なんで、知力とか学力ばっかり重視されるの。人柄とか、運動能力とか、絵や音楽とか文学とか、お金儲けだとかもそうだし、勉強じゃ測れない才能って、たくさんあるんじゃないの。入試だって、そんなのも評価してくれないと、不公平だと思うんだけどな? なーんて疑問持ってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法──未来をつくる新パラダイム』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
世間では 「知力重視はいけない」とよく言われますが、私は、知力重視は悪くないと思います。
縁起の理法から見ると、純粋に学力で測っていくことは、悪いことではないのです。それが万能ではないことも事実ですが、二十歳ぐらいまでの、人生の基礎の部分においては、学力で測ることは決して悪いことではありません。
この時期に、「人物本位」などと言って、学力以外のもので評価するのは邪道だと思います。
「一芸に秀でている」ということで測るのもまだ早いでしょう。もちろん、絵や音楽などの芸術方面における才能を持っている人もいるでしょうが、それは大多数であるサラリーマン予備軍にとっては関係のないことです。
大部分の人たちに対しては、特殊な事柄をあまり考慮に入れずに、きちんとした基礎を教える必要があります。
自分を鍛えることの意味、学ぶことによる達成感について教えなくてはなりません。そして、学年が上がれば上がるほど学力が向上していくことの意味や、実社会に出てからも積み重ねが大切であることを、きっちりと教える必要があるのです。(中略)
「偏差値で輪切りにすることはよくない」と言って、偏差値を追放したとしても、成績順や点数順など、それに取ってかわるものはいくらでも出てきます。また、面接、親の収入や職業、クラブ活動の実績などで判断することになれば、あまりフェア(公平)ではない世界になります。
若いうちは、人物本位といっても信用できません。若い人は非常に可塑性(粘土のように、さまざまなかたちにつくりかえられる性質)に富んでおり、まだまだ変わっていく可能性が高いので、その段階で人物を測ることは不可能に近いと言えます。(中略)
人物を測れるようになるのはもっと先のことなので、学校時代においては実力本位、学力本位でよいと思います。ある程度、客観的な物差しで測るべきです。
ただ、学力の高い人が実社会で成功するかどうかはまた別の問題です。世の中で成功する要因はほかにもたくさんあるからです。(中略)
芸術的才能、文学的才能などもありますが、どのような才能であれ、ほんとうに大きな才能であれば、やがて土を破り、必ず芽を吹いてくるものです。学校時代に芽を出さなくても、時期が来れば必ず芽を出します。
だからといって、才能を摘み取るほどの重圧をかけてはいけませんが、途中でつぶれるような才能は、もともと大した才能ではありません。ほんとうに巨大な才能であれば、必ず出てくるものなのです。(中略)
このように、「学力とは別に、実社会に出て成功するための才能がある」という目も持っておく必要があります。ただ、そのような才能は社会に出てから磨けばよいのです。
(35~39ページ)
それが万能ではないことも事実だが、縁起の理法から見ると、二十歳ぐらいまでの人生の基礎の部分においては、純粋に学力で測っていくことは、悪いことではない。
この時期に学力以外のもので評価するのは邪道であって、大部分の人たちに対しては、特殊な事柄をあまり考慮に入れずに、自分を鍛えることの意味、学ぶことによる達成感など、きちんと基礎を教える必要がある。
たしかに、学力とは別に実社会に出て成功するための才能がある、という目も持っておく必要があるが、そのような才能は社会に出てから磨けばよい──。
いやあ、なるほど、なるほど、です。
いろんな才能があることは認めつつも、でも学校時代には、ある程度、客観的な物差しで測るのだ、と考えていけばいいわけです。
今日は、まだまだ学力を中心として学校の仕組みが作られている意味について、とても納得できるお教えをいただいたと、改めて私は思っているのです。
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『繁栄の法──未来をつくる新パラダイム』
大川隆法著 |
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