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「スケール」を含む日記 RSS

はてなキーワード: スケールとは

2024-12-19

anond:20241219152516

杞憂という言葉は、文字面の単純さを超えて、思索反省対象となるべき哲学的文化的心理的深淵を秘めている。それは「不必要心配」や「ありもしないことへの過剰な恐れ」といった単なる辞書定義を超え、人間存在のものに内在する不安構造や、思考限界を暗示する概念である。この言葉起源を辿りつつ、その背後にある多層的な意味を探ると、杞憂という語は一つの寓話的なシンボルとして、私たち精神的地平を照らし出す。

語源:杞国の憂慮、あるいは空の崩壊寓話

杞憂」は中国古代典籍列子』の「天瑞篇」に由来する。物語舞台は杞(き)という小国である。そこに住む一人の男が、「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と絶えず恐れていた。その恐怖のために、彼は食事も喉を通らず、夜も眠れなかったという。この杞の男を見かねた人が、「天とは何か」と理性的説明を施す。曰く、「天は空気の層であり、その性質からして崩れ落ちることはあり得ない」と。しかし、この説明を聞いた杞の男の恐怖は一向に収まることがなかった。彼は依然として「では、大地は崩れるのではないか」と新たな恐怖を生み出したという。

寓話構造:虚空と恐怖の連鎖

この逸話を素朴な道徳的教訓や人間の愚かさの象徴と捉えることは容易だが、それはこの物語本質単純化しすぎるだろう。杞憂の核心には、存在論的な問いが潜んでいる。すなわち、「我々は何を恐れ、そしてその恐れの根拠は何か」という問題である

 

杞の男が恐れていたのは、「天が落ちる」という一見荒唐無稽事態であったが、彼の恐れの本質は、物理的な事象に対するものではなく、「秩序が崩壊することへの恐怖」だったと言える。天と地というのは、古代中国宇宙論では根本的な秩序の象徴である。天が落ち、大地が裂けることは、自然界の崩壊のみならず、存在のものが瓦解することを意味する。したがって、この恐怖は単なる無知や杞の男個人の愚かさに還元されるものではなく、人間が持つ「根源的不安(existential anxiety)」の表出である

杞憂の背景にある象徴性とメタファー

杞憂という概念には、複数レベルでのメタファーが隠されている。そのいくつかを抽出しよう。

空(天)が落ちるという恐怖は、現代的に翻訳するならば、我々が宇宙自然の安定性を信頼することの脆弱さを示している。宇宙論スケールで考えると、杞憂ブラックホール蒸発や熱的死といった現代物理学の概念に通じる、秩序の不安定性に対する漠然とした恐れとさえ言える。

大地が裂けるという杞の男の第二の恐怖は、社会文化の基盤が崩壊することへの比喩とも読める。歴史的には、革命戦争経済的崩壊予兆として、こうした恐怖が群衆心理支配した例が数多く存在する。

杞憂本質的な特徴は、恐怖が「自己生成的」である点にある。杞の男が「天は落ちない」と説明されてもなお「大地が裂ける」と新たな恐怖を抱いたように、恐れというのは理性による説明をすり抜け、次々と新しい対象を生み出す。この現象は、心理学で言うところの「一般不安障害(GAD: Generalized Anxiety Disorder)」に近いものであり、人間が恐怖を必要とする存在であることを暗示している。

杞憂文化的解釈制御不可能性との対峙

杞憂」という言葉文化的意義は、人間が「未知」や「制御不可能性」に直面した際の反応を考える契機を提供する点にある。杞の男の恐れが批判されるのは、それが非合理的無用であるからという理由に加え、その恐れが「何の行動も生み出さない」からだ。しかし、この逸話現代人にも重要な問いを投げかける。我々が杞の男と同様に、漠然とした不安に囚われている時、それを「無駄」と切り捨てるだけでよいのだろうか?

 

たとえば、気候変動やAIの台頭といった現代課題を巡る不安の多くもまた、杞憂として一蹴されることがある。しかし、それが真の杞憂なのか、それとも未来への警鐘なのかを判断するには、慎重な検討必要である杞憂は時として、無意味心配ではなく、行動を促す予兆でもあり得るのだ。

結論杞憂哲学的教訓

杞憂」とは、表面的には「不必要心配」を示すが、その奥には、不安という人間の根源的条件」が反映されている。杞の男の恐怖は、無知や愚かさの象徴であるだけでなく、存在根底に潜む不確実性、そして我々がそれにどう向き合うかを問う寓話的な警句でもある。

 

言い換えれば、杞憂とは、我々が避けて通れない「虚無」と「秩序崩壊への恐れ」の象徴であり、それを通じて、不安にどう対処すべきかという哲学的実践的な問いを私たちに投げかけていると言えるだろう。

2024-12-18

イーロン・マスク日本政党献金するとしたらどこか

イーロン・マスクイギリス極右政党リフォームUK献金しようとしてるって話があるけど、この勢いで日本政界にも進出してきそう(日本法人経由で献金すればいいだけだし)。ではイーロン・マスク日本のどこかの政党献金するとしたらどこか?これを考えるとき、彼の特徴として「イノベーション好き」「規制嫌い」「個人主義重視」「クリーンエネルギー推進」というポイントが浮かぶよね。それを踏まえて各政党を見ていく。

 

まず、「日本維新の会」は規制緩和や行政改革を掲げてるから、表面的にはマスクと相性が良さそうに見える。でも、実はここに落とし穴があるんだよね。維新の会って、大阪地盤にしたローカル政党っぽい雰囲気が強いし、全国的ビジョンというより「大阪ファースト」みたいな印象が拭えない。マスクみたいなグローバルスケールデカ人間からしたら、「なんか視野が狭いな」って思われそう。しかも、維新国内政党内では斬新な方だけど、世界的な視点から見るとそこまで大胆な政策を打ち出してるわけでもない。だから維新の会が選ばれる可能性は低いと思う。

 

次に、自民党を考えると、一応「政権与党」っていう強みはある。でも、マスクがX(旧Twitter)で人気のない石破茂みたいな古いタイプ政治家を支持することはまずないだろうね。石破は政策論では真面目だけど、マスクが好むような「攻めの姿勢」や「カリスマ性」が弱いし、ネット上での存在感も薄い。

 

一方で、例えば河野太郎みたいなテクノロジー規制改革に前向きな政治家なら興味を持つかもしれないけど、自民党全体としては古いシステム既得権益依存してる部分が強すぎる。結局、マスクからしたら「改革したいけど身動きが取れない政党」くらいに映る可能性が高い。

 

ここで浮かび上がるのが国民民主党とその代表である玉木雄一郎だよね。マスクがXで人気がある人物を好む傾向を考えると、玉木はかなり有力候補になる。玉木はSNSをうまく活用して自分の考えを発信してるし、現実的政策を掲げつつも、未来志向で新しいことに挑戦しようとする姿勢がある。これはマスクの「テスラ」や「スペースX」といったプロジェクトに通じる部分があるよね。

 

国民民主党は規模こそ小さいけど、中道的で現実的立場を取ってるからマスクの「現実的自由主義」とも合う。それに、既存の古い政治体制に囚われてない分、彼にとっては「フレッシュ選択肢」として映るんじゃないかな。

 

可能性が低い政党

逆に、マスク絶対選ばないであろう政党も明確だよね。

 

立憲民主党環境政策ではマスクと一致する部分があるかもしれないけど、規制強化や福祉重視の姿勢が強くて、個人自由企業自由活動を重んじるマスクとは噛み合わない。

共産党さらダメ企業への規制を強めて富の再分配を主張してるけど、これはマスクの「自由市場を最大限活用する」っていう考えに真っ向から反対する立場だよね。

公明党マスクが支持することはなさそう。中道で安定志向だけど、彼の求めるようなイノベーションや攻めの政策は期待できない。

結論

最終的に、イーロン・マスクが選ぶ政党国民民主党が最有力だと思う。玉木雄一郎リーダーシップ未来志向政策、そしてSNSでの発信力が、マスクの興味を引くポイントとして十分だし、規模が小さくても柔軟で改革的な姿勢評価されるはず。彼が「日本未来」に投資するとしたら、玉木と国民民主党を選ぶのが一番しっくりくるよね。

2024-12-16

過小評価Chageのなんかすごい曲6選

anond:20241216024724 

を読んで、チャゲは本当に木根尚登とならぶ過小評価ソングライターだと長年思ってるので、個人的に感じる名曲ちょっと彼を見る目が変わりそうなのをいくつか紹介したい。

あくま自分が好きな曲なのと、自分ちゃんチャゲアスを聞いてたのは80年代終わりから90年代前半くらいまでのごく短い時間(つまり流行ってた時代ミーハーファン)なので、コアなファンは「そんなカスみたいなのばかりあげんなよ」みたいな感想がでるかもしれないですが、まあ大目に見てほしいです。解散以降のソロ曲は一切知らないし。

これを読んで、チャゲにたいする「なんかアスカの隣でハモってるちょっと面白い人」くらいのイメージちょっと変わったらうれしいです。

 

基本的チャゲは凝った曲(メロディラインアレンジが変な曲)や大きい曲(壮大なサウンドスケープを感じさせる曲)を作ったときに異様に力を発揮するタイプソングライターです。それはたぶん彼の背景にビートルズUKロックがあるのが要因かなと思う。そういうと「アスカのほうが大きい曲強いじゃん、「太陽と誇りの中で」とか「BIG TREE」」」とか」とファンは言いそうですが、アスカJ-POP的な大きい曲に対して、チャゲスタジアムロック的な大きい曲を作るのが得意な人です。本人のパブリックキャラとだいぶ違って、それは木根とも共通すると思います

 

今回は「大きい曲」 「変な曲」 「ふつうに良い曲」を2曲づつ挙げていきます。どの曲も今やサブスクで聞けるようになりましたので、ぜひ聞いてほしいです。

1. ロマンシングヤード

大きい曲その1。チャゲ曲でのファンの間で代表曲といえばこれだと思います。とにかくでかいタイトルからしてでかいイントロアタックといいドラムといいでかい。そこからぐっと入るUKロックのようなAメロチャゲアスっぽいBメロという展開を繰り返しながら、ぐっとためてためて爆発するサビ。歌いやすくグッとくるこのサビのスケール感は、U2のWhere The Streets Have No NameとかOasisLive Foreverとかとためをはれるんじゃないかとすら思う。間奏での掛け声がものすごくダサいがそのダサさも含めてスタジアムロック名曲ライブで聞くとなんとなくいいものを聞いたなと誰もが思うんじゃないでしょうか。それくらいのパワーがある曲。

 

2.WINDY ROAD

大きい曲その2。これはチャゲのサイドユニット Multi Maxのもの。まあチャゲアスのライブでもけっこうやってた記憶があるのでここで取り上げたい。ロマンシングヤードアッパーな感じの大きな曲なのに対して、こっちはミドルな大きな曲。まあほロマンシングヤード兄弟なのだが、スケール感はこっちのほうが上。なんとなく環境問題意識したっぽい歌詞はあの時代ですな。サビがとにかく気持ちいいのでカラオケで歌ってても楽しい曲。

 

3.CATCH & RELEASE

変な曲その1。SAY YESが入っていてむちゃくちゃ大ヒットしたTREEに入っていたのでたぶん聞いたことある人もいそうな曲。JPOPによくあるファンクっぽい曲なのだが、エフェクトのつけ方とかすごく気持ち悪くてかっこいい。当時釣りに凝っていたチャゲが当時はまだあまり市民権のなかったCATCH & RELEASEというワードをもとに恋愛歌詞にしたものAメロのすっ飛ばしあいがすごくて、ちょっときれいな感じのBメロになったと思ったらドキャッチーなサビになる。全編でアスカとのボーカルコンビネーションが堪能できる。

 

4.Break An Egg

変な曲その2。これもPRIDEに入ってるので知ってる人はそれなりにいそう。ちょっとエスニックな感じのイントロにやたらとエコーをかけたアスカの声が入ってくる。ところがサビで転調した瞬間に爽快なメロディになる。AメロBメロとサビの印象が全然違うので、サビの爽快さがさらに際立つ。歌詞とぴったりとあってるようにも思うしなんならアルバムジャケとぴったり合ってる。中学生のころに初めて聞いてなんだこれ!と聞き直したくらいインパクトのある曲。

 

5. NとLの野球

ふつうに良い曲その1。普通に良い曲ももちろんある。これは元増田言及していた曲でriverカップリングなのでそこそこ知られてるかもしれない。こういうアーティスト自分過去を振り返る曲はいい曲になりやすいよね。ちょっとサビの感じが長渕剛っぽいのが好き嫌い分かれそうだが僕は割と好み。というかチャゲも歌い方を長渕に寄せてる気がするし、何度か聞いてるとだんだん長渕っぽいなと思えてきて、長渕の声で脳内再生できてくる。歌の題材が福岡なせいだろうか。

 

6. 今日は…こんなに元気です

ふつうに良い曲その2。チャゲ曲なのにほとんどをアスカが歌ってる不思議な曲。チャゲアスが得意なミディアムバラードだけどとにかく全部よい。メロディ、歌い方、歌詞アレンジ、全部完璧。しいて言えば、間奏のアスカモノローグがいらないくらい。渋谷スクランブル交差点テーマにしてるらしいがイメージがありありと想起できる。AメロがほぼサビなのだがこのAメロがものすごくよくできてる。歌詞と曲の一体感に、全然違うがTM NETWORKStill Love Herと近さを感じるのはなぜだろうか。僕はいまだに渋谷スクランブルで信号待ちをしているときにこの曲のサビが脳内で流れ出す。

 

ということでザクッと書いてみました。よろしければサブスクででも聞いてみてください。

東大生だがバカで辛い

表題の通り。東大生だがバカで辛い。

両親から聞く話では、もともと言葉が遅い方だったそうだ。幼い頃には心配をかけたらしい。幼い頃の自分を育てていた両親は、自分を混じりっけなしののバカだと思っていたに違いない。

小学校に入り、テストで良い点を取り出すと、案外頭が良いぞとなって中学受験を受けた。

といっても西日本田舎から偏差値50もいかないところだ。開成や灘みたいな魔境とはレベルが違うし、平凡な子供でも塾に行けば十分受かるくらいの学校だ。

小学五年生から塾に行って勉強し、落ちた。

公立中学校でもテストの点は良かった。コツコツやってたら落ちた中学トップ層くらいの成績になった。

しかし、優等生らしい生徒だったかというと、怪しい。普段挙動愚鈍すぎて頭が良いとはにわかに信じられなかった、と当時の同級生がよく語る。高IQADHDありがちな騒がしい馬鹿らしさではない。「愚鈍」だ。

高校でも同じような様子が続いた。成績は良いけどバカっぽい、というのがいつもの評価。だがそれくらいがキャラ付けとしても気安くて、ストレスなくやっていた。

あとは特にとりたてて話すこともない。普通に頑張ってたら普通に東大に受かった。

それまでの人生では、自分バカさをなんとなく理解しつつ、でも深刻に捉えることはなかった。だって大抵のことは深く考えないでいられた方が楽しいからね。なのに成績が良いって、良いとこどりじゃん、とも思ってた。

今思えば、周囲との知能レベルが大きく乖離していなかったから気楽だったんだろうな。

東大では、思いっきり周囲とのギャップに苦しむことになる。

塾が嫌いだった。成績至上主義蔓延教室内で、生徒たちは心身を削って過剰に勉強し、問題児であるはずの自分先生は怒らないどころか贔屓する。歪んだ笑顔に嫌気がさす。

東大はそんなところだった。

もちろん、成績で優劣をつけようなんて幼稚なこと、東大生といえどもしない(嘘。一部の人間はする)。ただ、塾通いで内面化したメリトクラシーは、成績が評価基準たりえなくなった後に人格と融合しちゃうみたいだ。

東大生の好きなもの=「同じ知的レベルで話せる人」。つまり自分ではない。教養はある方だと思うが、当意即妙な返しはまったくできない。

それからというもの、優秀だったり意識が高い東大生からほとんど初対面で難色を示される。そして、なるほど怠惰なやつなんだな、と思われてしまう。いや結構勤勉ちゃんなんですが。

話を東大に絞りすぎたかもしれない。多分、東京という場所がそうなんだろうと思う。

アメリカよりもずっとスケールは小さいけど、これも人種のるつぼだ。いろんな種類の人間が集まる。だからこそ、人より優れた長所が目立ち、格差生まれる。

しか若者他者評価に敏感だから(自分ももっと一丁前に扱われたいと思ってしまうし)、他人自分比較せざるを得ないんだろう。

自分が、見下される対象になったのをやんわりと感じる。あるいは、性格の良い人だったらかわいそうとか、大変そうとか思っているのかもしれない。

ふと、自分の今の苦しみは、中学高校自分の隣の誰かが経験していたものなのかもしれないと思った。

いたよね。能力が低くてバカにされてる人。

その人たちは場所が違えば輝けたかもしれないし、さらにいえば別に劣っているからといって見下される必要はどこにもない。

あの人たちが元気でやってるといいなあ、と思った。

2024-12-14

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

2024-12-10

anond:20241210014044

デジタルスケール持参して皿が来る度に計測するといいんじゃね

2024-12-09

anond:20241209103916

たぶん不可能にどれくらい近づくかには、スケール関係してて

 

対象が増えて多数になればなるほど、

多数の中にはごく少数、無限配慮をあつかましく求めて来るアホが混じるので、

そいつの為に、ここまでしか配慮しませんっていうラインを引くことになる。

官公庁とか大規模イベント運営とかはこうだよね。

 

でも書き込みしてる個人、友人グループ、家庭、とかいスケールだと

まあ配慮ぐらい完璧にできてないほうが基本おかしい。

すりあわせがガチ大変なら、その相手との付き合い自体の話になるしね。

人工知能人間を超えるとか超えないとか言ってて、もう単純作業では人間が敵う相手じゃない

では管理職的にAIマネジメントをすべきか?となると、現場監督みたいな役割はやっぱりAIやらせしまうほうが効率はよさそうで、AI階層化により全自動でそこそこ大きな目標自動で達成するAIまでは一瞬で到達してしまうと思う

ここが進むと、電力や計算資源を用意して巨大なAI組織を作ることができるグループ一人勝ちになる

電力とか計算資源物理的な制約から、即座に知的労働職のすべての職が失われることはないだろうけれども、

部下数人をまとめる管理職ではなく、一国の主みたいなスケールでの管理者として資質が問われる時代がすぐ来てしまう気がする

2024-12-08

焼きそばを作ろう

体調悪かったけど、息子が「焼きそばがいい」って言ってて、夫は焼きそばが作れない(というか、ほぼなにも作れない)ので、なんとか焼きそばを作り始めた。

そうだ!夫にも作り方を教えておこう!

と思って、「焼きそばの作り方を教えるから〜。まずキャベツを切ります」ってキャベツを切り始めたんだよね。

そしたら、夫が来て「で、キャベツ何g?」って聞いてきたんで「え、適当だけど」って答えたら、「何gか言ってくれないとわからないよ!」と言うので、「……じゃあ、それはレシピ見て……」って、なんかガックリしたんだけど、どうすればよかったの。

焼きそばキャベツって、なんとなく「2人分ならこのくらいのボリュームかな。焼くと少し嵩がへるからこのくらい」って思ってたけど、その「2人分の適当」を、スケールではかって伝えればよかったんだろうか。

2024-12-05

anond:20241205110950

量で頑張ったところで

単価落ちて農地面積でしかスケールしない商売になるし

安い海外産との価格競争になるしで特によくない

自給率を上げると言う目的を捨てて高品質ブランド化を進めた方が完全に得

2024-12-04

今のアニメがつまらなくなったのか、俺がつまらなくなったのか

20年以上アニメオタクとして生きてきたが、最近アニメは本当につまらない。

テーマが何なのか意味が分からない軸のない作品

テーマがあっても世界観の大きさに比べてしょうもないスケール作品

既に過去アニメ作品がやった通過点を劣化版の焼き直しした作品

ライブ感で視聴者繋ぎとめることやバズれば勝ちだと叫んでるかのような作品

限られた予算の中で限られた頑張りで作った予定調和作品

スポンサー意向を聞きすぎて空中分解していく作品

そんなのばかりで、もういい加減ウンザリしてきた。

 

日本という国自体が活気があったころは、アニメ実験的な作品文学寄りの作品に溢れていたと思う。

今、新しくアニメを作ろう、となると何をするにしてもとにかく売れることが目的

世間を驚かせよう、作品を作ろう、という情熱が働き甲斐搾取で消費尽くされて、

人手不足になった現代では、自爆覚悟のような異形な作品も出て来なくなってしまった。

既に何が売れるのか過去データで分かるようになってしまものの、

売ることばかりが目的になってしまっているせいで、王道すら使いこなせずに墜落していく滑りアニメたち。

売れるのはあくまで結果であることは、原作に多用しがちな漫画から学ぶことはいくらでもできるはずなのに、

自分たちは芋を引くのが嫌で冒険せずに、

過去作の続編で中年たちの財布に頼ったり、別のコンテンツや有名監督に頼るばかり。

完全なる腑抜け業界になってしまったのが日本アニメ業界だと思った。

腑抜けになるだけならまだマシだがスポンサーたちが失敗から学ばないせいで、

製作側も諦めて金だけもらって金の分だけ仕事するような作品だらけになった。

そのバカみたいな循環に付き合うことをやめない視聴者たちのせいで更に悪化していく。

 

アニメの1分1秒に衝撃を受けていた時代に戻りたい。

2024-12-02

ロマサガ2リメイクストーリー

原作プレイ時のストーリー理解として、

七英雄が強くなりすぎてしまったが故に民衆たちに恐れられて別の次元追放されたの、

誰が悪いかって言われると古代人の民衆だけど人の心は弱いから悲しいね

だった

リメイクプレイしたら、めっちゃ悪い大神官に全部ハメられましたって話で急にスケールの小さい話になったな…

でも舞台版も同じストーリーらしいから本当はそういう話らしい

2024-11-27

anond:20241127225920

そうかそうか

じゃあAIもろとも滅べばいいな

そのあと人類短期的に絶滅するならそれもありだろ

いずれ地球上の生物絶滅不可避

明日滅ぼうとも1000年後に滅ぼうともタイムスケールとしては誤差に過ぎん

矮小な虫けらなんぞ庇うに能わず

anond:20241127171600

サムライ8

 

サムライ8 八丸伝』を構成する5つの要素

1. サイボーグ技術と侍を融合させた独特のSF設定

2. 宇宙舞台にした壮大なスケール物語

3. 主人公・八丸の成長と師弟関係

4. 「鍵」と「箱」を巡る冒険と謎解き要素

5. 戦闘シーンにおける多彩な武器と技の演出

一つ削るなら

5. 戦闘シーンにおける多彩な武器と技の演出

2024-11-24

対立商売に利用される時代

昔は軍需産業みたいなスケール必要だったが、今はWebで注目が集まれ小金が入る

対立は人を駆り立て、情報を求めさせ、徐々に依存するようになる

それがカルト陰謀論の餌

2024-11-23

anond:20241123185013

氷河期最終世代だが、お国柄が違うなという目で見ている。

日本自責型が多いんで、閉塞感に駆られると大量殺人テロなどよりは自殺を選んじゃう人が多い。

中国他責型が多そうだと思っていたし、実際、そのようになっているみたいだなと眺めている。

古来より中国人口も多いし、面積も広いし、日本とはあらゆるスケールが違う。社会の動きもドン引きするほどダイナミック。超善人も、超悪人もいる。という基本認識もある。

2024-11-20

anond:20241119215603

クラシック教室だとそうなっちゃうかもしれませんね…。

今どきの音楽教室には大人初心者向けポピュラーピアノ講座はたくさんあるので、そういうところに行くとよいですよ。

中高年のおじさんおばさんたちに混じってグループレッスンするもよし、月謝は少し上がるけど個人レッスンにするもよし。

課題曲自由に選ばせてくれるし、ひとりひとりの技量志向に合わせた教え方をしてくれるはず。

しかアドリブがしたいならジャズピアノ講座のほうがよいかもです。コードスケール理解に応じた教え方をしてくれます譜面が読めない人でも大丈夫)。

アドリブはまずはブルースペントニックから教わるはずですが、できるようになればそこまででも十分楽しいはずだしギターなどほかの楽器への応用も十分に利きます

コードの基礎も、それこそトニックドミナントサブドミナントからきちんと教えてくれるはずです(ジャズはそれ抜きでは成立しませんから)。

どんな調でも即座にアドリブができるようになると、音楽の楽しさはぐっと広がります。よく使われる調なんてたかが知れているので、全部を覚える必要もありませんし。

あと、ギターピアノの両方でコードスケール理解できているのは強みです。

ギターは調が変わっても運指が変わらないのがよいところですが、反面、構成音(ノートルートとの関係)が直感にわかりづらいのが弱点です。その点、鍵盤でコード構成音やスケールがわかっていると〈ギターしかやってこなかった人〉よりもずっと上達が早いしフレーズも幅も広がると思いますよ。

2024-11-19

調号が3つ以上ついてる楽譜だと頭処理落ちするけど、あれはスケール理解すればどうにかなるもんなんだろうか。

五線からはみ出た音は慣れるしかなさそう。

というかギター始めて思ったけど、ピアノ教室って全くといっていいほど基礎的な音楽知識を教えてくれなかったな。実際に通ったのは3つくらいしか知らんし、ガチガチプロ志向とか音大受験対策ならやるのかも分からんけど。

楽譜見てその通りに弾くのを繰り返すばっかりだし、本質的音ゲーあんまり変わらない気がする。ミスなくやるのが天井

演奏者による表現ニュアンスがどうたらとかはあるんだろうけど、ピアノ教室でそこまでやるかって言ったらな。自分、こう弾きたいんスけど。的な提言をした覚えはないし。こう弾けという指示こそあっても。

あとはやれ背筋が悪いだの手はボールを握るようにだの、そんなんばっかりだった気がする。

こう弾いた方が良い演奏に聴こえるでしょう?とか言って、明らかにわざと弾き方を変えた比較デモストレートがあったり。思い出したら腹立ってきたな。

ガキ相手と言えど、条件も揃えない比較正当性を示すのは不誠実ではなかろうか。

技術的な必要性を感じたレクチャーって指の跨ぎ方ぐらいのものだったかもしれない。あと指使いの番号振りか。左右の手を独立させるのは教わってどうこうというより慣れって感じだったし。

ギター教室は通ったことないからしらんけど、まあ自分で始めようってなったらyoutubeで好きな曲のTAB譜漁って、秒で挫折したり、食らいついたりして。

そこまではピアノ教室と変わらないな。模倣の繰り返し。

コードフォーム練習とかしてる内に、自分なりの使い方でそれを鳴らしてみたくなったりもしてきて、その使い方を知るためにコードの種類なり運びのセオリーなりを知りたくなって。

それが手癖の即興演奏に繋がって、拙くとも気分を音にする感覚を味わって、それに取り憑かれたり飽きてしまったり。

まあガットギター教室とかだとピアノ教室と大して変わらんのかな。

楽譜通りの音ゲーばっかりじゃなくて、折角楽器をやるならそういうアドリブピアノ教室にもあったっていいんじゃんねって思う。

なんだろうな。ピアノならクラシッククラシックなので保守的保守的なのでアドリブなど不要。とかそういうアレなのかな。そういうのとは別方向の教室があっても良さそうだけど。

ジャズピアノ教室とかはクラシックに比べたら大分少なさそうだし、そもそも別にジャズに限る必要もないし。

anond:20241118211356

30年ものスケールで見ると、その間にAIロボットが急速に普及するだろうからインフラ介護に人手を集中しなければならないタイミングがどこからどこまでなのかは、正直よくわからない。

約30年前はwindows95が発売されて、急速に一般人インターネットアクセスできるようになった時代パソコンモニター本体段ボール箱みたいなサイズだった。Googleもなく、Amazonもなく、SNSもなく、スマホも、生成AIもなかった。

インターネット接続可能で、そこらの人間より賢い回答を即答するAI入りの携帯電話(音声入力可能接触操作可能液晶画面付き)を、一人一台所有している時代」が30年後に実現しているなんて、30年前は想像もしていなかったよ。

これからの30年で生産人口が3割以上減る(世界中少子化移民も来ない)ので、

インフラ介護に人手を集中するしかなくなる。

2024-11-16

AIおじさん」としての孫さんがおもしろ

もともと壮大なスケールをぶちあげるのが好きな人から

実業成功 → 投資 という方向でやってきてたんだと思うが、

投資はつまらないと気づいたようでAIに全振りしてからおもしろい近所の発明家おっちゃん」感がある

つねに未来を話しててスケールがでかいから話が面白い

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