はてなキーワード: おためごかしとは
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林先生の文章そのものにはなにも異論はない。「質問者は医療者ではない以上、労務・人事の問題として対処する責務があるのであって、医学・医療の問題として対処する責務はありません。」本当にその通りだと思う。自分もあの頃にこの文章を読みたかった。
自分の状況も質問者氏とあまり変わらないものだった。Aさんに該当する人物が本当に同じようなことをやってくれた。問題行動しかなかった。そこで自分もやっぱり思い当たった。この人、発達障害なんじゃないか。今にして思うと、そこで思い当たってしまったのが不運だったのかもしれない。気づかないでいたほうがましだったのかも。
相手が発達障害という「障害者」だと認識したとたん、相手が「自分の足を引っ張る無能なくそ野郎」じゃなくて「特性により不自由であり、ケアを必要とする障害者」になってしまった。その結果、どれほどトラブルに巻き込まれても自分の仕事を邪魔されても「相手は障害者なんだから」自分が適切に対応してあげるべきなのだと考えてしまった。できるわけがない。できるわけがないが、それをするべきなのだと思い込んだ結果、メンタルがどうなるか。
自分にひたすら迷惑をかけてくる相手に対する怒りや憎しみは、障害者へ適切な対応ができない自分への失望やそんな感情を抱くことへの罪悪感に変わる。自分の仕事を邪魔されるストレスや苛立ち、無力感ももちろんあるが、前者のほうが自分にはきつかった。自分の場合は上司に相談しても「大変そうだけど頑張ってよ」くらいで流されたので、これほど大変な思いをしているのに理解されないという落胆や悲しさもあった。これほど辛いのは自分が未熟で駄目な人間だからだろうかという更なる失望、なぜこんな思いをしなくてはいけないのかという困惑、原因となる相手への怒り、しかし相手は「障害者」なのだと思い至る、そうやって思考と感情が空回りして、自尊心がズタズタになる。少なくとも自分はそうなった。だから辞めた。というか辞めざるを得なかった。職場に行けなくなったので。あの人が今もあそこにいるかは知らない。
質問者氏が「お互いにとって良い関係を築くため、先生のお知恵をお借りできますと幸いです。」と結んでいて本当に痛ましい。良い関係なんてそんなもんが本当に可能なのだろうか。労務上の問題ではなく、質問者氏のメンタルの問題として。今の自分ははっきり言えるけど、私はもう二度とあの人と関わりたくないし、あの人に類する人達とも関わりたくない。おためごかしもきれいごとも聞きたくない。そんなもんは私を助けてくれなかった。文句がある奴はてめえでやれ。どうぞご遠慮なく心中しやがれよ。
質問者氏の質問に対する林先生の回答は本当にそのとおりだと思う。でも、質問者氏が本当に言いたいのはそんなことじゃない気がする。だとしても、それを今の質問者氏のメンタルでは書けないだろうが。そして、林先生だって質問されたこと以外に答えることはできない。
「偏差値が高い高校ほど校則がゆるい」とよく言われる。実際、都立のある一番校では、制服なし、校則もほとんどなしだが、風紀は荒れていない。偏差値だけが理由かどうかは疑問(家族状況、経済状態もあるだろうし、私立の高偏差値高校で薬物が蔓延っていたりもする)だが、決まりなどなくて済むのであれば、敢えて決まりをつくらないほうがその社会の構成員に無用なストレスを与えない、というのは事実だろう。押さえつけなければ反発心も起こらないのだ。
究極的に人間は、互いの生まれながらの尊厳を認め合い、「自分がされて嫌なことは他人にしない」という最低限の倫理を身につけていれば、法律などなくとも平和に共存し得る。その理想が実現できないから、仕方なく法で自らを縛る必要があるのだ。
『虎に翼』最終回をで主人公が死んだ後、娘に「お母さんは法律そのものだった」的なことを言われて、幽霊状態の主人公が喜んでいたのは、私にとってはグロテスクなシーンだった。娘から必要悪、と言われていながら、満面の笑顔を浮かべる母。
あれだけ法が取りこぼしてしまった人間たちを見てきながら、まだ法に全幅の信頼をおいている主人公がそもそも理解できなかったのだが、彼女は最後まで法はアプリオリに人類に必要なもの、という認識でいたようだ。
新潟で出会った少女の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに、直ちに答えることができなかったのも当然だ。彼女には「自然法」という観点が欠如している。「人間が生まれながらにして平等で、それぞれに尊厳をもっている」ということが、“憲法によって与えられている”と考えているのだ。(正しくは“憲法によって保証されている“であり、尊厳自体はアプリオリに存在する;憲法停止したら人権が失われるとでも思っているのか)
しかしこの逆転、このグロテスクさこそが、今のリベラルを象徴しているとも言えよう。
グローバリズムと多様性というお題目で、共感できる背景を共有しない者同士の共存を進めていけば、明文化された決まり=法律だけが、“相互理解”を増進するためのツールにならざるを得ない。そしてその法律が力を持ち、万能なツールとして必要以上に神格化されていく(あとはカネだけが共有可能な価値となる)。それと同時に、それまでの社会を構成していた重要な要素である感情的・非論理的・物語的(説話的/神話的)な共感背景は無価値化されていく。
私個人的には、尊属殺の重罰化は違憲だと思うが、家族は共に扶助すべきという民法の一文は意味があると考えている。「家族」というものが結局はフィクショナルなものだとしても、その“物語”を社会である程度守っていくことに価値はあると思うのだ。
上記の新潟の女生徒からの重大な投げかけの解決法にも心底がっかりした。
女生徒は死に、ダウングレードした娘に、主人公が何か感情的なおためごかしを言って、解決してしまったのだ。まぁ上のような法への認識でいる主人公だから仕方ない。その後彼女は少年法改正についての委員会で「愛でしょ愛」などとまた感情的なことを言っていた。
真のリベラルからすれば彼女のモデルが「家裁の母」と呼ばれていることに怒りを覚えるはずだが(なぜ“母”なのか、性差は意味がないはず)、ここでの主人公の描かれ方は、まさしく保守的な「お母さん」像であった。
もはやこのドラマの立ち位置がわからなくなるほどの倒錯が起こっているように感じたが、実際こうでもしないとまとめることができなかったのだろう。そもそも彼女は法への姿勢という最初の立ち位置から間違えているのだから。
最初から最後までいわゆる「上級国民」しか登場しないドラマであったが(上野の浮浪児くらいだろうか)、その恵まれた位置にいながら、たまに(ポーズのように)反省して見せるだけで、根本的なところでは法の無謬性を疑わなかった。原爆裁判を経て、主人公が変わるかと期待したが、結局はそのままだった。
残念なドラマではあったが、その時代には絶対にそういう発言をしていなかったであろうLGBTを描き始めたところで、ああこれはポリコレ好きのためのポルノなのねと諦めはじめていたので、最後の方は期待感も薄かった。
相手が「教えてあげてるのに腐るから嫌われるんだよ」とか言ってきたが
そういう話じゃなくて
「おためごかし」にはならないわけじゃん
一つの文章の中で2つも3つも矛盾があるから意味がわからないんよ
「ダメですよ」は「やっちゃダメですよ」なのか「ダメなドラマであることよ」なのかによって話は違ってくるのだが。
「原作のこころを踏みにじるリメイクや二次創作はダメだ!人が死んでるねんで!」
というところから出発して
「リメイクの一切を禁止しよう」に行くのはさすがにまずかろうという判断により
原作をしっかりリスペクトした「愛のあるリメイク」をすべきなんだという所に半ば自動的に凡愚の群れは行き着くわけだが、そんなのは絵に描いた餅に過ぎないのである。
誰がジャッジするんだ。
出来上がったモノを観て世に出していいかどうか原作者が裁定下すのか。それはむしろ過大な責任を負わせることにしかならない。
自分の作品が換骨奪胎されるのが苦痛なら最初からいかなる二次創作も許可すべきではない。
そもそもドラマ化スタッフは原作者のファンや弟子ではない。原作者の意図を忠実に表現するための下働きではないのだ。そこに上下関係はないしあるべきでもない。
そもそも作品理解において作者が「正解」を持っているわけでもないのだ。
ゴミみたいな解釈は批判されるべきであって禁じられるべきではない。
健全なありようは最終的には読者・視聴者に判断はお任せすることだ。いったんGOサイン出したらクソみたいなドラマ化されてもしかたないし、それを観た観客はおいおいクソみたいなリメイクだなと言えばいい。
原作の真価を知るファンはクソドラマに負けないようにがんばって布教するといい。
「田中さん」原作者はコントロールできないことをコントロールできないのが苦痛で、それがもとのトラブルで亡くなってしまった。気の毒ではあるけど、だからといって「芦原先生のご遺志を実現しよう」「原作を踏みにじるクソみたいなリメイクが作られないように、原作者が二次創作をコントロールできるようにしよう」というのは全く間違っている。