Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



寝たきりの病人の看病で毎日がすぎて、もう限界、って人いませんか? どう考えたらいいんでしょう。また、そういう悩みを抱えた方に、どうアドバイスしてあげたらいいんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方──女性のための幸福論』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私には、看病して疲れておられるご家族のかたに、あえてムチ打つ気持ちはありません。しかし、家族に病人が出たという厳しい環境のなかで、いかに朗らかに、いかに明るく、いかに希望に燃えて生きられるかということが、あなた方の魂を光らせるための試練になっているのです。
 考えてみれば、ヤスリをかけられるときには、その金属は痛くて悲鳴をあげているように思われるかもしれませんが、その後にはピカピカに光るものです。また、サンドペーパーをかけられてピカピカに光っていく木もあります。木目は、ザラザラしたもので何度も何度も擦られるとき、もし人間のような気持ちがあるとすれば痛いのでしょうが、それでも、その時期を通り越してみると、みごとにピカピカに輝く、美しい素材になっていくことがあります。
 人生もこれと同じなのです。あらゆる苦しみや悲しみも、魂を光らせるためのヤスリだと思ったときには、どんなものでも耐えていけるのです。
 むしろ、そうした悲しみのときにこそ、宗教的な飛躍というものが訪れることがあります。そうしたときにこそ、人間は救いを求め、魂の領域において一段と飛躍をすることができるのです。
 ですから、病人が出たからといって、それを自分の不幸の言い訳にすることなく、そうした病人が出たことによって、自分が魂の修行の機会を与えられたことに感謝をし、そして、そのなかで己れの心の修行をすることです。
 そしてまた、病人が家庭に出たということで、与える愛、尽くす愛、奉仕とはなにかということを考えさせられもするのですから、これはまさに、他人に対する献身の心を学ぶ機会ではないかと思います。
 愛というものは、その基礎に忍耐と寛容を伴っているものなのです。調子のいいときだけ相手を愛する。たとえば、夫が調子がいいときだけ夫を愛する、妻が美しいときだけ妻を愛するのは簡単ですが、夫が仕事上で失敗したり、妻の美貌が衰えてきたときに、なおも愛するということはなかなか難しいことでしょう。しかし、それでも愛していこうとするその忍耐と寛容の心が、やはり愛というものを裏打ちするものだと思うのです。
 病人も同じです。家族として仲よくやってきた者のなかに不幸が起きたなら、それを辛抱強く見守ってやることが大事です。(中略)
 すべての運命を恨むことなく、すべてを自分の魂の糧として選びとっていくなかに、真なる幸福というものは光ってくると思うのです。
(118~121ページ)

家族に病人が出た厳しい環境のなかで、いかに朗らかに、明るく、希望に燃えて生きられるかが、金属にヤスリをかけたときと同様に、魂を光らせるための試練になっている。

病人を不幸の言い訳にすることなく、これによって魂の修行の機会を与えられたことに感謝し、他人への献身の心を学ぶ機会として、そのなかで心の修行をすることである。

すべての運命を恨むことなく、すべてを自分の魂の糧として選びとっていくなかに、真なる幸福というものは光ってくる──。

うーん、厳しくも温かい、仏のアドバイスですね。

やっぱり、こういう問題にぶちあたったときの考え方の基本は、「人生は一冊の問題集である」という観点なのだと、改めて私は思っているのです。

 

幸福のつかみ方ー女性のための幸福論 (OR books) 『幸福のつかみ方──女性のための幸福論』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「国益」って言葉あるけど、まずは国民だよね。国の利益なんて言ってると、すぐナチズムみたいな全体主義になっちゃうでしょ。国民が第一なんじゃないのかな。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、悟り、そして地球──21世紀のフロンティア・ストラテジー』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学では、「利自即利他」ということを、よく言っています。
「個人としての幸福を求めなさい。個人としての悟りを求めなさい。そして、個人として人に愛を与えられる存在になりなさい。個人の幸福を求めると同時に、それを公的な幸福、公の幸福と一致させるようにしなさい。利自即利他──。自分を利するその生き方が、同時に、他を利する生き方、公のものを利する生き方、他の人びとを幸福にする生き方になるようにしなさい。この両方の調和が大事です。この考え方が中道です」
と、いつも教えてきました。
 全体主義の流れのなかでは、この「個人」が消えてしまうのです。悟りを求める個人、幸福を求める個人などは、なくなってしまうのです。
 全体主義は、「お国のためなら、個人の幸福を言ってはいけない」「会社のためなら、個人はもうどうでもいい」「主義・主張のためなら、あとのものは、すべて捨てられてもいい。イデオロギーだけが勝てばいいのであり、個人はどうでもいい」という主義です。こうした全体主義は、幸福の科学が肯定するものではありません。
 しかしながら、逆に、「社会や国家という公共のものは、まったく無駄、無意味であって、個人だけが幸福なら、それでかまわない」という無政府主義的な考え方も、私たちはとっていません。
 確かに、「個人が幸福であれば、それでいい。国がどうなってもかまわない。国が右に寄ろうが左に寄ろうが、戦争をしようがしまいが、自分が生き残れたらいい。ほかの人が貧乏でもかまわない。自分だけご飯が食べられたら、それで結構である。自分だけ幸福なら結構である」という考えはあるだろうと思うし、そうした生き方を実際にしている人もいるでしょう。(中略)
 しかし、人間がこの世に生まれたのは、自分の幸福を求めるためでもありますが、自分のためだけではないのです。人間は、この地上で一緒に生きている多くの人たちを幸福にする生き方をするために、生まれてきたのです。自分の幸福と他人の幸福を同時に実現しなければならないのです。
 たとえばナチズムは、ドイツ民族の幸福を、もしかしたら考えたのかもしれません。しかし、ユダヤ人を皆殺しにして、他の者の幸福を抹殺し、他民族の集団的不幸を基にして、自分たちの民族だけが幸福になろうとした考え方は、幸福の科学の求めている考え方ではありません。
 私たちの考え方は、「個人の幸福は、同時に、社会や国の幸福につながるものでなければならない」というものです。
 もちろん、日本人は日本という国の国益や幸福を考えて結構です。ただ、それがまた、世界の幸福につながるようでなくてはなりません。日本の幸福が、即、世界の幸福、地球の幸福につながるような、両方を貫く幸福を求めなければいけません。その中道にこそ、自分たちの考えの定点を置かなければならないのです。これが幸福の科学の考え方なのです。
(65~71ページ)

「利自即利他」、つまり、自分を利するその生き方が、同時に他を利する生き方、公のものを利する生き方、他の人びとを幸福にする生き方になるようにするのが、中道であり、そこに自分たちの考えの定点を置かなければならない。

幸福の科学は、国のため、会社のため、主義・主張のためなら、個人はどうでもいいという全体主義を肯定しないし、逆に、社会や国家などの公共のものはまったく無意味であって、個人が幸福ならそれでよいという無政府主義的な考え方も、とっていない。

幸福の科学の考え方は、「個人の幸福は、同時に社会や国の幸福につながるものでなければならない」というものであって、日本人は日本という国の国益や幸福を考えてよいが、ただ、それがまた世界の幸福につながらなくてはならないというものである──。

なるほど、なるほど、こういうことですね。

まず、「利自即利他」という、自分を利することと他人を利することを調和させること、という大事な教えが、幸福の科学にはあります。

それを国家規模まで広げたときにどう考えたらよいのか、という大きな視点を、大川隆法先生は、ここで教えてくださってるんですね。

ここに、他の国との付き合い方の根本的視点があることに、改めて私は気づいた気がしているのです。

愛、悟り、そして地球ー21世紀のフロンティア・ストラテジー (OR books) 『愛、悟り、そして地球──21世紀のフロンティア・ストラテジー』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




オレの稟議書、なんでスムーズに通らないの? なんで、私の報告書、さっさと受け取ってくれなくて、なんだかんだ訂正してくるのよ? なーんて、悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛 〔新装版〕──スーパーエリートの条件』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 もちろん、一人だけで仕事をする人もいるでしょうが、仕事は、たいていの場合、他の人とのかかわり合いのなかにおいてなされます。同僚、部下や上司、取引先など、いろいろな相手とのかかわり合いにおいて、仕事というものは存在します。そこに仕事の意味があるのです。
 この関係は愛と実によく似ているとは思いませんか。「愛とは、人と人との間に生まれるものであり、人と人とを結びつけ合う力、人と人との関係学である」とも言われますが、「仕事も、まさしく、人間と人間との関係学である」と言ってよいかもしれません。
 そして、人間と人間が意思を疎通するために、書類というものがあるのかもしれません。この書類仕事というものを取ってみるならば、書類は、まさしく、相手への公的な手紙であるとも考えられるでしょう。
 ただ、この公的なる手紙は、単に自分の思いを伝えるだけでは不十分であり、その内容を必要としている人が必ずほかにいるわけです。上司、あるいは対外的な存在が想定されているのです。そうであれば、書類づくり一つを取ってみても、「その書類を見る人の立場というものを考えたことがあるかどうか」が大事なのです。
 あなたのつくった書類は必ず何人かの目を通ることになります。そして、その書類がミスに満ちているならば、他の人たちの多くの時間を奪うことになるのです。手抜き仕事が、さらに多くの仕事を生み、他の人たちの時間を奪っていくことになります。その意味では、手抜き仕事は「奪う愛」の表れである、と考えてもよいかもしれません。
 ミスの多い仕事をする人は、他人の関心を常に自分のほうへ振り向けようとしている子供のようにも見えます。いつもミスをしている人がいると、他の人たちは、その人の仕事をチェックしていなければなりません。これは、他の人の力を自分に割かせるわけですから、ある意味において、奪う愛に相当すると言えるのではないでしょうか。
 「仕事も愛の具体化の一つである」と考えるならば、愛の法則が仕事の世界にも生きていることを知っていただきたいと思います。
 この世界に生きている愛の法則とは、まず、「他の人のことを考えて仕事をせよ」ということです。「自分がした仕事の内容は、いったい誰に向けられたものなのかを、よく知りなさい」ということです。そして、相手が必要とするものをつくっていくことです。これが何にもまして大事なことなのです。
(123~125ページ)

うーん、なるほど。

日々の仕事の現場でこそ、愛を奪うのではなく、愛を与えていけ。

ミスのない丁寧な仕事をするのが、愛を与える仕事の前提である。

書類は相手への公的な手紙であるのだから、相手の立場にたって、相手の必要とするものを作るようにせよ、って。

そういうことですよね。

日々「愛」を与える仕事を心がけていることで、報告書は上司に喜んで受け取ってもらえるし、稟議書だって、さっと決裁されて、自分の意欲的な提案もスムーズに取り上げてもらえる。

つまりは、仕事の場こそが、学んだ仏法真理を実践するための大切な修行場であったのだと、改めてしっかりと分かった気が私はしているのです。

 

仕事と愛 〔新装版〕 ―スーパーエリートの条件― (OR books) 『仕事と愛 〔新装版〕──スーパーエリートの条件』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




物理学の法則上、光速は絶対に超えられないんだから、何万光年も離れた星に旅行するなんて、現実にできるはずないじゃない。他の惑星からUFOがやってきてるとか、人類が他の惑星にも行けるなんて、ただのSFよ。・・・なーんてこと言ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論──人類の新たなる希望』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 いま地球に来ているUFOの技術は、それほど高いものではありません。地球の科学文明から見ても、あと百年もすれば充分に入手できる能力です。
 ただ、そのためには、超えなければならないハードルがあります。物理学者のアインシュタインは、「光の速度(光速)を超える速度はありえない」と言いましたが、そうした物理学を超えなければならないのです。
 人間が肉眼で見ることができる宇宙の星は、何百光年、何千光年、何万光年、何十万光年の距離を隔てています。現在のスペースシップ(宇宙船)では、その距離を移動することは不可能です。
 では、アインシュタインの定義を超える速度を持った乗り物を、はたして人類は開発することができるのでしょうか。
 可能です。私は光の速度を超える速度を知っています。それは、異次元世界において、すなわち、四次元以降の「霊界」といわれる世界において、私が常に体験していることです。
 四次元以降の世界においては、過去の世界を見ることも、未来の世界を見ることも可能です。タイムマシンの原理と同じように、何百年前、何千年前の時代を見ることも可能であり、また、未来を見ることも可能なのです。
 これは、「霊的な速度(霊速)は光速を超えている」ということを意味しているのです。
 霊界のなかには、地球だけで完結している部分と、地球以外の他の星や銀河と連結している部分とがあります。特に、「九次元」といわれる世界、別名「宇宙界」ともいわれる世界においては、地球霊界と、知的生命体が住んでいる他の星の霊界とは、つながっています。
 三次元世界において、光の速度で何万年も何百万年もかかる距離であっても、霊界を通ると、一瞬で移動することが可能です。要は、異次元空間を飛ぶ科学を開発することです。そして、それは可能なのです。
 現在の物理学や天文学の限界の果てにあるもの──それは私たちが科学している霊界の科学です。この両者が合体したとき、人類は異次元空間を旅行して、他の惑星に行くことが可能となるでしょう。
 現在の科学技術をもってしては、月や火星に植民都市をつくることをもって、人類はまだその限界としていますが、やがては異次元空間を飛んでいくことが可能となるでしょう。私はそれを予言しておきます。
(130~132ページ)

霊速は光速を超えている。

いまの科学の常識が遅れてるだけで、霊界科学が発達すれば、異次元旅行はできる。

そしてそれは、そう遠い未来のことではない──。

今日は、一見すると、本当に驚きの話ばかりではあります。

でも、大川隆法先生は、そういった、とても夢のある教えをも説いておられることを、見逃してはならないと、改めて私は思っているのです。

 

ユートピア創造論: 人類の新たなる希望 『ユートピア創造論──人類の新たなる希望』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ね、AIが発達してきて、すっごく流行ってるでしょ。AIに仕事を奪われそうなんだけど、どうしたらいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心に目覚める──AI時代を生き抜く「悟性」の磨き方』(幸福の科学出版)のまえがきで、こう教えておられます。

 幸福の科学の初期の頃には「心の教え」をかなり説いた。しかし教団が大きくなり、この世の仕事とリンクする面が大きくなってくると、知識・情報の処理・分析を教えているように思う人も増えてきた。
 私の悟りも、大量の知識・情報を処理することで身につけたものと感じる人が増えたらしい。その結果、「心が発見できない」仏弟子も現れて来た。
 「学歴即悟り」と考えたり、「霊格が高いと美人度が高い」と考えるような外道がまかり通るようになる。それだと結局、悟りとは、この世の常識や知恵と大差のないものになるだろう。
 もう一度、原点に還り、AI時代に忘れられかかっている「心の総論」を説いてみた。これが「宗教の悟り」への入口だ。この向こうに、千年経ってもAIが届かない世界がある。
(1~2ページ)

悟りは、大量の知識・情報を処理することで身につくものではない。

本書で説かれた「心の総論」こそが、「宗教の悟り」への入口である。

この向こうに、千年経ってもAIが届かない世界がある──。

つまりは、「心」というのが何かをしっかりと学び、その存在を発見し、その働きに目覚めること。

悟りそのものではなくとも、少なくともそれこそが「悟り」への入口である。

そして、「悟り」の世界、つまり「悟性」の世界は、人間だけが到達できる高度な世界であるってことなんだと思います。

いやあ、なんだかワクワクしてきます。

今日は、改めて本書で、「心の修行の方法論」をしっかりと学び直し、実践していきたいと、私は強く思っているのです。


心に目覚める ―AI時代を生き抜く「悟性」の磨き方― 『心に目覚める──AI時代を生き抜く「悟性」の磨き方』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人生、厳しいことが多いんだから、人に対してはやっぱり厳しく接しなきゃね。なーんて人、いたりしますけど、ほんとにそうなんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛の原点──優しさの美学とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私の願いはいつも同じです。「人に対して常に優しくありたい。優しい人でありたい」と思っています。
 ときに勇気ある言葉を吐き、ときに勇気ある行動をし、ときに力強い決断をしなければならないこともあります。それもこれも、その底には優しさというものが流れています。より多くの人々に幸福になっていただくために、より多くの人々に幸せになっていただくために、そうした強い言葉も、勇気の言葉も、力強い行動も起きてきます。優しき人とならんとしているがゆえに、そうした気持ちもわいてきます。
 ただ、私はみなさんに、そう難しいことをお願いしようとは思いません。私がみなさんに、かくあってほしいと思うことは、「常に優しき人となれ」ということです。仕事のなかに埋没しているときにも、家庭のなかで苦しんでいるときにも、私はみなさんに、この言葉を思い起こしてほしいのです。「常に優しき人となれ」という言葉を──。
 人間は、ともすれば、当然という気持ちで、自分だけが豊かな暮らしをしたり、自分だけが人々にほめられたり、そうした自分だけが満足のいくような人生に、あぐらをかきがちです。しかし、その途中において、倣慢になったり、他人に対して厳しくなりすぎたりしている自分というものがあるのではないでしょうか。(中略)
 人間がいちばんうれしい瞬間は、人から優しくされた瞬間ではないでしょうか。優しくしてもらった瞬間ではないでしょうか。
 さすれば、自分もまた、常に優しき人となろうではありませんか。自分が人にそうされたいが如く、自分もまた人に接しようではありませんか。常に優しき人として、生きていこうではありませんか。
(209~213ページ)

私はいつも、「人に対して常に優しくありたい。優しい人でありたい」と思っている。

ときに勇気ある言葉を吐き、ときに勇気ある行動をし、ときに力強い決断をしなければならないこともあるが、その底には優しさが流れている。

みなさんに、かくあってほしいと思うのは、「常に優しき人となれ」ということである──。

大川隆法先生は、「愛」の一側面を、こんなふうにやさしい言葉で説いてくださっています。

そうだとすると、普段は厳しい仕事をしていたとしても、何かの機会に誰かにちょっと微笑んであげたりすることも、たしかな優しさだと思えます。

そんな日々のちょっとした心遣いや優しさも、やっぱり神仏が喜ばれる「愛」であるのだと、改めて腑に落とすことができた気が私はしているのです。

 

愛の原点 ―優しさの美学とは何か― (OR books) 『愛の原点──優しさの美学とは何か』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




幸福の科学って宗教なんだから、神さまとか仏さまとか、信仰してるんでしょ。でも、なんで、そんなの信じられるの? 信仰って何なのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『無限の愛とは何か──今よみがえる愛の福音』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 神という存在への思いなくして生きているということは、子供たちが、自らの親が誰であるかということを考えることなく、人生を過ごしてゆくことと同じなのです。
 子供は、生まれ落ちるとすぐに、自分の母親が誰なのか、父親が誰なのか知ろうとするでしょう。それだけではなく、知ってさらに、求めようとするでしょう。抱きしめてほしいと願うでしょう。一歩でも二歩でも、親に向かって進んでくるでしょう。それがほんとうの姿なのです。それなのに、親子の関係で言えば子にあたる人間が、親なる神を見向きもせず、求めもせず、己れひとりでこの世に生まれてきたかのごとく振る舞っている現在の姿は、まことに恥ずべき状態であると言わざるを得ません。(中略)
 信仰と言われているものを一言でわかりやすく言い換えるとするならば、この「神を愛する」ということに尽きるのです。神を愛するがゆえに、親なる神の持っておられるすばらしい思いを、性格を、性質を、受け継ごうとするわけです。それは単なる惑わかしや思い込みといったようなものではありません。厳然たる事実のもとに、行なわれて当然のことを行なうという、ごくごく合理的と言ってもよい考え方のもとにある行為が、この信仰なのです。
 この世界の成り立ち、人間の生命の成り立ち、こうしたことを知ろうとし、知ったうえで、その本来の成り立ちに基づいた生き方をしようとすること。これはまことに筋の通った生き方なのです。これは、このうえなく合理的な生き方でもあるのです。
(160~164ページ)

信仰をわかりやすく言い換えれば、「神を愛する」ということに尽きる。

神への思いなくして生きているのは、子供たちが、親が誰かを考えることなく生きているのと同じことである。

それは、厳然たる事実のもとに、行なわれて当然のことを行なうという、ごく合理的な生き方でもある──。

つまり。

人間はどこから始まったのか。

その元には人間を作った存在があるはずだ。

それが神と呼ばれる存在である。

だから、人間にとって神は、魂の親である。

魂の子が魂の親を愛するのは、ごくごく当然のことであり、それが信仰という行為なのだ。

だから、信仰とは、親なる神を愛するということに尽きるのだ、と。

ここで大川隆法先生は、そういったことを教えておられるのではないでしょうか。

そして、ここでの「神」は、「仏」と言い換えることができるのだ思います。

今日は、「信仰」とは何かという最も根本のところを説かれた、大川隆法先生のお教えの一節を、改めてご紹介してみました!

 

無限の愛とは何かー今よみがえる愛の福音 (OR books) 『無限の愛とは何か──今よみがえる愛の福音』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




大学に入れたんだけど、で、何すればいいんだっけ。しっかり遊びたいし、恋もしたいし、でもほんとは、学生のうちにやんなきゃいけないことがあるんじゃないのかな? なーんて悩んでいる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る──未来をつかむ人生戦略』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 学生のみなさんは、二十代において、親の人生観・世界観から、何とかして抜け出さなければいけなくなってきます。
 みなさんの両親のなかには、立派な方がたも多いでしょう。しかし、みなさんの両親は、みなさんよりも何十年か前から生きている方がたなのです。両親から汲むべきものが数多くあるとは思いますが、時代が変わってきています。
 したがって、ある程度は両親の意見を聴きながらも、みなさんは自分としての答えを出していかなければならないし、あるときには、両親とは違う考え方の下に生きていく道を、選ばなければいけないこともあると思うのです。職業においてそうですし、あるいは結婚という問題においても、おそらくそうだろうと思います。そのときに自己の判断に責任が持てるかどうかこれが非常に大事なことになるのです。
 では、どうすれば、自己の判断に対して責任をとれるようになるのでしょうか。まずは、考える材料というものを持たなければいけないのです。そのために、学びというものが必要になってきます。
 みなさん自身の頭では、考えても考えても結論が出ないことがあるでしょう。しかし、考える材料として、一定の知識や情報を持つことによって、物事を判断するときに、非常に早い時間で結論づけることができるのです。この判断の材料が手に入らないために苦しむことが非常に多く、あとになってからわかることも実に多いわけです。
 十代後半、あるいは二十代の前半において、豊富な人生経験を持つということは、なかなか困難なことです。その意味では、まず、学生の本分である知的なアプローチによって、考える材料を手に入れ、それを集積することが非常に大事です。
 世界中で自分だけがぶつかった難問というのは、それほど多くはないはずです。たいていの場合は、かなり多くの人がすでにぶつかった問題であることが多いのです。
 したがって、学生時代は、ある問題を自分だけのものとして考えるよりは、先人や先輩たちが、それをどのように考え、解決し、乗り越えていったかということに対し、謙虚に耳を傾けるべきなのです。主として、そうした思考の材料、考える材料というものを手に入れるために、学生の期間はあるのだと思います。
(22~24ページ)

学生のみなさんは、両親の時代とは時代が変わってきているので、ときには両親とは違う自分の答えをを選ばねばならないこともある。

そのときに自己の判断に責任が持てるかが大事であり、そのためには考える材料が必要なので、まずは学生の本分である知的アプローチで材料を手に入れ、集積することである。

世界中で自分だけがぶつかる難問はそれほど多くはなく、たいていは多くの人がすでにぶつかった問題だから、先人たちが、それをどのように考えて解決し、乗り越えていったかという思考の材料を手に入れるために、学生の期間はある──。

なるほど、なるほど、と目が開かれた思いがします。

要は、学生時代は、その本分として、知的なアプローチ、すなわち学校の講義や書物などの学習によって、考える材料を集めていくことが大切なんですね。

そして、そこで集めた考える材料をもとにして、自己の判断に責任をとれるようになっていくこと。

考えてみると、まさにそれこそが、ほんとの意味で大人になっていくことなんだろうと私は思っているのです。

 

青春に贈る ー未来をつかむ人生戦略ー (OR books) 『青春に贈る──未来をつかむ人生戦略』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




高級霊って言葉を聞くけど、じゃ、低級霊ってのもあるのね。神さまが魂の親なんだったら、なんでそんな不平等な扱いをするの、おかしくないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法──エル・カンターレへの道』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 一方に高級霊がおりながら、他方に低級霊がなぜいるのかという問いに対しては、仏の世界観は、「平等」と「公平」という二つの観点からなりたっているということから答えていかなくてはなりません。
 すべての人間、すべての動物、すべての植物、すべての鉱物に仏性が宿っているという事実、たとえ現象としてはどのようにあらわれていようとも、万象万物は、すべて仏の意志の発露であるという真実、これは、動かしがたい仏法真理なのです。
 言葉をかえていうならば、生きとし生けるもの、万象万物はすべて、仏の叡智という名のダイヤモンドでできているということです。人間を人間としてあらしめるため、植物を植物としてあらしめるため、仏はさまざまにダイヤモンドをちりばめ、いきいきとした造形の美をかもし出しております。そして、どの人間をとってみても、どの動物をとってみても、どの植物をとってみても、そのすべては、叡智という名の仏のダイヤモンドでできている。それが、真実なのです。
 これが、仏教でいう万物に宿る仏性であり、人間を仏の子として捉える思想なのです。したがって、高級霊であれ、低級霊であれ、仏の生命を体現しているということに関しては、すべて平等なのです。平等でないというのは、「高級」「低級」という言葉の響きに迷わされているだけにすぎません。
 要は、高度に進化した霊と、進化途中の霊、そして、未発達の霊があるだけなのです。すべて同じ筋道を歩いている者なのですが、つまりは、先を歩いている者と、後方を歩いている者とのちがいがあるということなのです。
 高度に進化した光の指導霊というのは、魂としてつくられたのが古いために、目的地である仏の境涯に近い先の方を歩いているのです。一方、未発達の霊というのは、そのほとんどの場合、魂がつくられたのが新しい。新しいがゆえに、後方を歩いているだけなのです。はたして、これを不平等だといえるでしょうか。自らの歩いたぶんを、その距離を距離として評価すること自体が不平等だといえるでしょうか。
 それは、平等、不平等ではなく、公平の観点から評価されるべきことなのです。たとえ古い魂であったとしても、必ずしも、道をどんどん進んで行っているとはかぎりません。道をひきかえしてくる人がいるからです。たとえば、元天使だったにもかかわらず、地獄の悪魔になったりしている者は、かなりの道のりを進んでいた者が、なにを考えちがいしたか、道を途中から逆もどりした場合です。こうした霊は、未発達霊というよりは、むしろ、退化霊だというべきでしょう。
 仏は、すべての霊に、仏に向かっての一本の道を進ませているという点に関しては平等をまもっておられます。また、すべての霊が仏に向かって進んだだけの距離でもって評価されるという点で公平をまもっておられるのです。
(81~84ページ)

仏の世界観は、「平等」と「公平」からなりたっている。

万象万物には仏性が宿っており、人間は仏の子なのだから、高級霊であれ、低級霊であれ、仏の生命を体現しているという意味で、すべて「平等」である。

仏は、すべての霊に、仏に向かって一本の道を進ませている点で「平等」をまもっておられるが、すべての霊を仏に向かって進んだ距離で評価する点で「公平」をまもっておられる──。

悪魔の存在がなぜ許されているかってことが、先日の記事とあわせ読んでいただくと、より深く分かる教えではないでしょうか。

そして、よくよく考えてみると、こんな凄い法を説ける方こそが、「覚者」であり「仏陀」、つまり「仏」なのだということが、じわじわと腑に落ちてくる。

今日は改めてそんな気が私はしているのです。


太陽の法 ―エル・カンターレへの道― (OR books) 『太陽の法──エル・カンターレへの道』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




信仰の力でガンが治ったりするものなの。実際に治った話も聞くのに、治らないまま帰天してしまった人がいるのは、なぜなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、信仰による奇跡について、例えば、『愛は風の如く2 ──愛の英雄ヘルメス』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんのなかにも、「物質化現象」という言葉をお聞きになった方も多いかと思いますが、実在界のエネルギーが、なんらかの意図によって、地上界に物質化して現われることあるのです。たとえば金粉現象というのもそうですし、それ以外にも、霊界からみごとな宝石を出したり、あるいは薬を出したりというように、いろいろなものを出すというケースがあります。(中略)
 じつは、宗教によって病気が治ったりする奇跡も、この延長線上にあるのです。体内にガンが巣くっていて、そのガンが信仰によって治ったりする場合も、レントゲンで写真を撮るならば、ガンは物質的には確実にあるものなのですが、それが一瞬にしてなくなるということがありえるわけです。これなども、霊的エネルギーがはたらいて、そういう物質界のつくり変えに力を貸していると思わざるをえないのです。(中略)
 こうしたことが、日常茶飯事に行なわれるわけではありませんが、天上界の諸霊も、必要に応じてこうした物質化現象を起こし、生きている人たちの信仰心を強くする場合があります。
 ただ、なんでもかんでも物質化現象を起こしはじめると、これは地上の人間を甘やかすことにもなりかねません。なぜなら、欲しいものをねだれば、すぐ現われてくるということになりますと、彼らの地上での修行が意味を持たなくなるからです。(中略)地上人はなにゆえに地上に生まれ、赤ん坊から育って大人になって、努力して生きていくか、その意味がなくなってしまいます。
 それゆえに、こうした物質化現象なども、あくまでも例外措置として認められているのであり、それに意味がある場合にのみ許されていると考えてよいでしょう。
(86~89ページ)

宗教によって病気が治ったりする奇跡は、「物質化現象」の延長線上にある。

天上界の諸霊も、必要に応じてこうした物質化現象を起こし、生きている人たちの信仰心を強くする場合がある。

ただ、なんでもかんでも物質化現象を起こすと、地上での修行が意味を持たなくなるから、これはあくまでも例外措置として許される場合がある──。

たしかに、祈りの力で病気が治ることは、実際にあります。

正しい信仰生活をしていると、ほんとうに体験できることがあります。

でも、残念だけど、いくら祈っても治らないことも、ある。

そのときは、そこに今世の修行課題があるのだと、その事実を受け入れつつ、自分ができることを精一杯、努力していくこと、ということなんだろう思います。

だって、何度もご紹介しているとおり、「人生は一冊の問題集」、なんですから。

 

愛は風の如く2ー愛の英雄ヘルメス (OR books) 『愛は風の如く2 ──愛の英雄ヘルメス』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




「守護霊」についての記事で、「魂の兄弟」って言葉が出てきたことがありました。まだ理解できないぞって思ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)――いま、新たな法輪がめぐる』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 通常は単体の個性としての生まれ変わりと考えられていたものが、実は、人間というのは、原則として「本体一・分身五」という魂のグループをつくっていて、交替で生まれ変わってきているということなのです。(中略)
 これは理解しがたいことのように思うかもしれません。しかし考えてみれば、人間には心臓、肝臓、膵臓、腎臓などの内臓器官がありますが、そのなかで自分の意志で動かしているものがあるでしょうか。自分の意志で止めたり動かしたりできるものなら簡単ですけれども、それはできません。心臓にしても、その鼓動を数えていると、本当に気になって夜も眠れなくなるはずです。しかし、心臓は自分の意志とは別に生きています。ですから、人間の身体自体を考えてみても、この意志の言うことをきかず、「自分は自分だ」と思っている生き物が、身体のなかにも生きているということです。現にそういう複合体として、私たちは存在しています。このようなことが、もっと大きな魂の兄弟のレベルにおいてもあるということなのです。
 自分の意志に関わりなく、体内で心臓が生きているということに対して、違和感を持つ方はいないでしょう。肺臓が勝手に呼吸したり、腎臓が勝手に尿を濾過したりしていることに対して、異議を唱える方もいないでしょう。特に命令しているわけでもないのに、しかし生きているでしょう。それでも共存しています。
 これと同じように、魂の兄弟というのも、ばらばらに生きているようでありながら、実は一つの大きな魂を構成しているものなのです。内蔵の例と同じような関係なのです。頭脳にきわめて近い部分が本体の部分であり、霊格的にも高く、その魂全体の向上を決めているのです。
(237~240ページ)

実は人間というのは、原則として「本体一・分身五」という魂のグループをつくっていて、交替で生まれ変わってきている。

しかし考えてみれば、人間にある心臓、肝臓、膵臓、腎臓などの内臓器官は、自分の意志で動かしておらず、そんな生き物の複合体として、人間は存在している。

それと同様のことが、もっと大きな魂の兄弟のレベルでもあるということである――。

つまり、人間の体は多くの臓器でできるけど、この臓器というのは、それぞれ自分の意識でばらばらに生きてる存在だってこと。

そして、人間の体はそれぞれ別の意識を持った臓器の複合体だ、という霊的真実を教えていただいたわけです。

そういえば、臓器移植で拒否反応ってのが起きるというのはよく知られた話ですけれども、それは臓器の意識がその新しい体に入るのを嫌がってると考えると、よくわかる現象に思えます。

そして、人間の「魂」というのは、もっと大きな複合体としてのグループをつくっていて、その「魂の兄弟」が、あの世とこの世を順番に転生輪廻しているというのも、改めて腑に落ちてくる気がします。

ちょっとどころか、かなり複雑な話ですが、でも、霊的世界の真実を教えていただき、こうやって少しずつでも理解できていくのは、なんともすごいことではなかろうかと、改めて私は思っているのです。

 

悟りの挑戦(上巻) いま、新たな法輪がめぐる 『悟りの挑戦(上)――いま、新たな法輪がめぐる』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




あーあ、なんで毎日、こんなつらいことばっかりあるんだろうなあ、と思ってる人? 悲しいことばかりで、生きてるのがいやになっちゃった人? 生きてて何になるんだろうって、愚痴を言いたくなる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学とは何か――初歩からの仏法真理』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生に疲れ、その悩みの底にあるときに、どうして自分だけがこんな不幸な生き方をせねばならないのか、と思う人がかなり多いわけですが、視点をひとつ変えてみれば、そこにまったく違った現状が展開することになるわけです。
 たとえば、「人生というものを、問題集と考え直してみたらどうだろうか」という視点です。私たちは、ともすれば答えばかり求め、探してきたわけですが、ひるがえって、「いや、そうではないのだ。実際の人生というのは、一冊の問題集なのだ。」と言われたときに、どのような考えが浮かぶでしょうか。
(164~165ページ)

そうだ、問題集なんだったら、持ってるだけとかじゃだめだし、答えを盗み見ててもだめなわけです。

自分で問題を解かなきゃ、実力はつきませんよね。

問題集は、実力をつけるためにこそ用意されている。

え、何の実力かって? そりゃあ、魂の実力ですよ。

そのために神仏は、この人生を私たちに用意してくださっている。

これを知ったときに、日々どう生きなきゃいけないかが、見えてくるような気がしませんか。

人生の困難な問題は、自分の力で、前向きに解いてかなくては。

「人生は一冊の問題集である──。」

うん、やっぱりこれは、深い深い悟りの言葉であったのだと改めて私は思っているのです。 
 

幸福の科学とは何か ―初歩からの仏法真理― (OR books) 『幸福の科学とは何か――初歩からの仏法真理』

 大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




ね、エル・カンターレって、じつはお名前に深い意味があったりしないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『地球を包む愛──人類の試練と地球神の導き』(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 現在、「エル・カンターレ」という名前を中心に使っていますけれども、「エル」というのは、もともと、「神」とか「光」とかいう意味で使われることが多いのです。(中略)
 それから、「カンターレ」というのはラテン語です。(中略)ラテン語の意味としては、「呪力を持つ」というような意味なのです。呪力を持つ―。だから、だいたい、「エル・カンターレ」の元の意味としては、「神が呪力を持つ」というような感じの意味になります。もともとは、語源的にはそういう意味になると思います。
 神がどういう呪力を持つかというと、それは、人類をくるむ「愛の力」「慈悲の力」、それから、「神秘の力」「奇跡の力」、こういうものです。
 こういう、人々を救うための力―いろいろな呪力といっても、そういう「魔法のような神秘的な力」を持っているというような意味になるわけです。
 「エル・カンターレ」については、今、「光満てる星、地球」など、いろいろと言っていますが、だいたい、「地球全体に関して、そうした神の力で人類を護ろうとする、力を及ぼしている」ということを意味していると考えて結構かと思います。
(72~75ぺージ)

「エル」というのは、「神」とか「光」とかいう意味で使われることが多く、「カンターレ」は、「呪力を持つ」というような意味である。

つまり、「エル・カンターレ」の語源的な意味としては、「神が呪力を持つ」というような意味であり、それは人類をくるむ「愛の力」「慈悲の力」「神秘の力」「奇跡の力」といった、「魔法のような神秘的な力」を持っているというような意味である。

要は、地球全体に関して、人類を護ろうとする、そうした神の力を及ぼしていることを意味していると考えてよい――。

うーん、なるほど、です。

大川隆法先生は、「エル・カンターレ」というお名前の意味については、初期のころに簡単に説かれただけで、その深い意味について説かれたのは、この御法話が初めてだったと思います。

この御名に「呪力」という意味合いがあったというのは、これまで秘されていた、とても大切なポイントではないでしょうか。

私たちは、その深い意味をしっかりと理解した上で、この地球神「エル・カンターレ」の御名を、全国に、世界に、知らしめていかないといけないのだと、改めて私は思っているのです。

 

地球を包む愛 ―人類の試練と地球神の導き― 『地球を包む愛──人類の試練と地球神の導き』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




会社や職場の仕事(ビジネス)で、どうやったら成功できるの? という悩みを持ってる人は多いんじゃないかな。

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法──真のエリ-トを目指して』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 まず、筆頭に、「上司を尊敬する」という言葉を挙げたいと思います。これは非常に大事なことです。ビジネスについて書かれた書物は数多くありますが、真っ先に「上司を尊敬する」という心得を出した書物は、そう多くはないと思います。私は、これは大切な要であると思うのです。
 ビジネスで成功しない人というのは、結局において、上司を尊敬していないのです。
 確かに、上司となっている人にも人間的な欠陥はあるでしょう。欠点もあるでしょう。あなたから見ていて不満に思うことは幾らでもあるでしょう。
 ただ、そうでない面もあるのは事実なのです。そして、その人が自分の上司をしているということは、その人を「有能な人間だ」と判定している人が、またその上にいるということなのです。
 したがって、もし、あなたが、上司を完全に無能呼ばわりし、「まったく取るに足らない、欠陥だらけの人間である」と思うなら、あなたは、その会社で、あるいは、その社会で、その組織のなかで、成功することはないと思って間違いありません。
 上司のよいところと悪いところを比べてみて、「やはり、よいところが、はるかに多い」と見えるようでなければ、あなたの成功はおぼつかないと思って間違いありません。
 「自分より、はるかに落ちる人が上にいる」と思いつづけるならば、あなたも不満が続くでしょうし、おそらく、あなたの上司になっている人も、おもしろくない日々が続くでしょう。双方がおもしろくない関係であって成功することは絶対にないのです。
 したがって、私は述べておきたいのです。あなたから見て 「大したことがない」と思われる上司であっても、現に、その立場にあるということは、いままでに、あなた以上の実績を積んできたことが必ずあるのです。その実績に対して、また、彼の持っている有能な面に対して、まず尊敬する気持ちを持つ必要があります。
(117~119ページ)

まず、上司を尊敬すること。

上司に欠陥や欠点、不満があったとしても、その人が上司だということは、その人を「有能な人間だ」と判定している人が、その上にいるということである。

上司のよいところと悪いところを比べてみて、「やはり、よいところが、はるかに多い」と見えるようでなければ、あなたの成功はおぼつかない──。

なるほど、なるほど、です。

もちろん独立して起業している人には、別のアドバイスになるんだと思いますが、今日のお教えは、ズバリ、世間の仕事論の盲点となっているポイントをアドバイスしてくださったのだと、改めて私は思っているのです。
 

成功の法: 真のエリ-トを目指して (OR books) 『成功の法──真のエリ-トを目指して』

 大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




お祈りって、みんな普通にやってるかな。困ったときに、助けてほしいときに、自分の願いをかなえてほしいときに、お祈りすればいいのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ──よみがえるヘルメスの光』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 愛を得るために祈ったとして、それがいかほど魂のプラスになりましょうや。何かを与えられるために祈ったとして、それを主がどれほど喜びましょうや。
 もちろん、主は「すべてのものを与えたい」と思っていますから、そうした祈りに対しても応えはあるでしょう。また、道が開かれることもあるでしょう。
 しかし、「祈りから愛へ」というプロセスは、極端な他力以外の何ものでもないと言えます。そこには、人間を向上させるプロセスがふくまれていないからです。むしろ逆であって、「祈りから愛へ」ではなく、「愛から祈りへ」というプロセスこそが大切なのではないかと私は思うのです。
 この「愛から祈りへ」というプロセスは、結局、こういうことなのです。
 まず、愛を実践してみせること。思いや行ないにおいて、愛を実践してみせること。愛の種をまき、それに水をやり、育て、刈り入れるという行為を、まず、みずから実践してみせること。
 これは一つの自力でもありましょう。自力行としての愛の実践を行ないながら、しかして祈りへと歩んでいくことが大事だと言っているのです。
 つまり、「みずから、やれるだけのことをやり、果たせるだけの使命を果たし、それでなお祈ることあらば祈ってみよ」ということなのです。そうであれば、主の御心にかなうことでしょう。しかし、みずからがまずやるべきこともやらずに、祈りばかりしていて、いったい何が解決するというのでしょうか。
 「きょうの食事を与え給え」と祈るかわりに、しっかりと働くことです。働く者には糧が与えられるでしょう。それと同じように、主の統(す)べる国において、霊の世界において、しっかり働くということは、すなわち、愛の実践行為に生きるということなのです。
 愛の実践行為に生きて初めて、そこに日々の感謝が生まれ、日々の感謝が報恩のための祈りを生んでいくのです。そして、その報恩のための祈りは、さらに高度な自己実現をもたらすための指針を下してくれるようになります。
 すなわち、「愛から祈りへ、祈りから自己実現へ」──このプロセスこそが大切なのです。
 愛を実践することにおいて、心の喜びを得、感謝する。主に感謝の祈りを捧げる。報恩の祈りをなす。そうすることによって、一生懸命に生きている毎日が、さらに高度なものとなるように、その祈りに対する応えが与えられるのです。
 その結果、みなさんの人生には、幸福になるしかないという「幸福の循環」が始まっていきます。あるいは、「成長の循環」「幸福の拡大再生産」が始まっていくのです。
(202~204ページ)

愛を得るために祈るのではなく、「愛から祈りへ」というプロセス、つまり、まず自力行として愛を実践し、しかして祈りへと歩んでいくことが大事である。

愛の実践行為に生きて初めて、そこに日々の感謝が生まれ、それが報恩のための祈りを生み、その祈りはさらに高度な自己実現をもたらすための指針を下してくれるようになる。

その結果、幸福になるしかないという「幸福の循環」、あるいは「成長の循環」「幸福の拡大再生産」が始まっていく──。

まず自分で、日々、愛を実践する努力をしてみること。

そのうえでのお祈りなんだってこと。

仏神の御心にかなったお祈りのあり方が、ここで分かりやすく、しかも簡潔に教えてくださっていたのだと改めて私は思っているのです。

 

愛から祈りへ ―よみがえるヘルメスの光― 『愛から祈りへ──よみがえるヘルメスの光』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ