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元近鉄の本塁打王、ブライアントさんが独立リーグで指揮 仰木彬さんの教えも胸に

2022年09月15日13時00分

冷めない野球への情熱

 かつて日本のプロ野球を沸かせた外国人スラッガーが、北海道の北部に位置する士別市で奮闘している。1988年から95年まで近鉄に在籍して本塁打王や打点王に輝くなど長距離砲として鳴らしたラルフ・ブライアントさん(61)。今は野球の独立リーグ、北海道フロンティアリーグ(HFL)の士別サムライブレイズで指揮を執っている。ファンを魅了する多くのアーチを架けてきた名選手が、指導者として再び日本でユニホームを着ることになった理由とは。(時事通信札幌支社編集部 嶋岡蒼)

◇ ◇ ◇

 士別は今季が創設2シーズン目。開幕前は中日などで活躍したトニ・ブランコさんが監督に就任する予定だったが、ビザ発給などの都合が合わず、来日できなかった。そこで新たな候補に浮上したのがブライアントさんだった。自身も理事に名を連ねる日本プロ野球外国人OB選手会から球団に紹介があり、監督を務めることになったという。

 「士別という町にチームがあって、そこの監督になってみないか、と。野球に携わっていない期間が長かったが、また野球に関わる仕事をしたい、日本で監督をしたいと考えていたので、いいチャンスだと思った」。現役引退後、指導者の経験は2005年にオリックスの1軍打撃コーチを務めた1年だけ。その後は野球から離れていたが、情熱は失っていなかった。

不慣れな生活環境の中で

 望んでいた監督就任がかなうことになったが、不安もあった。「(現役時代に)日本ではいろんな地方でもプレーしたけど、士別という名前は聞いたことがなかった。どんな町か知らなかったので」

 拠点とする士別市は人口約1万7000人。札幌市からは約180キロ離れ、北海道第2の都市、旭川市の北に位置している。米ジョージア州にある出身地も「小さな町だった」。ただし、「こことは違うので…。難しいですね。慣れないといけないんですけど」。就任直前までは、ジョージア州の州都アトランタで芝の管理会社を経営していた。それをやめる決断をして士別にやってきたが、ほとんど経験したことのない不慣れな生活環境だけに、悪戦苦闘もしているようだ。

球史に残るダブルヘッダー4発

 ブライアントさんは現役時代、1988年に中日に入団。出場機会に恵まれず、シーズン途中に近鉄へトレードで加入した。すると、その年は74試合で34本塁打。潜在能力が一気に開花し、95年までの8年間で259本塁打を放った。ファンの記憶に鮮烈に刻まれているのが89年10月12日、西武とのダブルヘッダー。2試合にまたがる4打数連続本塁打をマークした。激しい優勝争いの天王山だった。猛打を再現すると―。

 舞台は敵地、西武球場。第1試合、4点を追う四回に西武先発の郭泰源投手から右越えソロ。再び4点ビハインドの六回、同じ郭からまたも右越えに、今度は満塁本塁打を浴びせた。これで5―5。迎えた八回、西武のマウンドは渡辺久信投手。躍動感のあるフォームから投げ込んできたこん身のストレートを完璧に捉え、右翼席上段へ。打たれた渡辺が膝をついてぼうぜんとするシーンは、よく知られている。

 この一発は、今も忘れられないという。「渡辺投手にはいつも苦しめられていた。だから、一番印象に残っている」。郭、渡辺というパ・リーグを代表する右腕から見舞った3打席連続アーチで、6―5の勝利に貢献した。続く第2試合。最初の打席は敬遠の四球で、2―2の三回に中堅左へソロ。勢いづいた近鉄打線がさらに得点を重ねた。14―4で快勝し、チームは9年ぶりのリーグ制覇へと突き進んだ。個人では49本塁打で初の本塁打王。リーグ最優秀選手(MVP)にも輝いた。

 米国の自宅には、近鉄時代のユニホームやヘルメットが飾ってある。「とにかく、今はもう近鉄バファローズというチームが存在しないので。いい思い出があるから、大切にしている」。2004年の球界再編でオリックスと合併したことに伴い消滅した近鉄。本拠地とする士別の球場には、当時のファンがサインを求めに訪れることもある。

仰木監督の下、「長くプレーできた」

 日本で薫陶を受けた指導者の1人が、近鉄やオリックスなどで監督を務めた故仰木彬さんだ。仰木さんは、大胆な戦術や意表を突く選手起用が「仰木マジック」と称された名将。ブライアントさんが近鉄に入団した1988年からチームを率い、89年のリーグ優勝を含む5年連続でAクラスに導いた。オリックスの監督時代は95、96年と連覇し、96年は日本一に導いた。

 日本で活躍できた理由の一つに、仰木さんの下でプレーできたことを挙げる。「他の監督だったら、ここまで日本で長くプレーできたと思わない」。仰木さんが助言の中で最も重視していたのが、自然体でプレーすることだ。「他のことは何も考えなくていいから、とにかく自分の打撃をするように、と言われた」。練習中は主に選手を観察し、細かい指導はなかった。野球に対する考え方が異なる外国人選手にフィットするものだったのかもしれない。

選手は平日仕事、休日に野球

 今季発足したHFLはまだ歴史が浅く、レベルは成長途上だ。日本のプロ野球(NPB)との力の差は、ブライアント監督も実感している。仰木さんから受けた教えをそのまま反映させるのは難しいという。ただ、選手に対して強制せず、助言を送るスタイルには通じるところもあるようだ。「あれを変えろ、と選手に言ってもよくないと思うし、それがすぐにできるとも思わない。気付いたことをその都度、少しずつ言うようにしている」。球界には仰木さんの教え子が多い。その一人が指導者として、北海道の士別でNPBを夢見る若者たちを育てている。

 HFLのリーグ運営は独特だ。少子高齢化など地域が持つ社会問題を解決するため、選手は平日にホームタウンで働き、主に休日に試合に参加する。士別の選手は、球団を経営する地元企業や農家、温泉施設、高校の非常勤講師などに従事しながらプレー。ブライアント監督は「試合間隔がどうしても空いてしまう。野球はプレーのリズムが大切なスポーツなので、選手には難しい。ただ、そこで技術を身につけて上に行ってほしいと思う」。リーグ理念に共感しつつ、なかなか野球に時間を割けない事情に苦心もしている。

伝えたいのは「決意を持って」

 制約のある中でプレーする選手に、ブライアント監督が最も伝えたいのが「決意」を持つことだ。「ここでプレーしている時点で(NPBに)ドラフトされていないわけじゃないですか。社会人野球でもプレーできていない。それよりも下のリーグがここなので。そういう選手がプロに行くには、相当強い決意がないと行けない」。若い選手を鼓舞するように、言葉に厳しさをにじませた。

 ブライアント監督自身、米国での実績は乏しかった。それでも「失う物は何もない」と先だけを見据えて、日本での成功を夢見て取り組んでいたという。「選手にとってはチャレンジ。上のリーグに行きたければ、とにかく強い決意を持って野球に取り組むように伝えている」。普段は陽気で気さくな人柄だが、そう語る時、まなざしは真剣そのもの。還暦を迎えた後、かつて自身が輝いた異国の地で新たな挑戦。生き生きとプレーする選手を前に、目を輝かせている。

◇ ◇ ◇

 ラルフ・ブライアント 1961年5月20日生まれの61歳。88年に中日入団。同年途中に近鉄にトレードで移籍した。95年まで在籍し、通算で773試合に出場して259本塁打、641打点。89年には49本塁打、121打点をマークしてリーグ優勝に貢献し、パ・リーグ最優秀選手(MVP)に輝いた。タイトルは本塁打王3度、打点王1度。引退後は2005年にオリックスの一軍打撃コーチも務めた。

(2022年9月15日掲載)

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