帝都高速度交通営団(営団地下鉄)発足5カ月後の1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が始まった。3年8カ月にわたった戦争で東京の街は焦土となり、東京大空襲(45年3月)で壊滅的な被害を受けた浅草をはじめ、戦前栄えた地下鉄沿線の被害は甚大だった。
しかし、地中を走る強みで地下鉄施設自体の被害は比較的軽微だった。45年1月の空襲により、銀座駅ホーム付近のトンネルが500キロ爆弾で破壊されたことなどが記録されるにとどまる。乗務区があった浅草「雷門ビル」も、自慢の尖塔(せんとう)は失われたが、職員の懸命な消火活動で奇跡的に焼け残った。
ただ、浅草-渋谷間(現在の銀座線)の次に計画されていた赤坂見附-四谷見附間(現在の丸ノ内線の一部)の建設は、42年6月にいったん着手したものの、戦局の悪化に伴って44年6月、政府命令により中断を余儀なくされた。徴兵で男性職員が不足し、運転士や車掌を含め、女性が中心となって地下鉄運営を担った。
戦後になると、戦時態勢下で生まれたほかの営団は、連合国軍総司令部(GHQ)の方針で次々と解散する。しかし、営団地下鉄だけは、設立の目的が戦争遂行とは関係がなく、都市交通の改善のためだったとする主張が受け入れられ、存続が決まる。ただ、新たな路線の建設が再開されるのは50年代になってからだ。
戦後の地下鉄整備は、運輸省(現国土交通省)の審議会答申などに基づき政府主導で推進されていく。初の整備計画は46年、「戦災復興院告示」の形で、現在の丸ノ内線に当たる「4号線」など5路線が示された。
だが、当時の営団は、とても新線建設どころではなかった。ほかの交通機関とは異なり、戦争でほとんど被害を受けなかったため、電車はいつも超満員。しかし、極端なインフレに運賃改定が追いつかず、経営は苦しかった。
こうした状況が落ち着く49年ごろから、新線建設の動きが始まる。巨額の建設資金を調達するため、営団は政府から融資を受けようと働き掛けた。ちょうど郵便貯金を原資とする「資金運用部資金」の制度が創設される時期で、早速、この制度の活用を図った。しかし、そのためには、公社・公団並みの公共性の高い組織であることが必要だった。
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