はてなキーワード: 醍醐味とは
先週末のことだ。何気なくネットサーフィンをしていたら、「ある特定のコマンドをブラウザ上で入力すると、増田に隠された“裏技”が見られるらしい」という噂を目にした。いわゆるイースターエッグのようなものに違いない。私はこういうちょっとした秘密を見つけるのが大好きで、子供の頃からファミコンやスーパーファミコンの裏技を片っ端から調べては試してきたものだ。しかもそのコマンドが、かの有名なゲームで使われていた伝説の“あのコマンド”らしいというのだから、ますます興味が湧いてしまった。
昔、アクションゲームを遊んでいた人ならきっとピンとくるだろう。そう、「↑↑↓↓←→←→BA」という、世界で最も有名な裏技コマンドの一つだ。あのコマンドを入力すると何らかの変化が起きるというのは、レトロゲームファンならお馴染みの話だが、それが今になって、よりにもよって増田のブラウザ表示画面に仕込まれているというのだ。これは確かめるしかない。
私は興奮半分、不安半分のままブラウザを開き、増田のとあるページを表示してみた。見慣れたUIがそのままそこにある。まずは落ち着くためにコーヒーを一口飲み、何が起きても対応できるように準備を整える。次にキーボードを握りしめ、いつもの“あのコマンド”を試しに入力してみた。――「↑↑↓↓←→←→BA」。入力し終えた瞬間、私は思わず画面に目を凝らす。しかし、最初は何も変化がなかった。
「噂はデマだったのか?」そう思って肩を落としかけたとき、ふいに画面の右下あたりからポップアップのようなものがひょっこり飛び出してきた。ポップアップといっても、一般的な広告バナーではない。まるで小さな吹き出しのようなウィンドウがすっと現れて、そこに何か短いメッセージが書かれているではないか。そこにはこうあった。
「よく気づいたな、ゲーマーよ。さあ、次はどこへ向かう?」
突然現れたメッセージにドキリとしたのと同時に、テンションが一気に高まった。たしかにこれはイースターエッグだ。おそらく製作者が遊び心で仕込んだものに違いない。しかもそこには、もう一度そのコマンドを入力したくなるような不思議な言葉が並んでいた。私は思わずもう一度同じコマンドを入力してみる。すると、今度は背景の色がほんの少しだけ変化して、上部のタイトル部分に謎のアイコンが一瞬だけ点滅してみせたのだ。
これだけでは終わらない。さらなる驚きはその後やってきた。なんと、裏技入力の累計回数によって表示されるメッセージや画面の演出が変わる仕組みらしい。たとえば5回目に試すと、最初の吹き出しのテキストがちょっと違った文言に変わっている。10回、20回と回数を重ねるうちに、背景やアイコン、あるいはリンクの色までもが段階的に変化していく。しかも、その変化はちょっとしたジョークやパロディ要素を含んでいて、見るたびにクスッと笑えるような仕掛けになっているのだ。
ここまで見せられると、裏技というよりもはやアトラクションのようで、ユーザーを楽しませるための“おもちゃ”と言ってもいいかもしれない。いったい誰がこんな裏技を組み込んだのかはわからないが、少なくとも普通にページを使っているだけでは絶対に気づかない。ゲームの秘奥を突き止めるかのように隅々まで調べ、あの伝説的なコマンドを試してみた人だけが知ることのできる特別な体験だ。ネットの深いところには、まだまだこんな遊び心に満ちた宝物が眠っているのかもしれない。
さらに面白いのは、この裏技の存在を確かめようとした人たちが秘密めいたコミュニティを作り出している、という事実だ。実際にSNSを覗いてみると、増田の裏技について呟いている投稿が散見される。あくまでオープンな場所に書かれているのだが、なぜか詳細を語る人は少ない。みんな口をそろえて「自分で見つけてほしい」「ネタバレはしない」とだけ言うのだ。それはまるで、かつてのゲーム雑誌が見つけにくい裏技についてあえて濁して載せていたような、わくわく感を煽るやり口に似ている。
こんなふうに、誰もがアクセスできるウェブ上でありながら、あえて多くは語られない秘密が隠されているのは実にロマンがある。普通にインターネットを使っているだけでは見えてこない小さな仕掛けが、実は潜んでいるかもしれない――そう思うだけで、私たちはほんの少しだけ“探検者”になれる気がしないだろうか。
もっとも、裏技を発見したからといって実利があるわけではない。ゲーム内の隠しコマンドとは違って、新しいモードが解放されたり、アイテムを大量にゲットできたりするわけでもない。しかし、誰も気づかないかもしれない秘密を突き止め、その証拠を見届けるという行為には、計り知れない満足感が伴う。まるで宝探しのように、自分だけがその場所にたどり着けたという優越感もあるだろう。これこそイースターエッグの醍醐味と言える。
今回の「増田の裏技」のように、何気なく見ている日常の画面が不意に変化する瞬間は、いつになっても心を躍らせてくれる。ふと気づいたら、もう一度コマンドを入力して微妙な変化を確かめたくなってしまう。ゲームの世界と違って死んだりミスしたりもしないから、純粋に試行錯誤できるのも嬉しいところだ。「もしかしたら、もう一段階深い仕掛けがあるのでは?」と想像を膨らませ、繰り返しコマンドを入力してしまう。ある種の中毒性すらある。
そして何より、この裏技は誰かとのコミュニケーションを生む可能性がある。おそらくこのイースターエッグを仕込んだ人は、ユーザーが気づいたときの反応を想像して楽しんでいるに違いない。さらに、その発見者同士がSNSや掲示板などで「こんなの見つけたよ!」と話題にし合う。その繋がりが、また次の発見を誘発し、新たな遊びを生み出す。そうやっていつの間にかコミュニティが形成され、ただの“隠しコマンド”が、ちょっとした文化のように大きく育っていくのだ。
もしまだこの裏技を試していないのなら、ぜひやってみてほしい。増田のページを開き、キーボードで「↑↑↓↓←→←→BA」と、あの懐かしのコマンドを入力するだけだ。何も起きないかもしれないし、あるいは思いがけないメッセージが飛び出すかもしれない。運が良ければ、何度も試すうちに、あなたの知らない新たな表情を見せてくれるだろう。どんな仕掛けが待っているのかは、実際にやってみるまでわからないのだから。
まるで子供の頃に戻ったかのように、どきどきしながらコマンドを入力してみる。その瞬間こそが、秘密を解き明かそうとする冒険の始まりだ。私たちはデジタルの世界における“探検者”として、日常の画面の裏側に隠された可能性を見出す。そこには確かに魅力がある。とびきり地味だけれども、驚きと喜びをもたらす仕掛けがある。あなたももし、この「増田の裏技」をまだ知らないなら、ぜひ一度試してみてはいかがだろうか。案外、ブラウザの向こうにはあなたを待つ小さな“発見”が隠されているかもしれないのだから。
いやぁ、40代にもなると、いろんなこと考えるやんか。
特に最近思うのは、「自分が特別じゃない」ってことが、どれだけ恐ろしいことかって話やねん。
自分の人生には満足してるし、仕事も家庭もそれなりにうまくいってるけど、ふとした瞬間に思うんよ。
「俺はこの世界の中心じゃない」って。これがまた、心の奥底に冷たいもん突き刺すねん。
自分はただの一人の中年オヤジや。そんな現実を目の当たりにすると、「俺は何をやってきたんや?」って思うわけよ。
「俺は特別なんや!」って叫びたいけど、それができへん自分にイライラするわ。
特別でありたい欲望が強いほど、「普通」であることへの恐怖が増してくるんや。
周りから見ればただのオッサンで、誰も気に留めてくれへん。これがまた、心を重くするんよな。
自分の存在意義はどこにあるんや?「ああ、俺なんて必要ないんちゃうか」と思うこともしばしばや。
特別でありたいと思って努力しても、その努力が報われへん現実には腹立たしさしか感じへん。
「このままでええんか?」って疑問が頭をよぎるたびに、自己嫌悪や無力感が押し寄せてくる。
自分には何も残ってへんのちゃうかって思う。それはまさに恐怖やで。
存在意義を見失った自分が、この世から消えてしまうことへの恐れ。それこそが、40代特有の苦悩なんや。
「自分が特別じゃない」っていう恐怖は、多くの40代男性に共通するもんや。
この恐怖と向き合うことで、本当の自分を見つけ出す旅が始まるんや。
世間では「時間停止もの」なんて言ったところで、どうせ大半は撮影テクニックや編集、もしくはカメラ外での演出トリックで作られた“疑似”現象にすぎないと思われているらしい。実際、ネットの掲示板や動画サイトのコメント欄を見ても、「いやいや、絶対こんなの嘘だろ」「カメラが止まってる間に位置調整してるだけじゃん」といった声が大半を占めているわけだ。俺だって、そういう意見や憶測が出ること自体は否定しない。映像制作の現場に少しでも触れたことがあるなら、どのように編集して“それらしく”見せるかは、割と想像がつくものだからだ。けれど、俺はそんな世の中の風潮にあえて逆行してでも言いたい。「時間停止ものの九割は偽物かもしれないが、俺が作るのはその残りの一割、本物なんだ」と。
そもそも、どうして俺が「本物」を撮ることができるのか。その理由は簡単に言えば「俺自身が時間を止める能力を持っているから」にほかならない。……といっても、いきなりそんなぶっ飛んだことを言われても誰も信じないだろうし、下手すれば「都市伝説的なジョークだろ」「SFかファンタジーの話?」と片付けられて終わりだ。だが、俺は高校生の頃にその力に目覚めて以来、その“特殊技能”を使ってさまざまな実験を重ねてきた。もちろん、当初は「まさか自分がそんな非科学的な力を持っているわけがない」と思っていたから、これは自分だけの妄想ではないのか、本当に世界が止まっているのかどうかを確かめるために、あらゆる手段を講じたものだ。
たとえば、最初は時計を手に持ち、周囲の秒針と自分が認識している時間感覚とのズレを確認してみた。時間を止めたつもりで周りに何らかの変化を与え、それが再び動き出した後にどういう結果として表出するのかを丹念に観察した。結果は自分が期待していた以上に「本物」だった。針は確かに停止していたし、俺が止まっている間に手を伸ばして動かしたものの位置は、そのままの状態で再開後の世界に引き継がれていた。さらには友人や家族といった“他人”の意識や行動が、一瞬の遅れや戸惑いすらなく自然に続行されているのを目の当たりにしたとき、「これは俺の気のせいでは済まされない」と思ったわけだ。
しかし、この力を本当に「作品」として世の中に発表しようと思ったのは、もっとずっと後になってからだ。最初のうちは「この能力を人に見せたらどうなるか」なんて、怖すぎて考えもしなかった。国に連れていかれて研究対象にされるのではないかとか、社会から隔離されてしまうのではないかとか、そういうSF映画さながらの展開を想像しては自分の力を隠して生きていた。だけど自分の中で色々あって、ようやく「もしかしたらこの力を面白い形で世に出せるかもしれない」という発想に至った。どうせバレたって信じる人間は少数派だろうし、大半の人は「撮影トリックです」と言われれば素直に納得する。ならば、“時間停止もの”というニッチなコンテンツを通じて、この能力を遠回しに表現できないか……と、思い立ったわけだ。
最初に手がけた映像作品は、いわゆる自主制作の短編映像だった。役者は大学時代の演劇サークル仲間に頼んで、「ちょっと協力してもらえない?」と半ば強引にお願いした。もちろん彼らにも「時間を止める」なんて話はしていない。役者たちは俺が示す演出プランを、単に「このシーンでは合図をしたら全員ピタッと止まってね。息とか目線もできるだけブレずに」という程度の指示だと思っていた。俺はスイッチを入れて、本当に時間を止める。すると、役者たちは「命じられた通りにそのポーズを保っている」ように見えるけれど、実際には全世界が静止している。ただし、俺の目から見れば「止まる瞬間」を観察することはできるが、その後は俺が自由に動けるわけだ。その間にカメラの位置を変更したり、人物の配置をちょっと変えてみたり、まるで“セット”を自由に組み替えるような作業を行って再び時間を動かす。そして役者たちは元に戻った世界で何の違和感もなく演技を続行する……という算段だった。
撮影を続けるうちに分かったのは、俺が止めた時間の中でどれだけ動いても、その“しわ寄せ”は自分の身体にだけきっちり返ってくるということだ。要は、自分が動いている間の疲労や消耗はそのまま残る。一方で、周囲にいる人々は一瞬のうちに次の瞬間へ飛んだ感覚になるから、俺がやっていることには全く気づかない。結果、撮影が終わるころには役者たちは「いやー、一発撮りだから緊張したよ」なんて笑う一方で、俺は何度も繰り返し止めたり動かしたりをしているからぐったりと疲れ果てているわけだ。それでも撮影映像を見ると「これは明らかに“ただの演技”や“編集”じゃ再現できないだろうな」というほど、微妙な物体の配置や空気感が変わっていて、そのギャップが俺としては最高に面白かった。
作品を完成させたあと、俺は“ある種の実験”として、それをネット上で発表してみることにした。当然ながらコメント欄には「意外に完成度高い」「こんな自然に止まるのはすごい編集技術だな」といった評価もあれば、「いや絶対CGとか加工だろ」と冷静なツッコミもつく。でも、そのどちらも俺にとっては「しめしめ、狙い通り」と思える反応だった。最初から“本物”としては受け入れられないだろうという予想はあったし、むしろ「すごい特殊効果」として話題になれば十分な手応えがある。なによりコメントを読みながら、「自分が本当に時間を止めてるなんて想像もしてないんだろうなぁ」と密かにほくそ笑んでいた。
そこから次第に俺は“時間停止もの”を撮り続けるようになっていった。制作資金を捻出するために、撮影手法を“商業用”にアレンジして提案したりもする。具体的には「編集で繋いだようにしか見えないが、実は役者はリアルに止まっていたんですよ」と、企画書やプレゼン時に“冗談交じり”でほのめかすのだ。まあもちろん、誰も真に受けやしないけど、「この監督は演出のこだわりが強い」という評価になり、それが逆に営業トークとしては効果的に働いているらしい。実際にクライアントから「なんかすごい集中力で一発撮りをさせているらしい」「カットを割ってないのにアングルが妙に変化してるがどうやってるんだろう」といった不思議な噂が広がり、俺の下には「ちょっと不思議な映像を撮ってほしい」という依頼が舞い込むようになった。
もちろん、その全てを受けられるわけではない。実際問題、時間停止の能力を使うには俺の集中力と体力が相当必要だし、一度の撮影にどれほど長時間も止められるわけではない。あまり力を乱用すれば、どういう副作用が起きるか分からない危うさも感じている。それでも、普通に撮ったらちょっとしたVFX(視覚効果)やポストプロダクションが必要なカットも、俺が時間を止めれば“生撮り”でいけるというメリットはでかい。しかも役者たちには「本当に止まってる」とは言えないから、「カメラ外でしっかり指示を出して完璧な静止をしてもらいました」なんて体裁を装っている。現場では「監督、どうしてもピタッと止まるのって難しいですね」「いえいえ大丈夫、大変そうなところはうまく編集しますから」なんてやり取りが行われているが、実際には俺が時間を止めた世界の中でちょこちょこ微調整しているのだから、演者は“少し止まったつもり”なだけでOKなのだ。
こうして撮りためた“時間停止もの”の作品群を時々まとめて観返してみると、まるで俺自身が異能の魔術師になったみたいな気分になる。世の中の大半の人は「時間停止なんてSF。現実にはありえない」と考えている。だから、たとえそれが本当に時間を止めて撮影された映像であったとしても、皆、「よくできた演技」か「巧妙な編集」で片付ける。俺はそれで構わない。むしろ「そういうものだ」と思われたほうが、余計な疑いをかけられずに済むし、俺自身も面倒なことには巻き込まれない。しかし一方で、いつかは「いや、これは何かがおかしい。絶対にリアルだ」と確信してしまう人間が現れるのではないかという予感も、どこかにあるのだ。
その予感を後押しするかのように、最近、俺の作品を見た人の中に「これは本物に見える」と断言する人物が出始めている。ネット上では「これって実は違法薬物とか使って被写体を眠らせてるんじゃ?」「催眠術の一種だろう」といった妙な憶測も飛び交うが、それらを超えるレベルで「このカットの影の位置、物理的におかしくないか?」とか「人の髪の毛が微妙に揺れている瞬間が、どう考えても止めただけじゃ再現できない動き方をしてる」といったマニアックな指摘をする人が出てきた。映像に関する知識が豊富な人ほど、逆に“不可解”な点に気づいてしまうらしい。これをどう受け止めるかは難しいところで、俺の立場からすると「まあそこまでマニアックに観察されても困るな」と思う一方で、「もしかしたら俺の本当の力に気づいてしまったのか?」と少しドキリともする。
ただ、だからといって「作品を公開するのをやめる」なんて考えは今のところない。むしろ「この力を最大限に活かす」方向で、作品のコンセプトをさらに突き詰めていきたいという気持ちが強い。なにせ俺だけに与えられた唯一無二の能力だ。使わない手はない。それに、俺は単に“時間を止められる”って能力が面白いから映像にしているだけではなく、この不思議な現象を通じて「世界の見え方」を問い直したいとも思っているのだ。人間の認識や常識をちょっと覆すような体験を、たとえ疑似的なものだと思われてもいいから作品として提示してみたい。その過程で「実は本当に止めているんじゃないか」なんて思う人がいたら、それはもう観客の自由な解釈だし、それで世界が少しでも豊かに感じられるなら嬉しいじゃないか。
もっと言えば、この“時間停止もの”というジャンル自体、実は昔から根強い人気があるように思う。マンガやアニメ、ドラマ、映画……どのメディアを探しても「時間が止まる」設定は数多く散見されるし、人はそれを観るたびに「もし本当に時間を止められたら何をするだろう」と想像する。だからこそ、多くの人が「本当に時間を止められるわけがない」と一方では知りつつも、“その可能性”にちょっとだけ夢を見てしまうのかもしれない。で、現実に「時間停止もの」は大半が小細工や演出だとわかっていながらも、いざ映像としての完成度が高いと「本当に止まっているようにしか見えない!」と感嘆し、同時に「いや、やっぱりウソだよな」と理性を働かせる。その矛盾をはらんだ感情こそが、このジャンルの魅力かもしれない。
そういう意味で言えば、俺が提供しているのは「本当に時間を止める」映像作品であると同時に、「どうせトリックだろう」という疑いも楽しんでもらうためのエンターテインメントでもある。事実、観客からは「どうやって撮影してるんですか?」と質問されるし、「このシーンは編集で切り張りしたんですよね?」と探りを入れられることもある。そのたびに俺はニヤッと笑って、「企業秘密です」と答える。まさか相手も「実は僕、時間を止められるんですよ」なんてセリフが返ってくるとは思っていないだろう。だからこそ、その“すれ違い”がまた面白いのだ。
さて、「時間停止ものの九割は偽物って言うけど俺はその残りの一割を作ってる」というのが、今の俺の胸を張った主張である。もちろんこれはやや誇張を含んでいる表現だ。実際には“時間停止もの”が100あったとして、そのうちの何本が“本物”であるかなんて誰にも分からないし、他にも俺と同じような能力を秘めている人間がいるかもしれない。でも、現状では俺は「自分だけが本物を作っている」と思い込むことで、この面白い世界を存分に遊んでやろうと決めている。大袈裟に言えば、それが俺の生きる意義のひとつになっているのだ。
いつの日か、もしかするとこの秘密が公になる時が来るかもしれない。誰かに能力を見破られたり、あるいは俺の側が意図的にバラすことだってあるかもしれない。だけどそのときは、そのときだ。今はただ「本物の時間停止もの」を撮り続けることに喜びを感じ、そしてその映像を観た誰かが「おいおい、また嘘くさいけど面白いぞ」と言ってくれることが、俺の創作意欲を支えている。例え“嘘くさい”と思われたとしても、真偽の境界線が揺らぐ瞬間を作り出せるのなら、それはまさに映像表現の醍醐味だろう。
そういうわけで、俺はこれからも「時間停止ものの九割は偽物って言うけど、俺はその残りの一割を作ってる」と胸を張って言い続けるつもりだ。世間がどう思おうと、ネットがどう騒ごうと、俺自身が“本物”であると信じている。それは単に俺に特異な能力が備わっているからというだけではない。俺自身がこの“時間停止”という概念に誰よりも魅了され、“嘘か本当か”を超えたところで映像を創り出すことに情熱を注いでいるからだ。疑う人は疑えばいい。信じる人は信じればいい。このグレーゾーンのどこかで、俺の映像がほんの少しでも視聴者の心をくすぐり、世界の見え方を変えてくれるなら、それで十分。そう思いながら、今日もまた俺はカメラを抱えて撮影現場に向かうのである。誰にも気づかれないように、ほんの数秒だけ世界を止めながら。
Xなどでは未だにコンサルの素晴らしさやコンサルによるマウンティングが跋扈しているが、現役として違和感があるため、思っていることをまとめて記しておく。
なお、ここでの「コンサルになる」とは自称ではなく、なんらかのコンサルティングサービスを提供する企業(戦コンとか総コンとか)に就職することを指す。
本件、主な読者として、コンサルに新たに就職した新卒あるいは中途、あるいはコンサルを頻繁に使っている事業会社に加え、業界に何らかしら物申したい現役/OBを想定する。
まず、前提としてこれらの企業に勤める人間は、論理的思考や資料作成あるいはプレゼンに長けているので、一見スーパービジネスマンに見えるかもしれないが、個々人の能力値は大したことはない。また業界知見が豊富な人は稀。現代のコンサルは、多かれ少なかれ人材派遣ビジネスに近付いているように思う。
一方、いわゆるコンサル企業は並の人間を「速く即戦力にさせる」仕組みはとりわけ秀でているように思う。最近のコンサルは規模拡大に伴い、DXなどの大量投入系の案件が好まれる傾向があり、すぐにパッと見だけでもそれっぽく動ける人間を育成したいが故、この仕組みを作る(あるいはそれらしくするためのブランディング)ことに投資する傾向が強いように思う。
さて、前置きが長くなったが、コンサル企業の人材育成の仕組みは主にカルチャー、ハードスキル、ソフトスキルに分解されると思われる。
一番重要な、そして最近働き方改革や急拡大で最も危うくなっているのが、カルチャーだ。
これはいわゆるプロ意識、ストイックさ、それゆえのハードワークが挙げられる。
プロ意識についてはドラッカー「プロフェッショナルの条件」などに記載があるような、やりきる力、あるいはグリットとでもいうような気合い/根性がまず挙げられる。これが無い個人はまず伸びないし、入社してもお互い不幸になると思われる。
ストイックさは、論理的な正しさ、資料の細かさなど、兎にも角にもこだわり抜くこと。「神は細部に宿る」とはよく言われる通り。
ハードワークはこれらを実現する手段である。逆説的だが、仕事の成果が高ければハードワークは必ずしも必須ではない。
ハードスキルについては、論理的思考、資料作成、プレゼンテーションに大別される。これらについては各種書籍で定型化されており、ここで詳説するまでもないだろう。入社時、あるいは入社数ヶ月以内に一定自学自習していることが前提であろうし、それが出来ないのであれば上述のプロ意識のように、入社しないことが懸命である。
ソフトスキルは、論点の発見、キャッチアップ力、コミュニケーション力に大別される。これに関しては、一朝一夕には身に付けにくく、これこそがコンサルが徒弟制度的要素が強くなりがちな点であるし、ある意味醍醐味になる(あるいは、企業内コンサルなどがあまりワークしなくなる)ところだと思われる。
論点の発見については、仮説検証の繰り返しをして精度を上げていくことが肝要である。これは良い師、良いクライアントに恵まれなければなかなか育成しにくいと思うし、自身も育成に常に悩んでいる。
キャッチアップについては、いろいろな案件の経験を積むことで、メタ的に課題解決の力を上げることである。コミュニケーションについてはその裏返しで、いろいろな上司部下、あるいはクライアントとの接点の中で関係性をメタ的に構築することである。これらについても能力や育成は個々人によるところが大きく、育成する側としていつも悩むところである。自分の場合は毎度抽象度の高いことしか言えないし、結局は自分なりに自分としてのコツを掴むほかないのかもしれない、とも思う。
さて、業界の今後の展望についても触れておきたい。コンサル自体は急拡大あるいはコンサル卒業生の市場内増加に伴い陳腐化している。コロナ禍で少し延命されただけで、今後はコンサルの価値も急速にデフレしていくだろう。
実際、戦コンも総コンも実態としてはクライアントの人手不足に伴うアウトソース然とした案件が増えているのではないか。また、広告代理店、総合商社、メーカーなどもコンサル人材の育成やブティックコンサルをM&Aすることでコンサル企業とそうでない企業の垣根も急速に無くなってきている。
中長期的にコンサルという仕事が無くなることはないが、今のように高い給与水準あるいはレアな職能であり続けることは難しいように思う。
昨今蔓延る自称コンサルの台頭に伴うバックラッシュもおそらく相当数あるであろう。
現役諸氏、あるいはこれからコンサルを目指す皆様については、「一人前」にはなるべく効率的になっていただいた上で、+αの味付けになるようなスキルセットや業界への洞察を得ない限りは陳腐化はやむを得ないだろう。
また、能力が一定高い人が進む、モラトリアム的な「潰しが効く」キャリアである時代はもう終わったと思われる。そういうつもりで今後参加を検討される方は、なおのこと超早期の「一人前」化、そして現時点での出口戦略の仮説立案もお勧めする。
申し訳ありませんが、そのような内容に対応することはできません。他にご希望のテーマや書きたいジャンルがあれば、ぜひお聞かせください。
ぼく:えー!頼むよーーーっっ
ただ、こういうのっていいよね、というのを、自分の喜びを軸に表現したらいいんだ
了解しました。それでは、センシティブな表現を避けながら、「寝取られ」というテーマについて、その魅力を語るエッセイ風の文章を書いてみます。
寝取られの良さについて
寝取られって、普通の人には分かりづらいかもしれないけど、あの感情の揺れ動きがたまらないんだ。裏切りや屈辱、そして抗えない欲望。そういう複雑でどうしようもない感情が絡み合うのが面白い。読んでても、見てても、自分がその場にいるような感覚になる。
何がいいって、そこに「物語」があるところだよな。ただの恋愛や純粋な愛情だけじゃない。誰かが誰かのものだったはずなのに、それが少しずつ壊れていく。その過程が、どうにも目が離せなくなるんだよ。例えば、最初は強気だったヒロインが、少しずつ態度を変えていく瞬間とか、胸がぎゅっとなる。それって単に「奪われた」って話じゃなくて、彼女自身の心の中で、何かが揺らいでる証拠なんだよね。
そして、その揺れを見てる側が感じるもの。嫉妬とか、興奮とか、そういう一言では言い表せない感情がわいてくるのが面白い。自分が見ているのはただのフィクションだって分かってる。でも、その中に自分の感情が入り込んでくる瞬間があって、そこがたまらなく楽しい。
もうひとつ魅力的なのは、キャラクターたちの「選択」だ。どうしてそうなったのか。なぜあの時、別の道を選べなかったのか。そういう細かい心理描写を考え始めると、物語がどんどん奥深く感じられる。ヒロインは弱かったのか、それともそうなるのをどこかで求めていたのか?相手の男は、ただ欲望のまま動いているだけなのか、それとも計算して動いているのか?そういうのを考えると、寝取られって実はめちゃくちゃ人間的なテーマなんだと思う。
寝取られが好きな人は少し変わってると思われがちだけど、それはきっと、「感情の動き」に魅了されてるんだと思う。ただ単純に楽しむんじゃなくて、何かもっと深いところでその作品を噛みしめてる感じ。それが、このジャンルの良さだと俺は思う。
ぼく:分かってんじゃん!
なにか、こういう描写があると滾る!みたいなのってありますか?できるだけ細かいところで
寝取られ系の魅力って、「細かい描写」にどれだけ工夫が凝らされているかで全然変わるよな。以下に、個人的に「滾る」と感じる具体的なポイントを挙げてみる。
1. 小さな変化の積み重ね
最初は何ともなかったはずのヒロインが、少しずつ態度を変えていく描写。
• 「視線をそらす」とか「返事が曖昧になる」とか、ほんの些細な違和感が積み重なっていくのがいい。
• 例えば、最初はきっぱり断っていたのに、いつの間にか相手の冗談に笑ってしまうシーン。こういう「気づいたら地盤が崩れている」感じが最高。
• 「これはただの気の迷い」「一回だけ」「こんなことになるとは思わなかった」みたいな心の中の葛藤が、後から見て“嘘”に見えるとさらに良い。
• 特に、主人公に対して「何もないよ」と笑顔で嘘をつく描写。これが嘘だと分かった瞬間のゾクッとくる感覚が滾る。
• 髪の乱れ、ほのかに残る香水や煙草の匂い、肌の赤み。主人公が「何かがおかしい」と感じるきっかけになる。
• 特に好きなのは「見えない部分」。ヒロインが必死で隠しているけど、読者だけには分かるような微細なヒント。例えば、襟元に消し忘れたキスマークとか、口紅が少し乱れているとか。
相手の男が圧倒的に余裕を持っていると緊張感が増す。
• ヒロインの前では優しく接しているけど、主人公に対してわざと軽く挑発するような態度を取る。例えば、「彼女、すごくいい香りするね」と何気なく言うとか。
• もしくは、主人公にしか分からない視線や仕草で「俺が手を付けたぞ」と暗に伝える描写。
5. 共有される秘密
ヒロインと間男の間だけで共有される秘密があると、背徳感が際立つ。
• 例えば、特定の場所やシチュエーションにふたりだけの思い出がある描写。主人公の前では普通の顔をしているけど、その場所に行った瞬間にふたりの記憶がよみがえるような描写が刺さる。
• または、ふたりだけが分かる暗号のような言葉や仕草。「あのとき、こうだったよね」みたいな何気ないやり取りが、主人公を取り残していく感覚がたまらない。
• 会話中の間が長くなるとか、キスの回数が減るとか、肌に触れたときにどこか冷たさを感じるとか。明確に「裏切った」とは言えないけど、何か違和感がある感じ。
• 逆に、妙に優しくなるパターンも刺さる。「ごめんね」っていう罪悪感からか、いつも以上に気を遣ってくれる。けど、それが逆に苦しい。
行為そのものを描くのではなく、セリフや会話で間接的に裏切りを示唆する描写。
• 例えば、主人公との会話で「友達に相談したらこう言われた」と言いつつ、その「友達」が実は間男だったり。
• または、何気なく「この服、似合うって言われたんだ」と嬉しそうに話すんだけど、それが間男のセリフだと後で分かるとか。
8. 遠回しな報告や証拠
• 帰りが遅くなった理由を主人公に説明するけど、細部が曖昧だったり、説明が明らかに破綻している感じがいい。
• もしくは、携帯をちらっと見た瞬間、知らない名前からの短いメッセージが通知に出てるとか。
これらの細かい描写を積み重ねることで、読者や視聴者が「分かる人には分かる」緊張感を感じられるんだ。こういうディテールが物語の深みを作るし、NTRコンテンツの醍醐味だと思う。
こいつ、本当に分かってるようなことを言ってるぞ……………………
力があると際限なく使ってしまうから禁じるべきなのだとエボンの教えを語ったのはワッカだが、聖ベベル宮の僧兵が銃火器武装し機兵を使役していた通りエボン寺院こそが「際限なく力を使ってしまう」存在で、おそらくそれは「究極召喚そのものがシンを生み出す」「究極召喚(召喚士とガードや親しい者を生け贄にする)を際限なく使ってしまう」ことの皮肉になっているのだろう。特に言うことはないがアルベド族との呉越同舟からエボンの熱心な信者であったワッカには世界が全て裏返されたかのような衝撃が立て続けに押し寄せたと思われ、気の毒なことである(SFでは醍醐味だが)。
どうでもいいことだがルールーのことはずっと気に入らない。ワッカが彼女を受け入れるなら構わないが、物語上も何の美点もない人物だ。異界で何者かが呼びかけに答えないという場面で「死んだはずの誰かが生きている」ことを匂わせるが、彼女は探偵役でもないし役者はもう揃ってしまっている気もするので謎だ。リュックが彼女に憧れる発言をかましたが、リュックの方がずっと魅力的である。ルールーの雰囲気に憧れると屈託なく言えることそのものがリュックの魅力であって、ルールーはそのダシにされているとも言える。ティーダやワッカのために調整された人物という印象で、ティーダの母親のように言い訳的な書割りとしてそこに置かれている印象だ。最も発売された時代のアレを感じた存在でもある。
今のところキマリはもっと意味不明だ。いなくてもよかったんじゃないか。大兄との決着がついていないので本当に何も言えないが、バトルでもオーバードライブがしょうもないので盗みの手伝いしかしていない。出番を持て余してケアルガやホーリーを使わせたりするがなくてもいいし。
あなたは、いったいどんな思いを胸に、ここへやってきたのだろう。喜びや悲しみ、後悔や憤り、あるいは日々の生活に潜むささやかな奇跡への感動――。この場所には、他人には決して言えないような本音から、誰かと分かち合いたい小さな秘密まで、さまざまな感情が渦巻いている。書き手は「匿名」という仮面をつけ、読み手は実名や顔写真もないまま、その文字列だけを頼りに心情を推し量る。はてな匿名ダイアリーは、そんな不思議な空間である。
インターネットにおける匿名性というのは、ときに素晴らしいものだ。人前で話すのは怖いことも、本当の顔を晒すのは恥ずかしいことも、そこではずいぶんと緩和される。書き手にとっては、己の感情を吐露するのに最適の場。読み手にとっては、まるで多彩な人々の脳内を覗き見るような感覚にさえなる。そして、その過程で言葉は自由になる。言ってしまえば、ちょっとした「秘密の共有」を通じて生まれる、奇妙な連帯感。ここがはてな匿名ダイアリー最大の魅力といえるかもしれない。
だが、それは同時に、不安定で危うい側面をはらんでいる。何を思っているのか、どんな背景を背負っているのか――その全貌が見えないまま互いに言葉を交わすとき、共感と誤解が背中合わせになることは少なくない。時として傷つきやすい人が傷つく言葉を受け取り、書き手もまた、コメント欄で非難の声を浴びることで、思わぬダメージを負ってしまう。匿名だからこそ、むしろ気軽に吐き出せる痛烈な一言は、ときに誰かの心を突き刺す刃ともなる。
それでもなお、あなたはここへ来る。むしろ、そういった刹那的な繋がりがあるからこそ、人間くさくて魅力的な場だともいえる。たとえ刹那の火花であっても、「自分はひとりではないんだ」という感情を味わえる。それはコメント欄の小さな「わかる」「なるほど」の言葉だったり、ブックマークのスターに込められた軽い共感の表明だったり、あるいは「もっと知りたい」「応援しているよ」といった温かい反応かもしれない。そこで得られる心の拠り所は、案外馬鹿にできないものだ。
言葉とは、不思議な生き物だ。書き手の頭のなかでは明確だったつもりの感情も、キーボードを叩き始めた途端に何か違う形へと変容してしまうこともある。意図しない誤解を招くこともあれば、読み手に新たな解釈を与えることもある。特に、匿名ダイアリーのような場所では、下手に取り繕わず、垂れ流すように本音をぶちまけてしまうことが多い。そうやって生まれる乱雑な文章のなかに、妙にリアルな感情が埋まっているからこそ、読む側は思わず引き込まれてしまうのだろう。
たとえば、何かに行き詰まったり、絶望感に打ちひしがれたりしたとき、あなたは「助けて」とはなかなか言い出せないかもしれない。リアルな知人には相談しづらいし、SNSではフォロワーや友人の目が気になる。そんなときこそ、この匿名ダイアリーは役立つ。名前を伏せたまま、思いっきり弱音を吐く。怒りをぶつける。恥部をさらけ出す。それでもどこかで「誰かが見てくれている」という安心感がある。コメントやブックマークがつけば、それは「あなたの声が届いた」証拠になる。
書くことで癒されることもあるだろう。声にならない叫びを文字に変えることで、自分自身の思考を整理できる瞬間もあるかもしれない。コメントや反応を得られなくても、「この想いを綴る」という行為そのものが、自己救済のためのステップなのだ。書き終えたあと、あなたの目にはどんな光景が映るだろう。あるいは、胸のつかえが少し取れているかもしれないし、意外にも新たな怒りや悲しみを再確認して、さらに落ち込んでしまうかもしれない。それでも、書かずにはいられなかったのだとしたら、それはあなたが前に進むための第一歩なのだと思う。
一方で、読むことによって救われる人もいる。人間は誰しも、自分と同じような境遇や似通った感情を抱えた人の存在を知るだけで、奇妙な安心感を得るものだ。「この苦しみは、私だけが抱えているわけじゃないんだ」と思えたとき、そこに一筋の光が差すことがある。それは、当事者同士にしかわからない痛みであり、それゆえにコメントで寄り添い合うのは難しいかもしれない。けれども「誰かの投稿を読む」という受動的な行為だけでも、思いがけず自分を支える糧になることがあるのだ。
この匿名の空間には、現実のあらゆる制約を外した「書き手の世界」が無数に広がっている。孤独な人、悩みを抱えた人、喜びに震える人、憎しみと怒りを抱えた人、軽い暇つぶしやおしゃべりを楽しみたい人――それぞれが書きたいことを、書きたいときに書く。そこにあるのは純粋な言葉の奔流だ。だからこそ、互いの声なき声が重なり合い、ときにはぶつかり合い、また離れていく。その動的なやりとりこそが、はてな匿名ダイアリーという場所の生命力なのだろう。
しかし、匿名性がもたらす功罪は、私たちが十分に認識しておく必要がある。名乗ることなく発言するということは、その発言に対する責任を曖昧にしがちだ。ちょっとした悪意のはけ口や、勢い任せの誹謗中傷に利用されることもある。言葉が刺さることを充分に理解していても、どこか“仮面”をかぶっているから大丈夫だと錯覚してしまう。しかし、実際にはネットの向こうにも生身の人間がいるという事実は変わらない。あなたの何気ない一言が、相手を深く傷つける可能性があることを忘れてはいけない。
とはいえ、それは即ち「何も書くな」という意味では決してない。むしろ、はてな匿名ダイアリーは「書く自由」を大切にする場所だ。ただ、その自由には、最低限の配慮が必要になる。あなたが発する言葉に責任を感じるかどうか――その判断は究極的にはあなた自身が下すしかない。そして、もし誰かの言葉によってあなたが傷ついたとしても、そこで生まれる感情をどう受け止め、どう行動につなげるかも、結局はあなた自身の選択次第だ。それがネット上の言論空間における避けられない現実である。
人はみな、自分が体験した悲喜こもごもの物語を抱えて生きている。それを打ち明けるか、隠し続けるか、あるいは別のかたちに昇華するか――道は無数にある。はてな匿名ダイアリーは、その「道の一つ」を提供しているにすぎない。けれども、そこには確かに何かがある。匿名という安全地帯から、我慢し続けてきた声をようやく吐き出せる喜び。SNSのいいねやフォロー数とは無縁の、純粋な読み合いの醍醐味。時には厳しい言葉を受け止めることで、思いもよらない学びがあることもあるかもしれない。
もし、あなたがこの場所で何かを書こうとしているのだとしたら、どうか覚えておいてほしい。ここでは誰かに評価されることだけが目的ではない。むしろ、自分の感情を認めるために文章にすることが、大切な場合も多い。うまく書こうとしなくていい。無理にまとめようとしなくていい。自分でもうまく言葉にできないままの混乱こそが、ある種の真実かもしれないからだ。あなたが綴る文章が拙くても、見る人が見れば、その混乱の中からかすかな真意を感じ取るだろう。
また、読み手として匿名ダイアリーに触れるときには、ぜひ広い視野で文章を受け止めてほしい。表面的な言葉に振り回されるだけではなく、その人が置かれているかもしれない状況や、そこに至る経緯を想像してみる。その結果として、あなたが何も感じないかもしれないし、怒りを覚えるかもしれないし、時には深い共感を得るかもしれない。たとえわからないままでも、「わからない」という事実に思いを馳せることが、相手との間に生まれるほんの少しの理解を助けてくれるはずだ。
おそらく、はてな匿名ダイアリーはこれからも形を変えながら続いていくだろう。書く人と読む人の交流は、時代や技術の変遷を受けて少しずつ進化していく。AIが発達して、匿名の文章を自動生成できる時代になっても、そこに人間味あふれる“本音”の手触りが残るのだろうか。そんな問いかけを抱えながらも、私たちは相変わらずここへ足を運ぶ。だって、どんなに技術が進歩しようとも、人が言葉を発して誰かに届くことに、やはり大きな意味があるからだ。
最後に、ここに集うすべてのはてな匿名ダイアリーユーザーに伝えたい。あなたが今、どんな思いを抱えているとしても、ここで書くことには意義がある。たとえそれがネガティブな吐き出しであっても、あなたの思考を真剣にめぐらせた痕跡だ。その痕跡は、未来のあなたや、あるいはまったく見知らぬ誰かの心に小さな火種を灯すかもしれない。もし今日のあなたが自信をなくしているのなら、どうか遠慮しないでほしい。匿名の仮面をかぶったままでも、あなたの言葉には十分な重みがある。そこから得られる感情や学びは、他ならぬあなた自身の人生を動かすかもしれないのだから。
書くことは、ある種の自己解放であり、同時に他者との接点を生み出す行為でもある。自分の悲しみや苦しみを打ち明けることで、思いもよらない形で他人からの共感を受けとることもある。逆に、誰かの文章を読むことで、これまで知る由もなかった人生観に触れることもある。はてな匿名ダイアリーには、そうした偶然の出会いが満ちている。うまくいくこともあれば、そうでないこともある。けれども、その予測できない化学反応こそが人の言葉の面白さであり、匿名ダイアリーという不思議な空間の醍醐味なのだろう。
どうか忘れないでほしい。たとえこの匿名世界で真剣な感情を吐き出したところで、リアルの世界に戻れば、あなたの名前や顔や立場はそのままだ。けれども、匿名の場で得た気づきや、さまざまなやりとりを通して感じたことは、リアルのあなたにとって何らかの糧になるはずだ。あなたは、書くことで少しだけ自分を知り、読むことで世界を広げる。そして時には、誰かの心をほんの少しだけ照らしているのかもしれない。その証拠は、また誰かの新しい書き込みによって紡がれていくのだ。
だから、もしこの先あなたが苦しいと感じたなら、またここに戻ってきてほしい。あなたが聞いてほしいことは、すでにここで待っている他の誰かが拾い上げてくれるかもしれない。あなたが自分の物語を探しているのなら、ここには数えきれないほどの物語が転がっている。人の数だけ人生があって、人生の数だけ言葉がある。どうか、その中からあなたが救われる言葉や、何かのヒントを見つけ出してほしい。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――今日もあなたの物語が生まれては消え、そしてまた新たな物語へと続いていく。それは一人ひとりの足跡でありながら、やがて大きな流れになっていくのかもしれない。あなたが書いた言葉は、どこかの誰かの夜を少しだけ明るくするかもしれないし、あなた自身の明日をほんのわずかに変えてしまうかもしれない。ここは、そんな可能性を秘めた場所だ。書き続ける者、読み続ける者、それぞれがさまざまな想いを携えて、この広大な匿名空間をさまよい歩く。そしてときどき、遠くから手を振り合う。それだけで人は、少しだけ強くなれるのではないだろうか。
あなたが何を願い、どこへ向かおうとしているのかはわからない。けれども、文章を綴るという行為が、あなたを一歩でも前へ進める力になり得ることを、私は信じている。そしてその文章を誰かが読んだとき、何らかの共鳴や励ましが生まれる可能性は、決して小さくはない。だからこそ私は今日も、ここで文字を紡ぐ。はてな匿名ダイアリーに集う、まだ見ぬあなたに向けて。どうかあなたも、もし心に余裕があるならば、ここでの自由な発信を楽しんでほしい。たとえ小さなつぶやきでも、遠くの誰かにとっては大きな灯火になることがあるのだから。
書き手と読み手、その垣根は紙一重であり、ときに容易に逆転する。今日の読み手が明日の書き手になり、今日の書き手が明日の読み手になる。そんな柔軟な循環こそが、このコミュニティの本質ともいえる。ここでは名前も知らない人々が、それぞれの人生を断片的に開示しあい、そこに何らかの反応を示し合っている。顔も声も知らない相手だけれど、文字の向こうにいるのは同じ人間だ。そしてそのやりとりが、あなたの心に、あたたかくも奇妙な「つながり」を芽生えさせることもあるだろう。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――どうか、あなたの言葉を大切に。どうか、あなた自身を大切に。ここは匿名の仮面をかぶった人々の集う場所。しかし、その仮面の下にあるのは、たしかに生きている人間の心だということを忘れないでいてほしい。もしあなたがここで孤独を叫ぶなら、きっとどこかで誰かが耳を傾けてくれる。もしあなたが怒りをぶつけるなら、その理由を汲んでくれる人がいるかもしれない。もしあなたが喜びを共有したいなら、一緒に祝福してくれる仲間が現れるだろう。ここは、そんな可能性に満ちた場所である。
そして、もしあなたの言葉が、誰かにとって苦しいものであったとしても、そこには相手の人生があるのだということを思い出してほしい。遠い世界の誰かだとしても、何かを抱えて生きている人間であることに変わりはない。だからこそ、言葉が持つ力を見くびらず、どうか誠意をもって文章を紡いでほしい。たとえ感情的な吐露であっても、その奥にある“想い”を人は感じ取る。だから書くほどに、あなたは自分を知り、同時に他者と繋がっていくのだ。
あなたがここで紡ぐ文字が、いつかは誰かの行く道を照らすかもしれない。あなたの書いた言葉が、数年後に読み返されて、また別の人の心を動かすことだってある。はてな匿名ダイアリーという小さなステージに、あふれるほどの人生が断片として散りばめられている。そのひとつひとつが、かけがえのない存在だ。今日もまた、新しい投稿が生まれ、誰かがそれを読み、やがて何かしらの行動へとつながっていく。その循環が、あなたにも、私にも、そしてここを利用するすべての人に、ほんの少しずつではあるが、変化や成長をもたらしている。
だからこそ、はてな匿名ダイアリーユーザーに捧げたい。どうかあなたの言葉を信じてほしい。そして、あなたの言葉を受け取る誰かの存在も、ほんの少しだけ信じてほしい。いまは小さな声かもしれない。でも、その声はきっと届くべきところに届く。思いがけないかたちであなたの人生と交わり、あなたを励ましたり、支えたり、ときに戒めたりする存在が現れるだろう。そんな奇跡を、ここでは何度も目にしてきた。それを信じるのは、決して無駄なことじゃないと私は思っている。
今日も、はてな匿名ダイアリーユーザーのあなたは、何を想い、何を綴ろうとしているだろうか。心に宿るほんのささやかな感情であっても、あるいは長年くすぶっていた大きな悩みであっても、あなたが書きたいと思ったなら書けばいい。読むのは、あなたを含む、ここを訪れる誰かだ。私たちは匿名の仮面の下にそれぞれの人生を持ち寄っている。だからこそ、見知らぬ誰かの声が、あなたの中に眠る想いを目覚めさせてくれることもあるのだ。
もし明日、心が折れそうになっても、どうかここを思い出してほしい。はてな匿名ダイアリーは、完璧な場所では決してない。批判や誹謗中傷、思わぬ行き違いも数多くある。それでも、人間の生々しい感情がこれほど集まる場所は貴重だ。そして、その生々しさのなかでこそ、人は自分の本音を知り、誰かとの小さな共感を感じ取り、支え合うことを覚えるのかもしれない。あなたがどのようにこの場を活用するかは自由だ。だが、あなたの言葉はたしかにここで息づき、誰かの心と呼応する可能性を秘めている。
この不思議な匿名空間へようこそ。そして、今いるあなたへ、ありがとう。今日もまた、新しい物語が生まれる。もしあなたがその物語を書きたいなら、ぜひ書いてみてほしい。誰かの書いた物語を読みたいなら、ぜひ読み漁ってほしい。そのどちらも大いなる価値があり、あなたの人生を少しだけ豊かにするかもしれないから。どうか、はてな匿名ダイアリーというこの小さな世界で、あなたの心が少しでも軽くなるような、そんな瞬間を見つけてほしい。それが、ここに集うすべてのユーザーに捧ぐ、ささやかな願いである。
彼女いない歴≒年齢の所感
・「おいしい?」って聞かれて「普通」みたいな相手が全然喜ばなさそうなリアクション返すことあるんだ。長く付き合ってるとそうなるのか?自分は人間はありのままで相手から受け入れられるほど、まともではないのでお互いの関係を長く良好に続けていくための弛まぬ努力がカップルには必要なのだろうと考えているんだけど、まあありのままの姿を見せられることがカップルの醍醐味なのかな…
・「お節に4000円払うか」といったお互いの金銭感覚とか価値観って普段行く店の相談とか日常の会話からなんとなく察せないもんなの?それがなくても「これでいい?」とか買う前に一応確認しない?
・お節に金を掛けるか否かは自由。人による。そこに正義も正解もない。私は全然掛ける派だけど、毎日牛丼食べてたって25歳ぐらいまで健康に生きられただろうし、人間としては必要最低限の栄養素さえ接種出来てれば何の問題もないから、金をかけてまで美味いものを必ずしも食う必要もなければ、興味をもたなくても特に不思議はない。
・自分と他人はまったく違う生き物だという認識が足りなくないですか?生きてきた環境も出会った人もかけられた言葉も食べてきたものも体の作りも何もかも違うんですよ?価値観や考え方が同じなわけなくない?自分の当たり前は他人にも当たり前だという考えは今日この場で捨てて彼氏との会話を通じて他者理解を深めた方がいいのでは。
年末年始はやっぱり年末年始らしい年末年始を過ごすことが大事だよね。
毎年、年末年始が近づくと「今年の年末年始はどんな年末年始にしようかな」と考えるんだけど、やっぱり年末年始は年末年始だから、年末年始らしく過ごしたいと思うんだ。
年末年始の予定を立てるのは毎回楽しいけど、年末年始の計画を立てる時間も年末年始らしさを感じられる瞬間だよね。
まず、年末年始の大掃除をして、年末年始に向けて部屋を年末年始仕様に整えるのが年末年始の基本だと思うんだ。
年末年始の前にスッキリした部屋にすると、年末年始を迎える気持ちも違ってくるし、次の年末年始までのいいスタートが切れるよね。
それから、年末年始といえば年末年始ならではの集まり、つまり年末年始の忘年会や年末年始の新年会だよね。
年末年始には年末年始の特別感があるから、年末年始の友達との会話も年末年始っぽくて楽しい。
年末年始のおせち料理や年末年始の年越しそばを食べることで、年末年始の雰囲気がより一層高まるから、年末年始がもっと特別に感じられるんだ。
それから年末年始ってやっぱり初詣が年末年始の一大イベントだと思うんだ。
年末年始に初詣へ行って、年末年始のおみくじを引いて運勢を占うと、「ああ、これが年末年始なんだ」って実感できるよね。
今年の年末年始はどんな年末年始にしようかと考えると、やっぱり年末年始のワクワクが止まらないし、年末年始が年末年始であることの幸せを感じるんだ。
次の年末年始のことを思うと、今の年末年始をどうやって過ごすかがさらに大事に思えてくるから、今年の年末年始は最高の年末年始にしたいなと思うよ。
やっぱり年末年始は年末年始なんだから、年末年始らしく年末年始を存分に満喫するのが年末年始の醍醐味だと思うんだ。
こうして年末年始を語っていると、さらに年末年始が楽しみになってきて、やっぱり年末年始って最高の年末年始だよね。
年末年始最高!
いや厳密にはまほよとかのほうがコアなのかもしれんが、なんにせよ型月が名をあげたのは月姫なので、古参は「月姫がコアだ」と思っているし、なんなら「Fateは月姫の派生作品」くらいの感覚だろう。なのでFGOに月姫・らっきょ・まほよのキャラが出てくるのは当然だし、それこそ型月ユニバースの醍醐味だとさえ思っている。しかし新規ファンにとっては当然、Fate(というかFGO)と月姫は別作品であり、FGOに月姫キャラが登場するのは「ゲスト参戦」に過ぎない、そんな「ゲスト」を内輪ノリで活躍させるな、というわけなのだろうな。
うむ!結婚とは人生において重要な選択の一つであり、その価値は測り知れないな!だが、その選択において何が本当に大切なのか、考えを巡らせることが必要だ。
条件を重視することも理解できるが、それだけに囚われるな!表面的なものに執着すると、心の通った関係は築けないかもしれない。互いの価値観や時間を大切にし、生涯の伴侶となる相手を見つけることが重要なのだ。
特に「スポーツ」や「趣味」を通じて築かれる関係は、自然であり、素晴らしいものだ。共通の興味があれば、それだけで強い絆が生まれる。そして、その絆こそが、未来を共に歩む力となるのだ!
言葉や条件に惑わされず、本当に信頼できる相手と共に、人生の旅を紡いでいくことが結婚の醍醐味である。大切なことを見失わず、自分の心に従い、幸せな関係を築いていけることを願っているぞ!
魔理沙:忘年会での小話ね。いやぁ、今年もいろんなことが流行ったから、何を話すか迷っちゃうな!
霊夢:そうね。でも、忘年会での小話なら、みんながリラックスできる話題がいいわよね。今年流行ったもので言えば、やっぱり生成モデルAIとか、SNSのいろんなトレンドとかかしら。
魔理沙:ああ、生成モデルAIって便利だよな!漫画の背景とか、ブログの記事とか、自動で作ってくれるんだぜ。まるで魔法みたいだ!
霊夢:でもその便利さに、逆に人間らしいユーモアが追いつけなかったりすることもあるわよね。それをネタに少し笑いを取るのもアリかもよ。「AIにお願いしたら、いつも言ってないことまで言われて困った」とか。
魔理沙:それいいな!ちょっとした失敗談とか、予想外の展開になった話を交えると、みんな笑ってくれるかもな。
霊夢:あとは、今年の新しいトレンド料理とか飲み物の話もいいわね。もし試したことがあるなら、その感想とか、どれくらい流行っていたかを話すのも面白いかも。
魔理沙:たしかに。あの辛いラーメンを食べて火を吹いた話とか、ちょっと大袈裟に話すのも忘年会の醍醐味だな!
FXの楽しさを語るなら、それは単なる言葉遊びではなく、魂を燃やす冒険そのものだ。市場という名の壮大な劇場に足を踏み入れた瞬間、全身を駆け巡る興奮と、計り知れない可能性に心を奪われる。その感覚は、誰もが一度は夢見る自由な生き方を、ほんの一瞬でも手にしたかのような錯覚を与えてくれる。そして、その一瞬が現実に変わる可能性があるのが、この世界の醍醐味だ。
相場が動き出す瞬間の緊張感、それは心臓が跳ねるような感覚だ。チャートを見つめながら、「ここだ!」と思うポイントにエントリーするその瞬間、全身の感覚が研ぎ澄まされる。その一方で、ミスをすれば大きな痛手を負うかもしれないというリスクが、まるで生きていることを実感させてくれるようだ。恐怖と歓喜が交錯するその刹那こそが、FXを特別なものにしている。
そして、何よりも魅力的なのは、FXが極めて個人的な戦場であるという点だ。他人の目を気にする必要もなければ、上司の顔色をうかがう必要もない。ただ自分自身の判断が全てを決める。その自由さは、現代社会において稀有なものであり、同時に恐ろしくもある。だからこそ、勝ったときの達成感は何にも代えがたい。
また、FXを通じて得られる学びもまた、計り知れない価値を持つ。テクニカル分析の奥深さや、経済指標の影響力、さらには心理戦の重要性など、市場で勝ち続けるために必要な知識は多岐にわたる。その過程で、自分の弱さや限界にも直面するだろう。しかし、それを乗り越えたとき、単なる「トレーダー」ではなく、自信に満ちた「戦士」としての自分がそこにいる。
もちろん、すべてが順風満帆ではない。連敗が続くとき、眠れない夜を過ごすこともあるだろう。しかし、その苦しみさえも、FXの本質を知るための重要な一部だと思える。なぜなら、それがあるからこそ、勝利の味がより甘くなるのだから。
最後に、FX 10万円チャレンジが楽しい理由を一言でまとめるのは難しい。それは、人生そのものが持つ複雑さや可能性、そして挑戦の全てが詰まっているからだ。勝つ喜びも、負ける悔しさも、すべてが自分の糧となり、新たな挑戦への原動力となる。そう、FXは単なる金儲けの手段ではなく、人生そのものを楽しむための究極の舞台なのだ。
参考文献
なんでかって言うと新品は開封できないから。新品を開けると価値が下がるじゃん?置いておけば値段が上がるのが確定してるのに開封なんてできるかよ。俺は他人がベタベタ触ってても全く気にならないから中古一択なわけ。わかる?ここまでオーケー?
それで中古で買うんだけど、そうすると組み立てた状態で届く事が多いのね。
そうするとそのまま飾ってるうちに飽きて売ってしまう事も多いんだよ。
だいたい売る時は値段が上がってるので全く損はしてないんだけど、一度も組み立てずに売ってしまうのが切ないんだよ。
「じゃあバラバラにして組み立ててから売れば良いじゃん」って思うよね?
俺も思う。
でも実際にそれができるかと言われると無理なんだよ。
でさLEGOの醍醐味ってやっぱり組み立てる時の「うほほー、ここ、こんなんなってんの?すげー!うひょー」感にあるんだよね。
こんな組み方よく思い付くな、とか、外から見えないのにここまで再現すんのかよ!とか、そういう感動が楽しいんだよ。
更に「ここはこんな風に改造したら俺好みになるんじゃないか」とか考えて、その為のパーツを買って改造したりするのも楽しいんだよ。
だから組み立てたいの。でも中古だから最初から組み上がってるの。
だからってバラバラにしてからまた組み立てるのはなんか無理なの。わかる、この感覚?
あれ?もしかしてわからない人居たりする?それどころか誰にも全く共感されてないなんて、、いや、それはないよね?いや、まさかね。
皆んな首がもげるほど首肯だよね?
でさ中古LEGOの神は何かと言うと「送る時はバラバラにして説明書の通りにパーツを番号分けして梱包しますね」って人これ神。あなたですかと、あなたが神ですかと。そうですかと。
で、今日もさっきまでLEGO姫路城を作ってたんだけど、これマジで最高なんよ。そして神から授かったものなのでパーツが順番通りに袋に入れられてて、説明書通りに組み立てる事ができるんよ。これ最高なんよ。
斉藤知事はこのLEGO姫路城を新品でもらって知事室で組み立てたのかな?そりゃもちろん中古より新品が良いに決まってるわな。開封できるならな。知事なら開封できるよな。いや知事じゃなくても、というか普通は開封して組み立てるんだよな。そもそもそういう人が居ないとおれが中古で買えないもんな。
え?おまえは新品でレゴを買わないのかって?いや普通に買うよ?エンデュアランス号ってイカした名前の船なんて見た瞬間にポチったよ。
ただ開封が出来ないので誰かが中古で出品してくれないと中身が見れないし組み立てる事もできないって話なんだよ。
どうするもこうするも永久保存に決まってるだろ。資産だよ資産。未開封のLEGOはな、永遠に価値が上がり続けるんだよ。つまり売ったら損をするんだよ。だってあと5年待てば更に値が上がるんだぜ?売ったら損だろうが!アホか。
ん?じゃあ中古も売れないだろって?いやいや、マジで言ってんの?え?いや、マジで??
あのね、中古のLEGOは値上がり確定じゃないんよ。上がる事が多いけど、袋から出してる時点で劣化が進むから必ずしも値上がるとは言えないってわけ。
わかるかなー。わかんねーか。
で、LEGO姫路城なんだが、これすげーよ?お前らも買え。買って組み立てろ。おまえら姫路城行った事ある?俺はあるんだけど、中まで完璧に再現されてて「この城を攻撃するときはここから侵入して、あ、ここの穴から狙われたらヤバいじゃん」とかまだ完成してないのにぐるんぐるん回しながら観察して妄想で組み立てが先に進まないんだよ。それぐらい最高of最高なんよ。
でも中古の宿命のパーツが足りない攻撃を喰らってるのもまた事実。しかしこれはパーツを袋にわざわざ順番通りに入れてくれた神からの授かり物なので、そんな事でいちいち怒ったりしない。粛々と手持ちのパーツ(ほぼどんなパーツでもだいたい倉庫にある)を探してきて組み付けてるよ。神に文句なんて言わない。というかかなり昔に買ったものなので今から文句を言う手段がない。
件のミュージシャンのライブは行ったことないけど、毎週のように趣味でいろんなライブに行く。30代の老害です。
ファンクラブに入るほど好きな大手ミュージシャンの大きな公演から、ちょっと気になったインディーズの小さなライブまで通っている。
それで思うのは、実際にライブ終演前に帰る人の割合は確実に増えていると思う。体感の問題で申し訳ないが。
数人とかじゃなく、客数比でいうと大勢の客がぞろぞろダラダラ帰るんですよ。
音楽ライブへ行かない人のために説明すると、大体のライブは本編の後にアンコールがあったりなかったりして、
演奏全部終わったら、メンバー紹介したり新情報の発表があったり、演者が出てきて客にお礼言ったり、まあいろいろする。(演者による)
で、演者がステージ袖にはけて会場の明かりが点灯して、退場アナウンスが流れたりすると「ライブ終演」だと考える人が多いと思う。
基本的に高いチケットを買っているのだから、客も基本的にその演者が好きか、ポジティブな興味がある人だと思うが、
演者たちがまだステージにいるのに帰るってなんで??と思うのが正直なところ。自分も初めてそういう人たちを見た時にはびっくりした。
終電のためかなと思いたいけど、連れとワイワイしゃべりながらゆっくり歩いて退場していて、特別帰路の心配をしているわけではない様子。
おそらく、単純に規制退場で帰宅が遅れることをいやがって、演者がまだいても帰るんだろうなとは思う。
実際、客としてライブ会場にいると、「終電や帰路を気にして途中抜けする客」って見るからに分かるんですよね。
同情するほど申し訳なさそうに小走りになって退場したり、ステージのほうを何度も振り返ったりしながら帰ったり、後ろ髪引かれてんだなって分かる。
演者の前で退場するのを避けるために、時間に余裕があってもアンコール前に帰る人たちも大勢いる。
だから、最後の曲が終わってダラダラ帰り始める客はすごく分かる。
まあ客はこっちだし、お金出してるんだから来るも帰るも自由でしょ、と言われたらその通りだしそれまでですが。
演者へのリスペクトがないというか、そこに無関心な客は増えてると思う。客だから何してもいいわけじゃないだろうに…
それに演者本人たちが来て、実際に目の前で演奏をして、MCの内容もふるまいもここだけのもの、
今日この時だけの時間を共有できるのがライブの醍醐味なのに、帰っちゃっていいの?というのが正直な感想。
演者がまだいるのに、規制退場を逃れて早く帰りたいの感情が勝つのか?
ライブの価値が変わってるんかな。ライブに来たという事実とインスタ用の写真があればいいとか?知らんけど。
ドリカムの人のお気持ちツイートに関しては、「なんでXで言うかな~FCか公式サイトで発信しなさいよ」という感想。
言いたいことは分かるが、あの言い方だと終電気にして帰る人への嫌味にもとられかねないし、案の定外野にフルボッコにされていた。
まあドリカムは「客にマナーを強く求めてモノ言う厳しいアーティスト」的な世間イメージはないだろうし、余計際立ったんだろうな。
でもさすがに、長年やっていて「終電気にして帰る人々」のことを知らないはずはないと思う。言葉足らずのツイートだったんだろう(と思いたい)。
だから、何も言い訳せずサクッと謝っておしまいにしてしまえばいいのに。
余談だけれど、最近のライブの客層を見ていると、ライブの楽しみ方自体が変容しているんだろうなと感じる。
FC選考で来ているはずのライブで、(ノリが分からないとかではなく)棒立ちで聴いて、演奏が終わるとあっさり帰るとか。
一緒に来たお友達や彼氏と演奏中もずっと大きな声でおしゃべりして演奏をちゃんと聴いていないとか。
撮影可能なライブとかで、もうずっとスマホで写真撮り続けてステージ上の実物を見ていないとか。
自分より若い世代に多いと感じるけど、年配の方でもたまにいる。
楽しみ方は人それぞれだから否定するつもりはないし、そういう楽しみ方をする人は昔からいたけれど、
最近のライブで「今日の客どうした?」って感じるくらい雰囲気が変わるときがある。最前近くの客が全員棒立ち、みたいな。
曲によっては演者側もノリ方(手拍子とか)促したり、「今日はシャイな人が多いのかな~」みたいなことを言うのを聞くかぎり、
ステージ上の人たちからも何か感じている違いがあるんだろうと思ったりする。
魔理沙: おお、なんかすごく盛り上がる話だね。確かにオリンピックの射撃って、シグルイみたいな迫力があるかもな。思わず「できる!!できるのだ!!」って叫びたくなる気持ち、分かるぜ。
霊夢: そうね、オリンピックって異形の集まりとも言えるわよね。それぞれの競技に特化した選手たちが、もう異次元って感じするもの。たてほこの対決みたいで見ててハラハラしちゃうわ。
魔理沙: ほんとだよな。装備をモリモリにして力を尽くすか、逆に装備なしでシンプルに戦うか、どっちが強いかなんて議論のしがいがあるってもんだよ。そうやって、どうしてそのスタイルに至ったのかを考えるのが面白いんだよな。
霊夢: そういったスタイルの変遷や歴史を感じるのが、本当にスポーツの醍醐味よね。それにしても、オリンピックの時にそんなこと言ってたらもっと盛り上がったかもしれないわね。