はてなキーワード: SNSとは
初めから畳む気無いじゃん
ベビーカーは電車バスで畳まなくていいって決まりにまだなっていなかったのでそりゃもうエグい叩き方をされていた。
そりゃ不可能だ、それは周囲に余計に迷惑をかける、子育て知らないからそう思うんだろうけど現実的じゃないって理不尽叩きまみれだった。
ネット民がまだ若くて独身で子育て経験ない人が多かった影響もあるだろう、匿名掲示板汚染などで、ネットではどれだけ性格悪く振る舞ってもいいって人が溢れてた影響もあるだろう。
でも今はああいう人達がネットで白い目で見られるし、公共交通機関ではベビーカーを畳む必要がありませんと一言で反論できる。
理不尽叩き界隈は少なくなった分先鋭化して盗撮してSNSサイトで晒したり悪質化してる感じはあるが、それでも叩き一色だった頃に比べればマシになって良かったと救われた気持ちになった。
逮捕されたのは、さいたま市の不動産会社社員、吉岡欧樹容疑者(58)です。
警視庁によりますと、今月5日、埼玉県八潮市のホテルで、女子高校生に対してわいせつな行為をした疑いが持たれています。
今月上旬、被害に遭った生徒が都内の警察署に「SNSで知り合った男から俺はヤクザだ。風俗で一生働くか、殺されて山に埋められるか、100万円を一括で払うか選べと脅された。同意していないのに、わいせつな行為をされた」などと相談に訪れ、その後の捜査で吉岡容疑者が浮上したということです。
調べに対し容疑者は「わいせつな行為はしていません」などと容疑を否認しているということです。
生徒は裸の写真を撮影されたとも話しているということで、警視庁は容疑者のスマートフォンを解析するなどして詳しく調べています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250129/k10014706841000.html
マジレスするとコメント欄の民度は界隈やトピックによって変わるし、知名度が高く「総合的に見ても民度が高い」と言えるようなSNSは無いよ。民度が高い低いは全部ポジショントーク。政治関係なら尚更ね。
「ねえ聞いて下さい!昨日4時間も寝ちゃいました」
みたいなやつね
地獄のミサワなんて単語を10年ぶりくらいに思い出してふと思ってしまった
地獄のミサワは元々鼻持ちならない奴らの自虐風自慢・自虐風マウントを茶化して笑いにして恥ずかしいものにするっていう作風だったけど
もう子育ての愚痴を言いまくる奴らも同じようにしてしまえばいい
本当に困っていることを相談したりするのは全然いいし必要だと思うんだけど
「子育てやパートナーへの愚痴は悪い言葉でいくら喚いてもいい」みたいな謎の合意形成がSNSでなされちゃってない?
そのうち、完全に人間と機械のどちらが書いた文章か完全に見分けがつかなくなるんだよ
で、マスメディアの文章も新聞とかも機械が書いた文章になっても気付かない
SNSのすべての文章が機械の生成した文章になってても気付かない
そのうち核戦争が起こって、人類は滅びるんだけど、生き残った?機械はそれでも文章をSNSに生成して、その炎上ネタの記事を生成して、サクラのボットがいいねつけるんだよ、
今の仕事について数年経ち、
ここに備忘録代わりにまとめておく。
母もそこで事務長として共に働いていた。
だが、父の方は肩書は名ばかりで、
仕事と言えば昼間からYouTubeや悪質まとめサイトを眺めて過ごし、
気が向けば犬の散歩をするのがせいぜいという有り様だった。
田舎の名士として当然の嗜みのつもりなのか、
仕事中も「外回り」という名目で女とドライブに出かけたりするほど、
母の料理が気に入らないと言って、
増田のアゴは、幼い時に父親の気まぐれで殴られて以来ズレたままになっている。
8歳のクリスマスに、アンパン一つ食わせてもらうために土下座したこともあった。
灯油は、甘いんだ。だが、明らかに身体に入れてはいけない危険な甘さだ。
ある意味で増田は親父に良い教えを与えてもらったと思っている。
それも、都会の人間が夢見るような温かい土地などでは決してない。
まず、犯罪発生率が異常に高い。
口コミサイトなどを見ても、「県内最悪の治安」とのコメントが複数ある。
近隣からは、とあるフィクションの犯罪都市の名を取って「東洋の○○○○」と呼ばれているほどの治安の悪さだ。
村八分を恐れて警察沙汰を避け、泣き寝入りしている被害者も多く、
実際の状態は公表されている数字よりもはるかに悪いと思われる。
犯罪以外でもひどいことはまだまだある。
まともな神経をした人間なら顔をしかめるような、奇行・奇習のオンパレードだ。
雨どいにコンドームが詰められている。
これ見よがしにタトゥー(シール)見せびらかして歩いてた中年が、
お巡りさんに見つかって泣きながら職質を受けている。
この前の年越しの時などは、花火と太鼓と怒号が一晩中響き渡っていた。
しかもこれは伝統などでは全然なく、近年になって捏造されたインチキな行事なのである。
近所の住民の抗議の声も無視して、自治会が断行した「改革」だ。
人から聞いた話だが、自治会長はプーチンや習近平と同い年なのが自慢らしい。
このクソ地元に関する、地味だがひとつ印象的なエピソードとして、書店の話がある。
もちろんそこには文化のぶの字もなく、頭の中は金のことで一杯だった。
大型書店のオープン後も、個人書店はなんとか営業を続ける努力をしていたが、
一方の大型書店の方も、元々この土地に本の需要など大してなく、
また、DVD・CDレンタルの方もサブスクの普及によって厳しくなり、
残されたのは、「無書店自治体」というありがたくない肩書きだけだ。
狭い田舎道に不格好で時代遅れなシャコタン改造車がひしめき合っている。
土地の有力者である老人・中年たちはだいたいが増田の親父と仲が良かった。
そして人格の方も似たようなもので、金と権力と女にしか興味がなく声のでかい連中ばかり。
まるで、同じ作家が手癖で書いた悪役たちのように。
書いていて憂鬱になってきた。
なんとかしてこの地獄のような地元を脱出し、できれば東京に出たいとずっと考えている。
母の説得が成功して、今の仕事が上手くいってくれればいいのだが…
詳しくは言えないが、増田は現在ある種のクリエイター業に就いている
それだけなら正直、増田と母親にとってはありがたかったのだが、
その後しばらくして親父の方から離婚調停の申し立てをしてきた。
端的に言うと「全財産を親父に譲って家を出ていけ」という内容だ。
当然呑めるはずもなく、増田と母は戦うことになるのだが、
先に述べたように土地の有力者たちは親父の味方ばかりで、
この四面楚歌の状況が続いたことで、母はとうとう鬱病になってしまった。
増田も何とか母を守ろうと格闘していたのだが、自分の無力が恨めしい。
たとえば、少し家を留守にしている間に、
増田の部屋から仕事で使っているPCが消えていたことがあった。
無理やり押し入った形跡はなく、親父たちの仕業であることは確実だった。
親父は増田の仕事について常々、お前にそんなものが務まるわけはないと小馬鹿にしていた。
PCそのものは結局売り飛ばして小金を得たのだろうが、それ以上に、
当時ここは毎晩のように違法駐車で埋まっていた。
それらの車のドライバーは、深夜だというのにエンジン音やカーステを平気で鳴り響かせ、
大声での電話を繰り返した(内容は下品すぎて書く気になれない)
増田は防音グッズで部屋を補強したが、
ちなみにこの駐車場を管理していたのは、あの書店潰しの悪徳不動産屋だ。
この土地では悪は全て繋がっているのだ。
これらの件のせいで増田は一時期、スランプに近い状態に陥った。
世間の目には全く仕事をしていない、終わったクリエイターに見えていたことだろう。
だが増田は、表舞台からは姿を消していたものの、決して全てを投げ出していたわけではない。
いつか再び世に出る時のために、SNS等を通じて地道に活動を続けてきたのだ。
そしてその努力と、ファンと業界関係者の方々の支援のおかげもあって、
昨年には完全復活といっていい状態についに至ることができた。
復帰第一弾の作品には、ありがたいことに業界の内外から高い評価をいただいている。
増田は、クソ地元やクソ親父による「お前には無理だ!」の呪いに打ち勝ったのだ。
今も、嫉妬からAmazonレビューを荒らす(ファンに犬笛吹いて増田の作品に低評価レビューを付けさせている)同業者など、
頭の痛い問題は相変わらずいくつか残っている。
それでも、以前の悪夢のような状況に比べれば雲泥の差がある。
どうもありがとう。
これからも良い作品を発表し続けることで、その期待に応えさせてもらいたい。
嘘松!とシュバってくる輩がいるが、
それに、「嘘松」は特定の作品タイトルをもじった侮蔑語であり、
まともな人間なら使う気にならないはずだろう。
最近、ふと考えることがある。昔のインターネットみたいな場所って、もうどこにも無いのだろうか?
90年代後半から2000年代のインターネットは、手探りで広がる未知の世界だったよね。個人が作ったホームページが乱立し、どこかの誰かが自分の好きなものをただひたすらに紹介していた。テキストが中心で、画像は重かった。キラキラしたGIFアニメや、背景に敷き詰められた壁紙、カウンターが回るページ。
掲示板もそうだったよね。誰でも気軽に書き込めて、ゆるやかなつながりが生まれる場所。
返信が一日遅れることも普通だった。
でも、気がつけばインターネットは変わったよね。巨大プラットフォームが中心になり、アルゴリズムが「どれが最適な情報か」を決める世界になった。個人サイトは淘汰され、SNSは効率的な発信の場へと変貌した。昔の掲示板のようなゆるさは消え、何を発信するにも「バズるかどうか」が問われる。気軽に投稿できるけれど、その気軽さの裏には「誰かに監視されているかもしれない」という緊張感があるよね。
なんかギョーザを父も子どもたちも同数しか与えないのが当たり前という考えの女性の漫画が話題だ。
経験から言わせてもらうが、この手の女は夫はもちろん、成長期の子供に対しても食べ物を増やそうとすることは絶対にない。断言する。
こういう女の子供として生まれ育ったが、おかずは少数、足りなかったら米を食えと言われてそのようにした結果、姉はチビデブ、俺は20歳くらいで糖尿病になった。おかずが少なかったため、肉や野菜に比べて糖質の摂取量が多すぎるのだから当然だろう。医者が母親に食事についていろいろ言ったが、特に何かが変わるといったことはなかった。
親父は色白で痩せ型だと思っていた。体調を崩して入院したところ、そこそこ体格も血色もよくなって驚いた。ところが退院する段になって「家に帰りたくない」とこぼしていた。親父も母親のせいで食べ物に困らされていたのだろう。
あまりにも俺や姉の発育が悪いので、父や母の両親が母にいろいろ言ったようだが、結局改善されることはなかった。
俺も姉も成人後に家を出た。親父が俺達に家を出ることを勧めていたのは「そういうこと」だったのだろう。
長年に渡って染み付いた食生活を変えることは大変だったが、自分でコントロールできるようになり、姉の体格はなんとか「ぽっちゃり」と強弁できる程度に落ち着いたが、俺の糖尿は治っていない。食事の管理は面倒くさいし、薬の副作用で起きる身体のかゆみに悩まされている。カレーやラーメンを食べるときも数字のことが常に頭にあり味を楽しむゆとりなどない。
帰省するときに母親が用意する食事は、言うまでもなくお察しの通りだった。デパ地下や仕出しのオードブルなんぞを買っていくと親父が喜んだのは、単に嬉しい以上の何かがあったに違いない。
あるとき、親父の歩き方がぎこちないのが気になった。まもなく親父は歩けなくなった。
葬式で目にした親父はガリガリに痩せていて目が落ちくぼみ、映画の「スクリーム」みたいな顔になっていてまるで別人だった。
母親が席を外した隙に見た死亡診断書は、「直接の死因ではないが関連すると思われる症状」みたいな項目のところに「極度の栄養失調」と書かれていた。ほぼ餓死だ。
母親を問い詰めたところ「食欲がないと言ってろくに食べようとしなかった」と言い張っていたが、話に明らかに辻褄の合わないところがあったので、多分ろくに食わせてもらえなかったのだろう。
父方の祖母は「こんな女との結婚を許すべきじゃなかった」と泣いていた。
この手の女と添い遂げようとすると殺されるか、良くても人生を狂わされる。だからこの手の女が妻や母親である場合、家族はさっさと逃げるべきだ。
SNSだけの話かもしれないが、男女の対立が異常になってきたと感じる。
匿名だから凶暴になっているだけかもしれないが、本音だから凶暴だともいえるし、本当に恐ろしい時代になったなと感じる。
その本音がぶつかり合い、お互いに奪い合いたい心が衝突して地獄になっている。
こんな状況で誰が結婚をしたがるだろうか。
男女ともに、頭のいい人間ほど結婚を避けるのではないだろうか。
お金のある男性はP活をし、年を取ったら女性を入れ替えればいい。
子供でさえ倫理的にはどうかと思うが、養育費を払えば産んでくれるような女性が存在する。
問題は稼げない男女だ。
稼げない女性で若くて顔のいい女はなんとかなるが、年を取るにつれて徐々に手に入る男のランクが下がる。
また自分自身の価値は草コインのように減っていくので、35歳以上の女性は価値がない論によくあるように、多くの場合は30歳くらいから相手にできる男性のランクは必然的に下がってしまう。
ただ女性は、今度は老人を相手にすればいいので、逃げ場はある。
問題は稼げない男性だ。ここは保護さえ必要なほど、どこにも需要がない。なんなら徹底的に攻撃していい対象にされているレベルだ。
LGBTのように社会的に差別しないようにというルールさえ存在しない。
そのうちこの弱者男性たちの反逆が起こるのではないだろうか……稼げない弱者男性は本人が努力しないのもあるが、社会的に保護する必要もないのに数だけは多い。
もう少し男女共に互いに思いやれる心があればいいのにと切に願う。
ブランドイメージの向上: 高級時計ブランドと比較される形で登場したにも関わらず、カシオは自虐的なユーモアでこの状況を乗り切り、親近感のあるブランドイメージを確立しました。
若年層への訴求: シャキーラさんのファンを中心に、若い世代へのブランド認知度が大幅にアップしました。
グローバルな注目: シャキーラさんは世界的に有名なアーティストであるため、この騒動は各国で報道され、カシオのグローバルなブランド認知度も向上しました。
SNSでの話題性: この出来事は、SNS上で大きな話題となり、多くのユーザーがカシオに関する投稿を行いました。これは、カシオにとって無料の宣伝効果をもたらしました。
カシオ側は、この事態を逆手に取り、シャキーラさんの楽曲をネタにした広告を作成したり、SNS上でユーモアのあるコメントを投稿したりするなど、積極的な広報活動を行いました。この迅速かつ巧みな対応が、ブランドイメージの向上に大きく貢献したと言えるでしょう。
この出来事は、マーケティングの世界で「ネガティブな出来事をポジティブに変える」という成功例として、しばしば取り上げられます。シャキーラさんの楽曲とカシオの対応は、企業が危機を乗り越え、ブランドイメージを向上させるための重要な教訓と言えるでしょう。
シャキーラさんの楽曲は、カシオにとって思いがけない形で大きな宣伝効果をもたらしました。この出来事は、現代のマーケティングにおいて、SNSの力や、危機をチャンスに変えることの重要性を改めて示すものであったと言えるでしょう。
立憲民主党、共産党や社民党所属の議員は「とにかく自民党のやることに反対」という考えが強い。特に共産党と社民党は一見具体的な政策や思想を持っているかのように見えて、国会答弁やSNSなどを見ても実際は「与党の反対が正解」という単純な思考で反対しているだけってことが目立つ。これは政権与党のやっていることにおかしいことが多かった安倍政権そして菅政権のときは実に効果的であり、社会に必要な存在であった。特にモリカケ問題の時は、小池晃、福島瑞穂はエースであった。
しかし、岸田・石破と2人続けてリベラル寄りの首相が誕生してしまったことで、「与党の反対が正解」でもなくなってしまった。むしろ共産党や社民党の言ってることがおかしいってケースが非常に目立つ。社民党はもうすぐ消滅するらしいが、共産党も議席を減らしつつあり、れいわ新選組より弱小勢力になった。高齢化の影響か知らんが、言動にも基本的な事実誤認が多く、もはや陰謀論のカルト集団にも近しい。空中分解しなければ日本保守党すら下回る可能性もでてきている。
モリカケ問題のときネトウヨは「野党は反対ばかりでなく対案を出せ」とよく言っていたが、今から見ると彼らは正しかったかもしれない。当時の野党は、日本を良くしたいというビジョンなど皆無だったが、単に安倍晋三という戦後最悪の売国奴がそれを下回る存在だったので、一定の支持を受けていただけだったのだ。なぜ国民民主党が野党と組んで自民党政権を転覆させなかったのか。今から思うと当たり前である。共産党なんかに政権運営させてはいけない。
それを考えると、立憲民主党はうまく方向転換できてるかもしれない。
悪いことしなければいいは綺麗事というのは同意。誹謗中傷のペナルティを重くするかSNSのコミュニティを近所の町内レベルに狭くするか、少なくとも現在のネットのあり方じゃ無理だ。
フジの事にしても世論って言えるのか、騒ぎたいやつらの声ばかり拡大されてしまってる
フジがどうなろうと別にどうでもいいんだけど、世の中の流れがこうなってしまうと今後もっと地獄みたいになっていきそう
もし自分の勤める会社が的にされたら?自分の店がターゲットになったら?
SNSなんかでも個人店舗レベルではそういう出来事たくさん起こってるよね
俺は今の世の中が本当に恐いよ
一度的にされてしまえば、あっという間に追い詰められて終わってしまう
そしてそれを止める方法なんてもうない
少し前に、日本の医師がグアムで解剖学実習を行ったのをSNSに上げたことが炎上した。
投稿自体はすぐに消されて、数日後に謝罪の記事を出していたけど、謝罪の内容となかなかひどかった。
炎上の内容はここではあえて詳しくは書かないけれど、この件を受けて「自分が死んだら献体することを考えていたけど、今回の件でやっぱりやめようと思う」という書き込みが散見されて、非常に悲しい。
大多数の真面目な医師、医学生の真剣な学びが、たった1件のネット上の書き込みに邪魔されるのは耐えられないので、この記事を書こうと思いたった。
ここでは、医学部の解剖学実習がどのように行われるのか、医学生がどのようにご献体に敬意を払っているのか、また払うように教えられるのかということを書いていこうと思う。
大前提として、献体というのは100%本人と遺族の意思によって行われる。だから、あなたが今回の件を受けて、あるいはその他の理由でも、献体に出すことを不安に感じたのならば、その意思は確かに尊重されるべきだと思う。だけど、「医者や医学生はみんなあんな感じで解剖実習に取り組んでいる」「あれが業界のスタンダード」と思われたくはない。
最初に私の話を少しさせてもらうと、私は、とある大学医学部に入学したのち、3年目で中退している。だから医学教育は途中までしか受けていないし、今は一般の会社で働いていて医師ではない。中退の理由はお察しの通り成績不振で、留年して2年生を2回しているので2年生で行われる解剖学実習も2回受けている。
だからここでは、とある私立医学部で成績が下の下だった元医学生から見た「解剖学実習」というものについて書いていきたい。
なお、解剖学実習室で起こったことには、医師であろうとなかろうと、医学生であろうとなかろうと、中退した元医学生にも、守秘義務というものが発生する。だからここでは、個別具体的に起こったエピソードというよりは、一般論として「医学部では大体こういう感じ」というものとして読んでいただきたい。
解剖学実習は2年生の後期に行われる。他の教科は前期にあらかたやってしまって、2年生後期はほぼ毎日、1日中解剖学実習室に篭ることになる。だけど何も知らない中でいきなりご遺体を切るわけにはいかないので、前期には実習の準備講座のような授業がある。そこでは、まだ見ぬ人体の構造について、まずは教科書を見ながら勉強していくというもの。特に「骨学」と言って、骨の形や名前を覚えることは必須だった。
日本語と英語、余裕のある人はラテン語でも覚えるように勧められた。ちなみに上記の骨は順にラテン語で、Radius, Ulna, Femur, Clavicula, Costa, Mandibulaだ。
左右がある骨は左右まで同定するよう覚えさせられた。手や足の指の骨や、手のひらや足の甲を構成する小さい骨に至るまで、見ただけでわかるようにしなければならなかった。さて、骨学の実習にはもちろん骨の標本を使うのだけど、この標本は全て本物のヒトの骨を使ったものだと最初に説明があったのを覚えている。おそらく今同じ標本をヒトの骨から作ることはできないだろう。どうやって作ったのかは知らない。「人の骨の標本」と言われて、よく理科室にある骨格標本を想像する人もいるかもしれないが、骨学で使う標本は木箱に入っているもので、骨格標本のように組み立てられた状態にはなっていない。小さい骨もあるので「絶対に無くすなよ」と念を押されたのを覚えている。
「皆さんは後期に実際の人の体を使った実習を行います。これも本物の人の骨を使った標本です。こうなる前には、皆さんと同じように生きていた人たちのもので、非常に貴重なものです。くれぐれも粗末に扱ったり、乱暴に扱うことのないように」
目の前の骨が本物と聞いて、ビビる学生たち。いよいよか…という緊張感が走ったのはよく覚えている。
骨学の試験は、テーブルに一つ一つ置かれた骨の名前を解答欄に記入していくというものだった。回答は日本語または英語、ラテン語も可とされていたけど、ラテン語で書いた人っていたのかな。
ちなみに解剖学の先生(おだやかなおじいちゃん先生だった)が学生の頃は解剖学はラテン語で習ってたらしい。前期の終わりの暑くなってきた時期に、汗かきながら無言で骨学の試験を受けたのはよく覚えてる。
実習前には骨学の他にも、実際に遺体を目にする前に図録や教科書で人体の構造を理解する。いきなり人の体を切る前に、その準備段階として予習はしっかりやっておかなければならない。
解剖学実習は後期からグループで行われる。大体1グループ4−6人くらい。基本的に気の合う者同士で組むことが多いけど、人によっては仲の良さよりも成績が近い人同士とか、もっと戦略的なことを考えて組んでる人もいた。
各グループが1体ずつご遺体を担当し、学期の終わりまで解剖していく。1学年が大体100人ぐらいなので、20体前後のご遺体を1学年で解剖することになる。ご遺体がどのような過程で集められるのかについては後述する。
「解剖学においては、いま皆さんの目の前に横たわっているご遺体こそが最大の教科書です。そしてこの人たちは医者になる皆さんの最初の患者さんになります。多くのことをこの「患者さん」から学んでください。それこそが、彼らが自らを献体したことに対して皆さんができる最大の恩返しです」
実習はほぼ毎日、朝から晩まで行われるが、毎日実習の最初と最後には黙祷を行うのが常だった。班の中で持ち回りで毎週誰かが花を買ってきて、枕元に活けていた。
ご遺体はホルマリンで防腐処理を施されているので、実習室は揮発性のにおいで充満している。このにおいが苦手な学生は特別に換気のいい小部屋を与えられるが、その部屋は銭湯の半露天風呂のような構造で冬はとっても寒いので、その部屋の人たちは大変だなあと思って見ていた。またご遺体は血液も抜いてあるので、切っても血は出ない。ここが手術などとは大きく違う点かもしれない。
解剖学実習では、体のいかなる小さな部分も捨てることは許されない。遺体の一部でも規定外のやり方で「廃棄」することは法的な問題がある(たぶん下手したら「死体遺棄」とかになる)だけでなく、もちろん倫理的な意味でも絶対にやってはいけないことだ。
だから切り取った皮膚や脂肪などの組織片は細かいものも含めて全て別の箱に入れて、実習の最後まで取っておかなければいけない。
別の学年が実習していた時には、その組織片が実習室内の洗い場に捨てられていたのを先生が発見し、激怒。学年全員を落第させるぞといって大騒ぎになったそうだ。
組織片の扱いについてはそれほど厳しく慎重に取り扱われる。
森本梢子『研修医なな子』という漫画で、「解剖学実習中のなな子が、髪に脂肪の破片をつけたまま気づかずにいる」という描写があるけれど、これは少なくとも私が受けた解剖学実習ではありえないことだ。ていうか実習室で何したら脂肪片が髪につくの…?
実習では、本当にすべてを見る。
あらゆる臓器、あらゆる関節、あらゆる筋肉、あらゆる血管、あらゆる骨…。
場合によっては、色々な理由で普通とは違う構造をしたご遺体に当たることがある。手術で臓器を取っていたり、病気の痕跡があったり、先天的に他とは違う構造になっていたり。そんな時は他の班のご遺体を見せてもらったり、他の班からみんなが見にきたりする。
単純に腕が悪すぎて見ておくべき重要な神経や血管を見逃してしまい、他の班に見せてもらうこともある。「あの班はXX神経がすごく綺麗に出てるらしい」と話題になってみんなが見に言ったりもしていた。解剖学実習では、班ごとだけでなく学年みんなんで取り組む、みたいな意識が強かったように思える。
都市伝説的に、「遺体の耳を切り落として壁に当て『壁に耳あり』と言った学生がいた」「脳でサッカーをした」「大腿骨でチャンバラをした」といったエピソードが聞かれることがあるが、少なくとも私が参加していた解剖学実習では、みんな真面目に取り組んでいてそういう遊びをする空気ではなかった。別に空気がピリピリしている、というほどではなかったけど、ふざけたり大騒ぎするような人はいなかった。
上記の都市伝説について考えてみたのだけど、耳介(いわゆる外側に出てる『耳』の部分)は軟骨だから切るのはけっこう大変だし、解剖の過程で耳介を切り落とした覚えはないので、たぶん解剖学の普通の手順じゃないような気がする。耳介を切り落とす前にやることあるだろ普通に。ネットで検索した限りもしかしたら戦前とか、かなり昔の逸話のようだ。
ヒトの脳は蹴って遊べるほど硬くないのでこれは嘘だと思う。あと蹴って遊ぶ前にやることあるだろ普通に。
大腿骨チャンバラは現実に起こったとしたら骨学の実習中の話だと思うけど、行為の是非以前にまず授業中に何やってんだって話。
いずれにせよこんなことする学生は全員落第か退学になってると思う。なっていてほしい。
解剖学実習室では、時々遺族が見に来ることがある。もちろん実習室の中には入れないものの、壁一枚隔てたところにご遺族がいたりする。そういう日は朝にお知らせがあることもあるけど、何も言われないからって誰も来ていないとは限らない。だから言動には気をつけるようにいつも厳しく言われていた。
どこで誰が見ているか、聞いているか分からないので、実習室の外での会話にも気を付けるよう、注意もされていた。今回炎上した件で、「新鮮なご遺体」という表現に引っかかっていた人が多かったように、医師/医学生同士の会話で普通な言葉遣いでも、事情をよく知らない人が聞いたらビックリしてしまうことは往々にしてある。
「明日の実習でさ、ナントカ動脈の走行を確認したいからあそこ切ってここ開いて…」なんて話、一般の人に聞かせたらいけないよね。
同じように、解剖学の図表を公共の場所で開く時にも注意するように言われていた。私は『ネッター解剖学アトラス』という図表を使っていたけど、イラストなのに写真みたいに(何なら実物よりも)鮮やかに描かれているので、事情をよく知らない人が急に見たら確かにビックリすると思う。
今回炎上した件で問題になった写真撮影について、自分の時はどうだったかなと思い出してみたけど、当時はガラケーだったので少なくとも写真を撮る目的では携帯を実習室に持ち込むことはなかったはず。ロッカーに入れてたと思う。
実習室で遺体に触るときには手袋をするんだけど、途中で教科書を見たり他のことをするのに手袋を付けたり外したりを繰り返すので、そんな環境にわざわざ携帯を持ち込んでたとは思えない。
学年内で発表のために撮影が必要なときは、共有の小さなデジカメを使っていたと思う。もちろん、SDカード含めて外部への持ち出しは禁止で、実習室内の共有のパソコンでスライドを作って発表していたと思う。
スマホが普及した今では、当然スマホの持ち込みは禁止になっていると思う。
半年かけての解剖学実習が終わると、学生が自らの手で納棺を行う。
遺体と、遺体から切り取った組織片も、細かいものも含めて全て棺に収める。臓器などはできるだけ元の位置に置いておく。中には、遺族から預かった遺品を一緒に入れることもある。みんなで丁寧に納棺し、学生たちの手で釘を打つ。
遺族はこの納棺の時にも立ち会うことができないので、学生たちがご遺族の代わりに責任を持って納棺するのである。
学生の中には、ご遺体に手紙を書いて棺に納めていた者もいた。半年も一緒に過ごしたご遺体なので、親近感もあるし、感謝もある。文字通りの意味で「体の隅々まで見せてもらった」という点では、ある意味で家族よりも濃い関係を築いたものだと思うし、そういう自負が解剖を終えた学生にはある。
学生たちは、この段階で初めてご遺体のことを少しだけ聞くことができた。何歳で、どんな病気で亡くなった、とかぐらいだけど、それで「ああ、だからあんなに体格が良かったんだな」とか「あの臓器の状態はその病気のせいだったのか」などと少しだけ答え合わせをすることができる。
大抵の医学部附属病院では、年に1回解剖慰霊祭というものが行われる。解剖学実習のために献体した方や、医学部の研究施設で実験に使われた動物たちの慰霊祭である。解剖学実習をした学年(私のいた大学では2年生)の学生は全員参加で、あとは献体した方のご遺族、大学の研究者や関係者が参加する。もちろんスーツで来るよう求められるし、ここでも(なんたってご遺族が来ていることもあるし)ふざけた態度など取る人はいなかった。
一緒に実験動物の慰霊祭も行うんだけど、ネズミ何匹、ウサギ何羽…と当然ながら数が記録されていて、他にもあまり聞いたことない動物の名前も挙がっていたのが印象的だった。
献体とは、医学および歯学の発展のため、また、力量の高い医師・歯科医師を社会へ送りだすために、死後に自分の肉体(遺体)を解剖学の実習用教材となる事を約し、遺族が故人の意思に沿って大学の解剖学教室などに提供することである。(Wikipedia)
大学病院にはこの献体を生前に受け付ける事務局があり、あなたがもし自分の死後に献体をしたいと思ったら、まずは最寄りの大学病院や自分が献体したいと思っている大学病院の事務局を訪ねることになる。
そこで、幾度かの面談を経て献体に登録することになるが、献体には通常、家族の同意も必須となる。面談にも家族と来ることを求められるし、死後に家族の反対があれば献体自体ができなくなる場合もある。
事前に面談に参加していて理解が得られていても、「いざその時」になって気が変わった家族の反対で献体が中止になる例もザラにあるらしい。
献体に登録していた人が亡くなると、病院内で弔いをしてから防腐処理に入る。具体的にどのような処理をするかはここでは割愛するが、普通はホルマリンを使った防腐処置を施す。
問題になった医師が参加していた解剖実習のご遺体は、ホルマリンで防腐処理をしていないものらしい。ホルマリン処理をしていないご遺体の解剖は日本では難しいだろう。防腐処理をしていないということは、亡くなって間もないということだ。それで『新鮮なご遺体』と表現していたらしいけれど、SNSで一般の人も見る状態でその言葉は使うべきではなかったよね。
ちなみによく都市伝説で、「防腐処理した遺体をホルマリンのプールに沈めていて、遺体が上がってきたらそれをつついて沈める高額バイト」の話があるが、私の知る限り大学にそんなプールはないし、昔はともかく今は嘘だと思う。
ご遺体は、そこから1~2年は家族のところに戻ってくることはない。戻ってくるのは実習が終わって、学生が納めた棺を火葬して灰になった後だ。「故人の意思とはいえちゃんと葬式ができていないまま年単位の時間が過ぎる」というのは、想像以上に家族の負担が大きいんじゃないだろうか。家族の中には「本人が献体したいというから同意したけど、こんなに長い時間遺体が戻ってこないとは思わなかった」と後悔する方もいると聞く。
だからこそ、あなたがもし将来献体したいと思っているなら、そのことについては早いうちから家族とよく話し合っておくべきだ。
今回の件、医師界隈からもかなり批判されているようだけど、それもそのはず。普通の医者はあんなことしないし、あれと一緒にされてあれが普通のことだと思われたら、普通の医者が一番とばっちりを受けることになってしまう。
この件で献体を考えてた人がその意思を変えたり、臓器提供を辞めたりすると、困るのは今批判されている医者本人ではなく、将来の若い医学生や将来臓器提供を必要とする患者さんだ。もちろん、考えを変えることは止められないし、それ自体批判されるべきことでは全くないけれど、普通の医師、医学生が解剖や献体についてどのように考えているのかを少しでも知ってもらえたら幸いである。
医者になれず、担当したご遺体に対して先生が言うような「恩返し」ができなかった身としては、せめて自分の経験や考えを通じて、解剖や献体に対する誤解や偏見が少しでも解消されればと願っている。
それが自分で選ぶようになって、恋愛至上主義な雰囲気になって、けどいろんなプライベートに配慮する世間になっていって
お茶で集まる機会がというけど、ひと昔前は料理教室なんかそういう機会とされたけど、問題あってダメになったし
今の時代だったら、、でもやっぱSNSでの付き合いから始まって、うまくリアルにシフトできたらいいけど
そんな簡単じゃないよなあ
https://anond.hatelabo.jp/20250128154514
Apple Watchをありがたがっている奴らは、一体何を考えているのか。60,000円も払って、毎日充電しなければ動かない「欠陥品」を有難がるとか、もはやカルトの域に達している。時計の本分は「いつでも時間を確認できること」だ。それが、充電を忘れたらただの金属の塊になるような代物を、なぜそんなに持ち上げるのか?
カシオの腕時計なら1,500円で5~7年バッテリー交換不要。時間を知りたければ腕を上げるだけで済む。それに対してApple Watchは、「バッテリーの持ちが…」「健康管理が…」「iPhoneと連携が…」と苦しい言い訳を並べ立てるしかない。だが、それらの言い訳はことごとく破綻している。
信者たちは「18時間というのは理論値で、実際にはもっと持つ!」と必死に擁護するが、根本的に論点がズレている。カシオの腕時計をつけている人間は、バッテリー残量なんて考えもしない。なぜなら、そんなことを気にする必要がないからだ。
「思ったよりバッテリーが持つ」などと誤魔化しても、Apple Watchは毎日充電しなければならない時点で論外。うっかり充電を忘れたら、翌日には腕にゴミを巻いていることになる。時計としての最低限の機能すら満たしていないものに60,000円払うのは、もはや狂気の沙汰である。
「毎日の充電なんて大した手間じゃない」「入浴中に充電すれば問題ない」と信者たちは言う。だが、そもそも充電を意識しなければならない時点で、時計として終わっている。
カシオの時計をつけている人間は、朝起きて腕を見れば時間がわかる。Apple Watchユーザーは、まず「昨日ちゃんと充電したか?」を確認しなければならない。この時点で、Apple Watchは「時計」ではなく「毎日世話をしないといけない電子ペット」になっている。そんな手間のかかる時計をありがたがるとか、もはや時計の概念を破壊する行為でしかない。
「Apple Watchは健康管理機能があるから、単なる時計ではない!」とドヤ顔で語る者がいるが、時計にそんな機能を求めている人間がどれだけいるのか?
本気で健康を管理したいなら、Apple Watchよりも精度の高い専用の医療機器を使うべきだろう。心拍数を測りたい? 数千円で買えるフィットネストラッカーのほうがコスパがいい。転倒検知が必要? そんなに転ぶなら病院行け。
結局、健康機能をありがたがっているのは「機能があるから何となく便利そう」という薄っぺらい思考の人間だけだ。大半のApple Watchユーザーは、「今日は○○歩歩きました!」とSNSに投稿するくらいで、結局のところ自己満足のオモチャにしかなっていない。
「Apple WatchはiPhoneと連携して、通知を手首で確認できる!」とかいう謎の利点を挙げる者がいるが、そもそもスマホがポケットやカバンに入っているなら、それを取り出せば済む話では?
ポケットに手を突っ込む動作を省くために60,000円払うとか、冷静に考えればバカバカしすぎる。しかも、その通知機能も結局はiPhoneがないと成り立たないわけで、つまりApple Watch単体では何もできない。カシオの腕時計は単体で100%の性能を発揮するが、Apple WatchはiPhoneがなければ半分の価値もない。
60,000円の時計が「スマホのアクセサリー」としてしか機能しない時点で、完全に負けている。
「Apple Watchはデザインが洗練されていて高級感がある!」と誇らしげに語る奴もいるが、その「高級品」も数年で型落ちになり、買い替えを迫られる。
機械式時計なら何十年も使えるし、ブランド時計なら資産価値もある。でも、Apple Watchは毎年のように新型が出て、古いモデルはあっという間に「過去の遺物」と化す。数年で買い替えが必要なものを「高級品」と呼ぶのは、さすがに無理があるだろう。
しかもバッテリーが劣化したら交換も容易ではなく、新モデルを買う羽目になる。つまり、Apple Watchは「短期間で買い替えが必要な消耗品」に過ぎない。そんなものに60,000円払うのは、ただの浪費でしかない。
結局のところ、Apple Watch信者の言い訳は、すべて「不便を受け入れるための自己暗示」に過ぎない。
本当に価値がある時計とは、充電を気にせず、腕を上げるだけで時間がわかるものだ。その点で、Apple Watchは圧倒的に劣っている。充電を怠ればただの文鎮と化す時点で、時計としての最低限の条件すら満たしていない。
一方、カシオの腕時計は1,500円で5年以上持ち、時間を見るという本来の役割を完璧に果たす。Apple Watch信者は、毎日充電の手間を増やしながら「自分は最先端のライフスタイルを送っている」と勘違いしているが、実態は「金を払って不便を買っている」だけの哀れな存在だ。
60,000円でApple Watchを買う奴は、「最も無駄な金の使い方をしている愚か者」である。
社会的不適合度と倫理的影響度の高低で4象限に分け、さらにヤベー奴度を0から10の実数で点数化する。
1. 読書 (0.5)
2. ガーデニング (0.5)
3. 料理 (0.5)
5. 音楽鑑賞 (0.5)
6. 映画鑑賞 (0.5)
7. ジョギング (0.5)
8. 絵画 (1.0)
13. 釣り (1.5)
14. キャンプ (1.5)
1. 昆虫採集 (3.5)
2. コスプレ (4.0)
3. ASMR制作 (4.5)
4. 廃墟探索 (5.5)
13. 都市伝説追跡 (5.0)
15. 奇抜なヘアスタイル (4.0)
1. パチスロ (6.0)
2. 週末の深酒 (5.5)
3. 喫煙 (5.0)
8. オンラインゲーム (5.0)
13. タトゥー (5.5)
1. 街頭演説 (7.0)
2. 新興宗教への参加 (8.5)
3. 肉食主義 (6.5)
6. 推し活 (7.0)
14. 過激なボディモディフィケーション (8.0)
おしゃれなデザイン会社って、一体どうやって生きてるんだろう?いや、わかる。見た目が大事な仕事だし、トレンド感あるし、「カッコイイ!」「センスいい!」って評価されるのは気持ちいい。でもな、金にならんのよ。
うちの会社も、そこそこ名の知れたデザイン事務所だ。ポートフォリオに並ぶのは、SNS映え抜群のスタイリッシュなサイトたち。案件が途切れることはないし、求人も「デザイナーになりたい!」って若者が群がってくる。でも、現実問題として、給与は低い。なぜなら、映え系の仕事は基本的に金がない。発注側も「かっこいいのがほしい!」「バズらせたい!」とは言うけど、「予算?ないよ?愛とセンスでカバーして?」ってスタンス。
それでも、つい頑張っちゃうんだよなあ。クライアントの「こだわり」には一切妥協しない。たとえ「この1pxの違いが世界を変えるんです!」と言われても、「いや、そこ本当に意味ある?」って思いながら微調整を繰り返す。そして気づけば1週間が溶けている。
気づけばそこそこ勤めてしまった。そして伸びたのは、映え特化のデザイン力。転職しようと思っても、ポートフォリオに並ぶのはひたすらキラキラした広告やビジュアル系サイトばかり。「UIもできます!」って言っても、実績が広告寄りすぎて、「また似たような会社にしか受からないのでは?」という恐怖が頭をよぎる。抜け出したいのに、同じ業界の磁力に引っ張られ続ける…映えの呪いだ。
もしかして、企業相手にデザインやってるからダメなのか?いっそ「SNSでキラキラアカウント作って、素人から金を取る」みたいなルートのほうが生き残れるのでは?「デザインのコツ、教えます!」とか言いながらオンライン講座を開き、「あなたもプロのデザイナーになれる!」みたいなコンテンツを売れば、今よりマシな生活ができるのでは?
いや、それってもうデザイナーじゃなくて、デザイナーの皮をかぶったインフルエンサーじゃないか?
考えれば考えるほど、この業界、出口が見えない。おしゃれなデザインを作るたびに、「映えてる!すごい!」と褒められるたびに、どんどん深みにハマっていく気がする。
なんでこんなことになったんだっけ?デザインが好きだから?クリエイティブでいたかったから?それとも単に、おしゃれなものに囲まれてる自分が好きだっただけなのか?
絵を描こうとして3回挫折
SNSでは誰ともコミュニケーションを取らない。頭に浮かんだ奇言を淡々と書いている
芸能人に興味がない。と見せかけて谷山浩子だけウォッチしている
ジョン・ウィックは見る。凝った体術と泥臭い戦い方にロマンがあるから見る
スクエニとソニーは見た目がいいだけで中身がないと思っているがラチェクラだけはやってしまう
ゲームのキャラのステータスあげるなら自分のステタータスを上げたいと思ってしまうのでシミュレーションゲームはやらない。アクションゲームだけやる
Liczkaとゆえぴこのゲーム実況だけ見る
コテンテンツ提供者の人格(キャラクター)という概念がよくわからない。作品は作品 moco78とかやは嫌い
ヴァンプッシュを使っている
馬は好きだが乗馬クラブとか自分には場違いと思い込むことで童貞である自分を許容している
プルクラ実装に大興奮
栄養剤をコスパよく完璧に組み合わせて一日の摂取推奨量全て満たす生活をしている
エロバイノーラルASMRはエロコンテツのなかで最も芸術性が高いと思っている
抜く時は二次創作同人も見るが原作は知らないことが多い ブルアカ多すぎん?
ぶっちゃけアニメ顔の美少女コンテンツの顔デザってどれも似たり寄ったりだと思っている。だからもっとかわいい服着せろ バリエーション増やせ CCさくらくらい幅広くしてくれよと思っている
コミュニケーションの手段としてコオタクコンテンツが使われ始めているが正直どうでもいいと思っている
絵師としてAIは別にどうでもいいが構造的な破綻が多すぎるかあるいは単調すぎる絵しか上げられてないので見下している
ネトウヨとパヨクの話題を出した時点でつまらない人間だと判断する
動物が全体的に好き
フィギュアを大量に買って全て並べてるコレクターはすごいと思っている。ズボラ故にその整理力が羨ましく思える
メガネをしている
絵が上手い
二次創作はしない
アニメを片っ端から見るが容赦無く視聴を切る。完走するアニメは1季節平均0から1作品
SNSでは誰ともコミュニケーションを取らない。黙々と絵をあげる。好きな作家からフォローされてもフォローバックしない。好きなのはその作家ではなく作品だからだ
テレビを見ない
ハリウッド映画は見る。人間だけど人種が違うから過剰演技がわかりにくくなっておりだって人間だぜ感が薄いから見れる
スクエニとソニーは見た目がいいだけで中身がないと思っているし広報がダサくて距離を置いている
ゲームのキャラのステータスあげるなら自分のステタータスを上げたいと思ってしまうのでシミュレーションゲームはやらない。アクションゲームだけやる
ゲーム実況は見ない
コテンテンツ提供者の人格(キャラクター)は評価しない。したがってバラエティ番組とVチューバー実況動画とは距離をとっている
オナホを使うのは甘えと思っている
女体は好きだが女は嫌いと思い込むことで童貞である自分を許容している
ソシャゲはやらない
自炊する
ぶっちゃけアニメ顔の美少女コンテンツのキャラデザってどれも似たり寄ったりだと思っている。キャラクターデザイナーって所詮コンパチ作業してるだけじゃんと思っている
ポケモンのモンスターデザインくらい幅広くしてくれよと思っている
コミュニケーションの手段としてオタクコンテンツが使われ始めてこの界隈も末期だと思い始めているが次の戦場を見つけられないでいる
絵師としてAIは嫌いだが適応できなければ淘汰されるだけなので反AI活動してる者を見下している
巻数が10巻を超えるものはテーマを絞った方が良いのではないかと思っている。漫画長期連載とアメリカドラマの際限ない長期シーズンものは資本主義の悪い面が出ており作品ファーストになっていないと考えている
フィギュアを大量に買って全て並べてるコレクターはアホだと思っている。自分の器を超えた際限のない欲望を展示してるし一つ一つを愛でることもできない見る目のないアホだと思っている
本当は彼女が欲しい
メガネをしている
家族仲が良い
性器が大きい
身長170cm〜175cm
痩せ型
猫が好き
音楽は興味ないのでYOUTUBEで適当に流すだけだが演奏するならやっぱベースでしょと思っておりギターとボーカルを見下している。ドラムとキーボードは許してやってもいい
推しの子の話が話題になっていて、推しの子は少女漫画か?というので盛り上がっている。
ババア視点で言うと1990年代以前の漫画であれば推しの子は少女漫画足り得るし、1990年代以降であれば少女漫画は少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミングなので1990年代以降の漫画しか知らない若い世代であれば少女漫画ではないと感じるのではないかな。
少なくとも「1980年代の花とゆめへ掲載されていそう」と言われたら私はそう感じるし、逆に「1980年代の少年誌や青年誌では掲載されない」と感じ、年代で区切ると1993年以降にスクウェア・エニックスから発行された月刊Gファンタジー以降しか、年齢と識字能力の都合で、知らないのであれば間違いなく推しの子が少女漫画だなんて感じないでしょうね。
月刊Gファンタジーは前述したように少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミング、それを当たり前にしようとした、当たり前にした、当たり前になった辺りの分水嶺と解釈できるんじゃないかな。
------
今度は男性キャラクターの話に移りますが、古い話になって悪いけれど「男性キャラクターを創造するにおいて大事であることが3つある」と、師や担当編集者、当時の編集者に習ったことを伝えます。
それは「少年か大人か」「善か悪か」そして「漢か紳士か」です。
最後の3つ目が当時の少年漫画と少女漫画を区分けする大きな要素で、登場する男性キャラクターに漢が多ければ少年漫画、紳士が多ければ少女漫画になる。これは絶対的な基準ではないのだけれどゼロからキャラクターを作るのに良い指針であると当時は習った。
今では紳士な男性キャラクターで占められている男性向け漫画なんて普通だから使いにくい指針ではあるかな?ただキャラクターを作る際はまだまだ参考に出来る指針ではあると思う。
------
さて続いて、読者の感情移入先という話になるのだけれど、推しの子が少女漫画である場合に主人公が星野アクアであるならば感情移入しにくいのではないか?という疑問が湧きます。
ただそれは、例えばはてなの主要年齢層を推測し、わかりやすい例を出すならば「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」で当時の読者が感情移入できなかったのか?と言えばそうではないはずだよね?
「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」は前述したように少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミングで登場した漫画で、まだ1990年代以前の少女漫画の空気感が流れていて、「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」に登場する男性キャラクターは紳士が大半となっている。
そういう目線で見ると、推しの子の男性キャラクターは紳士ばかりなのです。
------
さてさて、更に続けて推しの子のキャラクターを見ると面白いことがわかってくる。
SNSなどでリアクションを確認していると、非常に低年齢だと思われるアカウントでは星野ルビーに共感し、高校生前後くらいだと思われるアカウント以上になると有馬かなへ共感を示す傾向がある。
実際に、プリキュア卒業組の女の子に推しの子はウケたと言われ、その子達がアニメイトなどで手にしているグッズを見ると小学生くらいの女の子は星野アイや星野ルビーのグッズを、高校生くらいになると有馬かなやMEMちょ、黒川あかねなどのグッズも手にするようになっているのを見ることができちゃう。
つまり、低年齢組が推しの子の世界を見るときの視界は星野ルビーで、それ以上になると視界が有馬かなやMEMちょ、黒川あかねになる傾向がどうやら少しだけあるようなんだよね。
星野ルビーの視界で見ると大好きなお兄ちゃんと頼りになるお姉さんたちの居る世界、有馬かなの視点で見ると大好きな男の子とその妹や女友達の居る世界、MEMちょの視点で......みたいな感じで様々な推しの子の世界が見えてくるんだ。
------
ではなぜ推しの子の主観のほとんどが星野アクアなのか?と言えば媒体が青年誌だからだ。
でも星野アクアは少女漫画的な紳士である、ここに青年誌と推しの子にミスマッチが起きるのだけれど赤坂アカ先生はこのミスマッチを解消する面白い解決策を使った。
推しのアイドルの子として転生したいというオッサンの汚い欲望みたいなコメントがあったけど、指摘は間違っていないんだ雨宮吾郎がその投影を担っている。しかし星野アクアはそれを担わず紳士として振る舞った。
推しの子の主人公は漢であり紳士、これが最大の面白さであり納得しにくい部分だったんだ。
------
星野アクアとして転生してからずっと紳士として振る舞ったが、最後の最後に星野アクアは漢として振る舞った。
読者は唖然だ「星野アクアは紳士じゃなかったのか?」と。「まさか漢の王道を最後に持ってくるとは」と。そしてこれまでの全てを吹き飛ばして「この漫画誌はりぼんではなくジャンプです!!!」と宣言した。
現代は女の子もジャンプを読むしジャンプには少女漫画風の作品も掲載されるという時代、そこで「ラストにジャンプする」というオチ。
ここがりぼんなら「可愛い女の子主人公の腕の中で」くらいの演出はあるだろうけれど、漢は無様を晒さないのでたった1人でケリを付ける。
ヤングジャンプに掲載された推しの子は雨宮吾郎ではじまり、星野アクアで物語の大部分を進めて、雨宮吾郎で締めることを選んだんだ。
------
これがりぼんならば星野アクアで締めたと思います。そういう意味で推しの子は少女漫画であり少年(青年)漫画でありました。
だからこそ、少女漫画であると評価する古い感性の人が居て、プリキュア卒業組にウケ、男性読者も多数獲得し、少女漫画なわけがないだろうと新しい感性の人が居て、実写化へ新しい感性の女性ファンが詰め寄っているわけです。