はてなキーワード: 嫌悪感とは
有難いことに仲良くして頂いている(頂いていた)お友達が何人も居るんですが、その仲良友達が私とは別に仲良くしてる奴に関しては良い思い出が1ミリもない。ほんとにこれ、なんで…?
高校の時特に仲良くして頂いてた友人が私とは別に仲良くしてた人(Aとします)、私の目の前で私の傘盗ってたりしたんすよ。
あんまりにも堂々と盗ってたもんだから声掛けられなかったんだよね。
このAの人の悪口とか堂々と言う姿が凄く苦手で、「今は良い子」とか「今はそんなことないよ」とか周りの友人や仲良友人は言うんですが、ふとした時そのAの話が出たりAが脳裏に浮かんできた時、「私から見たAの嫌すぎるエピソード」が同時に思い起こされて、結局「嫌な奴」として捉えてしまうんですよね。
あと地元の仲良友人が仲良くしてる人(Bとします)、小学生の時にいじめられたし嫌なことがあった時それを自分の中に留めず他の人に当たり散らす姿が嫌いだったんですよね。
AやB以外にも似たような人達いるけども、別にずっと嫌い!嫌い!ってなってる訳では無いし、ほぼ無関心に近いんだけど、なんかあってふと思い出した時、嫌なエピソードもぼんと浮かんでくるから、結局嫌悪感も一緒に残るっていう、生きづら〜い脳 生きづら〜い人生してんな私
自分で言うのもきしょいけど、私はだいぶ人を嫌いになるっていうハードルが高いと思うんですよ
でもその「嫌い」ハードルを超えてしまったらその時点で関わりを切るし、その「嫌」な時点で関わり切るから、その人が「嫌」なまま記憶に残るんですね。
今よりツタンカーメン感が強いひろゆき。台詞自体も今でも見かけるし、旧2ちゃんねる時代から嘘に騙された人への煽り、安易に釣られないための警句として長らく利用されてきた。
汎用性は低いが、AAやイラストになったりミームとして愛され続けている。微妙に上がりきっていない両腕とウザいくらいのドヤ顔がツボ。アタック25を知らない世代も使っている。
海外でも人気があり、呼吸が合っていない2人の関係性を示すミームとして定着した。因みに拒否されているオタクはただのオタクではなくプロゲーマーというのも有名な話である。
労働に対する拒否感、嫌悪感をカジュアルに示す画像として長い間利用されてきた。その後、ニートと紹介されていた青年は好青年になって就職活動をしていたというオチがついた。
あまりにもやる気のないコスプレとして長らく愛されてきた。寄せる気は全く感じられないのに、顔は真剣そのもので、おまけにイケメンであるため不思議と嫌悪感はない。
現実逃避に一生懸命で、現実の問題解決の努力をしないから。『できない理由』『頑張らない理由』をスピリチュアルを盾に免罪符にしてるところ。
で、その『できない』を肯定してヨシヨシして稼いでるところが、嫌悪感でウワーと感じる。
社会的にも似た構図があって、
『リモートワーク/時短勤務はできない』→通勤して長時間労働じゃないと意味ないよねー企業ヨシヨシ
『おじさんは無努力で若い女の子と結婚したい』→年の功だけ楽したいよねーおじさんヨシヨシ
染まってる自分たちだけが楽で、辛い思いしなくて良くて、理由つけて変わる努力を強要させず、良いカモである。
はやくここから抜け出さないと、とうっすら気づいても、洗脳され直したり考えるのをやめる、楽に楽に逃げてるから、結果的に全体の迷惑になるので嫌いですね。
スピリチュアルそのものが嫌い?それとも訳わからん世界観が嫌い?合理的じゃないところが嫌い?合わない価値観を押し付けてくる人が多いから嫌い?
というかみんなの思うスピリチュアルって具体的に何?
【追記】2025/02/15夜
みんなありがとーここまで反応貰えるとは思わなかった。ブコメもトラバも全部読みました。
俺の中のスピリチュアルの定義として、似非科学とか自然派とかはただの論理破綻って認識だった。根拠とか理屈で説明できたりしようと試してる時点で、目に見えないパワーをそのまま信じるスピリチュアルには当てはまらないと思ってたから。カルト宗教や霊感商法はスピリチュアルな手法を使ってるけど、あくまで手法であってスピリチュアルそのものではないって認識。
要はネットでスピリチュアルって何を指して言われてるのか、何をそんなに嫌われてるのか分からなかったのよ。それが質問の理由。ここで聞けるかなーと思ってかなり雑な質問になっちゃったけど、どのコメントもすごい参考になった。ありがとう。
見てて思ったのが、スピリチュアルってかなり金稼ぎとイメージが結びついてるのね。ネット上での嫌悪感の大多数の理由がそれかも。信じてる人の素行が悪い系も次に多かった印象。あと、俺自身宗教二世とか三世とかそういうのだから「現実逃避に一生懸命で現実の問題解決の努力をしないから」には1番共感したかな。ただ俺の親が馬鹿だったってことでスピリチュアル自体には嫌悪感無いけど。
ジャンルとしてはカルトや宗教、占いやオカルト、霊感商法や似非科学なんかがメインかな。あと迷信や自己啓発とか「根拠のないことを盲信すること自体」を事例や類似のものとして挙げる人もいたねー
唐突だけど俺は宇宙とか地形変動とか人間より大きなスケールのものに思いを馳せるのが好き。人間ってちっぽけだなあとかでもなく、それらが人間には知覚できない大きさやスピードで現在も移り変わってることを、理屈じゃなく直感で感じるだけで元気が出る。これもスピリチュアルかな?
こんな感じで、むしろ誰しもがスピリチュアル的な世界観を自分の中に持つのも有りだと思ってる。仲間づくりもせず、社会生活は理屈で通した上で、自分の中にだけは確固たる自分の精神世界を持つ。要は精神面での深い自己理解としてのスピリチュアル、みたいな。
追記が長くなったけど、あくまでネット上での「スピリチュアル」「スピってる」の定義や意味はこの記事への反応を読めば何となく分かる気がする 。頭いい人とかが反応を類型化して辞典に加えてくれないかなー
かなり不謹慎な発言や人間性を疑われるようなことを言ってしまうかもしれない。
それに対する自分自身への嫌悪感も含めて整理したいので書こうと思っている。
同居してる母がコロナになった。
昨日から発熱があって、インフルかもよ笑とか冗談言ってたらコロナだった。
もう若くない母自身への心配だとか、同居してる祖母への心配、同じく同居してる父への心配、それら全てを押し除けて真っ先に考えたことがそれだった。
元々できた人間ではなかったが、ここまで倫理観が終わってるとは思わなかった。
でもそれが身内の病状にまでとは。
ショックだったし、ここまで育ててくれた両親に申し訳なく思った。
これを書いてるのも整理のためと自分は言っているが、もしかしたら「少しは共感してくれる人がいるかも」「本当は自分は正常なのかも」と思いたいがための行動なのかもしれない。
なんて浅ましい考えなんだろうと、なぜあの両親からこんな人間が生まれてしまったのかと思う。
そして自分は何より外部からの評価を気にしているんだと思った。
友人や仕事の関係者に迷惑がかかることが、家族の命の危機より嫌だからこその思考なのではと考えた。
なんなら心配で駆けつけてくれた幼馴染の友達に励まされて、「悲しい顔しないとこの子に申し訳ない」と考えて悲しいふりをしたまでだ。
7年前の話だが、それから自分が何も進歩してないことに仰天だ。
そもそも祖父母が苦手なこともあるが、加えて祖父は晩年、認知症を患ってからロクでもなかったためせいせいした気持ちになっているんだろうとその時は思っていた。
理不尽に怒鳴り散らす祖父を見て「早く死んでしまえば」とすら考えたことがある。
でも今思えばせいせいしたのではなく「興味がなかった」だけなのかもしれない。
要介護になった祖母に対しても、正直面倒くさいの気持ちが勝っている。
なぜ世の人は他人のために自分の身を削ることができるんだろう。
これがわからない時点で、血縁を「他人」と分類している時点で、自分も立派なロクでなしである。
正直怖い。
血縁にすら冷血な思考をしている自分が、相手方の家族に親身になることができるのか。
できるわけがない。
今まで周囲に甘えすぎて来たんだろう。
周りの人の優しさの上にあぐらをかきすぎていた。
とりあえず今は目の前の家族のことを優先して、その後自分のことにも向き合っていきたい。
現時点ですでに喉の痛みがあるので、きっと私も発症するんだろうと思っている。
今はできることをしたい。
最初の飲み会の席で、セクハラとしか言いようのない質問をされた。
嫌悪感を出したら「うまく返せるようにならないと」みたいなことを言われた。
残業が当たり前の環境で、帰ろうとすると「やる気がないのか?」みたいな反応をされた。
それでも必死に働いた。それが当たり前だと思っていた。
徐々に体調が悪くなっていった。
最初は吹き出物が増える、髪がパサつくといったちょっとした変化だった。
ストレスで暴飲暴食に走ることもあった。
眠りが浅くなり、頭痛が続くようになった。
休日を経ても疲れが抜けなくなった。
病院で「ストレスと過労」と診断されたとき、ようやく自分が壊れかけていると気づいた。
それからは、無理をしないと決めた。
定時で帰るようにし、仕事のペースも調整した。
学生時代の友達と話すと、程度の差はあれど皆似たような体験をしていた。
皆同じように残業を強いられ、上司からのパワハラに悩んでいた。
私だけじゃなかった。
連日のトランプさんのニュースを見ていると、俺の中でムクムクとアメリカ人そのものを差別したい気持ちが脈動していることに気がつきました。
トランプさんそのもののやばさ以上に、あのお方を大統領に仕立て上げた支持者はもとより、
彼らがトランプさん支持に走るきっかけとなった民主党、現在のアメリカ社会そのものへの違和感、これは正直申し上げておそらく差別心の種に違いないのです。
だってトランプさんとマスクがいかにやばいかとアメリカの有権者個々人のやばさは全然別問題なのですから。
でも俺の心の中では、理性以上の嫌悪感がうごめきだしているのです。
今までそんな気持ちになったことがないから自分の中の差別心をどうコントロールするかの知見がありません。
俺でした。たすけて
蒸発するつもりだ。友人からそう打ち明けられたのは、私が彼女が何とか真っ当に生きられるような道を探している途中、私は私で真っ当に生きられるように道を探している途中で、築ウン年の我が家、ボロアパートのベランダで流星群を探して二人して煙草を吸っている時のことだった。
ただ漠然と、寂しいなと思った。
若い頃悪い男にいいようにペットにされて、不運に借金にまみれ、女はみんな彼女に寄生したがり、男はみんな彼女を足元に敷くカーペットにしたがる。
誰も私のことを知らない土地で、一人で何のしがらみもなく生きたい。
少し前まで「死ぬしかない」と言っていた彼女がそう言えたことは私にとっては福音にも近かった。
生きていてくれるならそれで良かった。
私の隣にいなくても、何処かで幸せになってくれるならそれで良かった。
私は徹底した個人主義者だ。血も涙もないと思われがちな人種だ。
それでも私に心残りがあるとするなら、彼女と一緒に泥まみれの中で苦しんでいた中から、私だけ救われてしまったことだ。
本当に些細な、しかし絶大なきっかけで、「私はこの場所で私であるまま一人で生きていく」ということを神様から許されてしまった。
じゃあ彼女は何故それが許されないの?
私と彼女に何の違いがあるの?
私は私で泥の中にいる時に、「何で友達は円満家庭に生まれて暴力も知らずに生きてきたのに、私はこんななんだろう。私と友達に何の違いがあるのだろう」と本気で苦しんでいた。
泥から抜けて熱いシャワーを浴びている間もそれに苦しみ、しかしふかふかのバスタオルで体を拭く頃にはまだ泥の中にいる彼女を振り返ることしかできない。
理性では「それが生きるということだ」と理解している。
弱肉強食は人間が文明社会を築くようになってからも明確な、しかし透明なルールとしてこの世の中に残っている。
私は生きるために弱者を食い物にすることを躊躇ってはいけない。しかし躊躇ってしまう。私も弱者だから。
計画を進めていると友人からぼんやり打ち明けられた。最近調子どう?と気軽なLINEをした時のことだった。
そうか。としか思えなかった。
一緒に泥の中にいられなくてごめん。そう思えなかった。
私はもうそういうことが出来なくなってしまった。そう思ってしまった。
私はここで生きるから、あなたはどうか何処かで生きて。それしか思えなかった。
私は薄情だ。
この世の中は薄情だ。
https://x.com/Jebadoo2/status/1885735444836388921
https://x.com/wishiwereaswan/status/1886526950254239858
彼らは新しいトランス差別の定義の中で、ジェンダー・アイデンティティに対する信念をこっそり捨てた。
英トランス擁護団体ストーンウォールはかつて、ジェンダー・アイデンティティが存在すると信じており、アリソン・ベイリーの再評価の強制、多くの女性のキャンセル、ジェームズ・ドレイファスへの嫌がらせが、ジェンダー・アイデンティティという新しい宗教の名のもとに正当化されると考えていた。しかし今、彼らはそれを放棄している。
これは驚くべきことだと思うかもしれない。なぜなら、この団体はかつて、不安を抱える親たちに嘘をつき、「ジェンダー・アイデンティティを否定された子どもの50%が思春期阻害剤を拒否されると自殺する」と主張していた。しかし今、彼ら自身がその概念を放棄しているのだから。
あなたたちは裏切られている。完全に見捨てられている。自分たちのために常に戦ってくれると信じていた組織が、今やあなたたちに背を向けている。陰でこっそりと動き、策略を巡らせている。それはあなたたちを完全に見捨てようとしているのだ。まるで使い捨てのレンガのように、簡単に切り捨てられているのだ。
旧定義
トランスであるという事実に基づいて、誰かに対して恐怖や嫌悪感を抱くこと。これには、その人のジェンダー・アイデンティティを否定したり、受け入れることを拒否したりすることも含まれる。
トランスフォビアは、トランスである人、またはトランスであると見なされる人に向けられることがある。
⇒
新定義
トランスの人々に対する偏見や否定的な態度、信念、見解のこと。これには、トランスである、またはトランスであると見なされる人に対する恐怖や嫌悪感も含まれる。
つまり、【ジェンダー・アイデンティティを否定したり、受け入れることを拒否したりすること】は正式にトランス差別ではないことになりました。
やったねたえちゃん!
批判。
新作ガンダム、事前に流れてくる情報を見た時点で「あぁ、自分には合わなさそうだな」と思いつつそもそもガンダムが好きなので見に行った。
話としては正直面白いところも気になるところもそれぞれ多いけどそれは本編始まらないと何も言えないなと。
で、もう明確に現時点でわかる話。
色々好きな理由はあるけど、ガンダムのヒロイックなデザインが好きっていうのはそもそも大きいと思う。けど、今回のガンダムはほんとに気持ちが悪い。生き物に近いデザインで、エヴァンゲリオンに近い印象を受ける。
そもそもロボットデザインとしてエヴァは嫌いなので急に自分の好きなRX-78をあんなデザインで出されたら納得ができるわけがない。
前の周年記念デザインも、万博くんも大概色々言われてた気はするがそんな比じゃないと思う。
生理的嫌悪感を覚えるデザインが久しぶりだった上にそれが好きなガンダムだったもんだから全く気持ち悪いなと思って見てる。
作品を見もせずに文句言う◯◯野郎にはなりたくないのでちゃんと本放送も見るつもりだけど、メカデザインがこれよりかっこよくなることは決してないと思うと憂鬱。
ブラウブロもあのデザインのまま採用するならガンダムもガンキャノンもそのままにしたらよかったのに。昭和チックで野暮ったいかもしれないが、ジークアクスのソレよりずっとかっこいい。
大勢のチー牛にこれから生涯使えるオカズを提供したことで恩赦を受けられますように
https://www.sankei.com/article/20230216-TVXOOTU7ANPD3FRZ3XUCCWMBPU/
当時フルタイムで仕事をしていた祖母は「外でごはんを食べよう」と告げてでんわを切った。
駅前で待ち合わせた孫の表情は暗かった。普段は抱き着いて「お帰り」と喜ぶのに…。
店に入ってもいつもの明るさは影を潜め、違和感はますます募った。「学校で何かあった?」。
こう尋ねると、店内にもかかわらず大声で泣き出した。
「怖かった…。家の中に男の人が入ってきて…」
号泣しながら話す孫の様子を見て、どんな被害に遭ったか瞬時に悟った。注文をキャンセルし、店の外に出た。
「悪い人は捕まえてもらわなあかんから、警察に行こう。ばあちゃんも一緒にいるから」
事情聴取や病院での検査…。終わったのは午前0時を回っていた。
孫は疲れた様子だったが、気丈に自分の言葉で府警の捜査員に被害状況を伝えた。
住人かと思って「こんにちは」とあいさつをし、自宅の鍵を取り出してドアを開けた。
目隠しをされ、カーテンを閉める音が聞こえた。
そう答えると、「話したら殺す」と脅されてわいせつな行為をされた-。
孫は被告にこう尋ねたという。
「わたし、殺されるんですか」「物はとられませんか」
一人で留守番をさせなければよかった。
「嫌悪感や怒り、言葉では言い表せない感情で胸が苦しくなった」と振り返る。
https://www.sankei.com/article/20250114-2UOHP4EIDZNXDDHHDZPUZCO32Q/
大学生だった被告は、電気工事業者を装って小学生女児宅に侵入。
泣いて嫌がる女児を「黙らなお前殺すぞ」と脅し、暴行を加え、けがをさせた。
写真も撮影し、「(被害を)一言でもいったら友達に見せる」などと口止めした。
被告はこの犯行に踏み切る前に約1カ月半にわたって、女児や家族の外出や帰宅の時間を確認。
犯行後には女児に「ずっと見ているから」などと言い残したといい、
法廷では、女児の母親が「何年も犯人が逮捕されず、その言葉がずっとのしかかっていた」と苦悩を述べた供述調書も読み上げられた。
https://www.sankei.com/article/20230119-QFLWUTUREVP3NP5JV5HCEJYZWY/
「成人女性だと抵抗されて警察に通報されるかもしれないという考えがあり、小学生の女児を狙った」と容疑を認めている。
柳本容疑者は平成28年以降、6年以上にわたって帰宅途中の小学生の女児を狙った犯行を重ねており、府警は計10人の被害を裏付けた。
別に女性を貶めたいとか煽りたいわけじゃなくて、本当になぜ女性がそんなに萌え絵が嫌いなのか知りたい。
男の人でも女の人でも萌え絵が好きじゃない人は一定数いるけど、SNSとか見てると信じられないくらいの憎悪を萌え絵に向けてる人はほとんど女性なのは何故なんで?
自分がぼんやり感じるのはやはり女性は萌え絵で表現されているキャラクターの奥に自身の過去や存在を見ていて、そこに不快な感情が入っていると、匂いで懐かしい記憶が想起されるみたいに嫌悪感を抱くのかな?と思うのだが、どうなんだろう。
自分が無知ゆえに女性の苦しみを理解出来ていないのは単純に申し訳なく思うし、ちゃんと理由を知りたい。
それとも、一部の声のデカい人が極端な主張をするだけ?
ほぼ毎日のように新作アプリゲームの広告が目に入って、大抵は美少女キャラがメインで、というか美少女キャラしかいない。
その結果、どれも似たような見た目のキャラばかり。
でもさ、別に美少女キャラを否定するわけじゃないんだ。けど作り手側が明らかに間違っているというか、こういうのが好きなんだろ?感が見え透いていて嫌悪感がある。
そしてそういった舐めきった態度が裏目に出た代表的なタイトルといえばセガのエラゲだろう。
このゲーム、コンセプトはすごく良かったんだよ。世界をセガが支配して、過去の名作ゲームがメーカーの垣根を超えて参戦し、擬人化してセガの野望を打ち砕く…なんていうストーリーは自社を多少皮肉に捉えているところもあって、往年のセガ精神、セガガガにも通ずるところがあって非常に良い。
だって擬人化したアフターバーナーが美少女だとして、誰がそれを使いたがる??そこはそもそも擬人化しなくて良くない???スペースハリアーの擬人化が美少女って誰得なの???そこは主人公のあのよく分からんおっさんにしろよ!!!
それにダイナマイト刑事の参戦のときなんかは、このタイトルまで美少女に擬人化させてて呆れを通り越して笑っちゃたよ。あはははは…
あのセガサターンの頃の、せがた三四郎のCMを作っていた頃の硬派なセガは何処に行っちまったんだ!!!???
あの頃のセガなら間違いなく、たとえ周りが美少女キャラばかりのゲームを出していても硬派な野郎ばかりのゲームを平気な顔してしれっと出したはずだろ!!!???
違うんだよ…なぁセガよ…当時ガキで今いい歳になったおっさん共が求めているのはそれじゃないんだ…時代に逆行するような…萌えじゃない…燃えを求めているんだよ!!
むさいおっさんばかりのゲームで何が悪い?かっこ良ければそれでいいじゃないか!!!
なぁセガよ…俺はスマホで美少女と一緒に冒険するゲームじゃなくて、コブラやガッツみたいに、カッコいいと心から思える奴と一緒に冒険できるような、そんなゲームがやりてぇんだ…
かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品をテーマに読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手と何となく交際してしまう感じの、怠惰な女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性を理想化しすぎていたからかもしれない。理想の恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことである。しかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義訳である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。
光源氏の恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語だけが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロットを面白く読んだのは事実だ。
けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだんと権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。
僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女に浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られや暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋「田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉「暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。
ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏が女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想の貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである。
古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間の本質が変わらないからだろう。法律やコンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望の本質も変わらない。古典を現代的な価値観で批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間は自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールなセリフが出てくる)。
それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョの絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市はICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったものを破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなのである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。
そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家が主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送だからしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将が平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代のオタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。
それこそ「紫式部日記」に出てきた女官の衣装の再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションにほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばしてしまっていた。
面白いエッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者をおちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。「枕草子」はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。
こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常で漫画の台詞をぴったりのタイミングで引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい。
もちろん第三百十四段の身分の低い人間が火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段「説教の講師は、顔よき」、つまりイケメンがレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社の翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。
「方丈記」は政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代の教師は「世間から目を背けた負け組の愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明は政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。
「徒然草」は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭いが普通に面白い。
それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社の翻訳で読了。
もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢の身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。
これは全くの余談であるのだが、高校生時代に模擬試験を受けたとき、ある古典の問題文が主張している内容が差別的だということで、問題を差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。
個人的には、例えば中世の障害者はどういう扱いを受けていたか、解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベルで議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国の大学ではナボコフ「ロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学院レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないかと邪推している。
今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいからである。小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的に小説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである。人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。
小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人の苦痛を咀嚼して想像しなければならない。自分の妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?
小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである。絶対に忘れてやる。連中の名前もグーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対に絶対にぜーったいに自分のトラウマには触れないぞ!
このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないからである。また、初稿では倍ぐらい個人的な過去の出来事の愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。
そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典が現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分の雑文でちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前とタイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。
ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユン「パンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説の初版部数は一千から二千冊程度で(タイの人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。
あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分が本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。
藍硯が無理すぎます
ゲームキャラをこんなに嫌いになったのは初めてです。いくら悪役の博士でもこんなに嫌いにはなりませんでした。
最初立ち絵見た時は夢女子が作った固定キャラ(いわゆるコテキャ)みたいだわちょっと苦手かもくらいでした。そういうふうに自分を美化してコテキャ作るのがそもそも無理なのでその時点で若干の嫌悪感はありました。その後嘉明の幼馴染設定とか聞いてこれコテキャ作るの好きな夢女子が運営にいるんじゃ無いかって嘉明推しでも無いのに発狂しました。もし藍硯が去年嘉明と一緒に幼馴染として実装されてたならここまで嫌いにはなって無いです。単純にぽっと出の幼馴染が苦手で今度実装される夢見月瑞希も八重神子の幼馴染と聞いてちょっと嫌悪感あります。こちらは女の子同士だからまだ良いとして男キャラにぽっと出の女キャラの幼馴染作るのって運営はどういう気持ちなんでしょうか?
友人曰く藍硯のボイス幼馴染アピやばすぎて無理と聞いたのですがそういう要素ありますか?召使1凸狙ってたら藍硯たまたま出てきてしまったけれどボイスを確認する気になれません。藍硯の声優さんが好きなだけになんで他のキャラのボイスじゃないんだよりによって藍硯なんだと思ってしまいます。
あと中国のコラボかなんかで魈と一緒に描かれていましたが何でよりによって魈にしたんでしょうか。これまた私は別に魈推しでも無いですが魈推しって夢女子とか厄介オタクとか相当数いるのに炎上させにきているんでしょうか?
性能で言えばぽっと出の幼馴染ごときがいくら条件が揃えばとはいえ鍾離のシールドの硬さ超えちゃうの普通に意味わからないし許せないです。これもそれもどれも藍硯が仙人なら許せるのにどっかの編み物職人とかいうならほんとにどんなつもりでキャラ作ったんでしょうか?
動物に好かれてるとか黒髪とか口調がふわふわしてるとかシールド硬くて強いとか嘉明の幼馴染とか中学生夢女子が考えたコテキャ感満載で寒気すらします。海灯祭も藍硯が出てくるせいでストーリー進められません。オート機能で全部放置して画面直視しないようにしたいのに蛍の発言は自分で選択しないといけないから画面見ないといけないし苦痛です。無課金なので石も無駄にしたくないです。どうしたら良いでしょうか?
周りの原神プレイヤー男女どちらも藍硯嫌いって言っている人しかいません。女に嫌われるだけじゃなくて普段原神の女の子キャラ可愛い可愛いしてる男にも嫌われるって悪役でもないのに逆に凄いと思います。
持ちキャラの画面に出さないようにレベルを1人だけ上げずに恒常石も剥ぎ取らずにしておけば1番下になるのでそれは良いとしてこれからもストーリーに出てくるでしょうか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11310288546
日記です。
※腐女子という呼称に対する異論に関する議論がある事を知っています。2○年近く自認腐女子だったので一旦ご容赦ください。
※二次創作における勝手にBL化して盛り上がる界隈のことについての話なので、そもそも界隈に嫌悪感がある方はすみません。
※ただ、自分が心の中に溜めておくことができず、書き出したかったから書いてるだけなので、当然今回の話の中に悪い人は誰もいませんし、強いて言えば私が悪いんです。
※今まで相手固定左右「非」固定リバ展開あり可思考で生きてきたことで予防線が多くてすいません。
↑、私は相手固定、でも左右はどっちも大好きという、腐女子界隈で蛇蝎の如く嫌われる邪悪な強欲者でございます。
予防線を越えてまでわざわざ読みに来る人はいないでしょうし、ここは私の日記ということで書いていますので、前提の説明は色々と省略します。
時々リバ好きさんが「R-18展開なければどっちでも読める」と言って、小さく学級会が起ますけど
仮に好きカプのふたりの名前を「すずき」と「たなか」としますけど
❶すずきだけが差し込まれる役割の世界線の話もすきだし、❷たなかだけが差し込まれる役割の世界線の話もすきだし、
❸すずきとたなかが時々役割を変えて双方が差し込んだり差し込まれたりする世界線の話も好きなんですよね。
すずきとたなか2人の関係性にときめき、興奮し、不埒な2人について思いを馳せ、こーんな2人も最高、あーんな2人も最高、あー全部最高!
そんな事をすると、❶の人は「地雷の❷と❸がある!」と私をブロック。❷の人は「地雷の❶と❸がある!」と私をブロック。❸の人はワンチャンブロックしないでくれますが、❶と❷をいいねしているのがバレれば「あー、結局そうなんだね笑」みたいな。心の距離が生まれます。
ありとあらゆるたなかとすずきが好きなのですが、
好きな気持ちを曝け出したら、私の場合、最悪❶❷❸全てからブロックされてしまいます。ヤメテェ
実際過去にやらかしてしまい、神の如くお慕いしていた人(一方的にフォローし、ファンアートにいいねしでただけ)からブロックされたことあります。あの時は泣きました。
だから、すずきとたなかについて話す時は絶対にすずたなとか、たなすずとか、そんな言葉を一切使わずに、CPとしてではなくて、2人が好きなんだよ〜みたいなふりをして誤魔化してます。
でも、いつも思うんです。
好きなものを「いいよね」と語らえる人たち、楽しそう。羨ましい。
一番悲しいのは、❶または、❷、どっちかが"王道"みたいな扱いを受け始める時!
声が大きくなると、なぜか「逆の人読解力ないw」とか言っちゃうんです…頼む他sagem はやめてください…。
それで、少数派になった人たち筆を折っちゃうんだよ。
基本二次創作発表する人は大なり小なり承認欲求あると思ってますんで、みてもらえないとおもうと書けなくなっちゃうんですかね多分。
私は、そんな時、本当は、少数になってしまった側のいいね数を増やすのに協力したいけど、
私の正体がわかったらブロックされると思うといいねもできない。
無力。
とは言え、本音の本音は、❶も❷も❸も全部全部みんな私たちの妄想。現実じゃないの。下世話で下品な妄想なの。本当ごめん。とてもそんな目で見てるなんて世間では言えない。私の場合は仲間になれるかもしれない相手にも一切言えないだけで、本当に自分の胸の内側だけで楽しむしかない趣味なの。
私はすずきとたなかがどっちも好きなだけなの。
人から好かれにくいすずきと、人から好かれやすいすずきが、すずきはたなかの事ばっかり気にかけてて、たなかはいつも完璧で頼りになる人なのに、すずきの前でだけは子供っぽく甘えて。
そんな2人が、すずきが誰よりも一番たなかを愛し、たなかが誰よりも一番すずきを愛している、そんな様が好き。
そうなりますと妄想も膨らみ不埒になるんですけど、無愛想で口数も少ないすずきが愛嬌たっぷりのたなかを、言葉を惜しまずにぐずぐずに愛しまくる、すずたなも好きだし、人の懐に入り込むのが上手なたなかが普段無愛想なすずきをとろとろに愛しまくるたなすずも好きだなあと思うし
そんな2人が10年20年100年一緒に過ごすなら、役割交代してどっちがどっちだって構わないよお前さえいてくれれば、ってな感じになる展開も美味しいじゃん、って思って、しまう、ん、ですね…………(罪状の告白)
30超えたおっさんでコワモテで目つきがするどいすずきの攻め顔も好きだし、とろとろになって目がハートになっても好き。
ベビーフェイスでアイドル顔なたなかの攻め顔も好きだし、ぐずぐずになって目がハートになっても好き。
左右相手固定の人って、↑みたいな感情がないどころか、嫌悪してるってことだよね。
ちゃんと我慢して反対側の領分に手を出さないようにしている、とかいう話ではなく、反対側について考えることそのものがあり得ないってことですよね。
とても若い時に!みずきせとなの窮鼠はチーズの夢をみるというBL漫画で!リバカプの大変な素晴らしさを知らされてしまった日から私は罪人です。
あの日あの時どっちもが両方に致す関係のエモさ、可能性の広がりを知ってしまった。
私が罪人でいいので、私とりんごの味を分かち合ってくれるアダムを10年以上探してます…………
あと、この界隈では「ないなら書け」とあります。
私が作品を発表している場所は地獄のトラップのように、すずたな、たなすず、すずたなすず、思いついた順に作品並んでるんですよね……。
だから……私にも地雷があるが故に……私のこの趣向が世界の大多数の地雷だとわかり…
決っしてバレないように潜みながら生きてます……
今さっき「すずたなとか読解力なすぎw内面をきちんと理解できればたなすずしかないってわかるでしょw」というポストを見かけて悲しくなり、お気持ち投稿でした。
私もうっかり、すずきもたなかも双方以外を愛するわけないだろ、ジョンたな者は原作読んでない、とか言わないように気をつけて生きていきます。
気が済んだら消します
大体のものは日本語でアルゴリズムやデーター構造の解説があります。
でも、時々、こういうのがあります。
https://www.cs.tufts.edu/comp/150FP/archive/hans-boehm/ropes.pdf
Rebalancing
Rebalancing produces a balanced version of the argument rope. The original
is unaffected.
(中略)
Many variations of this approach are possible. Our balance condition was expressed
in terms of length, and our algorithm tends to move long ¯at ropes close to the
root. One could also rebalance purely in terms of node count.
Ropeがくそ遅いのでリーフノードをリンクドリストでつなごうとしたら、訳が分からなくなりました。
適当にやってはいけないと思い、ググったら、Ropeのリバランスのやり方を解説した奴は英語の奴しかありませんでした。
あと、リンク先を読めばわかるけど、数学でおなじみの記号がいたるところに出てきます。
数3Cまで取ったほうがいいです。
大学に行けば体系的にアルゴリズムやデーター構造、最先端の技術を教えてくれますが、情報系の大学は数3Cが必須です。
そして、ネットに転がってるデーター構造の解説書は数3Cを勉強していることを前提に書かれていることが多いです。
微分積分が出た時代の数1Aと数2しかとってないので、この手の本はマジで訳が分かりません。
だから、おじさんは高校生向けの優しい、アルゴリズムやデーター構造の本で勉強しました。
なぜかというとライブラリーしか触れず、リンクドリストやAVL木、クイックソートや基数ソートをかじったぐらいのプログラマーは腐るほどいるからです。
だから、君たちはおじさんのようにはなるな。