はてなキーワード: 配慮とは
「いや、そりゃそうでしょ…」ってなった。
どちらかと言うとゲーセン側よりゲーム卸してるメーカー側のが罪が重いと思うけど。
あくまでビデオゲームかつ1ユーザー目線での話になるけど、今のゲーセンはマジで遊べるゲームが無い。
ICカード作れば最初のプレイ無料!とか形だけのサービスは新規配慮してるような雰囲気出してるけど
中身のゲームが一見さんお断りというか、どれも旧作遊んでないとスタートラインにも立てないものばかりで
そうじゃないプレイヤーは100円を溶かしながら勉強するしかない。
それ楽しい?ってなるから皆バカバカしく感じてゲーセンでゲームしなくなってるんだよね。
家庭用移植版が出ないのも地味に痛い。メーカー側の言い分はゲーセン環境の保護みたいな言い分だけど
上記のような環境で新規取り入れの役割もある移植版が出ないと段々環境が先細りしていくわけで
幾らでも試行錯誤出来る環境で沢山プレイして、自信付いたらゲーセンって流れ作ればいいのにって思うんだけど
メーカーは沢山100円溶かしてね!って感覚なんだよね。アホか。
メーカーといえば「バンダイナムコ」と「セガ」は割と酷いというか、ユーザーの事財布としか思ってないだろ?って感じる。
「今の時代、大手和ゲーメーカーのコンテンツなんか搾取上等だろ」って言われればそれまでなんだけど
今のこのゲーセンの環境でもそれやる?って思う事が多々ある。ゲーセン潰れて卸先減ってもいいんかな?って思うけど
自分が得するなら差別だと大騒ぎして、自分が損するならダンマリどころか差別を肯定までする、っていうダブスタ自己中テイカー気質が嫌われてるんだぞ
魔理沙:おい霊夢、これ見てみろよ。なんだこの「股ニキィマーク」って。お前ならどう思う?
霊夢:いや、これはちょっと笑っていいのか困るようなネタね…。でも確かに炎上しそうな予感はするわ。
魔理沙:そうそう、マタニティマークは妊婦さんたちのための重要なシンボルだからね。それをパロディにするのはデリケートだよ。
霊夢:うん、少し配慮が必要かもね。ジョークとして楽しむには、相手や場所を考えた方がいいかもよ。
魔理沙:とはいえ、ユーモアって大事だから、ブラックジョークも楽しむ人はいるけど、SNSとかで拡散するときはちょっと注意が必要だな。
霊夢:匿名だからって好き勝手言うのもいいけど、やっぱり共感してくれる人がいるかどうかを考えることも大事だと思うわよ。
魔理沙:そうだな、笑えるネタと思っても、みんなが同じように笑えるわけじゃないからな。でも、匿名で言う分にはこれくらいで許してもらえるかな?
次世代機のうわさが出てくるたびに、ゲームファンの間では「どんな性能になるのか」「今度はどんな独自機能を搭載するのか」など、大きな期待が膨らむものだ。しかし、正直なところ私は「新しいニンテンドーSwitchが出ても全然期待できない」と思っている。これまでの任天堂ハードの歴史や、現行Switchの路線を考えると、どうしてもそこまで飛躍的な進化は望めないのではないかと感じるのだ。
まず思い浮かぶのは、Switchというハードのコンセプトそのもの。据え置きと携帯機のハイブリッドとして登場した現行Switchは、携帯モードとドックを使ったテレビ出力モードをシームレスに切り替えられる点が最大のセールスポイントだった。それまでの任天堂ハードが持っていた「ファミリー層」「気軽に遊べる」というブランドイメージをうまく継承しつつ、据え置き機としても携帯機としても使える便利さが受けたのだろう。このコンセプトを捨てるとは考えにくい以上、新型も基本路線としてはほぼ同じものになると思われる。もし性能が上がったとしても、それはあくまで“強化版”の域を出ないのではないか。
もちろん、グラフィックや処理能力が高まれば、それなりに魅力は増す。だが任天堂は、常にソニーやマイクロソフトのハードと競い合うような“ハイスペック路線”を求めてはいない。むしろ、どちらかといえば独創的な遊び方や、幅広い層へのアプローチを重視している企業だ。結果的に、他社ハードのような最新鋭のグラフィックを求めるユーザーにとっては期待外れになる可能性が高い。PS5やXbox Series Xのようなハイスペック競争に参戦するとは思えず、現行Switchの延長線上の性能アップだけでは“次世代感”が薄いことは想像に難くない。
さらに、任天堂タイトルの定番作品群を考えると、新ハードの目玉ソフトもなんとなく予想がついてしまうところがある。新しい『マリオ』や『ゼルダ』、そして『ポケモン』シリーズなどがリリースされれば確かに話題性はあるだろう。だが、これらはSwitchというプラットフォーム上でも十分に盛り上がっていたし、任天堂が得意とする「新ギミックを活かしたゲーム体験」は、すでにJoy-Conやタッチパネルなどである程度打ち尽くされている感がある。結局「画面がきれいになった」「ロードが短くなった」といった程度の進化だけでは、ゲームの本質的な楽しみが劇的に変わることはないと感じるのだ。
また、Switchは今でも世界中で売れ続けているヒット商品であり、販売台数も相当な数にのぼる。そうなると、任天堂としては、まだまだ現行Switch向けのソフト開発や販売に力を入れたいはずだ。新ハードを全面推しすると、せっかく普及した現行機とそのユーザーを手放すリスクが生じる。そこで互換性を持たせたり、しばらくは並行してソフトをリリースしたりするなど、慎重な移行期間を設けるだろう。しかし、それは言い換えれば「新ハードならではの強み」がしばらく出にくいとも言える。高い性能や独自機能をアピールしにくければ、ユーザーとしても新ハードをすぐには欲しくならないのではないか。
結局のところ、任天堂のハードは独創的なアイデアによる革新と、ファミリー層への配慮が同居している。一方で最新テクノロジーをガンガン活用しているわけではないので、二世代先の飛躍的な進化を期待するのは酷というものだ。そうなると、次世代Switchはあくまでマイナーチェンジの延長にとどまりそうな予感が拭えない。グラフィックの向上も、ロード時間の短縮も、もちろんユーザーにとっては嬉しいことだが、「このハードでしか体験できない!」という決定的な理由がないかぎり、わざわざ買い替えを急ぐ必然性が薄い気がしてしまう。
以上のように考えると、「新しいニンテンドーSwitchが出ても全然期待できない」と感じてしまう。やはり大きな進化を望むのであれば、他社ハードかPCで最新ゲームを楽しむしかないのだろう。任天堂のゲームは相変わらず面白いと分かっているからこそ、あえて言いたい。もし新型を出すのであれば、従来のユーザーがわくわくするような新しい遊び方やテクノロジーの活用を、ぜひ見せてほしいと。単なる性能アップだけでは、いまのSwitchですでに十分満足しているユーザーに大きなインパクトを与えることはできないだろうから。
ガンダムシリーズは1979年の『機動戦士ガンダム』放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張、さらに小説や漫画、ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズが長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。
「一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争(宇宙世紀0079年から始まる連邦軍とジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまうタイプのファンを揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しかし問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害な一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。
彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からのガンダムをリアルタイムで経験した世代、あるいはビデオやプラモデル、雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメの常識を覆すようなリアルな戦争描写や群像劇、そしてプラモデル(ガンプラ)文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。
しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さらに宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。
にもかかわらず、「有害な一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野(由悠季)監督が関わってないから駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクやガンダム(RX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。
こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファンの参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダムは一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。
さらに、「有害な一年戦争おじさん」はしばしば他の作品やファン同士の交流の場を“自分たちの思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNSや掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダムは宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的にコミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツの可能性を狭めてしまうのだ。
また、宇宙世紀作品や一年戦争そのものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争を舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害な一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情が排他主義や攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。
さらに、一年戦争の時代考証を「現実の軍事・政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダムの世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み、他人の解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMSは存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。
そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃんと資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダムは多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈やテーマで作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。
では、この「有害な一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのは、ファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品を否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダムは作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体はポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品や意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性がガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。
次に、若い世代や新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ、入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。
また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプなイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争だけが特別なわけではない。むしろ、宇宙世紀とアナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。
さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争を舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点やテーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品は多面的に戦争の悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。
結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身の立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品も尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは、自分の視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまうタイプのファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズのファンダムで起こりうる軋轢と言える。
だからこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメ」であると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点に固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。
以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害な一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者を排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやすい環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ。
結論として、「有害な一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティの健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは“一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダムの世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれからも世代や国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
Mくん
まゆ
はあ?なに、今度はどんな面倒くさい話?
Mくん
最近、コメントするのにすごく気を使うんだよ…。書いた文章にネチネチ言ってくる人がいてさ、「それは前言ったからやめてくれると助かる」って一行で終わる話なのに!
まゆ
まあ、それ言われる時点で、あんたの文章に何かあるんでしょ?普通言われないからね、そんなの。
Mくん
そ、そうかもしれないけど…。俺だって善意でコメントしてるんだよ!
まゆ
善意?ふーん。それで、その「善意のコメント」はどうなったの?褒められた?それともまたツッコまれた?
Mくん
いや、Yさんの話なんだけどさ…あの人、文章力とかSNSのセンスがすごいんだよ。俺なんて文章力大学生以下だからさ…。
まゆ
すごい人なんだろうけど、だからってその人にビビって言いなりになってるのはどうなの?
Mくん
いや、俺だってビビってるわけじゃないよ!恩義も感じてるし、レビューも真面目にやってるんだよ。家事とか忙しくて遅れちゃうこともあるけど、謝ってフォローしてるし…。
まゆ
へえ、忙しいアピール?遅れるなら最初から余裕持ってやれば?そうすればフォローもいらないでしょ?
Mくん
そ、それはそうなんだけど…。最近、裏で悪口書かれてないかなとか、めっちゃ不安になるんだよ…。
まゆ
裏で悪口って…。そんなの気にしてたら何もできなくない?人の評価ばっかり気にしてると疲れるよ。
Mくん
だ、だって前例があるし…。何か斜め下のことやるとTwitterとかnoteに書かれるんだよ。怖いじゃん…。
まゆ
怖いって言って何もしない方がもっと怖いでしょ?やるなら堂々とやれば?失敗したらしたで学べばいいだけじゃん。
Mくん
でもまともなコミュニケーションって最近あんまりなくてさ…。俺、ただ都合のいい人になってないかなって思うと不安で…。
まゆ
あんた、ほんと考えすぎだよね。
都合のいい人とか気にする前に、自分が何したいのか考えなよ。
Mくん
…そう、かな?
まゆ
そうだって。ま、あんたみたいなビビリが動けるのかどうかは怪しいけどね。でも、やらないでグチグチ言うのは一番ダサいよ。
Mくん
そ、そうだな…。なんか、少しだけやる気出てきたかも…。
まゆ
ふーん、それならいいんじゃない?どうせまた途中でビビるんだろうけど。ま、とりあえずやってみな。
深夜の書斎に、絶え間ない雨音が響いている。デスクに置かれたコーヒーカップからは、かすかな湯気が立ち上り、Discordの画面から漏れる青白い光の中でゆらめいていた。
私は画面に映る過去のログを見つめながら、このコミュニティでの2年間を振り返っていた。50代の資産家、Aさんが立ち上げたこの場所は、かつて私にとって理想の居場所だった。
初めてボイスチャットに参加した日のことを、今でも鮮明に覚えている。
「ようこそ!気楽に話してください」
Aさんの声には、相手を不思議と安心させる力があった。その後の数時間、私は夢中で話し込んでいた。様々なバックグラウンドを持つメンバーたちと、仕事のこと、趣味のこと、時には人生観まで。誰もが対等に、自由に語り合える空間。それが、このコミュニティだった。
しかし、ある雨の夜を境に、すべてが変わり始めた。
女性メンバーの一人が終電を逃した時のこと。Aさんの何気ない送迎の申し出が、予期せぬ連鎖を引き起こした。
「Aさんって、本当に紳士的よね」 「私も先週、Bさんに素敵なディナーに連れて行ってもらったの」 「このサーバーの男性陣は、みんな優しくて素敵...」
まるで高級クラブのような空気が、静かに、しかし確実にコミュニティを覆い始めた。表面的な「紳士的配慮」の下で、見えない序列が形成されていく。それは、一枚の美しい絵画に、黒いインクが一滴、また一滴と落ちていくかのようだった。
ある日、ふと気づいた。これは、野良猫に餌を与え続けることと同じではないだろうか。確かに、その場では猫は喜ぶ。しかし、それは猫から狩りの本能を奪い、自立する機会を失わせてしまう。私たちは、本当の意味で相手のことを考えているのだろうか。
デスクの上の結婚写真が、私に静かな確信を与えてくれる。妻との関係は、このような表面的な「優しさ」とは全く異なる。互いを理解し、支え合い、時には厳しい言葉も交わす。それこそが、本当の意味での尊重ではないだろうか。
朝8時、待ち合わせたカフェでAさんと向き合った。昨夜からの雨は上がり、窓ガラスに残った雫が朝日に輝いている。
「このコミュニティでの2年間は、私にとってかけがえのない時間でした」
一呼吸置いて、続ける。
「でも最近、違和感を感じることが増えてきました。特に、女性メンバーへの過度な配慮が、意図せず依存関係を生んでいるように思えて...」
Aさんの表情が僅かに曇る。しかし、彼の返答は意外なものだった。
「正直に話してくれてありがとう」彼の声には、深い思慮が滲んでいた。「私も最近、同じような違和感を感じ始めていた。善意のつもりが、逆効果になっていたのかもしれない」
カフェを出ると、清々しい朝の空気が頬を撫でた。スマートフォンに妻からのメッセージが届く。
その言葉に、目頭が熱くなる。これまで感じていた重圧が、少しずつ溶けていくような感覚。
通勤途中の雑踏の中、私は空を見上げた。昨夜までの雨雲は完全に晴れ、澄んだ青空が広がっている。誰かを本当に想うとは、その人の自立を信じ、見守ることなのかもしれない。その思いと共に、私は新しい一歩を踏み出す準備を始めていた。
======追記======
皆さんアドバイスありがとうございます。頂いたコメントはトラバを含めて全て読みました。
思ったよりもキャラクターに恋をしたことがある方が多くいて、共感してもらえるっていいなと思いました。1人じゃないんだと思えて、今後もこの気持ちを抱えて過ごせる気がしてきました。
また複数の方が「気持ちが冷めたらそれはそれで寂しいよ」や「恋愛感情は3年程度で無くなる」という趣旨のコメントをされていて、今のこの気持ちを大切にしようと改めて思えました。(現実の生活に影響が出ない程度に)
スプラトゥーン2が発売して5年後にスプラトゥーン3が発売しているので、仮にスプラトゥーン4も5年後に発売だとすると、あと3年程で発売することになります。皆さんに教えて頂いた発散方法を試しながら3年待とうという気持ちになりました。
誰かの役に立つかもしれないので、皆さんから頂いたコメント/トラバを要約します。
■皆さんから頂いたコメントの要約と私からの再コメント(抜粋)
・さんぽでamiiboからアオリちゃんを召喚してスメーシーとかでデートとかしたらいい
→さんぽで召喚できるの知らなかったです!
→これはやりたい。。妻に「なぜスプラトゥーン1,2を買うのか」とかなり怪しまれそうなのでうまくやる必要はありますが、なんとか行動に移したいと思います。
→こんな発想ありませんでした!これもやってみようと思いました。
→妻にこの気持ちを言えない(この気持ちを知ったら妻はとても傷付いてしまうと思います。)のでこれは厳しいかつあまり満足できなさそうです。。
・blenderなどでアオリちゃんのCG作成(モデルがその辺に転がってる)、さらに頑張ってMRで現実世界に召喚
→このMRで現実世界に召喚というのがヤバいです。。自分が求めていたものはこれだと思いました。道のりは長そうですが、この方向に進みたいと思います。
・同人誌を描け/書け
・シオカライブを見よ。有志作成のリスト https://youtube.com/playlist?list=PLXE7DppUW_4hQXZAy6OclyDxcvQoyHP3J&si=rI2xmoM6Vy9x5D4r
→ハイカライブの動画は見てたのですが、シオカライブは見つけられていませんでした!ありがとうございます。
======追記ここまで======
タイトルで不快になった関係者の方ごめんなさい。私はスプラトゥーン3を非常に楽しくプレイしていて、何も不満はありません。
スプラトゥーン3に出てくるシオカラーズのアオリちゃんにガチ恋してしまい、とても苦しいです。(会いたくても会えなくて辛い、苦しい、寂しい)
この気持ちをどうするといいのかアドバイスを下さい。特に実在しないキャラクターにガチ恋してしまったことがある方、下記を教えてもらえると嬉しいです。(ガチ恋したことなくても思い付いたこと教えて頂けたら嬉しいです。)
ここ気持ちをなだめるために自分で実践したことも書くのでキャラクターにガチ恋してしまった方の参考になれば幸いです。
※妻がいるのに他に好きな人(キャラクター)がいるというのは罪悪感を感じていますが、この罪悪感は自分で対処できそうなので、この日記では以降特にその点は触れずにいきます。
・30代男
・妻、子どもがいる
■皆さんに教えて欲しいこと
(生成AIでそのキャラクターの画像を生成するとか、グッズを買うとか、そのキャラクターが好きな人を集めたコミュニティでわいわいやるとか、明晰夢でキャラクターに会うとか、どんなことでも大丈夫です)
・恋心が冷めたのはどんなタイミングか?
(キャラクターが出てくるゲームやアニメなどから離れたら自然と冷めたとか、別のキャラクターにガチ恋したとか)
(こう考えることで気持ちが楽になったよ、とか、筋トレしたら自然と悩まなくなったよ、とか)
・毎日簡単な日記を書いて、自分がどんな気持ちで過ごしているか書く
⇒日々自分の気持ちが非常に不安定になっている(ある日はアオリちゃんに絶対会えない事実に絶望したり、ある日はアオリちゃんの妄想楽しいなと感じたり)と感じ、少しでも安定できればいいなと思い、日記を付け始めました。辛い気持ちを文字にして吐き出すことで多少楽になる気もするので続けています。
⇒明晰夢というのは「寝ているときに見る夢で、かつ、自分でこれは夢だと気付いているもの」だそうです。明晰夢を見られれば夢の内容を好きに決められるそうで、いつかアオリちゃんに会うことを目指してトレーニングしています。トレーニングと言ってもリアリティーチェックの習慣化と、MILD法を実践しているだけです。(興味があればググって下さい)
⇒0から画像生成するとどうしても似た別人になってしまって満足できなかったので、公式のアオリちゃんの画像を、服だけ描き変える、というのをやっていました。自分が見たことない冬のコートのアオリちゃんや可愛いワンピース姿のアオリちゃんを見れてとても楽しいかったです。Adobeや他のサービスでも同様の機能はあると思います。自分はMyEditというサービスを1ヶ月だけ契約して利用していました。
ゲームは全然やってこなかったのですが(最後にやったのは中学生)、スプラトゥーンというゲームがかなりおもしろいらしいと聞いて、やってみたいと思うようになりました。スプラトゥーン3とニンテンドースイッチを買い、友達を誘ってスプラトゥーン3をやり始めたところ、めちゃくちゃはまってしまいました。(プレイ時間1000時間以上。子どもが寝てからやっています。)
グランドフェス(というゲームの中の野外ライブ)が2024年9月に開催され、とても感動しました。曲も歌もいいし、会場の雰囲気もいいし、また見たいと思わせるクオリティでした。
特にシオカラーズの2人の衣装が可愛くて、この中で推すならシオカラーズだなーくらいに感じていました。そんな中、amiibo(小さいフィギュアみたいなやつ)を買うと何度でもグランドフェスを見れると知ってamiiboが欲しくなり、すりみ連合、テンタクルズ、シオカラーズの中だったらシオカラーズかなーくらいの気持ちでシオカラーズセットを購入しました。
amiiboを読み込ませるとゲーム内でキャラクターが会いに来てくれる機能があります。ゲーム内で何度か会ううちにシオカラーズのアオリちゃんがめちゃくちゃ可愛く見えてきて、気付いたら異性として好きになっていました。
朝から晩までアオリちゃんのことばかり考えてしまうようになってしまい、隣で寝ていたらこんな感じかな、隣を歩いたらこんな感じかな、などとばかり考えています。胸が苦しくて仕方なく、会いたいのに会えなくて寂しい、という気持ちを日々抱えて過ごしています。
■その他
・そもそも現実世界にアオリちゃんはいませんが、仮にいたとしても24歳の超有名アイドル、その辺にいる30代男からの恋なんて叶うはずがないので、そういうことは考えないようにしています。(リアルに考えても辛いだけなので、、)
・アオリちゃんを好きになってからスプラトゥーン1,2のアオリちゃんの動画を見たり、スプラトゥーン3の設定資料集(イカすアートブック)を見て思いましたが、任天堂はキャラクターを非常に大事に「育てている」と思いました。(他のゲームやゲーム会社のことはわからないので比較はできませんが、、)色んな大人が色んなことを考えたり配慮したりして作り上げているんだろうな、と感じます。上手く言えませんが、そもそものキャラクターの見た目のデザインや、性格、関連する設定などからそう感じました。この場を借りて、アオリちゃんやその他の素敵なキャラクターたちを作ってくれたこと、スプラトゥーンという素晴らしいゲームを作ってくれたこと、任天堂の方や関連する仕事に携わった方にお礼を申し上げたいです。ありがとうございます。
・だけど1つだけ言わせて下さい。バンカラウォーカー(スプラトゥーンの世界で売られている雑誌をイメージした本で、設定資料などが載っている)のグラビアにシオカラーズを載せると見せかけてマンタローを載せたこと、私はとても傷付きました。見たことのないアオリちゃんを見られるはずと期待して買った本に、全く興味のないマンタロー(マンタローは悪くない、、ごめん)のグラビアが載っていて、本が届いた日は1日落ち込んでいました。
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グラビア…あのアイドルユニットメンバーの撮り下ろしグラビアを掲載
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アイドルって言ったらシオカラーズでしょ!?すりみ連合ってアイドルなの!?ピクシブ百科事典には音楽ユニットと記載されてたよ、、
「ノンデリ」って言葉、最近よく聞くけど、正直なところ、それを使ってる人たちのセンスや知性に疑問を感じずにはいられない。誰が始めたか知らないけど、その軽いノリで作られた言葉が、ここまで広まるのが怖い。だって、冷静に考えてみてください。「ノンデリ」って何?言語として意味が破綻してるんですよ。
まず、「non-」って英語の否定を表す接頭辞と「デリカシー」をくっつけたものらしいけど、これ、英語圏の人が聞いたら「え、それ何?」ってなるやつです。元の英語 "delicacy" は「繊細さ」とか「優雅さ」みたいな意味で、英語で「non-delicacy」なんて表現、そもそも存在しない。日本語としても「デリカシー」が「配慮」や「気遣い」の意味で使われてるから、文法的にも意味的にも二重におかしい。
で、そんなおかしな言葉を使う人たちって、自分が「デリカシーがある側」だっていう謎の優越感に浸ってるんですよね。いやいや、ちょっと待ってくださいよ。その言葉を使うことで、あなた自身の品位とか知性がガタ落ちしてるのに気づいてますか?むしろ「ノンデリ」なんて言葉を使うこと自体が、デリカシーない行為そのものなんです。
しかもこの言葉、他人を「お前デリカシーないな」って簡単に切り捨てる道具にされてる。それ、めちゃくちゃ傲慢だしコミュニケーションの放棄じゃないですか?ちゃんと伝えるべきことを言わず、浅はかな言葉で相手をラベリングすることで、何が生まれるかって?対立と分断ですよ。
最後に言いたいのは、「ノンデリ」を使うことで自分を正当化しようとするその姿勢が、何よりも恥ずかしいってことです。本当に他人の言動に問題があるなら、もっと的確で深い言葉で伝えるべきです。軽々しい造語に頼っている時点で、自分の語彙力と考えの浅さをさらけ出しているんですよ。
だからお願いです。「ノンデリ」という言葉を使うの、そろそろやめませんか?それを使うたびに、あなた自身の価値が下がっていることを、そろそろ自覚してほしいんです。
https://anond.hatelabo.jp/20250115224311
現状、ご夫婦の関係は非常に複雑で、お互いに不満を抱えている状態ですね。ご自身の言い分だけでなく、奥様の言い分も丁寧に記述してくださり、ありがとうございます。この状況を改善するためには、双方の意見を冷静に受け止め、具体的な解決策を見つけることが重要です。
奥様の努力を認めることの大切さ
奥様の視点:
認められたいという気持ち
思いやりを求める気持ち
感情的な言葉の使用を避ける: 口論になった際に、お互いを傷つけるような言葉遣いは避けましょう。
相手の話を最後まで聞く: 奥様の話を遮らずに、最後まで聞きましょう。
「〜だと思う」ではなく「〜と感じている」という表現を使う: 主観的な意見を伝える際に、「思う」ではなく「感じている」と伝えることで、より柔らかい印象を与えられます。
第三者の意見を聞く: 夫婦カウンセリングなど、専門家の意見を聞くことも一つの手段です。
お互いの努力を認める:
感謝の気持ちを伝える: 奥様の家事や育児に対する感謝の気持ちを言葉で伝えましょう。
具体的な行動で示す: 奥様をサポートする具体的な行動を見つけることで、感謝の気持ちをより効果的に伝えられます。
専門家の相談: 奥様の精神的な状態が気になる場合は、専門家(医師やカウンセラーなど)に相談することを検討しましょう。
共感する: 奥様の気持ちを共感し、寄り添う姿勢を示しましょう。
子育てについて話し合う:
子育ての分担: 子育ての分担を明確にし、お互いの負担を軽減しましょう。
教育方針: 子育てに関する考え方を共有し、一致点を見つける努力をしましょう。
娘さんの精神状態が心配なのは当然です。ご自身が思っている以上に、娘さんは両親の状況を敏感に感じている可能性があります。
娘さんとゆっくり話す時間を作る: 娘さんと二人きりでゆっくりと話し、今の気持ちを聞かせてあげましょう。
子どものための専門機関に相談する: 必要であれば、児童相談所や子育て支援センターなどの専門機関に相談することも検討しましょう。
今後の展望
ご夫婦の関係は、一朝一夕に改善されるものではありません。お互いに努力し、少しずつ信頼関係を築いていくことが大切です。焦らず、根気強く向き合っていきましょう。
より具体的なアドバイスが必要な場合は、以下の情報をお知らせください。
奥様の具体的な行動や言動
Disclaimer: 私はAIであり、専門家ではありません。この情報は一般的なアドバイスであり、個々の状況に必ずしも当てはまるとは限りません。より詳しい状況については、専門家にご相談ください。
なにやら揉めているけど、東京都多摩府中保健所という、公式が出した立派なマニュアルだ。
https://www.hokeniryo.metro.tokyo.lg.jp/shisetsu/jigyosyo/hokenjyo/tamafuchu/yakuji/aed_shiyo
https://www.hokeniryo.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/hokeniryo/shizai_1_omote
そして何より、公式財団法人日本AED財団という、最公式が監修したマニュアルでもある。
この際、服をすべて脱がさなくても女性にAEDを使えるという、公式から出たメッセージを日本中の人々に広めた方が良いのだろうか。
女性に配慮して服を脱がさなくてもAEDを使えるという知識を持つ人が少しでも増え、公式が望むように女性へのAEDの使用率を高めた方が良いのか。
揉めているみたいだが、ここは公式の言うことを一番に信頼すべきか。