中国で、無差別殺傷事件が相次いでいる。
2024年6月24日、江蘇省蘇州市で日本人学校のスクールバスを待っていた日本人母子が襲われ、阻止しようとした中国人女性が死亡。9月18日には広東省深圳市で日本人学校に通う男子児童が登校中に刃物で襲われ死亡し、日本社会に大きな衝撃を与えた。
行き過ぎた愛国教育の弊害
9月18日は歴史的に中国で「国恥記念日」とされる「柳条湖事件」が起きた日であったことから、深圳の事件は、背景に反日感情があったのではないかと推測された。
中国で「国恥記念日」は四つある。「5月9日」(1915年、日本が突き付けた二十一カ条要求を袁世凱・北京政府が受け入れた日)、「7月7日」(1937年、日中全面戦争へ突入する発端となった盧溝橋事件が起きた日)、「9月18日」(1931年、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きた日)、「12月13日」(1937年、大量虐殺があったとされる南京事件が起きた日)である。いずれも「日本による中国への全面的な侵略が始まった国恥の日」とされ、今日でも、中国政府は愛国主義教育の一環として大々的に宣伝している。
容疑者の動機は明らかにされていないが、日本人をやっつければ、加害行為は「犯罪」として非難されるよりも、中国社会ではむしろ「称賛」される傾向があるのは事実だ。行き過ぎた愛国主義教育が生み出した弊害だろう。日本人学校では安全確保の対応として、中国と香港にあるすべての日本人学校で、この「国恥記念日」のひとつ、「南京事件」が発生した12月13日を、全面休校にしたりオンライン授業に切り替えたりすることにした。
閉塞感?不公平感?権力への不満?
だが、被害は日本人にとどまらない。中国各地で自国民の子どもらが無差別に狙われる殺傷事件も頻発している。
列挙してみると、▽24年10月28日、北京市の小学校の門前で、小学生3人と父兄2人が男に刃物で切り付けられ負傷▽11月11日、広東省珠海市で男が車を暴走させて35人が死亡し、43人が負傷▽11月16日、江蘇省無錫市の職業専門学校で切り付け事件があり、学生8人が死亡し、17人が負傷▽11月19日、湖南省常徳市の小学校前で十数人の児童や歩行者が、男の乗ったスポーツタイプの多目的車(SUV)に次々とはねられ負傷ー。1カ月足らずで4件も起き、死傷者は計110人超に上った。
当局は、暴走事件の容疑者は「裁判所の離婚調停に不満を抱えていた」、専門学校切り付け事件の容疑者については「21歳の元学生で、卒業できないことに加えて、実習先の報酬が不満だった」とそれぞれ発表した。中国外務省は11月13日、「中国は世界で最も安全で、刑事犯罪の発生率が最も低い国の一つだ」と会見で述べて、いずれも単発的な事件だと主張。習近平国家主席は「リスク管理を強化し、極端な事件の発生を厳しく防ぐ」とする、異例の「重要指示」を出した。しかし、根本的な原因究明と具体的な改善策には言及しなかった。
海外では、中国で頻発する無差別殺傷事件の原因について、「経済停滞による社会の閉塞感」、「社会的、経済的に取り残された人々による不公平感によるもの」、「監視社会による検閲が問題ではないか」、「裁判所や労働法など公権力への不満がある」などと分析する専門家が少なくない。確かに個別の事案で当てはまる部分はあるが、すべての事案に通底する背景としてはどれも説得力に欠けているのではないだろうか。
魯迅が指摘する中国人の国民性
ところで、中国の文豪・魯迅(ろじん)は社会批評の作品『灯火漫筆』で、古典の中にあるーー「人には十等がある。…王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿を臣とし、輿は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は台を臣とする」(『左伝』昭公七年)ーーという一文を引き合いに出して、こう言う。
「だが、『台』に臣がなくては、辛かろうではないか。心配ご無用、彼よりももっと卑しい妻がおり、もっと弱い子がおる。しかもその子にも大いに希望はあるのだ。大きくなって『台』になれば、もっと卑しいもっと弱い妻子を得て自分の手足にできるのだ」(『魯迅全集』1、学習研究社、1984年)。
つまり、中国社会は伝統的に「弱い者がさらに弱い者をいじめる社会」であり、それが中国人の国民性の本質になっていると説くのである。
身勝手で哀れな「精神勝利法」
では、最下位にある「弱い者」は、どうやってうっぷん晴らしをするのだろうか。魯迅の代表作『阿Q正伝』は、社会の最下層で生きる名もない阿Qが、周囲の人々にいじめられ、珍妙な「精神勝利法」を編み出す風刺小説である。
「精神勝利法」とは、阿Qが頭のはげを村人にからかわれ、殴られても、「(親が)息子にやられたようなものだ。近頃の世の中はへんてこで…」と思うことで、相手を自分より下位の者だと考えて自分を慰める。村人から馬鹿にされて殴られると、自分で自分の顔を思いきり殴りつけて、殴ったのは自分で、殴られたのは自分ではないと思い込むことで、「よし、やってやったぞ!」と考えて、爽快な気分に浸る。村の酒店で、か弱い尼さんの頬をつねって、客たちが笑うのを見て、自分が上位にあると確認して優越感に浸る。―といった、滑稽だが哀れで筋違いの不満解消法なのだ。
頻発する小学生を狙った殺傷事件や、車で群衆に突っ込んで他人を巻き添えにする事件では、社会的、経済的、精神的な苦境にある「弱い者」が、ナイフや車という武器を手にして自分の威力を高め、自分より「さらに弱い者」をいじめるという共通の構図が透けて見えてくる。最近、中国で大量の犬が毒殺される事件が立て続けに起きたというニュースがあったが、これも「人間よりさらに下位にある弱い動物」をいじめる構図にほかならない。
これらは正に、身勝手で哀れな筋違いの「精神勝利法」の表れではないだろうか。
声をあげる場所がない社会
経済不況で失職し、低賃金で困窮する人々のはけ口は乏しく、高齢化により将来の年金問題は深刻だ。生活保護などの社会福祉は無きに等しく、救済の道を教えてくれる人権弁護士は次々と当局に逮捕されている。お腹がすいても、日本の「子ども食堂」のように食事を無料・低価格で与えてくれる活動や、生活支援のボランティア組織は、中国には存在しない。
地方政府の汚職に不平不満を抱き、司法へ訴えても、裁判所は信用できない。中央政府に直訴しようと、「上訪」(サンファン=地方在住者が北京へ行き、中央官庁に告発すること)すれば、犯罪者として逮捕され、地方へ送り返されて、さらにいじめられる。SNSに不満を書き込めば、すぐに警察が飛んできてどう喝され、SNSを閉鎖されてしまう。
つまるところ、1930年代に魯迅が「声なき民」と評した当時の一般国民は、文字が書けないために「声をあげる手段がなかった」が、現代では文字は書けても「声をあげる場所がない」のだ。どこにも救いのない閉塞社会で、人々に何ができるというのか。専制君主による強固な支配体制、がんじがらめの社会構造、「弱い者いじめ」という伝統的な国民性の本質は、21世紀の経済大国になった今日でも、中国文明の特性の悪しき一面として、脈々と受け継がれているのではないだろうか。
【筆者紹介】譚 璐美(たん・ろみ) 東京生まれ。慶應義塾大学卒。慶應義塾大学講師、同校訪問教授などを経て、作家業に専念。日中近代史を中心に、国際政治、経済、文化など幅広く執筆。近著に「帝都東京を中国革命で歩く」(白水社)、「中国『国恥地図』の謎を解く」(新潮新書)、「宋美齢秘録」(小学館新書)など。