はてなキーワード: 日州とは
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。