はてなキーワード: 吹き出しとは
彼のことを思い出すたび、あの「バケット」という言葉が耳に残る。いや、もう忘れたくても忘れられない。――婚活中に出会った、少し変わった人の話だ。
彼は当時、パン屋で働いていた。正確には、フレンチ系のちょっとおしゃれなベーカリーカフェで、店頭に立つ仕事をしていたらしい。初めて会った時、彼は仕事のことを少し得意げに語っていた。「バゲットを毎日触ってると、焼き立ての匂いが染みつくんだよね」と。笑顔で語る彼は素朴で、どこか安心感のあるタイプだった。「パンを通じて人を笑顔にするのが自分の役目だ」とも言っていた。ちょっとキザだけど、悪い気はしなかった。
だけど、そんな彼が「バゲット」でつまずくなんて、あの時は思いもしなかった。
ある日、彼は仕事で大失敗をやらかしたのだという。ランチタイムの混雑する店内、注文カウンターでお客さんに向かってこう言ったのだ。
「バケットの方、焼き上がりました!」
その瞬間、店内がシンと静まり返ったらしい。あまりの言い間違いに、常連らしきお客さんは思わず吹き出し、後ろに並んでいた人たちはクスクス笑い始めた。彼はその場でハッと気づいたものの、動揺して言い直すタイミングを完全に逃した。そして追い打ちをかけるように、後輩が慌てて言葉を重ねる。
パン屋で働きながら「バゲット」を「バケット」と呼ぶミスは、致命的だった。以来、彼は「バケットの人」とあだ名をつけられ、パン屋の仲間たちや常連客の間で、じわじわと笑い話にされるようになったという。「笑って済むこと」と言う人もいたけれど、彼にとっては仕事の誇りを傷つけられた出来事だったのだろう。ほどなくして彼は「パン屋を辞める」と私に打ち明けた。
「バゲットなんて、もう触りたくないんだよね」
そう言った彼は少し笑っていたけれど、その笑顔の向こうにどこかやるせなさが漂っていた。私は言葉に詰まったまま、ただ聞いていることしかできなかった。
その後、彼とは自然と疎遠になった。今どうしているのか、もう知らない。新しい仕事に就いて、元気でやっているのだろうか。でも、ふとした瞬間に、私は思い出してしまうのだ。――あの「バケット」というひと言で静まり返るパン屋の光景を。そして、あの人のぎこちない笑顔を。
人は言葉ひとつでつまずくことがある。ほんの小さな間違いで、何かが音を立てて崩れていくことだってある。それを知ってしまったからこそ、私もまた、些細な「違和感」に敏感になってしまったのかもしれない。
2001年ぐらい、発達障害知的グレーっぽいおっさんをネカマたちが釣っておもちゃにする計画が発生した
実際にそのおっさんがあちこちで女っぽいユーザーに粉かけて害悪だったのではあるが
しかし当時はターゲットになったこのおっさんに憐憫を示す者はいなかった
おっさんはオフ会に招かれ釣りの美少女に接待され有頂天になり顔も名前も裏で晒された上で
ネカマとチャットHしてその内容を晒され、それらを全て暴露されてネットから消え去った
美術館にて、金魚をいれたミキサーを展示し、客が自由にスイッチを入れてもいいという企画が行われた
桑島はその展示会以前にも、金魚が泳いでいる姿、スイッチを入れられた瞬間の姿、その後の姿などを撮影した写真集、
しかしまあ、ああいう世界は叩かれてなんぼ、叩かれることも含めて芸術なので、ネットは大騒ぎだったがそれで展示がなくなったりということはなかった
金魚ミキサー自体はデンマークの有名な芸術家も先にやってるらしい
2003年、JOYと名乗る主婦ブロガーがファミレスで店員と揉め、店員に謝罪させたったと自慢した騒動
その際にJOYの夫が店員を殴ったということまでわざわざ自分で書いていた
当時はまだSNSがなく、2ちゃんねるのネットウォッチ板や生活板で話題になっていたように思う
当時JOYは27歳、個人情報も色々と書いていたためにすぐに顔や名前が特定された
週刊誌SPA!で炎上が取り上げられ、ネットの出来事がすぐニュースになる最近とは違いかなり珍しい事態だった
2004年ぐらい、春名ひとみというネットアイドルがテレビ出演した結果、過去に別名義でAV出演していたことがバレた騒動
彼女はネットでアイドル活動しつつ子供を子役にしており、子供を売り込むための露骨な自作自演書き込みを2ちゃんねるでよくやり、
批判されると本人降臨し自分のファンにも反論書き込みするよう促すなどし、モデル板や育児板に隔離スレが立っていた
主に女性から叩かれている存在だったようだが、「潔癖症すぎるママ」としてテレビ出演したことで女性外にも知れ渡り、AV出演が特定された
2005年ぐらい、素材サイトから画像直リンクする厨房を苦しめるため素材画像をゴキブリ画像にすり替えるのが流行
当時はまだSNSが芽吹き出したぐらいで、個人サイトをつくっている小中学生が多くいた
現代よりも画像のアップロードにハードルがあったため、多くのガキは素材サイトの画像を直リンクして使用し、素材サイトのサーバーに負担をかけていた
そこでネットwatch板の有志が協力し、クソガキをしばきたおすことを目的とした素材サイトを開設
一定期間が断つと素材画像をゴキブリ画像にすり替え、直リンクしていたガキのサイトがゴキブリまみれになるという嫌がらせが行われた
2006年、女性警察官のハメ撮り画像など数千枚がネット流出した
当時はwinny経由でウイルス感染しPC内のデータが流出してしまう「キンタマウイルス」騒動が多発しており、
義父が娘の着替えを盗撮しまくったデータが全流出するという悲劇もあった
原発や自衛隊の内部データ流出もあったが、今でも画像が出回るのはやはりエロ系ばかりだ
多種多様の盗撮やハメ撮りが流れた中でケツ毛バーガーが記憶に残るのは、斜めに横たわった女性の尻からケツ毛がはみ出てる画像がケツ毛バーガーと名付けられたせいだろう
有名な画像は週刊誌にも乗せられたM字開脚画像だが、ケツ毛バーガーと名付けられたのはあれとは違う画像だ
その女性は彼氏にハメ撮りの撮影を許し、彼氏が違法データ取引をやっていたがために全てが流出してしまった
流出前には二人は都道府県をコンプリートしていそうなほどに各地に赴き健全な観光スポット記念撮影も大量にしていた
5ちゃんねるでどこかの地域が話題になると、すっとその地で微笑むカップルの写真を貼っていく者、「この画像は初めて見た」「脱いでる姿しか見たことなかった」と驚く者がいまでもいる
たまにマンガサイトの1話無料とかでうっかり読み始めちゃって、よくもまあみんなこんなの読んでるなって思いながら閉じる。
なんというか、めちゃくちゃかったるくないあれ?
普通のマンガが1分間で読者の脳に叩き込んでくる量と縦スクロールマンガのそれは一桁ぐらい違う。
普通のマンガで台詞そんなに多くないやつが1ページに5コマぐらいあったとして2秒ぐらいで読むじゃん。タップで即座に次のページ行くじゃん。
縦スクロールマンガだとさ、1画面に1コマか半コマぐらいしかなくて吹き出し1つぐらい、それでスクロールをぺったぺったぬるぬるえっちらおっちらやって3秒ぐらいで次の駒に行く。5コマ15秒ぐらいかかるじゃん。
7倍とかかかる。
かったるい。かっっっっったるい。
良くみんなあんなの読めるな。
大学を卒業して社会人○年目。大阪で働いている。職種は……まぁ専門職だと思う。若い方だと信じたい笑
サービス現場の仕事で、給料は安いけどやりがいだけはある。我ながら搾取されている。
年末に向けて部屋の中を掃除していたところ、学生時代の思い出の箱を見つけた。その中には、京都の祇園にあるクラブで働いてた頃のグッズがまとめてある。ドレスとか、メイク道具とか、指名を沢山とった時の記念品とか、最初にお店を選んだ時の求人誌とか。当時、いわゆるキャストと呼ばれる仕事をしていた。
これから話すのは思い出を振り返ってるだけなので、散漫なことが多いです。ご了承ください。
祇園のクラブでのお仕事とか、年上の男性との関係とか、様々な感情が入り混じった、心の奥底からくるようなお話に胸が締め付けられるような思いがする……ということはないです笑
夜のお店の種類、クラブとか、ラウンジとか、キャバクラとか、そのあたりの区別は今でもわかってない。4回生からの1年+半年(聞かないでほしい…)しか働いてなかったこともある。
短大から大学に編入した関係で、単位を取るのに忙しかった。親ともケンカしてたから、大学の学費は自分で工面するしかなかった。奨学金ばかりというのも危ない気がしたので、面白いアルバイトないかな~と探していると、祇園のクラブが見つかった。
リベンジのつもりもあった。
短大生の頃はYouTuberをしていた。顔はメイクを濃いめにして、男性向けに恋愛のことをおしゃべりする動画だった。始めは自分で動画を編集してたけど、そのうちやってくれる人が見つかって、女子が男性に向けて恋愛のノウハウをおしゃべりする~というスタイルを確立した。もう引退してるかもだけど、Baiand(バイアンド)さんの動画にスタイルが近い。
それがあまり人気が出なくて、再生数は最後の方は1万もいかなかった。才能がないのかなと思って、そうしたら、チャンネル更新をしなくなって数か月経った頃に、コメント機能を通して隠れたファンが何人もいたことがわかった。みんな熱烈だった。
正直、後悔した。たった4~5人でもいいから、私の動画配信を好きな人がいてくれるなら、投稿を続けていればよかったと後悔した。
そんな気持ちがあったから、次のクラブのアルバイトでは、誠心誠意、自分を贔屓してくれる人に尽くそうと思った。仕事なんだから、尽くすのは当たり前なんだけど……
最初の方はうまくいった。飲食店のアルバイトはしたことがあった。何をどうすればいいかは最低限わかる。お話をする相手も、コミュニケーションが通じない人はほぼいなかった。みんな常識のある人だった。
1セットにつき、最低でも2万円はかかるお店だった。つまらないサービスはしたくないと思った。けど……働き始めてひと月も経つと、ほかの従業員との関係とか、ノルマのことで考えることが多くなった。
明らかに変なお客さんもいたけど、それは我慢した。いや、我慢するんじゃなくて、その人と向き合って、一生懸命コミュニケーションをするのが正しい姿だ。それができないなら、キャストとして続かないことを学んだ日々。
ほかに働いてるキャストの人は、私に比べると、その……生活がカツカツな人が多かった。間違いないと思う。
学生は少なくて、いわゆるプロの人が多かった。それでも20代が多かったけど。
私たちのような学生バイトは存在が軽かった。ヘルプで付いた時だと、ドリンクを欲しそうな態度を示すとウザがられる。とあるお客さんがシャンパンやニューボトルを入れた日だって、その人がトイレに行ってる間を縫って、「ほら、今のうちにもっと飲んで。早くボトル減らして」と無理やり飲まされることもあった。
インスタグラムで、系列店同士で売上競争をするイベントがあった時も、私たち学生はどうせ勝てないからと、先輩たちのヘルプとしてお店を勝たせるポジションだった。
苦しいこともあったけど、お店には感謝している。いい経験ができた。あそこで働いてなかったら、大学卒業時の借金額は片手で数えきれない本数になってた笑
祇園や木屋町みたいな激戦区だと、求人面接時にノルマの説明がある。インターネットの求人案内にもノルマの有無が書いてある。ノルマじゃなくて、「目標」「売上によって時給が変動」「時給・出勤日数保証期間○か月」みたいな書き方だ。
大阪なんばや道頓堀、ダイナミックコードの『たこ焼き激戦区』ほどお店が密集してるわけじゃないけど、明らかに店舗間の競争がある。
・週3日以上出勤を基本とします
遅刻 :日給の最大50%
当日欠勤:10,000円
私がノルマを達成できた月は……1年半のうち、半分もなかった。
最初の半年は、初心者ということでお店が多めに見てくれるけど、しだいに厳しくなって……どうしても達成できないキャストの子で、黒服からも人気がなかった子は普通に辞めさせられた。もしくはシフトを干される。
この業界が厳しいかと言ったら、そんなことはないと思う。私のような当時素人にも日給で2万円以上を出してくれた。ほとんど役に立たなかったのに。
先輩方は、あまり仕事のことを教えてくれなかったけど、背中で教えるタイプの先輩も確かにいた。「もし今日ヘルプに付いたら、うちのこと見とき~♪」と言って、売上を捨てて教科書通りの対応をしてくれる神先輩だった。
自分がまさか、お客さんと恋愛するとは思ってなかった。本当に。可能性はないと思ってた。
うちに来店するお客さんは、ある程度お金を持った人が多い。いい会社勤めの人や、経営者や公職に就いてる人や、お坊さんの人が多かった。
その中で、あるお客さん(増田なのでMさんにする。当時43歳くらい?)と最初に会った時は、なんだか面白い人だなとしか思ってなかった。ええと、私が最初に付いた時が、その日の二人目のキャストだったはず。
会話を始めると、優しそうな印象があった。もう彼と会うことはないと思うので、書いてもいいかな。名刺には「土地家屋調査士」とあった。京都市の北の方で営業していた。ちょっと話をして、何分か経った時に「よかったら……オレンジジュース飲む!?」って聞いてきた。
それを聞いて大笑いした。なにが面白いのかわからなかったけど、とにかく笑った。普通はカクテルとかワインとか、ビールとか……そういうのを注文する。
お客さんも、カクテルだとリキュールを一滴しか入れないとわかってるからか、ワインの注文をする人が多かった(※ワインもビールも、黒服の人が限界まで薄めてくれる。ほぼ水だった笑)。
あー、あの時は本当に楽しかった。まだ入って数か月だったのもあるけど、今でも楽しく思い出せる。
その日、お店を出る時に「ダメ元だけど、よかったら同伴する?」と言ってくれた。嬉しかった。最初の接客でいきなり同伴っていうのは、珍しいことだと私でもわかってた。
最初の同伴のお店は……河原町通りの途中にある古いレストランだった。お手頃でおいしいところだった。壁に美大の人が書いたような風景画が何枚も飾ってあった。「俺が学生時代、たまにここに来てて。20年ぶり」とMさんは言っていた。
それからも、Mさんは月に1~2回のペースでお店に来てくれた。私を指名することもあったし、しないこともあった。同伴出勤は、月に一度あれば多い方だった。
あの人は多分、お金をたくさん持ってたと思う。でも、倹約……いや、ケチなのかな?? あまりお金を使おうとはしなかった。私の誕生日が近い時、黒服さん(店長)が私とMさんがいる席に来て、今度の誕生日イベントの説明をしてくれた。
条件付きの特別サービスをMさんに提案したんだけど……普通にシャンパン注文を断ってた笑 店長さんは粘っていた。営業トークも。実際、Mさんに特別なサービスをするのは本当だった。
でも結局、Mさんは……
だって。はっきり言ってた。
ほかのお客さんとの比較だと、大体みんな店長の考えたサービスを受けることが多い。実際にシャンパンの注文料金は相当お得だし、キャストだって本気でサービスをする。そういう「装い」だってする。身体の接触だって、いつもより積極的のはず。本当に常連さん向けの特別だった。
でも、あの人はキッパリ断った。お店では、いつもハウスボトルだった。ほかのお客さんは、見せびらかすみたいにマイボトルに名前入りのタグを何個もぶら下げている。けど、Mさんは本当にいつもハウスボトルだった。私には、私が希望するだけドリンクをくれたけど。
それにしても「不要です」だって……今でも思い出して笑うことがある。いまの私も冗談で、Mさんの口調を真似することがある。
あれは、夏から秋になる頃の同伴で、少し高めのレストランに入った時だった。ウェイターの人がトリュフ?(もう忘れちゃった…食後のケーキだったかも)を薦めに私たちのテーブルに来た。その時も「私たちには不要です」とはっきり断った。
その後、祇園にあるお店まで行く時に、小さい橋を渡ることがあった。その時に、Mさんから笑えるアプローチがあった。
「ねえ、橋を渡るまでの間、手を繋いでいい?」
と言ってきた。
私は笑いを堪えた後、彼氏の顔が頭に浮かんだ。前に、ほかの男子学生が私にそういう目的で声をかけた時、彼氏が怒ってその学生を威嚇すると、そそくさと逃げていったことがあった。
その時、Mさんの顔を見上げると、何かが違った。大学生とは何か違う……見た目の若さもあったけど、とにかく自信にあふれていた。彼氏も自信過剰タイプだったけど、それとは明らかに違う余裕だった。
「えー。じゃ、はい……どうぞ」
と手を出すと、Mさんが優しく握って、お店がある富永通りまでゆっくり歩いて行った。
その日は人がすごく多かった。道を歩いている時、私の手を優しく引いて、道の端の安全地帯に誘導してくれた。
いい人だ。とは思ったかな? その日もお店に行くと、私を指名してドリンクを2杯注文して、それからいつもどおりすぐに帰った。料金は2万円少々だった。
紅葉の頃に、「今度お昼に同伴しない?」と言われることがあった。夜じゃなくて、お昼に同伴すれば一緒に買い物ができる(≒プレゼント)ということだった。
正直、魅力はあった。ほかのお客さんだと、ただ昼とか夜にデートしようって言ってくるだけ。本当にそれだけ。論外だった。禁止事項だし。ただ、Mさんとなら。外を一緒に歩いても不自然に見えない。そういう見た目の人だった。
けど、断ることにした。同伴の場合、必ずお店の黒服が私を送迎して、お客さんのところに行く。車で待ち合わせ場所の近くに下ろすのだ。内引き防止のためと思われる。あとは防犯対策。
でも結局、どうしようかと迷って、違う系列店のキャストに聞いてみたり、中学時代からお世話になっているYahoo!知恵袋で聞いてみたけど、直接の答えはなかった。Yahoo!知恵袋の中の人は、「あなたも大人なんだから、善悪を秤にかけて自分で考えなさい」という回答をくれた。500知恵コインを渡した。
結局、同伴はナシで、私が勝手にお昼デートすることにした。Mさんには内引きの箝口令をお願いして、夜になると普通にお店に来てもらうことにした。
え?何を買ってもらったか?? 四条通りにある高島屋か大丸で、雑貨のお店があって、そこで……ワンちゃんのためのペットフードを買ってもらった。小さいサイズの。ピアスや指輪とか装飾品に興味はあったけど、別にいいかと思った。
後はレストランでご飯を食べて、近隣店舗をグルグル周って、一緒にアイスクリームを食べて……あとはもう、覚えてない。
この日の写真はスマホに保存してある。手も繋いだ。私が帰りにバス停まで行く時、四条通りを歩いている時だった。この日も人がすごかった。当時まだ、コロナウイルスは流行ってない。
市バスに乗った後、車中でも、桂川のあたりを歩いている時も、Mさんのことを思い出した。
別に好きだったとか、そこまでの感情じゃなくて。彼氏と同じ場所(高島屋の付近)をデートした時のことを思い出して、やっぱり大人の社会人の人って、無駄がなくて、そつがなくて、しっかりしてて……と振り返っていた。
少なくとも、彼氏みたいに店員さんに怒ったり、私や仲間に何かを自慢したり、立場の弱い人に大きく出たりすることはなかった。私の肩をいきなり抱いたりしなくて、体を触るときは優しくしてくれる。
同じ高島屋にある時計店で、彼氏が店員さんに渋い対応を取られて悔しがっていた。けど、Mさんに対しては、私でも引きそうになるくらい、店員さんがウヤウヤしい対応だった。学生目線だと『神扱い』に見えた。
秋が過ぎて、冬になって……Mさんとお昼のデートは三回目だった。その日は夕方が近かった。烏丸通りのあたりの観光名所を見ていて、遅くなって、終わった後もなんとなく一緒にいた。
今日は一旦解散するんじゃなくて、一緒に居てからお店に行こうという話をしていた。ホテルオークラの前まで来た時、Mさんが「今日はここに泊まってる。仕事の都合で」とホテルを指さした。
当時の私は、オークラのことを知らなかった。大きいホテルとしか認識してなかった。今では、リーズナブルなお値段の『一般向けの優良ホテル』だと思っている。京都市内には、一泊10万円以上のホテルがたくさんあるけど、実際に利用してみて……サービス÷宿泊料という観点では、元京都市民の視点では№1だ。
一緒にオークラの1階にあるカフェでご飯を食べて、バーに行こうとしたけど、まだ営業してなかった。2階にある展示物を一緒に並んで見てると、彼の手が私に触れて、ぐいっと引っ張られて、私の顔がMさんの肩の近くにあった。
「一緒にいられる?」と言われた。考えるより前に頷くと、私の肩をぎゅうっと抱いて、手を繋いで、エレベーターでカードをかざして、高い階に上がって、彼の部屋に入って……
暗い部屋に入った直後に、ゆっくりキスをされた。両手の位置がわからなくて、Mさんの両肩を触っていた。キスが終わると、一緒にベッドに座った。
部屋の中で夜の京都市内を見ながら、ベッドでくつろいだ。そしたら、Mさんが「一緒にシャワー浴びよう」って……恥ずかしかったので断って、それから間が空いて、「メイクだけ落としたよ」と報告すると、すぐに押し倒されて、キスがあって、始まった。
普通のセックスだったと思う。お互いに体をくっつけたり、舐めたあったり。優しいキスだったり、激しいキスだったりした。唾液を飲ませるとか、変なことはしなかった。
私を抱きしめてくれた。優しい感じだった。私が彼氏にするみたいに、乳首とか舐めたりすると、彼はくすぐったいと笑っていた。その時の私は、すごく甘えていた。
入れる時も、髪が痛くならないようにギュッと抱いてくれた。暖房のせいもあるけど、蒸し暑かった。汗が出ていて、体同士が液体で滑る感触が気持ちよかった。Mさんの体はがっしりしてたけど、若々しくはなかったし、お腹もちょっと出てた。
でも、体なんてどうでもよかった。頭を撫でられると気持ちよくなって、Mさんの何でも愛しくなった。
Mさんは胸が好きみたいだった。バストを使って、特別な機会だと思っていろいろしてみた。彼はすごく照れていた。遠慮がちに行為をしてた。「もっと強くしていい」って言ったら、本当にすごく強くしてきて、胸のあたりが痛かった。でも、続けているうちに気持ちよくなって。
私は笑いながら、Mさんと身体をくっつけていた。マグロじゃないよ、ちゃんと私も動いてたから笑
まっすぐの体位の時も、そうじゃない体位の時も、私のことを見てくれて、よそ見することはなかった。だから下半身が痛くても耐えられたし、痛くてもいいって思えた。入れてる最中、私はそんなに動かなかったかな?
正常位で、Mさんの胸板が顔の上にあって、熱くて、息ができなかった。窒息しそうだった。我慢してると、ようやく顔を抜くことができて、するとMさんが真上から口を塞いでキスをしてきた。また息ができない。
いろんな行為の中には痛いものがあった。けど、全部ちゃんと受け止めた。
最後に出し終わって、Mさんが正面から私を抱きかかえると、「あの……好きだよ」って恥ずかしそうに言った。私が笑うと、改まって「愛してます」だって。さらに笑った。ごまかす時に、私は笑いがちになる。
「これからも付き合ってくれる?」
目を閉じて、「はい」って答えると涙が出てきた。顔を上げて、Mさんにキスをした。
それから何分も、ずっと口づけをしてたら……唾液が漏れるのがひどいことになって、また私が笑って吹き出して、それでセックスは終わった。
その日はお店を欠勤した。罰金1万円は痛かったけど、それはもういい。大事なもの、大事な人を手に入れた。ならもう、それでよかった。シングルの部屋だった。夜には出ないといけない。
深夜だったけど、寒空の下でMさんは、私の手を引いてタクシー乗り場まで連れて行ってくれた。別れる時、タクシーに乗った瞬間に涙が零れた。
今は何をしてるんだろう。優しい人だから、今もずっと人の役に立つ仕事をしてるのかな。
社会人になった今では思うけど、仕事付き合いだけでも人間関係って大変だ。
でも、Mさんから学んだことは、教えてもらったことはたくさんあって。それが今でも仕事に活きてる。
あれから時間は経ったけど、今でもMさんとの思い出を記憶の水槽に仕舞っている。いつでも取り出せるつもりだ。
また、いつか会えたらいいと思う。ありがとうございました。
https://togetter.com/li/2470850
TV、冷蔵庫、洗濯機、ガスコンロはあったが自動炊飯器はなく、ガスコンロにかけた釜でご飯を炊いていた。おこげが多く、こげて固い部分が嫌いだった
旅行は組合の旅行を年1回。駅前デパートに行くのが年に2回か3回の一大イベント。外食はデパートで1時間待って食べるお子様ランチしか記憶にない。
外食にはいかないが出前のラーメンや寿司がいわば外食。マクドナルドが駅前にきたといって大騒ぎ。
家に自動炊飯器が導入される。近所にスーパーマーケットが出来て商店街の店舗が順番に消え、牛乳配達がなくなる。
ファミレスにはじめて行く。ディズニーランドのプレオープンに連れて行ってもらう。
小遣いないので自分で買い食いしたことは一切なし。マンガは親戚の家に遊びに行った時にむさぼり読む程度。
組合旅行で連れてってもらったホテルで生まれてはじめて冷製スープを口にして驚いて吹き出した記憶。
そういえば、旅行ではお握りを包んで持っていた。1度だけおにぎりが傷んで糸を引いてた。
親がコンビニ経営をはじめる。家庭の食事はコンビニの残り物ラッシュ。売れ残ったおにぎりを冷凍保存、解凍してチャーハンその他に加工するのが家の味に。
親が年会費制のホテルグループに加入し旅行が年2回行けるようになったが、コンビニ経営で雇われ店長がいきなり辞めて旅行取りやめ、年末年始を家族で回した記憶。この頃のコンビニはバーコードないので、レジ手打ち、釣り銭も暗算で渡すあたりを覚え、後でまあまあ役立つスキルになった。
ガンプラが流行していたが小遣いゼロなので買えず、玩具屋で毎日ただ眺め続ける日々。商店街の本屋でマンガ立ち読み、はたきではたかれる。
ゲーセンに行くことを覚えるが、やはり小遣いないのでひたすら画面を眺め続ける日々。
コンビニ経営が軌道に乗って人任せになったが、家の冷蔵庫は常時売れ残りおにぎりで埋まってる状態。
中学の弁当もおにぎりをほぐして炒めたチャーハン。帰宅して腹が減ってたら冷凍庫のブリトーを解凍しフライパンで焼き目を付けて食う。
月5000円の小遣いを貰えるようになったが用途はマンガ購入や映画など。外食はめったにせず。家庭に金銭的には余裕があったかは不明。
小学校高学年のときジャンプ回し読みグループに入れてもらえずジャンプを嫌うようになりサンデー派に。タッチやうる星やつらは最終回を迎え世代交代の時期。
40年前というと、だいたいこんな感じか。
ファミレスが流行しステーキハウスが出来た頃で外食が次第に珍しくなくなっていく時代だとは思うけども、個人的にはやはり年に数回程度、特別な時のごちそうという感覚。
本当にキモい
「ゆめにゃんのフェラ画像」として私がフランクフルトを食べている写真を拡散している加害者が、裁判の本人尋問で
私が学生時代に東日本大震災後の支援活動で高校生と商品開発した「たまげ大福」について、
「仁藤さんは下ネタが多いので、『たまげ』とはキンタマの毛という意味で言っている」と発言
したときは、裁判中だけどさすがに吹き出してしまった。気持ち悪すぎて、そういう思考回路なのかと。傍聴席からも女性たちの悲鳴のような息を飲むような声が聞こえた。
この男性(少女アニメアイコンの40代男性)は2015年から私に関して事実に基づかない投稿をし、私の学生時代のプライベート写真を800枚以上保管していると宣言し、私が友達と海に行った時の水着の写真を公開して、「消して欲しいなら消すわよ」と投稿。
裁判では「フェラ画像 フランクフルト」で検索した卑猥な画像を大量に書面で提出。
「フランクフルトは男性器の象徴である」などと主張していました。
最近では私の自宅やColaboの活動拠点を探ったり、訪問し、事務所の電気が何時に消えたかを見張ってブログに投稿しています。
当然Colabo側の完全勝訴で、385万円の支払いが命じられましたが、この加害者はColaboに関する調査の名目で2000万円のカンパを集めています。
昨日、Colabo勝訴の判決が出た後も、私やColaboに対する誹謗中傷を繰り返し、さらなるカンパ集めを行なっています。
Colaboに対して「大量脱税」などと投稿 「音無ほむら」名乗る男性に合計385万円の支払命令(小川たまか)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/fed04850521844b804e66576d0954ed08f48f6b9
1週間経った。いまは8割治った。眠れなくて生活リズムは狂った。
鼻水がとにかく出まくる風邪を引いた。
途中で鼻血が出だして鼻水かんでんのか血が吹き出してるのか分からなくなった。
いつからか分からないが、三日目になにも臭わないことに気づいた。
味はしているがなにも臭わない。嗅覚が死んだ。
元々コロナでもなく高熱が出ると味覚が死ぬタイプなのだが嗅覚が死んだのは初な気がする。
食べ物はうっすら苦い。もちろんちゃんと味がしている上で、うっすら苦く感じる。
口に入れてそこから嗅ぐみたいなことは出来ないだろうかと思ったけど、それも無理だった。
こういうのって記録しないと1ヶ月経てば忘れるので記録しておく。
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。
確かに、先進国の多くは欧米にあって、日本のようなモンスーンアジアの国と違って外食文化が発展してないから、外食の物価は高い。
もちろん、「自炊すると全身から血を吹き出して死ぬ」ような持病を持ってる人にとっては、同じ年収でも他の先進国の方が貧しいのかもしれないけどね。
そだねえ…
よくよく話を聞くと確かにそこは危ないし改善が必要だよねって思うこともあるんだけど、なんか私の話し方がまずいのか相手を怒らせちゃって、こっちも相手が何が問題だと思ってるのかよくわかんないままなんか怖いな…っていう印象だけ残して終わっちゃうことが結構ある。
まあお互いなんかしら色々ここまで傷ついてることがあって、話してるうちにそれが吹き出してきちゃうんだろなって思うけど、何かを成し遂げたい時に自分がやりたいことを自分の感情が妨げちゃってるなら、それは一回ネットとかお休みしてメンタルを整えることを優先させるべきなのでは…っては思う。
まあそうも言ってられない事情もあるんだろうけども。
今日は、ちょっとおかしな話を聞いてしまったから、みんなにシェアしようと思うんだ。そう、タイトルにもある通り「弱者男性が生きてるだけで偉い」ってね。いやぁ、最初に聞いたときは思わず吹き出しちゃったよ。だってさ、これ、どうなの?生きてるだけで偉いって、それ…どこのセレブ特権?
まずはっきり言っておこう。僕たち「弱者男性サービス」の従業員はね、そんな甘い世界で生きてるわけじゃないんだよ。掃除、料理、護衛、暗殺、クライアントに喜んでもらうために日々必死。汗かいて、手を汚して、頑張ってる。それでやっと「ありがとう」って言われるんだ。それが仕事だからね!そりゃあ「生きてるだけで偉い」なんて言われたら、鼻で笑っちゃうよ。
でもね、それを堂々と言っちゃうのが「弱者男性」と呼ばれる人たちなんだって。いやいや、生きてるだけで褒めてもらえるなら、僕も毎日表彰されたいよ!でも残念ながら、そうじゃないんだよね。お客様に料理を出して「生きてるだけで偉いですね!」なんて言われることはまずない。「これ、美味しいね」って言ってもらうために腕を磨いてるんだから。
確かに、生きていくのは大変なこと。世の中のプレッシャーや不安に押し潰されそうになることもあるさ。でも、それを乗り越えるためにみんな頑張ってるんだよ。「生きてるだけで偉い」っていうのは、ある意味、逃げ口上に聞こえちゃうよね。現実の厳しさから目をそらして、自分を慰めてるだけなんじゃないかな?僕たちは、少なくともそうは思いたくないね。
だからさ、僕からのアドバイス!「生きてるだけで偉い」とか言う前に、もう少し自分で何かやってみようよ。たとえば、料理でも、掃除でも、家事でも!僕たちが日々やってるようなことでも、意外と満足感を感じられるもんだよ。そして、そのときこそ、ちょっと偉いって自分を褒めてみてもいいんじゃないかな?
それじゃあ、今日はこのへんで!次は「生きてるだけで偉い」じゃなくて、「ちょっと頑張って偉い」って言ってもらえるように、一緒に少しだけでも動いてみようぜ!
業界までは言えないが、観光の仕事をしている。イベント・行事をこなしていく感じの仕事である。
今日はちょっと悩みがある。ちょっと、どころではないかもしれないが。罪悪感がある。
私は役職でいうと、係長とかリーダーとかその辺である。40代前後なので、まあこんなものだろうか?
今の部署は5年目だ。ちょうど2年前、つまり部署3年目だった時の話をする。ちょっと長いけど読んでほしい。適宜フェイクを入れるが、本質は残したつもりである。
後で読み直したんだが、表現がなんか小説みたいになってる。これは、私個人が精いっぱい思い出そうとした結果である。ご容赦願いたい。
イベントや定例行事、式典の数が多すぎて辟易していた。係メンバーが私を含めて6人いて、その過半数はイベント関係の仕事を持っている。
かくいう私は、うちの会社が直接やるイベントはもちろん、関係組織のものまで含めて課長クラスと一緒に出る必要があった。土日祝日の出勤になる。正直、休暇日数は少なかった。有給は使い切れず、年間休日は110日を割っていた。
会社直営のイベントだと時間外手当が出るが、関係組織のものは顔を出して談笑するのが主で、接待を受けることもあったからか、勤務日とはみなされなかった。話の相手方は全員年長者で、けっこう気を遣うにもかかわらずこの扱いだった。
勤務日にしてくれてもいいのに、という愚痴は置いといて。私をよく手伝ってくれる女性がいた。私と同じ部署3年目の子で、Sさんとしようか。Sさんは仕事ができる系の女子だった。彼女が担当する仕事のイベントはもちろん、ほかの仲間が担当のイベントで人が足りない時とか、人が足りている時ですら休日に出てくれた。私が出るイベントは、おそらくすべて出てくれている。
あの子はまだ20代半ばで、一応結婚はしてるけど……遊びたい盛りのはずだ。それを、こんなに休日を犠牲にしてくれて。振替休日もまともに取ってなかった。私の上司としての甲斐性がないせいでもある。
クールキャラで、そんなに感情を出さない子だった。いつも黙々と働いていた。あ、でも笑う時はすごく笑う。でもあの子は、きっと我慢していたと思う。職場の仕事初心者とか、働かない年長者の代わりによくがんばっていたし、体力のいる仕事だって、身長小さめなのによくやっていた。
この年はしんどかった。イベントの数も多かったが、とある特大行事があった。うちの部の責任者がゴリ押しで進めていたもので、そのうえ役員連中が政治力で開催地を勝ち取ってきた。
ざっくり言うと、昔プロ野球で大活躍した選手を何十人も集めて、地元チームと試合をしたり、少年少女に野球を教えたりするものだ。
で、その準備がまた大変だった。係総動員で挑んでも人手が足りないほどだったが、結局私とSさんがほぼメインで毎日残業して取り組んだ。そんな月日が三ヶ月以上は続いた。
あれは……開催まであと1週間というところだった。時期は6~7月かな。
その日は、開催場所(地元野球場)まで2人で車に乗って行って、選手観客の導線に無理がないかを確認したのと、台本に合わせて実際の全体の動きをデモンズソウルしていった。いくつかの問題点を見つけて、ああしたらこうしたらとまとめていって、終わる頃には日が傾いていた。
社用車で急いで職場に帰った。夜8時頃に事務所に入ると、その日にやろうとしていたグッズの数確認(検査検収)が全く終わってないのを確認した。私の仕事なので、終わらせて帰ろうとしてたら、Sさんが手伝いを申し出てくれた。
一緒に雑談しながら、しんみりとした疲労感の中でカウントしていった。何を数えていたかはもはや覚えてない。スタッフ用の記念Tシャツだったと思う。
今もそのクソダサTシャツは自宅の箪笥に仕舞ってある。正直クソダサTシャツではあるが、ぺこーらとかヒカキンとか、その他の著名Youtuberが着用したら一周回ってアリなのかもしれない。
結局、終わったのは夜9時過ぎだった。さあ帰ろうかとなったが、段ボールに入ったグッズを真っ暗闇の印刷室兼倉庫に運ぶ必要があった。
作業自体は10分も要らなかった。Sさんが手伝ってくれていた。印刷室の入口は電気を点けてない。廊下の明かりがちょっと漏れていたので。私の分が何往復かして終わって、あとはSさんの1箱分だけだった。
その時、Sさんから段ボール箱を受け取るところで、私が疲労のあまり躓いて、Sさんにぶつかってしまい、一緒に転びかけた。それで、気が付いたらSさんの手が私の肘のところにあって、段ボール箱は床に落ちた。
私が拾おうとしていると、ほぼ暗闇の中でSさんと目が合った。パッチリと合ったのだ。
私もSさんも疲れていた。私が「フフッ」と笑うと、Sさんも笑顔で吹き出した。私は気が付くと、Sさんの両手を握っていた。
「「あ……」」
そういう雰囲気だった。
Sさんの目をまっすぐに見て、一歩足を踏み出して、頭の後ろと肩のあたりをグイっと抱きしめた。Sさんの後頭部のあたりが汗臭かった記憶がある。私もおそらく臭かった。
Sさんが両手で、私の脇腹のあたりを猫の手みたいにして握りしめた。Sさんの胸部の感じが、私のみぞおちにあった。
やがて、抱きしめるのをやめると、暗闇の中にSさんの顔が間近にあった。
「ごめんね」というと、「なにが……? 何も嫌なことないですよ」って、震えた声が返ってきた。
それから、印刷室で段ボール箱の整理を終えると職場に帰った。Sさんが後ろから付いてきてる。PCをシャットダウンして、天井の明かりを切る前にSさんに「帰りは?」と聞いたところ、「自転車です」だって。
「もう暗いぞ。車で送っていこう」
「ほんとに。送ってくれるんですか?」
「いいです」
「お腹空いたな」
「空きました」
こんなやり取りだった。あと三行くらいはあったろうが、記憶はとうに消えている。
それからは、会社から離れた国道沿いのラーメン屋でご飯食べて、帰りの駐車場で車に乗ろうとする時、Sさんが運転席の辺りまで来て、私をずっと見詰めていて、それから……「どっか寄る?」「いいですよ」みたいなやり取りがあった……そして、駅前のシティホテルに車を停めて、罪悪感と一緒に……Sさんと一緒に部屋に入った。
どんな行為だったかな。ぎこちなかったと思うけど、意外と相性がいいところもあった。
ダブルルームに入ったら、すぐに扉を閉めて、Sさんにキスをした。扉に押し付けるようにして、ずっと長い間していた。Sさんはやや小柄な方だった。唇の位置を合わせるのがちょっとしんどかった。胸が思ったより大きくて、それがキスの障害になることもあったが、構うことなく続けた。
終わったら、Sさんの手を引いてベッドまで連れて行った。明かりをつけてわかったけど、Sさんはほぼメイクをしてなかった。「現場仕事だからか」と思いながら、ベッドの前でもう一度キスをした。今度は、何度も何度も、しつこく舌を入れて、ディープキスを堪能してから、そのまま行為に及んだ。
※シャワーは事後だけ浴びた。深夜が近くて時間に余裕がなかった
ベッドの中では……Sさんはすごく甘えてきた。お互いにいろんなところにキスをしあったけど、Sさんは前戯の時も、本番の時も、私のことをギュッと抱くようにしていた。昔ダッコちゃん人形というのを実家で見たことがあるけど、あんな感じだった。
私がSさんの上にいる時も、Sさんが上になってる時も、どっちかの手で、あるいは両手で私の体に触れていた。
やはり胸が大きかった。私も舐めたり、触ったりしたけど、なんだか固い感じがした。でも、ベッドの中で女性の体に触れるのは数年ぶりだったから、ずっと胸を攻めていた気がする。太腿とかも舐めたり触ったりしたけど、柔らかさよりも筋肉質な感じがした。
どんな体位をやったかは、鮮明に覚えてる。Sさんは基本、挿れている時はずっと同じ態度だった。よく言うと甘えるような面持ちで、悪く言うとマグロだった。
正常位の時も、バックの時も、対面での座位の時も、後ろから背中とか胸を攻めてる時もそうだった。甘えるような声はたくさん出すけど、そんなに動くことはない。
最後はベッドのすみっコぐらしで、Sさんを正面から抱きかかえると、ベッドの端でゆっくり、ゆっくりと、お互いに座位で振動しあっていた。動きにくい態勢だったけど、それがよかった。もし私がAV男優だったら、よいしょっと持ち上げて、入口の扉あたりまで移動して行為をするのだろうか。私にそんな体力はない。
行為の最後に、Sさんと顔を近づけてる時、「愛してます」と伝えた。Sさんは、その場で大笑いしていた。「そういうものかと思って……」と伝えると、さらに笑っていた。
キスをして口を塞ぐと、Sさんも合わせてくれた。Sさんの涙かもしれない液体が、私の頬のあたりを伝ったのを覚えてる。
全てが終わった後、私がベッドの端に座って、付けていたゴムを取ろうとしていると、Sさんがベッドのすぐ下でしゃがんだ恰好になった。私のゴムを手でちょっと握ったと思うと、口を使って取り外してくれた。
それからSさんは、私のを舐めて綺麗にしてくれた。本当に、すべて綺麗になるまで舐め取ってくれた。終わった後で、私の汚い液体がSさんの顔とか乳房にくっついているのを見た。
「付いてるよ。拭かないと。私が拭いてあげる」と言ったら、Sさんは自分で乳房を動かして、自分の舌で汚いものを舐め取っていた。
その時、私はベッドの上からSさんを見下ろしていた。Sさんの体を覗き込んでいた。若々しい身体で、シミなどは一切なかった。女性が男性よりも美の努力をしてるだけかもしれない。
その後、一緒にシャワーを浴びた。名残惜しいと感じて、シャワーを浴びながら、Sさんを真横から抱きしめるようにしていた。お互いに頭の横をくっつけあって、シャワーを浴びてた――私の記憶はそこで終わりだ。
帰り道のことはあまり覚えてない。Sさんが旦那さんと暮らしてる新築の家の付近に車を停めて、深夜にSさんを見送ったシーンは辛うじて記憶に留めている。
野球のイベントは無事に終わった。あれから、Sさんとは普段どおりの関係に戻った。誰の目から見ても、普段通りの上司と部下だった。Sさんは仕事ができるクールキャラで、たまに大笑いをしていた。それも変わらなかった。
冬前になると、Sさんが産休に入ると言った。青天の霹靂だったけど、以前から覚悟はしていた。結婚してるんだし、そういうこともあると思っていた。Sさんの代わりとして、臨時雇いの人が来ることになったが、それからは残業が嵩むようになり……あれはキツい日々だった。
でも、Sさんが職場に帰ってきた時のことを思うと、此処を維持するためにがんばろうと思えた。
結局、Sさんが戻ってくるのに一年以上かかった。出産後、産後休暇を取得して子育てに専念したことによる。
今年に入っていつだったか、Sさんが乳幼児の子どもを職場に連れてきた。ベビーカーに乗っていた。1才くらいかな?
其処に集まった女性陣の後ろから、ヨイショッとその子の顔を覗いてみた。Sさんがみんなに見えやすいように抱っこしていた。
その時ほど戦慄したことはなかった。あんな感じは、人生で初めてだった。後悔とは違う。自分が後悔してないのはわかっているけど、それでも恐ろしい感じ。感情の名前が思い浮かばない。
Sさんが私の方を見ようとした時、私はちょうど目を逸らして、デスクに戻るところだった。もうちょっとでSさんと目が合っていたかもしれない。
あの女の子、私と目の感じが似ている。鼻もそうだ。そのあたりから下のパーツも似ている。一目でわかるくらい、それほど似ていた。
これって、もし、あの子が私の子どもだとしたら、バレるんだろうか? 旦那さんがDNA検査するとか言わなくても、病院が提供したデータでバレるんだろうか?
ここまで読んでくれた増田の人は、人生経験が豊かなのではないか? 私はまだ40前後である。どうしたらいいのかわからない。
私はどうすればいいのだろう。どういう心持ちでいればいいのか? 不安でしょうがない。どなたか、なんでもいいのでアドバイスがおありでしたら、何卒ご教示願いたい。
https://anond.hatelabo.jp/20241002005940
演芸会は比較的寒い時に開かれた。年はようやく押し詰まってくる。人は二十日足らずの目のさきに春を控えた。市に生きるものは、忙しからんとしている。越年の計は貧者の頭に落ちた。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。
それが、いくらでもいる。たいていは若い男女である。一日目に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。三四郎は二日目の切符を持っていた。与次郎が広田先生を誘って行けと言う。切符が違うだろうと聞けば、むろん違うと言う。しかし一人でほうっておくと、けっして行く気づかいがないから、君が寄って引っ張り出すのだと理由を説明して聞かせた。三四郎は承知した。
夕刻に行ってみると、先生は明るいランプの下に大きな本を広げていた。
「おいでになりませんか」と聞くと、先生は少し笑いながら、無言のまま首を横に振った。子供のような所作をする。しかし三四郎には、それが学者らしく思われた。口をきかないところがゆかしく思われたのだろう。三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。先生は断わったのが気の毒になった。
「君行くなら、いっしょに出よう。ぼくも散歩ながら、そこまで行くから」
先生は黒い回套を着て出た。懐手らしいがわからない。空が低くたれている。星の見えない寒さである。
「雨になるかもしれない」
「降ると困るでしょう」
「出入りにね。日本の芝居小屋は下足があるから、天気のいい時ですらたいへんな不便だ。それで小屋の中は、空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢ができるものだ」
「ですけれども、まさか戸外でやるわけにもいかないからでしょう」
三四郎は、こりゃ議論にならないと思って、答を見合わせてしまった。
「ぼくは戸外がいい。暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気のような、純粋で簡単な芝居ができそうなものだ」
「先生の御覧になった夢でも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」
「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」
「戸外。まっ昼間。さぞいい心持ちだったろうと思う。席は天然の石だ。堂々としている。与次郎のようなものは、そういう所へ連れて行って、少し見せてやるといい」
また与次郎の悪口が出た。その与次郎は今ごろ窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走しかつ斡旋して大得意なのだからおもしろい。もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたして来ない。たまにはこういう所へ来て見るのが、先生のためにはどのくらいいいかわからないのだのに、いくらぼくが言っても聞かない。困ったものだなあ。と嘆息するにきまっているからなおおもしろい。
先生はそれからギリシアの劇場の構造を詳しく話してくれた。三四郎はこの時先生から、Theatron, Orch※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)stra, Sk※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)n※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字), Prosk※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)nion などという字の講釈を聞いた。なんとかいうドイツ人の説によるとアテンの劇場は一万七千人をいれる席があったということも聞いた。それは小さいほうである。もっとも大きいのは、五万人をいれたということも聞いた。入場券は象牙と鉛と二通りあって、いずれも賞牌みたような恰好で、表に模様が打ち出してあったり、彫刻が施してあるということも聞いた。先生はその入場券の価まで知っていた。一日だけの小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと言った。三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。
さかんに電燈がついている。入場者は続々寄って来る。与次郎の言ったよりも以上の景気である。
「いやはいらない」
先生はまた暗い方へ向いて行った。
三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、あとから、車で乗りつける人が、下足札を受け取る手間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分も足早に入場した。前へ押されたと同じことである。
入口に四、五人用のない人が立っている。そのうちの袴を着けた男が入場券を受け取った。その男の肩の上から場内をのぞいて見ると、中は急に広くなっている。かつはなはだ明るい。三四郎は眉に手を加えないばかりにして、導かれた席に着いた。狭い所に割り込みながら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がちらちらする。自分の目を動かすからばかりではない。無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。
舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みんな冠をかむって、沓をはいていた。そこへ長い輿をかついで来た。それを舞台のまん中でとめた者がある。輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――三四郎にはなんのことかまるでわからない。もっとも与次郎から梗概を聞いたことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。ところが見れば毫もその意を得ない。三四郎の記憶にはただ入鹿の大臣という名前が残っている。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない。そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。推古天皇の時のようでもある。欽明天皇の御代でもさしつかえない気がする。応神天皇や聖武天皇ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、唐めいた装束や背景をながめていた。しかし筋はちっともわからなかった。そのうち幕になった。
幕になる少しまえに、隣の男が、そのまた隣の男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向かいの談話のようだ。まるで訓練がないと非難していた。そっち隣の男は登場人物の腰が据わらない。ことごとくひょろひょろしていると訴えていた。二人は登場人物の本名をみんな暗んじている。三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いていた。二人ともりっぱな服装をしている。おおかた有名な人だろうと思った。けれどももし与次郎にこの談話を聞かせたらさだめし反対するだろうと思った。その時うしろの方でうまいうまいなかなかうまいと大きな声を出した者がある。隣の男は二人ともうしろを振り返った。それぎり話をやめてしまった。そこで幕がおりた。
あすこ、ここに席を立つ者がある。花道から出口へかけて、人の影がすこぶる忙しい。三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。来ているはずの人はどこにも見えない。本当をいうと演芸中にもできるだけは気をつけていた。それで知れないから、幕になったらばと内々心あてにしていたのである。三四郎は少し失望した。やむをえず目を正面に帰した。
隣の連中はよほど世間が広い男たちとみえて、左右を顧みて、あすこにはだれがいる。ここにはだれがいるとしきりに知名の人の名を口にする。なかには離れながら、互いに挨拶をしたのも、一、二人ある。三四郎はおかげでこれら知名な人の細君を少し覚えた。そのなかには新婚したばかりの者もあった。これは隣の一人にも珍しかったとみえて、その男はわざわざ眼鏡をふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。
すると、幕のおりた舞台の前を、向こうの端からこっちへ向けて、小走りに与次郎がかけて来た。三分の二ほどの所で留まった。少し及び腰になって、土間の中をのぞき込みながら、何か話している。三四郎はそれを見当にねらいをつけた。――舞台の端に立った与次郎から一直線に、二、三間隔てて美禰子の横顔が見えた。
そのそばにいる男は背中を三四郎に向けている。三四郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じていた。うまいぐあいにその男は立った。すわりくたびれたとみえて、枡の仕切りに腰をかけて、場内を見回しはじめた。その時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めることができた。野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子の姿も見えた。三四郎はこの三人のほかに、まだ連がいるかいないかを確かめようとした。けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだからしかたがない。美禰子と与次郎のあいだには、時々談話が交換されつつあるらしい。野々宮さんもおりおり口を出すと思われる。
すると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎と並んでしきりに土間の中をのぞきこむ。口はむろん動かしているのだろう。野々宮さんは合い図のような首を縦に振った。その時原口さんはうしろから、平手で、与次郎の背中をたたいた。与次郎はくるりと引っ繰り返って、幕の裾をもぐってどこかへ消えうせた。原口さんは、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮さんのそばまで来た。野々宮さんは、腰を立てて原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。
この連中の一挙一動を演芸以上の興味をもって注意していた三四郎は、この時急に原口流の所作がうらやましくなった。ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは毫も思いつかなかった。自分もひとつまねてみようかしらと思った。しかしまねるという自覚が、すでに実行の勇気をくじいたうえに、もうはいる席は、いくら詰めても、むずかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎の尻は依然として、もとの席を去りえなかった。
そのうち幕があいて、ハムレットが始まった。三四郎は広田先生のうちで西洋のなんとかいう名優のふんしたハムレットの写真を見たことがある。今三四郎の目の前にあらわれたハムレットは、これとほぼ同様の服装をしている。服装ばかりではない。顔まで似ている。両方とも八の字を寄せている。
このハムレットは動作がまったく軽快で、心持ちがいい。舞台の上を大いに動いて、また大いに動かせる。能掛りの入鹿とはたいへん趣を異にしている。ことに、ある時、ある場合に、舞台のまん中に立って、手を広げてみたり、空をにらんでみたりするときは、観客の眼中にほかのものはいっさい入り込む余地のないくらい強烈な刺激を与える。
その代り台詞は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。あるところは能弁すぎると思われるくらい流暢に出る。文章もりっぱである。それでいて、気が乗らない。三四郎はハムレットがもう少し日本人じみたことを言ってくれればいいと思った。おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロなどを引合いに出して、のん気にやってしまう。それでいて顔つきは親子とも泣きだしそうである。しかし三四郎はこの矛盾をただ朧気に感じたのみである。けっしてつまらないと思いきるほどの勇気は出なかった。
したがって、ハムレットに飽きた時は、美禰子の方を見ていた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。
ハムレットがオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生は言った。――ハムレットのようなものに結婚ができるか。――なるほど本で読むとそうらしい。けれども、芝居では結婚してもよさそうである。よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない。
幕がまたおりた。美禰子とよし子が席を立った。三四郎もつづいて立った。廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、男と話をしている。男は廊下から出はいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した。男の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。席へ返らずに下足を取って表へ出た。
本来は暗い夜である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰った。
夜半から降りだした。三四郎は床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという一句を柱にして、その周囲にぐるぐる※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊した。広田先生も起きているかもしれない。先生はどんな柱を抱いているだろう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋まっているに違いない。……
あくる日は少し熱がする。頭が重いから寝ていた。昼飯は床の上に起き直って食った。また一寝入りすると今度は汗が出た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎がはいって来た。ゆうべも見えず、けさも講義に出ないようだからどうしたかと思って尋ねたと言う。三四郎は礼を述べた。
「なに、ゆうべは行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出てきて、美禰子さんと、遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」
三四郎は少し酔ったような心持ちである。口をききだすと、つるつると出る。与次郎は手を出して、三四郎の額をおさえた。
「だいぶ熱がある。薬を飲まなくっちゃいけない。風邪を引いたんだ」
「演芸場があまり暑すぎて、明るすぎて、そうして外へ出ると、急に寒すぎて、暗すぎるからだ。あれはよくない」
「しかたがないったって、いけない」
三四郎の言葉はだんだん短くなる、与次郎がいいかげんにあしらっているうちに、すうすう寝てしまった。一時間ほどしてまた目をあけた。与次郎を見て、
「君、そこにいるのか」と言う。今度は平生の三四郎のようである。気分はどうかと聞くと、頭が重いと答えただけである。
「風邪だろう」
「風邪だろう」
両方で同じ事を言った。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。
「君、このあいだ美禰子さんの事を知ってるかとぼくに尋ねたね」
「美禰子さんの事を? どこで?」
「学校で」
「学校で? いつ」
与次郎はまだ思い出せない様子である。三四郎はやむをえずその前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、
「なるほどそんな事があったかもしれない」と言っている。三四郎はずいぶん無責任だと思った。与次郎も少し気の毒になって、考え出そうとした。やがてこう言った。
「じゃ、なんじゃないか。美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか」
「きまったのか」
「きまったように聞いたが、よくわからない」
「野々宮さんの所か」
「いや、野々宮さんじゃない」
「じゃ……」と言いかけてやめた。
「君、知ってるのか」
「知らない」と言い切った。すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。
「なにないことがあるものか」
「あった、あった」と三四郎が言う。
「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」
「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」
三人は約三十分ばかり根気に働いた。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。三四郎は笑いながら、
「おいどうした」と聞く。
「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。
三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。肝心の主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝の上に開いた。勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。たいへん騒々しい。
「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水のにおいがする。
絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「人魚」
「人魚」
頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、
「なんだ、何を見ているんだ」と言いながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである。
ところへ広田先生がフロックコートで天長節の式から帰ってきた、三人は挨拶をする時に画帖を伏せてしまった。先生が書物だけはやく片づけようというので、三人がまた根気にやり始めた。今度は主人公がいるので、そう油を売ることもできなかったとみえて、一時間後には、どうか、こうか廊下の書物が書棚の中へ詰まってしまった。四人は立ち並んできれいに片づいた書物を一応ながめた。
「あとの整理はあしただ」と与次郎が言った。これでがまんなさいといわぬばかりである。
「だいぶお集めになりましたね」と美禰子が言う。
「先生これだけみんなお読みになったですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎はじっさい参考のため、この事実を確かめておく必要があったとみえる。
与次郎は頭をかいている。三四郎はまじめになって、じつはこのあいだから大学の図書館で、少しずつ本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ずだれか目を通している。試しにアフラ・ベーンという人の小説を借りてみたが、やっぱりだれか読んだあとがあるので、読書範囲の際限が知りたくなったから聞いてみたと言う。
「驚いたな。先生はなんでも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が言った。
広田は笑って座敷の方へ行く。着物を着換えるためだろう。美禰子もついて出た。あとで与次郎が三四郎にこう言った。
「あれだから偉大な暗闇だ。なんでも読んでいる。けれどもちっとも光らない。もう少し流行るものを読んで、もう少し出しゃばってくれるといいがな」
与次郎の言葉はけっして冷評ではなかった。三四郎は黙って本箱をながめていた。すると座敷から美禰子の声が聞こえた。
「ごちそうをあげるからお二人ともいらっしゃい」
二人が書斎から廊下伝いに、座敷へ来てみると、座敷のまん中に美禰子の持って来た籃が据えてある。蓋が取ってある。中にサンドイッチがたくさんはいっている。美禰子はそのそばにすわって、籃の中のものを小皿へ取り分けている。与次郎と美禰子の問答が始まった。
「よく忘れずに持ってきましたね」
「その籃も買ってきたんですか」
「いいえ」
「家にあったんですか」
「ええ」
「たいへん大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。ついでに、少しのあいだ置いて働かせればいいのに」
「車夫はきょうは使いに出ました。女だってこのくらいなものは持てますわ」
「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね」
「そうでしょうか。それなら私もやめればよかった」
美禰子は食い物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。言葉に少しもよどみがない。しかもゆっくりおちついている。ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。三四郎は敬服した。
台所から下女が茶を持って来る。籃を取り巻いた連中は、サンドイッチを食い出した。少しのあいだは静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。
「先生、ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね」
「古い。しかし職業として小説に従事したはじめての女だから、それで有名だ」
「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」
「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」
三四郎はきれいに忘れている。先生にその梗概を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚だとして後世に信ぜられているという話である。
「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。
「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。
広田先生は例によって煙草をのみ出した。与次郎はこれを評して鼻から哲学の煙の吐くと言った。なるほど煙の出方が少し違う。悠然として太くたくましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎はその煙柱をながめて、半分背を唐紙に持たしたまま黙っている。三四郎の目はぼんやり庭の上にある。引っ越しではない。まるで小集のていに見える。談話もしたがって気楽なものである。ただ美禰子だけが広田先生の陰で、先生がさっき脱ぎ捨てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為とみえる。
「今のオルノーコの話だが、君はそそっかしいから間違えるといけないからついでに言うがね」と先生の煙がちょっととぎれた。
「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない」
「へえ、いっしょにしやしません」
「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to love という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。
「日本にもありそうな句ですな」と今度は三四郎が言った。ほかの者も、みんなありそうだと言いだした。けれどもだれにも思い出せない。ではひとつ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試みたがいっこうにまとまらない。しまいに与次郎が、
「これは、どうしても俗謡でいかなくっちゃだめですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を提出した。
そこで三人がぜんぜん翻訳権を与次郎に委任することにした。与次郎はしばらく考えていたが、
「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」
「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。この笑い声がまだやまないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんがはいって来た。
「もうたいてい片づいたんですか」と言いながら、野々宮さんは椽側の正面の所まで来て、部屋の中にいる四人をのぞくように見渡した。
「まだ片づきませんよ」と与次郎がさっそく言う。
「少し手伝っていただきましょうか」と美禰子が与次郎に調子を合わせた。野々宮さんはにやにや笑いながら、
「だいぶにぎやかなようですね。何かおもしろい事がありますか」と言って、ぐるりと後向きに椽側へ腰をかけた。
「なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです」
「へえ」と言った野々宮君は椽側で筋かいに向き直った。「いったいそりゃなんですか。ぼくにゃ意味がわからない」
「いや、少し言葉をつめすぎたから――あたりまえにのばすと、こうです。かあいそうだとはほれたということよ」
「アハハハ。そうしてその原文はなんというのです」
「Pity's akin to love」と美禰子が繰り返した。美しいきれいな発音であった。
野々宮さんは、椽側から立って、二、三歩庭の方へ歩き出したが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に留まった。
「なるほどうまい訳だ」
三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずにはいられなかった。
美禰子は台所へ立って、茶碗を洗って、新しい茶をついで、椽側の端まで持って出る。
「お茶を」と言ったまま、そこへすわった。「よし子さんは、どうなすって」と聞く。
「ええ、からだのほうはもう回復しましたが」とまた腰をかけて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた。
「先生、せっかく大久保へ越したが、またこっちの方へ出なければならないようになりそうです」
「なぜ」
「妹が学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのがいやだと言いだしましてね。それにぼくが夜実験をやるものですから、おそくまで待っているのがさむしくっていけないんだそうです。もっとも今のうちは母がいるからかまいませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女だけになるものですからね。臆病者の二人ではとうていしんぼうしきれないのでしょう。――じつにやっかいだな」と冗談半分の嘆声をもらしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客に置いてくれませんか」と美禰子の顔を見た。
「いつでも置いてあげますわ」
「どっちです。宗八さんのほうをですか、よし子さんのほうをですか」と与次郎が口を出した。
「どちらでも」
「そうして君はどうする気なんだ」
「妹の始末さえつけば、当分下宿してもいいです。それでなければ、またどこかへ引っ越さなければならない。いっそ学校の寄宿舎へでも入れようかと思うんですがね。なにしろ子供だから、ぼくがしじゅう行けるか、向こうがしじゅう来られる所でないと困るんです」
「それじゃ里見さんの所に限る」と与次郎がまた注意を与えた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、
「ぼくの所の二階へ置いてやってもいいが、なにしろ佐々木のような者がいるから」と言う。
「先生、二階へはぜひ佐々木を置いてやってください」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑いながら、
「まあ、どうかしましょう。――身長ばかり大きくってばかだからじつに弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れていけなんて言うんだから」
「連れていっておあげなさればいいのに。私だって見たいわ」
「じゃいっしょに行きましょうか」
「ええぜひ。小川さんもいらっしゃい」
「ええ行きましょう」
「佐々木さんも」
「菊人形は御免だ。菊人形を見るくらいなら活動写真を見に行きます」
「菊人形はいいよ」と今度は広田先生が言いだした。「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通の人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」
「昔教場で教わる時にも、よくあれでやられたものだ」と野々宮君が言った。
「じゃ先生もいらっしゃい」と美禰子が最後に言う。先生は黙っている。みんな笑いだした。
台所からばあさんが「どなたかちょいと」と言う。与次郎は「おい」とすぐ立った。三四郎はやはりすわっていた。
「どれぼくも失礼しようか」と野々宮さんが腰を上げる。
「あらもうお帰り。ずいぶんね」と美禰子が言う。
「このあいだのものはもう少し待ってくれたまえ」と広田先生が言うのを、「ええ、ようござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出ていった。その影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように「そうそう」と言いながら、庭先に脱いであった下駄をはいて、野々宮のあとを追いかけた。表で何か話している。
三四郎は黙ってすわっていた。
朝晩はだいぶ涼しくなってきたみたいなんだけど
こういう時に油断して風邪引きがちたがりな感じにもなっちゃうので油断は大敵だわ。
いつも夜中ずーっと空調エアコンやってるんだけど
夜中に暑くて目が覚めるってことは避けたいので、
まあ温度は高めの低めってので設定しているのだけれど
強めの中火とか弱めの中火とか少し強い弱火とか
このような事態が発生するのよね。
たぶんそれはコンロのメーカーによってサジ加減が違うからなんとも難しい調整の仕方だと思うので、
数値で示せたらいいじゃない!って思うの。
でもそれを明確にした電子レンジもレシピの決められた具材でワット数と時間とか設定するけど
なんかどうも火入れが甘いような気がするのよね。
強めの中火とか弱めの中火とかの調節は超絶難しいのかも知れない。
色と音をそのサウンドを聞かなければそうそこで耳を澄ませばなのよ。
お料理番組でその焼き色が入っていく段階と途中でお肉などが弾ける音のサウンドが変わってくる瞬間はやっぱり
強めの中火とか弱めの中火とかいっても
決まったとおりにはいかないので、
目で見て判断しなくちゃいけないのよきっと。
電子レンジで決まったワット数と時間とでやっても同じようにできません!って質問があって、
そこまで言われないと分からないのかしら?ってちょっとマニュアル化した社会の弊害だと思うけど
電子レンジの窓が湯気で曇ってきたらチャンス!って言ってたのをなるほどーって思ったの。
まさに秋の祭典スペシャルよ!
あとやっぱり電子レンジとは言え
微かに電子レンジのファンから吹き出してくるその香りもキャッチしてリリースしなくてはいけないの。
その難しさを垣間見たわ。
電子レンジ便利調理器具を使ってそのままのレシピで時間電子レンジチンしても
上手くいかないのは様々な個々の影響が重なり合って
例えば機械のクセだとかもあるんじゃない?
あと微妙に量とか水分量とかも素材の味を引き出す加熱に大きな影響を与えるんだって。
へー!って
私もテレビを観ながらその電子レンジ調理名人の研究家の画面を見ながらなるほどボタンを連打した秋の祭典スペシャルだったわ。
私はそれでも電池レンジで焼けない秋刀魚のフェアーを定食屋さんが始めの合図を開始するのを待ちに待っているんだけど
なかなか今年の秋刀魚のフェアの開催をお知らせするチラシが商店街に貼り出されてないので
ちょっと緊張しているわ。
だって秋のシーズンの開幕戦ダッシュは焼き秋刀魚って相場が決まってるでしょ?
だから一刻も早く私は華麗なスタートダッシュを決めなければならないの。
焼ホッケではだめ!
やっぱり秋刀魚じゃなきゃ!なのよ。
本当に心待ちにしているのよね。
秋刀魚だけに!って
なにもかかってないけれどね
焼き秋刀魚にあうぴったりな大根おろしにかけたいのは味ぽんよ。
うふふ。
なんか具のパートが薄いような塗りだと思うんだけど、
これは具を食べるというよりパンを食べるという方が味わえる方向の転換が必要かもと思わせる具のゾーンの薄さよね。
秋の空は高いのに
いろいろな世界情勢がこのサンドイッチにも活かされているのよきっと。
サンドイッチで知る世界情勢面を私はその今朝の新聞で読みながらそう思ったわ。
一時期何故か人気だったのか品薄ルイボスティーだったけど、
解消されつつあるみたいで店頭に並び再び目にすることが多くなったので元通りなのかもね。
まだまだ冷たいの行けるけど
それが夏の弱りの原因の一つにもあるんだって
だから極端な冷たいものよりも温かいものも飲んだ方がいいって学説もあるようよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
増田の父は、家事も育児もほぼ全くしなかったらしい。そのように母が、増田が大学生ぐらいになった頃からグジグジ湿っぽく言っていた。
私たち子ども(兄と姉と私の三人兄弟)たちも「保護者はお母さん」 「お父さんは遅く帰ってきて晩酌を要求したり、夏休みに海や山に連れってくれる「レアアイテム親」」」みたいな感じだったので、まぁそうだねーと思っていた。
とはいえ、母や私たち子どもが父をATM扱いしていたわけでもなく、父がボーナス山ほど持って帰ってきたり昇進するととお祝いをしたり。子供たちが小さい時は夫婦喧嘩は恐らく子が見ていないところでやっていたんだろうと思う。お父さんが約束してたお出かけに一緒に行けなくなって拗ねた時は「お父さんもお仕事大変なんだから仕方ないのよ」と叱られたり。
そんな風にしつけられて育ったので、子供のころにいとこたちと遊びに行く時など、いとこの家はパパもママもいるけどうちはいつもお母さんだけだなーでもうちのお父さんは忙しいからしょうがないよなと納得するようになっていた。授業参観や大会の応援とかも一度も来たことがないが、まぁそういうものだと思っていた。まれに仕事が早く終わって夜早くに父が帰って家にいると気恥ずかしいような嬉しいような。
要するに、父親にも育てられた自覚はちゃんとある。が、が一方で「夫婦で協力して子育てをしてもらっていた」という感覚はない。
面倒見てくれたのも、学校でトラブルがあった時に話を聞いてくれたのも、習い事の送迎も、どの塾にするかもどの学校を受験したいかも全て母だった。接する時間が長いのは圧倒的に母だったから、まあそれは仕方がない。増田が育った時代・地域は分業夫婦が多数派だったので、不満はないわけじゃなかったが違和感もあまり感じていなかった。
母が、父が子育てにコミットしてこなかったことにグジグジ言い出したのは、前述通り増田が大学生ぐらいのころからなのだが、それは増田が大人になったからではなく、兄が結婚し子を授かったからだと思う。
兄は、時代のせいもあるし、父を反面教師にした面もあるだろうし、なんていうか優しいタイプの男だったこともあるのだと思うが、しっかりと育児をする男だった。
それでたぶん母は自分が夫からされた仕打ち、子供たちが小さいころにした色んな苦労をぶわわーっと思い出してしまったみたいだった。そのせいか母はその頃は少し嫌な母親になっていて義姉を疎んでイヤミを言ったり、孫をかわいがろうとしてしくじる父にグチグチ言い出したりし始めたのだろうと思う。
産後~乳幼児期の子育ての苦労は「子供が死ぬかもしれない」を中心に精神的・物理的・時間的な苦労が大きいから、そこで負担が大きかったりすると辛いのは何となくわかるが、まぁこんな風にトラウマが噴き出すみたいになるもんなんだな…と驚いた。ずっと溜めこんでたんだな、それが息子の嫁と子が大事にされているところを見て吹き出しちゃったんだと今ならわかる。
父は、母からそのように責められるたびにバツの悪い顔になって、怒ることこそなかったがとても不機嫌になる。せっかくかわいい赤ちゃんまでいるのに空気が悪くなるのは嫌だったので、「お父さんが孫にあんまり好かれないのは子育てしてこなかったからでしょうがないね!おむつも変えたことないなら、お兄ちゃんが教えてあげたら」と父と兄を焚き付けて、父は息子から教わる形で「夫婦で協力する」を後から学んでいったんだと思う。
そんなこんなで何となく実家の様子は時間とともに落ち着いていき、並行して、私が社会人になり家を出て、結婚する報告をしに実家に帰ったらその2年弱で父は家事分担ジェントルマンに変貌していた。一緒に買い物に行き荷物を持ってやる、父一人でスーパーに買い物に行って適切なものを買って帰ってくる、家の掃除は父の分担になり、母が出かけている間に洗濯物を取り込んで畳むことまで出来るようになっていた。母が寝込んでも何もしない男だったのだがおじやを作ってたのには心の底からびっくりした。私たちが子供のころ、母が寝込んだ時に母方の祖母を電話で呼び出して妻と子供たちの看病を命じた男が、会社の飲み会がある予定をきちんと一週間前には母と共有するようになっていた。父は後天的に学習ができたのだろう。そのおかげで母の「嫌な義母ムーブ」も少しずつ収まっていったみたいだった。
もう父も母も亡くなったのだが、父が死んだ後の母はとても悲しんで落ち込んでいた。その程度には夫婦は関係を修復で来ていたのだろうと思う。
母が亡くなって遺品整理をしていた時、叔母から、母は子育てが本当にしんどそうだった(産後うつ?)と聞いた。兄・姉と生んだ後に、幼稚園前の兄と生まれたばかりの姉をつれて家出して実家に帰っていた時期があるんだという。全然知らなかった。私たちは母方のいとこたちとしょっちゅう遊んでいたのだが、それは叔母が母を気遣ってくれてのことだったらしい。兄はうっすら覚えているらしく、兄が家族にとてもやさしい男になった理由の一つなのかもと思った。
子供側から見ると「父親から育てられてない」とは全然思わないけど、例えば私が成人式の時に、父が母に向かって「俺たち育て上げたななぁ」と相槌を求めてきたとしたら私なら「やだお父さん、育てたのは大半お母さんだよ」ぐらいは言っちゃいそうだ。私の母が、息子のイクメンぶりに刺激されてトラウマがよみがえったように「あなたは「育て」にはコミットしてないでしょ!」ってなっちゃったのかもなぁ奥さん。
せめて「俺たち頑張ったなぁ!」とかだったらパンドラの箱は開かなかったかもしれない…だろうか、どうだろ。まぁどのぐらい地雷を埋めたか分からないから何とも言えないね。幸いなことに私の父はびっくりするほど学習能力が高くてジェントル協働夫になって仲良し夫婦で夫々旅立っていったから、まぁよかったなって思ったし、私も改めて夫を大事にしようと思った次第。
仕事で大阪に行った時の話なんだけど、電車に乗ったら、目の前にJKが二人座ってたんだよ。
なんかもう、大阪感満載の子たちで、とにかく声がでかいんだよね。
で、その会話が耳に入ってきちゃうんだけど、これがもう漫才みたいでさ、思わず吹き出しそうになったんだ。
一人が「なぁ、化物語で誰が好き?」って言うと、もう一人が「わたし、あの子好きやわぁ、ほら、あの子」って返してさ。
「あの子って誰?」って続けて聞くと、もう一人の子が「戦場ヶ原またぎ」って言ってさ。
「戦場ヶ原またぎって誰!?なんで狩人のおっさんみたいになってんねん!!それ、戦場ヶ原ひたぎやろっ!!!」って突っ込んでて、その時点でもう吹き出しそうになったんだ。
そしたらボケてるっぽい方の子が、「わたし、モノマネ得意やよ」と言うんでもう一方の子が「ほな、やってみて」と振るんだよ。
それからアニメの戦場ヶ原っぽい声で「ねぇ、マタタギくん」って言うんだよ。
「マタギから離れろや!どんだけマタギ好きやねん!!」って突っ込んででここでまた吹き出しそうになる。
「っていうかカップルでマタギってどういうこと!?」とツッコミが重なる頃には笑えを堪えて震えてた。
もうさ、その掛け合いが完璧すぎて、笑いをこらえるのに必死だったんだよ。
でも、その時驚いたのが、周りの人たちは全然気にしてないのよ。
普通さ、こんな大声で漫才みたいなやりとりしてたら、みんなチラチラ見たり笑い出しそうになったりするじゃん?
東京だったら絶対そうなる。でも、大阪じゃ誰も反応してなくて、みんな普通にスマホいじってたり、寝てたりしてんだよ。
その時、「これが大阪か…」って思わず感心しちゃったんだよね。
例のJK二人組みは電車を降りるまでずっとその漫才みたいなやり取りが続いてて、俺はひたすら笑いを堪えてた。
で、その片方が電車降り際には
「また明日やな」
「うん、ほな、またぎ!」
「いや、”またな”やろ!もうええわ!」
って言って別れるのを見た瞬間、もう耐えられなくて、ついに小さく吹き出しちゃったよ。