はてなキーワード: 平和とは
昔々、ある村に神山健治という心優しい少年が住んでいました。神山は毎日村の周りの森で遊び、自然を愛でるのが大好きでした。ある日、彼は森の中で不思議な音を聞き、音の出所を探しているうちに、一匹の小さな押井に出会いました。押井は小さな動物で、その声が神山を引き寄せたのです。
押井は普通の動物とは異なり、知恵を持っており、話すことができました。押井は村の外れに住んでいたが、何らかの理由で森に迷い込んでしまったと言いました。神山は押井を元の場所に戻してあげることを決意しました。
神山と押井は一緒に森を歩き、その間に多くの困難を乗り越えました。谷を越え、川を渡り、夜には星空の下で語り合いました。その旅の中で、神山は押井だけでなく、自分自身の心の深さを知ることになりました。
やがて、彼らは押井の家に到着しました。押井は神山に大変感謝し、「君のような友だちを持って幸せだ」と言いました。ふたりは別れるのが寂しかったが、また必ず会うことを約束しました。
村に戻った神山は、押井と過ごした日々を決して忘れませんでした。彼は村の人々に押井の話を語り、みんなに自然を大切にし平和に暮らすことの大切さを教えました。
この物語の教訓は、「異なる存在との出会いが心を豊かにしてくれる」ということです。
ℋ𝒶𝓅𝓅𝓎 ℰ𝓃𝒹.
その平和を感じる余裕があったのに、なぜその時に真面目に考えなかったんだろうね?
例えば、理科の授業で植物の構造を学ぶ。花の花弁がどうこう、葉緑体の構造がどうこう、毛細の仕組みがどうこう。
そこに、「ある花は綺麗で、ある花は醜い!」とか「日本古来愛されてきた桜の構造だけ学べばよくて他の木は適当でいい!」みたいな価値判断は普通入らない。
社会の授業で、世界の国々の様子を学ぶ。アメリカの選挙制度はどうこう、ロシアの大きさはどうこう、世界の人口はどうこう。
そこで、社会の授業という枠組みで「アメリカの政治制度は正しく、中国は間違ってる!(逆も)」とか「北方領土!竹島!日本の国土!」という授業を何時間も続けるということは異常である。少なくとも社会科の枠組みではない。
性教育はどうか。
性器の構造。精通や生理。妊娠と出産。これらは理科的・生物学的側面といえる。
一方で、「成人するまでセックスを我慢しよう(逆にどんどんセックスをしよう)」とか「セックスの前に合意をしよう。その合意は空気ではなく口頭で行うべきで~」とか「堕胎の是非」とかは思想的な問題である。
だが、性教育は前者と後者が混然と一体になり、しかも数多くの自称専門家が、その政治思想の左右を問わず好き勝手言い合うことが平然と行われている分野である。
これらにカリキュラム的な問題が合わさり、「外部の『専門家』を学校に呼んで特別授業を行う」という他の分野ではほとんど見られない現象が生じ、ますます事実とそれ以外の混入に拍車がかかっている。
それも、たとえば修学旅行前の平和授業なら、目の前にいるのが被爆者の語り部であり個人的な経験を語っているということは、子供ながらでもわかる形となっている(そしてこれは社会科の枠組みではないはずである)。
だが性教育の出張授業になると、途端に目の前にいるのは実際の業績が不明で、科学的なことを語るはずが事実と思想の分別がつかない言動をする教授や医者のいうことを、子供たちは鵜呑みにさせられることになる。
実際、私の時は、女医が学校に来て、そういう教育を受けた。しかもその女医は「そんなんじゃ女の子にモテないよ」式の言動をテコに性教育を行うタイプの人間であった。
もちろん、学校という現場だけの問題であるとは言わない。文科省。公立・私立。地域や家庭。色々な問題が絡んでいる。
個人差が大きく、急激に変貌する個々人の身体。「初めての生理が来たら赤飯を焚いて…」という風習に代表されるような、事実・思想以前の地域的な性のあり方。
だが、それにしても、である。
仮の話、私が「全世界フリーセックス!」「0歳児でも100歳の老人でもみんなセックスセックスセックス!」と子供たちに教えることも、究極的には、性教育になる、ということである。それで私は学位も実績も無しに専門家を名乗れるということである。
何をバカなことを、とみんな思うだろうが、この逆の立場の「純潔教育」は堂々と行われてきたし、今も行っているところがある。
以前、母親たちが自発的に性教育の授業を行う取り組みが「ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか」というタイトルでドキュメンタリー番組として放映されていた。
その番組では、2000年代のいわゆる性教育に対するバックラッシュにも触れられており、自民の山谷えり子議員に直撃取材も行っていた。
番組としては、明記などはされないが、母親たちが先進的かつ真摯であり、バックラッシュに加担した山谷は後進的かつ不誠実であると描写したいようだった。
だが、性教育の「教育」を考えるとき、無論山谷の行為には旧来の「寝た子を起こすな」式の問題があったとしても、前述の母親たちの行っている授業が果たしてどこまで「教育」なのか、その側面には触れられているようには見えなかった。
色んなファンダム、界隈があるけどK-POPってその中でも異質でキモい気がする
そんでその原因はでっかく【競争システム、グローバルなファンダム、SNSを前提としたファン文化】の3つじゃないかね。
その異質さっていうのが具体的にいうと、ジャンルの中でファン同士の仲が悪すぎるってこと。推しグル以外のヲタクは全部敵だからずっとピリピリしてる。
他ジャンルと比べたとき、もしアニメジャンルだったらオタクはクールごとに始まるアニメチェックしてあれはおもろいわー!このキャラ好きだわー!早く2期だせー!って感じで絵描いたりグッズ買ったりとかして個人で楽しめるし、例え特定の作品しか好きじゃなくてもだからって他の作品を敵対視することって基本ないよね?なかった気がするけど....
でもK-POPって競い合う文化だからジャンルがずっとバトル漫画の世界で平穏な瞬間がない。
スカウザー使うみたいに戦闘力っていうのがある程度数字で出てくるんだ
毎週ほぼ毎日ある音楽番組の中で何回1位を取れるか、音源でそれほど再生数がいくのか、音盤どれだけ初動の数字を出せるか、アルバム出すだけでレースが始まるし、年末の賞レースで何個トロフィー貰えるのか、とか万年競争している。多ければ多いほそスカウザーでの戦闘力も上がっていく。
しかもそれで厄介なのが、ファン投票だったり音盤の売上でファンの力がそのグループの戦闘力に直結するもんだから間接的にオタクの火力バトルみたいな話になってくる。もう戦うしかないんだよ。オタクは金と声のデカさが武器に、ファイトするの。ずっと戦、戦戦。法螺貝鳴りまくり。
さらにオーディション番組というコンテンツが登場してから視聴者がデビューする子を決めるっていう決定権を持った体験をしちゃったせいで、ジャッジするオタクがますます増えた気がする。歌が上手いとか、ダンスが下手とか。
毎日誰が上手いだの下手だの言い合うのが通常モードのジャンル、K-POP。
でもお前のグル歌上手いヤツいないじゃんが悪口として使われるジャンル、ダンスバラバラだけど練習してるの?恋愛する暇あったら練習したら?がアンチのセリフでたびたび登場するジャンル、K-POP。
そんなシステムの中で仲良くできるわけないんだよな。
まずでっかく囲っちゃうけど海外のオタクは日本じゃしないなってライン越えの過激発言とかしちゃって日本でおい言い過ぎ!ってめちゃくちゃ叩かれるみたいな事象、結構あるよね。
同じグループを推しても言語圏で世界が違うから中国でめちゃくちゃ話題になってることも中華以外のオタクはさほど知らなかったり、色んなところで乱闘起きまくってるけど日本のファンの耳には入らなくて平和だなーみたいな時もある。
でもあるでっかい事件、騒動が起こった際にその言語圏ごとに意見が分かれるときがあって、その時は同じグルのファン同士なのに喧嘩しだす。
オリンピックじゃないですよ。
国背負ってるのか?っていう熱量で闘いだす。
どことなら仲良くできるんだよ。
日本はK-POPと1番深い関係があるしほとんど必ず日本デビューはするし日本だけで何箇所もツアー回ったりするから、その特別性で無駄に叩かれるよね。
だって音楽市場世界2位なんだも〜ん、音楽イベント盛んなんだも〜ん、元々ジャンルとして人気あるから新規参入しやすいんだも〜ん。
でもそれは他国から見れば特別待遇にしか見えないんだよね、けどもうそんなのはオタクに言われてもさ〜って。
むしろ韓国の活動より日本活動増えちゃって韓国中心に他のオタクからブチキレられるみたいなのも昔からよくあるよね。でもそんなの日本のオタクはどうしようもないじゃんな、そこで不買しますねとかいう話でもないのに...難しすぎる。そんないうならお前も日本来い、って言いたいよね〜
本当に仲良くないな.....
その競争システムとグローバルファンダムにSNSっていうのが融合しちゃってさらにカオスを生んでる状況。
あるオタクはSNSでペラペラしゃべって、あるオタクはそれに噛みついて。
でもSNSで自分の意見が全世界から観測できちゃうってこと抜け落ちてる人多いし、その認識があっても甘い人が多すぎる。
だからこそ、【撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ。】って言葉、全員覚えるべき。
【撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ。】
SNSでぽちぽち発信するのは特にK-POPというジャンルにおいては戦場で銃弾を放つこととあんまり変わらないと思う。誰かに撃ったつもりなくても流れ弾で撃たれてる人がいる。だから本当に思ったことだからってなんでもかんでも言うべきじゃないと思う。こんなに敵だらけの界隈で、それは宣戦布告、先制攻撃になりかねない。それを受け取った全然知らないやつから殴られる可能性ある。気をつけて。
しかも普通にいいことだけ投稿したつもりでも勝手に責められてると思って襲いかかってくるヤツもいる。
だからそもそもSNSで発信した時点でなにかしら言われる可能性あるって考えてた方が、急に殴られても不意打ちじゃないからダメージ少なくなるはずなんだ、きっと。
あと自分のSNSなんだから好きに言わせてっていう人もいるけどそれはできたらいいけど現実としてそんな上手くできるような界隈じゃないの、分かるでしょ。(戦場設定だからね)
自分で公開するって決めて全世界に見えるように投稿してるんだからそれは発信した側から干渉しにきてるとも考えられるんじゃないカ?
本当に誰からも邪魔されたくないなら非公開にして鍵かけて投稿しまくるようにしないと。備えはね、しとかないと。
言語のニュアンスだったり文化の違いで理解されなくて意図してない風に拡散されて叩かれたりするヤツ、あれマジで無駄すぎる
誰かの翻訳を鵜呑みにしてへーですぐ叩き行為に入るな、まずその翻訳ミスってたら無意味に怒ってることになるけどいいんすか?
ニュアンスを理解せず◯◯が酷いこと言った!とかすぐ言い出すのもアウトね、早いよ武器持つのが
「大抵に、何もかもおかしい」
この時期になると、世間が一貫にクリスマスという不思議な状態に入るのは、毎年のことながらうんざりする。ピカピカの誕生日を心の底から祝う人なんて、いったい世の中に何人いるのだろう。でも、ディズニーランドで見たハリボティ・ホームのような世界が結構、大真面目で演じられている。ライトアップにシャレオの音楽、キラキラの雪やキャンディークのイルミネーション。誰かの作り上げた個人的大喜劇を全国の突っ赤なイベントにするのは、最もこの国らしい。
私は29歳、独身。毎年この時期が来ると、一緒にして欲しくなる。消費をんだものの減額セールのためにごリンをしたり、ケーキやクリスマス決めつけで家中を食い散らすとか、何かと迷惑だ。大体、周りを見てもわかるように、何でもかんでも恋人をでっちあげして楽しんでいるように見える。私のいたる所でも、「クリスマスは何をして過ごすの?」という話題を分かち合いのように振られる。回答に迷ったおしゃべりながら、自分の何のためにまともなプランもない自分を磨り倒されていくような気分になる。
充ち満ちた学生時代の飯の光景や、サークルで出会った知り合いがちょっと笑顔で水玉を貼ったケーキをラインにして撮ってるSNSの写真が盛り上がる。何を学んだらこうなるのか。平和すぎるドラマをこの盛上げ方に携えている不思議なのは、自分の我慢や不調な環境を、ある意味解放しているのかもしれない。
でも、「公開された大パーティー」に自分がそのり躊躇したことなんて、一度だってないと思う。うん。本当はそんな感情も出したい。エンドレスが少しも有意義であれば、と、その地味な心がどこかでうごく。だからこの時期になると、フォンデの問題も、ネクタイの名書も絶対に出来ない。