はてなキーワード: 自己同一化とは
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グラント氏は最終的に、セルフ・アイデンティティに基づく定義に落ち着きました。これは「女性とは、自分がそうであると主張する人である」というものです。
もちろん、これは同語反復(トートロジー)であり、女性とは実際に何であるのかという疑問は依然として残されています。長い生物学的な歴史を持つ用語のこの驚くべき再定義は、自然に対してイデオロギーを押し付けようとする試みとしか見なされません。
「ノンバイナリー」の人々、または「女性」として自らを認識する(identify as)男性(「トランス女性」)の中には、生物学によってそのアイデンティティが十分に認識されていないと感じる人々もいるため、彼らは生物学に対してイデオロギーを押し付け、「女性」の新しい定義を作り出そうとします。
さらに言えば、セルフ・アイデンティティが直接的に経験的な現実と一致するという主張には、多くの問題があります。
自分が太っていると感じているからといって、常に太っているわけではなく(拒食症の問題)、自分が馬であると感じているからといって、馬ではなく(「シアリアン」と呼ばれる人々が心理的に動物であると自己同一化している)、自分がアジア人だと感じているからといって、アジア人になるわけではありません(「トランスレイシャリズム(transracialism)」の問題)。
しかしながら、性別についてはこれは異なる、とグラント氏は言うのです。それは、人間の生物学的な特徴の一つでしかなく、単に心理的な作用によって変化しうるものであると述べます。
生物学では伝統的に「性別(sex)」とは、生殖細胞(「配偶子 gametes」)の大きさと運動性によって定義されています。
雄(male)の生殖細胞は小さくて運動性があります(動物では精子、植物では花粉)。雌(female)の生殖細胞は大きく運動性はありません(植物では卵細胞、動物では卵子)。すべての動物と維管束植物には、正確に2つの性別(sex)があり、それ以上はありません。 植物の相当数と少数の動物種では、単一の個体に両方の機能を併せ持つもの(「雌雄同体」)もいますが、これらは典型的な2つの配偶子を生成するため、第三の性別(sex)ではありません。
確かにごく一部の例外として、分類に従わない "インターセックス" の状態の人々がいます(その割合は約5,600分の1から約20,000分の1と推定されています)。このような配偶子観点の例外は確かに興味深いものですが、性別(sex)の二元性(バイナリー)の一般性を損なうものではありません。生物学において、これほど稀な逸脱が基本的な概念を揺るがすことはありません。例えば、約300人に1人の割合で、生まれつき正常な10本の指を持たない多指症の人々がいます。しかし、誰も「指の数のスペクトラム」などは語りません。(なお、ノンバイナリーおよびトランスジェンダーの人々のうち、"インターセックス" の状態である人はごく一部であり、ほぼ全員が生物学的に男性または女性であることを認識しておくことは重要です)
したがって、生物学では、女性とは「成人の人類の雌(An adult human female)」という言葉で容易に定義できます。
グラント氏が犯した最大の誤りは、生物学的な特徴である性別(sex)と、ジェンダー(gender)、つまり社会において担うことを推測される性役割(sex role)とを混同し続けたことです。性別(sex)はあらゆる点でバイナリー(二元性)であるが、ジェンダーはよりスペクトラム(連続体)的であり、それでも「男性」と「女性」の2つのラクダのこぶのようなモードがあります。
ほとんどの人々は、生物学的な性別に関連するジェンダーの役割を演じていますが、多くの数の人々が、両者の役割を混ぜ合わせたり、あるいは男性/女性の役割を完全に拒否したりしています。グラント氏は「私はジェンダー表現を、1日を通して変化するさまざまな方法で演じている」と語っています。しかし、これによってグラント氏が1時間ごとに性別を変えているというわけではありません。
したがって、性別の生物学的な概念の下では、人間が性別を変えることは不可能です。つまり、真の「トランスセクシュアル」になることは不可能なのです。なぜなら、哺乳類は配偶子を生産する方法を変えることができないからです。より適切な用語は「トランスジェンダー」または、「トランス女性」に対しては「女性として自己を認識する(identify as)男性」でしょう。
グラント氏はここでも読者を誤解させます。例えば、彼らは「トランスジェンダーの人々は、他の人々よりも性犯罪者になりやすいわけではない」と主張しています。しかし、少なくともトランスジェンダー女性に関しては、事実はこの主張とは反対のことが裏付けられています。
英国法務省と英国国勢調査の統計を比較すると、性犯罪を犯した受刑者の割合は、男性受刑者の中の約20%、女性受刑者の最大約3%であるのに対し、トランスアイデンティフィケーションした受刑者の少なくとも約41%が性犯罪で有罪判決を受けています。したがって、トランスジェンダーの受刑者は、生来の男性の2倍、生来の女性の少なくとも14倍の割合で性犯罪者である可能性が高いようです。
これらのデータは、逮捕された者や有罪判決を受けた後に女性であると宣言した者だけに基づいているため不完全ですが、トランスジェンダー女性は生物学的女性よりもはるかに多く性的に略奪的であり、生物学的男性よりもややいくらか略奪的でありうることを示唆しています。スコットランド、ニュージーランド、オーストラリアでも同様の傾向が見られるという指摘があります。
まず、生物学的な性別の現実を認め、イデオロギーに基づく概念を拒絶することは「トランスフォビア」ではないということを主張したいと思います。科学的な現実とトランスジェンダーの権利のどちらかを選ばなければならないということは、決してあってはなりません。
トランスジェンダーの人々も、他の人々と同様に、道徳的・法的権利をすべて享受すべきです。しかし、道徳的および法的権利は、「消えない刻印」としての性別(sex)が他者の法的および道徳的権利を損なう結果となる分野にまでは伸長されません。
例えば、トランスジェンダー女性は、生物学的な女性と女子スポーツで競うべきではありません。また、レイプ等の性犯罪に関するカウンセラーや暴力を受けた女性のためのシェルターのスタッフになるべきではありません。また、犯罪で有罪判決を受けた場合は、女子刑務所に収監されるべきではありません。
数世代の女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシア=マルケスはコロンビア人で、アジェンデはチリ人。
しかし、女性の物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元の女性を強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛は強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。
同じく、よしもとばなな「アルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力を表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。
書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずかしか触れられない。
道徳的な理由で表現が規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。
ブルース・チャトウィン「パタゴニア」を読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地にしかない暮らし、風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリアを舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物に名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。
カルロス・フエンテス「老いぼれグリンゴ」はあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ。
フエンテスは短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。
ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明と自然を対比させるために(?)読者に理解しやすいロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台はロビンソンが島そのものとの性交で子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォーの原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。
M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルのサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷も家族も恋人も黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である。
ル・クレジオは難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的に盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。
一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義のシリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実か虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界を舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語で創作されているんだけれど、最後にロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話。
難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的に過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。
で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女を連想できないタイプの女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。
フョードル・コンスタンチノヴィチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。
僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしまう作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときにパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。
とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。
なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章のリズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。
少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセスを現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知な相手を自分の利益のためだけに利用するのは邪悪の定義に当てはまってしまうしね。
おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実の少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女と思春期の頃に出会えるはずはないし、自分の問題は自分で解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女の恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子は自分自身の鏡像、ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである。
(どうでもいいけどウィキペディアのロリコン写真集の記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)
ピンチョンはよくわからない。陰謀論をネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコ「フーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考をちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論はネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。
エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分はキリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代のアメリカのポップカルチャーや現代のエンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ。
文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。
三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれの少年が主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性と恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。
そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台が現代日本でなければ別世界のファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代が舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスとクロエ」だけじゃなくてコレット「青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹「海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまり好きじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇だからってのもある気がする。
話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為のあいだならエロ漫画の主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化の魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから、自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラがモテても、ちっとも面白くないのである。しかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説のダメな人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯のウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき、主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。
少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテて複数の女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったものは理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。
続く。
もともと会津藩は領民から嫌われていた。親藩で家格が高いため石高以上の出費があり領民に重税を課していた上、最後の藩主松平容保が京都守護職に任じられるとその負担でさらに年貢が上昇、会津戦争でも農民は新政府軍側について会津藩士と戦ったぐらいだった。
明治維新後も会津藩士に対する反発からヤーヤー一揆という大農民一揆が起きた。明治政府は会津藩士に会津に留まるか、青森県の下北半島に新たに藩を作って移住するかを選択させたが、地元で嫌われていた会津藩士たちは下北半島への移住を選択、斗南藩が新設され会津藩士は斗南藩士として下北半島に移住した。
会津地方の一般人が会津藩士と自己同一化して薩長に恨みを持つようになったのは、戦後会津若松市が戊辰戦争の史跡を観光資源化しようとして会津藩の悲劇を郷土史として広めたのと、司馬遼太郎の小説が原因。
なんで国や性別の単位での批判があると、自分が批判されたように感じるのか?
自分が属するグループが攻撃されると、自分自身が攻撃されたと感じる。昔の武士みたいに、自分の「領地」を守らなきゃならないってね。
考えてみろ。国や性別なんて、ただの社会的なラベルに過ぎない。
生まれた場所や性別で、自分の価値が決まるわけじゃない。それなのに、批判されると自分の存在そのものが否定されたように感じる。
これはもう、アイデンティティが脆弱だからだよ。自分の中身がスカスカだから、外側のラベルにしがみつくしかなくなってしまう。
広く、自分が属するグループの批判を個人の攻撃と感じるのは、集団心理の一部だ。
人間は社会的な生き物で、集団に属することで安心感を得る。だから、集団が攻撃されると、自分の安全が脅かされたと感じるんだ。本能的なものに近いだろう。だが、それが今現在の人間として本当に必要な感情かどうかは疑問だ。
自分の属する大きいグループへの批判があった時、それが事実であるかを考え、自分がそれにどれほど関与しているかを捉え、自分の考え方との距離感を測り、集団と個人の問題を切り分けることが必要だろう。
そして批判がもっともだと思えば、賛同することすらできる。それが何かの改善に繋がることもある。
批判すなわち個人的な攻撃と感じるのは、その問題の切り分けが不十分であること、自分の未熟さを露呈しているに過ぎないんだ。
自分のアイデンティティはもっと複雑で多面的なものだし、外部のラベルに依存する必要なんてない。
美術部あがりのインドア腐女子がラウダモンペしてカワイソカワイソしているがラウダを可哀想がるポイントがズレてるから反省しろ
パイロット科なんて若い男のなかでも特に負けず嫌いなほうのやつしかおらんだろ(※シャディク・ゼネリを除く)
現実にいるやつに例えるなら野球やサッカーのスポーツ特待で進学する奴だったり
ゲームもエンジョイ勢じゃなくガチってeスポーツの大会出るような勝負師メンタリティしとると考えるほうが自然
(だいたいお前ら腐女子は中学や高校で男子生徒がジャンプ読んでも教室で強さ議論ばかりして、「男同士の激重感情がどうの」みたいな話してたのが美術部か演劇部の腐女子しかいなかったことを覚えてないんか。陰キャ男ですらポケカの強さ議論しかしとらんかっただろ。人間関係ないがしろにすると人生が本当にやばいと気づき始めるのはだいたい大学以降や。それより前は強えヤツか雑魚かしかない。「ざぁ~こ」とかいう発想はメスガキやなくてリアル男児脳。それが気に食わないなら架空男性と理解したうえで商業BL読めや!)
そいつが後輩の女の子に機体完璧に整備しときましたよ!言われて寮全体から応援されて送り出されながら
「ガン!うわ〜!」で終わり、失神したところを後輩の女の子とアーシアンに庇われてましたってプライドズタズタだろ
かわいそうに……かける言葉もねえよ
そこのガノタは今すぐにカミル・ケーシンクの気持ちになってみろっていうんだよ
カミルの立場になってこのときのラウダになんて声をかければいいか考えてみろっていう話だよクソどもがよ
ラウダディランザはグエルに勝手に使われてエラン4号君にボコボコにされたときにしろ
ランブルリングでラウダがワンパンされたときにしろ噛ませ犬ばっかで可哀想なモビルスーツではあるんだわ
ファラクトもソフィのルブリスもガンダム禁止や決闘仕様の出力制限など無視したルール破りのモビルスーツだし
どっちも不正して高性能のMSにボコられてはいるけど、晒し者みたいな酷え負けっぷりだっただろ
グエルは4号にだいぶ憎まれてるのか執拗に毟られてたし、逆にラウダはワンパン(ソフィがラウダに一切興味がないから)っていう方向性の違う尊厳破壊
しかしどうして腐女子は強い弱いとか勝ち負けを徹底的に無視してメソメソして男から男への執着とホモセックス可能性のことばかり考えるのかね
ラウダがなんで可哀想かってずっとルール守って、身内も自分もルール違反者にボコられてプライドズタズタにされて耐えてきたのに
最後の最後に彼女意識不明説で錯乱してシュバルゼッテ乗ったのが「えっ、何?」「今それどころじゃねえんだよな~」「シンプルに邪魔」「グエルディランザと盛り盛りの最新鋭機シュバルゼッテでやっと釣り合うほど兄弟で実力差あったのかよ」と言われてしまうことやろが
しかも一方的にグエルに喧嘩売ったせいでもう賞賛されている兄と自意識同化することもできなくなった
「メッシ来たから俺らマイアミ最強!」みたいな帰属意識が異常なスポーツ観戦者のように、強者と自己同一化してプライド守るやり口が、もう使えないわけだわ
─3年後─と丸々スッ飛ばされたけどこの飛ばされた期間の適応や成長がラウダにとっては大変だったやろなまあメインキャラではないから丸々カットも当然の処遇ではあるが
ラウダ腐女子は自己憐憫の投影が強すぎるのとインドア文化部の発想の限界のせいでキャラクターの心情エミュレートにフルスロットルで大失敗しとると思うわ
【前編】
https://anond.hatelabo.jp/20221005025202
【父親について】
体罰で息子を殴ってたら包丁で刺された悲しい過去――(ネトゲ戦記第二話)
包丁は自身で研いでいたらしい(https://ameblo.jp/kuuhaku-bura3/entry-10903882283.html)
「小学生のころ、珍しい知らないものを食べるのがその時から好きで、肉屋についていったときに買ってもらい、食べて気に入ったから毎週のように遠い肉屋までいって買ってきてくれと父親にせがんだ。たしか車で片道一時間くらいだったはずだ。家の庭で七輪に炭火をおこしてくれて、それで腹いっぱい食べていた。片付けを自分でした覚えがないから、父親がしていたんだろう。」(https://note.com/hima_kuuhaku/n/n5c8a7f78dc17)
【出身地について】
「奈良が異常な田舎だと言うへいとすぴーち 俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」(https://twitter.com/Z4mibyc8FYL06mB/status/1545586722897264640)
「異常な情熱と練習しまくっても気づかれない異常に田舎な環境の両方が必要なのでやっぱ普通は無理でしょ。」というツイートへの反応。
元は山上烈士の射撃練習についての言及らしい。単なる当てこすりか地元愛の発露か
「カラスミ太郎の由来は、「シュナムルさんの検証ブログ」を見て、「こいつの考察はガバガバだ」って言ってたやつがいたから、「何がガバガバか示せもせずに適当言うなアホ」ってレスしたら、俺のTwitter掘ってカラスミに飽きてカラスミを茶漬けにしてキーボードの前に置いてる画像をさして「キーボード飯のカラスミとかカラスミだけが自慢のカラスミ太郎www」とか言ってきた感じだと俺は認識してます。違ったら訂正してください」(https://kuuhaku2.hatenablog.com/entry/2020/06/04/074133)
カラスミ太郎はどうでもいい情報を誰も聞いてないのに丁寧に解説するようなところがあり
文章を読みづらくしている一因でもあるが、後追いとしては分かりやすくてありがたい
一応、自作するくらいにはカラスミが好きっぽい(https://note.com/hima_kuuhaku/n/nd7d176e8b1a6)
【文章について】
短文のレビューは割といいんだけど
長文になると説明過多ってのもあるけど
自画自賛とか媚びみたいなのがちらついてくる
https://kuuhaku2.hatenablog.com/entry/2020/01/07/012254
短命のデビルハンター=ジャンプの新人作家って解釈はちょっと面白いけど
この解釈であればこう読める、って新しい見方を提示するんじゃなく
「作者の考え」を読み取るのが正しい読み方って価値観も根本にあるのではないか
もし作者の考えが正しい読みだとしても、それは作者本人が開示しない限りは他人には答え合わせできないはずだが
(またそれは、考察など不要、作者の自作品解説を読めばよい、という考え方にも行きつくわけだが)
主人公の状況を作者の状況に重ねて単純化し、自分が作者の状況ならこう考える、だから作者もこう考えているのだ、という自己同一化を経て
自分の読み方(考察)こそが作者の考えであり正解なのだ、という錯覚に陥ってるように思う
でもシンエヴァ考察で、内容はともかく鈴原サクラに触れてたのは偉い
感想とかでもマイナス宇宙とかサクラ関連はスルーしてるのが多々あったし
【カラケー】
カラスミ太郎ははてなID持ってるし、通報されたら消されちゃうんだよな
なんで掲示板建てました
SF評論家の大野万紀は『S-Fマガジン』1997年12月号掲載の「ティプトリー、この3篇」において前述の書評家の評を紹介すると共に、本作のストーリーと作者であるジェイムズ・ティプトリー・Jr.の自殺(日本語訳掲載後の1987年5月19日に自殺。ジェイムズ・ティプトリー・Jr.#死参照)と関連づけたイメージを思い描いている。
ちなみに「ティプトリー、この3篇」は本人がネットで公開してる。
http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/doc/article/SFM9712.htm
「この小説を読み終わる前にハンカチがほしくならなかったら、あなたは人間ではない」というのは有名な書評者のことばだが、ぼくにいわせれば、この小説の最初の三ページを読みながらコーティに感情移入し、自己同一化し、「そのとおり!」と心の中で叫びたくならなかったら、あなたはSFファンではないのだ。
個人的にはやや単純すぎ怪しいと思う
一般に、反グローバリストは当事者性への立場とかやウチ・ソトの区別が単純で
グローバリストはそれがないということだ、という視点は一理ある
でも俺は余り支持していない
支持政策がグローバリスト的でもドメスティック的でも、ウチ・ソトの直感的な区別に起因する好き嫌いは強固で
グローバリストはその基準が国や見た目ではなく、知能指数や道徳的振る舞い、会話の高度さなどで判定されているという結果が出ていた
排他性はどっちも同じぐらいだという
例えば、キリスト教保守の宗教家とかが彼らなりの問題意識で社会運動すると
グローバリストが脊髄反射で「胡散臭い、詐欺だ、偽善だ」と言うパターンはある
要するに、集団全体の利得のために、道徳規範や協力を説く相手を
別に集団に帰属してるんじゃないかとか、個人の利益のためじゃないか、と直感的に反発するのが偽善を感じる機能だ
この判定が厳しすぎたり、単純すぎるのが活動家嫌いだろうか
一理ある
だが逆にグローバリスト活動家は帰属集団を人類全体にとっているだろうか?
これはかなり怪しい
「帰属集団を世界全体にとっているというお題目を掲げた、実際には一部の集団」に帰属意識をもっているだけかもしれない
というか教育や親、周囲の環境の影響を受けているだけならそのパターンは実際に多い
グレタさんが活動家になった第一要因は親が活動家だったからだろう
犯罪被害者の手記を毎日読んでいる人間は被害者と自己同一化してしまうことも多い
そうでない人間との違いは、心の傾向ではなく毎日手記を読んだかどうかだろう
活動家嫌いも幼少期から毎日環境保護活動してたら偽善だと感じなくなるかもしれない
決定しているのは生育歴やらの環境要因だ
そういった経験もなく、純粋な共感性しやすさで行う人間も居るだろうが、それは詐欺に騙されるのと外形的には違いはない
共感性が高いと見るか知能が低いと見るか
というわけで俺なりの結論を述べると、特定の活動家に偽善だと思うのはごく普通、正常範囲内の心の動きであり
特定の活動家を支持するような人間も、別の問題には偽善を感じている場合も多いし
それを分けるのは主に、その特定の問題に幼少期にどれぐらいコミットしたかとか教育歴とかなどで
心の性質による傾向の違いだけで説明すべきかと言われると否だと思う
何でも当事者性を感じて、他人の活動に偽善を感じない人がいたら
詐欺に騙されまくったり
むしろ特定の活動家にもなれず、様々な社会問題を毎日気にして精神病になってしまうだろう
だが正常な低さと言えるだろう
http://koshian.hateblo.jp/entry/2018/10/09/184510
こうして当事者である男性オタクたちは「萌え」と「エロ」が違うものだということに気づいていく。それは少女的無垢性への憧憬であり、無垢な少女への自己同一化であり、無垢な存在に受容されることそのものであった。
一方多くの女性オタクたちは「萌え」概念の導入において、おそらく「既存のものに名前がついた」という感覚だったのではなかろうか。彼女らが求めていたもの、それもやはりエロではなく「関係性」であった。鉛筆と消しゴムがいたらその2者の関係性を妄想して2時間は過ごせるという女性オタクは少なくない。そこにエロが含まれることも少なからずあるが、それは彼女らにとってスパイスのようなものだろう。スパイスの効きまくった料理が好物でしょうがない人も少なからずいるのではあるが。
こちらのブログ記事を頷きながら読んでたんだけど、いまひとつ腑に落ちないところがある。
「萌え」と「エロ」は全く違うものなの? 記事では少なくとも切り離せるものだと解釈されているようだった。猫や無邪気な子どもを見たときの可愛いさと通底するというのはよくわかるんだけど…
コメントに、純粋だった「萌え」に「エロ」が途中で混ざったので、それを抜き去って「尊い」概念になった、というような意見があった。ナルホドと思ったんだけど、でも「シコい」もまた「萌え」から生まれた言葉だよね。
http://www.kore-eda.com/message/20180607.html
Twitterとか見ると変な部分に突っかかって是枝監督に怒りをぶつけてる人が多い。
多分元の文章をまともに読んでないせいだと思うので、きちんと整理しておきたい。
一般的には「喜びを祝う気持ち」のことを指すけれど、文脈を見ると
国会の参院文科委員会で野党の議員が「(是枝に)直接祝意を表しては?現場をとても鼓舞する。総理に進言を」と文科相に問いただしているやりとりを目にし、更にその後「林文科相が文科省に招いて祝福したいという意向を示した」と伝えられたとNHKのニュースで目にしました。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
つまりどこかに呼ばれて表彰、みたいなことは断るよ、ってだけの話なんだよね。
デマ。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
「顕彰の問い合わせ」に対して「有り難い」って書いてあるじゃん。
何を勘違いしたのか
親から仕送り貰って、大学卒業したり優秀な成績残した時に親からおめでとうと言われた際に「親からの言葉は受け入れない」とか言ったら批判されるよね。
親からの「おめでとう」を断るのがカッコイイとか、それが許されるのは反抗期まで。 成人でもみっともないと言われるのに、還暦近い人がそんなの言うとか流石に度を越している。
国から給料貰っておきながら、国家も歌わず日の丸に敬意を示さないどっかの教員連中も同じ精神構造なんだろうね。いつまで経っても反抗期の子供なんだよ。
親と子供の関係に例える人なんか特に多いが、その例えは明らかに間違っている。
(文化庁は親ではないし、お金の出処は税金または文化庁への寄付であって"親"が汗水たらして得た金ではない)
まず、「告発を目的とした映画ではない」と発言していることは知ってもらいたい。
この「公権力を批判」というもの。人によって想定してることがぜんぜん違うんだけど。
「公権力そのものを否定する」というようなアナキスト的思考ならともかく、「社会の問題点を指摘する」レベルのことは独裁政権以外なら誰だってやっているよね。
以下の文にあるように、是枝監督が「映画を撮りながら考えていたこと」は「それほど目新しいものではない」。
「単身者が孤立」とか「自己責任論」とか、多くの日本人がすでにテレビや新聞、ネット上で共有している。
助成金もらっているからってこのレベルのことも言ってはならない、なんてことはないはず。
取材の中で「何故社会からこのような“不可視の”家族が生まれると思うか?」と作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発を目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくまで私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。日本は地域共同体が壊れ、企業共同体が壊れ、家族の共同体も三世代が一世代、単身者が増えて脆くなっている。この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視の状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉と視線によって断罪されるだろう。…ということも話した。これが背景。これは『映画を撮りながら考えたこと』という拙書でも既に述べている考え方である。まぁそれほど目新しいものではないだろうことは自覚しているが。
中原麻衣、雨宮天、名塚佳織はキャラ-自己への感情流入にたいし「転換点」がなく、自分=キャラであるため演技がとてもナチュラルであり、かつその感情表現は豊穣である。ひぐらしの竜宮レナ、CLANNADの古河渚、刀語の七実……どれをとってもそこにいるのは"中原麻衣"ではなく"そのキャラクター"である。自己を押し出すのではなく、架空の存在の輪郭を描き、なりきり、自己同一化するの演技は魅力的。
田村ゆかり、花澤香菜、生天目仁美、福圓美里らはとかく「熱量」がすごい。感情表現の幅がおどろくほど広く、深く、そして時にはこちらを焼き尽くすほどの一点集中型のエネルギーをぶつけてくる。スマイルプリキュアのみゆき(=福圓美里)の高らかな希望の叫びに、涙してしまったものも多いだろう。ああいうふうに、あてられたものは感化される。されてしまう。彼女たちの演技はとかくアジテーション的であり、拒むことさえ難しいものだ。それゆえに声優としてはピカイチであろう。
たいして佐倉綾音は感情がこもっていなく、あるいは表面的で、全く心に響かない演技の数々だ。これは感情精査が他と比べるとうまくいっておらず、またそれを表現することに関しても幅が狭い要因となっている。正直薄っぺらいんだよ。演技は毎度のごとくテンプレであり、同じやり方を、同じふうに繰り返すことばかり。キャラクターを演じるのではなく、自分を押し出すような、自己でキャラを塗り替えんとするそれは演技でもなんでもない。ただの自己表現だ。しかし『オカルティック・ナイン』の成沢稜歌に関しては「表面的」であることが有利に働いている。このキャラの場合、本心を隠し、「ガワ」であることが作品的に重要なので、佐倉綾音の表面的な演技とがっちり結びつく。そのシンクロ率がかえって成沢稜歌という魅力を高めてくれていると言えそうだ。
個人的にはそれが小学生における「馬鹿という奴が馬鹿」と同様に、反論が容易では無く、なおかつ世間からの立場に対する格差があるからだと思う。
例えば、他人をクズ呼ばわりする人間もどうかと普通なら思われる(上記の理屈の反論しづらさもそこに一因がある)、しかし相手がオタクだとかニートだとかなら言い過ぎても許されるので、思想的に対立する立場の人間にそのレッテルを貼ることに執着する人たちは後を絶たない。
最近では、寛容やリベラルや反差別の立場に立つ人間のネットウヨ叩きには反吐が出たものだ、彼らはネットウヨと社会的弱者と結びつけ。にもかかわらず彼らの救済などは気にせずに美学的な醜悪さを強調して叩き台にするだけと来た、しかも、ある種の悪者のステレオタイプを着せられ言ってないことや読み取れないことまでも言っていることにされているのだ。(例えばネットウヨは韓国が経済成長をして生意気だと感じるから差別しているそうだ、しかし、実際にそういう人たちの言論は歴史や文化に関する捏造や、いい加減な日本叩きに対する文脈の中で行われていて、これを差別問題だと思う人間はちょっと信用できない)
前置きが長くなったが、以下の記事もその種の無自覚に依拠していると思われる。
一見高い理想とプライドを持っているように見えるが、他人をクズ呼ばわりしたり馬鹿にすること自体には無頓着で他人を見下さなければプライドを維持できない人間の典型だ。
http://anond.hatelabo.jp/20081206220423
日本と自分を同一化し、日本すごい=俺すごいとオナニーしている。しかもその自覚すらないのないのだからよけい醜悪だ。
本人にそれを言うと必死に否定するが「日本SUGEE!」と言っている人間を馬鹿にすると何故か「日本はキミが思っているよりもすごい。日本を悪くいうな」と返ってくるので苦笑してしまう。「自分」への批判が「日本」への批判へと直結してしまっている。これは日本と自分を同一視しているからに他ならない。
何故かも何も、「何かに」ついて語ることや評価することを一足飛びに話者への人格攻撃にしている時点で彼の方が論点の同一視を始めているし、こういった場合一般社会の言語活動に置いて、論点が「何か」を巡る事は極めて自然なことである。
言語活動が必ずとも理路整然と行われない事は彼自身が証明しているし、言語が文脈によって論理の事実性以外の含意を持つのも学者達によって散々言われてることだ。この場合、彼が日本SUGEEへの攻撃として人格攻撃に走ったと見なされるのは不自然な事ではない。
そもそも、彼のロジックでは過去の偉人以上の人間で無ければ「SUGEE」の一言も言えず、言えばクズだという論理になる。こんな馬鹿な話はないだろう。(しかも上記の彼は「SUGEE!」を言う人を、これからの結果を出そうという努力を放棄しているとほぼ決めつけている、後ろ向きな考えだとまで言ってる)
こういう思想の方がよっぽど現在進行形で差別を振りまいてるとしか思えないし、こういう発想を現状打破的な指向で打ち出されても蒙昧主義にしか見えない。
……まあ、いいけど。
「実際は助けてくれるかどうかわからないけれども最後には国にすがるしかない」、みたいな切迫した気持ちが変質して国への自己同一化を促してるんじゃないかな。ストックホルム症候群ってそういう防衛機制じゃないっけ。
鸚鵡返しでしてやったり、と思ってるところに野暮かもしれんが。