はてなキーワード: 有機とは
本稿は、13歳になった君にこれからの人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである。
観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生の選択肢を狭めないためである。
具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策を模索して欲しい。
もちろんお父さんも協力は惜しまない。
人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段や道筋」は自然と定まる。
歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの、漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものだからである。
ポイントは、まず「自分が想像する理想の未来=目標=ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段=ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)
「ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算や分析、論理的思考で精緻に組み立てていくものである。
多くの人は与えられた「手段」から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要だから働く。なんとなく環境に悪そうだから「ビニール袋」を使うのをやめてみる。などである。勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。
「電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシュー)から入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的な姿勢である。
そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的、一面的、一時的な見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。
受験や就職、大きな買い物、仕事、恋愛、結婚など人生の重要な決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。
その際、ひとつ注意すべきなのは人間の物理的感覚、時間的感覚、記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去の記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間や度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計やデータに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。
先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢」である。
人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害や戦争など自分では回避、制御できないことも起きる。
『良いことばかりは続かない』という覚悟は必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。
おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。
「成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。
成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応が「奇跡」を起こす。
重要なのは、奇跡を自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。
人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。
『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる。学校には「校風」、会社には「社風」がある。
自身が意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。
気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書や金持ちかどうかとは関係がないという点である。会社の社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人や変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間が存在するという現実は認識しておいた方が良い。
出会う人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分でコントロールできる。付き合う人や、身を置く場所や環境は自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかしな場所、コミュニティには近づかないこと。
たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。
「エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間の森羅万象すべてに当てはまる普遍の法則とされる。水に拡散したインクが自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプをシャッフルするのは容易だが、偶然きれいにカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大である。エントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である。
人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。
井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナは大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。
もう一度言う。『人は環境によって作られる』
お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味でお金は重要である。
その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生の選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。
金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。
お金を稼ぐときには、ギャンブルや宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値=確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事の計画を立ててはいけない。
怪しげな儲け話も同様である。誰かから「うまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。
確かに「成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力が必要になる。
『100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である。100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分の努力でなんとかなるということを理解すること。
近い将来、君は世の中に無数にある仕事や事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人からの感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。
野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツや芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。
しかし、投資やギャンブルで稼いでも誰からも感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。
人間の欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊しQOL(Quality of Life、生活の質)が低下する。
この課題に対する古来よりの解決策はただひとつ。収入から「天引き」することである。給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。
「天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人もイスラムもメソポタミア文明も華僑も日本の本多静六という人物(明治の造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課や組織に必要な費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである)
人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由は消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものまである。自動車も同じ。毎日飲むお茶、毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求はお金がある限り続く。それが人間の本質なので努力や気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから「欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。
そのために最も有効な方法が「天引き」である。人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである。
「天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単な方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。
次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。
高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。
高級車も普通車も、飛行機のエコノミークラスもビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値(デザインなど)を認めることは人間が文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格の価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。
その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間の心理的な欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来の機能=目的」を基準にして価値を判断するとぶれない。
基本的に日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的な事象は別にして)無くなってから買っても不自由することはない。
経営学における重要な概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である。
特売だからとか念のためにとかいう理由で安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってから次のものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である)
それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法でこちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。
あらゆる在庫を管理するためには「整理整頓」が重要である。身の回りのものは整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。
整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的なものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO、公文書管理規則、生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。
ちなみに、このような「一生使える知識や技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの、方法、知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。
金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業、組織など存在しないことを考えれば、出納管理は必須の Permalink | 記事への反応(0) | 21:00
この増田の言っていることはとても大切だし、その通りだと思います。
増田自身は別に同姓強制派だとは一言も言っていないし、この文面だけではなんとも言えないと思いますが(選択制支持かと思う)、煽るようなコメントがついているのにがっかりします。
増田がやっているのは、(選択制支持である)自分たちとは違う立場の人々が、一体どういう思考回路でその考えを支持しているのか、説明しようとする試みで、使っている例えが本当に適切かどうか、表現としてベストであったかはさておき、そういう営み、奮闘、struggleは民主主義を成り立たせる上で、というかなんであれ一つの社会で生きていくうえで、最も尊いものの一つだと思います。
増田の言う通り、一定の、それもかなり多数の人々は、あるべき世の中と自身のアイデンティティが連続的にできているのです。
これを愚かとか自他境界が不分明とか嘲弄するのは簡単ですが、そういう無理解の方がさらに一層愚かだと思います。
姓くらいであれば、「制度が個人の選択を受け入れるか否か」だけの問題、と少なくともわたしは割り切れますが、別姓選択制を支持するタイプの人々でも、無意識のうちに自身と連続的なものとして期待している世界像というものがあるはずです。
自分はかなり個人主義的というか、個というものを絶対視するタイプの人間として育ちましたが、それでも人と交わらないでは生きていけませんし、精神的にも難しいです。大体、わたしが「わたし」と呼ぶ存在が、「わたし」としてこの言語を語りだし、今も語っているのは、語るべき存在として親が(日本語で)語りかけ、今もなお個的存在として人々に認識されている結果にすぎないでしょう。「個」の方がむしろ社会的に成り立たされた仮構、あるいは約束事のようなものとも言えます。
話を広げれば、わたしたちの存在自体、偶発的に成立した有機的・無機的環境の上に発生し、今のところ維持されている渦のようなものに過ぎず、個の外にも色々な生き物がいて食べたり排泄したりするし、体の中にもたくさん細菌やらがいて、それらが身体的のみならず精神的な要素まで大きく左右しているのは、最近ではほぼ共有された科学的知見になっていると思います。
話が大きくなりすぎましたが、個というものが画然とあって、自分は自分、他人は他人、世の中は世の中、とわけられるなどというのは、かなり上澄みのフィクションに過ぎません。
もちろん、わたし「個人」はこのフィクションを大切にしたいです。連続的でベチャッとした世界にあって、自分自身の安寧を守っていくために、このフィクションを手放したくありません。だから選択制を支持するし、極力個人の自由というものを尊重したいと思いっています。
ただ、それは当たり前のことではありません。どちらかというと個を特別に尊重しようとするわたしたちの方が、プリミティヴで自然な流れに抗う異端児のようなものだと自覚した方が良いと思います。
繰り返しですが、わたし自身は異端児の一匹として自由を尊びます。しかし同時に、そんなわたしを今日まで生かしてくれた、わたしとは違う人々、わたしの外の世界、わたしの外や中にいる生き物に感謝したいですし、彼彼女ら、それらに対し、できる限り理解を示したいと思っています。
yoshikogahaku
この増田の言っていることはとても大切だし、その通りだと思います。
増田自身は別に同姓強制派だとは一言も言っていないし、この文面だけではなんとも言えないと思いますが(選択制支持かと思う)、煽るようなコメントがついているのにがっかりします。
増田がやっているのは、(選択制支持である)自分たちとは違う立場の人々が、一体どういう思考回路でその考えを支持しているのか、説明しようとする試みで、使っている例えが本当に適切かどうか、表現としてベストであったかはさておき、そういう営み、奮闘、struggleは民主主義を成り立たせる上で、というかなんであれ一つの社会で生きていくうえで、最も尊いものの一つだと思います。
増田の言う通り、一定の、それもかなり多数の人々は、あるべき世の中と自身のアイデンティティが連続的にできているのです。
これを愚かとか自他境界が不分明とか嘲弄するのは簡単ですが、そういう無理解の方がさらに一層愚かだと思います。
姓くらいであれば、「制度が個人の選択を受け入れるか否か」だけの問題、と少なくともわたしは割り切れますが、別姓選択制を支持するタイプの人々でも、無意識のうちに自身と連続的なものとして期待している世界像というものがあるはずです。
自分はかなり個人主義的というか、個というものを絶対視するタイプの人間として育ちましたが、それでも人と交わらないでは生きていけませんし、精神的にも難しいです。大体、わたしが「わたし」と呼ぶ存在が、「わたし」としてこの言語を語りだし、今も語っているのは、語るべき存在として親が(日本語で)語りかけ、今もなお個的存在として人々に認識されている結果にすぎないでしょう。「個」の方がむしろ社会的に成り立たされた仮構、あるいは約束事のようなものとも言えます。
話を広げれば、わたしたちの存在自体、偶発的に成立した有機的・無機的環境の上に発生し、今のところ維持されている渦のようなものに過ぎず、個の外にも色々な生き物がいて食べたり排泄したりするし、体の中にもたくさん細菌やらがいて、それらが身体的のみならず精神的な要素まで大きく左右しているのは、最近ではほぼ共有された科学的知見になっていると思います。
話が大きくなりすぎましたが、個というものが画然とあって、自分は自分、他人は他人、世の中は世の中、とわけられるなどというのは、かなり上澄みのフィクションに過ぎません。
もちろん、わたし「個人」はこのフィクションを大切にしたいです。連続的でベチャッとした世界にあって、自分自身の安寧を守っていくために、このフィクションを手放したくありません。だから選択制を支持するし、極力個人の自由というものを尊重したいと思いっています。
ただ、それは当たり前のことではありません。どちらかというと個を特別に尊重しようとするわたしたちの方が、プリミティヴで自然な流れに抗う異端児のようなものだと自覚した方が良いと思います。
繰り返しですが、わたし自身は異端児の一匹として自由を尊びます。しかし同時に、そんなわたしを今日まで生かしてくれた、わたしとは違う人々、わたしの外の世界、わたしの外や中にいる生き物に感謝したいですし、彼彼女ら、それらに対し、できる限り理解を示したいと思っています。
yoshikogahaku
ギロチン死刑がまだ盛んだった頃、死刑囚に瞬きし続けるよう命じて
頭部が首から落ちた後どれだけ意思を残ってるか実験していたという話を思い出して思った
怒り狂ったチワワの頭部を切り落とした場合、チワワは威嚇し続けるのだろうか?
仮に頭部が落ちた後も頭に残ったエネルギー全てを使ってこちらに向かってくるなら
未来の兵器もロケットみたいに殺傷部分にも操縦や追跡用のエネルギーを積むべき
現代のロボットは(SFも含めて)多く場合、有機生物をモデルにしてCPUは頭に、動力は冷却や面積の都合で胴体に置くことが多いだろうけど、
実際は重要な箇所(兵器なら攻撃箇所になる腕、移動兵器なら足など)と近い部分に置くべきではないか
もちろん、頭と胴体にこれらを置くことで腕や足を付け替えて別種のロボットに切り替えることができる利点もあるが
実際の運用を想定するなら腕に本体とエネルギーの一部を置いて、腕先に攻撃箇所をつける、そして運用時は体の方を変更する
もしくは移動は移動用ロボットに任せて腕は別ロボットにやらせるという方が損傷した場合の継戦能力が高い気がする
家にいるから元気いっぱいだぜ!
むしろ出退勤性躁鬱と読んだほうがいいぐらいかぁ?どうなんだぁ?おいおい俺ぇ?
マジで家だと元気が凄い。
家にいる間は「メシうめえ!」「ゲーム面白い!」「この漫才凄!」「この書き込みオモロ!」って感じよぉん!?
でも職場だとね……「死にてえ……」「頑張らなかった罪がこの人生なんだ……」「マジで辞めてえ……」「俺みたいな奴どこも拾ってくれないよ……」みたいな感じで困っちゃう。
マジで元気100倍よ。
アンパンマンのアレな、ニヒリズム目覚めたてのジャリどもがよく「そもそも顔濡れてる時の状態が出力2%ぐらいなんだろうね」みたいに考察するけど、マジで職場にいる時の俺の生命力は一桁%なんちゃうん?
マジで生命力100分の1、それ逝け敗残兵のメンタルよマジで。
ほんまなんなんやろなー。
結局のところ、俺達が人格だと思ってるものなんて瞬間的な生体信号がたまたまたちょっと連続的になってるだけなのかもな。
つまる所、肉体がその場その場で繰り返した条件反射の連続でしかないものからメタ的に物語性を見出してるだけなんじゃないかなって。
まあ俺なんぞの言葉よりも「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体)」とどこぞのシスコン先生の言葉を流用すべきかぁ?
百合が好きなので、なんだか評判のいい漫画『熱帯魚は雪に焦がれる』を読んでみた。
結果として、2巻か3巻の途中で投げ出してしまった。
理由としては第一に、あまり面白くなかったから。第二に、読んでいてだんだん腹が立ってきたからだ。
腹が立った理由は「水族館部」の描写だ。結論から先に言うと、水族館部という珍しい部活をとり上げた理由が「なんかエモいから」でしかないと感じてしまった。
この作品は、主人公が田舎の高校に入学し、気になる先輩が所属する「水族館部」に入ることにして、その先輩と徐々に関係を深め合う、そんな物語である。
この水族館部というのは愛媛県の長浜高校に実在する部活動で、作者も現地へ取材に赴き、実質的に作品の舞台にしたようだ。
まず、水槽が多すぎる。
実際の水族館部もこれぐらい水槽があるのかもしれない。ただ、長浜高校水族館部の部員数は全校生徒の半分以上を占め、2024年3月時点で68人いる(https://www.asahi.com/sp/articles/ASS2W4TLBS2RPTLC011.html#:~:text=%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8%E9%83%A8%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%93%A1%E3%81%AF,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%AE%A2%E3%81%8C%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82)。
全国募集で部員数が増える前でも、数十人は下らなかっただろう。
しかし、『熱帯魚は雪に焦がれる』の設定ではなんと部員数は2人。主人公が入部する前は1人だったのだ。
水生生物を飼ったことがないと想像しづらいかもしれないが、水槽の管理はなかなか大変だ。
生体の老廃物や排泄物、食べかすなどで水が汚れるのでフィルター(濾過機)を常時回すのだが、どうしても濾過・分解しきれない物質が増えていくため、定期的に水を換えなければいけない。そしてフィルターも掃除しなければ目詰まりしてしまう。さらに水槽のガラス部分に藻や苔のようなものが付くので、こそぎ落とさなければならない。また、海水水槽の場合は析出した塩を取り除かなければいけない。水温の管理も必要だし、当然、生き物に関する知識を身に付けなければそうした調整もできない。
こうした作業を、数十個の水槽に対して2人で対応していくのは極めて困難だ。
百歩譲って、大量の水槽を2人で頑張って管理していたとしよう。しかしそうなると今度は、ストーリーとの整合性がつかなくなる。
この作品は主人公ら2人の仲良くなりたい、でも臆病になってしまう、みたいな繊細な心の動きを描いている。が、2人で何十個もの水槽を管理し、あるいは重い水槽を一緒に持って動かし、生物や水槽管理の知識を教え合い、なんてしていたら心の距離が縮まらないわけがない。ましてや、話しかけようかどうしようだの誘おうかどうしようだのでうじうじする距離感ではなくなる。距離感が近付いた結果仲良くなるか仲が悪くなるかは人それぞれだが、距離感が近付かないということはあり得ないのだ。少人数の部活動というのはそういうものだ。
また、登場人物の水族館部および水生生物へのスタンスも気になる。はっきり言って、2人とも生き物にあまり興味がなさそうなのだ。
主人公は生き物どころか水族館部にあまり興味がないけど流れで入部しているし、先輩も水族館部にいる理由を聞かれて「子どもの頃からそれが当たり前だったから」みたいなことしか言わない。途中で顧問の先生=先輩の父親も出てくるが、その人もちょろっと話を展開させる要因なだけで、生き物への愛情とかは語らない。(なんなら、作者も生き物のディテールや知識は細かく書き込んでおらず、好きではあってもめちゃくちゃ好きというわけではないのだろう。)
水生生物好きとしては「じゃあ誰がこの子(生き物)たちを好きなんだよ!?」と言いたくなる。別にこれが放課後に駄弁るだけのボドゲ部とかだったらボドゲに愛情がなくても構わないのだが、水族館部というのは一応命を預かっているのだ。色々と心配になる。
それでも水族館部の活動を通して、生き物への解像度とか、「生」というものへの関心とか、生きるって何なんだろうとか、そういうことに思いを馳せながら2人の関係にも有機的に絡み合ってくるのかなと思ったら、全然話に絡んでこない。岩陰から出てこないサンショウウオを「自分に似てる」と勝手に自己投影するぐらいである。そして、お互いにどきまぎしながら日々を過ごす傍らで、なんか水族館部の活動もしているっぽいぐらいである。本当に傍らである。
少し話は逸れるが、先輩が部活をやってる理由が想像以上にぼんやりしているのは悪い意味でリアルだと感じた。卒業した先輩の意思を継ぐためとか、水族館部を途絶えさせないためとか、過疎化していく地域のためとか、部員が1人になっても意地で続けていたとか、ベタながら物語映えしそうな理由はいくらでも思いつくのに、そうしたエクスキューズが特にないのだ。まあぶっちゃけ高校生なんてぼんやり生きているのが普通ではあるのだが、学校行事として開館日を設定して、他部の生徒にも協力してもらってまで水族館の地域開放を成立させているような状況でこのぼんやり具合はうそ寒さすら感じる。
ここまで長々と語ってきたが、この作品の水族館部描写の問題点は「リアリティのなさ」とその背景に見え隠れする「リスペクトの希薄さ」に集約できそうだ。
漫画のリアリティで言うと、別に幽☆遊☆白書を読んで「死んだ人間が生き返るわけないだろ!」とか言わないし、NARUTOを読んで「実際の歴史上の忍者と違う!」とか言う人もいない。では『熱帯魚は雪に焦がれる』のリアリティのなさは、なぜ問題なのか。
創作のために多少手を加えたり省略したりするのは許されるかもしれない。しかし、この作品では生き物を扱う苦労を無視してしまっている。こうした過度な美化は、現実の存在をただ作品を飾り付けるためだけに利用してしまっている表象ではないだろうか。
これがボドゲ部や手芸部ならいい。真剣な手芸部もあれば、放課後女子会のような手芸部もあるだろう。他の部活だってそうだ。
手芸部でもなんでもよさそうな内容を、ただ画的にエモいからということで日本で唯一の水族館部に設定してしまうのは厳しいものがある。
水族館デートというのはさまざまな作品で描かれてきた。現実のデートでも定番スポットだし、漫画やアニメ、ドラマで描写するにしても水槽が鮮やかで、でも館内は暗くて、なんかエモい。水族館を訪れる人はそれで十分だと思うし、水族館職員の奮闘に思いを馳せる必要はない。
しかしこの作品では、その水族館を「内部化」することでエモさを恒常的に発生させていて、一方でその現実的な苦労を描いていない。それが「いいとこ取り」で「表面的」にしか思えない描写に繋がっているのだと思う。
以上、水生生物が好きでもないと半分以上理解できない内容ではあると思うが、『熱帯魚は雪に焦がれる』に感じた違和感を記した次第である。
なお、論評するなら最終巻まで読んでからにしろと言われそうな気もするが、連載形式の漫画にそれをする必要性はないと思っている。
コドモちゃんは2週間前に生まれたばかりという設定で、Appleアカウントを作ってあげた。
そう、コドモちゃんは架空の子供で、私がファミリー共有機能をテストするために作ったのだ。
しかしもう十分テストできたのでコドモちゃんの役目は終わった。
コドモちゃんを捨てるのだ。
しかしここではじめて13歳未満のユーザーのアカウントは削除できない事に気付く。
しかも13歳未満だとファミリー共有のメンバーからも外せない。
これではコドモちゃんを捨てられない。
唯一、他の親にコドモちゃんを転送すれば少なくともファミリー共有からは消えてくれるらしい。
ということで今から新しい里親アカウントを作ってそこにコドモちゃんを引き取ってもらう。
幸せになって欲しい。
「ダイエット術」が魔術的ないかがわしいものばかりになるのは、人が直接的に「いつ脂肪が燃えているのか」を見ることができないからだ。
もしそれが「脂肪残量モニター」のようなもので直接わかるようになれば、食べ過ぎる前に「もうよしとこう」、食べ過ぎたら「ちょっと運動で減らすか」なんてゲームのような対応が誰でもできるようになる。
残念ながらそこまでのことはできないが、脂肪燃焼のメカニズムを理解すれば、実は「今日はちゃんと脂肪が燃やせた」くらいのことを確認することはできる。
考え方は非常に簡単。
「脂肪は燃焼されてエネルギーを使ったあと、尿(水分)になって排出される」
これだけの原理を知ればすべてわかるのだ。
「ガス火は水蒸気が出るから、焼き鳥がうまく焼けない」なんて話がある。
燃料になる有機化合物は、酸素と結合してエネルギーを放出するときに、大部分がH2OとC02になる。
大雑把に原理を言えば、これらの有機化合物の主となる部分は -CH2- の炭素鎖である。
ここに 1.5 O2 が反応して、CO2とH2Oが大量にできると思えば良い。
脱水した炭素Cの塊である「炭」はこういう燃え方をしないので、水蒸気が発生せず、香ばしく焼けるということなのだ。
さて、この化学方程式自体は人体のいわゆる「脂肪の燃焼」でも同じである。(触媒によってゆっくり進むという違いがあるが…その辺は化学の教科書を読みなおして欲しい)
我々はつい「脂肪が燃焼」すると開放空間での石油燃料のようにその瞬間に消えてなくなってしまうと思いがちだが、人体内のような閉鎖系ではそうはいかない。呼気中の水蒸気や汗として発散されるのは微々たるもので、大部分は体液として残留する。
というわけで、この脂肪燃焼後の水分を解放するのは主に「放尿時」になる。
「脂肪が燃えた」ということは、実はこの尿の量を細かくモニタリングしていると観察できるのである。
増田はこれを、在宅ワーク中トイレ休憩のたびに前後の体重変化を量ることで発見した。
トイレとトイレの間にはだいたいコップ1杯(約200ml)の水分補給しかしないから、大抵の場合はトイレの前とあとで200gだけ体重が変化する。
そしてこの「体内に残留した水分」を解放したあとは、決まって身体が楽になり、なにかスッキリして、そろそろごはんでも食べようかという気になるのである。
はっきり言うが、増田がいちばん継続したダイエットのメソッドはこれだけであった。
運動したり糖質制限したり色々したが、そのたびに効果をこの「尿量計量法」で確認することだけは怠らなかった。
その結果、「朝、この残留水分排出が終わるまでは固形物を食べない」という形に落ち着くのが一番安定して痩せることができたが、それは結果論だ。
何より大事だったのは、このやり方で「今日は脂肪が燃焼した」を、絶対的な体重変化(食事量、いつ量るかなども影響)以外で着実に実感できたのが一番良かった。
増田はこれにより、間断的だがのべ1年ほどで30kg痩せた。
実測的にも、継続して痩せることができるのは1日100gから多くても200gほどである。
100gの脂肪が持つエネルギーは×9で900kCalなので、増田のようにデスクワークで基礎代謝の少ない人、特に女性ならこれくらいが目安だと思う。
コロナ禍も過ぎ(?)、在宅ワークが少なくなっているとは思うが、できる人はとにかく毎日やってみると意識が変わると思うよ。トイレ前後の計量。
ちょうどアイドルマスターSideMの9thライブ2日目から一か月たつわけですが、
一か月もたったらこの気持ちも落ち着くかな?と思っていたのにあまり落ち着かなかったので折り合いをつけたくて文字に起こしてみることにしました。
長いし、読みにくいし、自分の恥ずかしい話をする感じの日記です。
3か月ほど前のこと、わたしはせむPだったので、「2日目せむ揃ったのか!!現地はもう間に合わないので配信見るぞ!!」という気持ちで日々を過ごしていた。
そして時は流れ9th直前の金曜日、仕事でどうしても納得できないことがあり、
2024年はいってからずっとバタバタしてるし、その上先輩へのモヤモヤがチリ積もで無視できなくなってきたしで珍しくめちゃくちゃ落ち込んでいたわたしは、とにかくこの配信を楽しみにしていた。
ライブは本当に良かった。
当時せむの最新CDは未発売で、あえて視聴も聞かないようにしていたので、Life’s Side Menu!の衝撃はすごかった!せむってこれだよな~~~~~
そんなこんなでライブも終わった頃、自分が思っていたより元気になっていないことに気付いた。
当然、SideMを摂取したはずなのになぜ……という思いがぐるぐると渦巻く。
確かに子どものころアイドルになりたかったこともあるよな…なりたかった気持ちを思い出しちゃってセンチになったのかな……うーん。
もう寝ようかという頃、ある一曲が引っ掛かっていることに気付いた。
それが『Eteniteen Age!!!/S.E.M』である。
『今になって やればよかった なんて思うこと やろうよ一緒に』
これをきいて無意識のうちに「今になってやればよかったと思うこと」がジワジワと心に染み出してきていたことに気付いた。
アイドルになりたかったとか、お笑い芸人にもなりたかったんだよなとかいろいろあったが、その最たるものがまさに大学院進学だったのだ。
でも辞退した身で、就職して2年目となり権限が付与された身、いまさら戻る決心もできず、
あと後述のとおり先輩へのモヤモヤで院進から逃げたのに職場の先輩のモヤモヤで院に戻りたいなんて、お前はまた逃げるのか???となり、
とにかく自分の選択が正解であったことを確めるためにとにかく一か月間いろいろ考えた。
それはつまり、なぜ院をやめて就職を決めたのかを振り返る時間だった。
〇この日記はつまり、振り返ったことを整理したいというのが主な目的です。
大学に入学したばかりのころは、当然院に進学することまでセットだと考えていた。
しかし2年のとき、コロナウイルスが突然猛威を振るい、外出自粛からの映像授業で完全に家に引きこもらざるを得なくなった。
1年の頃はあんなに時間割詰め詰めで忙しかったのに、急にあまりにも時間が増え、世の中が変わりすぎて漠然とした不安を覚え、そこでふと「公務員になりたかった」ことを思い出した。
小学生のころ、響きのカッコよさで国家公務員になりたいと思ったことがあったのだ。
あらためていろいろ調べてみると、合格したら3年(今は5年らしいけど)は有効なので、「学部で合格しておけば院いってから就活楽じゃん」と安直に考え、学部4年で受験することを決めた。
2年の途中から、「実験科目は対面でないとどうしようもない」ということで少しずつ家を出る機会も増えたが、このころにはわたしの公務員試験受験の決意は固まっていた。
また、この2年から3年にかけての実験授業で諸事情あって手が爆荒れしたので、もともと有機に憧れていたものの「実験系はやめよう」となり、もう一方で興味のあった物理系を志すことにし、研究室は計算系のところを選んだ。
さて、この研究室は先生も先輩も同期もみんないい人で居心地は大変良かった。
しかし、あまりの緩さに、というか、先生はきちんとコアタイムを定めていたが、月に1~2週間程度リモートワークで研究室にいなかったり、
当時M1先輩が若干先生のことをナメていて(個人の感想)平気で「コアタイム?ないよ」と言い放って午後5時に来たり(まあPCがあれば計算できるので100歩譲ってこれは良いとしても)、
週に1回ある、英語の本の読み合わせを頻繁にぶっちしたり、予習忘れたので変わってなどなどあったりした。
もともと夜型でなまけ癖のあるわたしは、3年の3月に配属されてから数か月この環境で過ごす中で、
「このままでは、わたしもああなってしまう……それどころか、もっと完全にダメ人間になって研究どころではなくなってしまう、、、、、、どうしよう」
と考えるようになった。(シンプルにめっちゃ腹立った、というのも、もちろん考えたことあります。)
4年になってから、研究したり、決意に沿って公務員試験も受けたり、(ちょっと教育実習も行ったり、)して過ごして8月になった。
わたしの通っていた大学の前期の院試は8月下旬なので、このころはちょっと研究のスピードを落としながら試験勉強をしていた。
大学受験みたいに(まあもちろん過去問とかはありますが)問題集が充実してるわけじゃないので、手探りで不安になりながら勉強している中、
いつものように遅刻をキメる先輩を横目にみていると「このまま院に行ったところで、わたしは大丈夫なのか……???」という気持ちがどんどん強まっていく。
また、院試が近付いてきたときに親からかかってきた電話で院の話をしたときに「お金は?また奨学金借りられるんだよね」という話もされた。
まあ、もちろん院でもいったら奨学金を借りるつもりだったが、本格的にお金のことを考えると、また借金が増えるのか…
そういえば高卒で就職した妹はもう貯金3桁あるって言ってたな…ゔ、頭が……という気持ちにもなった。
そしていよいよ院試まであと1週間ちょっとというところで、公務員一般職の合格発表があった。
と思った矢先、某省庁からいわゆるスカウト電話がかかってきた。
もともと院を卒業したら入りたい省庁だったのもあり、「運命では!?」と思い、ほいほい説明会に行った。
とはいえ、院に行くことを第一に考えていたため、院試も受けた。
このころの時系列としては、
某省庁の説明会に行く → 院試 → 某省庁面接からの内々定 → 院試合格
8月下旬という短い間に、わたしはいきなり二つの選択肢を手に入れてしまったのだ。
(いろいろではなかったかも、前述のダメ人間になるか否か・お金問題をどうするか・わたしがやりたい仕事はなにかの3点が主です)
結果、いったん就職して、先輩から逃げ、規則正しい生活を手に入れ、お金を稼いで借金を減らすことを決意した。
(10月の内定式のときの人事課長の「皆さんが4月に来る準備を、我々一同進めていますからね」という言葉に、ここで辞退したら迷惑かけるなという気持ちにさせられたというのもある。)
就職した今となっては、生活リズムは整ってるし、きちんとご飯も規則正しく食べるようになったので大学のころは痩せすぎて頬がめっちゃコケてたのがマシになってちょっとだけ鏡見られるようになったし、貯金もちょっとあるし、転勤族になったのでものも減らすようにしてすっきりしたし、いいことばかりではある。
でもやっぱり、今になってやればよかったって思うこともあるなって、SideM 9th ライブを見て思い出した、というところに戻る、というわけです。
お風呂入らない人も結構居るだろうし(鬱で入れないとかは別で。ただの怠惰とか、本当に風呂嫌いとかで)
でもさー
これはもう仕方ないと思うね。こっちがガードするしかない
「清潔にする」「周りに迷惑をかけない」ってのは「努力義務」だからな
強制は出来ない(出来れば小さいうちに親が身に付けさせる。綺麗にするのが嫌い・面倒な子は矯正するのが妥当だと思うがね)
まあ、ガードつってもマスク程度じゃあ防げないもんなあ
息止めるとかしないと無理だし、ずっと息止めてたら死んじゃうし
ノイキャンイヤホンは結構性能良くて助けられてるから、同じ感じでバッドスメルキャンセリング鼻栓とかあればいいのかな?(鼻栓や鼻カバーしてマスク。丸出しじゃあ見た目がアレ)
60歳年収100万の弱者男性だけどいつかデートしたときのために高級レストランでの食事をシミュレーションしてみた。
一度も行ったことないけどこんな感じ?
ウェイターが増田さんと13歳の男子中学生カズミをエレガントに迎えます。
ウェイター:「ようこそお越しくださいました。本日も特別なメニューをご用意しております。お席へご案内いたします」
カズミ:「楽しみですね。特に食前酒はどんなものが出てくるのか、ワクワクします」
ウェイター:「それでは、食前酒に『弱者男性が摘んだハーブを使ったスパークリングカクテル』をお楽しみいただけます」
カズミ:「さすがですね。このレストランでは、どんな食事のスタートでも期待を裏切りません」
ウェイター:「本日のおすすめは、『弱者男性が育てた有機野菜のサラダ』と、『弱者男性のロースト シェフこだわりベリーソース』でございます」
カズミ:「僕は『弱者男性が採った新鮮な海の幸のカルパッチョ』が気になりますね。増田さん、どう思いますか?」
増田:「いい選択だ。同じものを頼むよ。メインには『弱者男性の赤身肉ステーキ シェフこだわりバルサミコソース』を選ぶよ」
カズミ:「それは素晴らしいですね。楽しみです」
ウェイター:「こちらは『弱者男性が採った新鮮な海の幸のカルパッチョ』でございます。弱者男性が丁寧に採った海の幸を使用し、シェフが厳選したオリーブオイルとハーブで仕上げました」
増田:「これは本当に見事だ。どうだい、君はどんな味を感じる?」
カズミ:「とても新鮮で、弱者男性が選んだ海の幸が口の中で広がります。ハーブの香りがアクセントになっていて、すごく美味しいです」
増田:「君は味覚が鋭いな。その通りだ、私も同じ印象を持ったよ」
ウェイター:「こちらが『弱者男性の赤身肉ステーキ シェフこだわりバルサミコソース』です。特選された赤身肉を弱者男性の手で育て、じっくりと焼き上げました」
カズミ:「肉がとても柔らかく、ソースの風味が見事に調和していますね。シェフのこだわりが感じられます」
増田さん:「全くその通りだ。ステーキの焼き加減も完璧だし、ソースが肉の旨味をさらに引き立てている。この店に来た甲斐があったな」
ウェイター:「最後に、『弱者男性が育てたフレッシュベリーのタルト』をどうぞ」
カズミ:「ベリーの甘さが程よく、デザートにぴったりですね。これで締めくくるのは完璧です」