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「御宿」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 御宿とは

2024-09-30

車が動きだして二分もたったろうと思うころ、例の女はすうと立って三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行った。この時女の帯の色がはじめて三四郎の目にはいった。三四郎は鮎の煮びたしの頭をくわえたまま女の後姿を見送っていた。便所に行ったんだなと思いながらしきりに食っている。  女はやがて帰って来た[#「帰って来た」は底本では「帰った来た」]。今度は正面が見えた。三四郎弁当はもうしまいがけである。下を向いて一生懸命に箸を突っ込んで二口三口ほおばったが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思って、ひょいと目を上げて見るとやっぱり正面に立っていた。しか三四郎が目を上げると同時に女は動きだした。ただ三四郎の横を通って、自分の座へ帰るべきところを、すぐと前へ来て、からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かに外をながめだした。風が強くあたって、鬢がふわふわするところが三四郎の目にはいった。この時三四郎からになった弁当の折を力いっぱいに窓からほうり出した。女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であった。風に逆らってなげた折の蓋が白く舞いもどったように見えた時、三四郎はとんだことをしたのかと気がついて、ふと女の顔を見た。顔はあいにく列車の外に出ていた。けれども、女は静かに首を引っ込めて更紗のハンケチで額のところを丁寧にふき始めた。三四郎はともかくもあやまるほうが安全だと考えた。 「ごめんなさい」と言った。  女は「いいえ」と答えた。まだ顔をふいている。三四郎はしかたなしに黙ってしまった。女も黙ってしまった。そうしてまた首を窓から出した。三、四人の乗客は暗いランプの下で、みんな寝ぼけた顔をしている。口をきいている者はだれもない。汽車けがすさまじい音をたてて行く。三四郎は目を眠った。  しばらくすると「名古屋はもうじきでしょうか」と言う女の声がした。見るといつのまにか向き直って、及び腰になって、顔を三四郎そばまでもって来ている。三四郎は驚いた。 「そうですね」と言ったが、はじめて東京へ行くんだからいっこう要領を得ない。 「この分では遅れますでしょうか」 「遅れるでしょう」 「あんたも名古屋へお降りで……」 「はあ、降ります」  この汽車名古屋まりであった。会話はすこぶる平凡であった。ただ女が三四郎の筋向こうに腰をかけたばかりである。それで、しばらくのあいだはまた汽車の音だけになってしまう。  次の駅で汽車がとまった時、女はようやく三四郎名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内してくれと言いだした。一人では気味が悪いからと言って、しきりに頼む。三四郎ももっともだと思った。けれども、そう快く引き受ける気にもならなかった。なにしろ知らない女なんだから、すこぶる躊躇したにはしたが、断然断る勇気も出なかったので、まあいいかげんな生返事をしていた。そのうち汽車名古屋へ着いた。  大きな行李は新橋まで預けてあるから心配はない。三四郎はてごろなズックの鞄と傘だけ持って改札場を出た。頭には高等学校の夏帽をかぶっている。しか卒業したしるしに徽章だけはもぎ取ってしまった。昼間見るとそこだけ色が新しい。うしろから女がついて来る。三四郎はこの帽子に対して少々きまりが悪かった。けれどもついて来るのだからしかたがない。女のほうでは、この帽子をむろん、ただのきたない帽子と思っている。  九時半に着くべき汽車が四十分ほど遅れたのだから、もう十時はまわっている。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口のようににぎやかだ。宿屋も目の前に二、三軒ある。ただ三四郎にはちとりっぱすぎるように思われた。そこで電気燈のついている三階作りの前をすまして通り越して、ぶらぶら歩いて行った。むろん不案内の土地からどこへ出るかわからない。ただ暗い方へ行った。女はなんともいわずについて来る。すると比較的寂しい横町の角から二軒目に御宿という看板が見えた。これは三四郎にも女にも相応なきたない看板であった。三四郎ちょっと振り返って、一口女にどうですと相談したが、女は結構だというんで、思いきってずっとはいった。上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、いらっしゃい、――どうぞお上がり――御案内――梅の四番などとのべつにしゃべられたので、やむをえず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった。

anond:20240930161712

2024-07-26

anond:20240726154928

弥助「まずうちさぁ、御宿所…あんだけど」

光秀「はえ~」

弥助「焼いてかない?」

光秀「あぁ^~いいっすねぇ^~」

弥助「ウン」

2022-12-08

[] そのごひゃくご

ゴーデュールーッス

 

本日は成道会、聖母の無原罪御宿りの祭日、日本では事納め、フィンランドではフィンランド音楽の日となっております

あとジョンレノンが撃たれた日だったり、太平洋戦争開戦記念日だったりと色々ですね。

終戦記念ならわかるのですが開戦も祝うべきなのでしょうか。

色々起きてるんですねぇ。

現代の方でも色々起きてるような、起きてないようなということはございますが、

まぁそれでもなんだかんだ生きていけるからこそ、冷静に物事を見極めて判断する必要性はありますね。

慌てずに物事を進めていきましょう。

 

ということで本日は【冷静な行動よいか】でいきたいと思います

冷静な行動よいか!冷静な行動ヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-03-16

高知競馬の1レースあたりの売上レコード更新

http://www.keiba.or.jp/top/news/diary.cgi?no=10303

●令和2年度第18回第2日目(令和3年3月16日(火))

 売得金 641,808,500円 ※第3レース農林水産大臣賞典第23黒船賞

過去の1レースあたりの売上記

平成15年度第19回第3日目(平成16年3月22日(月))

 売得金 511,625,900円 ※第10レースYSダービージョッキー特別

 ※ハルウララ出走、鞍上武豊

ついにハルウララを超えたよ。そして今日は一日で16億だよ。たぶん、今日日本で最も売り上げた地方競馬になったんじゃないかな。

ハルウララ資金があったから、ナイター設備投資して、一発逆転ファイナルレース企画して、どんどん売上が上がって、賞金も増えて、いい馬が入って、他地区でも活躍する人馬が出てきて、そして。

今は、(某女史による) いろんなゴタゴタを乗り越えて、千葉御宿幸せな余生を送ってるんだよね。

https://www.matha-farm.com/

そろそろ、「あんな 時代も あったねと きっと 笑って 話せるわ」と、ハルウララ記念もあってもいいのかもね。

2017-12-26

anond:20171225105531

北海道南側中心に長年うろついてたけど、東京に越してきてあまりの何もなさにずっと呆然としとる。

オレみたいな人間には東京はどこ行っても全部同じやで。店しかない。カネ使え使え使え。新宿になんでもある?どこになんでもあるのかオレにはさっぱりわからん。店しかないやんけ。店以外に何があるっちゅうんや。店に興味ないモンは一体どないしてんの。

って話したら公園行こうとか言われて上野公園とか連れてかれたけどあんまりのショボクレっぷりに大雪山国立公園で殴り倒したくなったわ…。パンダかわいいけど見たらすぐ移動させられたしなんやねん一体。パンダパンダとか白浜行ったらいっぱいおるやんけ。美術館も人多すぎで鑑賞どころじゃなかったわ。半日羊蹄山登った時より疲れるのなんなんコレ。こんなとこで生まれ育ったとかかわいそうすぎでクララが立ったレベル涙目やわ

ほんで何や。電車妊婦が立っとってもだーれも席譲らんし。オイ誰か譲らんかい言うたらその妊婦のほうがイヤ結構ですからとか抜かしよったで。年寄りが立っとってもおんなじ。朝のアホみたいな混雑もホンマにアホみたいや。もう色々ささくれ立つし電車は一切使わんことにした

あーでも銚子九十九里勝浦御宿よかったわー。三浦半島とか伊豆もよかったわー。でも正直遠いわ…

ちょマジで首都岐阜移転しようや。計画あったんにゃろ?アカンでここはホンマに。大体人間動物なんにゃから動物のいーひんとこには人間も住んだらアカンねん。遠浅のなんもない海に戻せばウナギ資源回復してええことづくめちゃうか。

2013-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20130901000316

基本的に最初からそういう話をしてたつもりだけど。キリストでもそうでなくてもいい、石をぶつけるのはいいのか、と言う話。

そう、そのはずだったのに、途中から君が

要するに、キリストが石を投げた、ってのは嘘話だからんなもん議論するな、ってこと?

じゃあ、なんでそんな話が聖書にあるの?

とか言い出して、キリストが石を投げたって話が聖書にあることを前提として

その辺、ちゃんと説明できないなら、それこそ貴方もキリスト教徒として駄目なんじゃない?

などとキリスト教徒の人を馬鹿にしだしたのでそれはおかしいだろ、となったわけだ。

誤った事実認識に基づいて他人の信仰馬鹿にしたのだから、本来は「すいませんでした」等の明確な謝罪があってしかるべきだとは思うが、まあ俺は当事者でもないので

聖書キリストが投げた、と言う記述が無いことは分かりました。そこは知りませんでした。

という記述で矛を収めておくことにする。

さて本題だけど、俺はキリスト教徒ではなく、聖書教養として読んでるってだけで研究したりしてるわけではないので本来どう解釈されてるのかってことについて責任あることは言えない。

ただまあ、キリストは原罪ないんじゃないかと思うよ。マリアでさえ無原罪の御宿りがどうこうって言うくらいだし。ウィキペディアだけど、「イエス・キリスト」のページにこんな記述もあった。

イエス・キリスト神の子が受肉(藉身)して人の性をとった、真の神であり真の人である。この人性は、罪の他は全く完全なものであるイエス・キリストには罪は無かった)[13][14][15][16][17][18][19]。

「罪のない者は石を投げてよいのか」についての俺の見解は「同じく非キリスト教徒だけど……」で既に述べた。いちおう引用しとくとこれ。

俺は単純に、罪のない人はいいから(特にキリスト教は原罪とか言うしね)「罪のない者は石を投げてもいいのか」という問い自体がナンセンスなんだと考えてた。

キリスト神の子なのでそもそもそういう問いかけとは別枠だろうし。

つか、キリスト教徒の人もこれ(http://anond.hatelabo.jp/20130831121916)とかこれ(http://anond.hatelabo.jp/20130831214635)で説明してくれてるんだから、独自でがっつり調べるつもりがないならさしあたりこの説明を参考にすればいいんじゃない

参加者が多くなって錯綜してきてるので、いちおうこれまでに俺が書いたものを挙げておく。この記事のほかには、

「同じく非キリスト教徒だけど……」(http://anond.hatelabo.jp/20130831013621)

「横だが、そもそもキリストは石投げてないだろ。」(http://anond.hatelabo.jp/20130831223625)

「俺は『同じく非キリスト教徒だけど……』(略)ってのを書いた者だけど、」(http://anond.hatelabo.jp/20130831231511)

の3つ。トラバがややこしくなってもアレだと思うので、自分の書いたものについてはリンク外した。

 
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