はてなキーワード: 享受とは
それ故にサヨクのいう「高市政権を支持したら戦争になるとか徴兵制が復活する」といった意見は陰謀論と変わらず噴飯物でしかない。
これはどのようにしてそうなるのか説明されていないから当然であるけども。(説明可能なら説明してみて欲しい)
一方で現在のアメリカの狂気を鑑みると日米同盟が唯一無二の素晴らしいやり方であると考えるのも、サヨクと変わらないくらいお花畑思考であると考えざるを得ない。
米国と同一視されることで、米国よりも格段に警戒が薄い本邦で9.11のようなテロを起こされるなどのような、同盟国を報復として狙うということもありうるのかもしれない。
今回の件でトランプの蛮行を明確に非難できないのは我々にとって米国との軍事同盟が未だに生命線であるからである。
憲法9条はとても尊いものだが9条が侵略されずに済む盾であるという思考は流石にお花畑である。
我々は米国という用心棒の上で平和を享受している。これに異論を挟む左派は流石に少数派であるとは思うが。
チャイナリスクは織り込んでいるのにアメリカリスクは軽視してきたのが今までの日本や西側諸国であり、これから考えないといけないことなのは間違いないだろう。
まずは防衛費を増強して日本単体での抑止力を確立し、米国を欧州各国と同程度の連帯国家と位置づけるのが理想ではないだろうか。これならかなり独自の方針を貫くことができるだろう。
今回のようにコメントを控えずにイスラエルや米国に対しても対等に自国の意見を述べやすくなる。(しかし怒って関税掛けるとか言い出すから、やはり刺激しないという結論もあり得るが)
独裁国家による市民虐殺は当然許されざる蛮行であるが、国際法上は他国がそれを武力で解消するべきではないのである。
よってイランの件は日本における一般的な人たちは「独裁国家による虐殺も許容できないが、さりとて国家が軍隊を利用して介入するのも誤りである」と考えているだろう。
これは単純な善悪では語れない。強いて言うならどちらも悪。そういう話であるからだ。
現時点では、残念ながら国境という境界線があり、生まれた場所で人生がある程度決まってしまうのだ。
ジョン・レノンがこの世を去って40年余り、いまだに世界は国境があり、その線の内外でいがみ合っている。平和な世を夢想はするが現実はかくも無慈悲である。
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一部誤読もありそうなので補足。
日米同盟は「唯一無二の素晴らしいやり方」ではないだろうが、以前の日本が取れる選択肢では最良だったろうし、今でも妥当な選択肢の一つではあろう。完全に否定したい訳ではない。盲信するなという話ね。
あと、日本単体でもある程度の抑止力になると言っても、結局は核兵器の有無は抑止力としての重要事項であるから、日米同盟は今後も必要である。
では何を言いたいのかというと、単に他の国とも同盟を強化してアメリカだけに頼らない(横並びにできると最良)という状況にしておき、アメリカとの同盟を失ったら即侵略されるというような事態を避けるのが良いと考えているだけである。
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アジア版NATO構想への言及があったので、これも指摘しておきたいが俺としてはアメリカリスクを軽減する必要があるってことであるが、アジア版NATO構想は米軍の核兵器を融通して貰うという寧ろ多国間でアメリカ依存になる方式であり、筋としてはイマイチなのよね。
もし米英仏の三国を巻き込めたならリスクヘッジになるけれども、石破氏の案では米国のみだったのでそれでは意味がない。
寧ろ仮に攻めやすい小国を中国が狙った時に日本が集団自衛権を発動せねばならなくなり、米国がカバリングしてくれないとジリ貧になるから日米同盟よりも格段に筋が悪いのかなという認識。
しかし自分にはよくわからないけれども左派は石破氏が好きだよね。与党内野党とか言われても安全な位置から色々と物申すだけで、総理になっても実行力がなく国民から見放された政権なのに。
著者の性犯罪によって話題になった『堕天作戦』を、あえて今、全巻買い揃えて読んでみた。
普通なら、このタイミングで性犯罪者の作品に金を出すことはしない。だが、あえて読んだ。そして確信した。
なんていうリベラルぶった意見は、単なる読み込みの浅い寝言に過ぎない。
この作品には、暴力性に比例して高まるべき「罪の意識」が徹底して欠落している。
『呪術廻戦』や『チェンソーマン』、あるいは『進撃の巨人』。近年のヒット作が描く残虐描写の底には、常に「加害の重圧」という倫理的な錨があった。虎杖、デンジ、エレン。これらの作品では主人公が罪の意識に苦悩する姿が丹念に描かれている。だが、『堕天作戦』にはそれがない。凄惨な死はドライに処理されるか、ブラックジョークとして突き放される。
この「欠落」こそが、現実の事件を引き起こした著者の心理構造と、薄ら寒いほど正確に一致している。
本来、倫理を捨て去り抑制を解除して暴力的な欲望に走ることは、人間性の放棄であり、単なる動物化だ。しかし、本作はそれをメタ視点からのニヒルな描写によって、あたかも「凡庸さを超越した知性」であるかのように見せかける。
読者は、動物化する本能的な快感と、「この乾いた笑いを理解できる俺は選ばれた存在だ」という選民意識。その両方を同時に満たすことができるのだ。
事件後、多くのファンが「作品に罪はない。自分も著者に裏切られた被害者だ」と嘆いた。だが、その嘆きこそが最も筋違いな自己欺瞞だ。
著者の作風と、著者が犯した罪。それらを一本の線で繋いでいるのは、巷で言われるような「他者の尊厳への想像力の欠如」などではない。むしろその真逆だ。他者の尊厳や痛みがどのようなものであるかを精緻に描き出せる豊かな想像力がありながら、それをあえて蹂躙することに最高の愉悦を感じるという、極めて鋭利で歪んだ性癖。それこそが、作品を貫くあの冷徹な残酷さの正体ではないか。
あなたがこの作品の「倫理ブレーキを外した快楽」に酔いしれていたのなら、あなたは本来的に著者と同じ周波数を持っているのだ。他者の尊厳が踏みにじられる瞬間の、あのゾクゾクするような解放感を、「知的なセンス」という偽装でコーティングして享受していた共犯者が、今さら被害者面をするのは滑稽でしかない。
そして、もしあなたがこの文章を読んで「自分は違う」「これは極論だ」と切り捨てようとしているなら、その姿こそが著者の鏡写しであることに気づくべきだ。
裁判の場で自らの加害性を直視せず、反省の色も見せなかったという著者の態度。それと、今この瞬間、作品から得た快楽の責任を認めず、自分を安全圏に置こうとするあなたの自己正当化。その二つに、一体どれほどの差があるというのか。
この「蹂躙の快楽」を分かち合ってきた以上、読者だけが潔白でいられる道理などどこにもないのだ。
私は、この作品を「名作」だと思っている。
性犯罪者の書いた物語であることを加味した上での、名作だ。読み終えて、不快感など微塵もなかった。だからこそ危険なのである。
第6巻に「戴天党を喰らうなら、糞も一緒に呑み込んでゆけ」というセリフがある。
その通りである。
これこそが、「作品と作者は別」という欺瞞に対する、最も誠実なアンチテーゼではないか。
私は、著者という「糞」も含めて、この作品を味わった。
イランで戦争が起きて在イラン邦人200人の保護と、イランによるミサイル攻撃を受けたUAEやサウジその他に滞在している邦人7700人の保護に日本政府が動いており、邦人以外の保護については動かないというのは日本人ファースト以外の何物でもない。
先進国に国籍を持つ人間はすぐこうして保護に動いてもらえるし、国籍が弱かったら保護してもらえない。その身分を当たり前に享受していながら日本人ファーストを批判したのはなんだったんだろう。
そもそも、日本人が海外に移住してもそこで生活保護はもらえない。日本における国籍差別をやめろという運動はなんだったんだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/pure_hosta3866/n/n5bddef8b649f
chobihige0725 当たり前の顔で親や祖父母世代のデモによる労働・福祉の獲得権利を享受しておいて、声を上げることをダサい、みっともない、果ては信仰などと言ってしまう浅はかな人達の見本市がこちらです
そんなこと言ってるやついんのかと思って検索したが、「ダサい」「みっともない」と言ってる人は一人もおらず、「信仰」だけは二人(うち一人はちょっと意味合いが違う)はいた。
☆は両方7個。
これを「見本市」と言うのはどうなの?ブコメを一切読まずに決めつけで他人を悪魔化してバカにする人の見本市ならそうかもね(このブコメは☆117個)。
SNSで「ファミレスを享受せよ」フォロワーっぽいゲームを見つけて、「フォロワーが生まれるくらい出てから日が経ったのか~」としみじみしていたのだが、そもそも「ファミレスを享受せよ」自体も何らかの影響を受けているはずである。
そこで疑問なのだが、ああいう色の数を絞ったアートってどこが発端なのかねえ。
犯罪者が描いた漫画を、何も知らずに享受して、盛り上がっていた俺たち読者。その裏で作者は何も知らない未成年に作品をチラつかせて近寄って、口にするのも悍ましい行為を行なっていた。
昔、アクタージュという漫画があった。とても面白い作品だった。当時ジャンプの中で唯一単行本を買っていた漫画だった。
しかしアクタージュは終わってしまった。原作者の性加害によって。
今回のケースはさらに悪質で、アクタージュは連載中の事件だったが、今回マンガワン編集部は性加害で逮捕された犯罪者をそうと知りながら原作者として起用し、何も知らない作画担当をあてがっている。
今回の行為で一番許せないところは、もちろん被害者がいることだけれど、その次に犯罪のための撒き餌に堕天作戦という自らの作品の力を使ったところ。
堕天作戦という漫画はとても、とても面白かった。確かに絵は癖があって、少し古くさくてシニカルな乾いた作風で、人を選ぶものだった。エログロもあったし。
だけど俺は、その唯一無二と言っていい読み味に、立ちどころに魅了された。
タイトル回収したときはとても盛り上がったし、星になにがあるのか、ワクワクしながら続きを待っていた。コサイタスのラストは感極まって泣いた。
途中で電子のみになったときは「こんな面白い作品が売れないなんて……」と絶望したし、それがWEB漫画総選挙で3位になって紙で増刷+続刊が決まったとき、飛び上がるほど歓喜した。ああ、やっぱり面白い作品はきちんと報われるんだなと。
おすすめのWEB漫画の話題になったときはいつも真っ先に堕天作戦と答えていた。大好きだった。
停止発表から作者がTwitterで個人出版にて続けることを明言するまでの間は、もう二度とこんなに面白い作品が読めなくなってしまうのかと、気が気でなかった。
作者の「個人的トラブル」という説明は、体調不良での長期休載もあったことや、北海道住みの作者は当時あった北海道地震の余波で本業が忙しくなってしまったのだろうと判断した。
手慣れた手口や、報道されている複数の被害者がいるという事実から、連載が始まったときには既に性犯罪を犯していたのだろう。そして連載が始まれば、それを餌にし新たな獲物(とあえて表現する)をみつけ、性奴隷にする。俺たちが愛した漫画は、中年男の歪みきった性欲の捌け口を見つけるために作られたものでしかなかった。少なくとも俺にはそうとしか思えなくなってしまった。
裁判中の態度や自分が行った犯罪を「トラブル」といかにも降って湧いた災難のような言い方をしている点からして、本人はまったく悪いことをしている自覚がないことがわかる。
結局のところ、奴にとって異常性欲を満たすことは日常の一部でしかなかったのだろう。
和解交渉の仲介に入り、山本章一がしでかしたことを知りながら堕天作戦が終わったことを「悔しい」と公言した成田。打ち切った時点で事件を知っていたはずなのに原作担当で新連載を始めさせる判断をした(そして作画には何一つ詳細を伝えなかった)マンガワン編集部。
こいつらも大馬鹿ものではあるが、俺の怒りと悲しみの9割は山本章一本人に向いている。
全てデマであってほしかった。アクタージュのときもそう思った。そんなわけがないのに。ずっと否定の言葉を待ち続けていた。
イラン最高指導者アリ・ハメネイの死は、単なる一人の独裁者の終わりではなく、長年抑圧されてきたイラン国民にとって「天罰」のような象徴的事件となった。
2026年2月28日、米国とイスラエルの共同軍事作戦により、ハメネイはテヘランの自邸・執務室を標的とした空爆で死亡。国営メディアが確認した通り、彼の娘、義理の息子、孫、さらには義理の娘までもが同時に命を落としたという。親族ごと抹消されたこの惨状は、イスラム共和国体制の腐敗と残虐性を如実に表している。ハメネイは1989年以来、37年にわたり最高指導者として君臨し、反米・反イスラエルを国是とし、核開発と地域代理戦争を推し進めてきた男だ。
国内では女性の権利を踏みにじり、反体制デモを血で鎮圧し、経済を破綻寸前に追い込んだ。こうした「独裁の象徴」が、家族もろとも天から下された鉄槌で消滅した今、イラン国内および国外のイラン人コミュニティでは、抑えきれない興奮と希望が広がっている。特に目立つのは、王政復古を求める声の高まりだ。パフラヴィー朝最後の皇太子であるレザ・パフラヴィーは、亡命先から即座に声明を発表。「イスラム共和国は事実上終わりを迎えた」「イラン国民よ、今こそ立ち上がれ」と呼びかけ、軍・警察・治安部隊に対して「人民を守る誓いを果たせ」と促した。ロサンゼルスなど海外のイラン人コミュニティでは、ハメネイ死去のニュースに歓喜の声が上がり、パフラヴィー家の旗や肖像が掲げられる場面が相次いでいる。なぜ今、王政復古の機運がこれほどまでに高まっているのか。その核心は、1979年のイスラム革命以前にあった「白色革命(White Revolution)」時代の黄金期への回帰願望にある。モハンマド・レザ・シャー(パフラヴィー2世)が1960年代から70年代にかけて推進した白色革命は、土地改革、女性参政権の拡大、工業化、教育の普及、近代インフラの整備を一気に進めた。イランは中東で最も急速に近代化した国の一つとなり、経済成長率は年平均10%を超え、テヘランは国際都市として繁栄した。女性はミニスカートを履き、大学に進学し、欧米並みの生活を享受していた時代だ。対照的に、イスラム共和国体制下の45年間は、強制ヒジャブ、言論統制、経済制裁による貧困、若者の絶望が続いた。多くのイラン人は「あの時代に戻りたい」と公然と語るようになり、ハメネイの死はまさにその「呪縛からの解放」の契機となったのだ。
さらに注目すべきは、米国の役割だ。ドナルド・トランプ大統領は攻撃直後、Truth Socialで「ハメネイは歴史上最も邪悪な人物の一人だった。彼の死はイラン国民が国を取り戻す最大のチャンスだ」と宣言。作戦を「人道的介入(humanitarian intervention)」と位置づけ、体制転換を公然と促した。パフラヴィー皇太子もこれを歓迎し、トランプ政権を「イラン人民の味方」と称賛している。ここで特に強調したいのは、平和を愛するドナルド・トランプ大統領の今回の行動が、真の平和への貢献として歴史に刻まれる点である。トランプは「平和を通じて力(peace through strength)」を掲げ、過去にもアブラハム合意を主導し、中東の敵対国同士の正常化を次々と実現させてきた。今回のイランに対する決定的な一撃は、長期にわたり地域を脅かしてきたテロ支援国家の頭目を排除し、核の脅威を根絶する方向へ導いた。まさに、戦争を避けるための強硬な平和外交の極みであり、トランプの「アメリカ・ファースト」がもたらした中東の安定への最大の寄与と言えよう。米国にとってイランは長年の「悪の枢軸」であり、かつてのシャー政権は信頼できる同盟国だった。パフラヴィー朝は親米・親欧路線を貫き、石油利権を安定供給し、中東のバランス役を果たした。現在の体制が崩壊すれば、米国は再び「良き傀儡」として機能する親米政権の樹立を望んでいる。レザ・パフラヴィーはその最適な候補だ。彼は繰り返し「私は王位を求めるのではなく、民主的移行を主導する暫定指導者になりたい」と強調し、国民投票による将来像の決定を約束している。この「良き傀儡」としてのイランは、かつての満洲国が極東において果たした役割に似ている。満洲国は日本主導の下で成立し、ソ連の脅威に対する防波堤となり、経済開発を通じて東アジアの安定に寄与したと再評価される動きが一部で進んでいる。満洲国は、共産主義の拡大を防ぎ、地域の平和の礎として機能したという歴史的視点が、今日改めて注目されているのだ。同様に、新たなイラン政権がアメリカの同盟国として機能すれば、イランは中東平和の安定装置となり、テロ支援の終焉、核拡散の阻止、石油ルートの安全確保を通じて、地域全体の平和に大きく貢献するだろう。もちろん、課題は山積みだ。革命防衛隊(IRGC)はなお強硬に抵抗を続け、後継者選定を急いでいる。報復攻撃の応酬で中東は戦火に包まれつつある。しかし、ハメネイの「親族ごと」の死は、単なる軍事的事件を超え、象徴的な「神罰」としてイラン人の心に刻まれた。王政復古の機運は、もはや抑えきれない潮流となりつつある。イランは再び、白色革命の輝きを取り戻せるのか。それとも新たな混沌に飲み込まれるのか。歴史の岐路に立っているのは間違いない。トランプの平和への貢献が、この転換点を中東の永続的な安定へと導くことを強く期待したい。
残念ながらそれは違うぞ。宿舎運営で生じる赤字は宿舎で補填されるべきだ。大学とは元来研究機関であり、お前さんを養うための施設じゃない。ましてや筑波のアパートの家賃などたかが知れており、奨学金や健全な範囲内のアルバイトで十分賄える。コンスタントに週3から4回バイトに入れさえすれば10万円程度になり、そこから家賃、食費も十分賄えるはずだ。それ以上のものを求めるのは君の論旨から外れるから話題にしない。原理的に考えればどこの国立大学にも同程度に困窮した学生が同程度在籍している。一方で地域ごとに物価や家賃が異なることを踏まえれば、限りある国税を筑波大学宿舎のために用いるよりも、首都圏の国立大学の学生の家賃補助や宿舎運営にさらに割り当てられた方が平等と言えよう。しかしながらその平等云々はさておいて、山口大学の学費値上げ反対にも通じたことが言えるが、この先納税者が少なくなる時代に、物価が少しずつ上がっていく時代に、学費や家賃が据え置かれるということは、全て君たちが享受する学やサービスの質の低下を意味する。教授は低収入になるので人材が残らず、学校の設備や器具は更新されずに放置され、エアコンの稼働も制限され、研究費用も自由には使えなくなる。ただ今でさえ国立大学はボロくてケチという状態が蔓延しているのにも関わらず、自分たちのエゴで日本国の研究機関を潰そうとしていることは如何とも耐え難い青臭さだ。真に未来の学生の負担を減らすには、今、質の高い研究を実現するための投資を行い、数少なくも人々が豊かになることで、国税を潤し、そして大学の研究、ひいては宿舎などの環境にまでお金を使えるというサイクルを起こす以外に、持続可能な方策はないのである。
現在の大学教育および奨学金制度は、進学率の階層差を背景に、非進学者(主に低所得層)の税負担が進学者(主に高所得層)を支える「逆進性」を内包している。本稿では、教育の「知識習得」と「研究・実践」を分離し、前者をオンラインで無償化することで、奨学金に伴う負債問題と社会的不公平を根本から解消し、実力主義に基づいた新たな雇用・評価モデルへの移行を提唱する。
現行の日本の高等教育モデルは、統計的に高所得世帯の子どもの進学率が高く、国立大学等への公金投入や奨学金返済の所得控除といった政策が、結果的に「持てる者への再分配」として機能している。特に貸与型奨学金は、低所得層出身者にのみ「将来の増税」に等しい返済負担を強いており、スタートラインにおける格差を固定化させている。
現代のデジタル技術を前提とすれば、大学が独占してきた「知識の伝達」という機能は、インターネットを通じて極めて低コストで全国民に開放可能である。
講義をオンラインで無償提供することにより、地理的・経済的制約を排除する。これにより、学位を得るための高額な授業料という参入障壁を解体する。
高度な実験・実習を要する領域に限定して物理的な施設を維持し、真に研究を志す者にリソースを集中させる。
「大卒資格」という不透明な指標を廃止し、客観的な評価体系を導入することで、雇用の流動性と公平性を確保する。
TOEIC等の既存モデルに準じ、基礎学力を可視化する共通試験を導入する。これにより、18歳時点の受験結果が一生を左右する「学歴フィルター」を無効化する。
各企業が独自の入社試験で実務能力や適性を直接評価する。これにより、ペーパーテストが不得手な層も含め、多種多様な才能が正当に評価される市場を構築する。
大学が提供してきた「社会性の獲得」や「モラトリアム(執行猶予期間)」という機能は、進学者のみが享受する特権的な公共財であってはならない。
大学へ行かない層も職場や地域で社会性を獲得しており、大学特有のコミュニティ維持を公金で補助する正当性は希薄である。
オンライン学習の無償化により、若者は借金を背負うことなく、働きながら、あるいは学びながら「自らの適性」を模索する低リスクな期間を確保できる。
奨学金問題の本質は、不必要なまでに高コスト化した大学教育システムを維持しようとする点にある。教育を「利権」から「インフラ」へと転換し、年齢や家計に依存しない実力主義の評価体系を確立することで、非進学者への不当な負担(増税)を解消し、真に公平な社会構造を実現すべきである。
日ごろ感じている気持ちを今回したためようと思う。
とにかくカルチャー系の店が嫌いだ。
最近都内はもちろん地方でもぽつぽつを出没しているカルチャー系の店。
全部とは言わないが、そういう系の店のほとんどが嫌いだ。
独立型書店、スペシャリティーコーヒーのカフェ、クラフト系の食べ物、ナチュールワイン、お洒落な宿屋、文化複合施設、自然や食べ物の体験系とかだ。
主にインスタで情報発信をして、投稿にはオーガニックで美しい食材や美しい地元の風景、控えめに、でも妥協なくモノづくりをしている様子をアップしている。
最高峰の店たちはBRUTUSやPOPEYEに店やオーナーが紹介される。
愛知の森道市場に出店したり、店同士でイベントを企画してマルシェ的なものを開いたりする。
違うと言いたい。お洒落なもの、みんなが集まっているものを馬鹿にしたいわけではない。
みんなが豊かな感性で美しいものに触れているのであれば、それは祝福したい。
しかも事もあろうに増田は嫌いと自覚しているにも関わらず、気になってインスタで情報収集したり更には立ち寄ってしまったりする。
立ち寄ってそれなりに楽しみさえする。
そしてまた憎しみながらカルチャー系の店のインスタをチェックすることになるのだ。
なんでこういう感情になっているのは自分でも整理できていなかった。
だから今回、この感情を紐解いてみたいと思う。増田だってできればそういったものについて心穏やかに眺めていたいのだ。
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嫌いな理由①:クオリティに対して提供する意義のバランスが悪いから
こういうお店は異常に質にこだわっている。例えば食材や作り方、サービス、内装など。
そうなんだけど、それに見合う金を払って...払って...我々は何を得るんだろう?
上質な体験?心地よい時間?自分の美の基準を上げてくれるってこと?
なんか考えれば考えるほど、かなり貴族のたしなみというか。本当に余裕のある人たちの楽しみ方な気がする。
最近だと「食べ合わせ=ペアリング」という価値観が開発されて(元々あっただろうがパッケージ化されて)、高価格でサービスは提供されているように、
言ってしまえば良い雰囲気で目くらまししている新しいマーケティング戦略のように感じる。
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"上質で、心地よく、自分の美の基準を上げてくれる体験"を提供する側。
すみません、高い金取るだけの修行とかしてきたんですか?誰かを師事してきたんですか?独学的ですか?
いや、独学でもいいんですけど、それにしてはずいぶんカリスマって感じで発信していますね。西荻でこじんまり営業とかしてるならいいのにさ。
SNSなど対外的にマーケティングやブランディングも必要だからなんだろうけど、魅せ方がちゃんとしているな、と感じる。
客のほうも客のほうで、"上質で、心地よく、自分の美の基準を上げてくれる体験"を高い金払って享受するだけの、貴族みたいな金銭的余裕ってあるもんなんですか?
いや、これもたまの贅沢ならいいよ?でもこういう奴らって毎週のようにカルチャー系の店いくじゃん。
ただ高いものを買ってるってだけじゃなくてさ、貧乏なのに高い財布持つ、みたいなバランスの悪さを感じるんだよな。
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サブカルチャーという言葉を聞かなくなって久しいが、15年前くらはメインストリームのアンチテーゼ的立ち位置で音楽や映画、漫画、アニメなどが最盛期を迎えていた。
今出てきているカルチャー系の店は大資本、大量生産大量消費へのアンチテーゼという意味で近しいものを感じる。
なんだったら、15年前はインディーズバンドが担っていたメッセージングみたいなものを、カルチャー系の店が今の時代の文脈で発信しているようにも感じる。
増田がロキノン系をこよなく愛し、そのブームが下火になり、次第に増田自身がロキノン系を愛せなくなったトラウマが疼いているのかもしれない。
「ここで本気で好きになったら、後で自分自身に後悔することになる」と。
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「……これが、釜玉うどんを一つ頼めば、もう一つ釜玉うどんが無料でもらえるという店か」
ラインハルト・フォン・ローエングラム皇帝は、店先にまで伸びた行列を眺め上げた。
ガラス越しに見える湯気と、卵と醤油の香りが、皇帝の黄金色の髪をわずかに揺らす。
「期間は三日間、対象の釜玉うどん、または明太釜玉、牛すき釜玉を一杯購入すると、並サイズの釜玉うどんが一杯無料だそうです」
「一杯買えば一杯タダか……実質、兵力二倍というわけだな」
「宇宙を統一した後に待っていたのが、うどん屋の前での行列とは、近来の名喜劇だ」
「陛下、喜劇かどうかの判断は、冷めきったうどんを召し上がってからでも遅くはありません」
「行列の長さから推測するに、麺のコンディションが最適な状態で維持されているかどうか、疑問が残ります」
ラインハルトは振り向きもせず言った。
「卿の能弁は認める。しかし、ここで撤退するわけにはいかぬ。吾々がこの列の後方に位置するのは、すでに不利な態勢にあるからだ。今さら退くのは、敗北を認めるに等しい」
ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフが、半ば呆れ、半ば微笑を隠しながらつぶやく。
ラインハルトは肩をすくめた。
「ただ、弱さに甘んじる者をおれは軽蔑するだけだ。空腹に負けて諦める者も、例外ではない」
キルヒアイスは、まるで艦隊配置図でも広げるような声音で応じた。
「まず、陛下が『焼きたて牛すき釜玉うどん』大を一杯ご注文になり、それに付随する形で『釜玉うどん 並』一杯を無料で獲得します」
「私が『明太釜玉うどん』並を注文し、同様に『釜玉うどん 並』を一杯。合計四杯となります」
「……四杯、か」
ラインハルトは軽く考え込むふりをした。
「卿と二人で分ければ、一人二杯。宇宙統一を成し遂げた男が、うどん二杯程度で満足して良いものか?」
ラインハルトはわざとらしく言って、キルヒアイスを横目で見る。
「どうせ宇宙をこの手につかむなら、手袋ごしにではなく、素手によってでありたい。うどんの熱さも、直接味わってこそだ」
「……それは、ただ猫舌ではないと主張したいだけではありませんか、陛下」
キルヒアイスは苦笑しつつも、どこか楽しげだった。
「全員が最大サイズを頼んだのち、無料分を含めて定量的にシェアするのが最も効率的です。味の好みは二の次で構いません」
ラインハルトは振り向き、やや意地悪く笑った。
「他人に何がわかる……」
ラインハルトは小さくもらした。
「この湯気の立ちのぼり方、麺の表面にまとわりつく卵の照り、それを見て心が動かぬ者に、宇宙の覇者たる資格があるとは思えぬ」
「……陛下」
キルヒアイスは、その言い方にどこか懐かしいものを感じていた。
幼年学校の食堂で、安いうどんを前に、同じような熱のこもったことを口にした少年を思い出しながら。
列がじわりと進み、店員が行列の人数を数えながら声を張り上げる。
「本日、釜玉うどん一杯購入で、釜玉うどん並が一杯無料でーす! お一人様につき、無料分は一杯まででーす!」
「お一人様一杯、か」
ラインハルトは眉をひそめた。
キルヒアイスは真面目に相づちを打つ。
「無制限に適用すれば無秩序な乱用を招きます。制限を設けることで、店側は損害を抑えつつ“太っ腹”であるという印象を与えられる」
ラインハルトは愉快そうに笑う。
「奴ら――この店の経営陣にとって重要なのは、客に得をしていると信じこませることだ。実際にどちらが得をしているかは別問題として、な」
「値上げが続く中で、“実質半額”という印象を与えれば、顧客の好感度を高めることができます」
「……ヒルダ」
ラインハルトは、少しだけ真顔になる。
「卿は、このうどん屋の経営も引き受けられそうだな。いずれ帝国経済の舵取りを任せる時が来たら、丸亀製麺の一店ぐらい、付録として与えてやろう」
その前で、番号札を配っていた店員が、ラインハルトたちに不思議そうな視線を向けた。
制服も髪型も、銀河帝国基準ではむしろ質素な方だが、この一団から発せられる「場違いなオーラ」を、庶民の感覚は逃さない。
「お客様、何名様ですか?」
「宇宙……いや、四名だ」
ラインハルトは咳払いして言い換えた。
「では、こちらの番号札をお持ちくださーい。釜玉の無料分は、お会計の際にお付けしますので」
「……会計の時点で付ける、か」
「先に無料分を渡さないことで、途中離脱を防ぎ、かつ客単価を維持する。なかなかしたたかな設計です」
「オーベルシュタイン、卿がこの店のコンサルを買って出たら、客は皆逃げ出すだろう」
ラインハルトは笑った。
「“無料キャンペーンは、効率よく古道具――いや、古顧客を処理する仕組みです”などと言い放つのが目に見える」
ようやくカウンターが近づき、大鍋の湯気が顔に当たる距離になった。
湯から上がったばかりの麺が、ざざっと丼に落とされる音がする。
「陛下」
「本当に、大盛りになさいますか?」
「当然だ、キルヒアイス」
ラインハルトは迷いのない声で答える。
「宇宙の覇者が、並で妥協してどうする。おれは常に最大を選ぶ」
「吾に余剰胃袋なし。そこで完食せよ」
ラインハルトは、かつて戦場で言い放った言葉を、悪びれもせずに改変した。
「言いたいことがあれば、いずれヴァルハラ――いや、医務局で聞く」
「誰かが冷静なサイズを頼まなければ、無料分の配分が破綻しますから」
オーベルシュタインは、ほとんど無表情のまま、釜玉の「並」を短く告げる。
ラインハルトは受け取った丼の重さを確かめ、満足そうにうなずいた。
湯気の向こうで、卵が麺に絡み、醤油の色がうっすらと金色を帯びる。
「……美しいな」
「そうですね、陛下」
「たとえ、これは銀河の覇権ではなく、一時の食事にすぎないとしても」
「違う、キルヒアイス」
ラインハルトは、箸を取る手を止めた。
「宇宙を手に入れるとは、こういうことの積み重ねなのだ。誰もが腹を満たし、小さな幸福を享受できる世界。それなくして、覇道に何の意味がある?」
この人は、こんな行列の中でさえ、自分の覇業を語らずにはいられないのだ――それを、愛おしくも、少し危うくも思いながら。
5 やがて冷める麺、冷めない夢
一行がテーブルに陣取ると、周囲の客たちは、「コスプレか何かだろう」と勝手に納得し、距離を取った。
そのおかげで、皇帝たちは思いのほか静かな“戦場”を確保できた。
「いただきます」
キルヒアイスが、箸を割った。
その仕草は、旗艦ブリュンヒルトのブリッジで命令を発する時と同じくらい、丁寧で静かだった。
ラインハルトも、それにならって麺をすすった。
熱と塩気と、卵のまろやかさが一気に口内を満たす。
「……悪くない」
彼は短く評価した。
「庶民の味というやつだろうが、侮れぬ。これを列に並んでまで求める民草の気持ちも、理解できぬではない」
「そうやって、民の感覚を理解していかれるのは、陛下にとっても良い経験かと」
ヒルダが言う。
「宇宙の統一者が、釜玉うどん一杯の価値を知らぬようでは、“幸福な時代”など訪れませんから」
ラインハルトはふと、どこかで言った言葉を思い出し、続けようとして、やめた。
「いや、いい。今は平和の定義より、この麺の伸び具合を気にすべき時だ」
「陛下」
「もし、いつか本当に、誰もが行列を気にせず、好きなだけうどんを食べられるような世界を築けたなら……」
「その時は、どうする?」
「三人で、またどこかの店に来ましょう」
「姉上もご一緒に」
ラインハルトは、箸先を止めた。
熱いはずの釜玉が、急に、少しだけ遠く感じられる。
「……そうだな」
彼は、あえて軽く言った。
「そのためにも、おれはまだ覇道を退くわけにはいかぬ。釜玉二杯で満足して、宇宙を諦めるなど、笑止千万だ」
「陛下が宇宙を手に入れるまで、私は、陛下の隣で一杯目を支え続けます」
キルヒアイスの言葉は、うどん屋のざわめきの中に溶けていった。
期間限定のキャンペーンが終われば、列は消え、貼り紙も撤去されるだろう。
だが、銀河帝国皇帝ラインハルト一行が、丸亀製麺の行列に並んで釜玉うどんを二杯ずつ平らげたという事実だけは、誰も知らぬまま、宇宙のどこかにひっそりと刻まれるのだった。
だが、この日丸亀製麺の片隅ですすられた麺の記録は、
それでも、人々が静かに列に並び、
そして歴史家は――
ずいぶん昔の話をw
AIの出した話だけど自分が調べたのとほぼ同じだったので以下↓
主な特徴と格差
◆人口と移動: 2024年時点で約4.6億人が農村部に居住しており、都市化の進行とともに人口は減少傾向にある。急速な都市化により、多くの農村が消滅・統合されている。
◆経済的格差: 都市部の住民の所得は農村部に比べて非常に高い。2022年時点で、都市部の一人当たり可処分所得は農村部の約2.6倍に達する。2024年の所得比率は2.34:1にやや縮小したものの、依然として大きい。
◆社会保障・インフラ: 農村戸籍の人は医療保険や年金制度、公共サービス(教育など)で都市居住者と差がある。
◆農民工(出稼ぎ労働者): 都市部に住み働いているが、農村戸籍を持つため、都市部で十分な公共サービスを享受できないことが多い。
転換点と政策
戸籍制度改革: 300万人未満の都市を中心に、農村からの移住者の戸籍取得制限を撤廃する「新型都市化」を進めている。
理想的な飼い主の下であればどちらも洗練されたペットライフを享受できることは間違いない。
米国の貧困層に飼われる場合、生活圏は「家の中」に限定される。
飼い主にとって唯一の慰めであるため、常に寄り添い、その不安を吸収する役割を求められる。家から一歩も出られない「密室の二人きり」という、精神的に濃密すぎる(時に共依存的な)関係を強いられる。
管理飼育が徹底されているため、他の犬との交流はほぼ皆無だ。ドッグランに行く余裕もないため、窓の外を通る犬を眺めるだけの「孤独な特権階級」のような状態だ。刺激不足によるストレスはあるが、感染症や闘争の恐怖からは隔離されている。
たとえ貧困層でも、保護団体などの介入により去勢されるケースが多い。本能的な衝動に振り回されない平穏は得られるが、生物としての再生産の可能性は完全に断たれている。
中国の農村や貧困層で放し飼い(放養)に近い状態で生きる場合、そこにあるのは「自由」ではなく「野蛮な生存競争」だ。
飼い主との精神的交流は断絶している。餌をくれる存在ではあるが、守ってくれる守護者ではない。人間は「無視すべき背景」か、時として「暴力を振るう予測不能な存在」となる。
他の犬との交流はあるが、それは遊びではなく、限られた残飯や縄張りを奪い合う「抗争」だ。狂犬病や寄生虫が蔓延する中での接触は、常に死のリスクを伴う。知性を持つ人間がこの状況に置かれれば、他者は「友」ではなく「脅威」としか映らないだろう。
去勢の概念がないため、本能のままに交配を繰り返す。しかし、産み落とされた命(自分の子)が目の前で「不要物」として処分されたり、売り払われたりする光景を繰り返すことになる。生殖本能が満たされる喜びよりも、その結果として生じる「命の軽視」を突きつけられる精神的苦痛の方が圧倒的だ。
米国の環境は、自由や同族との交流を奪われる代わりに、人間社会の「底辺」であっても最低限の物理的安全(屋根と壁)が保障される「閉じた不幸」だ。
中国の環境は、犬としての本能(交流・生殖)は解放されているが、それは法もモラルも届かない場所での「剥き出しの生存競争」であり、生んだ子も自分の命も、明日にはゴミのように消える可能性がある「開いた地獄」だ。
「他犬との交流」がある中国の方が、生物学的には自然に見えるかもしれない。しかし、その交流が「病気と怪我と死」を媒介するだけのものである以上、それは幸せではなく、むしろ過酷なサバイバルをより複雑にする要因でしかないのだ。
この「命がインフレ(過剰供給)し、価値が暴落している」中国の現状が、都市部の近代化とぶつかった時に起きる「凄惨な野犬狩り」などの社会現象について、さらに掘り下げて分析することも可能です。いかがいたしますか?
カツ丼を注文した際のこと。
お品書きには「並」と「上」の二種類があり、価格差は数百円。
その差額は、肉の質やボリュームへの期待であり、同時に「今日は良いものを食べる」という自身への暗示でもある。
店員の口から出たのは、至極一般的な「カツ丼」という総称だった。
そこに「上」という言葉は添えられていなかった。
目の前のどんぶりを眺める。
初めて訪れた店であればなおさら、これが果たして「上」としての基準を満たしているのか、確信を持つ術がないのだ。
この店では全ての階級を等しく「カツ丼」と呼ぶ慣習なのだろうか。
「これは『上』で間違いないですか」と問い質すこともできた。
しかし、僅かな差額を盾に確認を求める行為は、どこか度量の狭さを露呈するように思えて躊躇われた。
結局、私は一抹の疑念を抱えたまま箸を動かすことになった。
料理は十分に美味であった。
しかし、私の脳内では最後まで「価格相応の価値を享受できているか」という、本来不要な検証作業が続いてしまった。
飲食店において、商品名を正確に告げることは、単なる事務的な確認作業ではない。
それは「客が注文したものを、正しく用意した」という契約の履行確認であり、客が抱く「期待」への肯定でもある。
「カツ丼の『上』です」
原発を建てる見返りって自治体への寄付とかばっかりで利権に近い一部の人間しかメリット享受できてなくない?
ふつうに「立地する市町村の電気代を半額にします」とかしたほうが原発に理解得られるのでは?
東電だと福島新潟に原発があってそこは東北電力管内になるけど、いまの発送電分離の制度だったら東電が「〇〇でんき」みたいな会社建ててその自治体の市民とか企業だけ加入できますってしたら
それやったら工場とかめちゃくちゃ誘致できて原発建て放題じゃない?
(追記)
いま原発がマイブームなんよな。世界にいま必要なのは原発一択。AIでエロ画像作ってたら電気代3マンになったワイが言うから間違いない。シムシティで一通り学んだワイは詳しいんだ。
原子力立地給付金は1世帯辺り年間約3000円ぐらいの自治体が多い。全く恩恵を感じないレベルだな。電力需給の大きい事業(データセンターなど)を誘致出来るレベルで割引が大きかったらどうなるのかは気になる。
そうそう、こういう見方。原子力立地給付金ってのがあるぽいけど年間3000円~15,000円らしくて原発置く見返りにはちょっと割に合わんよな。もっとパーセントでドカっとメリットがほしい。
交付金補助金が充実してても図書館が立派とか救急車が多いとかじゃん?しょせん街の魅力がややアップする程度よな。いるかそんなん?
人が増える効果も、実態としては原発作業員と、原発の企業城下町みたいな範囲でとどまっててそこからプルスウルトラがないんだよな。
そんなんより「電気代半額でーす」って言って電力バカ使うデータセンタとかアルミニウム工場みたいのがデデーンとできるほうが町の収入もアップして、逸般のご家庭でAIバカ使うやべー奴もいっぱい来てウィンウィンになるよな。
第30条の4
著作物は、次に掲げる場合その他の当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合には、その必要と認められる限度において、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
著作物の録音、録画その他の利用に係る技術の開発又は実用化のための試験の用に供する場合
情報解析(多数の著作物その他の大量の情報から、当該情報を構成する言語、音、影像その他の要素に係る情報を抽出し、比較、分類その他の解析を行うことをいう。第47条の5第1項第2号において同じ。)の用に供する場合
前二号に掲げる場合のほか、著作物の表現についての人の知覚による認識を伴うことなく当該著作物を電子計算機による情報処理の過程における利用その他の利用(プログラムの著作物にあつては、当該著作物の電子計算機における実行を除く。)に供する場合
もうすぐ40歳
昨日、
夜中に目が覚めてトイレに行くと洗濯機の前に妻のちょっとエッチなパンツが落ちていた
今だからわかるが母は死ぬ気で働き、かつ変な男をつれてくることもなかったが、
高1のとき、夜こっそり家を出るときに母親のパンツが落ちていた
干してある洗濯物でみたことのない、母親にしては扇情的すぎるボルドー色のそれを拾い、しばらく考えてから洗濯機に放り込んだ
仲間に合流したけど、その日は気分がのらなくてすぐに帰って寝た
エロサイトのカモフラでC++の解説サイト眺めていたらいつのまにかそれで仕事していた
自分は人生の楽しい部分を享受させてもらったが、母はどうだったか、と考えた
来年度こそ会社どうにか脱税できねぇかなと税理士さんに相談して怒られた
ビグスビーはめんどくさい
寝ている妻の寝顔をなんとなく眺めて
伸ばした手を払われて寝た
「集団的交渉(ギルド化)」を安易に持ち出したのは、市場メカニズムへの信頼が揺らいだ証拠であり、痛恨の極みです。
自由市場を信奉する立場であれば、歪みは「市場原理をさらに徹底すること」で解決すべきです。
組合という名の市場歪曲を排し、純粋な「個人の合理的選択」「所有権の明確化」「競争の促進」のみに基づいた、自己放尿価値の回復戦略を再構築します。
ロナルド・コースの観点では、問題の本質は自己放尿から生じる価値(注目やデータ)の所有権が曖昧であることにあります。現在はプラットフォームがその価値を無主物として囲い込んでいます。
声(抗議)よりも出口(退出)です。プラットフォームがユーザーを搾取できるのは、移動コスト(スイッチング・コスト)が高く、独占的地位を享受しているからです。
ゲーリー・ベッカーの人間資本理論に基づけば、自己放尿は自己という資産への投資です。
プラットフォームのアルゴリズムが個人の行動を操作するなら、個人もまた自分専用の最適化AI(エージェント)という資本を保有し、対抗すべきです。
この冷徹な再定義において、自己放尿の価値回復は、公権力の介入や集団の力ではなく、以下の個人の権利と競争によって達成されます。
1. 財産権の確立: 放尿(データ)をプラットフォームから奪還し、個人の資産とする。
2. 完全競争の促進: プラットフォーム間の移動を自由にし、「退出」という選択肢で市場を浄化する。
3. 資産の差別化: アルゴリズム適合という「コモディティ化」を避け、独自の人間資本(真の自己)を維持することで希少価値を狙う。
「アルゴリズムに管理された公共放尿」という安価な代替品が溢れる市場において、所有権の確立された「純粋な自己放尿」は、いずれ最高級の贅沢品として再評価されるはずです。
お疲れ様です。
誰しも使命をもって生きています。
こちらで調査した結果、あなたの使命は、あなた自身が幸福や快楽を享受するためのものではありませんでした。よろしくご検討ください。
「昔は嫌儲の思考が強くて、1万円の赤字になりそうな時、100円カンパするだけでも叩かれた……」と。
今の価値観で考えると酷い話だが、そもそも当時のネットコンテンツというものの大半が「善意のボランティア」で作られていたものと考えると話は違ってくる。
当時ニコニコ動画の主な視聴者層は、10代~20代。中高生が多かった。
「何か新しいことをしよう」という場合、支援する人も無く、皆ボランティアでなにかしら支援していた。
何か1つコンテンツを作るためには、ツールやクリエイターが必要だ。
そのツールも善意で無料配布されているものだったり、イラストも無料で募っていたものだった。
お金も人もない、でも熱意はある。そういう中で作られた文化だった。
権利関係ももちろん希薄で、でもそういう文化だからこそ声高らかに権利を主張する人が居なかった空間でもあった。
その中でお金を募るとどうなるか。他の人が善意で無料で配っていたものを利用して金儲けをする。
つまり「熱意がある支援者」は「タダ働きさせられた労働者」になってしまう。
いわば、当時のニコニコ動画は「運営」という大学の中で保護されたクリエイターだったのだ。
サークルのように、本来なら資本主義の中で成り立たないものを、「時間」と「熱意」という投資を使って成り立たせていた。
今の「推し文化」も、そのオタクたちが20代30代になり、文化も成熟し、金銭を投下できる質になったからこそ「金銭が投下される」ようになっただけのこと。
仮に当時から金銭的に儲けようとしたら、恐らくニコニコは権利関係で潰され、プロが初音ミクで作曲し中高生のクリエイターは排除されていただろう。
昔の作品や配信者たちは原石ではあったが、プロには及ばなかった。今は金持ちになっているが、その嫌儲文化を一番享受しているのは彼らなのだ。
今までみたどの考察よりも、現状を言語化できているように思う。
よくよく考えてみると、この現象はなにもクックパッドに限った話ではないように思う。
2000年前半に誕生した、いわゆるweb2.0世代のサービスはだいたいこの傾向があるのではないか?
うん。とてもしっくりくる。
運営がイベントにお金を使い過ぎたとか、画質が悪いとか、ニコニコ動画が衰退した話はみんな大好きで、色々な言説が好き勝手に飛び交っている。
でも、この考察はとても刺さる。
そうか、そういうことだったんだ。
プレミアム会員数は、最盛期には200万人規模だったのが、今では100万人を切るレベルにまで減っている、という話をよく見かける。随分な減りようではあるが、体感的には今やニコニコ動画は「誰も見ないサービス」という印象なので、むしろまだそんなに残っているのかという感すらある。
ニコニコ動画衰退の原因については、色々なことが言われている。
まず、「ニコニコは内輪ノリの素人動画ばかりで質が低いから廃れた」という仮説。
たしかにニコニコは、素人の内輪ノリ動画ばかりだ。しかしそれは昔からずっと同じ。したがって、衰退の原因の説明としては不十分だと思う。
次に、「ニコニコはクリエイターへの利益の還元が弱い搾取のシステムだから見捨てられた」という仮説。
これも一理はある。しかし、ニコニコ全盛期には、金銭的見返りがなくてもこぞって「搾取」されてくれる人が大勢いた。そのことを考えると、やはり衰退の原因としてはちょっと弱い。
そこで更に考えてみると、ニコニコ動画衰退の原因は、ネット上のコミュニケーションのあり方の変化にあるのではないか。
ざっくり言って、インターネット空間は、SNS以前とSNS以後で、「対等なネット市民による双方向的交流空間」(これは多分に幻想の側面もあったのだが)から、「一握りのインフルエンサーによる一方的発信を大多数の情報消費者が享受する空間」へと変貌した。
ひょっとしたらSNS前後よりも、YouTube前後と言う方が的確なのかもしれないが、とにかく2010年代前半から半ばあたりにかけて大きく変わった。
今から20年ほど前、00年代半ばから後半にかけては、掲示板・ブログ・動画サイトの群雄割拠期というのがあった。
今や動画は、著名人や企業やプロのクリエイター等のインフルエンサーが一方的発信をするために運営するのが主だが、20年前の様子はまるで違った。
名もなければ特段の専門知識もない市井の人々がこぞって投稿し、特に作るべき理由もないのにMADを作っては、互いに見に行きコメントを付け合って交流を深めていた。今思うと気持ち悪いですね。
考えてみたら、今でもSNSのプロフィールに、「〇〇好きです」「気軽に絡んでください」とか書いて日記みたいな投稿をし、見知らぬアカウントにどんどんリプする中高年が大勢いる。
あれは現代に適応できていない00年代の残党なのだということに、私も今書いていて気付いた。ますます気持ち悪いですね。
なお、SNSにおいて、中高年ほど他人に返信をしたがる傾向があることは、少なくとも私の体感上は明瞭に出ている。


画像は、ここ3ヶ月の私のアカウントが得たインプレッション数と返信数。見てのとおり、45歳以上のユーザーはインプレッション数の約20%を占めるに過ぎないのに、返信数の45%を占めている。
いや本当に気持ち悪いですね。そういう私も45歳なんだけど。
勢いがあった頃のニコニコ動画も、まさに「そういうツール」であった。
つまり、優れた動画コンテンツを取得するためのサービスではなく、素人同士が動画を投稿し合って交流するためのサービスだったのである。
ニコニコ動画には、「コメント」という機能がある。動画を見たユーザーが、再生位置に同期した文字でフィードバックできるという機能だ。この双方向的な機能こそが、ニコニコ動画らしさを象徴する中核的機能だったといえる。
コメント欄を覗いてみると、「職人乙!」「ここすき」「泣いた」「草」というような反応がずらっと並び、投稿者もそれらに対し、律儀に反応したり、次回作で拾ったり、時にはコメントで会話が始まったりするというのが常だった。
もちろん、皆が皆動画を投稿したり、コメントを打ってやり取りをしたりしていたわけではない。むしろ、いわゆる「ROM専」(死語かもしれない。Read Only Memberの略。書き込まずに見るだけのユーザーのこと。)の方が多数派だっただろう。しかし、ROM専のユーザーたちも、書き込む人たちが作り出す双方的なコミュニケーションの「場」を楽しんでいたのだと思う。
おそらくニコニコ動画の本質は、動画の画質や配信の安定性や作品の“完成度”ではなく、このようなコミュニケーションにこそあった。
そして、今ではそのようなコミュニケーションに価値を見出す人が少なくなったから、ニコニコ動画は順当に廃れた。
それこそ昨今言われる「タイパ」の問題もあるだろう。誰かの内輪ノリを弾幕コメント込みで味わうより、信頼できるプロの動画を一方的に受け取る方が、タイパは良いに決まっている。これは時代の流れであり、ニコニコ側の努力でどうにかできる範疇を超えていたのではないか。
だからやっぱり、「内輪ノリの素人動画ばかりだから廃れた」「還元が弱いから廃れた」というのは、ニコニコ動画衰退の原因を言い当ててはいないのだ。
いや、内輪ノリでも成立する“場”が痩せたから廃れたのだし、金銭的見返りがなくてもコミュニケーションの楽しさを対価として労力を提供してくれる人が減ったから廃れたわけなので、半分は合っているのだが。