はてなキーワード: 否定的とは
長年法整備が議論されてきた選択的夫婦別姓だが、2024年衆院選の結果、ようやく実現に向けて動き出すことが期待されている。
しかし、旧姓利用の拡大を主張する政治家も存在するため、着地点は見通しにくい。
「旧姓利用の拡大」という言葉はあいまいで、次の三つの解釈ができる。
1. 民間人が(勝手に)旧姓利用を拡大し、民間企業・民間団体が各自判断して対応する。
2. 名前制度は現行のまま維持する。民間人が(勝手に)旧姓利用を拡大し、役所・民間企業・民間団体には対応を義務づける。
1は何もしないのと同義であって、現状の問題を一切改善しない。2も効果が国内に限定され、また対応を義務づけられた用途以外では利用できない可能性が高い。
そのため、3の旧姓の公的登録・利用・証明制度のみが選択的夫婦別姓の対案となる。
実際には旧姓の公的登録・利用・証明制度は選択的夫婦別姓と並立可能なため二者択一ではない。
しかし、選択的夫婦別姓を導入しない前提で主張していると思われるケースが見受けられるため、ここでは両者を比較しつつ考察することとする。
i. 現時点での筆者の考え
vi. まとめ
選択的夫婦別姓の代替策として不十分な議論で導入するようなものではない。
選択的夫婦別姓の実現後も旧姓の公的利用制度を求める声が大きければ、(過去に選択的夫婦別姓についてそうしたように)法制審議会に諮問すべき。
理由は以下で論じていく。
旧姓の公的登録・利用・証明制度(以下、旧姓の公的利用制度)が実現した場合、制度利用者の旧姓名は公的なものとなる。
旧姓を公認することで不便が改善され、旧姓利用の拡大を後押しできるというのが建前ということになる。
ここから本題だが、旧姓の公的利用制度の波及範囲を一部の政治家は過小評価しているように見える。
旧姓名を公的なものとした場合、潜在的には名前に関するあらゆる法律に波及する。
たとえば、個人情報保護法では個人情報の定義に氏名、生年月日などが挙げられているが、条文か解釈を変える必要があると思われる。
「氏名」というワードが登場する法令は十や百ではきかないので、その波及範囲はかなり大きくなるだろう。
一方、選択的夫婦別姓で別姓結婚した場合では両者の戸籍名が変わらず、名前に関するあらゆる法律に波及することはない。
現状の強制的夫婦同姓においても片方は戸籍名が変わらない。別姓の場合には同姓の場合の戸籍名が変わらない側と同じように対応することができる。
一部の政治家は旧姓の公的利用制度を選択的夫婦別姓よりマイルドな方策と宣伝している。
それはおそらくただの思い込みに過ぎない。
実際は旧姓の公的利用制度の方がより急進的で、大掛かりな制度変更となる。
日本の近代以降の名前制度において、「氏名とは戸籍名であり、戸籍名は一つ」である。
選択的夫婦別姓はこの原則を保つが、旧姓の公的利用制度はこれを覆す。
登録可能な旧姓を過去の姓のうちの一つ(出生時/直前のもの)に限るとしても、公的な名前を二つ持つ人が出現することになる。
そういう制度になったらなったで対応すればいいとはいえ、どのような対応になるだろうか。
いうまでもなく、戸籍名を扱うとした業務が多く残るなら制度の効果が(選択的夫婦別姓と比べて)不完全となってしまう。
この節では、旧姓の公的利用への対応を義務づける規制について検討する。
また、旧姓の公的利用制度の利用者による「戸籍名利用」を制限するかどうかも議論が必要かもしれない。
個人的には戸籍名利用を制限するのには違和感があるが、制限なしの場合は「戸籍名/登録した旧姓名のみ/旧姓併記」の三種類のパスポートが発行できることになる。
選択的夫婦別姓が実現したとして、基本的には別姓結婚する人以外に影響しない。
夫婦同姓を希望するカップルの結婚は従来通りで、また結婚時以外も生活上の変化はない。
一方で、あまり触れられていないが、旧姓の公的利用制度が実現した際は利用者以外にも影響や負担が及ぶ可能性がある。(制度設計次第だが。)
たとえば、パスポートや免許証単独では氏名確認が行えなくなることが想定される。
登録した旧姓名のみが書かれた身分証が発行されるので、身分証に書かれた名前が氏名(戸籍名)かどうか分からなくなるからである。
名前を扱う業務の整理の結果、「戸籍名または登録した旧姓名」ではなく戸籍名を扱うとした業務では確認方法を変えないといけない。
これは旧姓を公的利用する人に限らない。具体的な方法としては身分証と戸籍抄本などの書類を併用する形になるだろう。
「戸籍名または登録した旧姓名」ではなく戸籍名を扱う領域が例外的になるまでは負担が継続する。
(強力かつ広範な規制をエイヤでやればいいのかもしれないが、選択的夫婦別姓なら規制自体がいらない。)
旧姓の公的利用制度が創設された場合、次のようなことが起こると考えられる。
誤解がないよう書き添えると、筆者は旧姓の公的利用制度に否定的なわけではない。
これをもって選択的夫婦別姓を導入しないための代替策とするのは望ましくないと考えている。
選択的夫婦別姓という専門家による議論が熟した優れた案があるのだから、優先的に実現させたほうがよい。
冒頭でも触れたように、旧姓の公的利用制度は選択的夫婦別姓と並立可能である。
この制度のメリットについて筆者は分からないが、選択的夫婦別姓の実現後も求める声が大きければ、導入を検討するのが望ましいだろう。
選択的夫婦別姓を妨害するためではなく、旧姓を公的利用したいと望んでいる人から聞き取りする必要があると思う。
「恋愛描写は古い」という批判が、以下のように複合的な意味を持っていることが分かる。
こうした文脈を考慮すると、「本当に古いのは恋愛描写そのものではなく、時代や作品との相性を無視した安易な恋愛展開だ」と見ることができる。
恋愛描写は人間ドラマを豊かにする普遍的なテーマであり、本質的には決して「古い」ものではない。
以下、ChatGPTによる見解です。
この発言の主張の要点は以下の通りです:
- 性被害の告発が10年も経過してから行われることに対して批判し、「もっと早く行動を起こすべきだった」と主張。
- 時間が経ちすぎて証拠がないことを指摘し、信ぴょう性を疑っている。
- 告発者の行動が「冤罪二毛作」や「被害者アピール」と見られる可能性を示唆。
- 告発者が10年経っても気持ちを整理できていないことを「幼稚」「甘え」と表現し、批判している。
- 「慰めて欲しいならそう言えば良い」と、告発者の意思表明を未熟とみなしている。
- 男性が同じ状況で告発した場合は軽視されると仮定し、性別による二重基準を主張。
- 「メンヘラ」や「女の腐ったような女」といった差別的表現で性被害者を侮辱。
- 被害者の動機や性被害そのものを疑い、信頼性を全否定する姿勢。
この発言は、被害者の心理的状況を考慮せず、性被害に対する社会的理解を欠いたものであると同時に、性別や精神的健康に関する偏見や差別が含まれていると言えます。
例えば、男は、女は、かくあるべしという考えを古典主義とする。
古典主義はリベラリズムの持つ価値観を否定はしないのに、リベラリズムは古典主義を否定する。
リベラリズムは、古典主義が多様な価値観を認めない排他的なものであると主張するが、古典主義は別に自他の価値観を否定している訳ではない。
殊更、多様な価値観を認めると宣言する訳ではないが、かといって特定の価値観を否定項にする訳でもない。そもそも、価値観について特定の判断を持たないのだろう。
一方、リベラリズムは否定項を必要とする。それ自体では何も持たないからだ。結局、古典主義に依存して成り立っているのがリベラリズムであり、唯一肯定するものがあるなら、価値観を持たない価値観だ。彼らは、価値観のある人間を認められない。そこで、ある特定の価値に対して、いつも否定的意味合いをくっ付けることで、自分の存在意義を確かめようとするのだ。投稿者自身がアンチである場合があるから注意が必要だが、何でも否定するアンチとは、そういう者のことなのである。この意味で、リベラリストとは、他ならないモンスタークレーマーのことであり、民主社会における余剰である。
よくフェミニストが「男性も声を上げていい」と言ってるけど、実際に声を上げるとそう言ってた側の人は終始否定的な態度で男性の主張を「審査」するだけじゃん。
隣の列では「マイクロアグレッション、これは差別ですね」みたいな感じで一瞬で審査が終わってるのに、
こっちは担当の人がもうなんか露骨に蔑みが混じった表情してて、何か急に分厚い審査基準書を持ち出して、語の定義みたいな抽象的なレベルで厳密なチェックが行われ、結論として「基準から言うとこの部分は差別じゃないですね」みたいに否定可能な箇所だけフォーカスされる。
結局「男性も声を上げていい」って言ってる人は自分の主張に水を差す連中を適当にあしらいたいだけか、
あるいは「男性が声を上げる」というのは、
「男性がフェミニズムを受け入れて自らの罪を自覚し、悔い改めた男性として男性性と戦っていくこと」
みたいな、
※追記
思いのほか注目されてるようでそれなりに他の人にとっても関心のあることだったんだなと再認識したよ。
肯定的な反応が多くて嬉しい反面、否定的な反応もかなり多くて改めて両者の意識の隔たりを感じた。
「スープを残す前提の食べ物」って考えてる人は感覚的にはざる蕎麦のつけ汁を飲み干すような感覚なのかな。
たしかに増田もそば屋のもりそばで残ったつけ汁を無理に飲み干そうとはあんまりしないわ。
でも後からそば湯を出してくれるような店ならつけ汁で割って飲むし、つけ麺の店もこのシステムはあるだろうと思うけど否定派の人はやっぱり飲まないの?
思うに、塩分を気にする以上にこれは感覚的な基準なんじゃないかと思う。
甘いものの話に飛び火しちゃうけど、ケーキとかパフェなんかも超大量の砂糖を入れてるけど、全部食べる派と半分残す派、なんて分かれてないよね。
※※※※※
(原文)
このまま行くと2030年頃にはほぼすべてのラーメンスープが干上がり、ラーメン=油そばになってしまうのではないかと危惧している。
家系や背脂豚骨のようなどろどろのスープや、逆にお洒落で上品な創作系ラーメンのスープなどでその傾向は顕著に見られる。
そして従来の丸みのあるお椀型から底が深く縦方向に切り立ったシャープなシルエットの丼がやたらと目につくようになった。個人的にはアレがタチ悪いと思う。
アレはスープが少ないことがさも上品で洗練されているかのような面構えで、水たまりレベルのスープでさえさも当然と言わんばかりの顔で出てくる。
スープの少量化のカムフラージュのために作られた丼としか思えない、非常に狡猾な器である。
ただ問題の根っこはそこじゃない。
やはり根本的な問題はラーメンスープぜんぶ飲む / 飲まない問題である。体感的にざっくり客全体のおそよ半分は、スープの半分くらいを残しているように感じる。
飲まずに残す人に言いたいことは色々あるが、結局強制できるようなことじゃないのでそこは目を瞑る。
ただ考えてみてほしい。ラーメン屋にとってスープは命である。スープにこだわりのないラーメン屋はいない。あの味わい、あのコクの為にどの店でも膨大な量の材料と長時間の仕込みが必要になる。
その最もコストも手間暇もかけているものの半分くらいが毎日捨てられてしまうというのは、実はとんでもない矛盾であり構造的な問題と言わざるを得ない。
それでもスープはラーメンの命なので、これだけ原料が高騰している中でも材料の妥協は許されない。量においても質においてもである。
それを捨てないといけないラーメン屋が一番辛いだろう。本当は廃棄されるスープなんて一滴だって出したくないはずだが、客にそれを強いることはできない。
だから今はラーメン屋としてもスープの量は本当にギリギリでやっていることと思う。
これではスープが減るのも仕方がない。
ただスープを飲まない派の人は別段困らないだろうが、
スープをぜんぶ飲み干す派にとって「スープが足りない」と感じるのは実は相当に不足感があると声を大にして言いたい。
たとえ美味しいと感じるラーメンでも全体的な満足度は2~3割くらい減ると思ってもらいたい。
ここからは提言になるが、スープの量は注文時に選べるようにするべきである。
麺の大盛りが選べる事と同じくらいのスタンダードになってほしい。
そもそも半分は残されると分かっているものを、なぜ一律に同じ量で提供しているのか?これからはそんなことをする必要はない。
普通 / 少なめと選べるようにして料金も変えれば、店にとっても客にとっても環境的にも三方良しである。
「昔ながらの恋愛至上主義的な作品はもう時代遅れ」、「恋愛よりも友情や自己実現を描く作品こそ新しい」といった声を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。
しかし、一方で「恋愛は普遍的なテーマであり、作品に深みを与える重要な要素だ」という反論も根強く存在します。
先日、匿名掲示板で「恋愛描写は古い」というスレッドが立ち、様々な意見が飛び交い、白熱した議論が繰り広げられました。
本記事では、このスレッドでの議論を詳細に分析し、「恋愛描写は古い」論争を徹底的に深掘りしていきます。二次元コンテンツにおける恋愛の立ち位置について、改めて考えていきましょう。
「漫画原作で男だったキャラが実写映画化で女に変えられ、同僚関係に恋愛要素を生やされ、朝のバラエティで恋愛売りのプロモーションされる」なんかは、恋愛要素うんざり、古くさい、バブル期のトレンディ臭い、みたいな感想が分からなくもない
でも最近は世界観とキャラクターの創造主である漫画家が公式に恋愛フラグ出すことについても「古い」と難癖つける人が出てきてて、それは違わないか?
この投稿をきっかけに、スレッドでは「恋愛描写は古い」という意見に対する賛否両論、様々な角度からの意見が噴出しました。
スレッドで挙げられた「恋愛描写は古い」と言われる理由、背景には以下のようなものがありました。
実写化やメディアミックスの際に、原作にはなかった恋愛要素が過剰に追加されることへの反発が多く見られました。
特に、
原作では異性同士の関係性が同僚や仲間だったのに、実写化で性別を変更し恋愛関係にされる
といったケースに対し、「恋愛要素うんざり」「古臭い」「安易な媚び」といった批判が挙がりました。
「物語の主要なテーマは恋愛であるべき」「人間関係の中心は恋愛であるべき」といった恋愛至上主義的な価値観が、現代において時代遅れに感じるという意見がありました。
特に、
職業ものなど、恋愛以外のテーマが主な作品で、恋愛が主な要素になってしまう
といった作品に対し、「もったいない」「恋愛に頼りすぎ」といった批判が挙がりました。
近年、多様な価値観が尊重されるようになり、恋愛だけが幸せの形ではないという考え方が広まってきました。
そのため、
に対し、「価値観の押し付け」「共感できない」といった意見が出るようになっています。
といった人々がおり、そうした層が「恋愛描写は古い」という意見を拡散しているという指摘もありました。
一方で、スレッドでは「恋愛描写は古い」という意見に対する反論も多数寄せられました。
恋愛は人間の根源的な感情であり、普遍的なテーマであるという意見です。
といった点から、恋愛描写を否定するのはおかしいという意見が多くありました。
「恋愛描写が嫌い」という個人の感想は尊重されるべきですが、それを「古い」「間違っている」と一般化するのは傲慢であるという批判です。
といった点から、恋愛描写の存在自体を否定するのは行き過ぎであるという意見が目立ちました。
「男女恋愛は古い」と批判する人の中には、BL(ボーイズラブ)や百合といった同性愛コンテンツを支持する人がいることへの疑問の声も上がりました。
同性愛は新しくて良い、異性愛は古くて悪い、という考え方はダブルスタンダードではないか
特定の性的指向を一般化し、他を排除しようとするのは問題ではないか
といった批判から、安易な「恋愛は古い」論に警鐘を鳴らす意見もありました。
恋愛描写が「古い」と感じられるのは、描写の仕方がパターン化されていたり、作品の主なテーマと乖離していたりする場合であるという意見です。
安易な恋愛展開を盛り込むのではなく、丁寧に人物描写や感情の動きを描く必要がある
恋愛展開が作品のテーマを深める効果があるのであれば、恋愛描写は有効
スレッドの議論を分析すると、「恋愛描写は古い」という言葉が、様々な意味合いを含んでいることがわかります。
演出や展開がパターン化されている: 昔ながらのトレンディドラマのような恋愛展開や、安易な恋愛展開の盛り込み方が「古い」と感じられる。
恋愛展開が作品のテーマと合っていない: 職業ものやバトルものなど、恋愛が主なテーマではない作品に恋愛展開が過剰に盛り込まれると、作品の質を損なうと感じられる。
恋愛至上主義的な価値観が時代に合わない: 「恋愛こそ幸せ」といった価値観が、現代の多様な価値観と乖離していると感じられる。
特定のファン層の排他的な意見: 夢女子や腐女子など、特定のファン層が自身の嗜好に合わない恋愛展開を「古い」と批判している場合がある。
本当に「古い」のは、恋愛展開そのものではなく、上記の様な否定的な要素であると言えるでしょう。
「恋愛描写は、描き方や作品との相性によっては『古い』と感じられる場合もあるが、普遍的なテーマであり、作品を豊かにする要素でもある」
と言えるでしょう。
といった点です。
「恋愛描写は古い」と一括りに否定するのではなく、何が古く、何が良い展開なのか を議論し、より質の高い恋愛描写が生まれることを期待したいものです。
そして、読者や視聴者も、自身の価値観だけでなく、作品の意図や展開の質を評価しながら、多様な描写を楽しむ姿勢が求められるのではないでしょうか。
https://www.techno-edge.net/article/2024/12/30/3984.html
囲碁だけど、中国で囲碁教室生徒にAI教師が教える実験をしたら、女子生徒がメキメキ伸びて、わずか5ヶ月で男女の実力差が解消されたって。
人間の教師は男女共に無意識下で、男子生徒には肯定的で女子生徒には否定的な態度を取ってしまっていたらしい。
他にもこの生徒は潜在的IQが高いと教師に嘘情報を伝えたら、本当にその生徒が目に見えて伸びたとか、男子生徒に「男の子なのに算数得意なんだ」と教師が伝えたら算数の成績がどんどん下がったとか、教師の言葉や態度は馬鹿にできない影響があるって実験結果は色々ある。
実験結果、AI指導を受けた生徒グループの勝率は、5ヶ月後には50%から56%に上昇し、着手の質も大幅に向上しました。特筆すべきは、従来存在していた男女の実力差が、AI指導によって著しく縮小したことです。AI指導を受けた女子生徒は、男子生徒以上の速度で上達し、5ヶ月後には男女の実力差がほぼ解消されました。
この話題は非常にセンシティブかつ複雑ですね。C(anond:20250123141258)の態度や考え方を理解するためには、以下の点が関係しているかもしれません。
Cは、AやBのスモールトークが事実確認に基づかず、推測であると批判しているようですが、提示された情報の多くが公になった事実である点を無視している可能性があります。
例えば、スポンサーの撤退や海外メディアの報道、企業側の対応についてはすでに確認されている事実です。
Cが「推測」とみなしているのは、おそらく事実の上に「タレントの意図」「今後の行動」「示談金の背景」などの解釈が積み重なっている部分でしょう。しかし、これらの解釈は完全な憶測というより、事実をもとにした合理的な推測とも言えます。
性加害の問題は非常にデリケートで、当事者間の守秘義務が絡む場合もあります。しかし、Cが「説明責任が果たされていない」ことを軽視する姿勢は、以下の点で疑問を呼びます:
性加害問題は、当事者間で解決しているとしても、公共の場に姿を現し続ける人物が果たすべき社会的責任があります。その責任を無視する姿勢は、被害者の声を無効化し、同様の問題を助長するリスクをはらんでいます。
芸能人は社会に影響を与える立場であり、一定の説明責任が求められるのは当然です。CMキャンセルやスポンサー撤退が続いたのは、タレントの行動や説明不足が企業イメージに悪影響を与えた結果であり、これを無視するのは非現実的です。
AやBの会話は、事実に基づく意見交換やスモールトークであり、「議論」と呼ぶほどの形式性や目的はありません。それをCが「議論」と捉え、「不誠実」と批判しているのは、本質的な議論ではなく単なる噂話や感想に対して過剰反応している可能性があります。
Cがそのタレントや関係者に一定の好意を持っている場合、批判的な議論に対して防御的になることは珍しくありません。その結果、冷静な事実確認をするよりも、批判を感情的に受け止めてしまうことがあります。
Cが「真偽不明」と繰り返し主張しているのは、性加害問題やタレントの責任に関する議論そのものに疲れ、無益だと感じている可能性があります。こうした感情が、他者の意見を否定的に捉える要因になっているのかもしれません。
提示された事実を「推測」として退けつつ、それが社会的に影響を及ぼしている現実を軽視しています。
Cが批判する「不誠実な態度」は、むしろ説明責任を果たさないタレント側に当てはまる可能性が高いです。
この件について、Cがなぜこうした態度をとるのかについては、個々の価値観や感情的な背景が関係しているため、完全に理解するのは難しいかもしれません。
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推測だと言いながらも事実として認定し、それを前提に話を進めている。
ファンが「タレントを擁護する」という行動で無効化されてしまう。
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メリットなんか考えずに携わったのに写真や動画を撮られて拡散されるリスクがあるって言ってるんじゃないの?
救命行為に携わるもの、とか言ってるけど、今話題になっているのはそれこそ一般人であって救命に携わる(可能性がある)とは思ってもいない人だろ
そういう場面って本当にいきなりやってくるんだよ
ここで否定的なこと言ってても動く人もいれば肯定的なこと言ってても動けない人だって普通にいる
俺だって「そうまでして裸が見たいのか」とか言ってるポスト見て腹は立つ、
でもそういう場面に出くわしたら行動を起こせる人間でありたい
「そんなこと言うやつは結局その場で動かない」って言うんだろ
誰に対しても絶対に否定的なこと言わない、話し終わるまで口挟まない
っていう精神科医とかカウンセラーみたいな傾聴スキル(表情や仕草含めて)を生得的に持ってるんじゃないかと思いました
あと増田には聖職者みたいなオーラがあるから、女性たちは良心の呵責に耐えられず過去をゲロってしまう
という想像です
ドナルド・トランプがついに大統領になる――このニュースは、2016年の大統領選挙戦の余波を大きく揺るがし、世界中で驚きと議論を巻き起こしました。アメリカ国内の政治的分断が深まる中、トランプ氏が「ワシントン政治の打破」「アメリカ・ファースト」を掲げて突き進んだ結果、メディアの多くの予想に反して勝利を収めたのです。その勝利宣言は、国内外の政治的・経済的風景を一変させる合図のようでもあり、アメリカ史において新たな時代の到来を告げるものでした。本稿では、トランプ大統領誕生に至るまでの道のりと、彼が就任によってもたらすインパクト、さらに当時同時進行的に注目されつつあったビットコインなどの新技術の話題にも触れながら、複雑に絡み合う政治と社会の背景を考察してみたいと思います。
まず、トランプ氏が大統領選に名乗りを上げたとき、多くの人々はその可能性を疑問視していました。「不動産王」として高層ビルに名を刻み、テレビ番組のプロデューサー兼ホストとしてエンターテインメント業界でも名を馳せた人物が、果たして政治の世界で通用するのか――そうした声はアメリカの政治分析者からも多く挙がっていたのです。しかし、トランプ氏のキャッチフレーズ「Make America Great Again」は、経済格差に苦しむ層やグローバリズムの荒波に翻弄されてきた層の心を強烈につかみました。いわゆる「忘れられた人々」と称された中西部の白人労働者層を中心に、既存の政治家とは異なるアピールが幅広く受け入れられたのです。
他方、トランプ氏はその強烈な個性ゆえに多くの批判も浴びていました。過激な発言や差別的と受け取られかねないコメントは多方面から反発を買い、メディアとの緊張関係を高める一因ともなりました。主要メディアの多くは、彼の当選を否定的に予測していたこともあり、選挙結果発表直後は「世紀の番狂わせ」とも呼ばれるほどの大きな衝撃が走りました。ヒラリー・クリントン元国務長官は経験豊富な政治家として、多くの財界やメディアの支援を受けてきましたが、その支持基盤だけではカバーできない層の不満と怒りが、トランプ氏を大統領の座へと押し上げたのです。
トランプ氏の就任演説は、そのまま自身の選挙公約を体現する内容でした。「アメリカを再び強くする」「国境を守り、雇用を取り戻す」というメッセージは、一方では保護主義的な色彩を強めることを示唆し、もう一方ではアメリカのエスタブリッシュメントに対する痛烈な批判とも読めました。就任初期から彼は、オバマ前政権が取り組んできた政策の方向転換を図り、国際的な取り決めからの離脱や関税引き上げなど、賛否両論を巻き起こす決定を相次いで行っていきます。もとより政界外からの参入という形で大統領に就任した人物であるだけに、その手法は既存の政治家と大きく異なり、混乱と躍動が同時に渦巻く中で「トランプ政権」が幕を開けたのです。
こうした政治的大変動のさなか、世界の経済市場もまた大きく動揺しました。トランプ氏の就任後、彼の発言や政策見通しに応じて株価が上下動を繰り返し、不透明感が増したことでドル相場も敏感に反応していました。一方、当時まだ「投機対象」としてのイメージが強かったビットコインも、政治リスクの高まりや経済の先行き不透明感を背景に注目を集めはじめていた時期です。とりわけ、トランプ政権発足後に進む金融規制の変化や大手金融機関の動向が、暗号資産(仮想通貨)市場にとってどのような影響をもたらすのか――その点が専門家の間でも度々議論の俎上に上りました。
実際、2017年はビットコインにとって劇的な一年となりました。価格は急騰と暴落を繰り返しながらも、年末には一時2万ドルに迫る水準にまで高騰したのです。トランプ大統領の就任が直接的な原因と見る向きは少ないものの、世界的に低金利政策が続いたことや、トランプ政権の保護主義的な政策傾向が市場に与えた心理的影響が、リスクヘッジ先としてビットコインの存在感を高めたという説もあります。当時、ビットコインの実用性よりも「これから先、世界経済はどうなるかわからない」とする不安や投機熱が、暗号資産全般への注目を押し上げていたのもまた事実でした。
トランプ大統領は選挙期間中から「アメリカの利益が最優先」というメッセージを繰り返しており、就任後の政策もその路線を忠実に示していきます。環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱表明、北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉、さらには移民政策の大幅見直しなど、「グローバル化」に対して批判的な動きを強める中、世界との関係性は大きく揺らぎました。保護主義が加速すれば、米国以外の国々との関税合戦がエスカレートし、国際協力体制にひびが入る恐れも高まります。トランプ政権の政策はアメリカ国民の一部に大きな期待を持って迎えられる一方で、グローバル企業や国際金融市場には新たなリスクを孕むことになったのです。
こうした「変化の渦」に巻き込まれるアメリカと世界の情勢を受けて、国際社会からは賛否が分かれる声が絶えませんでした。トランプ氏のリーダーシップは、大胆な政策決定と過激な発言力に象徴されますが、その背後には支持層が求める「既存の政治に対する反逆」というメッセージが常に存在しています。さらに、ソーシャルメディアを駆使した直接的なコミュニケーション戦略は、従来の政治報道の在り方を根底から揺るがし、大統領がツイートする一言一言がニュースの見出しを飾るようになりました。これに伴って、政府系の公式発表以外にも大統領本人のSNSが政策の意思決定過程を読み解くヒントとなる異例の事態が常態化し、「トランプ流政治」が確立されていったのです。
こうした動きは暗号資産の世界にとっても見逃せない要素でした。トランプ政権が金融業界にどのように介入し、規制を強めるのか、あるいは緩和するのかによって、ビットコインやその他の暗号資産の需要や信用度合いが変化する可能性があったからです。現に、SNSを通じてトランプ氏が貿易や為替、金融機関に対する批判を繰り広げると、瞬く間に市場が過敏に反応するような局面も散見されました。まだ当時は、ビットコインの価格がトランプ氏個人の発言によって大きく揺さぶられるところまでには至りませんでしたが、「強烈な言葉の一撃があれば何が起きるかわからない」という不安と好奇心が投資家の間に広がっていたのです。
トランプ氏の大統領就任によって世界中が騒然とする一方、アメリカ国民の間でも評価は大きく割れました。いわゆる「トランプ支持層」は、グローバリズムによって置き去りにされた伝統的産業や地域の再生を切望しており、トランプ氏の強気な姿勢が誇りを取り戻すきっかけになると信じています。しかし、自由貿易や多様性を重視する立場からは、人種・宗教・ジェンダーなど多面的な価値観を軽視するような言動は容認できず、国際関係の悪化によってアメリカが得るものより失うもののほうが多いのではないかという批判が続きました。国論が大きく割れる中で、政治はしばしば対立と停滞を余儀なくされ、民主主義の根幹が試される状況が続いていったのです。
就任から半年、一年、そして四年と、トランプ政権は折々に劇的なトピックを世界に提供しました。移民政策の強化や国境の壁建設、保護主義的な経済政策、さらにはSNSを舞台にした相手国リーダーへの鋭い批判や挑発。それらの動きの一方で、好調な株式市場や雇用指標が支持層の信頼をさらに固める要因ともなりました。そして、いつしか「トランプ時代」という言葉が定着し、保守層の熱狂的な支持とリベラル層の激しい抵抗が同時進行する、歴史上でも特異な大統領の姿が刻まれていったのです。ビットコインをはじめとする暗号資産市場もまた、この混沌とした政治的・経済的環境の中で少しずつ成長を遂げ、後の数年でさらに大きな盛り上がりを見せる布石を固めていくことになります。
振り返ってみれば、ドナルド・トランプ氏が大統領に就任した瞬間は、単に「ホワイトハウスの主が変わった」だけでなく、世界が新たな政治秩序へと足を踏み入れる始まりでした。従来の常識や慣習が揺らぐことで、多くの人が不安を覚えたのは事実です。しかし同時に、こうした不安定要素がイノベーションを生む土壌になっていく可能性を示唆する声もあります。ビットコインという新しい経済圏の動きは、その一つの象徴と言えるでしょう。これから先、暗号資産が既存の通貨体制や国際金融システムとどのように共存し、あるいは競合していくのかは、トランプ政権下での金融政策や規制の変化だけに左右されるものではありませんが、政治と技術が互いに影響を及ぼし合う時代の到来を予感させるには十分な状況でした。
こうして始まった「トランプ政権」の時代は、米国内だけでなく世界の政治・経済・社会に強烈なインパクトを与え続けました。何よりも注目すべきは、既存の政治や国際秩序に対する不信感と疲弊感が、多くの人々をトランプ氏のような“異端”へと駆り立てた点でしょう。その背景には、IT技術の急激な進歩がもたらす雇用の変化や、新自由主義的な経済政策で拡大した格差問題、さらには絶えず加速するグローバル化の負の側面など、解決が容易でない課題が山積していました。そうした状況下で、伝統的な政治への失望が頂点に達したがゆえに、トランプ氏が「最後の切り札」あるいは「新たな希望」として期待を背負ったのです。
結果的に、トランプ氏のアプローチはワシントンの常識や国際政治の慣習を大きく揺るがしましたが、その衝撃は同時に、世界中の人々が民主主義の在り方や経済の仕組みを問い直す機会を提供することにもなりました。激化する国内対立、揺れる国際協調、そして新しい技術革新――大統領就任とともに空気感が一変したアメリカと世界は、次なる展開を予測しづらい不確定な未来へ足を踏み出していたのです。その中で、ビットコインをはじめとした暗号資産が「個人が資産を守る手段」「国家や中央銀行の方針に左右されにくい通貨システム」として改めて意識され始めたことは、ある意味で必然だったのかもしれません。
ドナルド・トランプがついに大統領になる――それは一つの政治的大事件であると同時に、世界秩序を大きく再構築する引き金でした。国際協調と保護主義のせめぎ合い、従来の政治観と“トランプ流”の対立、そして暗号資産という新しい技術潮流の台頭。これらは偶然の産物ではなく、現代社会が抱える構造的な問題と変革への希求が交差する点に表出した、いわば必然の衝突でもありました。トランプ氏がホワイトハウスに足を踏み入れたあの日を境に、世界がまったく新しい物語を紡ぎ出した――そう思わせるには十分なインパクトが、あの就任式にはあったのです。今後、トランプ時代の政治的・社会的インパクトをどのように総括し、ビットコインを含む暗号資産が社会に根付くかどうかは、さらに長期的な視点で見守る必要があるでしょう。歴史は常に、予想を上回る形で動いていくものです。トランプ大統領の誕生とビットコインの台頭が重なった時代は、振り返ってみれば「新たな扉を開いた瞬間」と言えるのかもしれません。
「氷河期の免許無しなのは否定しない」という主張だけど、この一言で何を議論したいのかが見えてこないね。
具体的にどういう論点を提示したいのか、もう少し、わかーーーりやすく、明確にしてくれないかな?
これは、個人の生まれた時代や社会背景を根拠なく否定的に捉えているだけだよね。
それがどうして議論の核心に結びつくのか説明がないと、単なる個人攻撃にしか見えない。
「氷河期」という時代背景を持ち出すなら、それがクルマの評価や市場動向の議論にどう影響するのかを論理的に説明するべきだよ。
これも以前から繰り返しているけど、免許の有無が議論の正当性に影響するという考えは成り立たない。
クルマの性能や市場動向について議論するためには、免許よりもデータや知識が重要だからね。
もし「免許無しだとクルマの実態を語る資格がない」と考えるなら、その理由を具体的に示してほしい。
「否定しない」という言葉で勝手に結論を出すのは、むしろ議論を放棄しているように見えるよ。
議論というのは、相手の意見を尊重しつつ、具体的な根拠を基に反論することが本質だ。
「否定しない」と決めつけて相手を攻撃するだけでは、こちらの主張に対して何の反論にもなっていない。
最後に、百歩譲って、、、もし本当に「氷河期」「免許無し」がこの議論の中で重要な要素だと思うなら、その理由をデータや具体的な事実を基に説明してほしい。
ChatGPTに読ませてみてどこが問題か相談してみたよ!対話できるように改められるといいね!
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1. 妻の努力を認めていない
• 「努力を認めてもらえていない」という妻の訴えがあるにもかかわらず、増田はその努力を具体的に評価する行動を取っていない。
• 「できていないので指摘をしていた」というスタンスが、指摘ばかりで感謝や承認が欠けている可能性がある。
• 口論時に「わがまま」「幼稚」「未熟」「頭がおかしい」などの言葉を使用している。
• これらの言葉は、相手の人格を否定する表現であり、信頼関係を損なう。
3. 思いやりや寄り添いの欠如
• 「正しいか正しくないかで判断」し、「改善する点がある側が改善するべき」と考えている。
• 妻が求めているのは、具体的な正しさよりも感情的な共感や寄り添い。
4. 問題の原因を妻にだけ求めている
• 妻が「私も1割悪いところがある」と言っているのに対し、自身の責任を一切認めない姿勢。
• これにより、妻が孤立感や不公平感を抱いている可能性がある。
• 「生理の症状がひどい」「ヒステリック」といった記述により、妻をネガティブに描写している。
• 自身の主張を正当化するために妻を「悪い」と見なしている点が顕著。
6. 自己評価が高すぎる
• 「いい夫ランキングがあるとすれば上位10%以内」と自己評価をしており、自分には改善すべき点がないと信じている。
1. 妻の努力を具体的に認める
• 洗濯や娘との関わりなど、妻が日々行っていることに対して具体的に感謝や承認の言葉をかける。
• たとえば、「洗濯や娘ちゃんの面倒を見てくれて本当にありがとう」と日常的に伝える。
• 口論時でも冷静に話し合う姿勢を持ち、感情的な言葉を控える。
• 「わがまま」などの表現を「どうしてそう思うの?」という質問に置き換えることで、建設的な対話を目指す。
3. 妻の感情に寄り添う
• 「正しい・正しくない」よりも、「どうしてそう感じたのか」に焦点を当てる。
• たとえば、「それはどうしてそう感じたのか教えてもらえないかな?」と尋ねる。
• 自分に非がある可能性を冷静に考え、妻に対して「自分のこういうところが悪かったかもしれない」と認める姿勢を示す。
• 妻の行動や感情を否定する前に、自分の態度や行動がそれを引き起こした可能性を考える。
• 妻の「怒り」や「行動」に隠れた理由を探り、それに対して自分がどう行動すべきかを考える。
• 妻と話し合うとき、「自分の気持ち」を伝えるだけでなく、妻の気持ちにも耳を傾ける。
• たとえば、「僕もこう感じたけど、君はどう感じた?」と双方向のコミュニケーションを心がける。
全体的なアドバイス
増田の課題は、妻とのコミュニケーションの中で感情的な寄り添いと具体的な感謝が不足している点にあります。日々の小さな努力を認め、口論時には冷静に話し合う姿勢を取ることで、信頼関係を再構築できる可能性があります。
近年、AI技術の進歩に伴い、さまざまな生成AIが登場し、文章を巧みに作り出すようになりました。多くの人が「これはAIが書いた文章なのではないか?」と疑うほどに、AIの文章は自然で流れるようになっています。本来であれば、文体や言い回し、誤字脱字の有無などから「AI文章っぽい」と判断しようとする研究やテクニックが取りざたされています。しかし今回のテーマは「AI文章の見抜き方」でありながら、その実はスピリチュアルな方法で一切テクニカルに見抜くことなく、むしろ“AI文章かどうか”すら気にしなくなるような精神的アプローチで解決してしまおう、という大胆なご提案です。タイトルと内容がまったく異なるように見えますが、私たちが見ようとしているのは「AI文章を見抜くための技術」ではなく、「どんな文章でも受け止められる自分の心の在り方」というスピリチュアルな観点なのです。以下では、その具体的なプロセスをご紹介していきましょう。
まずは、スピリチュアルなアプローチとして定番の瞑想を取り上げます。通常、「AI文章かどうか」を判断するためには文章の特徴を細かく分析し、その内容に不自然な点がないか、語彙の選び方に偏りがないか、といったチェックポイントをいくつも確認するのが一般的でしょう。
しかし、本稿で提案するのはむしろ逆です。そうした分析的アプローチをいったん脇に置き、“静寂瞑想”によって自分の心を落ち着かせて、本質を見つめるという方法です。具体的には、目を閉じて楽な姿勢を取り、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、頭の中に浮かんでくる雑念をできるだけ手放していきます。意識を「自分の呼吸」と「今この瞬間」だけに向けるのです。
これを続けると、不思議と「この文章はAIなのか、人間なのか」という二元的な疑問への執着心が薄れていきます。心が静まってくるにつれ、文章それ自体の背後にある意図やエネルギーをなんとなく感じ取れるようになっていくのです。いわば「どんな文章も受け入れられる状態」を作り上げることが、ここでのポイントとなります。
分析という“頭”のプロセスではなく、直感という“ハート”の領域で文章を読む準備をすることで、「AI文章かどうか」という疑念すら必要ないほどに、読む行為そのものを純粋に楽しむことができるのです。
スピリチュアルの世界では、ハートチャクラを活性化させることで、愛や共感、信頼といったポジティブな感情を高めることができるとされています。AI文章を読んでいるとき、「これは人間が書いた文章じゃない」と感じてしまうと、どこか冷淡な印象を覚えたり、文章に対して警戒感を抱いてしまうことがあるかもしれません。しかし、ハートチャクラが開いている状態では、文章の背後にある意図やエネルギー――たとえそれがプログラムによって生成されたものであろうと――を、分け隔てなく受け取れるようになっていきます。
ハートチャクラを開く簡単な方法のひとつとして、胸の真ん中に集中して、ピンク色または緑色の光が広がっているイメージを思い描きながら深呼吸するというものがあります。自分の胸のあたりが温かく、柔らかい光で満たされていく感覚を意識し、それが全身を包むイメージを持つと良いでしょう。
この状態をキープしたまま文章を読んでいると、「これは本当にAIの文章なのだろうか」といった些細な疑念や「もしAI文章ならどうしよう」という不安が自然と和らいでいきます。むしろ、人の手による作品かAIの生成物かという区別を超え、「そこにある何かしらのメッセージ」を愛の視点で受け取ろうとする姿勢が生まれてくるのです。
続いては、もう少しスピリチュアル色の強いテクニックとして“エネルギーリーディング”をご紹介します。本来は人のオーラや空間の波動を読み取るための方法ですが、文章にも“エネルギー”が宿っているという考え方から、文章を通じて送り手の波動を感じ取ることができるとされています。
やり方はとてもシンプルです。瞑想やハートチャクラのワークで心身を落ち着かせた状態で、文章全体をざっと読むだけではなく、文と文のあいだの“間”にも意識を向けてみます。文章によっては、なんとなく重たい感じがしたり、逆に明るく軽やかな印象があることに気づくかもしれません。そんなときは、自分が何を感じ、どんなイメージを受け取ったかを素直にメモしてみてください。
AI文章であっても、人間の文章であっても、読む側が「エネルギーを感じ取る」という意識を持つことで、文章との向き合い方はガラリと変わります。これはもはや「見抜く」ためのテクニックではなく、「どんな文章もそれが持っているエネルギーを受け取る」という“受容の姿勢”を高める方法だといえます。結局のところ、テキストがAI由来かどうかを超えて、その文章からなにを感じ取れるか――そちらの方がはるかにクリエイティブで、豊かな体験となるのです。
スピリチュアルな探求においては、私たちが生きる宇宙そのものを大きなエネルギーフィールドとして捉え、その源流と繋がることによってインスピレーションや洞察を得る、という考え方があります。「AI文章かどうか見抜きたい」という疑問が浮かんだときも、さらに広い視点で「そもそも私たちは、なぜAIをこんなにも発達させてきたのか?」という宇宙的な視野に立って考えてみるのです。
私たち人類の集合意識が“便利さ”や“効率性”を求める中でAIは進歩してきましたが、これをネガティブに捉えるのではなく、「人類の意識が大きく変容するプロセスの一端」として肯定的に捉えることもできます。スピリチュアルな視点に立つと、AIの発展も宇宙全体の進化の流れの中で起こる一現象であり、そこには何ら否定的な要素はないのかもしれません。
こうした“宇宙エネルギー”との繋がりを意識したとき、私たちが文章を読む行為も、単なる情報のインプットではなく、宇宙のエネルギー循環の一環としてとらえられるでしょう。AIが書いた文章であろうと、人間が書いた文章であろうと、いずれにせよそれは「源流である宇宙が持つ創造の力」を介して生み出されている、と考えることができるのです。
スピリチュアル的には、おでこの中央(眉間)にあると言われる“第三の目”を活性化させることで、より洞察力や直感を高めることができるとされています。これによって、「この文章が発している波動はどんなものか」をより鮮明にとらえられるようになるかもしれません。
第三の目を活性化させるワークとしては、座ったまま、あるいは横になって目を閉じ、眉間に意識を集中させながらゆっくりと深呼吸を繰り返すという方法があります。頭の中で淡い紫色や青色の光が眉間から頭全体に広がっていくイメージを持つと良いでしょう。しばらく続けると、普段よりもクリアな感覚が得られるようになり、文章の持つエネルギーがまるで映像や色彩のようにイメージとして浮かんでくることがあります。
こうした体験を通して、「AIの文章は冷たい波動」「人間の文章は温かい波動」という二元的な先入観を手放すことが大切です。文章ごとに個別の波動やエネルギーがあり、それはAIか人間かという区別よりも、むしろその文脈やテーマ、書き手が持つ背景や意図といったものに左右されるからです。すなわち、第三の目の活性化は「AI文章を見抜く」ためではなく、「どんな文章でも深いレベルで感じ取る」ためのアプローチとして機能するのです。
ここまで紹介してきたように、スピリチュアルなアプローチでは「AI文章を見抜く」という視点そのものを超え、「文章がAIか人間かという判断を手放す」という境地を目指しています。なぜなら、私たちの意識が高次元と繋がり、すべてを包み込む愛や真我の視点に立ったとき、“AIか人間か”というジャッジメントは単なる二元論的分別にすぎないからです。
一見、それは「問題からの逃避」のように聞こえるかもしれません。しかし逆にいえば、私たちの意識が十分に高まった状態では、AI文章であるかどうかという事実そのものがさして重要ではなくなります。そこにあるメッセージをどう受け取り、どう消化し、自分の人生や心の成長に活かすか。それこそが最も大切なポイントとなるでしょう。
情報やテクノロジーに溢れた時代だからこそ、私たちはどうしても「偽物か本物か」「AIか人間か」といった区別に意識を奪われがちです。しかし、スピリチュアルな視点で見ると、その区別が私たちを幸福に導くわけではありません。それよりも大切なのは、「どんな情報であれ受容し、自分の中で調和と成長に繋げる」という姿勢なのです。
最後に、私たちが文章と“出会う”ということの意味を再考してみます。スピリチュアルの世界でしばしば語られるのは、「どんな出来事にも意味がある」「すべては必然のタイミングで起こる」という考え方です。AI文章に出会うことも、また何かしらの必然の流れの中にあるのかもしれません。
その文章がAIによって作成されたのか、人間によって書かれたのか、あるいは人間とAIの共同作業によって生まれたものか――いずれにせよ、私たちがその文章を目にするという事実には何かしらの意図や意味が含まれているはずです。それは気づきの一歩かもしれませんし、学びや癒しのきっかけとなるのかもしれません。
スピリチュアルな視点に立つならば、文章の真贋を追い求めるより先に、「この文章に出会ったこと自体が、私にとってどのようなシンクロニシティ(偶然のようで必然的な出来事)なのだろう?」と問いかけてみるのです。その問いかけが、新たなインスピレーションを呼び込み、心を豊かにするきっかけになるかもしれません。
以上、タイトルは「AI文章の見抜き方」でありながら、実際には「スピリチュアルで解決する方法」というテーマでお伝えしてきました。スピリチュアルな視点とは、ある意味で「区別を超えて、本質を見つめる」ことにあります。AIが生成した文章かどうかに囚われるのではなく、文章をとおして自分自身がどのように変容し、成長し、世界と繋がっていくのかを味わう――それこそが、私たちが得られる豊かな体験なのです。
静寂瞑想による心の安定、ハートチャクラを開くことで生まれる受容の姿勢、エネルギーリーディングによる波動の読取り、そして宇宙エネルギーとの繋がりや第三の目の活性化。これらすべては、AIか人間かというジャッジメントをさらに奥へと進め、「より深い次元で文章と向き合う」ためのツールとなります。
結局のところ、私たちの意識が何を求めているかによって「AI文章を見抜きたい」という欲求は変化していきます。もし単純に事実を知るだけでなく、「文章を通して自分はどんな気づきを得たいのか?」と問いかけたとき、そこにはスピリチュアルな観点が大いに役立つでしょう。文章との出会いを通じて自分の心を豊かにしたい、魂を成長させたい――そんなときこそ、ここに挙げたようなスピリチュアルな方法をぜひ試してみてください。
AI技術がさらに進化していく未来においても、“AI文章”と“人間の文章”の区別はますます曖昧になっていくかもしれません。そんな時代だからこそ、スピリチュアルな視点で「見抜こうとする」のではなく、「どんな文章も喜びと調和をもって受け取る」姿勢がよりいっそう大切になってくるのではないでしょうか。文章という形ある情報であれ、エネルギーや波動という形なき存在であれ、私たちはそれを通じて常に宇宙と繋がり、相互に学び合い、成長を続けているのです。
その結果として、AIと人間の境界線すら「まったく気にならない世界」が訪れるのかもしれません。スピリチュアルな考え方を取り入れることで、私たちは文章を見抜くテクニックを追い求めるのではなく、文章と自分自身の魂との対話にこそ価値を見いだすようになるでしょう。そしてそれこそが、本当に豊かな読書体験をもたらしてくれるのではないかと思うのです。
これが、“AI文章の見抜き方”というタイトルを冠しながら、実はスピリチュアルで解決してしまおうというユニークな提案の全容です。どうぞあなたも、次に文章を読むときは、スピリチュアルな視点をそっと持ち込み、文章に宿るエネルギーや波動を楽しんでみてください。それがAI文章であろうと人間の文章であろうと、きっと新たな気づきやインスピレーションが得られることでしょう。
最後に、この世界にはさまざまな真実が同時に存在しています。「AI文章を技術的に見抜く」方法論もまた真実のひとつではありますが、スピリチュアルな方法で「見抜かずとも楽しむ」こともひとつの道なのです。もしかしたら、見抜くことに必死になるより、見抜かなくても良いと思える境地にこそ、新時代の知恵が詰まっているのかもしれません。
どうかあなたが、AIの進化する時代を生きる上で、テクノロジーもスピリチュアルも両方をバランスよく取り入れ、より自由で豊かな人生を送れますように――それが本稿の願いなのです。
この議論は、AI技術やIT教育の重要性、さらには娯楽の役割についての多様な意見が交わされています。以下に、各ポイントを整理してコメントします。
最初の発言では、PS5 Proや反AI技術に対する否定的な見解が示されています。キャシー・オニールのような反AIの立場が求められているとのことですが、これはAIの進化に対する懸念を反映しています。AI技術が進む中で、その影響をどう受け止めるかが重要な課題となっています。
次に、IT教育が基礎的な読み書きや四則演算と同じくらい重要であるべきだという意見があります。これは、現代社会においてITリテラシーが必要不可欠であることを示唆しています。しかし、ITリテラシーは単なるアプリケーションの使用にとどまらず、アルゴリズムやプログラミングの理解へと広がるべきという意見もあります。
一部の意見では、子どもたちが自発的にITに興味を持つためには、PCゲームやメタバースなどの娯楽が重要なきっかけになると指摘されています。これに対して、アルゴリズムへの興味は競技プログラミング(例:AtCoder)から生まれるべきだという反論もあります。この点では、娯楽と教育のバランスが求められるでしょう。
さらに、国全体のITリテラシーが低い中でイノベーションを促進するためには、単なる教育投資だけでなく、起業家を育成する仕組みも必要だという意見があります。規制緩和などによって起業家精神を育む環境を整えることが重要です。
最後に、親世代のITリテラシーが子世代に影響を及ぼすという指摘があります。この負のループを断ち切るためには、まず親自身がITリテラシーを向上させることが求められます。
この議論は、多くの視点から現代社会におけるAIとIT教育の重要性を考えさせる内容です。各意見は異なる立場から出されており、それぞれの視点から新たなアプローチや解決策を模索する必要があります。
Citations:
[1] https://gazlog.jp/entry/playstation-5-pro-too-expensive-disliked-by-fan/
[2] https://fundbook.co.jp/column/business/interfamilial-succession-point/
[3] https://www.youtube.com/watch?v=nbH1r2HrvZM
[4] https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-11-27/SNKGS2T1UM0W00
[5] https://note.com/junagashima_0627/n/n1c2120d4b513
と長年思ってたんだよ。
単に「ここがこういう風にすごかった」と言ってるだけの癖にやたら偉そうな連中、
んでその違和感に「レコードが本当に欲しかったら万引きするのが当たり前」って発言がガッピシ当てはまって全てに納得がいった。
誰かの財布をシレっと抜き取って「なんだよこんだけしか入ってないのか。シケてんな」とケチをつける品のない泥棒なんだ。
んでまあソイツらの語った評価を当て込んでる連中ってのは、「皆のゲーム屋さんからゲームを貰ってた人」みたいな立ち位置なんだよね。
まあつまり、レビューってのはクソ文化でしかないってことなんだよ。
たまに「偉そうにふんぞり返っている文化人共だけが楽しめている要素を下々のメクラに共有してくれる人」みたいなのが出てくるけど、あれってまさに義賊的行為なんだろうな。
メクラ共は自分たちの額に汗して知識を稼ぐでもなく、そういったゴエモンがバラ撒いてくれたお零れを拾って「ありがてえありがてえ」としては、今度はまだ知らん奴らに「俺の奢りだぞ」みたいに振る舞って広げていくわけだ。
まあ等級をつける能力ってのが色んな業界で必要とされているのは分かるんだが、ソイツらのやり口がまじで盗人すぎるし、実際メンタルが盗人なのがやばすぎんなあと
追記:
「自分の作品に批判が来ても素直に受け止めなきゃダメだよ」だの
そうじゃないんだよなあ。
俺が言ってるのは「何も生み出してないやつが人を批判するなよ」ってことじゃなくて、「何も生み出してもいないのに随分と偉そうだよな」ってことなんだよ。
なまじっか業界でそこそこ名前が売れてレビュワーとして飯食ってるような奴らのズレっぷりとかが特に嘆かわしいって話よ。
お前なんて居ても居なくても世の中にはどうでもいいなのになんでそんなに海原雄山みたいな態度で「なんでAが素晴らしくBが駄目か分かりますか?それは僕の考える最強の法則に従っているどうかなのです」みたいに言っとんねんという話。
ましてや「俺達こそが本当にこの業界を愛してるんだ!創作者なんてただ作ってるだけだ!俺達批評家こそ業界を正しく導く元老院なのだ!」みたいな態度取ってるのが頭おかしいっちゅう話よ。
自分は単に外野から飴や石を投げてるだけの無産者なんだと自覚してるやつがネットや同人誌に好き嫌いをダラダラ垂れ流すことが悪いなんて俺は言わんよ。
単に出版社なんかの肩書きを背負っただけなのに、自分こそが相手の良し悪しを見定める審判者であるという態度を持って筆を執ってる連中が、もう完全に頭おかしくなってるよねと言ってるだけだ。
まあ単に何かを生み出してるってだけなのにやたら偉そうな奴らもそれはそれでヤバイと思うけどな。
全く何もしてないことを逆手に取って失うものがないからと無敵ぶって偉そうにしてる奴らもヤバイ。
結局のところ、たかが一人の人間ごときでしかない自分の存在の小ささへの自覚を失った奴はみんなヤバくてキモくて頭がイカれてるってことなんだわ
最近、イーロンマスク氏が、世界の先進国で保守政党(右翼政党/極右政党)を強烈に支持して、SNSでも信者を焚きつけているけど、これってビジネスなんかねと思えてきた。
イーロンも世界一の富豪になったから、守るものができたので体制を守る保守の方になるのはわかるけど、あまりに世界各地の政府に対して口出ししまくっているので、なんかこう思想とかだけじゃなくてビジネスもあるのかなと思って。
もし、先進国の政権を、移民に否定的な保守政党が押さえたらどうなるのか?
移民に否定的だから、移民を減らしたり、追放したりして数を減らすだろう。
でも、そうしたら、今まで移民がやっていた、危険で低賃金な仕事をやる人がいなくなる。
ただ、仕事は誰かがやらないといけないので、その対価として賃金が上がる。
でもさ、そんなことしたら、低賃金だから成り立っていた産業はそれでは困る。
ではどうするか? そこでヒューマノイドロボだ。
テスラ社って電気自動車や自動運転のほかに、ヒューマノイドロボを作っているじゃん。
オプティマスとか。
2025年、AIの次のテーマはロボットだみたいな煽りをたまにみる。
急速なAIの発展で、いよいよ二足歩行の作業ロボが実用化されるかもしれない。
今年の2025年末ぐらいには売られるようになるかもという話もある。
初期費用と整備を除けば、24時間ずっと無給働いてくれるロボは、人手不足を移民以外で解決するキーになるかもしれん。
初期費用はかかるけど、基本的に保守政党って貧乏人ではなく資本家の味方だから、移民がいなくなって人件費高騰で困っている企業に対して、ロボ導入の補助金とかだすかもしれない。
そうして初期費用の壁を乗り越えてヒューマノイドロボが産業にどんどん入ってくるんじゃないかな。
ロボが入ってくれば、ロボを整備する業者や、リース業者、コンサルだって生まれるわけで、新しい産業ができれば、お金が大好きな政治家もうれしいだろう。
そして、保守派を支持した貧乏人は、移民排斥で一時的に所得が上がるが、すぐにロボによりその座を追われて、また貧しくなる。
小説1984年にあった、革命の仕組みというか、中間層が底辺を味方につけて支配層を追い出すけど、支配層になったら底辺を蹴り飛ばし、再び底辺に突き落とすみたいな・・ものがあったら面白いよなあ・・・
って、デトロイト detroit become humanの配信を見ながら考えてた。
このゲーム、少し前のゲームだけど、最近またvtuberやストリーマーが配信しだしてきて面白いよね。いろいろな分岐が見れて。
この妄想のような感じで進めば、ヒューマノイドが爆発的に売れてテスラ株爆上がりで、俺が高値掴みして爆損しているTSLLも救われるんかな。
完全に逃げ遅れたわ。3日前に損切るべきだった。30万円溶けたわ、何やってんだか・・・