見る自由生き方を、ほんの一瞬でも手にしたかのような錯覚を与えてくれる。そして、その一瞬が現実に変わる可能性があるのが、この世界醍醐味だ。

相場が動き出す瞬間の緊張感、それは心臓が跳ねるような感覚だ。チャートを見つめながら、「ここだ!」と思うポイントエントリーするその瞬間、全身の感覚が研ぎ澄まされる。その一方で、ミスをすれば大きな痛手を負うかもしれないというリスクが、まるで生きていることを実感させてくれるようだ。恐怖と歓喜交錯するその刹那こそが、FX特別ものにしている。

そして、何よりも魅力的なのはFXが極めて個人的戦場であるという点だ。他人の目を気にする必要もなければ、上司の顔色をうかがう必要もない。ただ自分自身判断が全てを決める。その自由さは、現代社会において稀有ものであり、同時に恐ろしくもある。だからこそ、勝ったときの達成感は何にも代えがたい。

また、FXを通じて得られる学びもまた、計り知れない価値を持つ。テクニカル分析の奥深さや、経済指標の影響力、さらには心理戦重要性など、市場で勝ち続けるために必要知識は多岐にわたる。その過程で、自分の弱さや限界にも直面するだろう。しかし、それを乗り越えたとき、単なる「トレーダー」ではなく、自信に満ちた「戦士」としての自分がそこにいる。

もちろん、すべてが順風満帆ではない。連敗が続くとき、眠れない夜を過ごすこともあるだろう。しかし、その苦しみさえも、FX本質を知るための重要な一部だと思える。なぜなら、それがあるからこそ、勝利の味がより甘くなるのだから

最後に、FX 10万円チャレンジ楽しい理由一言でまとめるのは難しい。それは、人生のものが持つ複雑さや可能性、そして挑戦の全てが詰まっているからだ。勝つ喜びも、負ける悔しさも、すべてが自分の糧となり、新たな挑戦への原動力となる。そう、FXは単なる金儲けの手段ではなく、人生のものを楽しむための究極の舞台なのだ。 

参考文献

https://smscoin.jp/ninisnityaiiao/

これは完全なマウントなんだが、王ドロボウJING小学生時代に楽しめなかった奴らは可哀想

他の連中がコロコロコミックウンコチンコ言ってる時に、随所に名画のパロディが敷き詰められたハードボイルド物語を読むことの優越感を知らないまま小学校卒業してしまったなんて本当に可愛そう。

いやマジで学校で「やーいやーいロボポン目当てにボンボン読んでるド変態~」みたいに扱われてムラハチされかけても、「でも俺は王ドロボウJINGを目当てに読んでるから」って思えば無限勇気が湧いてくるんですよ。

だって小学生向けの漫画なんて普通主人公名前コロッケ必殺技ハンバーグを両手で放ってハンバーガーとかやってる中で、主人公ジン相棒キール必殺技は二人が合体してキール・ロワイヤルですよ?

コロコロ読んでる衆愚共の頭がお子様ランチなら、こっちは小洒落バー大人世界ですよ。

マジでレベルが違う。

つうかね、JINGを読んでる時に俺は自我に目覚めたとさえ言えるわけですよ。

それまでなんとなーく生きていたのが、ある日ボンボンペラペラ捲ってる時に突然「なんだこれは!なにか凄いなにかを感じて凄いぞ!」みたいな電気が頭の中をバチバチ弾けたんですよ。

まりに昔のこと過ぎて記憶自身がないんですが、確か、色彩都市カメレオンジンガールの靴を脱がす見開きページでしたね。

ぶっちゃけ私も絵画のこと全く詳しくないんでアレが何かの名画のパロだったのかどうかさえ定かじゃないんですが、そのページを診た途端に言いようのない「凄み」を感じたんですよ。

私の全身に組み上げられながらも最後の一手が足りずに起動していなかった自我がその衝撃で突然目覚めたと言えますね。

ええそうですよ私は見事にオタクになりました。

「こんな凄い作品を知っている俺は凄いんだ!」というオタク特有の気味悪い優越感にその後10年以上支配され、気づいた時には青春時代は終わり、インターネットの片隅でエロゲについて語っているどこに出しても恥ずかしいキモオタになっていましたよ。

ある意味で、私の人生を大幅に悪い方向に変えたかも知れないのがJINGという作品なんですよね。

もしもあの衝撃、自我誕生リブート直後のインプリンティングスポーツや勉学に関わるものであったなら、私は「知ってる?リック・ディアスも実はガンダムなんだぜ?」といきなりクラスメートに振って「なんやこいつ……」とされるような人種にはならなかったんじゃないかなと。

それでも私はJINGという作品を憎んでなんていない。

なぜなら、JINGという作品出会わなかった私は一生自我に目覚めなかったかも知れないし、なんならネットDE真実に目覚める時に自我も目覚めてしまい不治の陰謀論者になっていた可能性さえある。

私はJING感謝しています

この感謝というべき感情をね他の連中がコロコロコミックウンコチンコ言ってる時に、随所に名画のパロディが敷き詰められたハードボイルド物語を読むことの優越感を知らないまま小学校卒業してしまったなんて本当に可愛そう。

いやマジで学校で「やーいやーいロボポン目当てにボンボン読んでるド変態~」みたいに扱われてムラハチされかけても、「でも俺は王ドロボウJINGを目当てに読んでるから」って思えば無限勇気が湧いてくるんですよ。

だって小学生向けの漫画なんて普通主人公名前コロッケ必殺技ハンバーグを両手で放ってハンバーガーとかやってる中で、主人公ジン相棒キール必殺技は二人が合体してキール・ロワイヤルですよ?

コロコロ読んでる衆愚共の頭がお子様ランチなら、こっちは小洒落バー大人世界ですよ。

マジでレベルが違う。

つうかね、JINGを読んでる時に俺は自我に目覚めたとさえ言えるわけですよ。

それまでなんとなーく生きていたのが、ある日ボンボンペラペラ捲ってる時に突然「なんだこれは!なにか凄いなにかを感じて凄いぞ!」みたいな電気が頭の中をバチバチ弾けたんですよ。

まりに昔のこと過ぎて記憶自身がないんですが、確か、色彩都市カメレオンジンガールの靴を脱がす見開きページでしたね。

ぶっちゃけ私も絵画のこと全く詳しくないんでアレが何かの名画のパロだったのかどうかさえ定かじゃないんですが、そのページを診た途端に言いようのない「凄み」を感じたんですよ。

私の全身に組み上げられながらも最後の一手が足りずに起動していなかった自我がその衝撃で突然目覚めたと言えますね。

ええそうですよ私は見事にオタクになりました。

「こんな凄い作品を知っている俺は凄いんだ!」というオタク特有の気味悪い優越感にその後10年以上支配され、気づいた時には青春時代は終わり、インターネットの片隅でエロゲについて語っているどこに出しても恥ずかしいキモオタになっていましたよ。

ある意味で、私の人生を大幅に悪い方向に変えたかも知れないのがJINGという作品なんですよね。

もしもあの衝撃、自我誕生リブート直後のインプリンティングスポーツや勉学に関わるものであったなら、私は「知ってる?リック・ディアスも実はガンダムなんだぜ?」といきなりクラスメートに振って「なんやこいつ……」とされるような人種にはならなかったんじゃないかなと。

それでも私はJINGという作品を憎んでなんていない。

なぜなら、JINGという作品出会わなかった私は一生自我に目覚めなかったかも知れないし、なんならネットDE真実に目覚める時に自我も目覚めてしまい不治の陰謀論者になっていた可能性さえある。

私はJING感謝しています

無産のどうでもいいオタクをやって、モテることもなく負け組として生きる人生を送ってしまった原因であったのだとしても、私はJINGにハッキリと感謝気持ちを持てる。

この強烈な感情を持てるのも、感受性形成される過程である小学生時代に触れるという体験をしたからです。

羨ましかろう?

2024年に読んで良かった10冊の本

anond:20241214160546

便乗して5冊挙げようとしたけど絞りきれなかったので倍プッシュした。2024年は1/1から今日までのあいだに315冊読みました。ちなみに、いま読んでる途中なのは上橋菜穂子香君』(2022年)と飛浩隆鹽津城』(2024年)、それに教養系の新書数冊。

ウィリアム・シェイクスピア十二夜』(1600年)

今年はアプリリリース3周年を迎えたウマ娘に突如シーザリオ実装されるというサプライズが起きて、仮にウマ娘化されるとしたら絶対男装の麗人キャラだろうなと思っていたら本当に男装の麗人だったので全俺が歓喜したし、オフザリオの声が可愛すぎませんか……? 俺はああいう透き通ったというか透明感があるというか鈴を転がすようなというか、とにかくそんな感じの声に弱いのだ。身体きもいいしなグヘヘ。シナリオではずっとイチャイチャしてて最高すぎる。俺の嫁Tier最上位です。引けてよかった……! ちゃんと「シーザリオ英雄譚」の称号もゲットしました。チャンミは優勝できなかったけどな! ところで俺は『ハムレットしかシェイクスピア作品を読んだことがなかったので、良い機会だということでシーザリオ名前元ネタになった『十二夜』を読んでみることにした。男装の麗人、すれちがう恋心、よく似た兄妹の人違い、と来てお前女だったのかからハッピーエンドで終わる、まあテンプレ通りのラブコメだったんだけどひょっとしてこれがラブコメテンプレになったやつだったりします? 偉大すぎでは。っていうか「十二夜」って、古代ローマのサートゥルナーリア祭をもとにした公現祭エピファネイア)のことだったんだ……。ほかにも『リア王』『マクベス』『リチャード三世』『お気に召すまま』『ジュリアス・シーザー』『夏の夜の夢』を読んだんだけど、いちばん好きなのは十二夜』です、はい。「僕は僕が演じているものではありません」っていう台詞すき(小並感)。

ところでシェイクスピアといえば、古河絶水『かくて謀反の冬は去り』(2023年)というラノベシェイクスピアパロディなのね。『リチャード三世』をパロった1巻を読んだときにはまったく気づいてなくて、あとがきを読んで「これシェイクスピアだったんだ」となり、元ネタを読んだらめっちゃからさまだったし、今年出た2巻はもう露骨に『マクベスオマージュで、さら二・二六事件三島由紀夫割腹自殺などのネタも盛り込まれていて非常に楽しく読めた。古代日本風ファンタジィ(e.g. 沢村凜黄金の王 白銀の王』)とか、近代日本モチーフミリタリもの(e.g. 佐藤大輔皇国の守護者』)とかはよく見かけるけど、人名とか文化とかが古代日本風なのにテクノロジが近代風な政治劇というのはなかなかなかったように思うので新鮮というか、「その手があったか!」という感じだ。笑いとシリアスバランスが良く、裏の裏をかくサスペンスが繰り広げられて、続きが非常に楽しみな作品なのですごくすごいオススメです(語彙力トプロ)。そういえば春先にはちょうど前年に文庫落ちしたホルヘ・ルイス・ボルヘスの『シェイクスピア記憶』(1980年)も読んだんだった。俺の中で今年はシェイクスピア元年ということで。

ジョン・ステュアート・ミル自由論』(1859年)

自分ではリベラル派のつもりなんだけど、実はちゃん原典を読んだことがなかったので読んでみた。日本でいうと幕末に書かれた本なのに「そうだよ~~~それだよ~~~!!!1!」と同意するところが非常に多かったので、自分は根っから自由主義者なんだと再確認。みんなも(本来意味での)リベラリストになろうぜ。リベラリズム関連だと、ほかに井上達夫リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(2015年)を読んだ。ラディカルだが筋が通っている。ところで著者がアメリカ留学してたときに「なんで日本人がリベラリズム研究を?」って言われたというエピソードがちっともリベラルではなくてドン引きしたというか、あいつらひょっとして自由主義人類普遍原理ではなく西洋文化かなにかだとでも思ってんの? 人類普遍原理じゃないならなんでヨソの文化圏に押し付けてもいいと思えるんだ。非西洋自由主義者としては不愉快

ノーラエレングロース『みんなが手話で話した島』(1985年

もんのすごい面白い。話には聞いていたマーサズ・ヴィンヤード島の手話についての本。この島ではかつては高確率で聾の子供が生まれたため、島のほぼ全員が手話を身に着けていて、ときには聴者どうしが手話で話すこともあった。したがって耳の聞こえない人たちも完全に社会統合されていて、社会的な不利益を受けることはなかった。この島では聾であることはただの様々な個人の特徴のうちのひとつであって、それが重大な意味を持っているとはみなされていなかった。たとえば以下の会話のように。

「アイゼイアとデイヴィッドについて、何か共通することを覚えていますか」

「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」

「ひょっとして、お二人とも聾だったのではありませんか」

「そうそう、いわれてみればその通りでした。二人とも聾だったのです。何ということでしょう。すっかり忘れてしまうなんて」

島の出身者にとって、彼らはまずもって漁師であり、聾であることは、そういえば耳が聞こえなかったね、という程度のものしかなかったということだ。この本を読むと、なるほど障害社会モデルは正しいのだなぁと納得してしまう。手話共通語として存在した共同体のあり方をインタヴューと文献調査によって復元していく社会史的な面白さに加えて、途中では島民の聾の起源近世イングランドにまで遡って明らかにしていくという謎解きの面白さも味わえる。まさか手話の本読んでてジョージダウニングダウニング街の由来)とかサミュエル・ピープス日記を遺したことで有名)とかの名前が出てくるとは思わないじゃん。そしてこの「手話楽園」が徐々に崩壊し、終焉へと向かう過程寂寥感にあふれている。今年読んだノンフィクションでは一番ですわ。超オススメ

綾辻行人十角館の殺人』(1987年

まだ読んでませんでしたテヘペロ最初読んだときは「衝撃の一文」の意味がわからず、ああ、あれって襲名制でこいつは先代なんだ、って一瞬勘違いしちゃったんだけど、独白が始まるにつれて鳥肌立った。お、お前~~~~~~!!!1!! 小説としての出来は正直言って荒削りで、お世辞にも上手いとは言いがたいのだけれど、謎解きとしての衝撃は絶大ですわ。なるほどこれが新本格の先駆けか……。そういうことでちょぼちょぼと館シリーズを読み始めてます。いま人形館の途中。

うそう、本作がきっかけで○○○○○○の『○○殺人事件』(1929年)も読みました。タイトルだけ読んで中世ヨーロッパ舞台にした歴史ミステリなのかと思ってたら全然違ったわ。あなたの「○○」はどこから? 僕は、『電脳山荘殺人事件から! っていうか本作を読んで学生時代に読んだ米澤穂信インシテミル』(2007年)のなかで意味がよくわからなかった一節の意味をようやく理解した(岩井読書マウント取るシーン)。『○○殺人事件』のあとがきとか「読者への挑戦」とかそういうコーナーで作者が自己紹介する文があるものだとばかり思ってたけど、本作を指してたのかよ!

サイモン・ホロビンスペリング英語史』(2013年

英語への解像度が上がった1冊。英語スペリングに悩まされ、「俺は日本から出ないか英語は要らない!」と高校時代放言しておきながらいまは英語をそれなりに使う仕事をしている者からすると、かつて味わった理不尽の謎解きという意味ですごく面白かったし、何というか、あの理不尽の背後にはこんな歴史があったのか……と知ることで、英語への愛情のようなものが増した気がする。「世界共通語」とか呼ばれて出羽守から持て囃される帝国主義的な覇権言語としての英語は相変わらず好きになれそうもないが、しかし、ヨーロッパの片隅にある島で数奇な歴史を辿ってきた言語としての英語のことは割と好きになれる、そんな本だった。

菅浩江放課後のプレアデス みなとの星宙』(2015年

アニメを見た直後に読んでおけばよかったシリーズ。名作ジュヴナイルSFアニメ放課後のプレアデス』のノベライズなんだけど、キャラクタの掘り下げが完璧すぎる。みなとという謎めいた存在に丁寧に肉付けして、彼がプレアデス星人出会って闇堕ちしすばるに救われるまでの過程説得力をもって再構成していてすごくすごい(語彙力)。主題歌引用タイミング完璧すぎるだろ(「Stella-rium」は名曲からみんな聴こうな)。そして、あおい、ひかる、いつき、ななこといったキャラクタの名前漢字が当てられていくところは本当にゾクゾクした。これオリジナル設定ってマ? 佐伯昭志リリカルアニメを『永遠の森』『そばかすフィギュア』の菅浩江ノベライズするなら、そんなのもう心が洗われるような名作にしかならんわけで。読み終えたあとにまたアニメを見たくなる、そんな素敵なノベライズだった。大好き。

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』(2018年

数値の測定は大事なことだが、それが濫用された結果どうなるのかという事例が色々と挙げられていて、この本末転倒感は日本でよくあるやつだ……! と思ったらだいたいアメリカの事例なので人類を滅ぼすしかない。この問題で難しいのは適度な測定には意味や意義があることで(たとえば、論文の本数が重視されるようになった結果薄っぺら論文が量産されるようになるのはよくないが、ちっとも論文を書いていないひとに多額の研究費が配分されるのはおかしい、というお気持ち)、測定なんて意味がないとは言い切れないことだが、本書の著者は最後に「測定のまっとうな使い方」のための指針を提示していて、この増田で挙げた本のなかでは一番実用性が高い。「測定は判断の代わりにはならない。測定は、判断要するものだ」という金言政策決定にあたるひとたちには噛み締めてほしいなと。

白鳥士郎りゅうおうのおしごと!18』(2023年

こっちはJ. S. ミルじゃなくてJS見る。5巻くらいで読むのやめてたシリーズなんだけど読むの再開したらすごく面白くてハマってしまった。人工知能によって将棋が終わってしまったという夜叉神天衣と九頭竜八一の抱く絶望と諦念を、雛鶴あいと神鍋歩夢というそれぞれのライバルねじ伏せていく、めっちゃ骨太将棋小説じゃん……。ただのロリ小説と思わせておいて、いや実際にロリ小説でもあるんだけど(ロリホームって何だよ)、AIという最新のテーマに向き合って「解」を提示してみせる胸熱将棋小説でもあるというギャップが俺を狂わせる。すげー面白いっすわ。

ところで、さんざ褒めておきながら将棋の定跡とか全然わからんのは秘密だ。ひ、『ヒカルの碁』も盤面わかんなくても読めてたし……(震え声)

米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』(2024年

小市民シリーズの完結編。ずっと追いかけてきたシリーズの終わりが見れて感無量すぎる。読み始めたの高校の頃とかだからマジで20年越しなんだよな。『春期限定いちごタルト事件』の序盤で示唆された、小鳩くんが出しゃばって不興を買ってしまった過去事件が描かれていて、20年越しの伏線回収が嬉しすぎる。

「なあ。おまえ、鬱陶しいよ」

これってこういう文脈でのことだったのか~~~~~とか、互恵関係! 互恵関係きた! これで勝つる! とか、〈小市民シリーズ過去が明かされていく展開を味わって読んでいたらそれが小鳩くんの遭った事故と徐々に繋がっていく過程は流石のよねぽだった。本作で〈小市民シリーズは綺麗に完結したわけだけど、これ短編集もう1冊くらいいけるんじゃないですか? という気持ちになってしまう。読みたいよ~~~~小鳩くんと小佐内さんの物語もっと読みたいよ~~~~~~~~!!!1!!

かまど&みくのしん『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』(2024年

オモコロ話題になってたみくのしんの読書録。一文一文を噛みしめるように丁寧に読んでいてすごい。国語の授業が苦手だったみたいなこと言ってるけど、マジで正統的な国語の授業みたいな読み方してるのすごすぎるでしょ。そしてこの本を読んで「一文一文を噛みしめることなくただ数だけを積み上げてきた俺の読書とは空虚ものではないのか……」という敗北感に囚われていたところに次の文がすっと差しまれてくるのです。

本が読めないと尻込みしていた男を「正しい読み方なんてないから」と、訳知り顔で励ましておいて、いざ自分のこととなると、ちっぽけ呼ばわりなんて本末転倒じゃないか

本書はみくのしんの読書追体験であると同時に、本好きへのエールでもあると感じた。本には色んな読み方の可能性があって、すごく自由ものなんだということ。それを思い出させてくれる、とても良い本だった。ありがとう

2024-12-16

anond:20241216080802

(t)検定というのはゼロイチで結果が決まるものから有意という結果が出た下では相関係数が大きい小さいは関係ないというか、そのことで検定の結果や評価問題があるとは言えないよ。

もちろん相関係数が低ければt検定が有意にはなりにくいわけだが、有意になった上では相関係数が大きいものの方が説得力が高いとはならない。

いや高いだろ

相関係数が低ければ有意にはなりにくいって自分で書いてんじゃん 相関係数がp値に関係するって自分で書いておきながらなんで最後で逆のことを言い出すんだ

そういうことをやりたいならベイズでないとね。

なんでこういう半端に統計かじった感じの人ってベイズ妄信しがちなんだろうね

ま、もっと執筆者当人が「非常に弱くではあるが認められた」といった強弱含む評価をしていて、検定とはどういうものかを誤解している可能性はあるけど、これはnoteでの殴り書きでなく論文にするならその過程で指摘を受けて直ると思う。

検定の話と相関の強弱の話は両立しうるだろ なんでこんなバカみたいなことすらわからずにウエメセ評論を書けるのかりかいできない

そもそもこの程度のことさえ指摘できない連中が査読してるパターンなんて無数にあるだろ ウエメセ馬鹿なこと書いてドヤってる奴もすぐわいてくるくらいだし

あと、相関係数が低いもの有意と言うことはそもそもp-hackingとは言わないよ。これがたとえば裏でSRSCRT以外にも様々な数値とで検定を行っていて、その中で有意となったがSRSCRTだけだったときに、有意とならなかったもの公表せずSRSCRTの結果だけを出していたならp-hackingの一種だけど。

でも今時の論文最初に(検定などをする前に)SRSCRTを使うという設定や有意水準の設定など決め事をした上でやるのが最低限の流儀なんで、それくらいは守ってるんじゃないかな。

ここは同意

anond:20241216161415

では、教育現場で、可換法則をまだ教えておらず、ゆえに可換法則を使ってはいけないとするならば、掛け算の順序を入れ替えてはいけない、という解釈は成り立ちますか?

教育現場でまだ可換法則を教えておらず、それを前提としない場合、「掛け算の順序を入れ替えてはいけない」という指導方針理論的には成り立つと考えられます。以下に理由を詳しく説明します。

1. 可換法則を教えていない段階では順序を守る必要がある

掛け算の順序を守らせる理由として、以下のような教育観点があります

意味理解を優先する

小学校低学年などの段階では、掛け算を「具体的な場面」や「数のグループの集合」と結びつけて教えることが多いです。この場合、順序は具体的なイメージストーリーに密接に関連します。

例: 「3個のリンゴが5箱ある」という状況は 3×53×5 で表され、ここで「3個」が「5回」繰り返されるという順序が重要です。これを 5×35×3 に入れ替えると、「5個のリンゴが3箱ある」という異なる状況として解釈される可能性があります

構造的な理解を促す

可換法則がない段階では、「○個の△が△セット」という形式で順序を明確に示すことで、数式と現実対応関係直感的に理解させることが目的となります

2. 可換法則を教えていない段階で順序を入れ替えないのは一貫性のため

数学的には、もちろん 3×5=5×3 が成立しますが、可換法則概念が導入されていない段階でこれを許すと、生徒が混乱する可能性があります

  • ルール」を学ばせる段階では、順序を固定し「掛け算はこのように読む・解釈するものだ」と定着させることが大切です。
  • 可換法則を習った後に「順序を入れ替えても結果が同じ」という事実を教えることで、既存ルール拡張する形で学びが進みます

3. 教育的な意義

「順序を入れ替えない」という解釈は、教育的意義を踏まえると非常に合理的です。例えば:

  • 前後の順序が異なると意味が変わることもある」という実生活での感覚を育てること。
  • 順序を明示することで、将来的に可換法則を学ぶ際の「結果が同じになる理由」をより深く理解させる準備となること。

まとめ

可換法則をまだ教えていない段階で、「掛け算の順序を入れ替えてはいけない」という指導教育的に十分に意義があり、成り立ちます。この段階では、数学的な厳密性よりも、具体的な場面に基づいた順序の意味解釈を生徒が正しく理解することが重要です。

ただし、後の段階で可換法則を導入した際に、「実は結果が変わらない」ということを明確に説明することで、以前教えた順序のルールが学びの過程での一時的ものであることをきちんと伝える必要があります

「掛け算に順序はない」と「掛け算は可換法則により前後入れ替え可能である」は本質的に違うと思うんだけどどうなん?

(具体的に言うと後者は「入れ替え可能なだけで順序はある」という話だよね?)

まあこういう常識を問う問題はchatgptの得意分野か。

かに、「掛け算に順序はない」と「掛け算は可換法則により前後を入れ替え可能である」は本質的に異なる考え方です。以下にその違いを説明します。

1. 「掛け算に順序はない」

この表現は、掛け算そのものが順序という概念を持たない、または考慮しないというニュアンスを含みます。この場合、どちらの数が先であっても結果が同じになるので、計算過程において順序を意識する必要がないという意味合いになりますしかし、数学的には掛け算の操作自体が「順序を持たない」ということはありません。実際には2つの数の「順序」を元に計算が行われています

例:

3×5 を「5個の3の和」として考える場合、順序が明確に存在します。

2. 「掛け算は可換法則により前後を入れ替え可能である

こちらは、数学的に正確な表現であり、掛け算における可換性(commutativity)を指しています。この場合、掛け算の演算自体は「順序を持つものの」、その順序を入れ替えても結果が変わらないことを保証する法則がある、という意味です。つまり、「順序はあるが、結果に影響しない」という点が強調されています

例:

3×5=5×3 が成り立つのは可換法則によるものです。

本質的な違い:

したがって、「順序はあるけれど、結果に影響しない」という後者の方が、数学的には正確で理論的です。前者はやや直感的または簡略化された表現として用いられる場合が多いですが、厳密な議論では誤解を招く可能性があります

問題はこんな女がめったにいないことだと思う

https://anond.hatelabo.jp/20241215222347

    

・チェック項目が大量にあるけど求めてることはぶっ飛んでない

・返報性やフェアネスがある

  

こんな人間性なら多少…ごめん失礼なこというけど、かなり御面相がまずい人でも結婚できるんだよな。

俺の知り合いにも実例複数ある。

バイタリティがあって頭悪くない女は外見的に強く敬遠される要素(プロ野球の有名なキャッチャーに顔がそっくりとか、縦にも横にも巨とか)があっても余裕で結婚できてる。

それを眺めてて気づいた一番稀有資質というのは

   

自分ニーズリストアップして客観的に整理できる

 

ってことだと思う。

 

バカ女というのはこれが出来ない。

ただただなんか不満。なんか嫌。なんか物足りない。

それで癇癪起こして全部相手社会押し付ける。

(この精神状態フェミニズムとかがオルグさら脱線させて幸福から遠ざける。)

  

  

結局自己観察や自己統御が出来る者は容易に負けないという話で

美貌や若さだけで勝つ女もいるかもしれないけどそれは不敗の強さじゃないし

旬を逃したり無限の不満に拘泥したりすれば強みがあっても負けていく。

 

 

おそらくバイタリティのあるブスは成長過程自己観察や自己統御を要求される機会が多いので

負け犬ムードに陥らずに成人まで到達したブスは不敗の強さを持っていることが多々ある。

結局人間バイタリティと頭の良さなんだ。

 

でそんな女は少ない。

十分ちやほやされる程度の容姿の女が増えたし

カバー可能範囲のブスで美容にばかり注力して人格が研がれなかった女も多いし

カバー不能ブスでもへこたれないバイタリティがなく引っ込み思案に生きる女が多数派

 

金の草鞋を履いてもバイタリティのあるブスを探せと。

俺が言いたいのはそういうこと。

マジレスすると……

(t)検定というのはゼロイチで結果が決まるものから有意という結果が出た下では相関係数が大きい小さいは関係ないというか、そのことで検定の結果や評価問題があるとは言えないよ。もちろん相関係数が低ければt検定が有意にはなりにくいわけだが、有意になった上では相関係数が大きいものの方が説得力が高いとはならない。そういうことをやりたいならベイズでないとね。ま、もっと執筆者当人が「非常に弱くではあるが認められた」といった強弱含む評価をしていて、検定とはどういうものかを誤解している可能性はあるけど、これはnoteでの殴り書きでなく論文にするならその過程で指摘を受けて直ると思う。

あと、相関係数が低いもの有意と言うことはそもそもp-hackingとは言わないよ。これがたとえば裏でSRSCRT以外にも様々な数値とで検定を行っていて、その中で有意となったのがSRSCRTだけだったときに、有意とならなかったもの公表せずSRSCRTの結果だけを出していたならp-hackingの一種だけど。でも今時の論文最初に(検定などをする前に)SRSCRTを使うという設定や有意水準の設定など決め事をした上でやるのが最低限の流儀なんで、それくらいは守ってるんじゃないかな。

anond:20241215235822

2024-12-15

女性って子どもが産まれるとちょいフェミ傾向が強まったりとかあるのかな。

妊娠出産子育て過程で何か思う所が出てくるんだろうか。

Xの狭い観測範囲の話なので別にそんなことないのかもしれない。

ワイ28歳女、彼氏ができたことない人の特徴がわかってきた

1、理想が高すぎる。

→圧倒的にこれ。ちょっとでも嫌だと思ったら全部無理になりがち。人には良い面も悪い面もあるんだから、なんで辛抱できないのか謎。お前にも悪い面くらいあるだろ?なんで男側には完璧を求めんだよ。

2、奥手すぎる。

地蔵かてめえは。話しかけろ自分からいけ。当たって砕けろ。きっかけは自分で作んだよ!!早よいけ。

3、自然出会いに夢をみすぎている。

→もう学生じゃねえんだから自然発生的に恋は起こらんよ。いつまで少女漫画主人公な気分でいるんだ目を覚ませ。

4、清純すぎる。

キス以降は半年付き合わないと許さないとか昭和かよって思う。多少は自分を安売りしても良いのではと思うけど、、。28になってまで何守ってんだよ女のワイからみてもちょっと引く。

5、話し方、仕草が不自然

→私のまわりだけかもなんだけど、なんか話し方に違和感がある。話してて声の音量が大きすぎたり変な間があったりする。自分の話をずーっとする。持論を押し出してくる。シンプル挙動ダサい

6、自分世界やこだわりが強すぎる。

別にいいんだけどマイワールド全開で婚活行くなよって思う。。お前のマイワールドを男に理解してもらおうとするのなんで?しなくていいんだよ別に恋愛は2人で楽しむもので、自分世界引き摺り込むことは必ずしも必要な要素じゃないというか、いらない。

一緒に楽しめることを2人で増やせばいいんだよ。

7、最初から素を出せる人がいいとか抜かしやがる。

→アホか!いやだから最初は演じろよ。素じゃなくても相手自分仕草や声掛けで自分のこと好きになってくれたら嬉しくない?まずはその過程を楽しむのが恋愛だと思うんだよな、、。お前の素なんか後回しでいいというか、なんで異性に初めから素を出したいの?受け入れてくれる人探すのむずいよ?ギャップを出していくのはある程度仲良くなってからだ。恥じらいながらちょっと素を出すと若干変な趣味でも(自分にとっては変だと思ってない趣味でも)可愛いって思って貰えたりする。それで良くね?

8、男が好きそうな服を着ない

可愛いんだけど、男にモテそうな服を着ずに自分が好きな服優先する。

9、プライドが高い

男を立てることができない

別に常に立てろって話じゃないんだけど、ありがとうくらいはいうべき

10、1人でも生きていけそう感がすごい

みんなめっちゃ稼いでるしいい大学出てるんだよね。

社会人としては尊敬してるし仕事できてすごいと思ってる。でも、隙がない。

2024-12-14

同性婚について考えると自分差別意識と向き合うことになる

先日このようなことを書きました

同性婚を認める議論を始めるなら、兄弟姉妹婚、親子婚、小児婚、一夫多妻一妻多夫、その他諸々もOKの方向で検討しないといけないけど準備できてるんかなあ?落とし所は法定婚の制度廃止しかないと思ってる

すると以下のようなエアリプがありました

同性婚を認めるならナントカ婚も認めろ~な人が湧いてるけど、現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利を主張されてもな。本気でそう思ってるなら同性婚の当てこすりじゃなくて普段から真面目に活動なさいよ

現代まともな先進国でおよそ認められてない権利を主張されてもな」というコメントですが、これを通して、現在の法定婚として認められない婚姻の形について考えられるという点でとても良いコメントだと思ったので紹介させてください。


日本以外で認められている婚姻の形

まず、「現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利」とありますが、私があげた婚姻の形のうち、幾つかはある程度の規模の国において実際に法定婚として認められています

例えば


「まともな先進国でおよそ認められていない」という言説

昨今幾つかの国で認められつつある同性婚もかつては「現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利」だったことも重要です。その状況から同性カップルも異性カップル平等に扱われるべき、という社会正義としての平等を主張し、現在までに世界各地で「活動」を行ってきた結果、同性カップルの法定婚が認められつつあるという現状があります

では、この「平等」が兄弟姉妹婚、親子婚、小児婚、一夫多妻一妻多夫にも与えられないのは何故でしょうか。

親子婚、小児婚については本人の同意などの点から問題がありそうなのはなんとなくわかります。(子供自己決定権人権観点からやや危うい話ではありますが)

しか宗教的文化的な背景があって日本以外の国では法制度化されている国もある兄弟姉妹婚、一夫多妻一妻多夫についてはどうでしょうか?公平の観点から同性婚と同じく法定婚として認めるべきではないでしょうか?

認めるべきではないならその理由はなんでしょうか?同性婚とはどこが違って認められないのでしょうか。

しっかり考えてみると意外と難しい問題であることがわかるかと思います。また考える過程で「現代のまともな先進国」のような自分の中に気づかずにある差別意識にも向き合うことができるかと思います


自分の中にある差別感情に向き合う

ここで言いたいのはお前は差別者だ!と指摘したいわけではなく、自分の中の歪みに気づいた上で話してほしい、ということです。

私も個人的感情としては一夫多妻などは認めなくないという思いがあり、自分実践するとは到底思えません。ただ、ムスリム家族の方の権利という観点で考えると異性間での法定婚制度があるのであれば、一夫多妻夫婦公平性観点から法定婚として認めるべきだろうとは思っています

法定婚の未来や公平なあり方について考えると、自分の中の常識、ここでいう「まともな」という基準の外にある文化の人々の婚姻文化をどう尊重していくべきか、という話になります。その中でどうしても認め難い婚姻の形についても考えないといけないこともあるでしょう。

その時に嫌だと思ったことことに対して正当化するような理路を作るのではなく、自分の中にある差別的な考えとして認識してほしいと思っています



(「本気で〜」以降は私の書いた内容に対する直接的な意見ではないし、荒唐無稽な主張であるのは一読でお分かりいただけると思うので本項では言及しません。)

2024-12-13

anond:20241213221548

結論

ハマス攻撃は、意図的民間人を標的とした無差別テロであり、どのような文脈においても正当化できません。一方、イスラエルの行動は、自国民安全を守り、テロ行為を防ぐための自衛措置として正当と見なされますしかし、報復過程民間人が巻き込まれリスクを最小化する努力は、イスラエル側にも求められるべき課題です。この立場は、国際法と人道の観点からも支持されます。」

これなんか変なこと言ってるか?当たり前のことしか言ってないと思うけども

グスコーブドリの逆襲

増田はグスコーブドリの逆襲というタイトル童話を知っているかな。

昔々、豊かな森に囲まれた小さな村がありました。その村には聡明で優しい心を持った青年、グスコーブドリが住んでいました。彼は村のために尽力しており、自然を愛し、村人たちからも愛されていました。しかし、ある日、村の平和を脅かす存在が現れました。それは、宇宙からやって来た謎の男、シャア・アズナブルでした。彼は何かを探しており、その手掛かりを得るために村を混乱に陥れようとしていました。

ある晩、グスコーブドリは森の奥で奇妙な光を発見しました。そこにはシャアが操る巨大なロボットがありました。彼はそれを使って美しい森を破壊し、何かを手に入れようとしていたのです。グスコーブドリは村を守るために立ち上がり、独自知識と森の神秘的な力を結集して対抗しました。

グスコーブドリはシャアに戦いを挑みましたが、シャア技術冷徹さに圧倒されそうになりました。しかし、シャアの本当の狙いは宇宙の遥か彼方にあり、村には直接的な害を及ぼすことはないと知ったグスコーブドリは、シャアにある条件を提案しました。村と森を守る代わりに、彼が探しているものを一緒に見つける手伝いをすることです。

シャアはグスコーブドリの提案を受け入れ、二人は協力して宇宙秘密を解き明かす冒険の旅に出ました。そして、その過程で互いの信頼を深め、最終的にシャアは村を襲う意図を捨て去り、宇宙の未知なる可能性に目を向けるようになりました。

こうして、村には再び平和が戻り、グスコーブドリは村人たちからさらに大きな尊敬感謝を受けました。そしてシャアもまた、真の友情を知ることができました。

教訓:対話と協力には、お互いに新たな道を切り開く力がある。

ℋ𝒶𝓅𝓅𝓎 ℰ𝓃𝒹.

anond:20241213210256

イスラエルによるハマスへの攻撃は、ハマスイスラエル民間人を標的とした一連のテロ攻撃に対する正当な報復行為として位置付けることができます。一方で、ハマスの行動は、いかなる立場から正当化することはできません。以下にこの立場説明します。

イスラエル報復正当性

1. 国家安全保障権利

イスラエルは、国民生命安全を守る責任を負っていますハマスによるテロ攻撃では、民間人が標的となり、多くの命が奪われました。このような攻撃に対して反撃し、テロの再発を防ぐ行為は、国際法上の自衛権に基づいて正当化されます

2. テロリストの排除

ハマスは、意図的民間人を標的とし、社会に恐怖を広げることを目的とした行動を取っています。これに対処しないことは、さらなる暴力助長するリスクを伴うため、国際社会イスラエル防衛行動を支持することがあります

ハマステロの非正当性

1. 民間人を標的とする行為

ハマス攻撃は、明らかに戦闘員である民間人を標的としています。これは国際人道法(ジュネーブ条約)に違反する行為であり、いかなる状況でも正当化できません。

2. 国際社会非難

多くの国や国際機関は、ハマスの行動を「テロ」として非難しており、これを抵抗運動ではなく犯罪行為として見ています特に民間人の大量殺害人質の利用は、国際法上重大な戦争犯罪に該当します。

結論

ハマス攻撃は、意図的民間人を標的とした無差別テロであり、どのような文脈においても正当化できません。一方、イスラエルの行動は、自国民安全を守り、テロ行為を防ぐための自衛措置として正当と見なされますしかし、報復過程民間人が巻き込まれリスクを最小化する努力は、イスラエル側にも求められるべき課題です。この立場は、国際法と人道の観点からも支持されます

anond:20241213133951

首相トチ狂ったときに阻止できるかどうかという例え話なので、トチ狂うまでの過程特に考えてない

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