「土俵に上がる」という言葉の意味は、「対決の場に打って出る」ことだそうだ。
世の中には、慎重な人がいる。
彼らは入念に準備をする。失敗したくないからだ。
だが、その中には、準備ができても、失敗が怖くて「打って出られない」人もいる。
もったいない。もう後は勝負するだけなのに。勝てるかもしれないのに。
私はまず勝負に出る。場合によってはフルボッコにされる。惨めな思いをする。
そこから一回勝負の場について知ってから、自分に必要なものを集め、最初に私をぼこぼこにしてくれた奴らにリベンジする。
私はかっこ悪くて要領が悪いためこのやり方をとっているが、何もしないよりは動いたほうが得るものは多いし、効率的だ。
上記で書いたような「慎重な人」が、土俵に入る一歩前でたじろいでいる姿を見ると、
自分が彼らの用意周到な性質をうらやましく思う分、惜しいと感じてしまう。
結局、戦いの場に出なければ何かを得るチャンスは得られないのだ。
ポッポ、ビードル、キャタピーという進化に必要なアメが少ないポケモンだけを大量に貯めておく。
さらに進化するとメンター、コーチ、シャーマン、神として人間を導くようになるだろうが、
その人間とは具体的に誰よとなったときに、そこに俺は含まれていないかもしれないが。
人生においてあらゆるストレスが取り除かれ、全てをロボットが管理してくれれば、
一生などという時間はあっという間に過ぎていく。
人類は来世や子どもたちの時代のことばかり考えるとともに、死を待ち続ける人生に疑問を投げる。
神はと言えばその知恵をさらなる高みに昇華させ、人類を導くのは自分ではなく彼ら自身であると結論づけるだろう。
全てを切り開くチャンスを神から授かったのだ。
あらゆる行動は知恵を得るための価値ある行動となる。
そういう老害は居場所がなくなるといろんなとこで不満を撒き散らすモンスタークレーマーとかになって、企業戦士にストレス与えるだけのごみになるから。あんたみたいな人がその仕事してくれないと困る。
見知らぬ者同士の親切のやり取りが好きだ。
例えば、電車の中で席を譲るとか。すれ違った瞬間落としたものを声をかけて渡すとか。道を聞かれて教えるとか。
その関係、お互いに面識はない。その分、そこで行われる親切はシンプルな良心から生まれた純粋な優しさが詰まっている。ように思う。
そのようなやり取りをする人を見るのもいい。自分がどちらかの役割をするのもいい。
それらは刹那的なやり取りで、お互いに分かれた瞬間には忘れて、自分がかかわる世界に意識が戻っていく。
泡のように消える日常の1ページにすぎずとも、そこで優しさに触れて一瞬でも心洗われることで、
その日がとても満たされたように感じられる。
シングルマザー優遇政策が充実すると、
種だけもらって結婚せずに子供を産むような女性が増えるんですよ。
とりとめのない話だが、演奏力に絞っていうと
技術的に複雑で難しいことをやっているかということがポイントになると思う。
バンプはどのパートも終始単純なフレーズを奏でていることが多い。
スピッツはギターこそバッキングとアルペジオというわかりやすい型にはまっていて引き出しもなさそうに見えるが
ドラムとベースは一聴しただけでもなかなか難しいことをやっているのがわかる。
しかしプレイが複雑であること以上に全体のリズム感(いわゆるグルーブ)が安定しているかどうかという点が重要で、
バンプの場合、ドラムが走ったり、なんだかベースが浮いていたり、ギターがついていけてなかったりと
一言でいうともたついている時が多々ある。
一方スピッツは正確無比なドラムとそのリズムを縫うように自由自在なベース、
そのリズムにかっちりはまったバッキングと、音の隙間に一つずつ当てはめていくような繊細なアルペジオで
平たくいえばはらはらせずにライブを聴いていられるかどうかってことだな。