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「役所」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 役所とは

2025-01-17

anond:20250117142623

結婚の時には役所にどっちかを選択して登録するんだよ。

子供の姓どうすんだ?問題解決していて

親の都合ではなく、大人になった後に受け継ぐ姓を自分選択的に決めれるんだよ。

結婚しなくても両親のどっちかの姓を選択的に使えるし。

男だけど結婚名字変更して楽しく生きている

後悔は無いし、むしろ人生が楽しくなった。

個人的には「合法的名前が2つ使える」という、非常に厨二っぽい満足感をもって生活している。

生活上の不便は特にない。

免許マイナンバー旧姓併記がされるので、どっちの名前生活しても通用する。

(旧姓を名乗っても特に何も言われない)

銀行口座旧姓併記的な扱いができる(旧姓宛の振り込みをそのまま受け付けてくれるので、仕事先に言う必要がない)。

特に自分個人事業主からというのもあるが、仕事周りは旧姓私生活は新姓と分けることで、気持ちの切り替えもしやすい。

妻は姓について「どっちでもいい」というスタンス

ならば、会社勤めの妻より個人事業主自分の方が時間自由が利くので、名字を変える際の面倒事を受け入れやすいと思い、自分名字を変えた。

屋号を使えば前述の「合法的名前を2つ持つ」が実現できるし、気持ちメリットもある。

お互い、自分名前特にアイデンティティを感じていないので、気楽に過ごさせてもらっている。

(それはそれとして、「同じ名字になった」現実についての愛情だの愛着だのはある)

とはいえ、本人たちが合意していても、双方の家族共に「なんで?!」という反応は受けた。

自分の両親は夫婦別姓までは想定していたっぽいが、まさか息子が名字を変えるとは思っていなかったらしく、母親が「私も名字変える!」とか言い出した時はどうしたものかと思った。

また、妻の兄弟からは「ウチに遺産なんかないぞ!」と裏で言われていたらしい。

実際のところ「なんか名前二つ使えて楽しそう」「会社勤めな妻のストレスが減るのが嬉しい」という理由がメインで名字を変えたので、そんな深読みをさせてしまったのは申し訳なく思っている。

尚、男性側が姓を変えて感じた事として、「色々な書類名字を書き換える」事に対する同調圧力が恐らく女性のそれより緩い。

これも自分名字を変えた理由の一つだ。

銀行口座結婚後数年経って書き換えに行っても「あ、そうなんですね」で済む。

そんな感じで数年かけてゆるっと色々書き換えていったが、記憶にある限り「名字変わったなら早く書き換えてください」と怒られたのは確か一回だけ、それもなんかのショップの瑣末なポイントカードの時だった気がする。

裏でDBも作ってないような紙のポイントカードで怒られたのは、未だに釈然としていない。

勿論、名字を併用する面倒ごともある。

例えば旧姓名義のクレジットカード更新

書留だか配達記録郵便だかで送られてきたが、当時まだ免許証もマイナンバー旧姓併記版にしておらず、配達員さんに対して旧姓と同一人物であるという証明ができず、持ち帰られてしまった。

仕方ないので最寄りの免許センター運転免許書き換えの必要書類を聞くと、「旧姓が分かる住民票」が必要と言われる。

それならと役所住民票取りにいくと、なんと旧姓が書かれていない。

住民票旧姓記載するためには、本籍地に行って戸籍謄本を取ってくる必要がある。

これが分かった時点で、その日は一日たらい回しに使う事を決心し、本籍地役所戸籍謄本取得→現住所の役所住民票更新警察署免許証に旧姓追記郵便局で受け取り申請までを一日でやった。

…のだけど、郵便局でのこういうケースが相当なレアケースらしく、最後郵便局で職員さんが奥に引っ込んでぜんぜん出てこない。

たぶん方々に確認したり裏で擦ったもんだしてくれたであろう結果、確か30〜40分後に更新版のクレジットカードを受け取れた。

マイナンバーカードでのコンビニ手続きがもう少し整備されると、こういう時嬉しいなと思う。

この時は、コンビニでの戸籍謄本の取得は色々面倒があり、できなかった。

あと印象に残っているのは、税務署名字の変更申請をしようとしたとき

どうも前例が無いらしく、決まった書式も存在しなかった。

曰く「そういう人はみんな旧姓のままか、しれっと名前書き換えて出してますよ」とのこと。

ちなみに名前を書き換えて出すとシステム上は別人扱いになり、過去の申告内容との紐付けはされないらしい。

(まあ管理番号があるし、それこそ今はマイナンバーも紐付くので、完全別人扱いってこともないとは思うが)

尚、最終的に何かの裏紙に旧姓と新姓を書いて、窓口の人に書き換えてもらった。

自分自身名字にこだわりがなく、且つそういうマイナートラブルを「なるほどそういう扱いになるんだ!楽しい!」と燃えしま性格なので成り立っている面はあるけれど、特に女性で「結婚したら書類は一斉に書き換えるのが当たり前」という同調圧力の中でこういったマイナートラブルに遭ったら面倒くせえだろうなとは感じる。

「家」の縛りが緩くなってきたこ時代に、夫婦別姓を望む人が多くなるのも当たり前だと思う。

なので、ここまでの話はそれはそれとして夫婦別姓もちゃっちゃとやればいいのにとは思っている。

生活ストレスは少ないに越したことはない。

自分場合は「現行システム上は男性側が名字変えた方が総合的に二人のストレスが低くなって結婚生活が楽しくなる」という見込みで変えたのであって、最初から夫婦別姓公式に選べるならどうしたかからない。

姓を変えたければ変えればいいし、変えたくなければそのまま生活する。

よく夫婦別姓の反対意見で言われる「子供が不幸になる」という意見シンプルに傲りだとしか思えない。

現時点で多数派である夫婦同姓の家で育った子供に「夫婦別姓をどう思うか」なんてアンケート取ったらネガティブな回答が多数派になるに決まってる。

その状況でポジティブな回答をする子供がいたら逆に達観しすぎてて怖い。

そういうニュースを見るたび「自分たちは別姓の夫婦差別するよ」と暗に予告する、人としての程度の低さが見えてちょっと嫌。

別姓の夫婦が増えたらみんな「普通」に昇華されるんだから、黙ってればいいのにね。

2025-01-15

anond:20250115113841

臓器提供意思表示カードみたいに、AED意思表示カードみたいなもんを普及させればいいんじゃないかと思う。

すでにこの主旨のグッズが出回りつつあるみたいだが、

あなた意識が無く意思表示できないときに速やかにAED処置を受けるため、救護者の容姿性別にかかわらず、救護者が必要判断した場合にはあなた上衣を脱衣することをあらかじめ許可しますか?はい/いいえ

・いいえを選択した方はその事によって救護時にAED処置が遅れる可能性があり、その際は後遺症や死亡のリスクが高まりますが、AED処置が遅れることについて救護者への異議申し立て無効となることに同意したものします。

とか文言を工夫して、必要なら法律も調整して、カード役所が全世帯に配布すべきだろうな。

2025-01-14

anond:20250114195429

明日もう一回役所行って離婚届もらってこようかな

そうしなさい

食い尽くし系夫を説教したら逆ギレされていま家庭内修羅場

夕飯の席でガチ喧嘩してしまった

何なら離婚するかも

元々食い尽くし系の素質があったうちの旦那大皿料理一品出したら平気で半分以上食べるので最近はそれぞれ別個の皿に盛るようにしていた

だけど今日の夕飯は餃子で、流石に個数が分かれているものなら大丈夫だろうと思って20個を円盤型に焼き上げて大皿に乗せたんだよね

そしたら旦那普通に1112個とこちらの分まで箸を伸ばしてきやがったので流石にブチギレよ

そもそも今日役所手続きがあって午後休を取っていて、家に帰ってもまだ時間的に余裕があったか気合いを入れてわざわざ手包で作り上げたんだよね

その努力を無下にされた怒りもあったし今までの積み重ねもあったから強い口調で、

「食い尽くすのをやめろ、ちゃんと数えて食え、どう考えてもひとり10個だろうが、そもそも円盤提供されてんだから自分の分がいくつかも視覚にわかるだろ、半円ってご存知?小学校で習わなかった?」

ガチ説教したらまぁ案の定逆ギレ開始よ

色々と口論になったんだけど、旦那の主張としては概ね、

そもそも大皿提供されている時点で早いもの勝ちの論理が働く

・そんなに半分ずつにこだわるなら別個の皿に盛ればいい

・事前に「ひとり10個だよ」と言ってくれれば大皿であっても数えて食べる

・それを怠った怠慢を棚に上げて偉そうに言うな

もっと早く食うなり自分の分をあらかじめ分けておくなりすれば?

とのことだった

論点がズレてて本当に頭にくるんだけど、そもそも私は別に餃子10個残しておいてくれなかったことそれ自体に怒っているのではない

人として最低限の気遣いもできないその傲慢さに腹を立てているんだよな

普通大皿提供されたら「ひとり何個かな?」「相手の分はいくつかな?」って思考が働くところ、この男はアスペ気質なのか何なのか周りのことを考えられない

いつも気が利かない、いつも杓子定規

自分勝手に判断し周りの気持ちをかけらも察さず思いやりの心も持ち合わせていないその傲慢さに心底腹が立って、

「一度精神病院アスペかどうか見てきてほしい。障害者介護と思えばまだ優しくなれるけど自分勝手なだけのクズに対しては優しくなれないよ」

と言ったらもう旦那もブチギレよ

じゃあもう飯なんかいらねぇよ!って机をぶん殴りながら怒鳴ってそのまま外に出ていきやがったのが30分前のこと

もうこっちも冷静じゃないわ

明日もう一回役所行って離婚届もらってこようかな

ほんとなんで子供インフルエンザワクチン接種は国や行政が推進しないの?

の子インフルエンザ罹った。下の子は5歳以下で重症リスクが高いのでワクチン接種していたが、小学生であるの子はやってなかった

全部言い訳なんだけど、2回も病院行くの面倒なのよ。土曜やってるとこもあるけど普通患者も入り混じって待つし、ワクチンのために休むとかすれば良いけどそこまでって思うし

そもそも時間のある高齢者はいつでも病院行けるのに役所とかで集団接種するのに、子供は親が時間作って病院の空いている時間に行かないといけないのは納得がいかない

別に価格問題じゃなくて時間問題で、いっそ市とかが土曜に子供限定ワクチン接種会とかしてくれれば行くのよ。土曜に空いている病院行くのと何が違うの?って言われるだろうけど、なんか不思議とこっちの方が行く気がおきる

たぶん在庫とかお金とか2回接種とかの問題なんだろうけど、多少高くても領収証出してこの日に行けばワクチン打てるって安心貰えれば行くよ

親なら普通休み取ってでも接種行くでしょとか言われるのも覚悟の上だし、妻を専業に出来ない年収6~700万の愚痴だと思って。

2025-01-13

anond:20250112145907

今時は精神科も初診まで数ヶ月待たされるよ

それより児童相談所じゃないの?

市役所ホームページ市長宛てのご意見欄に書くと、すぐ職員が飛んでくるなんて話もTwitterで見た とにかく先生じゃなくて役所担当者を片っ端から当たってくれ 

anond:20250112145907

役所に駆け込んでください。家庭児童相談室があるから、つらい状況全部話してください。児相に繋いでくれると思います児相の一旦預かりも自治体によっては受けてくれます友達はそれで1年間養護施設乳児自分の子を預けていました。とにかく今のままじゃどうにもならないから、自治体頼ってみてください。使える支援サービスを教えてくれ、一緒に整えてくれます

anond:20250112145907

お疲れさま。大変な思いで懸命に頑張っているんだろうと想像する。

増田自身が、一人になって気を張らずリラックスして休める時間がない、それは相当につらい事だろうと覆う。

配偶者義実家に頼るのが選択肢の一つではあるけれど、同時に、近しい人の場合増田の心情に寄り添うよりもその人たち自身の思いだとか考えを、遠慮なくぶつけられてしまう恐れもあるかもしれない。

から、より安全なのはカウンセラだとか心理士、そして行政の人。

保健所役所支援課にいる人たちは、増田のように苦しんでいる母親と接してきたプロフェッショナルで、増田の話をゆっくりと聞いてくれるし、その話をする間、子供の面倒もきっとどうにかしてくれる。

(ごめん、ここは断言できないけど。でも必要な筈だし見てくれる筈)

時間をかけて、ゆっくりと話を聞いて、共感も示してくれて。そして、この後増田可能な&必要な行動の選択肢も示してくれるんじゃないかな。

継続的支援も、勿論前提としてくれるだろうし。

こうして文面に起こせているんだもん。それを見てもらえば増田がどれだけ頑張っているか、今辛いか、伝わると思うし。

増田には問題解決する力がある。

とにもかくにも

かい飲み物時間をかけて飲んで、広いお風呂で体を伸ばして・・なんて言葉をかけたいけど難しいよね。ごめん。

ネタバレ感想映画ロボットドリームズを見ました

私の好きな人たちがオススメしてくれたので、気になっていた映画ロボットドリームズを見たのですが、私個人の好みの話をするとかなり苦手な作品でした。とはいえ、とても考えさせられる物語でもありました。

作品に関して思うところがかなりあるので、ネタバレ全開で思ったこと書かせてください。全て書くと取り留めのない文章になってしまうので、

ドッグの非力さ、能力の低さ、不器用さ】
ロボットをどう捉えるか】
ラストシーンに関して】

この3点を中心に焦点を当てて書いていきたいと思います

ドッグの非力さ、能力の低さ、不器用さ】

これがもうね、見ていてつらい。本当に。具体的には、

①壊れたロボットを持ち上げようとするも叶わず、後日助けることにする

最初はあまり深く考えずに見ていたため、ロボット動物たちには決して持ち上げられないくらいの重量があるのかと思っていたのですが、よく考えたら物語冒頭の配達員や、ジャンクヤードのワニがロボットを軽々運んでいるところを見ると、決してどうやっても運べない重量という訳ではないんですよね。あの世界では種の違いによるものなのかもしれませんが、ドッグ動物たちの中でも身体的に優れているとは言えなかったため、友人(あるいは恋人)の危機に際して最善の方法をとることができなかった。

②ビーチの錠前破壊不法侵入を犯して捕まった後、ロボットの即時救出を諦める

錠前を壊す以外に最低でも2つの侵入方法があったことが作中でわざわざ明示されています。それを教えてくれたのは、海から漂着した海兵?たちと、下水道をこじ開けて侵入したスカベンジャーです。なので、「この物語あくまコミック調のフィクションから錠前を壊して侵入する以外ロボットの元へ行く方法はなかったんだよ~」となどという意見は悲しいですが通用しません。一度捕まった後も、ロボットを助ける方法複数あった。けれど、ドッグはそれをしなかった、またはそれらの方法想像、あるいは実行できなかった。

まあ、これがもし普通映画だったら、ドッグは諦める前に「必ず君を助けにくるから!」とロボットに声をかけるんでしょうが、この辺りはセリフのない映画面白さではありますね。「6月1日ロボット救出!」はあくま自分が掲げた目標しかなく、ロボットと交わした約束ではなかったわけです。

自分の心の隙間を一時でも埋めてくれたダックに、会いに行こうとしなかった

舞台はおそらく80年代マンハッタン。ダックの引越しであるヨーロッパへ行くことは簡単ではないかもしれませんが、不可能ではない。ですがドッグは作中その選択はせず、他者との繋がりを得るためもっと手っ取り早い方法をとった。会いに行くとまではいかなくても、せめてダックに向けて手紙を返すシーンみたいなものがあったらまた印象も違ったとは思うのですが。それと、ダックや他者とのコミュニケーションきっかけになったゲイラカイト釣り、そしてソリですが、どれを取ってもドッグは不出来・不慣れなんですよね。これも見ていてつらい。作中どこをとってもドッグ他者比較して明確に優れているな、という点が見つからないんです。もちろん、他者比較して優れているところなんてそんなものなくたって動物(人)は愛し愛されるべきだとは思うのですが、それでもドッグは(これは本当に私個人感想なんですが)不出来で何をやっても上手くいかない過去自分を見ているようで何だか胸が痛くなりました。また、私の兄弟は、「可愛い絵柄だから見れたが、これが実写映画だったらもっとジメジメして見ていられなかったと思う」と言っていて、確かにその通りだなと感じました。ドッグというキャラクター風景作画がとっても可愛く、音楽演出も明るいため見落としそうになりますが、これを全て人間に置き換えたらそれはもはや悲劇だなと...

ドッグラスカルの対比

ロボットの二人目のパートナーと言えるラスカルは、ドッグ比較して様々な面で優れている描写があります。いくつか例を挙げると、ドッグよりもロボット工学精通している、普段冷食ばかり食べているドッグに対して、ラスカルは朝パンケーキを焼いたり屋上バーベキューしたりと料理が得意な描写がある、ゲイラカイトや二代目のロボットを買う際、値段を見て安いもので済ませてしまドッグに対して、ラスカルは大きなビル屋上や一室を自由に使っていたり、壁の塗装を行ったりと、マンションあるいはホテルオーナー(≒裕福)だと思われる描写がある etc...

ドッグラスカルと同じかそれ以上に機械いじりに長けた人物だったら、ロボットが壊れた際その場ですぐに修理なり応急処置なりをすることもできたかもしれない。

あとなにより終盤の花火のシーンでラスカルロボットビル屋上からバーベキュー片手に花火を見ているのに対し、かたやドッグティン(二代目ロボット)は橋の下サンドイッチ一枚食べながらそれを見ているのがなんだが残酷すぎて嫌な気持ちになりました。もちろん、大事なのは「何をするじゃなく誰とするか」「何を食べるではなく誰と食べるか」だとは思います。でも、わざわざ2組の境遇にこれでもかってくらい対象的に差をつけているのがこの作品意地悪なんですよね。「幸せの形は人それぞれなんだから別にいいじゃーん」と言われたらそれは本当その通りなのですが、じゃあ「他に人や遮る建物もないビル屋上バーベキューして好きな音楽聴きながら花火を見るのと、他にも人がいるなか橋の下サンドイッチ一枚食べながら花火を見るの、どっちがいい?」って聞かれたら、そりゃあ前者を選びますよねっていう。

他者に対する無自覚暴力

ハロウィン無関係子どもに当たる、喧嘩を売ってきたアリクイに仕返しをする、ロボットにとって危険である海に二度もロボットを連れていくなど、ドッグ内面も未熟であることが端々から見てとれますもっとも、未熟なこと自体は悪ではなく、そこから成長していく物語というのは昔から現在まで創作基本的アプローチとして広く使われてきたテーマではあります。ですがドッグには作中精神的な成長が見て取れなかった。もちろんこの作品のメインテーマが成長ではないことは重々承知していますが、でもこれやっぱ、かなりしんどいんですよね。何かしらの成長や前進があって欲しかった。ロボットは長い夢を通じて精神的成長をしたともとれるお話でしたが、ドッグは何か問題に直面した際にいつも場当たり的でインスタント対処を続けてきたので、きっとこの先も似たような失敗や別れを経験してしまうのではないか、とか憂慮してしまます。まあそうやって失敗や別れを繰り返すのもまた人生ケセラセラ、みたいな話なのか?違うか。

ドッグも行動力が無いわけではないので、「ならどうしてこんなに孤独なんだろう」と途中までは思っていましたが、段々彼の行動に違和感を覚えるところが強くなっていきました。ドッグ第一主人公と言っても過言ではないと思いますが、彼に感情移入してしまうと中々にしんどかったです。6月1日ロボットを探す際、周囲に止められるまで穴を掘り続けるシーンとか、良いところももちろんあるんですけどね。ドッグは彼なりに出来ることを精一杯やっていたんだと思います。でもそのやり方とか判断、彼の能力が、作中の他の登場人物より拙く描写されていること、またロボットを助ける方法がないわけではなかったと明示されているのがこの作品残酷だなと思いました。ロボットとの別れがの原因が不慮の事故とかだったらここまでモヤモヤしなかった気がします。

ロボットをどう捉えるか】

ロボットは作中では動物たちと同列の命としては扱われていません。私はロボット動物たちと同じ命だと思っていた(思いたかった)のですが、この点に関してはこの作品シビアな部分の一つで、結構残酷描写が多いです。絵的に分かりやすいシーンで言えば、ロボットの足を切断する海兵?や、ロボットスクラップにするジャンクヤードの人たちでしょうか。子どもロボットを叩いて虐待しているようにも見えるシーンもありましたね。でも、それだけでなくドッグラスカルも彼らほどではないにせよ身勝手な行いをロボットに向かってしているなと私は感じました。例えば、ドッグは泣く泣くロボットをビーチに置き去りにしたわけですが、もし仮にこれがロボットではなく他の動物、例えばドッグの子どもだったらどうでしょうか。彼はどんな手段を使ってでも子どもを助けたでしょうし、ビーチの警備員役所の人もビーチに入れてくれないなんてことは起こらなかったでしょう(これはあくまで仮の話なので、「ドッグはどう見ても独身だろ」とかいう分かりきった低次元ツッコミは勘弁願います)。何が言いたいかというと、要はドッグ相手ロボットから一旦諦めたし、警備員も置かれているのがロボットだったからビーチに入れてくれなかったのです。ここからも、作中のあらゆる動物ロボットを物として扱っているのが見て取れます海兵?たちはロボットの足を使って舟の穴を埋めていましたが、ドッグ自身の寂しさを埋めるためにロボットを利用していたという点で両者は同じ穴の狢だなと思いました。

また、ラスカルについてはロボットに対してもかなり良心のある人物として描かれてはいますが、自分の好きなようにロボット身体を改造し、自身プレイリストロボット身体に忍ばせるのを良しとしていたりと、見方を変えれば猟奇的とも言えなくもない行動をとっていました。ロボット目線で考えると、動物たちのエゴに振りまわされ続ける話と言えなくもないんですよね。この辺りに気持ち悪さを覚える人と、「ロボットあくまロボット」と割り切れる人でこの作品感想は大きく変わってくるのかなと感じます。たしかに、ロボット通販番組商品であったように、動物たちから見てロボットあくまで寂しさを埋めるための道具でした。だから平気で1年間放置するし、壊れたら好きなように修理するし、新しいものを買ったりもする。でも、ドッグロボットに感じていた友情愛情は嘘ではない。人間ロボットの違いについて考えさせられますね。

ラストシーンに関して】

長い夢を通じて一人になることの辛さを知ったロボットは、自分が今ドッグと再会してしまったらティンやラスカルはどうなってしまうんだろうと夢想して、再会しないことを選択した(と私は解釈した)のですが、美談のように見えてこれも辛くて。これ、逆だったら良くある話だと思うんですよ。『ドッグが偶然街でロボットを見かける。声をかけたい気持ちは当然ある。でもロボットの傍らには新しいパートナーと思しき人物が。そして自分の隣にも今は新しいパートナーがいる。もうあの頃に戻ることは出来ないけれど、今はせめて一人踊ろうか』って。これだったらそこまでモヤモヤした気持ちにはならなかったと思います。なんだかちょっとバタフライ・エフェクトみたいですし。この場合の再会しないという選択は、ドッグにとっての贖罪でもあり成長でもありますから。でもこれ逆なんですよ。「自分”が”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人の幸せを願う」のと、「自分”を”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人のことの幸せを願う」のって、天と地ほどの差があると私を思います後者は並の精神で出来ることじゃないですよ。「まぁそれはロボットから…」って言ってしまったらそれまでかもしれませんが。ロボットには何も悪いところなどなかったのに、この結末は正直あんまりだなと。いや、ロボットがこれで良いと思っているのなら、それがロボットにとってのベストなんでしょうけども。ああ、上手く言語化できない。

ちょっと別の作品を例に出しますが、映画トイストーリー3」では、ロボットと同じように、本意では無いものの持ち主に置いていかれたロッツォというキャラクターがいます。ロッツォは何とか持ち主の家まで辿りつくことが出来ましたが、家の窓を覗くとそこには既に新しい『ロッツォ』を買ってもらっている持ち主の姿がありました。持ち主に捨てられ、帰る場所を失ったロッツォは歪んでしまい、ヴィランとなってしまうのです。帰る場所の有無という違いはあれど、私はこのロッツォとロボット境遇が似ているなと思いました。なので、持ち主を許すことができず全てを憎むようになったロッツォに対して、同じく捨てられた側であるロボットが全てを赦す(というとあまり言葉が正しくないかもしれないですが)という彼(彼女)の精神が、あまりに高尚すぎるなと感じました。私からすると、悲しみと怒りのあまり反転してしまったロッツォの方がまだ理解できるんですよね。もし私がロボットだったら、きっとドッグを恨み続けてしまうことでしょう。何と言いますか、ロボット遊戯王ZEXAL主人公九十九遊馬くんかの如く菩薩メンタル天元突破でシンギュラっているのに対して、ドッグは前述のとおり殆ど成長が見られないのがかなりグロテスクに感じます...。防水型のロボットより手軽で安価ロボットを買って、ロボットを二度も海に連れて行くシーンなんて正にそうですよね。「ロボットがまた壊れてしまうかもしれない」よりも「誰かと海に行きたい」という自身欲求を優先しているあたり、過去経験から学びや成長をしていないのがしんどくて。いや、潤滑スプレーを散布しているあたり一応前回よりほんのちょっとだけ進歩はしているんですけれども。でもその一歩が本当に小さすぎるというか何というか。このように終盤になってもドッグロボットを命として見ていないところからロボットドッグへの愛情と、ドッグロボットへの愛情に差がありすぎる気がします。やっぱり対等じゃないんですよね。人間ロボット友情を描いた作品って他にも色々あるかと思いますが、基本的にはバディものだったり、主従はあれどロボットのことを同じ命として互いに尊重しあう対等な関係性の物語が多いかなって思います。ですが、この作品はそうではなくロボットを命としては見ておらず、気軽に消費できる道具として使っている。その上で友情とか言われても、やっぱり頭にハテナが浮かんでしまます。「二人の友情」というより、「深慮あるロボットの健気で一方的愛情」という方が自分はしっくりきました。ドッグは、ロボットが与えてくれたもの、満たしてくれたものと同じくらいのものロボットへ返すことが出来ていたのかな…?うーん。

私は、友情愛情はある程度対等な立場がその前提にあるものだと考えています。けれど、ドッグロボット最初から最後まで対等ではなかったように思えて、愛って何なんだろうと考えさせられる作品でした。

けっこう感動や友情といった文脈で語られているような気がする本作ですが、私はこの映画を見終わったあと、下がった口角が元に戻らないくらいには暗い気持ちになってしまいました。

メリーバッドエンドとも少し違うような形容しがたい結末の本作ですが、少なくとも心温まる!とか感動の友情!みたいな手放しで良かったと言えるお話にはとても思えず、心にしこりの残るお話に感じましたね。

この作品のどのあたりに人は感動するのか正直私には分からなかったので、純粋に知りたいなと思い、どなたか教えてもらえたら嬉しいです。色んな方の感想も聞いてみたい。

これはいつか何処かで見た言葉受け売りですが、私は伸ばした手が届く物語が好きです。

昔はどんでん返し系と言いますか、ラスト5分で全部ひっくり返るような後味の悪い映画が好きでよく見ていたのですが、今はもう聖人が報われなかったり、他者のために何かを我慢したり、自己犠牲にするような物語はあまり見たくないというか。鑑賞後スカッとする映画の方がやっぱり好みなのかもしれない。

なんかさ、これ見た後だと人間ロボットの曇りなき友情物語をみたくなっちゃうな。ベイマックスとか。

2025-01-12

anond:20250112214635

ジジババが忘れてもいいようにパスワード役所管理してるんやで

趣味にジャブジャブお金を使える人が羨ましい

明日突然働けなくなって、職場に戻ってくるのに何年もかかったら」という不安に怯えてないってことなんだろうな。

自分はそうやって自分を信じることは出来ない。

今してる仕事についていつだって限界を感じているし、かといってまともな条件の転職先が見つけられるとも思えない。

公務員10年目、普通会社で一度ぶっ壊れそうになって逃げ込んだからもうだいぶいい年だ。

身についたのは親方日の丸立場民間企業に泣きついたり脅しをかけたりしながら渡っていく技術だけで、こんなのが使えるのは本当に公務員という肩書があるときだけだろう。

職場で回ってくる人事や給与に関する情報を見ていると、研修で知り合った同期のうち何人かは望まぬ休職をしたのであろうことが見て取れる(公務員はなんでも書類に残すし、何でも共有していく文化があるから形式に慣れると信じられんぐらん大量の情報公式に筒抜けになる)。

普通の人は、「そういった役立たずのロクデナシと俺は違う。次が自分の番になる可能性?そんなの考えるよりは交通事故心配すべきだね。だって次の転勤先は北国かも知れないんだもの」と考えるのだろう。

自分は違う。

そうやって信じられる側の人間じゃない。

もし産まれ時代現代東京だったら、周囲とうまくやってけないからひまわり学級や通信教育に送られてた可能だって低くない側だ。

からはいだって怯えている。

もしも次に自分の上や下に来た人間が「定型発達がどうこう言われてる人って絶対ただの甘えですよね。本当に大変な人は精神科経由で役所のお世話になって福祉センターから貰った仕事で働くことになるんだから、そうじゃない時点でただの甘えですよ」みたいなメンタリティだったら、殺される可能性を考えないといけないなといつもビビってる。

自分のようないつ社会からドロップアウトするかわからない人間によっては、「貯蓄=なにかあったとき経済的寿命」となる。

いざというときには通院費も含めて250万円あれば1年暮らせると考えれば、「貯蓄÷250万円=経済的寿命」というわけだ。実際には翌年の住民税があるからそこから更に引かれるけど。

およそ「7000円=1日」なので、7000円の買い物をしようとすると「俺は寿命を1日使ってこれを買おうとしている。それを10回繰り返せば10日、100回で100日、金が尽きて死ぬ時、俺はそれを後悔せずに居られるのか?」と考えてしまう。

普通社会人だったら「新しいモンハンマジで神ゲーぽいんゲーム機ごと買いましたわ。7万円もしちゃった。まあゆーてボーナスも入ったし」と趣味に対してのある程度の出費を割り切って生きられるんだろうけど、自分は「10日分の寿命を使うほどの価値があるのか?ゲームを買ってもやる時間を失うなら無意味では?」とモヤモヤしだして動けなくなってしまう。

趣味に金を使える人からすれば、自分のこの感覚理解できないんだろうな。

そもそもスタート地点である「突然自分が働けなくなる。それも長期的に」という不安自体理解してもらえなそうだ。

からすればいつだって生き延びることが精一杯だし、職場の中でなんとか綱渡りを繰り返しながら生き延びていることに奇跡的な生還をいつも感じている。

なんでまだ死んでないのかがいつだって不思議で仕方がない。

そんな状態でダラダラ生き延びて何をしたいのか、自分でもわからない。

きっとある日突然凄い科学技術が全部を解決して、自分幸せに生きられる日を待っているんだろう。

科学なんて関係なくコロナ震災政権交代で世の中なんていくらでも変わるんだからと、ただただ世界が変化する瞬間を待っているような。

毎日何を楽しみに生きているんだろう。

やすいメシを食って、適当サイト無料漫画を読んで、気だるさがなくなるまでひたすら寝まくって、こんな毎日の向こうに何も無いのに、それでも寿命を減らすことが怖くて趣味に金を使えない。

俺の中にある漠然とした恐怖を持たずに生きている全ての人が羨ましい。

ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?

 スマートフォンが主流になって久しい。街中を見れば老若男女関係なく、誰もが同じような長方形の端末を手にしているし、電車に乗ればみんな下を向いてSNSやらゲームやらに没頭している。いや、それ自体否定するつもりはないんだ。だけどさ、本当にみんながスマートフォン必要としているのかなって思うことはある。いまやスマホ機能パソコンをも凌ぐものになってきているけど、それって果たして全員にとって必要不可欠なのだろうか。そもそもガラケーで事足りる人って、意外と多いんじゃないかと思うんだよね。

 そりゃ、便利だよ、スマホは。アプリを入れれば何だってできるし、SNSだって投稿簡単にできる。動画地図もあれこれ全部一つの端末に詰め込んで、ポケットに入れて持ち運べるなんて、かつてのパソコン時代ガラケー時代から比べたら夢のようだ。それに加えて大容量のデータ通信可能プラン契約すれば、外でもガンガン動画を観られるし、リアルタイムでのやり取りもスムーズ。そういう意味では、確かにスマホはすごい。でも、その“すごさ”を真に活用できている人がどれほどいるのかは、ちょっと疑問だ。

 たとえば、メール電話、それにちょっとしたSNSブラウザ検索くらいができれば十分という人は少なくないはずだ。その程度の用途なら、別にガラケーでもいいんじゃないの? と思うわけ。必要最小限の機能を備えていれば、そもそもネットが重い」「アプリが落ちる」「OSバージョンアップできないかアプリが使えない」といった煩わしさとは無縁だし、バッテリーも長持ちする。なんせガラケーなら2〜3日は充電しなくても平気だ、なんてこともザラにあるからね。スマホだと日常的に毎晩充電しなきゃいけないから、その手間を考えるとガラケーの利点もやっぱり大きい。

 もちろん、スマホにはカメラ性能が高いとか、決済機能があるとか、生活を快適にするいろいろな便利機能が詰まっている。でも、カメラだって一眼レフデジカメを持っている人からすれば、スマホカメラじゃ満足できないこともあるはずだし、逆にスナップ写真くらいしか撮らない人ならガラケーカメラで十分事足りる。決済についても、スマホ決済が便利なのは間違いないけど、クレジットカード交通系ICカードがあれば大抵の場所で用は足りるんだよね。結局、なんでもかんでもスマホに集約して「スマホがないと生活できない」状態になるのは少し危うい気さえする。

 思えば、ガラケーと呼ばれる前の時代は、みんなが当たり前にあの二つ折りやスライド型の携帯電話を使っていたわけで。それでも社会は動いていたし、人間関係だってきちんと成り立っていた。実際、あの頃は電話メールだけでコミュニケーションが十分成立していたし、インターネットをしたいならパソコンを使えばよかった。そして何より、ちょっとしたネット閲覧や着うた着メロダウンロードには、ガラケー専用のサイトが用意されていたから、それを不便だと感じていた人は今ほど多くなかったんじゃないかと思うんだ。

 そう考えると、やっぱり「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」と思うこともある。だって通話メールが使えれば連絡は取れるし、カメラも簡易的な撮影には不自由しない。さらに、多くのガラケーにはストラップを付けられる穴があって、そこにお気に入りキャラグッズをぶら下げてアピールする楽しみ方なんかもあった。いまのスマホには、そういう「ケータイ個性化」を楽しむ余地が薄い気がするんだよ。スマホケースやカバー差別化するっていう人もいるけど、昔のようにジャラジャラとストラップをぶら下げる感じとは違うんだよな。

 ときどき言われるのが、「いやいや、いまの世の中はLINEでのやり取りが必須からガラケーじゃ不便でしょう」という意見。でも、それって本当に全員が必要かな? たしか仕事サークル、あるいは家族・友人のグループチャット情報を一斉共有したり、スタンプカジュアルコミュニケーションしたりするのは楽で便利だ。でも、電話メールじゃダメなの? 昔はそれでやりくりしていたわけで、無理にLINEに縛られる必要はないんじゃないかと思う。もちろん「いや、仕事でどうしても必要なんだ」っていう人はいるだろう。そういう人はスマホを使えばいい。でも、誰もが「LINE至上主義」に合わせている現状に、ちょっと違和感を覚えるのも事実だ。

 もっと言えば、「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」と言いたくなることだってある。そう、ガラケーにはiモードという独自ネット接続サービスがあって、昔はあれで天気予報ニュースサイトを見たり、ちょっとした調べごとをしたりしてたわけだ。いまはさすがに対応サイトが減ってしまたかもしれないけど、それでも基本的情報収集ならできなくもない。「スマホじゃなきゃネットができない」わけじゃないんだよな。

 とはいえ、世の中にはガラケーを愛用しつつも、必要最低限の用途だけスマホを使う「2台持ち」という人もいる。スマホは持っているけど通話ガラケーでする、みたいなスタイルだ。これってわりと理にかなっていて、ガラケー通話用にバッテリーが長持ちし、スマホSNSアプリ専用と割り切ると、余計な通知に煩わされることも減る。料金プランをうまく選べば、そこまでコストも高くならないから、案外「スマホ1台より2台持ち」のほうがストレスフリーという人だっているわけだ。

 ただ、「ガラケースマホを両方持つとか、管理が面倒くさい」という声もあるだろうし、そもそも二台持ちが一般的になると、街中で両手に端末を持って歩くようになるのかな? なんて想像すると少し滑稽でもある。そこまでしてガラケーにこだわらなくてもいいじゃないか、という意見があるのも理解できる。でも、一部のガラケーユーザーにとっては、あの折りたたみの感触物理ボタンの打ちやすさ、そして着信音を選ぶ楽しみなんかが、今でも捨てがたいんだろうなって思うんだ。

 ガラケー物理ボタンは、スマホタッチスクリーンにはない魅力があると思う。画面を見なくても、手探りでボタン操作ができるし、押した感触がハッキリしている。メールを打つにも、慣れればかなりのスピード文字入力ができるから、指先が画面を飛び回るスマホよりも誤操作が少ないという人もいる。実際、ガラケー世代人間からすると、あのテンキー入力のほうが「身体に染み付いている」感覚があって、スマホフリック入力がどうにも馴染まないなんて話もよく聞く。だから、使い勝手という面では、ガラケーを「機能が少ない」と一蹴するのは早計だという気がする。

 また、ガラケーには折りたたみやスライドなど、端末自体の形状にバリエーションがあった。そのせいか、端末のデザインにも個性が感じられたものだ。カメラ部分の形が凝っていたり、アンテナが伸びるタイプだったり、質感も金属プラスチックなど機種ごとに違う。自分の好みや使いやすさに合わせて端末を選ぶ楽しみがあった。スマホ基本的に「大きなタッチ画面がどんっとある長方形」という形状が大半だからデザイン的な違いはあっても機能面はほとんど似たり寄ったり。文字通り“画一化”している印象が強い。

 カバーやケースを付ければ見た目も変えられるし、画面上の壁紙アイコン配置で多少の個性演出できる。でも、ガラケー時代にあったワクワク感、たとえば「次はどんな機種を買おうかな?」みたいな楽しさは、スマホ時代とはちょっと違う。「新作スマホが出た」と言われても、画面のサイズベゼルの細さが変わったくらいで、そこまで大きくは変わらない印象がある。もちろんカメラ性能やCPU進化もあるんだけど、日常的にそこまで性能を使いこなす場面がない人にとっては、あんまり魅力を感じない場合もあるだろう。

 それに、スマホはついつい「時間泥棒」になりがちだ。SNSちょっと見るだけのつもりが、いつの間にか1時間も経っていたとか、寝る前にスマホを触っていたら気づけば深夜になっていたなんて話は、ザラにある。ガラケーだと、動画視聴やSNSタイムライン閲覧はそこまで快適とはいえないぶん、長時間だらだら触り続けるということはあまりない。そもそも画面が小さいから、がっつり見るには不向きだし、ネット料金が従量制だとしたらむやみに使えないという制限がある。そのおかげで、自分時間無駄にしすぎない、という利点すら感じることがある。

 「ガラケー時代には戻れない」とよく言われる。確かに通信インフラ社会の仕組みがスマホを前提とした形に急速に変わりつつあるから、一人で頑固にガラケーを使い続けるのは不利かもしれない。銀行アプリ役所関係手続きなんかも、スマホ前提で設計されていたりして、ガラケーだけでは対応できないことも増えている。そこはちょっと残念なところだ。時代の流れに逆行するとなると、どうしても不便を甘受しなきゃいけない部分が出てくるのは仕方ない。

 でも、その不便を受け入れてでも「ガラケーだけでいい」と思う人がいるのは、やっぱりそれなりの理由があるんじゃないか。何より、常に最新のSNSアプリの動向を追う必要がないし、スマホをいじりすぎて疲れることも減る。コミュニケーション情報収集に追われないから、心に余裕が生まれるかもしれない。実際、スマホをやめてガラケーに戻した友人が、「今までSNSブラウザ更新ばかり気にしていた時間を、ほかのことに使えるようになった。すごく楽になったよ」と言っていた。まさにデジタルデトックス効果だろう。

 さらに言えば、ガラケーを持っていると周囲から興味を持たれたり、「まだガラケー使ってるんだ」と話のネタになったりすることもある。ひと昔前には、最新のスマホを持つことがステータスのように扱われていたけれど、いまはみんなが同じようなスマホを持っているから、逆にガラケーのほうが個性として面白がられるんだ。「なつかしい!」なんて言われると、そこから会話が広がったりして、それはそれで悪くない。

 もちろん、ガラケー提供を続けるキャリアもどんどん減っているし、新品の端末を購入するのは難しくなってきている現実がある。将来的には4G・5Gの通信環境に完全移行して、ガラケー時代通信方式廃止される可能性もある。そのときは、事実ガラケーが使えなくなるかもしれないし、いわゆる「ガラホ」と呼ばれる、ガラケー風のAndroid端末に移行するしかない時代が来るかもしれない。とはいえ、今すぐに「ガラケー文化がすべて滅びる」わけではないだろうし、それまでガラケー愛好家はしぶとく生き残るはずだ。

 結局、「スマホガラケー、どっちがいいか」っていうのは、その人の使い方や好みによる。スマホが便利で手放せないという人もいれば、ガラケーシンプルさがちょうどいいという人もいる。世の中にはいろんなライフスタイルがあっていいはずだから、無理に合わせる必要はないと思う。誰かが「スマホを使ってないなんて遅れてる」と言ってきても、それを「押し付けがましいなあ」と聞き流すくらいの心の余裕があればいい。結局、自分が何をしたいか重要なんだから

 もし「周りがみんなスマホから自分スマホにしなきゃ」と思っているだけで、本当はそんなにSNSアプリを使わないという人がいるなら、思いきってガラケーに戻すのも手だと思う。通話メールだけならガラケーのほうが圧倒的にバッテリーも保つし、料金も抑えられるかもしれないし、「端末をどこかに置き忘れても、スマホほど重要情報が入ってないか不安にならない」なんていうメリットだってあるだろう。「みんなと同じだから安心」じゃなくて、「自分必要機能ちゃんとある」ことこそが大事なんじゃないか

 もちろん、スマホが悪いわけじゃないし、ガラケー至上主義を唱えたいわけでもない。ただ、「必要以上にスマホを使って疲れちゃうくらいなら、ガラケーで十分なんじゃないの?」という提案をしたいだけなんだよね。実はわたし自身仕事スマホとは別にガラケーをサブ機として使っているんだけど、やっぱりガラケーをパカッと開いてガシガシと文字を打つ感覚は良いもんだよ。慣れ親しんだ操作性と、あの独特の押し心地には、どこか安心感がある。電車スマホの通知に追われずに済むのもストレスが少ないし、本を読んだり音楽を聴いたりする時間が増えた気がするんだ。

 そういうわけで、ガラケーという選択肢は決して時代遅れのものではない、と声を大にして言いたい。機能の充実や最新テクノロジーに目を奪われるのも悪くはないけれど、シンプルに生きるための道具としては、いまだガラケーは捨てがたい魅力を持っている。もしあなた日常ほとんどをスマホに奪われていると感じるなら、一度ガラケーで過ごす日常を思い出してみるのもいいかもしれない。通話メール、それに少しのネットがあれば不自由しない生活に戻るのも、ある意味では豊かな選択なのではないだろうか。

 繰り返すが、「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」とまでは言わなくても、ガラケーで十分足りるような人もたくさんいるんじゃないか。昔みたいに、キーボタンをカチカチ押しながら、「そうそう、あれこれこうだよね」とメールを送るのだって味わい深い。意外と悪くない、というかむしろ懐かしくて温かい気持ちになれるかもしれない。少なくとも、ガラケー派の人たちを「時代遅れ」とバッサリ切り捨てるのはもったいない話だと思うんだ。最新のスマホけが正解じゃない。だからこそ、みんなが自分にとってベストな形で“ケータイ”という道具を選べる社会であってほしいと思う。

 もしあなたが、いつの間にかスマホでの習慣に疲れているなら、こう考えてみてはどうだろう。「ケータイって何のためにあるんだろう?」と。連絡手段として割り切るなら、ガラケーこそ理想的な答えかもしれない。もちろん人によっては、「やっぱりスマホがないと生活が成り立たない」という人もいるだろう。それでいいんだ。それこそ「自由」じゃないか。だから、「スマホが当たり前」という常識に縛られず、自分に本当に必要機能がどれくらいなのかを見極めるのが大事。いまの時代からこそ、逆にガラケーを見直す価値があるんじゃないかと思う。

 最終的には「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」、通話メールで十分ならガラケーでもいい。そこにプラスアルファスマホを持つか持たないかは、個人自由。要するに、スマホ一辺倒の世の中だからといって、ガラケーを諦める必要はないんだよね。わたしはそう信じている。あなたケータイライフに、少しでもガラケー復権可能性を感じてくれたら、これほど嬉しいことはないよ。

アメリカ合理的だね

カリフォルニア山火事ニュースで、避難民が乗り捨てた車が道路を塞いでるからって、ブルドーザーで雑に撤去してたわ。

日本のお役所とか、私有財産をかってに破壊できないとかグダグダ言って、道路を塞いだままにしてそう 。

2025-01-11

マイナンバーカードを受け取ったので所感

保険証云々でややこしくなりそうだったので昨年末申請

今までは紙の通知カードしか所持していなかった。

最初ネット申請するときにこの紙の通知カードに載っているQRコード必要で、個人番号だけでは申請ができなくて焦った。

  • 受け取りまでの流れ。

顔写真を付けてネット申請→1か月後、自治体から受取案内の書状が届く→役所カードを受け取りに行く。この際パスワードを設定。

パスワードカード必要NFC機能を使う。

初めてログインして覗いた感想自分必要そうなところだけ連携

健康保険連携。1項目選ぶだけですぐにできた。保険者名に会社保険組合名も出てきたので、社会保険なのも確認できた。社会保険のつもりで実は国民保険だったような詐欺みたいな事例は確認できるかもしれない。

医療費確認。これは機能を知らなくて初めて知った。2021年から年間どれだけ自分医療費を使っているか分かる。窓口負担額+保険者負担額。

・薬。所謂お薬手帳の内容が2021年から何日分処方されたのかも含め記録されている。持っておくのが煩わしかったんだけど、行政側でデータを持っていたのね。個人的にこれはうれしい。

予防接種の記録。これもあるとは思わなかった。いつ接種したのか記録がされている。

・税。所得情報2020年からの毎年度の所得が分かる。この情報結構個人の信用度判断への影響が大きいように思う。人に見せるものじゃないが、例えばパートナー予定者の収入安定度が分かるじゃん。

・口座登録。公金受取用の口座登録した。これも登録時にカードNFC必要だった。

確定申告年末調整は勤め先でやるので触っていない。

2025-01-08

anond:20250108111446

改修費用は全部隈研吾に払わせて欲しい

選んだ役所役人ボーナスも100年分カットして払わせて欲しい

通り名制度議論はご慎重に

在日韓国人特権として扱われている通り名ですが、差別的アレルギー反応をせず冷静に話し合ったほうが日本人のためにも良いという話。

芸能人における芸名ではないけども、出自情報が多く含まれ場合が多い本名を隠したい場面というのは在日韓国人に限らず日本人でも多くなってきているのが現代

例えばコンビニ店員カスハラ対策本名を隠して働くようになったり、スタバモバイルオーダー受け取りで本名ではない名前で受け取ったりと、公共の場本名晒すことに抵抗を感じる人は実際に増えてきている。

小学生なんかでも、通学中は名札を見えないようにしたり、体操着からゼッケンがなくなったりと個人情報の取り扱いについてかなり慎重になった。

とは言え、役所医者など、取り違えによる事故が致命的になりかねない場所ではそういったことが容易にできるわけではない。

そこで、個人情報を守りつつも各個人を間違いなく特定できる方法模索する必要性は以前に比べて遥かに高くなってきていると言えるよね。

それが通り名であるかどうかは別として、公共の場で用いることのできる別名と、それでいてしっかりと個人識別できる手段というもの必要性は十分に議論するに値するものではないかなという話。

例えばマイナンバーなんかがそうなんだけど、マイナンバーカードを所持することで個人証明ができることを前提に通り名の利用が許されるとかってなれば、マイナンバーカード自体の利用価値高まるんじゃないかな。

在日韓国人だってついこの間までは外国人登録証明書の所持が義務付けられていたわけで、通り名を使用することと個人が間違いなく特定できることはセットで考えられるべきということ。

パソコン通信から始まって今のSNS全盛になって、一個人複数名前活動することが当たり前になってきている中で、現実社会では本名を使い続けなくてはいけない事自体がもはやナンセンス

責任が生じる場面においては名前以外のものでしっかりと個人証明できる仕組みを作ることで、人は自由に名乗れる権利を得られるはず。

夫婦別姓を含め、これから時代は状況に応じて名前自由に名乗れる権利が守られるべきであって、在日韓国人特権アレルギーなんかで通り名そのもの否定している場合ではないのだと思いますよ。

アレルギーの人にこういう話をしても通じないことはわかってるけど、そうじゃないって人は、今一度慎重に議論に参加することをおすすめします。

  留置施設では普通、 12:00~13:00まで、公式髭男dismとか、 ラルクアンシエルが流れてるので、何も流れてない延岡市役所5階では流れてない方がおかしいんだよ

2025-01-07

姓名に使う文字は減らします→賛成!

性別は自認で人の数だけ無限にあります→そうだそうだ!

 

多様性とは

 

名前文字種なんかより性別無限に増えるほうが役所は大変だと思うが

2025-01-05

anond:20250105145152

東京進学校だったんだろうなこの増田

地帝の地元進学校だと、東大京大の次に偉いのは地元の地帝なんですわ。マジで

早慶邪道。一工なんて眼中外。

さらに言うなら東大の理1理2より地元地帝医の方が上。

なんなら東大文2文3より地元地帝法が偉いまである道府県庁や政令指定都市役所地元地帝法が圧倒的に強いため)。

どっちが正しいとかじゃなくて、地方には地方価値観があるということ。

まあ俺はその「地方価値観」が嫌で田舎を出たクチなんだけどね。

2025-01-04

お姉ちゃん」のお父さんとお母さんへ

私は第一子で、3つ下の妹がいる。

いわゆる「お姉ちゃんである物心ついたときから

比較的裕福な家に生まれて恵まれ環境で育ったけれど、精神バランスがうまく保てなくてどうにも生きにくい。

中学不登校の時期があったし、せっかく入った難関高校も退学した。社会に出てからも長く続かず苦労した。

グレかけた時期もあったし、腕にはリストカットの跡が今も残っている。精神科に通い薬漬けだった時期もある。

手あたり次第男と身体を重ねたり、隠れてタバコを吸ってたり。タバコは、今もだけど。

アラサーになった今、ようやく精神生活も安定してきて、過去に整理がついて納得感がある。

持って生まれ性質による不安定さもあるんだろうけど、「お姉ちゃん」という役割からくる影響も大きかったなーと今は思っている。

世の中の「お姉ちゃん」を持つご両親に、苦労した「お姉ちゃんから手紙を書いてみようと思った。


お姉ちゃん」という理不尽

一番嫌いな言葉は「お姉ちゃんなんだから、~しなさい」 だ。たぶん9億回は言われている。

親も親で必死だったんだろうと今なら理解できる。子供ってだけで論理が通じなくて大変なのに、癇癪起こしてたらなおさら

比較的話が通じる「お姉ちゃん」に折れてもらう方が楽だし。

でも子供はそんな事情はわからない。

私も甘えたいのに、おもちゃで遊びたいのに、お菓子食べたいのに、先に生まれているという理由だけで我慢させられる。

好きで先に生まれたんじゃない!勝手に先に生んでおいて理不尽を強いるな!と子供ながらに思っていた。

そんな理不尽強要してくる親は、私より妹の方が大事で好きなんだろうな~、とか。

実際聞いたこともある。ママは、私より妹ちゃんの方が好きなんでしょう?と。

母は「そんなことないよ。どちらも大事だよ。」と答えた。納得はしなかった。言動が一致してないから。

これ以降、言ってることとやっていることが一致しない人が大嫌いになった。


強烈な理不尽記憶

どこだったかはわからないが、役所のような何か手続きをするところに、母と妹と3人で行ったときのこと。

当時私は4歳とか5歳とか。妹は2歳くらいかなあ。

待ち時間が長くて飽きてしまった妹が、廊下を走って遊び始めた。母は手続き中で窓口にいる。

お姉ちゃんである私は母から妹の面倒を見るように言われていたので、遊ぶ妹を落ち着かせようと後を追いかけた。

妹はそれを鬼ごっこ認識し、奇声をあげながら逃げていく。

うるさくすると迷惑がかかる、とわかっている私は足を止める。妹が逃げていく。部屋を出ていきそうだ。

こっちに連れてこないと、と追いかける。奇声をあげて逃げる。足がとまる。

母は窓口対応中だから頼れない。どうしようと困っていた。

そんな姿をみて、他の窓口対応中のおじさんがこちらを見て怒鳴った。

「君たち、いい加減にしないか!」

君「たち」? ああ、そうか。傍からみたら私たち鬼ごっこしているように見えているのか。

私はあなたたちに妹が迷惑をかけていることがわかっているから止めようとしていただけだったんだけど。

そんなこと説明したとしてもうるさくしてた事実は変わらないよね。

妹を制御できなくて「ごめんなさい」。ばつが悪い顔をして謝った。

母もやってきた。一緒に謝った。その場では、やんちゃ姉妹というレッテルが貼られたことを理解した。

から、母には遊んでいたわけではなく止めようとしていたことを説明した。

「でも、結果的迷惑をかけてしまたから。止め方は考えないといけないね

結局、妹を制御できない私がいけなかったみたい。

このやりとりは今でも夢に見るし、おじさんの顔も、おじさんのお客さんの老夫婦こちらを睨む目もよーく覚えてる。

3年先に生まれただけでこちらも子供なのに、妹のために悪者にならないといけないんだと学んだ、強烈な記憶

私は「子供である前に「お姉ちゃん」なんだ、ということを理解した。


子供の一面は「お姉ちゃん」には求めない

2つのエピソードを紹介したが、共通していることがある。

1人の人間としての私の気持ちを、母に否定されていること。もちろん、本人にそのつもりはないと思うのだけど。

こんな経験日常的にあるので、本音を言わない子供になるのに時間はかからなかった。

お姉ちゃん」として求められていることを遂行する日々。

お手伝いもするし、好き嫌いせず食べる。勉強はしっかりして成績をキープ。

習い事お稽古もしっかりして、結果も残す。妹のお世話もする。

夜ベッドに入ったあと、よくわからない涙を流していた記憶がある。同じ部屋で寝ている妹を起こさないために、声を殺しながら。

本当はこうしたい。でも言っても実現しない。「お姉ちゃん」やめたい、でも両親は子供らしい私を求めていない。

我慢我慢我慢、妹が優先、妹は年下だから、まだx歳だから、親がたくさん時間を使ってあげないといけない時期。

わたしは「お姉ちゃん」で、大人から我慢できるよね?できる。本当に?できなくても、やるしかない。

そんな精神悲鳴だったんだろうなーと、今なら思う。


お姉ちゃんだって子供だよ

幼少期にスポットを当てて書いてみた。

結局言いたいことを一言にまとめるなら、

子供時代子供としてふるまえず、背伸びして我慢して過ごしていると、精神ねじれてしまう。

ねじれた精神簡単きっかけで崩壊する脆さを孕み、生きにくさを抱える大人になる。

あれ、二言になった。でも綺麗にまとめると、こう。

お姉ちゃん」は大好きな両親に求められたら全力で「お姉ちゃん」をする。

でも中身は子供であることを忘れないでほしい。妹が寝たあと、「お姉ちゃんの子タイムを作ってあげてほしい。

目いっぱい甘えられる時間があるだけで、本音が言えるだけで、精神ねじれずに生きていけると思う。

ねじれまくった私が今どうやって生きているのかを、最後に書いてみようと思う。

実家から飛行機距離移住して「お姉ちゃん」として過ごす時間強制的に減らした。

1人暮らしのんびり謳歌中。この地にきてから精神仕事も安定している。

精神的な脆さがコンプレックスなので、恋愛には積極的になれない。

いい関係の異性ができても、甘えられると姉アレルギー発症して距離を置いてしまう。とはいえこちから甘える方法もわからない。

会いたいから今すぐ来てほしい って、言ってみたい。相変わらず本音を言えない病は抱えている。

生きにくいのは変わらない。でも、「お姉ちゃん」の呪縛を解く方法模索しようと思っている。

昔はカジュアル年号を使ってた

最近入院して手術したんだが、患者取り違え防止のためにことあるごとに生年月日と名前を言わされた。

当方いい年したおじさんのため、どうしてもこういうとき昭和XX年生まれって年号で答えてしまうんだな。

そのたびに西暦で答えてくださいって怒られたけれど、問診票は和暦で書くフォーマットになっていたからどういう管理になっているのかよくわからんね。

まあ利便性を考えると西暦で通した方が都合がいいんだろうけれどさ。

今じゃ役所とか公的文書などお堅い場所しか使う機会の無い年号だけれど昔はもっとカジュアルに使ってたな。

(昭和)58年トレンドはなんとかだ!とか商業施設が55年4月2日オープンみたいに俗世間的なイベントでも普通に年号を使っていた。

ノストラダムスの大予言がはやったときもあまり西暦が浸透していなかったかいまいち世紀末感が無かった覚えがある。

やっぱり昭和から平成に移ったのが転機だったのかな。不便だもんね。

90年代10年間で一気に西暦表示が使われ出していってノストラダムスからミレニアムのあたりではすっかり西暦が浸透していた。

夫婦同姓を改善したほうが良いだけじゃね?

日本ローカルルールから使えない

トップコメにあるやつだけど、文化多様性尊重できない外国差別的で悪いだけだよね?

親の名前を受け継ぐところもあれば、父母の姓を両方足す国があったりで

名前ルールなんて各国で全然違うのに、ジャップ旧姓ルールだけはダサいから受け入れないんでしょ。

ただの差別じゃん。大使館日本差別だと抗議するくらい激しくすべき話であって

オーベーの文化けが唯一正しい、多様性統一好きな人理解できないんだろうけど。

 

旧姓も新姓も使える方が優れてない?

そもそも夫婦別姓のが先進的だと言い張るけど、旧姓も新姓も正式に使える方が優れてるよね。

夫婦同姓も夫婦別姓も同時に実現できるじゃん。

 

今は半端な通称になってるせいで公的に使いにくいことが問題なわけじゃん。

じゃあどっちも使えるようにすればよくね?

事実上夫婦別姓として使えるけど役所登録上のメイン姓とサブ姓(メインサブも要らん)があって結婚時に決めるけど、普段は使いたい方選べばいいじゃん。

姓が一つだけってのが時代遅れ思い込みだよね。

夫婦関係確認する時があるとして、〇〇さんは夫婦同姓で〇〇さんは夫婦別姓とか確認必要なのアホらしくね?

婚姻関係確認をする時に身分証見るだけで佐藤x鬼龍院とかで2要素が一致してるだけでほぼ判別できるわけ。

子どもの姓も一旦は親が勝手にすりゃいいけど、子供は成人したら好きに選べばいいし、別姓反対派のよくいう子供の姓どうすんだ問題解決

 

個々の夫婦普段同姓にしてるか別姓にしてるか、他人からしたらマジでどうでもよくて勝手にしてろって話で、一括で処理できる方式が圧倒的に楽じゃん。

要は「父母の姓を両方足す国」で普段使いは片方省略するみたいな感じだな。

日本って制度を複雑にするの大好きだけどシンプルに考えようよ。

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