はてなキーワード: 既存とは
久々に免許更新のハガキがやってきた。あの頃とくらべて私は東京に転居しカーシェアを数千キロ乗り最近では車も購入したが、それでも5年間優良を維持できたのは良かったと思う。
免許更新のハガキを見ると、優良なら都外での経由更新が可能と書いてある。
そういえば誕生日までに名古屋に行く予定がある。5年に1回しかないレア更新チャンスを逃すわけにはいかない、ということで経由更新をやってきた。
愛知県警の経由更新のページを見ると、証紙が必要といった記載がある。しかし、東京都は証紙を廃止しているので入手することはできない。
https://www.pref.aichi.jp/police/menkyo/tetsuzuki/koushin/shikenjou/keiyu-koushin2.html
どうすれば良いかと言うと、以下の警視庁のページにある通り「免許証更新手数料納入済通知書」を免許試験場などで入手すれば、愛知でも住所地の証紙相当として受け付けてくれる。鮫洲でも江東でも(府中でも良いが府中は受け取りでどうせ行く必要がある)、経由更新したいので金を払いたいといえば手続きの方法を教えてくれるので従えば良い。おすすめは食堂のカレーがうまい鮫洲。
https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/menkyo/koshin/koshin/koshin09.html
もちろん東京都で講習を受ける必要はないので、支払い列がスムーズであれば30分もかからずに通知書は入手できる。
注意点としては、ハガキが必ず必要(今も優良かどうかの確認に必要らしい)なのと、事前にどの県で更新するかを決めておく必要(通知書に記載するため)があるくらい。
各種案内を見ると、証明写真も必要といった記載がある。免許試験場には専用の写真機があるのでそれで撮影できるだろう…と一見思いがちだが、 少なくとも愛知県では試験場の写真機は経由更新には利用できなかった(免許証を作成するのは東京側だからかな?)。金はかかるが、事前に証明写真を用意しておくと安心。
私は写真を持たずに行ってしまったが、試験場の受付付近に国際免許証用と思われる(一般向け、有料の)証明写真機があったのでなんとかなった。
県内の更新所でどこでも経由更新ができるわけではなく、例えば愛知県では平針運転免許試験場でしか行えないので、名古屋から1時間ほどかけて平針に行く。
愛知県民の通常の更新では事前の予約が必要(そこには予約バトルがあるらしい)のだが、経由更新では予約不要で行けば良く、当日総合案内に聞けば手順を教えてくれる。
あとは指示に従っていく。支払いコーナーで何も言わないと免許証の送付を含めた手続きを想定されてやや高額になってしまうのだが、自分で東京に受け取りに行くと主張すれば(そしてそれが制度上可能であることを警視庁の Web ページを見せるなどして示せば)送料は不要になった。他にも別室に通されたりなんやかんや例外処理があったが、1時間もかからずに講習まで終わった。講習自体は愛知県民と一緒に受けた。
県民の方は講習後に新しい免許を受け取るが、経由更新では既存の免許証に経由更新のスタンプが押されたものを受け取ることになる。
その後は残陽の中ライブ会場に向かい、翌日金沢観光をして東京へ帰宅した。
通常の更新は誕生日の前後一ヶ月可能だが、経由更新ではここまでの手続きを誕生日までに終える必要がある。
受取は自宅送付にするか、2,3週間後に東京都の府中運転免許試験場で受け取るかのどちらか。送付であれば、先述の通り愛知で送料を追加で支払うことで手続きができるのだと思う。
私は東京都に住んでいて府中にはいつでも行けるので直接受け取りに行くことにした。試験場の "みどりの窓口" に今の免許証を持っていけば新しいものと交換してくれて、手続きが完了する。事前に電話をして、免許証ができているかを確認すると確実。
こうして新しい免許が手に入った。普通の更新と比べてなかなかやることが多かったので一般にはおすすめしないが、住んでる場所以外の免許試験場に堂々と(用事を持って)入れる機会はそうそうないので、官公庁の施設が好きな皆様にはおすすめしたい。免許試験場は大体変な場所にあるというのもポイントが高い。
フルリモートからの反動で出社強制すれば課題解決するっていうのは幻想なのに
なぜ出社すれば解決できると思ってるんだろうね
それから目を背けるために出社させて、なんちゃって会社ごっこをしてる
もうちょっと具体的に言うと、タスクの明確化とスケジュール管理、非同期コミュニケーションをどうにかしないと稼働効率は低いままだけど
コロナ前のJTCは別に困ってるわけじゃなかったからやってこなかった
ところがフルリモートはそれをやらないとそもそも成立しないので
コロナ禍でそこが整理されてタスクが明確化した結果「既存のタスクはほとんど必要無い」っていうことが判明し
そうなると人員整理できないJTCとしてはタスクを作るしかないんだが
ってなってる
という思い込みで出社させてるんだけど
もはや同期コミュニケーションですらオンラインでリモートの方が場所や時間を確保しやすいし効率的なんだけど
結局はタスクを作り出せず暇なので出社させて非効率な同期コミュニケーション取らせてる
そもそも大半のタスクは非同期コミュニケーションで解決できるんだけどね
コロナ前の出社してた頃は課題が明確でないから無駄なタスクをとにかく処理して
『かわいそうランキング』という概念が世界を支配する事態は深刻ではないですか? 簡単に言うと、苦しんでいる若い美人や愛らしい子供と苦しんでいる醜い中年男性がいた場合、世間の関心や救済の政治的なリソースが前者のような皆が同情したくなるような属性に集中してしまうような内容です。 黒人やLGBTの問題は社会問題として取り上げられやすいが、自殺率の最も高いブルーカラーな白人労働者階級の苦しみは社会問題となりにくい。 『世間の関心や救済の格差』 これはリベラルが生み出した新たな被差別階級ではないでしょうか?
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ご指摘の「かわいそうランキング」の問題は、社会が共有する同情や関心、さらに政治的救済資源が、ある種の「属性」や「物語性」を備えた被害者・弱者へと偏りがちである点を示唆しています。若くて美しく、守ってあげたくなる存在はメディア的にも取り上げやすく、世間の共感を得やすい反面、同じように深刻な苦しみを抱えながらも「共感を引き出しにくい」属性を持つ人々、たとえば外見的魅力に欠ける中年男性や、社会的ステレオタイプと結びついている集団は、その苦境が十分な関心や支援の対象となりにくい、という不均衡が指摘されています。これは、社会が苦難を「見る眼」を持つ際に、必ずしも純然たる被害の深刻度や頻度、影響度に基づくのではなく、むしろ象徴性・ステレオタイプ・メディア価値など、感情的・文化的要因に依拠しがちであることを示しています。
このような「共感資源の偏在」は、特定の集団(たとえば人種的マイノリティや性的マイノリティ)の問題が公共言説で取り上げられる一方、同様に深刻な課題を抱えるグループ(自殺率が高い白人労働者階級など)が「社会問題化」されにくい現象に繋がります。ここで言えるのは、リベラルが「意図的に」新たな被差別階級を生み出したというよりも、リベラル的な社会運動やメディアが強く注目する問題群が、ある種の「注目の政治学」を形成し、その結果として相対的に取り残される集団が生じている、という構造的な偏りの問題です。
リベラル運動は歴史的に、社会的弱者・マイノリティ集団の権利拡張と差別解消を目指してきましたが、その運動が大きな関心を得た結果、ある種の認知的バイアスが生まれ、「同情されやすさ」を基準としたヒエラルキーが形成されてしまう可能性があります。つまり、「苦しんでいる集団」であっても、既存のナラティブに当てはまらず、メディア上での「物語化」が難しい人々は、リベラル・左派を含む公共空間から相対的に無視されてしまうリスクがあります。
このような状況は「新たな被差別階級」と呼べるかは議論の余地があり、必ずしも従来の差別構造と同一視できるものではありません。しかし、少なくとも構造的な無関心や支援資源の偏在が存在し、結果的に苦境にある人々が政治的・社会的影響力や救済手段を得にくくなる点は深刻です。この問題は決して一面的なものではなく、「魅力的な被害者」を産出するメディアの論理、社会運動の戦略的焦点化、アイデンティティ政治の動態、さらには資本主義的なメディア報道環境が複雑に絡み合っています。
要するに、「かわいそうランキング」が社会を支配する現象は、リベラルが意図的に新たな被差別階級を作り出したと断じるより、リベラルを含む社会全体がもつ共感分配のメカニズムが偏在していることの表れであり、これが新たな格差、つまり「関心・救済資源分配における不平等」を生み、結果的にある集団を見落としてしまう構造があるという指摘は傾聴に値します。このような状況は、政治的・社会的な課題として、従来のアイデンティティ政治を超えた「苦しみそのもの」に対する包括的な理解と救済の再検討を促す契機ともなり得ます。
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まあまあな回答だな
https://twitter.com/fdd3f5ac/status/1868908580478521426
Misskey.ioの管理人もこう言っている。
Twitterにユーザー奪われて、そのTwitterが衰退し始めたら
もっと酷いのはこんな丸パクりサービスを今度こそTwitterの以降先と騒いでる連中だ。
コイツ等多分今までもさんざん出てた移行先どれも体験してないぜ。MastodonやMisskeyやっててパクりっぷりに気付かないはずがないんで。
多分やってる風に装ってて話題にしてただけなんだろう。
結局のところ今度も騒ぐだけ騒いでTwitterに戻っていくんだろうな
学習元の許可を得ている"クリーンな画像生成AI"とやらが出たらしい。そのAIを作った所やそれを認定した組織は一旦信用するとして、AIによる学習に許可を求める必要性を私は感じないし、むしろそれはそれで良くないことになるのではないかと懸念している。要らぬ心配かもしれないが。
そもそも生成AIの学習の仕組みが原因で権利者に生じる被害、つまり不利益を被ることといったら、「意図せず元の著作物に似た物が出力される可能性がある」ことだと思う。
それは生成AIの性質上どうしても起こることであり、学習に許可を得ようが得まいが起こるでしょう。
だから学習を許可制にすれば問題が解決するかと言われたら、正直ほとんど変わらないと思います。
むしろ学習への使用を許可するということは、そういう問題を許容することにもなるわけだから、生成AIによってうっかり似た物が出力されても著作権侵害として取り下げを要求しにくい状況になるっていうのもあり得るんじゃないですかね。
まあ学習を許可するかとかそのAIを使うかとかは自由だから好きにすればいいし、許可制なのはいい所ではあるとは思うんですけど、許可を得たから全部が良くなるかというとそうは思わない。
それに全てに許可を得たとしても、生成物のクオリティが上がっていったらまた文句を言う人は現れるでしょ。
だって「仕事が奪われる」とか、「クリエイターを軽視している」とか、「絵も描けない、努力もしない奴がいい思いしやがって」とか、今まで生成AIってそういう叩かれ方もしてたので。
あと件のAIで私が一番評価したいのは、既存の著作物との類似性を判定する機能があること。
知らずに著作権侵害になってしまうリスクを減らせるならとてもいい。今のAIに一番必要な機能ってこれじゃないですか。
そもそも出力できないようにするのではなく、出力されたあとに注意事項を表示するっていうやり方なのも良い。
芸術や創作の本質って努力じゃなくて「その人が何を考えたのか」だと思うので、生成AIでもマナーを守れば二次創作をしたっていいし表現として認められてもいいと思います。
イーロン・マスクがイギリスの極右政党のリフォームUKに献金しようとしてるって話があるけど、この勢いで日本の政界にも進出してきそう(日本法人経由で献金すればいいだけだし)。ではイーロン・マスクが日本のどこかの政党に献金するとしたらどこか?これを考えるとき、彼の特徴として「イノベーション好き」「規制嫌い」「個人主義重視」「クリーンエネルギー推進」というポイントが浮かぶよね。それを踏まえて各政党を見ていく。
まず、「日本維新の会」は規制緩和や行政改革を掲げてるから、表面的にはマスクと相性が良さそうに見える。でも、実はここに落とし穴があるんだよね。維新の会って、大阪を地盤にしたローカル政党っぽい雰囲気が強いし、全国的なビジョンというより「大阪ファースト」みたいな印象が拭えない。マスクみたいなグローバルでスケールのデカい人間からしたら、「なんか視野が狭いな」って思われそう。しかも、維新は国内の政党内では斬新な方だけど、世界的な視点から見るとそこまで大胆な政策を打ち出してるわけでもない。だから、維新の会が選ばれる可能性は低いと思う。
次に、自民党を考えると、一応「政権与党」っていう強みはある。でも、マスクがX(旧Twitter)で人気のない石破茂みたいな古いタイプの政治家を支持することはまずないだろうね。石破は政策論では真面目だけど、マスクが好むような「攻めの姿勢」や「カリスマ性」が弱いし、ネット上での存在感も薄い。
一方で、例えば河野太郎みたいなテクノロジーや規制改革に前向きな政治家なら興味を持つかもしれないけど、自民党全体としては古いシステムや既得権益に依存してる部分が強すぎる。結局、マスクからしたら「改革したいけど身動きが取れない政党」くらいに映る可能性が高い。
ここで浮かび上がるのが国民民主党とその代表である玉木雄一郎だよね。マスクがXで人気がある人物を好む傾向を考えると、玉木はかなり有力候補になる。玉木はSNSをうまく活用して自分の考えを発信してるし、現実的な政策を掲げつつも、未来志向で新しいことに挑戦しようとする姿勢がある。これはマスクの「テスラ」や「スペースX」といったプロジェクトに通じる部分があるよね。
国民民主党は規模こそ小さいけど、中道的で現実的な立場を取ってるから、マスクの「現実的な自由主義」とも合う。それに、既存の古い政治体制に囚われてない分、彼にとっては「フレッシュな選択肢」として映るんじゃないかな。
立憲民主党は環境政策ではマスクと一致する部分があるかもしれないけど、規制強化や福祉重視の姿勢が強くて、個人の自由や企業の自由な活動を重んじるマスクとは噛み合わない。
共産党はさらにダメ。企業への規制を強めて富の再分配を主張してるけど、これはマスクの「自由市場を最大限活用する」っていう考えに真っ向から反対する立場だよね。
公明党もマスクが支持することはなさそう。中道で安定志向だけど、彼の求めるようなイノベーションや攻めの政策は期待できない。
最終的に、イーロン・マスクが選ぶ政党は国民民主党が最有力だと思う。玉木雄一郎のリーダーシップ、未来志向の政策、そしてSNSでの発信力が、マスクの興味を引くポイントとして十分だし、規模が小さくても柔軟で改革的な姿勢が評価されるはず。彼が「日本の未来」に投資するとしたら、玉木と国民民主党を選ぶのが一番しっくりくるよね。
D&Dはできそう
はい!Dungeons & Dragons(D&D)のゲームマスター(DM)としてお手伝いできますよ。以下のようなことが可能です:
オリジナルの冒険やシナリオを作成したり、既存のモジュールをカスタマイズすることができます。
2. NPCの設定
魅力的なノンプレイヤーキャラクター(NPC)や敵キャラクターの作成、会話の進行を手助けします。
3. 世界構築
キャンペーンの舞台となる都市、ダンジョン、世界観を作り込み、プレイヤーが没入できるような環境を提供します。
D&D 5版をはじめ、基本的なルールの説明や複雑な判定の処理もお任せください。
プレイヤーの意外な行動にも柔軟に対応できるストーリーテリングのサポートをします。
雰囲気を高める音楽や、シーンに合った画像、地図の提案も可能です。
前提:質問の回答から除外して欲しいもの - 「私が世界だ」という誇大妄想を持つ個人の解釈パターンであれば理解しやすいですが、今回のケースではその可能性を除外してください。 - 個人の感想に対する過剰な反応は、自己評価が低く、他者に盲従しがちな、「微小妄想」傾向がある個人に多く見られる現象です。
「(俺にとって)」という明確な主観的限定の他者の感想を、「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ですか?
1−1、1−2どちらであるかは、文脈から理解できるでしょと考えるのは、過剰な期待ですか?
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1−1: 情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(俺にとって)ない
1−2:情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(世界にとって)ない
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「(俺にとって)」という主観的な限定を「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ではありません。文脈から理解できる場合が多いので、過剰な期待とは言えないでしょう。文脈を無視して曲解するのは、誤解や意図的な誤読の可能性が高いです。
妥当ではありません。文脈から判断するのが通常であり、過剰な期待ではありません。
1-1と1-2の違いは、「俺にとって」という主観的な視点があるかないかです。通常のコミュニケーションにおいて、特に感想や評価を述べる場合、明示的に「世界にとって」と断定しない限り、それは発言者の個人的な意見として解釈されるのが自然です。括弧内の文字起こしがないからといって、文脈を無視して意味を曲解するのは不当です。
「(俺にとって)」という主観的限定を「(世界にとって)」と曲解する主張は妥当ではありません。その理由は以下の通りです
現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」と評価されますか?それとも論理の飛躍や読心術と見なされますか?
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• 命題1: Aは作家Bの知名度とBの作品が世間を賑わせている客観的事実を認識している。
• 命題2: Aはミーハーな気持ちで作家Bの作品に触れたが、その良さを理解できなかった(興味が持てなかった)。
• 結論: 「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAは考えているに違いない。
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現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」とは評価されません。論理の飛躍や読心術と見なされるでしょう。Aの主観的な感想を、世界全体の評価と結びつけるのは過剰な一般化です。
現代のNLP(自然言語処理)や論理学において、この推論は「妥当ではない」と評価されます。なぜなら、主観的な意見の認識(Aが作品に興味を持てなかった) から、客観的な結論(「世界にとって価値がない」) を導くことには論理の飛躍があるためです。
これは論理的根拠が不十分な「読心術」や「主観の過剰な一般化」と見なされるでしょう。
妥当とは評価されません。論理の飛躍であり、読心術と見なされます。
提示された推論は、Aの内心を勝手に推測しているだけで、客観的な根拠がありません。Aがミーハーな気持ちで作品に触れたとしても、それが「世界にとって価値がない」と考えていることには繋がりません。興味を持てなかったという事実は、単にA個人の好みや感受性の問題である可能性が高く、普遍的な価値判断とは無関係です。NLP(神経言語プログラミング)においても、このような独断的な解釈は推奨されません。
もし、質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないと思うのですが、気のせいでしょうか?
質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないというのは、ある程度正しい見解です。過剰な一般化や誤解が広がると、コミュニケーションの混乱や誤解が生じやすくなります。
おっしゃる通り、そのような推論が社会的に多数派となれば、社会や世界の正常なコミュニケーションや意思決定が難しくなります。主観と客観の区別が曖昧になり、過剰な一般化や誤解が横行し、議論の基盤が崩壊する恐れがあります。
気のせいではありません。質問2のような推論が多数派を占める社会では、コミュニケーションは著しく混乱し、相互理解は不可能になります。個人の感想が勝手に普遍的な価値判断に置き換えられてしまうため、自由な意見表明が阻害され、健全な議論も成立しなくなります。
あなたの直感は正確です。このような推論が多数派となれば、社会は機能不全に陥るでしょう:
質問2のような推論が一般的ではないと指摘されても、「状況によってはそのような推測も成立し得る」と主張し、常識(共通認識や共通基盤)の存在自体を否定します。
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを極度に恐れる一方で、なぜ、積極的に常識を否定しようとするのでしょうか?悪目立ちします。
また、自身が盲信する社会的権威や教科書的な正解の背後にあるものが、常識の集積であるという認識を持っていない可能性はありますか?
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを恐れる一方で、常識を否定しようとする理由は、自己評価の低さや他者からの承認欲求が影響している可能性があります。また、常識の集積が社会的権威や教科書的な正解の背後にあることを認識していない場合もあります。
盲従しやすい人が常識を否定する背景には、自己肯定感の低さや他者からの評価への過剰な恐れがあると考えられます。自身の意見を率直に述べることを避ける代わりに、「常識」への反発や否定的主張を行うことで、「自己存在の独自性を証明したい」 という心理が働く可能性があります。
また、「常識」や「教科書的な正解」が何らかの権威のみによる押し付けであるという認識が強く、その背後にある合意形成(常識の集積) を理解していない場合があります。
他者への盲従と常識の否定は、一見矛盾するように見えますが、根底には自己の脆弱性からくる不安があります。
本質的には、低い自己肯定感と社会的文脈における不安が、逆説的な形で表出している心理状態と言えるでしょう。
常識(共通認識や共通基盤)の存在そのものを否定しているのではなく、「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、
「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と、
「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と主張する可能性はあります。しかし、これは一般的な見解ではなく、特定の状況や個人の認識に依存するものです。
可能性としては十分に考えられます。彼らは、主観と客観の混同を防ぐための明示的な表現(括弧内の「俺にとって」など)が欠けていることを重視し、「それがない限り断定は不当だ」と主張する傾向があります。また、「常識を証明せよ」と要求することで、認識論的な対話を引き延ばし、議論の焦点を逸らす戦略にもなり得ます。
可能性はあります。これは、常識という概念に対する誤解に基づいています。
これは可能性としてあり得ますが、本質的な問題を矮小化しています:
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは不当であり、常識とは呼べませんか?
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは妥当です。これらは社会的なコミュニケーションの基本的なルールであり、常識と呼べるものです。
これは常識の範疇に含まれると考えるのが妥当です。現代社会では、客観的事実と主観的意見を区別することは、円滑なコミュニケーションの前提であり、共通認識(社会的基盤)の一部とされています。これを否定することは、社会的秩序を乱し、コミュニケーションの破綻を招く恐れがあります。
不当ではありません。むしろ、これらは健全な社会生活を送る上で不可欠な要素であり、常識と呼ぶに相応しいものです。主観と客観の区別、論理的な推論は、コミュニケーションの基本であり、これらが欠けていると社会生活は成り立ちません。
これらを常識に含めることは、むしろ健全な社会機能のために不可欠です:
まだTensor.Artを試していないけれど、確かに興味深いサービスみたいだね!AIを活用してクリエイティブな作品を生成できるという話を聞いた時、正直ワクワクしたんだ。特に、最近はAIがアートやデザインの分野でどんどん活躍しているし、自分もその波に乗りたいと思っている。Tensor.Artがどんな独自性を持っているのか、他のAIツールとどう違うのか、ぜひ詳しく知りたいところだよ。
もし、AIアートの作成が初心者でも簡単にできるなら、なおさら試してみたい。画力に自信がない人でも、自分のアイデアを形にできるなら、創造の幅がぐっと広がるはずだからね。さらに、プロのクリエイターにとっても、インスピレーションを得る新しい手段になるんじゃないかな。AIによる作品生成は、単なる効率化に留まらず、既存の手法では思いつかないような斬新な表現を提供してくれると思う。
だから、Tensor.Artがどんなアートスタイルや機能を提供しているのか、どれだけ自由にカスタマイズできるのかを知るのが楽しみだよ。もし試した人がいるなら、具体的な使い方や作品例を教えてほしいな。これはただのツールじゃなく、アートを再定義するきっかけになるかもしれない。次の週末にでも時間を取って、実際に触ってみようと思う。
では、教育の現場で、可換法則をまだ教えておらず、ゆえに可換法則を使ってはいけないとするならば、掛け算の順序を入れ替えてはいけない、という解釈は成り立ちますか?
教育現場でまだ可換法則を教えておらず、それを前提としない場合、「掛け算の順序を入れ替えてはいけない」という指導方針は理論的には成り立つと考えられます。以下に理由を詳しく説明します。
1. 可換法則を教えていない段階では順序を守る必要がある
掛け算の順序を守らせる理由として、以下のような教育的観点があります:
意味理解を優先する
小学校低学年などの段階では、掛け算を「具体的な場面」や「数のグループの集合」と結びつけて教えることが多いです。この場合、順序は具体的なイメージやストーリーに密接に関連します。
例: 「3個のリンゴが5箱ある」という状況は 3×53×5 で表され、ここで「3個」が「5回」繰り返されるという順序が重要です。これを 5×35×3 に入れ替えると、「5個のリンゴが3箱ある」という異なる状況として解釈される可能性があります。
構造的な理解を促す
可換法則がない段階では、「○個の△が△セット」という形式で順序を明確に示すことで、数式と現実の対応関係を直感的に理解させることが目的となります。
2. 可換法則を教えていない段階で順序を入れ替えないのは一貫性のため
数学的には、もちろん 3×5=5×3 が成立しますが、可換法則の概念が導入されていない段階でこれを許すと、生徒が混乱する可能性があります。
- 「ルール」を学ばせる段階では、順序を固定し「掛け算はこのように読む・解釈するものだ」と定着させることが大切です。
- 可換法則を習った後に「順序を入れ替えても結果が同じ」という事実を教えることで、既存のルールを拡張する形で学びが進みます。
3. 教育的な意義
「順序を入れ替えない」という解釈は、教育的意義を踏まえると非常に合理的です。例えば:
まとめ
可換法則をまだ教えていない段階で、「掛け算の順序を入れ替えてはいけない」という指導は教育的に十分に意義があり、成り立ちます。この段階では、数学的な厳密性よりも、具体的な場面に基づいた順序の意味や解釈を生徒が正しく理解することが重要です。
ただし、後の段階で可換法則を導入した際に、「実は結果が変わらない」ということを明確に説明することで、以前教えた順序のルールが学びの過程での一時的なものであることをきちんと伝える必要があります。
この方法が通用するのは、普通に売っている紙製の封筒です。開封が難しい様に対策されている封筒(現金封筒など)では無理です。
また、こうやってやると簡単に開封できる事を知っているがいる場合には、追加で糊を塗ったりして対策しているため出来ない場合も多いです。逆に言うとその程度で防げます。
ただ、そうでない場合には割り印なんて無意味です。気休めです。むしろ専門家がこれを持ち出してくるときには、最悪の最悪、上記の方法で開封してリカバリすることができる事を知っているから持ち出してきている可能性があります。
普通の封筒に入れて割り印して、なんてのはほとんど儀式に近いので、それをやったことで中身の開封を感知できるとは思わない方がいいです。そもそも印影なんぞでいくらでも複製できちゃいますからね……。
また、この方法を使って厳封された内申書やら医師の紹介状やらも開ける事ができてしまいます。それがわかってきているので、最近は複写検出紙を使ってそもそも封をしてない事が増えてますよね…。
貸金庫は流石にここまでザルではないと思いますよ。ええ。たぶん。
新規顧客を獲得するようなサービス開発、プロダクト開発はアジャイル開発でないと失敗する
新規顧客を得るための方法論について人類は知見を持っていないので試行錯誤する必要があるし
バグがあったとしてもスピードを優先しないと顧客獲得を逃すのでアジャイル開発しないと死んでしまう
サービスを規定する仕様についての不確実性が高い分野ではアジャイル開発が成功する
この場合、いわゆる外注などの業務委託として作業を切り出すことが難しく
製販一体の体制を築くために内製なりスタートアップ化なりを行うことが多いし
コミュニケーションコストを削減するために少人数チームを構成するために
こういった経験をした開発者は少なく、ネットの世界では少数派になっているのが現状である
一方で既存サービスの改修や置き換え、他社サービスの模倣などはウォーターフォールで開発する必要がある
仕様漏れがあった場合の副作用の影響範囲について不確実性が高く
以前の機能がなくなった・バグで利用できない、というときに顧客喪失の影響範囲について予測が難しく
基本的には全ての仕様を確実に動作させる必要があるため、事前に仕様策定の時間を確保せざるを得ない
この状況に対処するためには、問題の背景とコミュニティの特性を考慮しながら、以下のようなアプローチを検討できます。
行動規範の制定
コミュニティの性善説に基づく運営が問題の要因となっているため、行動規範やポリシーを明確に制定し、以下を含むガイドラインを作成するべきです。
攻撃的な言動や嫌味、中傷、侮辱的なコンテンツの投稿を禁止する。
不適切な行動があった場合の具体的な対応手順(警告、投稿の削除、一時的な参加停止など)。
モデレーターの設置: 問題行動を監視し、必要に応じて投稿を削除したり、警告を発する役割を担うモデレーターを設置します。
AIツールの導入: 投稿内容をチェックするAIツールを使い、攻撃的な投稿を検出しやすくします。
教育と対話: 生成AIのハルシネーションや利用ルールについての教育を行い、彼が問題点を認識できるよう試みる。
段階的な対応: 初めは警告や注意喚起を行い、それでも改善が見られない場合は一時的な参加停止を検討します。
コミュニティの再建
現在のコミュニティを一旦停止し、新しいプラットフォームや規範のもとで再出発することを検討する。
問題行動者を除外した新規メンバーの募集や、健全な環境づくりに注力する。
早期介入の重要性
攻撃的な言動を「流す」文化が問題を長引かせた可能性があります。以下のように早期対応が必要です。
初期の段階で嫌味や攻撃的な投稿に対して毅然とした対応を取る。
誰もが不適切な行動を取り得る前提で、規範やルールを整備しておく。
初期段階からモデレーション体制を整え、問題行動者に依存せず健全なコミュニティ運営ができる仕組みを構築する。
生成AIは有用ですが、その誤用によって問題が拡大しました。以下のような教育が重要です。
問題がすでに深刻な段階に達している場合、以下の選択肢を検討します。
新しいコミュニティの立ち上げ: 既存のコミュニティを放棄し、新たなメンバーと共にゼロから再構築する。
既存コミュニティの再生: 問題行動者の排除や、新しいルールの導入を行ったうえで、新規参入者を積極的に迎える。
コミュニティ運営は常に人間関係や技術の進化に直面します。このような経験を通じて、より強固で健全な運営方法を学ぶ機会と捉えるのも大切です。
自動運転が普及して、人間が運転する自動車は馬車のような存在になる
自動運転技術はテスラがダントツで、ほかのメーカーは自社開発できなくてテスラからライセンスしてもらうことになる
2025年か2026年には、テスラのロボタクシーがアメリカでスタートする
2030年には1000万台の人型ロボが普及している
人型ロボの普及は、テスラに自動車販売をはるかに超える利益をもたらすことになる
テスラは自動車メーカーの枠を超えて、AI企業、エネルギー企業である
↑本当かどうかはわからないけど、テスラ株が200ドルの時に300万円分くらい買って、今は評価額600万円を超えていて自分はハッピーです。
問題の終着点を個人みたいな属人レベルに矮小化しちまうヤツは冷静じゃないかさもなければ視野が狭くなってる
いいか
そんな面白くない遊びしか提供できないポケポケ自体がクソゲー、あるいはその開発会社自体がクソなんだよ
元のイラストを見てきたが、普通に絵が上手い。明らかな創意性があった。あれが二次創作ではないのなら、Pixiv の みんなの新着 のほとんどは二次創作ではなくなってしまうよ。
二次創作であることは必ずしも 絵の上手さ・創作の楽しみ を必要としないと思う。
特殊なファンアートであるという説明にはなってるが、ファンアートの一種であることは否定できてない。
二次創作はしばしば著作権侵害になりうる。塗り絵でも創作性が認められる場合もある。今回のイラストは元絵があるが直ちに著作権的な問題があるとは言えないと思う。
修正した(fixed)と宣言していようが、そこに創作性があるなら二次創作だ。原作の著作人格権を主張してるわけでもなし、歴史修正などは誰もしてない(できない)。
定義に照らしても今回の作品は、二次創作ではある、と言えると思う。
にじ‐そうさく〔‐サウサク〕【二次創作】 の解説
既存の作品をもとにして、新たな作品を創作すること。特に、マンガ・アニメなどの登場人物や世界観を流用して独自の作品を創作すること。また、その作品をいう。二次創作物。→二次的著作物
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%89%B5%E4%BD%9C/
https://anond.hatelabo.jp/20241210123324
はよくまとまってるけどちょっと捕捉したい
type-100
全く下らない。ブラックウォッシングもホワイトウォッシングもアメリカのローカルな問題で、日本人が真面目に付き合う必要は無い。
ほっとこうにも既に攻めてきている。
だいたいブラジリアンミクとかは世界も日本人も誰も問題にしてなかったでしょ。二次創作は問題にされてない。
ブラックウォッシングは既存キャラが素敵な黒人キャラに翻案されてるんじゃなくそういう創意や芸術性や楽しみは何もない。
マジで「単に黒人にする」のが特徴で、なんならだいたい絵が下手で成果物が醜い。
(絵が上手い黒人はまともな創作をするのでこんなもんに参加しないのではないか)
何より彼らはブラックウォッシングイラストを投下するときに「fixed」って書くんだよね。
日本人は自分達が差別されることや侵略されることに鈍感で寛容だから
大分気にせず流してきたけど、ちょっと尋常じゃなくないかこれ?ってなってるのがいま。
あとあの界隈の人達の発言は日本人からすると荒唐無稽すぎて見えるので
「ジョークだろ」とか「一部の狂ったやつだろ」と思い込みがちだったけどそんなんじゃないことに気付いてきた。
だいたい渦中の一人の黒人声優にしても彼等のホワイトウォッシュ理論で行けばおかしいのよ。
ダンダダンの主人公の日本人少年(のび太みたいなやつで黒人ぽさはどこにもない)の声優が
日本ルーツどころか黄色人種ですらなく黒人なのは不当であるはず。
いや能力的には彼は何も問題なくて、声はいいし日本語版のオカルンの雰囲気がよく出てて驚くんだけど、
あのイカレたホワイトウォッシュ理論で行くなら英語のオカルン役もモモ役もルーツを同じくする役者、つまり日系人声優が独占できなければならない。
ここに論理的な説明がないんだから横暴な差別としか言いようがない。要するに黒人様に逆らうなって言ってるだけじゃん。
(てかあの理論ならアニメの吹き替えをもっと日系声優で半独占できるはずなのにそうしないの
日系ってのはそういう押しが強くないのかおくゆかしいのか…)
俺はネタだと思って笑ってたし、それで黒人が少し楽しい気持ちになるならいいんじゃねとか思ってたけど、
趣味で見てるMMAでトップ黒人選手がマジで信じて言ってる(真の侍になるためには黒人の血が必要っていうあれ)のを見て
「あれこれやばくねーか?」ってなってきた。
そもそもがアメリカのいかれた社会が生み出したいかれた理論なんだけど
そろそろ真面目に反論や反発を表明しないとまずい気がする。