実戦投入
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詳細は「#実戦」を参照 制式採用の遅れから、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は飛行第59戦隊・飛行第64戦隊の僅か2個飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であった。しかし、南方作戦においてこれらの一式戦は空戦において喪失比で約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜、以下の記録は開戦日である南方作戦期間中たる1941年12月8日(マレー作戦開始)から1942年3月9日(蘭印作戦終了)にかけて、当時の日本軍と連合軍が残した戦闘記録比較調査により裏付の取れた一式戦の確実な戦果である。 第59戦隊・第64戦隊の一式戦は連合軍機61機を確実撃墜。両戦隊の一式戦の喪失損害は16機のみ。 撃墜連合軍機種内訳は戦闘機43機、爆撃機等18機(B-17E 1機を含む)。戦隊別撃墜戦果は第59戦隊が30機、第64戦隊が27機、両戦隊協同で4機。 さらに、「南方資源地帯の確保」という理由で始められた太平洋戦争において、その開戦理由かつ陸海軍の南方作戦における戦略上の最重要攻略目標たる、オランダ領東インド(蘭印、インドネシア)スマトラ島パレンバンの油田・製油所・飛行場を陸軍落下傘部隊(挺進部隊)とともに制圧するなど(パレンバン空挺作戦)、一式戦は陸軍が想定していた以上の華々しい戦果を挙げた(#南方作戦)。1942年(昭和17年)後半以降は旧式化した九七戦に替わり改変が順次進められ、名実ともに陸軍航空部隊(陸軍航空隊)の主力戦闘機となっている。一式戦は西はインド(カルカッタ)、南はオーストラリア(ダーウィン)、東はソロモン諸島、北は千島列島とほぼ全ての戦域に投入された。 最初期の頃は配備数の少なさ故に一式戦の存在自体が日本軍内でもあまり知られておらず、さらに当時の陸軍機は胴体に国籍標識(ラウンデル)の日章を記入することをやめていたため、海軍どころか身内の陸軍操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空戦が起こるなどの珍事もあった。このため1942年中後半頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。南方作戦が一通り終了した1942年3月に一式戦は「隼」と名付けられ大々的に発表され、以降陸海軍内でも知名度を上げていった(#愛称)。 一式戦は改良型が開発配備されるも大戦中期以降は旧式化し、戦況自体の悪化、連合軍が改良型機・新鋭機の大量投入や戦術も変更するようになってからは苦戦を強いられるようになり(#飛行性能)、1944年(昭和19年)後半以降は新鋭の四式戦が量産され、これに順次改変されていたことから、配備数上では帝国陸軍唯一の主力戦闘機ではなくなった。カタログスペック上では大戦後期には完全に旧式化した一式戦だが1945年まで生産が続けられ、そのような機体を末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する見方もある。だが、重戦たる二式戦は運動性や操縦性に優れた機体に慣れた操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には、大口径エンジンによって離着陸の難度が高さなどから全体的に使いにくいと評価する者がおり、加えてエンジンの信頼性も確保できていなかった。三式戦闘機「飛燕」(キ61)は搭載している水冷エンジンハ40の信頼性・生産性に問題があり、整備上の問題もあり全体的に稼働率が低く、その影響で離昇出力も含めた戦闘力不足が生じていた。また、1944年半ばより「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に量産された四式戦はそのバランスの取れた高性能と実戦での活躍によりアメリカ軍から「日本軍最優秀戦闘機」と評されるものの、ハ45の不具合や高品質潤滑油・高オクタン価燃料・交換部品の不良不足によりこちらも信頼性に難があった。更に三式戦二型(キ61-II改)をベースに空冷エンジンハ112-IIに換装、速度性能と引換に「軽戦」などと評された運動性と比較的良好な稼働率を得た五式戦闘機(キ100)は、あくまで首無し機と称されたハ140が搭載されないまま放置されていた三式戦二型を有効活用すべく生み出された改造機であり、実際、生産された大半が改造機とされており、当時は追加生産や制式採用する計画は立てられておらず、一式戦的な位置づけになったのはあくまで結果論である。そのような中で立川の生産ラインを活用し三型の量産も可能であった一式戦は全期間を通じて安定した性能と供給を維持しており、信頼性も高く、新人操縦者にも扱い易く、その運動性の高さを武器に最後まで使用は継続された(#運動性能)。末期には特別攻撃隊が運用する特攻機としても多用されている。 一式戦は特筆に価する点として、大戦初期に限らずビルマ(ミャンマー)やその南東、中国の戦線では大戦後期・末期である1944年後半以降においても連合軍戦闘機との空戦において「互角ないしそれ以上の勝利」を重ね(#ビルマ航空戦・#中国航空戦)、また、スピットファイア・P-38・P-47・P-51(P-51はアリソンエンジン搭載A型のみならずマーリンエンジン搭載B/C・D型をも含む)といった新鋭戦闘機との対戦でも「互角の結果」を残していることが挙げられる(中でもビルマ航空戦ではこれらの全新鋭機を一式戦は初交戦にて一方的に確実撃墜している(#ビルマ航空戦 後期))。これらの記録は日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付も取れている「史実」である。一例として、以下の記録は1943年(昭和18年)7月2日から1944年7月30日にかけてビルマ方面の一式戦が記録した裏付の取れている確実な実戦果・実損害である。 一式戦は連合軍機135機を確実撃墜。一式戦の喪失損害は83機。 撃墜連合軍機種内訳は戦闘機70機・爆撃機等32機・輸送機等33機。 連合軍戦闘機による一式戦の撃墜戦果は約61機。当時のビルマ航空戦全体で日本軍戦闘機は計142機を撃墜、連合軍戦闘機は計127機を撃墜。 同様に、以下は大戦末期の1944年8月18日から終戦間際の1945年8月13日にかけて、ビルマを初めとする東南アジア方面(ビルマ・フランス領インドシナ・マレー・インドネシア・タイ等)を担当する第3航空軍戦域における、一式戦の確実な実戦果・実損害である。 一式戦は連合軍機63機を確実撃墜(一式戦が撃墜した可能性がある連合軍未帰還機9機を含むと連合軍機72機を確実撃墜)一式戦の喪失損害は61機。 撃墜連合軍機種内訳は戦闘機14機(または18機ないし19機)・爆撃機等32機(または36機ないし37機)・輸送機等17機。 連合軍戦闘機による一式戦の撃墜戦果は47機。残り14機は爆撃機の防御砲火によるもの。 末期においても圧倒的不利な状況にて一式戦が活躍していた事例として、以下の記録が存在する。1945年(昭和20年)3月15日、バンコク付近にて飛行第30戦隊の一式戦2機が「第二次世界大戦最優秀機」と評されるアメリカ陸軍航空軍のP-51D 4機(当初は8機)と交戦、この一式戦2機は空中退避中にP-51D 4機編隊の奇襲を受けた劣勢にも関わらずまずその一撃離脱攻撃を回避、続く別のP-51D 4機編隊の攻撃は得意とする超低空域機動によってこれも回避、一式戦は反撃し1機(第1戦闘飛行隊第4小隊モダイン大尉機)を確実撃墜。 日本軍・連合軍の戦果および損害報告記録たる一次史料をもってこれら一式戦の戦績調査研究を行った梅本弘は、自著においてビルマ航空戦における帝国陸軍航空部隊と一式戦の活躍を以下の如く述べている。 (前略)空戦を児戯に類するほど単純に「航空機の損失と、撃墜戦果」という観点からのみ見れば、陸軍戦闘機隊は、質量ともに勝る英米の戦闘機隊に対して昭和20年の2月まで、ほぼ互角の勝負をしていた。 — 梅本弘 『ビルマ航空戦』 2002年11月 p.18 隼の損害、戦果ともに筆者の調査で確認できたものだけで、実際にはもっと多いはずだ。調査には限界があり、完全ではないが、昭和19年の後半から終戦まで、日本陸海軍の航空部隊が各地で目を覆いたくなるような惨敗を喫していた中で、主戦場から外れたビルマとさらに南東の辺境では、最後の最後まで、隼が信じられないような健闘をつづけていたのは確かである。 — 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 2010年8月 p.124
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実戦投入
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「CAC ワイラウェイ」の記事における「実戦投入」の解説
太平洋戦争開戦の時点で7個の第一線飛行隊に多用途機として配備されていたが、当時のオーストラリア空軍には戦闘機が不足していたため、武装可能だった本機は応急的な戦闘爆撃機として実戦投入された。主に船団哨戒や対地攻撃、偵察の任務に就き、急降下爆撃の際はJu 87の「ジェリコのラッパ」を真似てスープの空き缶を改造した簡易サイレンを取り付けたこともあった。 戦闘任務にも投入されたが、やはり戦闘機としての性能には限界があり、一式陸攻を迎撃しても速度が足りず捕捉できなかった。ニューブリテン島では1942年1月20日に10機が空爆を避けて離陸した所を高高度から零戦の襲撃を受け、5機が撃墜され3機が大破、雲中に隠れた2機だけが難を逃れるという大敗を喫し作戦不能となってしまった。しかし同年12月26日にはニューギニア方面で零戦1機を急降下からの射撃で撃墜する戦果を挙げており、これが本機唯一の撃墜記録となった。 1943年中頃には、本機を運用していた第一線飛行隊の大半がブーメランなどのより実戦向きな機種に更新しており、本来の役割である練習機として使用されるようになっていった。
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実戦投入
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1942年に出現したこの手榴弾は、イギリス陸軍では1955年まで実戦配備された。アメリカ陸軍もこの手榴弾を使い、自軍用の派生型としてM7対戦車地雷を作り出した。対戦車用途に用いた場合、幾つかの手榴弾が「連鎖」するよう一緒につながれ、間隔は約2フィートとされた。 また装甲車両に損害を負わせるよう、道路を横切って並べられた。これは特に戦車の履帯を傷つける効果があった。十分な数の手榴弾が一緒に結束された場合、これらは中戦車を無力化する能力があった。 ホーキンス手榴弾は壁の破壊のような他の任務にも使われ、小さなサイズによって鉄道網の中に容易に仕込める手段ともなり、また起爆したときには線路の一部を壊すことができた。 この手榴弾には、当時流通していた床磨き剤にちなんで「ジョンソンのワックス缶」というあだ名が寄せられた。
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実戦投入
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「マリーネフェーアプラーム」の記事における「実戦投入」の解説
マリーネフェーアプラームの初めての実戦投入は、ソビエト連邦へドイツが侵攻したバルバロッサ作戦中に行われた。1941年9月14日、ドイツがベイオウルフII作戦の一環としてサーレマー島、ヒーウマー島、ムフ島へ侵攻した際に12隻のマリーネフェーアプラームが投入されている。また1942年6月、セヴァストポリ包囲戦ではマリーネフェーアプラームが補給支援を行った。1942年9月2日夜間、ブリュッヒャーII作戦の一環として1.揚陸部隊に属する24隻のマリーネフェーアプラームが、第46歩兵師団の戦闘団をタマン半島へ輸送するためケルチ海峡を渡った。 1943年1月から10月の間、この時期にソビエトの攻撃が繰り返されていたにもかかわらず、マリーネフェーアプラームは、ロシア南部タマン半島のクバン橋頭保にあった国防軍のうち第17軍の撤退のため投入された。海上の撤退では239,669名の兵員、16,311名の負傷者、27,456名の市民と115,477tの軍需物資(主として弾薬)、車両21,230両、戦車74台、火砲1,815門と馬74,657匹がクリミアへ運び出された。 1944年2月、3隻のマリーネフェーアプラームがルーマニア海軍に購入され、「PTA-404」、「PTA-405」、「PTA-406」と命名されている。
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実戦投入
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1919年、マーク D 中戦車の量産準備ができていない状況があり得たため、戦車軍団ではこの年に6,000両ものマーク C 中戦車の配備を望んでおり、そのうち3分の1は車体前部に長砲身6ポンド砲を装備した雄型だった。設計図は準備されたものの、この図面からは何も生まれなかった。戦争終了時に全ての指示がキャンセルされ、車輌36両のみが完成間近だった。総数50両の量産車を作り出すため、先行生産された部品から組立てられた他の14両と共にこれらは完成した。J・F・C・フラー将軍はマーク D 中戦車の開発予算をマーク C 中戦車の量産に切り替え、そこで平時の戦車大隊全てにこの性能の良い戦車を装備することを考慮したものの、反対の決定を下した。第2戦車大隊のみがこの戦車を保有した。これは戦車部隊の中でも最新型の戦車だったため、損傷から注意深く遠ざけられた。マーク C 中戦車は、ロシア内戦でのボルシェビキに対する遠征軍に参加したり、アイルランド独立戦争に送られることはなかった。本戦車のうち、1919年の戦勝パレードに参加したのは4両のマーク C 中戦車のみである。この戦車が唯一「実戦投入」されたのは1919年である。グラスゴーにおいてジョージ・スクエアの戦いとして知られる暴動が発生した後、当地の労働争議の鎮圧に当たった。 1925年、マーク C 中戦車は徐々にビッカース マークI中戦車とビッカース マークII中戦車に取り替えられていった。回収車輌としてマーク C 中戦車を用いるという提案は拒否された。新型トランスミッションの試験のため、1両が使用された。1940年、最後に残されたマーク C 中戦車が溶解処理された。
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実戦投入
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「ASM-A-1 Tarzon」の記事における「実戦投入」の解説
VB-13の計画は第二次世界大戦の終結によって試験段階に達し得なかったものの、撤回になることは免れ、低度優先順位の計画として引き継がれた。限定的な試験が1948年から1949年の間に実施された。1950年のニューメキシコ州アラモゴードでの追加試験により、Tarzonは朝鮮戦争への実戦投入が承認されるに至った。 Tarzonの最初の実戦投入は1950年12月であり、ASM-A-1はRazonの任務を代替した。このより小型の兵器は、橋梁やその他の硬化目標に対して有効に使うには小さすぎると評価されたからである。以前からRazonの爆撃任務を実施していた第19爆撃グループのみが本爆弾を使用し、1950年12月14日、最初のTarzonが投下された。 この戦争に投入された中で最大の爆弾であるTarzonは、北朝鮮の橋梁や硬化目標を攻撃すべく用いられた。従来型爆弾を上回るTarzonの改良された精度により、約6カ月の実戦投入中に少なくとも6箇所の高度優先目標の確実破壊に至った。これらには水力発電施設が含まれ、橋梁と同様、誘導兵器の通常目標に対する有効性が実証された。 Tarzonを投入する任務は1950年12月から1951年3月の間に30回行われた。この兵器の成功により、1,000発のASM-A-1の追加生産契約に至った。しかし1951年3月29日、Tarzonを用いた新義州市への攻撃が不首尾に終わった。機械故障に苦しめられていたグループ指揮官機が不時着水に備えて爆弾を投棄した際、本爆弾が過早に起爆した結果、グループ指揮官機は破壊された。30回目かつ最終となった任務は、新義州市への作戦の3週間後に実施され、「安全」とされた爆弾を投棄してまたも過早な起爆に苦しめられたが、今回は航空機の損失がなかった。 調査により、爆弾の尾部構造に欠陥があることが明らかになった。衝撃で尾部が分解し、安全状態の爆弾からアーミングワイヤーが外れて撃発可能な状態となり、爆弾を起爆させていた。改修により問題を解決したものの、不評は残されたままとなった。安全性の問題は通常型爆弾と比較して整備コストを増やした。爆弾の誘導システムの使用は晴天の日に限られ、爆撃機が敵戦闘機に対し脆弱となった。また、最適高度からの投下を必要としており、爆撃機が敵の対空砲からの危害にさらされることになった。これら問題と、投下28発のうち6発のみが命中に成功し、目標を破壊したという低い信頼性が重なった結果、量産の指示はアメリカ空軍により撤回されることとなった。これに続き、Tarzonの計画は1951年8月に全てが中止となった。
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実戦投入
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フランス - フランス軍が湾岸戦争やユーゴスラビア内戦、マリ北部紛争への介入で実戦投入。 イラク - イラク軍がイラン・イラク戦争や湾岸戦争で実戦投入。
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実戦投入
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南アフリカ軍では、1993年のアパルトヘイト政策廃止までアンゴラ侵攻やナミビアのSWAPO(南西アフリカ人民機構)掃討作戦にラーテル歩兵戦闘車などと共に従事した。
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実戦投入
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「JB-4 (ミサイル)」の記事における「実戦投入」の解説
1945年1月、JB-4は飛行試験段階に入った。このミサイルは640km/h以上での巡航能力を実証したものの、テレビジョン誘導の概念は当時の技術的限界に苦しめられており、完全な晴天以外では、何であれ図像の判別が難しいものとなった。本ミサイルは信頼性の問題にも苦しめられていた。これらと1945年8月の第二次世界大戦の終結が組み合わさり、結果は計画終了となった。 生産されたJB-4のうち、実戦投入されたものは無い。
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実戦投入
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「L118 105mm榴弾砲」の記事における「実戦投入」の解説
L118が初めて実戦に投入されたのは、1982年のフォークランド紛争である。この紛争においてイギリス軍は、フォークランド諸島に30門(5個中隊)のL118を揚陸させて同諸島における地上戦に投入した。特に島都ポートスタンリーの奪還作戦においては、アルゼンチン軍が装備するM56 パックハウザーやM101のような従来型の105mm榴弾砲を上回る長射程を活かしてアルゼンチン軍の陣地に対する砲撃を有利に行うことができた。 その後、湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争などにおいてもイギリス軍はL118を投入した他、アメリカ陸軍もアフガニスタン戦争やイラク戦争において、同砲の改良型であるM119を投入している。 また、エディンバラ城において午後1時に大砲の空包を一発だけ発射するワン・オクロック・ガンにもこの砲が採用されている。
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実戦投入
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1943年5月14日、アメリカ海軍所属のカタリナ飛行艇がUボートを攻撃、破壊した。これはU-657もしくはU-640のどちらかである。5月13日、イギリス空軍の沿岸部隊所属のB-24リベレーター、B/86機がFIDOを用いてUボートを攻撃、ただしこのU-456艦は損傷を受けたに留まり、沈没は数日後となった。これらの艦艇の中の1隻が、FIDOを用いて撃沈した最初のUボートということになる。投入実績の中で、この魚雷は総計37隻の潜水艦を沈め、22%の効率を達成した。比較して爆雷はおよそ9%である。 「US Navy OEG Study No. 289, 12 August 1946」が示す、マーク24機雷の有効性に関連したデータ 攻撃のため、Mk24が撃ち出された数 264 全ての標的に対するMk24の射出数 340 潜水艦に対するMk24の射出数 204 アメリカ航空機から敵潜水艦に対して撃ち出されたMk24の数 142 連合側航空機(主としてイギリス軍)から撃ち出されたMk24の数 62 FIDOによるドイツ潜水艦の撃沈数 31 FIDOによるドイツ潜水艦の損傷数 15 FIDOによる日本軍潜水艦の撃沈数 6 FIDOによる日本軍潜水艦の損傷数 3 FIDOによる潜水艦の撃沈総数(ドイツおよび日本) 37 潜水艦の損傷総数 18
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実戦投入
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マークIのデビュー戦は、1916年9月15日のソンムの戦いにおける第3次攻勢となった。 詳細は「ソンムの戦い」を参照 三個戦車中隊の計60輌のマークIが投入を予定していたが、輸送時のトラブルや移動中の故障から脱落する車輌が相次ぎ、用意されたのは49両、稼働できたのは18両だけだった。また、前進を開始するとエンジントラブルや砲弾孔に落ちて破損するなどの問題が発生し、従来の作戦通り歩兵を先導して敵陣地に突撃できたのはわずか5輌だけだった。だが、有効な対抗兵器を持たない前線のドイツ軍兵士は、鉄条網を超えて進んでくる謎の新兵器にパニックに陥った。この日の戦いで、イギリス軍は目標としていたフレール一帯の丘陵地帯の占領に成功する。それでも、長大な戦線からすれば、投入した車輌の数の少なさから効果は一部に留まってしまい、何より戦車の信頼性の低さが問題となった。だが、戦車という兵器の研究・開発は各国で進められることになる。
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実戦投入
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GB-2、GB-3と比較した上で量産に選ばれたのは、この爆弾の制御系統がより単純であり、また爆撃機に積むにはより実用的なことが確かめられたためである。GB-1の生産は1943年5月に始まった。戦場への配備は9月であるが滑空機という搭載上の制限のために投入は遅れた。B-17爆撃機では一度の出撃でたった2発しか搭載できず、爆弾は1つずつ爆撃機の主翼下のラックに搭載された。またGB-1の精度も通常爆弾より大幅に劣ることが確かになった。これにもかかわらず、1944年5月にはGB-1の最初の投下に着手した。1944年5月28日、113発投下された爆弾のうち42発がドイツ西部のケルンに着弾した。これらは市内のアイフェルター・マーシャリング・ヤードから28.8km離れ、314km/hで投下された。爆弾の多数がバッテリーの電力の保持に失敗したことから自動操縦が失われる結果となった。ドイツ軍の砲手たちは自らの撃墜した爆弾を航空機と誤認しており、90機以上を破壊したと主張した。爆弾の不正確さが実証されたために第8空軍は滑空爆弾を再び投入しようとはしなかった。ただし、ほかの部隊では1,000発以上のGB-1を戦争終結まで使い続けた。 戦争中にはGB-1の派生型として、対艦用途にコントラストシーカーを用いるGB-5、GB-12、熱検知型のGB-6、セミアクティブレーダー誘導のGB-7、無線指令誘導のGB-8、テレビ誘導方式のGB-10、フレアーシーカー方式のGB-13、そしてアクティブレーダー誘導のGB-14が開発されたが、いずれも試験段階を越えて進展することはなかった。化学薬品の散布に用いる派生型にGB-11が試用されたものの、これも戦争終結によりキャンセルされている。GT-1滑空魚雷もまたGB-1から派生したものである。 GB-1の量産は1945年1月に終了した。戦争の終結ののち、この爆弾は退役となった。
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実戦投入
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「ZiS-30 (自走砲)」の記事における「実戦投入」の解説
ZiS-30はあくまで応急的な自走砲であり、小さすぎる車体に強力な砲を搭載したことにより様々な問題が発生した。試作車の試験では、重心が高く足回りが華奢なため、発砲時の反動による揺れがすぐには収まらず、次の狙いがつけられないので発射速度が低くなることが判明した。このため量産型では車体後部左右にアウトリガーを追加して反動を抑えることで、発射速度は向上している。しかし足場は狭く操作性や居住性に劣り、乗員を守る装甲は小さすぎ、搭載弾薬や燃料は少なく、無線も装備しておらず、エンジンの出力も不足していた。それでも搭載したZiS-2対戦車砲そのものの威力は大きく、当時配備されていたあらゆるドイツ軍戦車の装甲を貫くことができ、それが自走できるという点で運用側には好評だったという。 モスクワ防衛のために奮戦したZiS-30であったが激戦の中消耗し、翌年の夏までにはほぼ全滅している。生産数の少ないZiS-2に代えて、同じ砲架を用いた76.2mm ZiS-3師団砲(野砲)に変更した型も計画されたが、ベースとなるコムソモーレッツの不足により中止となった。
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実戦投入
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投下の目標とされたのは原爆投下候補地だった京都市、広島市、新潟市、小倉市の各都市を4つのエリアに分けた周辺都市(広島市ならば宇部市、新居浜市など、新潟市ならば富山市、長岡市など)にあった軍需・民間の大規模工場・鉄道操車場等であった。原爆投下候補都市は、原爆による威力を正確に観測するために、事前の空襲は禁止されていたために周辺都市が目標となった。[要出典]1945年7月20日、新潟エリアである富山市・長岡市・福島市・東京都(実例の一部として、現在の練馬区大泉学園地区、西東京市の西武柳沢駅近辺)へ計10発投下されたのを皮切りに18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日〜8月14日に投下され 、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が出た記録が残っている。 1945年7月20日午前8時22分ごろ、東京駅八重洲口前の外堀通り、呉服橋と八重洲橋の中間に位置する堀にパンプキン爆弾が落ちた。周辺にいた1人が死亡、62人が負傷、全壊、半壊が1棟ずつ。もともとの爆撃目標は福島県郡山市の郡山駅だったが、雲で見えず東京に変更した。 1945年(昭和20年)7月24日午前7時40分に四日市市日永地区(1941(昭和16)年まで三重郡日永村)の「第二海軍燃料廠・日永の疎開工場(山の工場)」の敷地内の安政池にパンプキン爆弾が着弾した。安政池の北にあった海軍官舎が被災、29才の母親と8才の二男が死亡。 7月29日には京都府舞鶴市で97人が死亡した。また同日、東京都西東京市柳沢に投下され、3人が死亡、11人が負傷した。 1945年8月8日午前8時40分四日市市千歳橋付近に着弾、死者2名、負傷者56名。 同日午前8時50分、四日市市塩浜町鈴鹿川堤防左岸(塩浜小学校の東約500m)に着弾、死者2名。 四日市市への投下は3発とも第二海軍燃料廠を攻撃目標としたものである。7月24日の投下は曇っていたためレーダーによるもの、8月8日の投下は2発とも目視投下であった。 しかし投下は爆撃手の目視によると厳命されており、天候などの制約があるため、必ずしもその場所に投下された訳ではない。アメリカ軍の資料によれば、前述の目標に投下できない場合には臨機目標としてどの都市でもいいので町の真ん中に落とすようにという指示があったとされる。そのため、7月26日の訓練では天候悪化により富山の軍需工場への爆撃に失敗しその帰りに島田市(島田空襲)、焼津市、静岡市、名古屋市、大阪市など軍需工場とまったく関係ないところにまで投下されたというような例もある。 8月14日にも愛知県などで投下され、トヨタ自動車の工場も壊滅的な被害を受けた。 搭載機は原爆投下任務時同様にパンプキンを目視にて投下後、速やかに155゜の急旋回・急加速にて回避行動をとることとされた。これは原爆投下後、搭載機を含めた攻撃部隊が爆発(爆風)に巻き込まれることを避けるためである。もっとも、原爆投下任務全てにおいて爆撃機乗員の生命の安全は何ら保障されていなかったようである。 戦後、米戦略爆撃調査団はパンプキンに対して「当該爆弾が目標に直撃及び至近弾となった場合、目標に相当量の構造的被害を与える非常に合理的かつ効果的な兵器であった」との評価を下した報告書をまとめている。原爆投下より前の模擬投下は「フェーズI」として行われ、その後「フェーズII」として8月14日に春日井市に4発, 挙母町(現豊田市)に3発投下されている。これは戦後にこの爆弾を使用して効果が得られるかどうかのテストとして行われたもので、有効な兵器とされたが生産コストに見合わないとして不採用とされた。そのため、テニアン島に残っていた66発のパンプキン爆弾はその場で海に沈められ破棄された。爆弾の破棄には機密保持の意味もあったとされる。 陸軍航空隊のエリートパイロットでB-29「ストレートフラッシュ」の機長であったクロード・イーザリーは、7月20日の訓練で郡山市の天候悪化のため皇居に向けてパンプキン爆弾を投下(昭和天皇の殺害を目論んだとも言われている)するも目標を外し、呉服橋に着弾させている。アメリカ軍は、降伏交渉相手であると同時に日本人に対する心理的影響を懸念し、皇居を狙ったいかなる攻撃も禁止していたため、イーザリーのこの独断行為は命令違反とされた。そのため、本来広島への原子爆弾搭載機に指定されていたイーザリーの搭乗する「ストレートフラッシュ」は任務を外され、「エノラ・ゲイ」の気象観測機として随伴することとなった。
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実戦投入
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一部の車両は2016年の軍事クーデターに参加した。 シリア内戦に投入された車両の内1両は、対戦車ミサイルに被弾し中破している。
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実戦投入
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「デュランダル (爆弾)」の記事における「実戦投入」の解説
第三次中東戦争(六日戦争)において、イスラエル国防軍による1967年6月5日の先制攻撃時に、イスラエル空軍の第一次攻撃隊がエジプト、シリア、ヨルダン、イラクの空軍基地に対してデュランダルを使用し、滑走路を破壊した。この攻撃によりアラブ諸国空軍の戦闘機(MiG-17、MiG-19、MiG-21、Su-7、ホーカー ハンター)や爆撃機(Il-28、Tu-16)の半数は離陸不可能となり、機銃掃射や第二次以降の攻撃隊の無誘導爆弾やナパーム弾で破壊され、イスラエルの制空権は確固たるものとなった。 デュランダルの実戦使用が1967年の第三次中東戦争であるとの説は長く信じられているが、実際にデュランダルが兵器市場に供給されるようになる10年前の戦争である。この戦争で使用されたのは、イスラエル・フランス共同開発の試作品でありデュランダルとは別物と考えるのが妥当だろう。実際にイスラエル軍が投下した兵器はパラシュートではなくロケットモーターで減速するなどの違いがある。 なお、投下方法については、滑走路に沿ってと表現すると平行に飛行する航空機からの投下を想起させるが、これでは中心を外してしまった場合に一発も滑走路に当たらないことが予想される。実際の運用方式は、平行でも直角でもなく、滑走路と鋭角をなすような直線経路で飛行し、つまり斜めに横切りながら投下することとされている。
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実戦投入
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「チャリオット (特殊潜航艇)」の記事における「実戦投入」の解説
「イギリスのチャリオットが唯一完全に成功した作戦」は、1944年10月28日から29日に生じた。HMSトレンチャントからMk IIチャリオットが発進した。このチャリオットには2名が搭乗し、トニー・エルドリッジRNVR中尉が指揮をとっていた。彼らは日本軍の支配下にあるシャム・プーケット港内の2隻の艦艇を沈めた。
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実戦投入
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「GT-1 (滑空魚雷)」の記事における「実戦投入」の解説
1943年中に最初の試験が行われ、GT-1の成功が確かめられた。また任務のための実用ユニットが現れた。ノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機から投下されるGT-1は、戦争末期に短時間実用された。 1945年後期、沖縄における3回の作戦でこの兵器を用いたことが知られている。鹿児島県に対する作戦が1回行われ、11基から13基のGT-1を投下、着水に成功した。正規空母1、軽空母1、貨物船1への3本の命中が記録されている。B-17もまたGT-1を携行する能力があった。 第二次世界大戦の終結に続き、対水上艦戦闘における航空魚雷は急速に兵器としての支持を失い[要出典]、GTカテゴリーの兵器は廃止された。
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実戦投入
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実戦的な訓練を受けた若き兵士たちは、経験豊富な将校・下士官に率いられ、初陣において連合軍側の事前の低い評価を覆す勇戦ぶりを見せ付けた。 当初フリッツ・ヴィット(de:Fritz Witt)師団長のもとノルマンディー上陸作戦を迎え撃つが、6月14日に彼が艦砲射撃により戦死したため、SS准将に昇格したクルト・マイヤーが指揮を引き継いだ。ノルマンディー上陸作戦が開始された時、第12SS装甲師団と第21装甲師団は上陸地点の一番近くに配置されていた装甲師団だった。しかしヒトラーの了解がなかなか得られなかったため、上陸してきた連合軍に対して反撃を開始できたのは上陸から16時間もたってからであった。この反撃は結果的に失敗に終わり、ノルマンディー地区のドイツ軍は防戦に転ずるが、そこで第12SS装甲師団は真価を発揮する事となる。 ノルマンディー地方では交通の要所であるため、最重要都市のひとつであるカーン市の周辺に展開した第12SS装甲師団は、そこで超人的とも言える防戦を展開した。圧倒的な物量と火力で押し寄せる、主力となるカナダ軍やイギリス軍、自由ポーランド軍の攻勢を何度も退け、連合軍が上陸作戦の初期段階で占領するはずだったカーン市を2ヶ月近く死守し続けた。結局連合軍がカーン市の北部を制圧できたのは7月11日にチャーンウッド作戦が終了してからであり、その時点ではまだ運河の南がまだドイツ軍の手中にあった。英軍(バーナード・モントゴメリー将軍)はカーン市街からドイツ軍を掃討するために今度はグッドウッド作戦を発動し、7月19日に作戦が終了する頃までにはカーン市街のほとんどを制圧する事に成功していた。しかしカーンの周辺地域には未だにドイツ軍が展開しており、それらの部隊が撤退し「カーンの戦い」が完全に終結したのは実に8月に入ってからだとされている。ノルマンディー上陸作戦自体は成功したものの、カーン制圧にてこずったため連合軍の予定表は大いに狂う事となってしまった。 第12SS装甲師団はカーン周辺から撤退した後リュティヒ作戦に投入され、その結果生じたファレーズ包囲網では最後まで残って他の部隊を逃がすために戦ったため、消耗し壊滅状態となった。そして予備兵力を加えた後の反撃でも損害を出し、フランス=ベルギー国境の近くでクルト・マイヤーも捕虜となってしまう。 フーベルト・マイヤー(de:Hubert Meyer (SS-Mitglied))SS中佐が師団長代理となり再編成を行った後、フーゴ・クラース(de:Hugo Kraas)SS少将を新たな師団長に迎えた。人員は定数の八割まで回復したものの戦車や輸送車輌は不足しており、第6装甲軍からは「限定的な防御戦闘に適する」と評価され、以前ほどの戦闘力は持たない状態にあった。1944年12月のバルジの戦いでは、第1SS装甲師団と共に第6装甲軍の主力として参加したが、エルゼンボルン尾根に阻まれ第1SS装甲師団との併進に失敗し、第1SS装甲師団主力は壊滅した。 1945年3月には春の目覚め作戦に投入されたが、再び壊滅した。残存兵力はオーストリアに転進し、5月8日、リンツ南東において米軍に降伏した。最終的な残存兵力は僅か455名で、戦車などの重装備はほぼ全て失われていた。 ちなみの6月から9月の3ヶ月の間で第12SS装甲師団では士官55名、下士官229名、それに将兵1,548名が戦死し、士官128名、下士官613名、それに将兵3,648名が負傷し、士官58名、下士官182名、それに将兵2,012名が行方不明になっている。合計すると士官241名、下士官1,024名、それに将兵7,244名の8,569名であり、ノルマンディー上陸作戦以前の師団兵力が20,540名だった事を考えると約3ヶ月の戦闘で実に師団の半分近くの兵力を失っている事が分かる。 母体となったヒトラーユーゲントのより年少の少年たちには、大戦末期に本土防空の高射砲部隊や国民突撃隊に配備された者もいたが、これらの戦いは第12SS装甲師団と直接の関係は無い。
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実戦投入
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南アフリカ軍では1974年に初めて実戦投入され、1993年のアパルトヘイト政策廃止までアンゴラ侵攻やナミビアのSWAPO(南西アフリカ人民機構)掃討作戦に従事した。 輸出先のモロッコでも、西サハラにおけるポリサリオ戦線掃討作戦に参加した可能性がある。
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実戦投入
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AML 60/90は、以下の戦争や地域紛争で実戦投入された。 ポルトガル植民地(ギニアビサウ、アンゴラ、モザンビーク)の独立戦争:ポルトガル軍が使用。 ローデシア紛争:白人主体のローデシア政府軍が使用。 アンゴラ内戦:同内戦に介入した南アフリカが使用。 西サハラ問題:モロッコ軍とモーリタニア軍が主に装備していたが、ポリサリオ戦線も鹵獲した車両を運用。 第三次中東戦争:イスラエル陸軍が使用。 レバノン内戦:レバノン陸軍と治安部隊が使用。 フォークランド紛争:アルゼンチン軍が使用。 ミャンマー内戦:ミャンマー軍が使用。 さらに、フランス軍もレバノン内戦やチャド内戦への介入などで使用した。
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実戦投入
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「ホーカー ハリケーン」の記事における「実戦投入」の解説
1937年12月にハリケーン Mk. IAの配備が開始され、後期型に順次交代し、初期型は訓練用に使用された。第二次大戦が始まった1939年9月1日には19個飛行隊(戦闘機中隊)がハリケーンへの切り換えを完了した。 1940年4月、ドイツ軍の北欧侵攻に呼応してイギリス空軍はグラディエーターを増援に送るとともに、初期型のハリケーンを装備する第46飛行隊も輸送船に載せるかイギリス海軍の空母に搭載して送り込んだ。同飛行隊はナルヴィクの防空を行い、ドイツ空軍の爆撃機から陸上部隊、艦隊と港湾を守った。 ハリケーンの機体は修理が容易で、弾が機体を貫通するだけで墜落に至らないことが多かった。また、軽量なため墜落時の速度が遅く、パイロットの脱出もより容易であった。1940年6月、第46飛行隊の奮戦も空しく、ノルウェーにおける陸戦はイギリスに負担をもたらし、ついには撤退することになった。同戦闘機中隊は空母「グローリアス」に搭載されて本国に向かったが、ドイツ海軍の巡洋戦艦「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」から攻撃を受け、搭載されていたハリケーン全機は「グローリアス」と共に、海に没してしまった。 1940年5月、フランス侵攻時、前年からイギリス遠征軍と共にフランスに展開済みであったハリケーン飛行隊(第1、第73、第85、第87飛行隊)が、ダブルカウントのドイツ空軍戦闘機に圧倒され、イギリス空軍戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将は更に第3、第79、第501、第504、第607、第615飛行隊を増援に派遣した。イギリスは総計10個飛行隊をフランスに送り込んだが、ドイツ軍の進撃を止める効果はほとんどなく、被害が増すばかりであった。
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実戦投入
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「第14SS武装擲弾兵師団」の記事における「実戦投入」の解説
1944年初頭師団は戦線に送られ、初任務に就くこととなった。師団には戦闘経験が欠けていたがその装備は充実しており、大部分の将兵が1943年-1944年期のドイツ徴集兵よりも厳しい訓練を受けていた。
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実戦投入
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第二次世界大戦後に開発されたため、インドシナ戦争やアルジェリア独立戦争など、フランス植民地の独立運動を押さえ込む類の戦闘がほとんどであった。また、スエズ運河の権益をエジプトから保護・奪還するためにイギリスやイスラエルとともにエジプトに出兵したスエズ危機でも使用された。 ベトナム戦争にもベトナム人民軍および南ベトナム解放民族戦線が、インドシナ戦争の際にフランス軍から鹵獲したMAT 49をトカレフ用の7.62x25mmトカレフ弾を使用できるように改修したうえで使用していた。
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実戦投入
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1943年-1944年にかけて行われた嵐作戦と1944年8月1日のワルシャワ蜂起にて上記の国内軍やKeDyw(Kierownictwo Dywersjiのアクロニム。ポーランド語でDirectorate of Sabotage and Diversion)によって使用された。
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実戦投入
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M249軽機関銃は、M249 SAWの制式名称で、1984年に正式採用された。当初は様々な評判があり、おおむね地面に伏せて射撃を行えば十分に軽機関銃として運用しうるが、一方で小銃のような肩撃ちないし腰だめ撃ちの場合には使い物にならないと言われた。また、非常に頑丈かつ強力な分隊支援能力を有する点は支持されたが、一方で多くの欠点も指摘された。例えば、不良の多い空包射撃用アタッチメントや破損しやすい二脚、複雑なスリング取付金具、構造上隙間や溝が多く土や汚れが付着しやすい点などである。中にはM16の重銃身モデルの方が優れた軽機関銃であるという評価もあった。 大規模な運用は、1991年の湾岸戦争が始まってからであった。以後、1993年のソマリア介入(統一タスクフォース(英語版))、1994年のボスニア紛争、1999年のコソボ紛争、2001年からのアフガン紛争、2003年からのイラク戦争など、アメリカ軍が参加した多くの紛争・戦争に投入された。 M249は、機動部隊(maneuvering unit)により運用され、手持ちの姿勢か銃架に据え付けられた状態から射撃され、他隊の支援を行うために用いられる。通常、射手は200発弾帯5本の合計1,000発分の弾薬を携行し、さらに予備として最大500発程度の弾薬を携行する際は100発ずつソフトケースに装填して携行する。
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実戦投入
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1939年5 - 9月、BT-7と火力支援型BT-7Aは増援としてノモンハン事件に投入された。前半戦におけるBT-5の損害は予想以上で、BT-7もまた九四式三十七粍砲や75 mm野砲によって同じように撃破された。しかしまとまって投入されたのは戦況が有利になってからの後半戦からのようで、(装甲の強化がどの程度有効であったかは不明であるが)BT-5よりは格段に損害が少なかった。それでも通常型30輌、指揮官型27輌、火力支援型2輌を全損・または損傷大につき後送となっている。特にハチマキ型アンテナの目立つ指揮官向け戦車の損害の比率が大きく、日本陸軍が優先攻撃目標にしたことが窺える。 9月のポーランド侵攻には、BT-2やBT-5、T-26等と共に参加している。 続いて11月からのフィンランドに対する冬戦争にも投入されたが、やはり他のBTシリーズ同様、滑り止めのパターンの無い履帯が雪中での行動に向かないため、活躍できなかった。続く継続戦争の初期にも参加し、フィンランド軍に捕獲使用された車輌の一部は、榴弾砲を搭載したBT-42に改造されている。 1941年のドイツによる侵攻では、あいかわらず乗員の錬度が不足していることや、旧型よりは厚くなったとはいえ装甲も不十分で、多数が撃破され、急速に消耗した。BT-7を捕獲したドイツ軍は、BT-5同様に後方警備用など二線級任務に使用している。1942年になっても一部は使用が続けられていたが、多くの部隊ではT-34によって更新され、生き残りのBTシリーズは、満州国境方面に回された。 1945年の満州侵攻には、ヨーロッパ方面からの新型戦車の展開の遅れもあり、BT-5やT-26と共に久々に実戦投入されている。BT-7は第6親衛戦車軍に三個大隊が配備され、それまでドイツ軍に対しT-34で戦ってきた兵士たちが搭乗、その機動力をもって山岳地帯を走破して部隊の先鋒となり、部隊が表彰される程の活躍を見せて終戦を迎えた。
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実戦投入
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「UボートXXVII型」の記事における「実戦投入」の解説
ヘヒトは能力上の問題から教育訓練に使用されたのに対して、ゼーフントは312K戦隊に配属され1945年初頭より実戦に投入され、1月1日に武装トロール船を撃沈することでデビューを果たした。 連合軍側の見解では、小型だったゼーフントをアスディックを用いて探知するのはほぼ不可能となり、水中を低速で潜航した場合は水中聴音機による探知からも自由だった。ポーツマス司令長官の任にあったサー・チャールズ・リトル提督は、「我々にとり幸運なことに、このろくでもない代物("those damn things")は、何かしらの損害を与えるには戦場への投入が遅きに過ぎた」とした。 ゼーフントは主にドイツの海岸およびイギリス海峡に投入され、荒天の海面で攻撃ができたが、潜航しての攻撃のためほぼ動く必要はなかった。1945年1月から4月までにゼーフントは142回の出撃を実施し、合計8隻、17,301tを撃沈した。また損傷を3隻に与え、この総計は18,384tである。不確実なものを含めるとその戦果はおよそ9万t~12万t近くになり、その中には7,000tの大型貨物船や自由フランスに供与されたハントⅢ級駆逐艦「ラ・コンバタント」も含まれる。35隻のゼーフントが任務中に失われた。 最後のゼーフントの任務は1945年4月28日、および5月2日に行われた。これら2度の特別な作戦はダンケルクに孤立したドイツの基地に食料を補給するもので、潜航艇は通常の魚雷の替わりに食料品の特殊格納容器を携行した。これはバター魚雷と呼ばれ、復路ではダンケルク駐屯軍からの郵便物を詰めて運ぶのに用いられた。
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実戦投入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:26 UTC 版)
1943年1月1日、イタリアはM15/42の量産を開始し、また1943年中期には90両が作られている:17。1943年9月8日のイタリアの降伏の後、第135機甲師団アリエテIIからなるイタリアの兵力は、彼らを武装解除するためローマに移動したドイツの兵員と戦った。M15/42は、イタリア軍がこの戦闘の最中に使用した戦車の1つである。 休戦後、ドイツは残されたM15/42を全て接収した。ドイツの下で、未完成のM15/42が28両追加で完成した。ドイツの作戦におけるM15/42は、ほとんどをユーゴスラビアで戦っており、85両が1944年12月までそこに駐留していた。
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実戦投入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 10:10 UTC 版)
日中戦争に実戦投入された九六式軽機は、その後ノモンハン事件・太平洋戦争(大東亜戦争)を通して活躍した。帝国陸軍のみならず海軍陸戦隊でも使用され(海軍では九六式軽機銃として制式)、また満州国軍など同盟国軍にも供与されている。 粉塵対策を行った本銃は十一年式軽機に比べ信頼性が高くなり、第一線部隊では非常に好評であった。生産においては当時の日本は基礎工業力が低く、加工精度も諸外国に比べて劣っていたため最終調整は熟練工に頼った。そのためか射撃時においてはガタ付が少なく命中精度は非常に高かった反面、弱装薬実包故のガス圧不足による遊底後退量不足による排莢不良や、諸外国に比べて薬莢が僅かに薄いことにより膨張した薬莢が薬室内に貼り付き千切れること(薬莢裂断)による排莢不良、更にそこへ次弾を装填してしまういわゆる突込みといった故障を度々起こした。 日中戦争において中華民国がドイツやチェコなどから輸入装備していたZB26を鹵獲し調査したところ、微妙に薬室のテーパー値を変化させていることが分かり、のちの生産分の九六式軽機では薬莢の貼り付き問題が幾分解消された。またこの結果、三八式普通実包の使用が可能となり減装弾の使用は解消された[要出典]。 その後、長年の懸案であった高威力の7.7mm弾薬を主力実包とすることとなり、九六式軽機に7.7mm弾を使用出来るように改良した九九式軽機関銃が開発され、1940年(昭和15年)に制式採用されても引き続き九六式軽機は生産が継続され、1943年(昭和18年)に打ち切られるまでの6年間で約41,000挺が生産された。
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実戦投入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:55 UTC 版)
制式採用上申の直前に盧溝橋事件が勃発し、完成していた九六式十五糎榴弾砲8門すべてを実戦試験を兼ねて北支の支那駐屯砲兵連隊に急送した。本砲を装備した第2大隊は1937年(昭和12年)10月の国民革命軍の正定城攻撃に際し、攻城砲として攻撃短延期信管と瞬発信管を混用して城壁を破壊し突撃路を開くなど大成果を収めた。期待通りの成績を上げた本砲は砲兵部隊の絶賛を博し、1938年(昭和13年)5月に制式制定、陸軍造兵廠大阪工廠において量産体制に入った。
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実戦投入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 10:20 UTC 版)
「F-105 (戦闘機)」の記事における「実戦投入」の解説
ベトナム戦争の最初の4年間において、北ベトナムに対する爆撃攻撃の75%はF-105によるものだった。ただし本機を特徴づける機体内の爆弾倉は通常爆弾の運用には適さず、爆装は外装で行われ、爆弾倉は燃料タンクの収納スペースとして用いられた。 北爆当初北ベトナム空軍のミコヤンMiG-17に撃墜されるという事件が起こり、「やはり戦闘機失格」という評判を産み、マッハ1級戦闘機であるF-100に、マッハ2級機である本機が護衛されるという屈辱的扱いを受けた。 だが結局F-100のほうは一度もMiG撃墜の戦果を残せなかったのに対し、本機は果敢にMiG-17に挑んで撃墜記録を残し、戦闘機失格の汚名を返上している。ただし対戦闘機戦闘を行う際は爆弾を途中投棄せざるを得ず、結果として北ベトナム空軍は爆撃阻止に成功した事になる(ベトナム空軍もそれを意図した迎撃を行った)。またより高性能なMiG-21を撃墜した記録はない。核攻撃能力に傾倒する一方で制空戦闘機を持たず、本機のような戦闘爆撃機のみ重視したため、ベトナム戦争の様な戦闘での対応に苦しんだ事を考えると、アメリカ空軍の判断ミスは大きかったと言える。 主力型として生産されたD型からは、航法、火器管制、爆撃管制の各装置を連動させた統合自動システムを搭載し、出撃から帰還まで自動的に作戦を遂行出来る様になった。ただし、回避機動などを行えないため使用頻度は少なかった。何機かのF-105は、レーダー妨害装置を備えた ワイルド・ウィーゼル機F-105Gとして敵の地対空ミサイルを破壊する任務に使われた。このベトナム戦争において、北爆の主力として使用されたD/F型総生産数751機の内、385機が戦闘や作戦中のトラブルで失われ、51機が戦闘以外の運用上のトラブルで失われている。 ベトナム戦争終結後は、空軍州兵(ANG)等の後方任務に回され、1983年5月25日にジョージア州航空隊の第128戦術戦闘飛行隊が行ったフライトを最後に全てのミッションを終えて退役した。 また、1964年にアメリカ空軍のアクロバットチーム、サンダーバーズの使用機として採用されたが、同年5月に事故を起こした事とその直後に発生した別の部隊での墜落事故の二つが理由の一時的な飛行停止処置により、早々に使用中止となってしまった。一方、ワイルド・ウィーゼル機のF-105Gは、その後も長く正規空軍で第一線機として用いられ、1980年代より徐々に後継機であるF-4Gと交代した。
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実戦投入
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「B-26 (航空機)」の記事における「実戦投入」の解説
B-26は高速で、重武装かつ防御力の優れた爆撃機だったが、高速力を目指したために翼面荷重が高くなり、操縦はかなり難しく、また、着陸速度は200km/hを超えるなど危険な航空機であった。このため離着陸時や低速飛行時の事故が続発し、最初の生産型であるB-26Aは一時生産中止になった。その後改良を加えた型であるB-26Bが開発され生産が再開された。この型は武装と装甲も強化されており、B-26各型の内で最も多く生産された。 この後も、主翼面積を増大させたり迎角を増加させたりするなどした改良型が作られ、第二次世界大戦では主にヨーロッパ戦線で使用された。ヨーロッパ戦線では高い生還率を誇ったものの、同時期に運用されたB-25 ミッチェルと比べると運用し辛かったため、必ずしも現場での評判は高くなかった。 また、一部の型は魚雷を胴体下に装備する事もでき、対艦攻撃機として対日戦のミッドウェー海戦やニューギニア方面などで用いられたが、投入機数が少なかったこともあり大きな戦果を挙げることはできなかった。第二次世界大戦終結後も暫く運用されたが、1948年には全機退役している。 第二次大戦中には、連合国のイギリス軍や自由フランス軍に対してもレンドリース機として相当数が供与された。なお、1961年に発生したピッグス湾事件で亡命キューバ人部隊に供与され、実戦使用されたのは本機ではなく、1948年の機種区分変更以前はA-26 インベーダーと呼ばれていたダグラス社製の航空機である。
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実戦投入
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「T-84U オプロート」の記事における「実戦投入」の解説
2022年のロシアによるウクライナ侵攻において、西部作戦管区第14独立機械化旅団(ウクライナ語版)に配備されたT-84U オプロートが、実戦で使用された。
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実戦投入
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第二次印パ戦争(1965年) アサル・ウッターの戦い(英語版)でパキスタン陸軍第1機甲師団がM48やM24軽戦車と合わせ220輌以上を投入。しかし雨季のため湿地となったサトウキビ畑のキルゾーンに引き込まれて機動力を失い、インド陸軍のセンチュリオン戦車による待ち伏せ攻撃を受け、72輌のM47/48を含む97輌を失った。以後、現地が「パットンナガー(パットンの墓場)」と呼ばれるようになる程の大敗北であった。 第三次中東戦争(1967年) サマリア地区の戦闘で、ヨルダン軍第40機甲師団の30輌(他にM48パットン90輌)が参加。イスラエル軍ベレド准将麾下のM51スーパーシャーマンと距離1200m以上で撃ち合ったが、乗員の練度の差で一方的に被弾し、8輌を失って撤退した。その後ザバビダ前面でよく掩蔽されたM47が防衛戦闘に活躍したが、最終的に敗れ後退している。 トルコのキプロス侵攻(1974年) トルコ軍が使用するが、1両がキプロスに鹵獲された。 ユーゴスラビア内戦(1990年以降) クロアチア側が使用するが、その性能はセルビア側のT-34-85やT-55と比較して大きく劣っていると評価された。
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実戦投入
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M1A1は、1991年の湾岸戦争において初めて戦場に投入され、サウジアラビアに展開した。M1A1は、イラク軍が配備していたソ連製のT-55、T-62、T-72といった旧式戦車に比べて性能で大幅に勝り、敵側の射程を上回る3,000m以上の遠距離からアウトレンジ攻撃することができた。そのため、あまり反撃を受けず、M1A1の損害は十数両といわれている。しかし、激しく砂塵の舞う砂漠の戦いで熱映像装置(サーマルサイト)が十分動作しなかったために同士討ちが多発した。湾岸戦争時の十数両の損害の半数は同士討ちによるものといわれている。 この反省から、コソボ紛争以降に投入されるM1A1/A2にはCIP(敵味方識別パネル)と呼ばれる装備が導入された。 湾岸戦争においては、ユーフラテス河畔に進撃途中であったアメリカ陸軍第24歩兵師団所属の1両のM1A1が、雨でぬかるんだ泥穴にはまって味方部隊から落伍し、移動不能な状態で3両編制のT-72部隊に遭遇、被弾しながらも勝利した事例があるとされる。 この戦闘では、T-72の125mm滑腔砲による成形炸薬弾がM1A1の砲塔正面に命中したが、重大な損傷とならず、M1A1が反撃で放ったAPFSDSは、砲撃してきたT-72の装甲を貫通、内部の砲弾を誘爆させ砲塔を吹き飛ばした。この時に加えられた別のT-72による砲撃も、M1A1の装甲を貫通できず、前進を中止し逃走したこの車両も、M1A1から機関室へ攻撃を受け、エンジンを破壊された。 この時、最後の1両のT-72は前進を続行しており、M1A1との距離を400mまで詰めて鋼鉄弾芯の徹甲弾を発射、M1A1の砲塔へ命中させたが、M1A1は防弾鋼板を窪ませただけだった。 このT-72は逃走せず砂丘の陰に隠れたが、M1A1は熱線映像装置により、砂丘上空にT-72のエンジンから発せられる高温の排気ガスを発見し、これをもとに砂丘越しに砲撃を行い、T-72を撃破した。この出来事は真偽不明とされるが、トム・クランシーの「Armored Cav」などの文献で紹介された。 この戦闘の後にやって来た回収部隊は、2両のM88装甲回収車で引きあげようとしたが、引き上げられなかったため、最新戦車が敵に鹵獲されないよう、別のM1A1による破壊が命令された。 2発の120mm砲弾が発射されたが、これは、一番頑丈な砲塔正面に命中したため、跳ね返されてしまった。3度目は装甲が比較的薄い後部を攻撃し貫通、砲塔内の弾薬庫を誘爆させることに成功したが、設計どおりに砲塔上面のブローオフパネルが吹き飛んで爆炎は車外に放出され、同時に自動消火システムが作動したため、乗員区画の破壊にも失敗した。 破壊は断念され、この車両は3両目の回収車の到着により引き上げられた。内部を調査した結果、照準装置は損傷していたものの、まだ主砲の射撃は可能であったことから、M1A1は主砲を装甲の方が上回ったということになる。その後、砲塔を付け替え、同車は再び戦場に復帰したとされる。 2003年のイラク戦争にも投入され、初期の正規戦では一定の戦果を上げたが、占領統治後の非正規戦では至近上方からラジエーターグリルなどの脆弱箇所を狙う武装勢力の対戦車擲弾発射器などによる攻撃や、対戦車地雷、IEDなどによる被害が目立った。とくにIEDは、炸薬量に上限が無いため、さしものM1も砲塔部を吹き飛ばされるなど大きな被害を受けている。これらの戦訓も考慮されて、前述の TUSK(Tank Urban Survival Kit)が開発され、実運用される事となった。 2009年頃には、海兵隊がM1A1をアフガニスタンのヘルマンド州に派遣したことで再度実戦投入された。これらの車両にはERAブロックこそ装備されていなかったものの、対地雷用の底部装甲(ベリーアーマー)、対IED用のDUKEアンテナ、機銃シールドなど、TUSKの装備が追加されていた。 主砲弾や一部の装甲に使用されている劣化ウランは、戦地から帰還した将兵の間に発生した「湾岸戦争症候群」「バルカン症候群」と呼ばれる病気の原因物質ではないかと一部で疑われているが、因果関係ははっきりしない。またシリア内戦ではイラク軍に提供された多数が対戦車ミサイルに破壊されたり、ISILに鹵獲されている。
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実戦投入
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「AH-64 アパッチ」の記事における「実戦投入」の解説
実戦初参加は1989年のパナマ侵攻であった。夜間の地上部隊支援に従事し、同じく実戦初投入となったヘルファイアミサイルで7個の目標を撃破した。 AH-64が一躍有名となったのは1991年の湾岸戦争である。約280機のAH-64が投入され、イラクのレーダー施設など最重要目標や陣地、イラク軍のT-72戦車や装甲車など戦闘車両800両以上を破壊する戦果を上げた。一方で、AH-64は砂漠の作戦用には作られておらず、数時間の飛行で2/3以上が修理や調整を必要とする状況になった。 2001年からのアフガニスタン紛争では、ターリバーンへの攻撃を実施。その性質上、重装甲目標と相対することがほとんどなかったため、ヘルファイアミサイルの搭載量を減らしロケット弾や機関砲を主武装として戦った。国土の大半が2,000~3,000m級の山岳地帯である上に夏場は気温が35℃にもなるアフガニスタンはヘリコプターの運用には厳しい環境であり、AH-64も機体性能が低下しペイロードを減らして飛ばなければならないなど機体性能の限界が露呈することとなり、E型への改良に活かされた。 2003年からのイラク戦争におけるAH-64の戦例の1つとしてはイラク軍の戦車部隊に大打撃を与えた一方で、3月24日のナジャフにおける戦闘ではゲリラの待ち伏せを受け一部隊32機中29機が損傷、1機が撃墜、1機が不時着後破壊され、部隊は稼働機が1機のみとなる事実上の壊滅状態に陥った。しかし予備部品の補給が迅速に行われた結果、24時間で2機、96時間で12機が作戦可能状態に復帰し、1週間後には半数の15機にまで回復した。
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実戦投入
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「Su-57 (航空機)」の記事における「実戦投入」の解説
2018年2月24日、アメリカ軍関係者は、ロシアがSu-57をシリアに派遣したことを明らかにした。
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実戦投入
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「F-15 (戦闘機)」の記事における「実戦投入」の解説
アメリカ軍所属のF-15の初実戦は1990年の湾岸戦争であり、初飛行から18年後となる 湾岸戦争 1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートに侵攻し、約4時間でクウェート市を占領、8月6日にはサウジアラビア国境付近まで展開した。これに対してサウジアラビアはアメリカ合衆国を含む友好国に派兵を要求、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時)は即座に派遣を決定した。要請の翌日8月7日から、バージニア州ラングレー基地の第1戦術戦闘航空団第71戦術戦闘飛行隊の24機のF-15Cは10回以上の空中給油を繰り返し大西洋から地中海まで13,000kmを15時間無着陸で横断し、アメリカ軍で最初に派遣された部隊ともなった。 この派遣を皮切りに、当時最新鋭だったF-15Eを含むアメリカ空・海軍の飛行隊が、順次サウジアラビア入りした。11月29日、国際連合にて「国際連合安全保障理事会決議678」が採択され、イラク軍のクウェートからの撤退期限を1991年1月15日としたが、それまでの間のサウジアラビアへの部隊配備や物資輸送作戦を「砂漠の盾」作戦と呼称し、F-15は24時間のフル稼働で戦闘空中哨戒を行った。 詳細は「湾岸戦争」を参照 イラクは1月15日の撤退期限を無視。このため多国籍軍は、1月17日「砂漠の嵐」作戦(Operation Desert Storm)を発動させる。同日早朝、サウジアラビア/タブク基地に展開していた臨時第33戦術戦闘航空団第58戦術戦闘飛行隊から、バグダッド西方のCAP任務の為に4機のF-15Cが出撃した。編隊3番機のジョン K.ケルク大尉は、4番機と共に高度30,000ftで高高度レース・トラック・パターン警戒中に、同編隊に向けて74kmの距離から直進上昇してくる所属不明の機影を捉え、22kmまで接近するとE-3早期警戒管制機からの目標識別連絡を待たずにAIM-7Fを発射、現地時間午前3時10分アメリカ空軍のF-15による最初の撃墜を記録することとなった。この撃墜は湾岸戦争での最初の撃墜記録ともなっている。同日、この撃墜を含め3機のMiG-29と3機のミラージュF1の撃墜が確認されている。 以降の作戦期間中、アメリカ空軍所属のF-15(E型を除く)は38機のイラク軍機を撃墜し、自軍機の被害はゼロだった。撃墜した38機のうちの約六割がAIM-7による撃墜である。 この一方的な戦果には、湾岸戦争の交戦規定ではベトナム戦争では禁じられていた目視外距離戦闘が許可された影響が大きい。IFFの照合のみで敵味方を判断してAIM-7を使用することで一方的に撃墜でき、さらにE-3などの早期警戒管制機とのデータリンクによって成果を上げている。皮肉にも、ベトナム戦争で果たされなかったミサイルキャリアーの概念を、ベトナム戦争の戦訓から格闘戦闘機として生まれたF-15が実現したといえる。 コソボ紛争 コソボ紛争にもF-15は投入された。しかし、空中戦はほとんど発生しなかったため、AIM-120によってMiG-29を4機撃墜したに留まっている。 イラク戦争 第1戦闘航空団第71飛行隊所属のF-15が、2003年のイラク戦争でイラク軍のミラージュF1を撃墜している。
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実戦投入
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「F-35 (戦闘機)」の記事における「実戦投入」の解説
2018年5月22日 - イスラエル空軍幹部が、F-35A(イスラエル空軍呼称F-35I)がこれまでに2カ所の異なる前線で2度攻撃していることを明らかにした。 2018年9月27日 - アメリカ軍のアフガニスタンのターリバーン勢力への攻撃において強襲揚陸艦「エセックス」から発艦した複数のF-35Bが参加。初の実戦投入となった。
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実戦投入
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「MC.200 (航空機)」の記事における「実戦投入」の解説
実戦投入後の評判は良好で、当初は単葉戦闘機を拒絶した保守的なパイロットにも受け入れられ、イタリア空軍の主力戦闘機の1つとして、北アフリカ、地中海、ロシア戦線などで活躍し、卓越した運動性能でホーカー ハリケーン Mk.Iや、カーチス P-40 トマホークなどと互角に渡り合った。ロシア戦線では、赤軍がI-16やI-153を使用しているうちは圧倒的な優位に立って戦う事ができた。 生産当初は水滴型の密閉式風防を装備していたが、パイロットからの「良好な視界を得たい」「風を感じないと速度の感覚が掴めない」とのさらなる要望に応える形で、後期型は開放式の風防と、イタリア機特有のくびれがついたファストバックという、時代に逆行するような操縦席に改められている。ただし、当時はガラスの製造技術が未熟だった点もあり不純物や気泡が入ってしまう事があったこと、当時の計器は全面的に信用できる性能を持っていなかったために操縦士が勘や経験に頼らざるを得ない面があった事も確かであり、一概に間違った改造とは言い切れない。 北アフリカにスピットファイアなどの新鋭機が配備されるようになると、性能的に対抗するのは難しくなった。そして、ドイツ製のダイムラー・ベンツ DB601液冷エンジンを搭載した後継機のMC.202 フォルゴーレが登場した1942年以降は、次第に対戦闘機の任務から外され、戦闘爆撃機として利用されることが多くなった。 MC.200は、列強各国の最新戦闘機に比べると出現時点で既に見劣りしていたが、より高出力のエンジンと出会うことでMC.202、MC.205 ベルトロと進化し、前者はイタリア空軍主力戦闘機として、後者はイタリア空軍最優秀戦闘機としてその名を知られることになった事を考えれば、カストルディ技師の基礎設計の優秀さがわかる。 1943年9月8日のイタリア降伏時には、残存機はほとんどなかった。23機がイタリア南部に飛び、連合国側のイタリア共同交戦空軍 (イタリア語版)でしばらく練習機として使用された。総生産機数は1,153機。
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