はてなキーワード: 井伊直政とは
と思うよ?
だけどさぁ…そもそも、ネットって好きなものや技術を発表する場所じゃん?
しかも、俺が許せないのは、オタク文化や成人向けっていうのは、15年以上前なら
「ネット中にある最後の楽園で、純度の高い好きを発表する場所」
だったところに踏み込んできたところだよ。
「もうネットを切って、香川でうどん食べてるか、秩父の山にこもるしかないのか」
て気持ち
ちなみに、日本史ではぼくの考え方ってすごく正しくて、
「動乱が起こるほど時代が変化する時には、四国か、大阪か、山奥(お寺)から英雄が出てくる」
んですよ。
戦国時代に最初に都を抑えた三好氏も、幕末活躍した土佐藩も四国なんやわ
お寺で英才教育を受けた人が歴史を変えたパターンで行くと、源義経や井伊直政が有名なんだけど…今でも山に行くと文化圏が都会とは大きく変わるから
「都会の病んだトレンドが入ってこないことで、危機の時代にはむしろ都会から離れた場所のほうが有能な人が育つんだな」
と…なんか納得できてしまう
海や山と違う意味で、
「独自の文化圏が強すぎて、都会のダメなトレンドに飲み込まれない」
のが、大阪。
大阪って日本史全般で、常にナンバー2、ナンバー3のいちをキープしてて、変革を象徴する会社や人物を生み出すんだ。
ちなみに、武士系で大阪の有名勢力は楠木正成公と本願寺ですから…うん
「都がおかしくなってくると、大阪か四国か山から変革者が出て来る」
の法則通りなのよね。
N国・参政党・維新の党首が大阪で、国民の玉木雄一郎は香川の出身。
という変なネタ。
偶然も500年1000年単位で先例があって、なおかつ実際にその場所に行ってみると都と空気が違うのを見たら…余計に「ネタっぽいけど、そうかもしれない」っぽさはある
これ、ぼくは絶対やらないようにしてる。
https://twitter.com/ikegpg/status/1671742757625548802
特に笑いについては、
「人間なんて高尚なもんじゃないから、ジャンクであればあるほど面白い(だから、小学校低学年まではうんこ・ちんこ連呼してるだけで笑いが取れる)」
というスタンスだから、高尚な笑いなんて自分のプライドを満たしたいだけのエゴだよ
ぼくの言ってることがわからん人はおると思うけど、「なんでか」
わかった上で、ぼくに改善できることがあるかどうかは確認する。
でも、考えても相手がおかしい時は、相手をディスったりするんじゃなくて「合わない」「違う世界を見てる」ぐらいでいいと思うし、そう考えるように努めたい
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたけど質問ある?
顔はノッブほど精悍じゃないけど家臣や女中たちからは好かれてたよ
瀬名姫はツンツンしてたけどワイに会うときは晴れ着を用意するとかかわいげがあったな
今でいうツンデレじゃな
近頃ときたら気軽に女にされたり、転生させられたりするから困る
まさに幻のようなもんよな
ノッブ殿も転生されたのか!ご壮健そうで何よりでござる。
ジョブスどのは親友でござるからiPhone50くらいまでは知っておる。
そそのかしてはおらぬが、雪斎殿が導いてくれたのじゃよ。
100歳まで生きたというのはそういうことじゃな。
駿府城公園に入ってきた謎のぶよぶよした生き物の記録があるらしいけどそれがなんだったのか知りたいです。
肉人か?
あれは今でいう宇宙人じゃ。
たまたま駿府城に教養のある細川どのが来訪してての、「あれは中国の封じゃ」とゆったもんだから気味が悪いから追い払わせたぞ。
幽才どのがおらぬかったら静岡おでんにして食ってたかもしれんのう。
実は影武者?
それは創作じゃな。わしは影武者はもちろんおったが、あまり必要ではなかった。
わしが鯛の天ぷらで病に臥せった3か月のテキパキとした引継ぎを見ても、影武者にできるレベルの実務ではないことはわかるじゃろ?
武田信玄とやりあったときにうんこもらしたはすだけど、そのときの馬の様子を聞きたい
うんち漏らし達の聖地である増田に投稿したわけど、大先輩としてどんな気持ち?
実際の所、うんこ漏らしたの?漏らしてないの?
せ、戦国武将ならだれでも味噌玉を腰に巻いてたんだからねっ!(震え声)
馬はぶひひーんってゆってたゾ
てかお前らうんち好きすぎ
まあ三河武士が「知行などいりませんから徳川家のために!」という武士の鑑じゃったからのう。
豊臣ヒッデが気前よく大名に知行を与えまくって(例:加賀百万石)自爆したからのう。
大名はせいぜい50万石以下におさえて、天領(直轄地)は500万石になった。
三河は京都に近いが、駿府のほうが江戸と京都どっちにも移動しやすかったからの。
駿府でも三河の麦飯と八丁味噌をわざわざ取り寄せて食しておったぞ。
白米好きな侍女たちは半ばあきれておったがの。
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたときは、
「なんじゃ、ワシもまだまだ現役じゃん!」って自信がついたぞ!
静岡おでんを食いたくなったら久能山のほうに行くときもあるが、基本はそのときの気分次第じゃな。
うむ。民政家でゆうと二宮尊徳、藩政でゆうと上杉鷹山。幕政だと吉宗じゃな。
やつらは立派に儂の考えを理解して実行していたぞ。こっちに来たときは大いにほめてつかわした。
手紙とかでおじさん構文とか使うの?
わしはそれほど筆まめではなかったのじゃ。
ノッブ殿や信玄どのは教養があったから文章がうまかったようじゃの。
どちらかというと部下に任せることが多かった。
とくにラブレター系は苦手じゃった。
じゃから側室を口説くときは経験豊富な人妻をメインに攻めたぞ。
とりあえず鯛の天ぷらでもどうぞ
天ぷらの食べ過ぎに気をつけてね
結局天ぷらは何食うたん?
そなたらの気遣い痛み入る。
大坂の陣のあとの鷹狩で、シェフに「うまい天ぷらの具はあるか」って聞いたら鯛がうまいってことで、しばらくハマってしまったのじゃ。
油がよくなかったのかもしれんな。
良い質問じゃな。関ケ原が終わってもまだまだ不安定だったのじゃ。
あのときにキッヨとクロを島津征伐に送ってたら、寝返ったかもしれんからの。
井伊直政がうまくとりなしてくれて事なきを得たぞ。
寵愛していたナッオが関ケ原の鉄砲傷で亡くなったのは悲しかったのう。
衆道は以降きっぱりやめたぞ。
八味地黄丸じゃな。けっこう今の時代でも売ってるようじゃぞ。
66歳でもバリバリ現役じゃ!
大政奉還どう思う?
時代の流れじゃの。詳しくは晴天をつくの大河ドラマで北大路さんの演技で察してくれ。
儂は基本的に軍略も政治も信玄公と同じことをやったが、ワシは20年長生きしたから、
武田家の御親類衆VS勝頼どの側近、の対立構図にならなかった。
わしが早世してたら同じことになってたかもしれんのう。信康もおらんかったしな。
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。
岡崎城に行ってまいりましたわ。
城内は公園化しつつも売店や神社が散在しておりカオスな状況でした。
展示施設は「三河武士のやかた家康館」と「復興天守」がメインになります。
彼を支えた三河武士を展示の中心に据えている建前になっています。
ところが目玉的な展示は、ジオラマと映像で関ヶ原の戦いを描くものですの。
東軍の主力は外様で、三河武士の精鋭は秀忠と一緒で間に合っていませんわ・・・・・・
井伊直政の抜け駆けと本田忠勝の働きはありましたけど、正直物足りなかったですわ。
長篠なら大久保兄弟と酒井が、姉川なら榊原康政が活躍しますのに--
あと大谷吉継隊の模型が回転しきらずに止まってしまっていて非常に気になりましたわ。
やっと回転しきって残っていましたわ。
フレームストラクチャーを思わせる刃紋が浮かんだ刀剣の武蔵守藤原永道が気に入りました。
鞘に緑のラメが入っていましたの。
加茂一揆のジオラマ展示があり、農具に毛の生えた武器をもった一揆勢を
岡崎藩兵が弓矢鉄砲を使って容赦なく鎮圧する様子が描かれていました。
おそろしいおそろしいですわ。
江戸時代の宿場町で横行した強引きわまる客引きを見ることができますの。
家康生誕の岡崎城を最後に治めたのは本多忠勝系の本多家ですけど、
陽気と有名な藤の花のおかげもあって結構な人出でしたわ。
追記
id:hilda_i様 マリー・アントワネット様にあやかるのは、すでにやったのですわ
中身はもちろん知らないけど、新しい大河ドラマ、ちゃんと真田幸村ではなく真田信繁って表現するのがとてもいい。「幸村こと信繁」とか紹介している。とても丁寧。
歴史って、昔のことだからもう動きがない、とか新発見はないor少ないと言われる。だがもちろん新発見・新認識ってのはいろんなレベルである。
寛文12(1672)年の軍記物『難波戦記』が「幸村」表記の初出だそうだ。
この後、沢山の物語が「幸村」を採用し、『戦国無双』『戦国BASARA』などの現代の作品にまで至る。
信繁自体は幸村と言ってないわけだな。
340年くらい、必ずしも正確ではない名前からイメージを膨らませていたのだ。
これがどうした、大した問題ではない、と思う人も多いだろうけど、「幸村」が340年の間「物語」として想像されてきたことを留意するきっかけにはなるだろう。
自分が楽しんでいるテキストが人々のイメージの積み重ねの結果、出現したのだと。
これを知っててテキストを読むのと知らないで読むのとでは読解する上で大違いなのだ。
「幸村」って現代の作品でも赤いイメージで描写される。なぜだろうか?
これはすなわち「幸村」が「赤備え」といって赤い装備で戦に挑んだからに他ならないだろう。
ただし「赤備え」は「幸村」だけがしていたものではない。井伊直政もたしかそうだったはず。
「幸村」の方が頻繁に物語に登場し「赤備え」のイメージが膨張して、現代の「戦国シリーズ」に伝わるわけだ。(井伊もまぁよく語られる存在なんだが…)
「赤」のイメージから幸村に「熱血キャラ」「炎系キャラ」の性格付けも行なわれていよう。
こういう、要素を歴史的に解体して考えるのって、作品を楽しむうえで重要だと思うのだ。
真田丸は、340年間膨大に蓄積された「幸村」イメージのその果てに位置づけられる。
そこでは「信繁」とすることで見える地平もあるだろうし、従来の私たちの持つ「幸村」像の延長もまた見ることが出来るだろう。
新しい「信繁(幸村)」像に期待したい。
まず、勝手に動いたわけでもないし西軍につくつもりだったわけでもないよ。
当初は家康からの要請を受けて手勢率いて伏見城に向かったわけ。
でも伏見城に着いたら城将に「聞いてない」とか言われて、
この無礼に怒った義弘は「じゃあ西軍についてやる」「ぶっ殺してやる」って言い出して、
本当に西軍に走った。
「夜襲でぶっ殺すからやらせてくれ」とか攻撃的な作戦をいろいろと献策したんだけど
例の茶坊主や首脳陣が保守的な方針ばっかり好むから却下されてしまった。
茶坊主の腹心である島左近も積極襲撃策を提唱して却下されてる。
せっかく当時最高レベルの凄腕の戦争屋を手勢に置きながら、茶坊主は使いこなせなかったんだね。)
関ヶ原本戦では積極的に行動するでもなく傍観。
その頃までには茶坊主の戦下手と煮え切らなさを何度も目の当たりにして
もう西軍全体での勝利に見切りをつけていた。
茶坊主達本隊が決戦しないで逃げ出すもんだから殿軍を受け持ったりも。
気付いたら西軍が敗走、戦場に取り残される。
取り残されたんじゃなくて、西軍が負けるまで残ってた。
やる気がなくなってるんだからもっと前に勝手に撤退すりゃいい(そういう大名は一杯居た)んだが。
プライドの持ち方が狂ってるとかあたまおかしいという批判ならその通り。
サラッと書いてあるが
だが後ろは山道だったので、ジジイが「難路だるいわー」「それなら正面の徳川本陣ぶち割るわー」と言い出して、
本当に正面に向かって撤退した。
福島正則に見逃してもらい、
「あいつらなんかあぶねーからよけよう…」と交戦を避けた福島は命を拾い、
真面目に追いかけた徳川四天王の1人井伊直政は命を落とす事になった。
他にも譜代の家臣やら兵やらたくさん捨石にしている。
義弘は命をなんだと思ってるのか。
まあ消耗品だと思ってるよね。
連絡ミスされたぐらいで西軍について弓を引くという行動は完全にクレイジーだが、
おめおめと後方に逃げたりその場で自害したりせずに
マジキチな武威を見せ付けたことで
「西の端まであのマジキチ一家を成敗に行くのは危ないな」と家康に思わせた。
ただの脳筋ジジイが勝手にピンチになって周囲に迷惑をかけまくっただけ。
冷静でも勇敢でもない、ただの馬鹿だ。
島津オタという奴等は義弘の頭がおかしいことぐらいはわかってる。
人の命を鴻毛の如く考える畜生ぶりもよく知っている。
「超頭悪い」
「だからかっこいい」
もう少し研鑽を積め。