両親から聞く話では、もともと言葉が遅い方だったそうだ。幼い頃には心配をかけたらしい。幼い頃の自分を育てていた両親は、自分を混じりっけなしののバカだと思っていたに違いない。
小学校に入り、テストで良い点を取り出すと、案外頭が良いぞとなって中学受験を受けた。
といっても西日本の田舎だから、偏差値50もいかないところだ。開成や灘みたいな魔境とはレベルが違うし、平凡な子供でも塾に行けば十分受かるくらいの学校だ。
公立中学校でもテストの点は良かった。コツコツやってたら落ちた中学のトップ層くらいの成績になった。
しかし、優等生らしい生徒だったかというと、怪しい。普段の挙動が愚鈍すぎて頭が良いとはにわかに信じられなかった、と当時の同級生がよく語る。高IQのADHDにありがちな騒がしい馬鹿らしさではない。「愚鈍」だ。
高校でも同じような様子が続いた。成績は良いけどバカっぽい、というのがいつもの評価。だがそれくらいがキャラ付けとしても気安くて、ストレスなくやっていた。
あとは特にとりたてて話すこともない。普通に頑張ってたら普通に東大に受かった。
それまでの人生では、自分のバカさをなんとなく理解しつつ、でも深刻に捉えることはなかった。だって大抵のことは深く考えないでいられた方が楽しいからね。なのに成績が良いって、良いとこどりじゃん、とも思ってた。
今思えば、周囲との知能レベルが大きく乖離していなかったから気楽だったんだろうな。
塾が嫌いだった。成績至上主義が蔓延る教室内で、生徒たちは心身を削って過剰に勉強し、問題児であるはずの自分を先生は怒らないどころか贔屓する。歪んだ笑顔に嫌気がさす。
東大はそんなところだった。
もちろん、成績で優劣をつけようなんて幼稚なこと、東大生といえどもしない(嘘。一部の人間はする)。ただ、塾通いで内面化したメリトクラシーは、成績が評価基準たりえなくなった後に人格と融合しちゃうみたいだ。
東大生の好きなもの=「同じ知的レベルで話せる人」。つまり自分ではない。教養はある方だと思うが、当意即妙な返しはまったくできない。
それからというもの、優秀だったり意識が高い東大生からはほとんど初対面で難色を示される。そして、なるほど怠惰なやつなんだな、と思われてしまう。いや結構勤勉ちゃんなんですが。
話を東大に絞りすぎたかもしれない。多分、東京という場所がそうなんだろうと思う。
アメリカよりもずっとスケールは小さいけど、これも人種のるつぼだ。いろんな種類の人間が集まる。だからこそ、人より優れた長所が目立ち、格差が生まれる。
しかも若者は他者評価に敏感だから(自分ももっと一丁前に扱われたいと思ってしまうし)、他人と自分を比較せざるを得ないんだろう。
自分が、見下される対象になったのをやんわりと感じる。あるいは、性格の良い人だったらかわいそうとか、大変そうとか思っているのかもしれない。
ふと、自分の今の苦しみは、中学や高校で自分の隣の誰かが経験していたものなのかもしれないと思った。
その人たちは場所が違えば輝けたかもしれないし、さらにいえば別に劣っているからといって見下される必要はどこにもない。
あの人たちが元気でやってるといいなあ、と思った。
東京大学とは書いてないというオチ 仮に東京大学だとしたら 癌とエイズと糖尿病と緑内障の特効薬と欠損した体の復元技術や核融合炉と重力制御装置とワープ装置の理論と設計図くらい...