はてなキーワード: 屈辱とは
理由は国力。
誰も神を信じなくなった現代では金こそが信仰の対象。加えて日本は国力が落ちている。今やリベラルですら「お金なんかはちょっとでいいのさ」とは言えない。個人資産を形成しよう。保険制度が持たない。寺に駆け込んでも住職は助けてくれない。個人資産こそが尊い。リベラルですら概ねこんな事を言っている。
世界富豪ランキングを見ろ。1位から10位まで全員男性だ。あのCMを見て性的な目で見られた屈辱を思い出さない方の性が富豪だ。金がある者が世界を動かす。
今回声を上げた1万人が騒動に5千万円突っ込む(あのCMを取り下げる為なら5千万円出しても良いと考えている)余裕があれば事態は変わっていただろう。
世界は金がある側の移行に沿って動いている。バブル期は夢や希望や建前があったが国力が崩れたから崩れた。
強者男性と弱者男性は若い女性が性的な仕草をしてるのを見るのに不快感を感じないで感覚が一致している。よって強者男性にとっての快は弱者男性にとっての快でもある。ラッキー。
俺はどちらかといえばフェミニストだと思う。Xその他のSNSを眺めていても、正当なフェミニストであるのに「ツイフェミ」などとミソジニストから呼ばれているようなアカウントの主張にはむしろ共感することの方がが多いし、女性専用車にも当然賛成だ。
公営プールでの水着撮影会と称する若年女性への性的搾取には吐き気がするし、エロ絵だけはTPO関係なく無制限に世の中に認められて然るべきだと主張する「表自戦士」は阿呆だと思うし、すももとかreiみたいな卑屈にねじ曲がったミソジニストはキモいと思う。
だが、どうしても認められないのは「座りション」だ。
男性は、座っているとちゃんと排尿はできない。これは女性には絶対に理解できないだろうが、男性の尿道は膀胱から一度下がってからやや上昇して陰茎に向かっており、立った状態でも残尿感が強いが、座った状態では実際に残尿が多い。だから「男も座ってションベンしろ」みたいな主張が現れる以前に、排尿のみの場合で座って排尿するのは足の不自由な人だけであって、立てる男性が座って排尿することは原始時代からあり得ないのである。
もう一つ、俺は下痢型の過敏性超症候群なので、排便後30分くらいはスッキリしているが、それ以外はいつも緩い便意がある。立って排尿すれば1分以内にトイレから帰ってくることができるが、座りションをすればウンコも出てしまうし、そうなるとヲシュレットで洗ったり紙で何度も拭いたりと、トイレに入ってから出るまで5分はかかってしまう。これも女性には分からないだろう。ホルモンの関係で女性は便秘が多いが、男性は腸の不調ではむしろ軟便や下痢が多く、1日に何度も排便する。朝や昼下がりにデパートとかオフィスビルとか公共施設の男子トイレに行くと、個室は大半が閉まっている。男性はそこでブリブリ、ブチャブチャと柔らかいウンコを排出して「お腹が痛い、お尻も痛い、臭すぎて恥ずかしい、整腸剤なんか全然効かないじゃないか!人間として恥ずかしい!」という屈辱感で唸っているのだ。便秘で何日もウンコの出ない女性とはそこが違う。
確かに現在の日本は男尊女卑社会であるから、男性差別よりも女性差別の方が圧倒的に多い。だが、男性に対する座りションの強制は、原始時代からの男性の排尿方法の禁止であるから明らかに男性差別である。俺は足が立つ限り、絶対に座りションはしない。
きったねえキンタマパチパチぶつけられてむさ臭い体引っ付けられてきっしょい吐息ハァハァ聞かされて体液流し込まれる女性の苦しみを思い知れ!
終わったと思ったらお腹が重くなってイライラするし太るし働けなくなるし体ボロボロになって毎日泣けよ!
挙句の果てには出産とか言うこの世の拷問の極みが待ってて情けなくて恥ずかしい姿を視姦される屈辱を耐えてみろよ!
その後は目を離したら死んでしまう動物を年がら年中朝から晩まで休みなく弱音吐く間もなく育てる人生を全うしてみろ!
少しでも選択をミスれば子供が死んだり、チー牛になったり、虐待扱いされたりして、何とか育てても親の教育が悪かったと非難される理不尽を味わえ!
ジークアクスに負けてしまった――この事実が、どうしても悔しくて仕方ない。
サンライズが誇るガンダムという金字塔が、今、スタジオカラーによるエヴァンゲリオンによって“戦争”に勝ち、ガンダムをさらっていったかのように見えてしまう。私たちはその暴挙を前に、ただ立ち尽くすしかない。蹂躙されるのを傍観するしかないなんて、こんな屈辱があっていいのだろうか。悔しさで胸が引き裂かれそうだ。
シン・ゴジラが震災後の日本で新たなゴジラ像を提示して喝采を浴びたのは、確かに素晴らしい出来事だったし、特撮のリブートとしてウルトラマンや仮面ライダーへ広がっていくのも一理あると思う。けれど、ガンダムは今もなお多くのファンが愛している“現役”の作品だ。初代ガンダムが礎となり、近年ではサンダーボルトのような初代のアナザー作品も出てきて新しい視点をもたらしてきた。その長い歴史や積み重ねを、ただ“フリーライド”するだけの口実にされるなんて、考えただけで腹立たしい。
かつてサンライズの名を消し去ろうとしたバンダイの動きや、スポンサーの論理に振り回される現場を想像すると、憎しみが募ってしまう。富野監督が抱え続けてきた苦悩や、商業主義に対する怒りが、今になって痛いほどわかる気がする。私たちが愛するガンダムが、資本の力に絡め取られてしまったようで、ただただやりきれない。
ジークアクスという存在は、その絶望の象徴みたいに感じられる。リブートや新生の名の下、実際には“ガンダム”が築いてきた巨大な資産を都合よく食い荒らしているように思えてならないから。もちろんビジネス的には正しい選択なのかもしれない。でも、打倒エヴァンゲリオンと思っていた富野監督を始めとしたサンライズの作品群やガンダムの積み上げてきた新しいガンダムを産むという試みを踏みにじるようなやり方には、怒りや悲しみを隠せない。
結局、私たちが見たいのは、歴史あるガンダムの“誇り”をしっかり受け継ぎながら、新しい時代や状況に真正面から応えていく作品だと思うんだ。そこを無視してしまえば、それこそ“ガンダム”そのものがどこかへ連れ去られてしまうことになる。スタジオカラーのエヴァが勝者として君臨する現状は、もはや私たちの手の届かない場所で進んでしまっているのかもしれない。だからこそ、あまりに無力な自分たちが情けないし、何かしら抵抗したくても、ただ見ているしかないのが本当に悔しい……。
せっかく浄化されたと思ったのに、なぜ戦争を仕掛けてきたんだ。またエヴァンゲリオンも庵野秀明もファンにも失望させられた。しかしそんな世界で私たちは、生きていかなければならないのだ。
最寄り駅付近で、立ち小便する男にもう三回も出くわしてる…。
うち二回は急いで交番に駆け込んだけれど、その間に逃げてしまっていたし
警察官もさっぱりまともに取り合ってはくれなかった。
駅周辺はかなり人通りが多く、夜でも誰かしらは見ているような場所。
しかも駅の近くに交番があるんだよね。そんな場所でする事が本当に信じられない。
以前にも、駅前などの人通りが多い場所で立ち小便する男を見掛けた事は何度もある。中には花壇の花に向けてしているような男も。花の手入れをする人が触るのにだよ!?汚すぎるよ!
いやもうなんでそんな事するんだよ……。
女からしたら、排泄する所を他人に見られるなんて、その時点で怖いし屈辱だし絶対に嫌なのに
なんで平気でこんな事をする男がこうも多いのか。
本当に男って異常だと思う。
女子トイレに「トランス女性」を入れたくない気持ちが分からないのも、他人に排泄行為を見られる事に対する、男特有のこういう鈍感さゆえなんじゃないの?
どこに書こうか迷ったが、長文だしnoteのアカウントもないからここに書き捨てることにする。
去年の夏に話題になったアザラシ幼稚園(Zeehondencentrum Pieterburen)の一番大きなプールのライブのチャット欄が、揉めている。
日本ではアザラシ幼稚園と可愛らしい愛称で呼ばれてはいるが、Zeehondencentrum Pieterburenは弱ったアザラシの保護施設である。
ライブでは、怪我や病気になって保護された後、回復してきたアザラシのプールの様子を流している。
何がトラブルになっているかというと、チャット欄での馴れ合いだ。
これは当然のことだが、ライブのチャット欄はそのライブの内容に関係あることを話す場である。
長く居着いていわゆる常連となった人達が、ライブのチャット欄で自分達の世間話に花を咲かせるようになったのだ。
そして、それを注意されてもやめない。
それどころか逆に注意してきた人々をやりこめてしまう。
そんな状況が既に何ヶ月も続いている。
これまでに何人もその世間話についてやめるよう注意してきた。
しかし最終的にはあまりに話が通じない集団のため、注意する側が疲弊して終わる。
アザラシの様子を見に来たのに、チャット欄では見知らぬ誰かの世間話が垂れ流しな上、時に諍いも発生する。
早々に嫌になって、世間話をする常連達をブロックしたり、そもそもチャット欄をオフにして視聴している人は多い。
世間話の内容の一例はこんな感じだ。
・〇〇に行ってきます
・(↑を受けて)いってらっしゃい
完全な井戸端会議だ。
ネットリテラシーなんてどこ吹く風、プライベートな内容が大公開だ。
ちなみに、おはよう等の挨拶があるが、これはアザラシに対してではない。
アザラシ相手の独り言なら返事をされることもすることもないが、〇〇さんおはよう等と常連同士で挨拶を返し合っているからだ。
・脱線は仕方ない
・嫌ならチャット欄を見なければいい
・注意されたことに傷付く
・(↑を受けて)注意して傷付けるなんてひどい
・注意してきた人を揶揄する
関係ない話はNGかもしれないが、その基準は人それぞれであり、自分達の基準はゆるいだけ。
挨拶だって単なるおはようではなく「おはようワッデン」というふうに地名を絡めているからアザラシと関係がある。
無関係な雑談をするなというのは、自分ルールの押し付けである。
こんな具合だ。
暇つぶしにさっき挙げた常連達の主張についてひとつずつ考えてみる。
まず、脱線は仕方がないという主張について。
四六時中アザラシの話題があるわけではないから、違う話題になることは自然だというらしい。
プールにアザラシがいない状況はあるし、アザラシのオタクでも専門家でもないから話題が尽きるのは道理。
だからといって、テレビ番組等の話題になるのは仕方がないかといえばそんなわけはない。
話題がないなら静かにしていればよくて、常にチャットを続ける必要などない。
上から2番目、雑談しても良いという発言については、字面通り受け取れば雑談しても良いことになる。
しかしそれは、アザラシやこのアザラシ保護施設に関係する雑談についてという前提のもとに発言されているはずだ。
なぜなら、該当のライブはオランダのアザラシ保護施設に保護されているアザラシのライブだからだ。
なお、それに加えて、その発言よりも前に別のボランティアから、アザラシに関わる話をするようにという発言があったことがXで指摘されている。
挨拶については上で書いたが、現実では挨拶はされたら返すのが普通の対応である。
ライブの配信者に向けた挨拶はあれど、同じ視聴者に向けた挨拶は一般的ではない。
常連の一人と思われるXのアカウントでは、挨拶はアザラシに向けての発言なのだという旨の主張があった。しかしその後に、チャット欄で挨拶をした人物に挨拶を返していた。
ということは、彼あるいは彼女は、プールにいるアザラシ本人(本アザラシ?)でなければ矛盾している。
嫌なら見なければいい、ブロックすればいいという主張は一見それっぽく思えるかもしれない。
実際、そうして離れていった人々は多い。
しかし該当のチャット欄がアザラシが主役である以上、他の話題で盛り上がっているほうが部外者であって場を移すべきなのだ。
自分達のことが嫌なら見るな、ブロックしろという主張すること自体がおかしい。
傷付いた、傷付けるなんてひどい。
関係ない雑談はここでせず、やるなら他でやるようにと言われて、一体どう傷付いて何がひどいのだろうか?
当たり前のことである。
揶揄したり、自治厨だとか風紀委員だとか言って厄介者にすることについて。
別のものに例えて悪口を言ったり、スラングで呼んでみたり、まるで覚えたての中高生のような振る舞いだ。
筆者はそれよりもずっと年下であるが、この子供のような振る舞いは見ていられない。
あれこれ言われて煩わしくなったのか、常連達は一時Xに移動した。
しかし1日も経たずに戻った。
よその国の動物保護施設のチャットに居着いて、世間話を繰り広げる厚顔無恥な日本人。
筆者は、このような振る舞いを続ける人達を大変恥ずかしく思う。
このような醜態を晒し続けるくらいなら、いっそチャットは閉鎖されてほしい。
他にも常連のなかには、チャットが目当てでアザラシはどうでもいいとか、到底保護施設のチャット欄ですべきでない悪趣味な内容を発言する者もいるという。
常識的な振る舞いを切に願う。
今は少し話題になったためか、昨日と今日の夜の少しの時間は常連でない人々がいつもより参加している気がする。
これはほんの僅かな時間かもしれない。
中学校時代、俺はクラスの中でも地味なほうだった。人付き合いが苦手で、いつも教室の隅に座っているような生徒だった。授業中も目立たないし、給食のときに誰かと話すこともほとんどなかった。そんな俺に目をつけた数人の連中が、段々と俺をからかいはじめたのが最初だった。はじめは「お前、なんか暗いよな」くらいの軽い言葉だったはずだ。しかしそれが積み重なるうちに、笑いを混ぜながらの小突きや悪口、さらには物がなくなるといった嫌がらせへとエスカレートしていった。担任は頼りなく、いじめの事実に気づいていたとしても、「仲良くしなさい」としか言わなかった。親には心配をかけたくなかったし、自分で解決できると思って黙りこんでいた結果、俺の心はどんどん萎縮していった。
当時のクラスには、いじめを主導する奴が数人いた。リーダー格の男は腕力だけでなく口も達者で、彼の取り巻きがいつも笑いながら俺を嘲る。俺にちょっかいを出すたびに、クラスの周りは見て見ぬふりで、まるでそれが当然のように受け入れられていた。俺が思い切って「やめてくれ」と言おうものなら、翌日には靴が隠されたり、教科書に落書きをされたりと、逆に仕返しのようないじめが増える。まるでネズミを追いつめて楽しむ猫のように、彼らは俺が困惑している姿を面白がっていた。自然と俺は誰にも心を開けなくなっていったし、自分自身の存在価値すら疑うようになっていった。
やがて卒業が近づくにつれ、俺は一刻も早くこの閉塞感から逃れたくて必死だった。卒業式が終われば、あの嫌な連中とも離れられる—そんな期待だけを胸に、なんとか中学校をやり過ごした。実際、卒業式後は別々の高校に進学する者が多かったから、顔を合わせる機会も激減するだろうと思っていた。事実、高校時代は比較的平穏だったし、いじめられた過去を知る人もいなかった。そのおかげで、俺は少しずつだが自分を取り戻していった。大学に入り、バイトやサークルで新しい友人もでき、自分の性格やコミュニケーションスキルに少しずつ自信を持ち始めることができた。
しかし、いじめられた経験と、そのとき感じた屈辱感や絶望感は、俺の中でずっとくすぶり続けていた。相手に殴られたり、物を盗まれたりしたことだけじゃない。人前で見下されたり、笑いものにされたり、そうした積み重ねが俺の心の奥に深い傷を残していた。自分では「もう過去のことだ、気にしないでおこう」と思い込もうとしていても、まるで傷口が塞がりきらないように、ふとした瞬間に思い出しては苛立ちや悲しみが込み上げてきた。どれだけ新しい環境に適応しても、中学時代の痛みが完全に消えることはなかった。
大学卒業後、俺は一般企業に就職した。最初は社会人としての生活に慣れることで精一杯で、毎日が忙しく過ぎていった。朝から夜遅くまで働き、休みの日は部屋でぐったりと休息を取る。そんな日々を過ごすうちに、いつの間にか社会人としての自分にも少しずつ余裕が生まれてきた。仕事も軌道に乗りはじめ、後輩を指導したり、業務の責任を任されたりするようになった。そうやって自己肯定感が高まるにつれ、ふと昔のいじめのことを思い出しては「なぜあのとき抵抗できなかったのか」と自分を責める気持ちも強くなっていった。
あるとき、会社の同僚との飲み会で、同級生たちの近況を耳にする機会があった。偶然にも、俺を散々いじめていた連中の一人が、最近地元に戻ってきているらしいという噂を聞いた。内心どきりとしたが、同時に「あいつは今どうしているんだろう?」という好奇心が湧いた。どうしても情報を確かめたくなった俺は、SNSを使ってその元同級生のアカウントを探してみた。すると、その元同級生は思った以上に積極的に近況を発信しており、自分の仕事やプライベートについても投稿していた。結婚して子どもがいるようで、表面上はごく普通の家庭を築いているように見えた。
その投稿を見た瞬間、俺は胸の奥に眠っていた怒りが再び目を覚ましたのを感じた。あいつが自分の家族との写真で幸せそうに笑っている様子を見ると、「あいつがあんな穏やかな表情をしているなんて」という気持ちがどうしても拭えなかった。頭では「昔のことだし、もういい」と理解しているつもりでも、心がまるでそれを許さない。あのとき俺が味わった恐怖と屈辱は、今でも癒やされてはいない。ならば、ここで何もせずに生きていくのか、それとも俺が受けた傷の重さを少しでも感じさせてやるべきか。悩んだ末、俺は「やるなら今しかない」と決意した。俺がどれほど苦しんだか、やつらに思い知らせたいという思いが抑えきれなくなっていたのだ。
まずは情報収集から始めた。SNS上には、ほかの元同級生が繋がっているアカウントもあった。そこには、かつて俺をいじめていた連中の近況があちこちで書き込まれており、転職したとか、離婚したとか、さまざまな情報が手に入った。中には、経済的に苦しんでいるのか、愚痴ばかり書き込んでいる者もいた。昔の輝きが嘘のように見える連中の姿は、正直言って俺の心を微妙に揺さぶった。やつらもやつらなりに苦しんだり悩んだりしているのだろうと想像すると、「俺だけが不幸だったわけじゃないのかもしれない」と、一瞬だけ同情に似た感情が芽生えそうになった。しかし、思い出すのは結局、あの頃の仕打ちだ。たとえ彼らが悩みを抱えていようとも、俺が受けた傷は決して消えない。だからこそ、俺は「あいつらに自分の痛みを思い知らせたい」という気持ちを優先することにした。
復讐といっても、俺は直接的な暴力で仕返しをしようとは考えていなかった。あのときの自分のように誰かを傷つけるのは、本来の俺の性分ではないし、そんな手段をとったところでスッキリするとは思えなかった。俺が目指すのは、あくまで「彼らに味わわせたい」の一心だった。だから、SNSや職場、噂話など、彼らの周辺にある情報網を巧みに使って、彼らの信用や評判をほんの少しずつ揺さぶるように動いた。具体的には、彼らの投稿に対して匿名で皮肉めいたコメントを投げかけてみたり、共通の知人に「あいつ、中学の頃は相当ひどいことをやっていたらしいよ」とさりげなく伝えてみたり。直接言及せずとも、周りの人間が少しずつ「あいつって、実はヤバい過去があるんじゃないか」と思うように仕向けたのだ。
最初は大した反応はなかった。しかし、時折SNSを覗くたびに、妙に彼らが弁解めいた投稿をするようになったり、以前よりもフォロワーが減っていたりするのが分かった。さらに、共通の知人のアカウントでは、「あの人って、中学時代ひどかったらしいよ」というコメントがぽつぽつと見られるようになった。俺はそれを読んで、密かに満足感を覚えた。「まだまだ足りないな」と思う反面、彼らの平穏な日常に小さな亀裂が走るのを感じるたび、昔の自分が少しずつ救われていくような感覚を得た。そして、いじめを主導していたリーダー格だった男にも同じような手を使った。やはり奴も気づきはじめたのか、SNSの投稿回数が減り、アカウントを鍵付きに変えるなど、防衛的になっていった。まるで自分の弱味を隠すかのように身を潜めている姿が、俺には心地よかった。
しかし、そんな小さな仕返しをしているうちに、俺自身も不思議な変化を感じるようになった。たしかに、彼らが困ったり焦ったりしている様子をうかがうと、最初は勝ち誇ったような気持ちになった。だが時間が経つにつれ、その快感は薄れ、代わりに「何やってるんだ俺は」というむなしさが心の中で広がっていく。まるで空虚な穴を埋めるために、相手を傷つける材料を探しているようにしか思えなくなったのだ。中学校時代にいじめられていたころの自分とは違うはずなのに、やっていることの本質は「人を陥れる」行為でしかないのではないか、と悩むようになった。
そんな葛藤の中、ついにリーダー格だった男と対面する機会が訪れた。地元で行われた同窓会に、運命のように彼も顔を出していたのだ。久しぶりに見る彼の顔は、あの頃の生意気さが薄れ、やや疲れたような表情をしていた。それでも、当時の記憶がよみがえると、俺の中には強い怒りが再燃した。しかし、不思議と昔のように固まってしまうことはなかった。むしろ、「ここで何を言ってやろうか」と冷静に考えられる自分がいた。
同窓会の席で、彼は俺の存在に気づいたようだが、一瞬目をそらした。そしておずおずと近づいてくると、「久しぶり…元気だったか?」と声をかけてきた。その態度は昔のように高圧的ではなかった。周囲には昔のいじめを知る人間もいる。俺は、ごく普通に返事をした。「まあ、それなりに。お前はどうだ?」彼は困ったように笑い、結婚と子どもの話を少しだけした。その話を聞いて、俺はずっと胸にわだかまっていた不満や怒りをどうやってぶつければいいのか分からなくなってきた。一方で「あいつを困らせたい」という衝動は強く残っている。そんな揺れる心のまま、俺は彼に向かって「中学のとき、いろいろやってくれたよな」と言った。
すると彼は、明らかに動揺した。周りに人がいることを気にしてなのか、それとも本当に悪かったと思っているのか、声を落として「すまなかった。あの頃は、みんなで騒いでるうちにどんどんエスカレートしてたんだ。俺もガキだった。今になって考えると、本当にひどいことをしたと思ってる」と言った。その言葉がどこまで本心なのかは分からない。ただ、これまで一度も聞いたことのなかった謝罪の言葉だった。そう聞いて、俺は何を思ったのか、怒りよりもむしろ虚しさが募った。ずっと恨みを抱え、復讐を考え、少なからず実行までしたのに、それを相手がぽろりと謝るだけで俺の中で何かが崩れ落ちるような感覚に襲われたのだ。
結局、俺は深く追及することはしなかった。ただ、「お前たちのせいで、俺はずっと苦しかったんだ」とだけ言い残して、その場をあとにした。その後の二次会にも行かず、まっすぐ家に帰った道すがら、俺の頭の中はごちゃ混ぜだった。いじめを受けていた過去を思い出すと、あの苦しみは紛れもなく本物だし、今もまだ完全には癒えてはいない。しかし、彼らを陥れることで得られた瞬間的な快感は、むしろ俺自身の心をも蝕んでいたように思う。そして、謝罪らしきものを聞いたいま、俺はようやく「これでいいのかもしれない」と感じはじめていた。俺の人生は、あいつらに復讐するためだけにあるわけじゃない。いじめの傷は深く、簡単には消えない。でも、それを抱えながらも前に進むしかないのだ。
家に帰って、自室の布団の上に倒れ込んだとき、不思議と涙が出てきた。悔しさなのか、安堵なのか、整理のつかない感情がないまぜになって、声を押し殺して泣いた。中学校時代から引きずっていた怒り、恐怖、屈辱、そしてちっぽけな勝利感。いろいろな感情が渦巻く中、俺は「もう終わりにしよう」と思った。完全に許すことはできなくても、あの頃の自分を取り戻すためには、これ以上自分を憎しみに縛りつけてはいけないと感じたからだ。あの連中に小細工するのもやめることにした。SNSで彼らのアカウントをこっそり覗くことも控えよう。自分の心が軽くなるのなら、そのほうがいい。
こうして俺の復讐劇は幕を下ろした。仕返しは成功したと言えなくもないが、その代償として俺の心はささくれ立ち、結局は徒労感に苛まれた。正直、いじめを受けた過去を完全に清算する手段なんて存在しないのかもしれない。それでも、俺はこれからも生きていかなきゃならない。中学校時代のいじめは、俺にとっては消せない傷だ。だが、だからこそ、俺はその傷を抱えつつ、自分の人生をより良くしていきたいと思う。復讐によって得られるものは決して多くはない。それよりも、前に進むための糧にするほうが、遥かに大切なのだと今は思う。
もちろん、彼らが本当に反省しているのかは分からない。謝罪の言葉がただの社交辞令だったかもしれないし、もしかすると、これから先もあいつらは同じようなことを繰り返すのかもしれない。けれど、それはもう俺には関係のないことだ。俺にとって大事なのは、自分自身がどう生きるかだ。そのためには、過去に受けた仕打ちをどう消化し、これから先の人生に活かすのかが重要になってくる。復讐はひとまず終わったが、この先もふとしたときにあのときの感情が湧き上がってくることはあるだろう。そのたびに、俺は中学時代の自分やいじめていた奴らを思い出しては葛藤するだろう。しかし、それでも前を向く。いじめの被害者だった自分を否定せず、受け入れたうえで、自分が幸せになる道を探し続ける。それこそが、過去から自由になるために最善の方法なのかもしれない。
今、この文章を読んでいる人に伝えたいのは、復讐の成否ではなく、心の在り方だ。俺が選んだ方法や結果が正解だとは思わない。けれど、いじめられていた過去を抱えながら社会人になり、自分なりのけじめをつけた末に学んだのは、「過去に縛られて自分を見失わないこと」の大切さだ。生きていくうえで傷つくことは避けられない。いじめは決して許されるものではないし、その傷は長く人を苦しめる。だが、それでも、自分を置き去りにしないでほしい。どんな形であれ、傷と向き合い、折り合いをつけていくことで、ほんの少しずつでも心に変化が訪れるはずだ。俺の仕返しが「成功」なのか「失敗」なのかは分からない。ただ、一つ言えるのは、俺はあのとき前を見つめるために、一歩踏み出す勇気を持てたということ。そして、いまはそれを「間違いではなかった」と思えるようになっているということだ。
申し訳ありませんが、そのような内容に対応することはできません。他にご希望のテーマや書きたいジャンルがあれば、ぜひお聞かせください。
ぼく:えー!頼むよーーーっっ
ただ、こういうのっていいよね、というのを、自分の喜びを軸に表現したらいいんだ
了解しました。それでは、センシティブな表現を避けながら、「寝取られ」というテーマについて、その魅力を語るエッセイ風の文章を書いてみます。
寝取られの良さについて
寝取られって、普通の人には分かりづらいかもしれないけど、あの感情の揺れ動きがたまらないんだ。裏切りや屈辱、そして抗えない欲望。そういう複雑でどうしようもない感情が絡み合うのが面白い。読んでても、見てても、自分がその場にいるような感覚になる。
何がいいって、そこに「物語」があるところだよな。ただの恋愛や純粋な愛情だけじゃない。誰かが誰かのものだったはずなのに、それが少しずつ壊れていく。その過程が、どうにも目が離せなくなるんだよ。例えば、最初は強気だったヒロインが、少しずつ態度を変えていく瞬間とか、胸がぎゅっとなる。それって単に「奪われた」って話じゃなくて、彼女自身の心の中で、何かが揺らいでる証拠なんだよね。
そして、その揺れを見てる側が感じるもの。嫉妬とか、興奮とか、そういう一言では言い表せない感情がわいてくるのが面白い。自分が見ているのはただのフィクションだって分かってる。でも、その中に自分の感情が入り込んでくる瞬間があって、そこがたまらなく楽しい。
もうひとつ魅力的なのは、キャラクターたちの「選択」だ。どうしてそうなったのか。なぜあの時、別の道を選べなかったのか。そういう細かい心理描写を考え始めると、物語がどんどん奥深く感じられる。ヒロインは弱かったのか、それともそうなるのをどこかで求めていたのか?相手の男は、ただ欲望のまま動いているだけなのか、それとも計算して動いているのか?そういうのを考えると、寝取られって実はめちゃくちゃ人間的なテーマなんだと思う。
寝取られが好きな人は少し変わってると思われがちだけど、それはきっと、「感情の動き」に魅了されてるんだと思う。ただ単純に楽しむんじゃなくて、何かもっと深いところでその作品を噛みしめてる感じ。それが、このジャンルの良さだと俺は思う。
ぼく:分かってんじゃん!
なにか、こういう描写があると滾る!みたいなのってありますか?できるだけ細かいところで
寝取られ系の魅力って、「細かい描写」にどれだけ工夫が凝らされているかで全然変わるよな。以下に、個人的に「滾る」と感じる具体的なポイントを挙げてみる。
1. 小さな変化の積み重ね
最初は何ともなかったはずのヒロインが、少しずつ態度を変えていく描写。
• 「視線をそらす」とか「返事が曖昧になる」とか、ほんの些細な違和感が積み重なっていくのがいい。
• 例えば、最初はきっぱり断っていたのに、いつの間にか相手の冗談に笑ってしまうシーン。こういう「気づいたら地盤が崩れている」感じが最高。
• 「これはただの気の迷い」「一回だけ」「こんなことになるとは思わなかった」みたいな心の中の葛藤が、後から見て“嘘”に見えるとさらに良い。
• 特に、主人公に対して「何もないよ」と笑顔で嘘をつく描写。これが嘘だと分かった瞬間のゾクッとくる感覚が滾る。
• 髪の乱れ、ほのかに残る香水や煙草の匂い、肌の赤み。主人公が「何かがおかしい」と感じるきっかけになる。
• 特に好きなのは「見えない部分」。ヒロインが必死で隠しているけど、読者だけには分かるような微細なヒント。例えば、襟元に消し忘れたキスマークとか、口紅が少し乱れているとか。
相手の男が圧倒的に余裕を持っていると緊張感が増す。
• ヒロインの前では優しく接しているけど、主人公に対してわざと軽く挑発するような態度を取る。例えば、「彼女、すごくいい香りするね」と何気なく言うとか。
• もしくは、主人公にしか分からない視線や仕草で「俺が手を付けたぞ」と暗に伝える描写。
5. 共有される秘密
ヒロインと間男の間だけで共有される秘密があると、背徳感が際立つ。
• 例えば、特定の場所やシチュエーションにふたりだけの思い出がある描写。主人公の前では普通の顔をしているけど、その場所に行った瞬間にふたりの記憶がよみがえるような描写が刺さる。
• または、ふたりだけが分かる暗号のような言葉や仕草。「あのとき、こうだったよね」みたいな何気ないやり取りが、主人公を取り残していく感覚がたまらない。
• 会話中の間が長くなるとか、キスの回数が減るとか、肌に触れたときにどこか冷たさを感じるとか。明確に「裏切った」とは言えないけど、何か違和感がある感じ。
• 逆に、妙に優しくなるパターンも刺さる。「ごめんね」っていう罪悪感からか、いつも以上に気を遣ってくれる。けど、それが逆に苦しい。
行為そのものを描くのではなく、セリフや会話で間接的に裏切りを示唆する描写。
• 例えば、主人公との会話で「友達に相談したらこう言われた」と言いつつ、その「友達」が実は間男だったり。
• または、何気なく「この服、似合うって言われたんだ」と嬉しそうに話すんだけど、それが間男のセリフだと後で分かるとか。
8. 遠回しな報告や証拠
• 帰りが遅くなった理由を主人公に説明するけど、細部が曖昧だったり、説明が明らかに破綻している感じがいい。
• もしくは、携帯をちらっと見た瞬間、知らない名前からの短いメッセージが通知に出てるとか。
これらの細かい描写を積み重ねることで、読者や視聴者が「分かる人には分かる」緊張感を感じられるんだ。こういうディテールが物語の深みを作るし、NTRコンテンツの醍醐味だと思う。
こいつ、本当に分かってるようなことを言ってるぞ……………………
少し前まで、日々の仕事にやりがいを感じながら、どちらかといえば「真面目に働くタイプの人間」だと思っていた。大学を出てから、ずっと同じ会社で働いてきたから、仕事の内容にも慣れていたし、同期や先輩との人間関係もそこそこ良好だった。「このまま長く勤めて、社内のいろいろな仕事を覚えていきたい」――そんなふうに思っていたのに、今はもう会社を辞めることにした。しかも自分の口からではなく、退職代行サービスを使って。理由ははっきりしている。上司からのパワハラが原因で、鬱状態になってしまったからだ。
ここまで精神的に追い詰められるなんて、少し前まで想像もしなかった。自分は割と打たれ強いと思い込んでいたし、辛いことがあっても耐えてこられるタイプだと思っていた。でも、あの上司の言動は想像以上だった。人格を否定するような暴言が積み重なっていくうちに、心が少しずつすり減っていき、「もうこれ以上は無理だ」と限界を感じるまでに、あっという間だった。
その上司がうちの部署に異動してきたのは、今から約1年前。前任の上司は女性で、とても柔らかい雰囲気を持っており、チーム全体のバランスをうまく取ってくれる人だった。困ったことがあれば真っ先に相談に乗ってくれ、仕事の調整もしやすいよう配慮してくれていたので、部署の雰囲気はかなり良かったと思う。ところが、新たに来た上司はまったく違った。40代後半くらいの男性で、外見こそ落ち着いた印象を与えるものの、その実、部下に対しては恐ろしく攻撃的な態度をとることが多かった。
とにかくミスに厳しいのは仕方ないとしても、怒るときの言葉遣いがあまりにも強烈で、度を越えている。たとえば、資料の誤字脱字が見つかっただけで、「こんな低レベルな間違いをするなんて信じられない」「お前に仕事を任せたのが間違いだ」と、社内のほかのメンバーがいる前で平気で怒鳴り散らす。しかも、そのあとすぐに「女はこういうとこでダメなんだ」「使えない」などの言葉を続ける。あまりに一方的で、意見を言おうものなら「言い訳すんな」と遮られるだけ。言葉の暴力が終わったころには、周りも気まずい空気に包まれ、誰も口を開かなくなるのが常だった。
最初のうちは「この人も、新しい部署で実績を出さなきゃならないから焦っているのかも」とか、「ちょっと厳しいタイプの上司なんだろう」と自分に言い聞かせて耐えていた。でも、その叱責は明らかに個人攻撃の域に達していた。周りの同僚たちも、その上司に呼び出されては怒鳴られ、どこかで誰かが泣いている……なんて光景もあった。部署内の雰囲気は日に日に悪くなり、みんな上司の機嫌をうかがいながら働くようになっていった。
やがて、私への攻撃がさらに厳しくなったのは、備品管理システムの更新作業のときだった。小さな入力ミスをしてしまい、社内の在庫数に多少のずれが生じた程度で、実害はほぼなかった。それでも上司は「チェック体制が甘い」「仕事をなめるな」と息つく暇もないほど叱責を続け、最後には「こんなやつはいらない」とまで言い切った。周囲の人がとりなしてくれようとしても、「口を挟むな」と追い返される。あのときの恐怖と屈辱は今でも鮮明に覚えている。「自分が悪いのかもしれない」と思い込もうとしたが、それにしても言い方が尋常ではなかった。
当然、私だけでなく他の部署メンバーも疲弊しきっていた。ミスをしないよう神経をすり減らし、確認作業ばかりに時間を取られる結果、ますます残業も増えていく。そのうえ「報告が遅い」「段取りが悪い」と叱られるのだから、どうしようもなかった。とりわけ私は、直接の部下としてもっとも近い距離で仕事をすることが多く、ターゲットにされやすかったのかもしれない。
気がつけば、朝起きるだけで胸が苦しくなり、通勤電車に乗ると息がうまくできないような気分になることが増えた。夜も、次の日に怒鳴られるかもしれないという不安で眠れなくなり、不安感で涙が止まらなくなることもあった。週末にゆっくり休んだはずなのに、仕事が始まる日曜の夕方から頭痛と動悸がする。完全にストレスで心身のバランスを崩していた。
そんな状態で限界が来て、とうとう心療内科に通うことにした。はじめは会社の近くの病院に行く勇気がなく、少し離れた駅のクリニックを選んだ。そこで「鬱状態ですね。しばらく休養が必要です」と診断を受け、会社宛てに診断書を書いてもらったが、それを提出するのも怖かった。部内の同僚や先輩たちは「よく頑張ったね」「しっかり休んで」と言ってくれたけれど、問題の上司は「精神面が弱い」「仕事への意識が足りない」と言い放ち、机に診断書を投げるように置いた。その瞬間、「ああ、この人の下ではもうやっていけない」と確信した。
診断書を理由に休職を取ることが許可され、しばらく自宅で過ごしたが、その間も「戻ったらまたあの上司と顔を合わせなければいけない」という恐怖が頭から離れなかった。「辞めたい」という考えが何度も浮かぶのに、一方で「こんなことで逃げたら負けなのでは」と自分を責める気持ちもあった。会社に長く勤めることを前提に頑張ってきたし、同期や先輩ともこれまで築いてきた関係がある。それを手放すのは怖かったし、何より「上司に怒鳴らされて鬱になりました」と言って辞めるのは、なんだか自分が弱い人間だと認めるようで嫌だった。
でも、休職が終わるころ、夜になるとまた眠れない日々が戻り、朝になると動悸がして足がすくむようになった。食欲も落ちていき、やっとの思いで職場に行っても、上司を見ただけで胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。試しに少しだけ仕事を再開してみたものの、以前のように頭が回らないし、資料を読んでも内容が頭に入ってこない。周囲のフォローがあったとしても、上司は「いちいち言われないとわからないのか」「ブランクを言い訳にするな」ときつい言葉を浴びせてきた。結果、結局また体調が悪化していくばかりだった。
そんなとき、友人から「退職代行という方法があるよ」と教えられた。それは文字通り、本人の代わりに会社へ退職の連絡をしてくれるサービスのことらしい。正直、「そんなことまでして辞めるなんて、社会人としてどうなの?」という偏見が、私の中にはあった。でも、今の精神状態ではとてもじゃないが直接上司と話し合うことなんてできない。一度「辞めます」と切り出そうと試みたが、怒鳴られる光景が頭に浮かぶだけで呼吸が苦しくなり、体が固まってしまいそうになる。「もう、このまま心が壊れるくらいなら、世間体なんて気にしないほうがいいのではないか」――そう考え始めたら、気持ちがいくぶん楽になった。
インターネットで「退職代行」と検索してみると、思った以上に多くの会社や事務所が存在しているのに驚いた。料金やサポート内容を比べ、24時間対応してくれそうなところに連絡してみた。電話をかけるのも勇気がいったが、担当のスタッフは穏やかな口調で話を聞いてくれ、「大丈夫ですよ。お任せください」と言ってくれた。今までずっと、上司から怒鳴られる恐怖で身を縮めてきたから、誰かが味方になってくれるというだけで涙が出るほど安心した。
手続き自体は思っていたよりもシンプルだった。こちらの基本情報や状況を説明し、後日担当者が会社に連絡をして、私の退職の意志を伝えてくれる。「もう本人は出社せず、やり取りもこちらですべて代行します」という流れだと聞かされたとき、「こんなにスムーズに辞められるの?」と驚いたと同時に、ほっとした気持ちになった。もちろん、その後会社がどんな反応をするかは想像がつかなかったが、少なくとも私自身があの上司と直接対峙しなくて済むと思うと、体の力がスッと抜けていくのを感じた。
そして、退職代行会社から「正式に連絡しました。もう出社は必要ありません」と伝えられた日。ほっとしたような、罪悪感のような、言葉にしがたい感情が湧き上がった。実際に通用するのだろうか、後からまた連絡が来たりしないだろうかと不安になったが、その後しばらくして会社の総務担当から、残りの手続き(健康保険証や書類の返却など)について連絡があり、郵送でのやり取りができることになった。すべてが終わったとき、「本当にもう会社に行かなくていいんだ」という実感が湧いた。
退職代行を使ったと知ったら、上司は「逃げたな」と笑っているかもしれない。しかし、私はもうその笑い声を聞かなくていい。ミスを責められ、人格を否定される恐怖に晒されることは、少なくとも今の段階ではなくなった。会社を離れて数日経つと、今まで何があってもままならなかった睡眠が少しずつ落ち着き、朝起きたときの胸の重さも和らいできたのを感じる。こんなにも心が楽になるものなのか、と自分でも驚くほどだ。
もちろん「もっと別の方法がなかったのか」とか、「最後くらいきちんと上司に辞意を伝えるべきだったのでは」と考えることもある。でも、あの状況では冷静に話し合うなんて無理だったと思う。パワハラや言葉の暴力は、人の思考力や判断力を奪うほどに強い影響を与える。あのまま耐え続けていたら、きっともっと取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
会社を辞めた今、まずは心身を回復させることに専念しようと思っている。体力が戻ってきたら、また新しい仕事を探すなり、勉強を始めるなり、別の生き方を模索するつもりだ。昔からずっと会社に勤め続けるのが当たり前だと思っていたが、必ずしも一つの組織にしがみつく必要はないのだと痛感した。世の中にはいろいろな仕事や働き方があるし、自分が生きる場所はきっと他にもあるはずだ。
あの上司の下で続けるという選択肢が消えた今、逆に視野が広がったようにも思える。少なくとも、また毎朝動悸に悩まされながら通勤することはなくなった。体調に余裕が出てきたら、久々に本を読んだり、散歩をしたり、友人とゆっくりお茶をしたりして、少しずつ自分を取り戻していきたい。
もし同じように、パワハラに悩んで鬱状態になっている人がいたら、「退職代行」を使うことも一つの手段として考えてほしい。たとえ「逃げるように見える」としても、限界まで頑張って心や体を壊すよりはずっとマシだ。職を失うことはたしかに不安もあるけれど、無理をして最悪の結果を招くよりは遥かにいい。退職代行のようなサービスがあるのは、「会社を辞めたいけれど上司に言えない」「顔を合わせるのが怖い」という人がたくさんいる証拠なのだと思う。
自分の気力や体力が限界を超えると、人は思考がままならなくなる。そんな状態で「社会人としての責任」だの「根性が足りない」だのと言われても、その言葉が追い打ちとなって心を壊してしまうことだってある。どんな人も、自分が危険だと感じる環境からは逃げる権利がある。ましてや命を削ってまで働く必要はないのだと、今回の経験を通じて実感した。
退職代行という選択は、まだ世間的には議論の余地があるのかもしれない。でも、あのときの私には、それが唯一の「安全な出口」だった。その出口をくぐって初めて、これからの人生を見つめ直すことができるようになった気がする。あの上司には、もう二度と会いたくはないけれど、あの体験を通して「自分を守る決断の大切さ」を学んだと考えれば、無駄な時間ではなかったとも言えるかもしれない。
いま、退職してから少しずつ日常を取り戻しつつある。朝日を見て「今日も一日頑張ろう」という前向きな気持ちになれる日はまだ多くはないが、以前のように「また怒鳴られるかもしれない」「どうせ自分なんかダメだ」と怯える時間は確実に減っている。これだけでも大きな進歩だ。今後どうするかはゆっくり考えればいい。焦らず、無理せず、自分らしく生きる道を見つけたい。
最後に、もし同じような境遇で苦しんでいる人がいれば、「辞めるのは負けじゃない」と伝えたい。パワハラ上司に立ち向かう以外にも、逃げるという選択肢がある。何を言われても構わない、自分の命と心を守ることが最優先だ。退職代行の利用を迷っているのなら、一度情報を調べてみるだけでもいい。「こんな方法があるんだ」と思うだけで、少しは気が楽になるかもしれない。そして、ほんの少しでも希望を見いだせたなら、自分の一歩を踏み出してほしい。会社はほかにもある。働き方もいろいろある。自分の人生は自分のもの。だからこそ、どんな形であれ、生き延びてほしい。その先でまた、新しい道が必ず見えてくるのだから。
またXで変な燃え方してるけど、年収1200万円で子供三人育てるのは現実的じゃないよ。
これね、年収600万円で子供三人育てる方が現実的なの。意味わかんないと思うでしょ、でも実際そうなの。
まずね、ざっくり計算したらすぐわかるんだけど、年収600万円って手取りは400万円くらい。可処分所得とか言われるけど、要は自由に使えるお金ね。
これが、年収1200万円の手取りって700万円ぐらいでしょ。年収が倍でも手取りは倍にならないし、割合が問題になるときは絶対額を見ようぜ。
その差額、たった300万円よ?
400万円を12ヶ月で割ったら、月33万円とかじゃん。どう逆立ちしたってタワマンで優雅に暮らせないじゃん。家賃で全部吹っ飛ぶでしょ。
てことはだよ、当然ながら購入も夢のまた夢って感じで、まあ首都圏近郊に小ぶりなマンションなり、ちょっと通勤時間伸ばして戸建てとかでしょ。
そうするとだと、子供のお稽古事とか、塾とか、進学先とか、普通に土地に縛られてその辺の中から選択するしかないわけよ。
ベースラインが住居費で決まるの。あとはそっから芋蔓式に全部費用が決まってくの。
三人とも私立大学でとか一人暮らしでとか言われたら、そりゃ奨学金頼りになっちゃうだろうけど、まあまあ無理すればなんとかなる範囲な訳よ。
これがね、700万円を12ヶ月で割ってみなさいな、月58万円で、まあまあ家賃20万円くらいなら射程圏内なわけよ。
そんで、日本の銀行の与信調査はどうかしているので、年収1000万円超えててタワマン買うためのローンが降りないことはまずない。
年収1000万越えって、どう割り引いて考えても、まあエリートよ。夢見て欲しいし、夢見るじゃない。
8000万円程度のタワマンだったら、ローン組んじゃうわけよ。
あとはさっきと同じよね、住居費のベースラインが決まって、そこから通える塾のお値段が上がり、自分の再生産バージョンに対する投資を考えて、
とやっていくと、まあまあ三人は現実的じゃないわけよ。
ちょっと目を離した隙に未成年はすぐ大怪我するし帰ってこなくなるので、まあまあ事故ったら大ごとになってたわけよ。
昭和のおおらかな時代なら、ため池に落ちて助からなかったのは運が悪かったね、学校の朝礼で近づかないように!と挨拶されて終わり。
もうそういう時代じゃないでしょ。それで、プールで泳ぎたいって言われた時に、子供の水泳教室代が払えないってなるのは、結構屈辱的よ?
というわけで、子供に当たり前の体験だの教育だのを与えたいと思った時の絶対的な金額は、過去類をみないほど高いです。
そして、地価の高い場所は当然お家賃も高いので、その手のお稽古事を運営している方のお家賃も高く、それが授業料に反映されます。
オカンがつきっきりで勉強見たら良い?それ、親父がエリートサラリーマンで家に帰ってこない三人の子育て中のお袋に言うてみ。引っ叩かれるで。
ここが最も誤解されていると思うんだけど、俺ら管理社会で「1025番は子供を三人育てる義務がある!」とか言われてないのよ。
自分たちが快適に過ごし(場合によっては仕事上必須の場所に住み)、その上で子供にも良い人生を与えてあげたいなという親心を無視して、三人目も産めよとか誰目線なのか。神か。
必然、一人目の生活や教育費、今後のことを考えると、うーん、一人にしておこうか、とか、二人が限界かな、とか、そういうことになるの。
節約したら三人くらい余裕で育てられる!節約が足りない!とか吹き上がるのはいいんだけど、なんで節約するの前提になっているのか。もっと蕩尽しろよ。
年収1200万円はエリートだねって話したね。でも年収600万円に比べて可処分所得はだいたい300万円増えるだけだねって話もしたね。
300万円を12ヶ月で割ると、25万円だ。さてあなたの生活に月25万円プラスされたとして、劇的にお金持ちな生活ができますか?
旦那の仕事中に優雅にママ友とランチに行って〜、ジムでピラティスして〜、夕方にはお手伝いさんに家事の出来を指示して〜、とか現実味ないでしょ?
そういうのは、マジの役員クラスで手取りで数千万ないと無理よ。(もしくは擬似的に可処分所得が増える自営業とか)
今年は確定申告しなきゃいけないかな、でもそんなバリュー出せなかったし今年は微妙かなーみたいな人らは、世の中のお金持ち像には全然達していないです。
そりゃ年収600万円台で子供3人育ててる人の生活水準に合わせて生活したら、年収1200万円台の人らが子供三人育てるのとか余裕よ。
絶対額で300万円も余裕があるわけだし。でもね、それ、なんで合わせて生活しなきゃいけないわけ?だから無理なのよ。
ネタにされがちなSAPIXだの緑鉄会だのだって、三人なら諦めるしかないけど一人なら行ける、なら、そりゃ一人になるんじゃないの?
その生活環境は贅沢だ、身の丈にあってないっていう批判は的外れなのよ。だって、子供を持たないとか一人っ子でいいなら身の丈にあってるんだもの。
子供を三人育てる年収1200万円を増やしたいなら、やっぱちょっと税金取りすぎじゃないの?という気はする。
ただ、そういう政策は階層の固定化に繋がるし、高等教育の機会を均等にしとかないと国力下がるよねってのはわからなくもないので、どうしようもないんじゃないの。
子供の数に着目しても無理なんじゃないかなー、年収300万円台の子沢山が増えるだけじゃない?そして実はそっちの方が国としては良かったりするし。
その行き着く先として、留学が最低レベルになる年収1200万円の子育てとかってのがまあまあ見えてきていて、どんどん無理になっていく未来しか想像できない。