はてなキーワード: 国語とは
小学校教員増田だが、ここ10年くらい、あらゆる教科で「調べ学習」の比重が急激に上がり続けている
総合はもちろん、理科でも社会でも国語でも、とにかく「各自で課題を見つけて」、「ネットで調べて答えを探す」を繰り返している
ただ、1クラス30~40人でそれぞれがバラバラの課題をググってる状態なので教員によるファクトチェックが全く追い付いていない
クラスの1割は発達障害で、他の子も昔と比べると生活能力が低く、家庭のしつけも期待できない現代
デジタルネイティブの世代が闇バイトとかSNSに扇動されるのは小学校教員から見ると当然だと思う
tnishimu 算数であれば数の数え方から図形問題などの応用に順序立て体系的に進んでいく、国語でいきなり難しい漢字を書けとか英語で文章を訳せとは言われない。 しかし体育ではそれをやる、教育じゃないんだよね。
国語の文章音読でつっかえつっかえになって恥ずかしい思いをしてる子とか
小テストが全然できずに隣の子と交換で採点するときに恥かく子とか目に入ってないだけなんだよね
俺は音楽の授業で晒し者にされた記憶がある。で、大人になってYouTubeとかネットの記事見てそれなりに楽しさが分かったので、いきなり実践させて教えてくれないというのは体育に限らないと思う。
俺の言いたいこととして、公教育でできない子供までフォローするのは不可能なのではないか?
今にして思い起こすと、できない子供のフォローが出来ず、結果として晒し者になるのは体育に限らず、音楽、国語、算数でもよく起こってる。
ネットでこの手の話題で体育ばかり取り上げられるのは書き手のバイアスがかかっていて、国語で晒し者にされるような人は、大人になってもそういう経験を文章にして発表しないのではないか。
定期的に蒸し返される狐の死亡問題。
多くは国語的、情緒的アプローチと理数的論証との対立といえる。
どちらもアホ、バカ
文学作品の解釈なんだから作家性や歴史からアプローチするのが正しい。
音楽にはアナリーゼという分野がある、文学にも歴史分析の専門がある。
古典文学、例えば源氏物語を読むときに文字面の論理的解釈では足らないのであり、歴史的背景、作者の心情の推察、身分、出自、生育。
外国の文学を読むときはその国の文化的背景もイメージしながら読むだろう、当たり前だ。
なぜ同じことをごんぎつねでやらない?
昭和初期、愛知県半田市出身で不遇の幼少期、北原白秋を師と仰ぐ19歳が書いた童話
どう考えても狐は死んでる、普通に殺すわ。
さらには誰に向けて、なにを意図して書いたものか。なにを啓蒙しようとしたか、諭したいのか。どういう時代だったか。
勧善懲悪物語以外にはありえない、死で償う以外のストーリーはありえない。
ちょっとは頭使って考えろよ
会話になってねー
A
「無産おばさんは生物的に弱いから早死にする、したがってさしたる問題にならない」
B
わかる?
俺は別にAが正しいことを言ってるかはしらん(てか正しくなさそーな気はする)
けどBは「いや、」と反論しながら全く噛み合わないこと言ってるわけ
「いや、」で始めるなら「あなたの意見のここが当たらぬ」っていう噛み合う反論をぶつけないとだめだろ
A「無産おばさんは早く死ぬ、したがって無産おばさんは年金問題を起こさない」
B「いや無産おばさんは稼ぎが低い、したがって年金問題になる」
Bの主張を是としてもAの主張は揺らがないだろ
年金受給額がどんだけ少なかろうとすぐ死んじゃうなら年金問題は起きないんだから
Bが「いや、」っていうならAの「無産おばさんはすぐ死ぬ」って部分に反論しなきゃいけないわけ
極論無産おばさんが受給年齢前に死ぬ限りは年金問題起きないんだからさ
国語力低い奴のために念押しすると
俺はAの主張自体が正しいといいたいんじゃないし別に賛成もしてない
けどAの主張の確からしさがどの程度であれBは話がかみ合ってないので0点
て話な
人にトラバとかリプをつけるなら最低限話をかみ合わせようぜ