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歴史の勉強の時間だ、増田。ペンフィールドの脳地図を知っているか。
脳に電極を入れて電気を流すことで特定の脳部位を刺激し、行動や感情に影響を与える実験は、実は20世紀半ばに神経学者ワイルダー・ペンフィールドによって行われていたんだ。ペンフィールドはてんかんの患者を手術する際に、患者が意識的な状態で脳表面の様々な領域を電気刺激し、それぞれが体のどの部分や特定の感覚に対応するかを地図に記録したんだ。これが「ペンフィールドの脳地図」として知られている。
彼の研究によって脳の様々な部位がどのように機能しているのかが少しずつ解明されてきた。そして、現在の深部脳刺激療法(DBS)などの治療法の基礎が築かれた。ただし、今でも脳のすべてを完全に理解しているわけではなく、自己の意志や性格を簡単に変えるのはとても難しい。
面倒くさがりな性格やチャレンジ精神の向上を目指すなら、まずは自分の生活習慣や環境を見直すことが大切だ。電極による直接的な刺激だけではなく、自分自身で少しずつ変わっていく方法も探してみてはどうだろうか?
その通りだ。苦しめることによってはじめて行使される。服従だけでは十分でない。相手が苦しんでいなければ、はたして本当に自分の意志ではなくこちらの意思に従っているのかどうか、はっきりと分からないだろう。権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で改めて、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ。そろそろ分かってきただろう。われわれの作り出そうとしている世界がどのようなものか?それは過去の改革家たちが夢想した愚かしい快楽主義的なユートピアの対極に位置するものだ。恐怖と裏切りと拷問の世界、人を踏みつけにし、人に踏みつけにされる世界、純化が進むにつれて、残酷なことが減るのではなく増えていく世界なのだ。われわれの世界における進歩は苦痛に向かう進歩を意味する。昔の文明は愛と正義を基礎にしていると主張した。われわれの文明の基盤は憎悪にある。われわれの世界には恐怖、怒り、勝利感、自己卑下以外の感情は存在しなくなる。他のものはすべてわれわれが破壊する――何もかも破壊するのだ。革命前からの生き残りと言うべき思考習慣はすでに打ち壊されつつある。これまでわれわれは親子間、個人間、男女間の絆を断ち切ってきた。今では誰も妻や子や友人を信用できなくなっている。しかし将来は、妻や友人といったもの自体が存在しなくなるだろう。子どもたちは生まれたとたんに、めんどりから卵が取り上げられるように、母親から引き離されることになる。性本能は根絶され、生殖行為は配給カードが更新されるのと同じで、年一回行われる形式的な手続きになるだろう。オルガスムも存在させない。すでにわれわれの神経学者はその研究を進めている。党に対する忠誠の他に忠誠はなく、党に対する愛の他に愛はなく、敵を打ちのめしたときの勝ち誇った笑いの他に笑いはなくなるだろう。芸術も文学も科学もなくなる。われわれが万能になったとき、もはや科学は必要ではなくなるのだ。美と醜の区別もなくなるだろう。日日の暮らしの面白さも喜びもなくなる。数々の競い合う快楽も破壊される。だが常に――この点を忘れてはいかんよ、ウィンストン――人を酔わせる権力の快感だけは常に存在する。ますます増大し、ますます鋭くなってね。ぞくぞくする勝利の快感。無力な敵を踏みにじる感興はこれから先ずっと、どんなときにも消えることがない。未来を思い描きたいのなら、人の顔をブーツが踏みつけるところを想像するがいい――永遠にそれが続くのだ
19世紀のアメリカにジェニファーという女性の神経学者がいた。彼女は学者というよりは詐欺師として扱われていたようだが、彼女が打ち立てた理論、Karma theory はのちの構造主義の前身となった。専門は神経学だったが、それだけでなく倫理学や哲学、キリスト教神学にも通じていた。彼女の論文の主張は、誤解を恐れずに言えば、神経学はキリスト教的視点を捨てて、もっと多角的に分析されなければならないということだ。
昨今、神経科学が倫理的でなければならないということは自明であるかのように言われているが、しかし実は全く自明ではない。
例えば、神経に電気を通して反応を観察する診断の事例がある。通電によって生じた影響が人体に長く残ってしまうかどうかは専門家の間でも意見が分かれている。もし倫理を優先するならば、治療の現場はこのような瑣末な判断で溢れてしまうだろう。そのような状況にもかかわらず、この直観に反する事例が報告された。
Q. その事例とはなにか。
自分を発信するのが苦手だ。
昔、と言ってもいつまでかは詳しく覚えていないのだけど、人から注目してほしかったり、人に認められたいと思っていた時期があった。
ツイッターでは何を食べたか、どこへ行ったか、どういう出来事があったか、どう感じたか、そんなことを飽きもせずにツイートしていた。
自分はこういう人間なんだ、これが好きだ、これは嫌いだというのを主張して自分を知って欲しい、分かって欲しいと思っていた。
会話をすれば相手のことを理解できるし、相手にも理解してもらえた気持ちになった。
そういう意味で会話は素晴らしいコミュニケーション方法だし「人を理解する」ことは可能だと思っていた。浅はかで幼稚な考え方をしていたと言わざるを得ない。
自分を理解してもらうことはできないし、相手を理解することもできないのだと理解した。
自分から見た自分らしさとは単なる思い込みで、他人から見た自分らしさとはただの誤解でしかない。
ただ、それでもコミュニケーションをとって生きていかなければいけない。
どうせ相手に理解されることは無いのならば、少なくとも相手にとって価値のあることを話せる人間になりたいと思った。
しかし価値なんて時代によって異なるし、人それぞれが感じる価値もちがう。等しいと思われているのは通貨くらいのものだけど、それも思い込まされているだけで、貨幣経済から脱出してしまう人もいるし、万人にとって価値のあることなんて無いのかもしれない。
知識であればほとんど誰にも価値があるのかと思ったけど、知識がほしいのであれば本を読めばいい話で「自分が言う必要」はない。
あいてにとってそこにいるのが自分である必要。それは経験なのかもしれない。
最近発表された実験結果に自分語りはセックスと同じ快感があるという言い方がされていた。
toyokeizai.net
「自分のことを話すとき、それが会話であろうと、ソーシャルメディア上であろうと、人はお金や食べ物、セックスと同じような快楽を感じる」。ハーバード大学の神経学者が、こんな驚きの調査を発表した。
約200人の脳をMRI(機能的磁気共鳴画像診断装置)で調べたところ、被験者が自分のことを話している時、脳内の側坐核、さらに、腹側被蓋野と呼ばれる領域の動きが活発化するのが確認された。これらの領域は、神経伝達物質、ドーパミン放出に関係があるとされる箇所で、ドーパミンは快楽物質とも呼ばれ、食事やセックス、お金等の報酬やドラッグによって分泌されるものだ。
なるほど、twitterやFacebookで自分語りを誰もが喜んでやっていたのは”気持ちいいから”なのか。
とすればだれも好き好んで他人の自己満足なんか見たいのか?極端に言えば他人のセックスを鑑賞していることにならないのか?という疑問は産まれる。
でも、結局自分が生きていくというのは自分を満足させるということで、それは結局オナニーであり、一生をかけてオナニーしているだけなのだろう。
それに、ブログなんていうのは見たい人は見るし、見たくない人は見ない。ただ単にそれだけのものだから、自分が書きたいことを書く。それだけでいいのかもしれないと思った。少なくとも今、ここではそう思っている。