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ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「中道(ちゅうどう)」ってさ、要は、中ほどの道ってことでしょ。なにか違ってる? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「中道」というものも、ひと通りではありません。どのようなときに中道と言いうるかということは、非常に難しい問題を含んでいると思ます。ある人に、その人にとっての中道のあり方というものを定義してあげることは、なかなか難しいところがあるのです。
 釈尊の時代からよくいわれているように、「中道というのは中ほどである」と考えがちです。しかし、人間というものは、どうしても自分に少し甘くなる傾向があります。そこで、中道とはどのあたりなのかと考えるときには、「ちょっとやりすぎたかな」「ちょっと行きすぎたかな」と思うあたりでやめると、だいたい中道になるのです。
 たとえば、子供に勉強をさせるときに、母親が「勉強も、しすぎては目が悪くなるから、中道を守りなさいよ」と言うと、子供は「はい、わかりました、お母さん」と言って、五分ぐらい本を広げると、あとはテレビを見ているということがあります。
 このように、人間はだいたい自分に甘くなるので、「少しやりすぎたかな」と反省が起きるぐらいのところが中道なのです。心のなかで、「ちょっと行きすぎたかな」と思うあたりで止めると、ちょうどよいのです。(中略)このように理解していただければよいと思います。
 そうすると、学生が 「これは勉強のしすぎだ。中道を逸したかもしれない」と思うときというのは、たいていの場合は、怠け心が頭をもたげたということのほうが多いのです。「そうではないのですよ。もう一時間、勉強しても結構なのですよ」ということです。そうしたことを考えていただきたいと思います。
(181~183ページ)

人間は、どうしても自分に少し甘くなる傾向があるので、「ちょっとやりすぎたかな」「ちょっと行きすぎたかな」と思うあたりで止めるのが、中道になることが多い──。

「中道」については、何度かご紹介したことがありました(たとえば、「中道って?」など)。

いろんな角度から「中道」は捉えることができると思うんですけれど、今日は、どのあたりが「中道」かの判断の仕方について説かれたところを、ご紹介してみました! 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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不幸って、やっぱり避けたいよね。どうやったら、人生で不幸なことがないようにできるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生にはいろいろな局面がありますが、「人生は勝負の連続である」という面を忘れてはいけないと思います。そして、個人としても、組織体としても、できれば勝ちつづけることを考えたほうがよいし、勝てないまでも、「負けない戦いとは何か」ということを常に考えることが大事です。
 したがって、もし悩み事があるならば、「この悩みを解決するにはどうしたらよいか」という観点、あるいは、「幸福になるにはどうしたらよいか」「不幸を避けるにはどうしたらよいか」という観点から考えるだけでなく、「これは人生の勝負の一局面なのだ」という考え方をすることです。
 「この人生の勝負の局面で勝つにはどうすればよいのか。どういう判断をし、どういう行動をし、どういう決定をすることが、自分を勝利に導き、人生における勝者にするのか」という観点から考えると、意外に理性的に、クールに考えることができるのです。
 勝負として考えた場合、当然、戦には被害が付きものであり、まったく被害の出ない戦い方というものはないでしょうから、「被害を最小にして成果を最大にする方法は何であるか」ということを理性的に考えれば、選択肢を絞り込んでいくことができます。最善と思うものを選んでいくというやり方も大事なのです。
 情に絡まって抜け出せないでいる人、人間関係のしがらみ等で、「出口なし」という状態で苦しんでいる人は、それを人生の勝負の局面と見て、冷静に考えてみるとよいのです。
 将棋には、「捨て駒」という、自分の駒を捨てることによって敵の駒を取る方法があります。これは自分の駒が惜しければできませんが、あえて駒を捨てることで勝負を挑むというやり方もあるわけです。
 このように、いろいろな方法がありますが、勝負の局面として考えていくと、意外に冷静に、採るべき方法が見えてきて、迷わなくなるのです。そういうことも肝心だと思います。
 あまりに性格がウエットすぎて、がんじがらめになりやすい人は、ときおり、そういう観点を離れて、「人生における勝負とは何であるか。勝つためにはどうすればよいのか」という観点から判断を下していけば、意外にあっさりと抜け道が見つかることがあります。これは、知っておいてよい方法だと思います。
(116~118ページ)

「人生は勝負の連続である」という面がある。

だから、勝負である以上、被害の出ない戦いはない。

そう考えることができたとき、将棋の「捨て駒」のように、あえて一定の被害を見切ることで、被害を最小にして成果を最大にしていく方法が見つかることがある──。

うーん、こんなふうに透徹した人生の見方というのは、一つの悟りの境地ですよね。

要は、何か不幸な出来事が起きても、これを「人生の勝負の一局面なのだ」という観点から考えてみれば、以外にあっさりと解決法が見つかって、幸福への道が開けてくることがあるってことなんだと私は理解しているのです。


『常勝の法』

 大川隆法著

 

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幸福の科学の教えって正しいし、つれ合いにもぜひ信じてほしいと思ってるの。でも、ぜったいにイヤだって言って、どうしようもないんだけど、どうしたらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 どうしても相手の納得が得られず、信仰の不一致が続いている場合には、相手を無理に改宗させる必要はありません。そうしたことをすると、家庭のなかが地獄になっていく場合が多いからです。
 たとえば、奥さんが新しい信仰に目覚め、それが素晴らしい教えだとしても、ご主人が反対することに、まったく理由がないわけではありません。多くの人は宗教的なものに対して警戒心を持つのが常であり、その教えの効果を見てみなければ、なかなか信じることができないものなのです。
 そこで、大切な点は、相手の信条をすぐに変えてしまおうとするのではなく、まず自分自身が、新しい信仰にふれて心を変え、心境を向上させ、素晴らしい人間になることです。そうした状態が二年、三年と続いていけば、人は必ず認めてくれるものです。あなたの職場の人や友人も認めてくれるでしょうし、ましてや、最も身近にいる妻や夫が認めてくれないはずはありません。
 クリスチャンたちは「教会に登録しなければ救われない」という言い方をよくします。それも伝道方法の一つではあるかもしれませんが、「教会に登録する」ということと、「その人の魂が浄化され、向上する」ということとは、イコールではないはずです。これが分からないほど愚かになってはいけません。名前を登録することは一つのきっかけにすぎないのです。
 「単に教団に名前を登録すれば救われる。入会さえすれば救われる」という考えは間違っています。その教団がほんとうによい教えを説いているとしても、入会しただけで何も努力しなければ、救いにはならないでしょう。その教えを真剣に学び、自分のものとして身につけなくてはならないのです。
 まず、自分が変わることが必要です。ご主人を説得したければ、奥さん自身がまず変わってみせなくてはなりません。その教団に入って、どれだけ立派になったかが大事なのです。「おまえがこれほど素晴らしくなる教えなら、おれも少し学んでみようか」という気持ちを、ご主人に起こさせるように頑張るべきです。
 要するに、「自分がこう思うから、他の人もこう思うべきだ」という考えを持ちすぎないことが大切なのです。ここが宗教的寛容性の試されるところです。
 宗教がきらわれる場合、寛容さが失われているところに原因があります。「特定の宗派に属さなければ救われない」「この教え以外では救われない」という考え方は、地上の人間に特有のものであり、高級霊の世界、仏の世界は、そうした不寛容なものではないのです。「他の教えにもよいところがあれば、それを取り入れ、人生に役立てる」ということでよいではありませんか。
 いま必要なことは、宗教的寛容性、寛容の心だと思います。これは、実は非常に根源的な考え方でもあるのです。
(282~284ページ)

家庭の中で信仰が一致しないときには、相手を無理に改宗させる必要はない。無理に形だけ入会させることが救いになるわけではない。

まず、自分自身が信仰の力で心を磨き、素晴らしく変わっていって、家庭でも認めてもらえるように努力すること。

そして、他の考え方を受け入れる、宗教的寛容さを持つこと──。

ここでご紹介した大川隆法先生の教えは、初版が1988年に刊行された書籍の一部です。

幸福の科学は、活動開始の当初から、こういう寛容さに満ちた教えが説かれ、これに基づいて活動を展開してきています。

この幸福の科学の事実を、私たちはもっともっと多くの人に伝えていかなくてはならない。

そのように、今日は改めて強く強く私は決意しているのです。

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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なんであんなひどいこと、言われなきゃいけないの。悪意があるよね、許せないよ。どうしてやろうかなあ。 なーんて心が揺れてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人は、他人の言葉を聴くことによって、心に曇りや傷をつくり、怒りを覚えるものです。他人の言葉というのは、自分には厳しいことがあったり、不本意なことがあったりします。しかし、その時に、その言葉をどのように受け止めるかということが大事なことなのです。
 この聴き方に三通りがあります。
 まず、字を岩に刻むように聴く方がいます。字を岩に刻んだら、その字は百年経っても千年経っても消えません。
 次に、砂に字を書くように聴く方がいます。砂に書いた字は、二、三日はそのまま残っています。しかし、やがて、風が吹くと崩れ、その字は消えていくでしょう。
 それから、水に字を書くように聴く方がいます。ちょうど、サラサラと流れてくる小川の上に字を書いても、それが一瞬ののちに流れ去り、また元のきれいな水面となっていくように、こだわらない心、引っかからない心で聴く方です。
 他の人が自分に対して厳しいことを言ってくださることがありますが、それが、自分にとってはほんとうに思いあたる節があるなら、それを素直に受け入れて、反省をすることです。そして、忠告をしてくれた人に対して、感謝をすることです。そうすれば、心の波立ちは何もありません。
 このように、その言葉が辛辣で、自分に対して害意を持ったものであったとしても、その時に、岩に刻むような聴き方、砂に書くような聴き方、水に書くような聴き方の三通りがある、ということを知っておいていただきたいのです。
 水の上に字を書いても流れ去っていくように、こだわらない心があれば、それは流れていきます。その時に、みなさんの心には怒りが起きてこないのです。怒りが起きてこなければ、相手を怒鳴りつけたりすることもなければ、相手を傷つける言葉や、相手の仏性を穢す言葉も出てこないはずです。(中略)
 心に怒りを生じてしまった時には、もはや正しく語ることはできません。相手に対する悪口が出ます。嘘や偽りの言葉も出ます。(中略)
 心のなかで間違った受け取り方をしていると、発する言葉まで違ってきます。そして、みずからが毒を喰らうばかりではなく、他の人にもまたその毒を発射してしまい、その毒が再生産されて、グルグルと世のなかを駆けめぐっていきます。こういうことは、避けなくてはいけないのです。
(124~127ページ)

自分にとって不本意な言葉を聞くときには、岩に刻むように聴くのではなく、水に字を書くように聴こう。

そして、思いあたる節があったら、素直に受け入れて反省しよう。

あとは、水に流してしまおう──。

売り言葉に買い言葉というのは、みずからが毒を食らうだけじゃなくって、その毒をまた自分が発射して、不幸を再生産していくだけ。

それを避けることができるだけでも、世の中の不幸が一つ減っていく。

そして、こんなふうに、自分のできる範囲で小さな愛を生み出していくことで、ユートピアって、少しずつ近づいてくるのではないかと私は思っているのです。

 

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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いやあ、カードって便利だよね。今はお金がなくても、とりあえずボーナス払いにしとけば、余裕があるときに返せばいいしね。サラ金でお金借りるのはまずいんだろうけど、大手の銀行系のクレジットカードだったら、大丈夫だよね。この仕組みって、人類の知恵なんじゃないの。よく出来てるよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 家計においては、収入の合計以上の支出はできません。それができるためには、貯蓄が必要です。貯蓄がない場合には、収入以上の支出はできないのです。
 したがって、賢明な人はどうするかといえば、収入の範囲内で支出をし、さらには収入の一部を貯蓄に回していきます。これが賢明な生き方です。
 現在はクレジットカードの世の中に変わってきました。若者たちのなかには、〝クレジットカード文明″の恩恵に浴している人も数多くいるでしょう。現金ではなかなか買えない電気製品や車などを、クレジットによっていち早く手に入れ、人生をエンジョイしている人も多いようです。
 そうしたカードが便利であることを私は認めますが、ただ、それが人生の基本であってはならないと思うのです。
 「将来の収入をあてにして、その分のお金を先に使ってしまう」という考え方は、マイナスの発想、地獄的な発想であり、必ずしも仏法真理に合致してはいません。収入の範囲内で生活し、そのなかで蓄えをつくっていくという堅実な生き方を、仏は喜ぶのです。
 アメリカでは、自分の心を律することのできない人びとが、カードの撲滅運動を起こしたりしているようです。そして、自分ではカードを捨てられない人のために、「カードを粉々にして捨ててしまう」という職業まで出てきたそうです。
 クレジットカードを数多く持つことによって、それを過度に使用してしまい、やがて借金の火ダルマになる。その借金を返すために、また借りる──。
 こうして、どんどん借金が増えていくにもかかわらず、自分ではカードを捨てられない人が、他人の手でカードを捨ててもらい、やっと借金地獄から抜け出すという現象が出てきたと聞いています。
 これなどは、人間の弱い面を象徴しているのではないかと思います。
 したがって、みなさんには、収入の範囲内で生活をし、さらには将来に備えて蓄積をしていくという姿勢を守っていただきたいと思います。
(51~53ページ)

借金型の発想は、地獄的なものであり、必ずしも仏法真理に合致していない。

収入の範囲内で生活し、そのなかで蓄えをつくっていくという堅実な生き方を、仏は喜ぶ──。

最近は、大手銀行が、カードだけで簡単にお金を貸してくれるようになりました。

でも、要は、これに安易に乗ってしまって、借金型の生活になったりしちゃいけない。

仏法真理にのっとって、堅実に収入の範囲内で生活をし、そのなかで地道に蓄えをつくっていくのが大切である、と。

今日は人生の大切な智慧を改めて教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『不動心』

大川隆法著

 

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あーあ、また失敗しちゃったよ。ほんとにしょうもないなあ。こんな自分って、許せんよね、ほんとに。・・・なーんて厳しい思いで悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 寛容の美徳を失った方が世の中にはなんと多いことでしょうか。寛容の美徳を失ってしまい、いつのまにか小さな小さな心になって、細かい細かいことに気がつきすぎて、そして他人を責め、自分を責める人のいかに多いことでありましょうか。(中略)
 この地上には(中略)さまざまな国、さまざまな環境下において、ある人は食物に飢え、ある人は飽食のなかにあり、ある人は知性優れ、ある人は知性劣り、ある人は体力優れ、ある人は体力劣り、ある人は黒く、ある人は白く、ある人は黄色く、ある人は家族に恵まれ、ある人は家族に恵まれず、(中略)さまざまな環境のもとに生きています。
 もし、神の立場でこの世界を見たならば、どう見えるとお思いでしょうか。神は、「それも是(よ)し、これも是し。黒きも是し、白きも是し、黄色きも是し。それぞれのなかで、幸せになってゆきなさい。あなたにいま与えられた環境のなかで、幸せを求めてゆきなさい」、そうおっしゃっていることでしょう。(中略)
 なぜならば、私たちの人生はこの一回かぎりのものではなく、あの悠久の大河が、どこからともなく流れ来たって、どこへともなく流れていくように、遥かなる昔から魂として存在し、何度も何度も地上に生命を得ているからです。ある時にはアフリカに生まれ、ある時にはインドに生まれ、ある時には中国に生まれ、またある時には日本に生まれ、いろいろなところに魂は生まれ変わってきています。
 その途中途中をとってみたならば、いつも最高の環境に生まれているわけではないということは、誰が考えても当然のことです。いろいろな環境下、いろいろな条件下で生まれてくるはずです。そうであってこそ、永い永い、永遠に近い人生が、実り多きものとなっていくわけなのです。
 ちょうど、あの川の流れが、山から小さな谷となって流れ落ち、しばし木の葉の下をゆき、やがて小川となり、ある時には早瀬となり、ある時にはゆったりとした流れとなり、そして河口近くなると海かと思うばかりの広々とした姿になるように、私たちの永遠の転生のなかでの人生もまた、早瀬あり、谷あり、淵あり、その流れのなかでいろいろな経験をしていくのです。
 その事実を知ったときに、私たちはもっともっと寛容にならなければなりません。自分自身に対しても、他の人に対しても、彼らがそれぞれの時間をいま生きているのだということを、大きな流れのなかでの魂修行をしているのだということを知ったときに、私たちは寛容にならざるをえないのです。
 そして、自分自身をもやさしく包み込むことです。永い永い魂の歴史のなかで、今こうして、滝なら滝、早瀬なら早瀬にさしかかっている自分自身に対して、「ご苦労である。おまえはいま大変かもしれないけれども、これは永い永い旅の途中なのだ。どうか短気を起こすな。やがてまた、川はゆったりと流れていくであろう。それまで、焦ってはならん。寛容であれ、すべてのことに対して」──こういう気持ちが大事なわけです。
(32~35ページ)

他人に対する寛容さが大切だってことは、このブログでも何度か取り上げました。

でも、それだけじゃなくって、自分自身をも、やさしく寛容に包み込むことの大切さ──。

他の人を、そして自分自身を、神や仏の目でどう見えるかって、考えてみよう。

永遠の転生輪廻のなかの一こまにあるあの人の人生。

そして、自分の人生。

「寛容であれ、すべてのことに対して」という言葉の重さとありがたさを、今日は深く味わうことができたのだと私は思っているのです。

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著


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いつも会ってるあの人、ちょっと霊障だと思うんだよね。少しだけ自分で反省してくれれば、すぐ治ると思うんだけど、そんなの無理なんだよね。どうしてあげればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 以上が、自分が霊障になった場合に、一般的にやってほしいことです。
 それでは、自分の身近な人がそうなった場合には、どうすればよいでしょうか。
 まず、その人のよいところをほめてあげることです。ここから始めるのが、いちばん効果が大きいのです。その人の悪いところを責めたら、もっと暴れます。だから、努めて明るい話をして、ほめてあげてください。
 その和やかな雰囲気のなかで、包み込んでいくことが大事です。そうした友情の輪、仲間たちの思いが大事です。一人では、悪霊に勝てない人でも、周囲の人がその人を助けようとして輪をつくると、悪霊は勝てないのです。
 暗いほうだけを見ている人には、暗いことが幾らでも見えてきますが、幸福なほうを見ていくと、幸福なものが増えてきます。どうか、そういう努力をしてください。
(90~91ページ)

大川隆法先生は、この引用部分の前の部分では、霊障になっている人への王道の対処法として、まず反省することを勧めておられます。

でも、だからといって、自分以外の人に、真正面から反省を勧めようとしても、霊障になってる人に限って、自分が責められてるとしか受け止めれないのがふつうで、無理な話。

そういうときは、まず、その人のよいところをほめてあげること。そして、和やかな雰囲気で包んであげること──。

なんて実践的な教えなんだろうって思いますよね。

そして、なんて温かい教えでしょうか。

仏の教えにしたがって、まず幸福な方向を見ていくことで幸福を増やしていくのが大切なんだと私は思っているのです。 

心と体のほんとうの関係。―スピリチュアル健康生活 (OR books) 『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著


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社運を賭けた大事な仕事で、大失敗して大損を出してしまった同僚。もちろんクビか、よくても左遷しかないよね。厳しいビジネス社会で、それ以外の考え方があるものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 昔の中国などでは、戦争に負けても敵に降ることは許されず、「もし降参して帰ってきたら、その人の一族が皆殺しにされる」というような風習がずいぶんあったようです。(中略)将軍が戦をして負けた場合、死刑にされたり、追放されたりする国もあったのです。
 しかし、古代ローマでは、逆に、「負けても、いったん呼び戻して〝リハビリ〟をさせ、何年かしたら、もう一度、将軍として出す」という方法を取っていました。これが古代ローマの強さの秘密です。
 「負けた人は、負け戦の経験を得たのだ。『こういう戦い方をしたら負ける』ということを学んだのだ」と考えるわけです。「初めて戦いに出た人は、前の人と同じような間違いを犯して負ける可能性があるので、それよりは、一度、敗れた経験のある人のほうがよい」というのがローマの考え方です。そのため、負け戦をした人でも、しばらくしたら、また将軍に立てて、何度でも出すのです。
 初めて戦をする人は経験がないので、前の人と同じような間違いをしてしまうことがありますが、負け戦をした人は、負けるたびに知恵が付いています。戦って敗れた人は、自分がどういう負け方をしたかを知っています。「その知恵を無駄にすることはない」ということです。
 これは、軍事における、民主主義的な考え方の応用だと言えるでしょう。
 現代の日本の政治においても、大臣をした人が、いったん平の議員に戻って、また大臣になったり、政権を担当している政党が何度か替わったりしていますが、これは、ローマ的な考え方が、民主主義政治のなかに流れているということです。負けても負けても、経験を積んで、また生き返ることができるわけです。
 これは、政治システムのなかに罪の許しの原理が入っているケースだと思います。
 また、仕事においても、「信賞必罰」ということはありますけれども、一定の範囲で、許す力が戦力になるということも知らなければいけません。
 一度も間違いを犯さずに定年を迎えられる人は数少ないのです。むしろ、そういう人というのは、まったく仕事をしなかった人である場合が多いのです。仕事をしない人には失敗もありません。しかし、積極果敢に仕事をする人は、失敗の数も多くなります。
 もちろん、失敗した人をそのまま放置することは、全体の士気にかかわるので許されないでしょうから、信賞必罰で臨むべきだとは思います。ただ、失敗も一つの魂の糧であるので、「一定の期間をおいて、またチャンスを与える」という考え方が大事だと思うのです。
 罪の許しが仕事の原理に加わってくると、「失敗も一つの経験である」という見方が出てきます。これは、自分にとっても、ありがたい見方ですが、他の人に対しても、そういう見方、扱いをしたほうが、戦力は増えることが多いのです。
(124~127ページ)

失敗した人を放置すれば、全体の士気にかかわるので許されないから、まずは信賞必罰で臨む。

しかし、失敗も大事な一つの経験であるので、一定の期間をおいて、その智慧を生かすためのチャンスをまた与えるのが、全体としての戦力アップのためにも、とても大切である──。

こういう、古代ローマの智慧に基づく人事をしている組織は、ものすごい強みを発揮できる。

そして、大川隆法先生が指揮しておられる幸福の科学も、そういった運営の見本を示しておられるのだと私は理解しているのです。

 

『大悟の法』

 大川隆法著

 

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「幸福の科学」って、幸福を探究してるんでしょ。じゃ、いったい何が幸福だっていうのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は地獄という世界にいる人に数多く会って、話を聞いてきました。すべての人が苦しみのなかにあります。(中略)闘争と破壊、執着、混乱、惑乱、嫉妬、羨望、戦い──それも悪い戦いであって、自己欲のための戦い、醜い争いです──そうしたものに満ち満ちた世界です。
 そして、どのような霊もみな、「自分がかわいい」という気持ちでやっているのです。自分がかわいいのに、自分が苦しんでいる。このギャップが埋められないので、ますます不満感が増大する。人のせいにし、環境のせいにする。自分がかわいいがゆえに、自分を苦しめている。こんな、まったく正反対の現象が現実に起きているのです。
 この地獄霊たちのかわいそうなところは、みんな自分中心だということです。「俺が、俺が」「私が、私が」と言っています。その自分を捨てさえすれば幸福になれるのに、捨てることができないのです。(中略)
 一方、天国に還ってみますと、人々が調和して暮らしています。一人ひとりを見ると、他人に対して非常に親切に生きています。他の人に対して、お互いに親切に生きています。愛を与え合って生きているのです。そして、そのなかの人は幸福です。自分へ取り込もう、取り込もうという「奪う愛」を抑えて、人のために親切に生きようという人が集まると、お互いにニコニコと幸福に生きています。
 さらに高い菩薩の世界に行ってみると、ほんとうに人のために献身的に生きています。まさしく与えきりであって、与えるいっぽうの方が、そこでは現実に活動をしているのです。
 ところが普通の人間は、「与えたら損をする。もらったら得をする」と、すぐ思ってしまうのです。その考え方が根本的に間違っているのです。
 物質の世界では、確かに、何かを与えたらその分だけ減ります。もらった人は、それだけ多くなります。お金でもそうです。(中略)
 しかし、霊界世界は、このまったく逆のことが起きるのです。与えたら与えただけ幸福になる、人のために尽くせば尽くすほど幸福になるのです。
 それはなぜかというと、仏の子としての自分、仏の分身としての自分が拡大するからです。自分自身がそれだけ仏に近づいて、仏の子として光が出てくるからなのです。この光が出てくることが、幸福感の増大と自己の拡大を、実は意味しているのです。自分自身が仏に近づいていく成長感があるのです。これが幸福なのです。(中略)
 それは、身体が大きくなる幸福ではないのです。仏に近づいていく、光の源に近づいていく幸福なのです。それは、重くなっていくのではなくて、身軽になっていくことであって、身軽な、爽やかな五月の風のような幸福感なのです。そのように身軽になるためには、「自分が、自分が」「自分のもの」という気持ちを捨てなければ、どうしても駄目なのです。
(155~160ページ)

あの世には、天国と地獄という世界がある。

そこは、この世の生き方と無関係ではなく、死んであの世に還ったときに、この世の生き方があの世ではどう評価されるのかが、有無を言わさず示されてしまう世界。

自分中心で、他の人から愛を奪って平気で生きていた人は、あの世に帰ったとき、地獄に落ちてしまう。

逆に、愛を与え合って生きていた人は、天国に帰ってから、互いにニコニコと幸福に生きている。

それは、仏の子としての自分が拡大して、それだけ仏に近づいて、光が出てくるから──。

考えてみると、これは、あの世だけの話ではなくって、この世でもあてはまる話なんですよね。

他の人から愛を奪っても平気で生きている人は、この世でもしだいに不幸になっていき、愛を与え合って生きている人は、この世でもしだいに幸福になっていく。

だからこそ、大川隆法先生は、この世においても「与える愛」の大切であることを説いておられるのだと私は思っているのです。

『心の挑戦』

 大川隆法著


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経営者に宗教って言われても、企業経営に宗教なんて関係ないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 企業活動をしている人々、経営者や管理職、あるいはビジネスエリートたちにとっても、宗教から学ぶべきものはあるでしょう。
 それでは、いったい、どのようなものを宗教から学ぶべきなのでしょうか。
 宗教に学ぶ「経営の原理」の一番目は理想や信念です。宗教において至るところに満ち溢れているものは、理想や信念なのです。
 宗教は、「かくあるべし」という理想の塊のようなものです。「ユートピア」と言ったり、「仏国土」と言ったり、「理想郷」と言ったり、言い方は、いろいろありますが、宗教活動というものは、基本的には、仏の国づくり、神の国づくり、ユートピアづくりであり、そういう理想を目指しているものなのです。
 さらに、その理想を実現しようとする人々は信念の塊です。「これは絶対の善である」「これは絶対に正しい」「これは成し遂げねばならないことだ」という、強い使命感に裏づけられた人々なのです。それが宗教に生きる人々です。
 この部分は、薄められたかたちであっても、企業活動のなかに取り入れるべきものであろうと思います。(中略)
 その理想が本物であれば使命感が出てきます。
 したがって、まず、自分の会社において、宗教的な理想や使命感にも似たものを、何らかのかたちで考え出さなければいけないのです。「自分の会社を通じて何ができるか。仏国土ユートピアづくりに、いかなるかたちで参画することが可能であるか」ということを、とことん考え抜くべきです。
 経済の原理からいっても、基本的に、世の中の役に立たないものは消えてなくなり、人々の役に立つものが残っていくことになるので、この「根本的な哲学を考え抜く」ということは非常に大事なことなのです。
(28~31ページ)

あの松下電器(現・パナソニック)を創った松下幸之助は、天理教を視察して開眼し、「松下七精神」を制定して、宗教のスタイルを企業経営に生かしていったというエピソードが、省略した箇所で説かれています。

「松下七精神」とは、産業報国、公明正大、和親一致、力闘向上、礼節謙譲、順応同化、感謝報恩、の7つの精神だそうです。

漢字が並んで、今の人にはちょっとむずかしい感じですが、これが松下電器の根本的な理念として、社員たちに共有されて行った結果として、社員数30万、売上高が10兆円にも及ぶような、一大企業が生まれて行った、ということができそうです。

今の企業は、今の時代の言葉で、自分たちの「根本的な哲学」を考え抜いて提示することが、企業発展のための秘訣であるのだと、今日は改めて学ぶことができたと思っているのです。

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著


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子供が生まれたんだけど、お稽古ごとさせなきゃ。やっぱ将来の職業も大事だよね。親ができなかった夢は、この子に実現してほしいしねって、そんな考え方でいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 子供にもよるので育て方はいろいろなのですが、一般論を述べると、最も注意すべき点は、「親は子供を自分たちの所有物のように思う傾向がある」ということです。親は、これが意外と分かっていないのです。
 親は自分たちが子供をつくったような気持ちになりやすいのですが、肉体はそうでも、魂はもともと実在界にあったものなのです。「親子は別個の人格である」ということを忘れてはなりません。
 そして、「子供は親の意のままにはならない」ということを念頭に置き、その子の魂の生地、傾向性に最も合った育て方をすることが必要です。
 「この子をわが家の跡取りにする」「この商売を継がせる」「医者にする」「学者にする」「画家にする」などと、子供の将来を親が勝手に決めてはいけません。
 親が自分の実現できなかったことを子供に託す場合もよくありますが、親ができなかったことは、たいてい子供にもできないのです。「お父さんはできなかったが、おまえはやれよ」などと言われると、子供は大変な重圧を感じてしまいます。
 子供が成長する過程で、親は子供の魂の生地を見極めなくてはなりません。十歳ぐらいから十二歳ぐらいまでのあいだには、「商売に向いているのか。学者肌なのか。技術者向きなのか。役人タイプなのか」など、素質がだいたい見えてきます。
 十二歳ぐらいまでに素質が見えてこない場合には、可能性がはっきりするのはもう少しあとになります。この場合には、ゼネラル(一般的)な教育をすればよいのです。
 一方、素質が見えてきた場合には、その素質を生かせる方向に導いてあげることが大事です。
 結局、魂固有の力を信じ、子供が「伸びていきたい」と思っている方向へ最高に伸ばしてあげることが、最大の教育なのです。
(113~115ページ)

親子は別個の人格であって、子供は親の意のままにはならない。

子供の魂が持っている固有の力を信じ、その子の魂の傾向性に最も合った育て方をすること──。

子供はやはり、親が生み出したものではなくって、天からの授かりものであるわけです。

要は、天から預かった光の天使の卵たちが、天上界でたててきた人生計画にしたがって、最高の人生を送れるように支援してあげること。

それが親として果たすべき役割なのだと私は理解しているのです。

 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著



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なんだか、からだが重くて、どんよりした気分なんだ。憑依でもされてるんじゃないの、なんてまわりに言われるんだけど、ほんとに悪霊に憑依されてたら、どんな感じなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 実際、反省によって悪霊が取れる瞬間というのは、ペリッと剥がれる感じがします。ほんとうに、壁紙を剥がすように、ペリッと剥がれる感じがするのです。
 事実上、霊には重さがないのですが、悪霊が憑いていると、体は重いのです。体が非常に重く、毎日、調子が悪いのです。たとえば、梅雨時の、どんよりした天気の日に満員電車に乗っているような、うっとうしくて、体がだるく、やる気が出ない感じが、悪霊が憑いているときの感じなのです。
 これがペリッと取れると、まず、顔に赤みが射してきます。悪霊が憑いていると、よく、顔が青かったり、黒ずんでいたり、死相が出ていたりするのですが、その顔に赤みが出てくるのです。
 また、体に光が入ってくるので、体がサーッと温かくなったり、血の気が通ってくると同時に、ぽかぽかと少し温かい感じが出てきたりします。
 そして、体が非常に軽くなります。やはり、一名の霊の苦しみを背負うと、あるいは、二名、三名の霊の苦しみを背負うと、重いものなのです。なぜなら、人間は霊的な存在だからです。これが取れると、楽になります。
 ただ、悪霊が取れても、同じ悩みをくり返していると、悪霊は、また戻ってきます。そのため、悪霊が取れたあとは、なるべく明るい人生観を持って生きることが大事です。どうやって悪霊と波長を合わせないようにするかということが大事なのです。
 したがって、反省して悪霊を取ったら、あとは、そういう悪霊の苦しみの波動と合わないような、建設的で明るい人生を生きるようにしなくてはいけません。
(202~204ページ)

悪霊に憑依されていると、体が重くて、うっとうしくて、だるくて、やる気が出ない。

顔は青かったり、黒ずんでいたり、死相が出ていたりする──。

気がつくと、自分がそんな感じになっていませんか?

大川隆法先生は、そんなときの対策の王道が「反省」であることを、教えられているんだと思います。

つまり、悪霊と波長が同通するような心の間違いが自分にはなかったか、を点検してみる。

そして、無事に悪霊がとれたあとの話の形で、憑依を予防する大事な方法まで教えて下さっています。

それは、悪霊の苦しみの波動と合わないような、建設的で明るい人生を生きようと心掛けていくこと。

短い説法ですけれども、今日は「憑依」について、大事な智慧を改めて学ぶことができた気が私はしているのです。


『幸福の法』

 大川隆法著

 

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ようやく部下がいる立場になったんだよね。上司って偉くなった気がして、うれしいよね。でも、どういう心がまえでいたらいいんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 気をつけなければならないのは、「みずからの姿のなかにエゴイスティック(利己的)なものがないかどうか」ということです。
 上司が部下を使って仕事をすることが、会社のためにも部下のためにもなるのであればよいのですが、そうではなく、上司が手柄を独り占めしたくて、部下に「こうしなさい」と言っている場合は、問題があります。
 実は、部下や他の人をうまく使って仕事をし、手柄をすべて自分のものにしてしまう人が、世の中には、ずいぶん多いのです。(中略)
 もちろん、上司や師など、立場が上で認識力の優れた人が、高いところから下の人を導くのは大事なことです。
 そういう人の導きがなければ、下の人は、どうすればよいか分かりません。
 たとえば、新入社員の場合、将来は社長になるような器の人であっても、新入社員の段階では課長や部長の仕事はできません。
 立場が下の人に対しては、上の人が方向づけをすることが大切なのです。
 このような指導者的愛と、自我、エゴのための自己実現とは、はっきりと区別する必要があります。
 指導者的愛で他の人に方向づけをするのは、悪いことではありません。なぜなら、それは、相手を伸ばしていこうとしている行為だからです。
 ところが、単に「自分は、こうしたい」という利己的な理由だけで、他の人たちをねじ曲げていこうとするのは、間違っているのです。(中略)
 指導者的愛とエゴのための自己実現とは、結局、動機の部分に違いがあります。
 ほんとうに相手をよくしていこうとしているのか。それとも、手柄をすべて自分に帰するためにやっているのか。この違いです。
 たとえば、あなたが知人などを使って、ある仕事を行うとします。
 その場合、実際に仕事をする人たちには何の意味もないのに、あなたが、その点をまったく考えることなく、単に 「これをしなさい」と言って、その人たちを使い、仕事の結果が、あなたの自己満足になるだけであるならば、やはり問題です。
 一方、その仕事をする人たちが、何か大きなものを手に入れ、仕事を通じて数多くの人に貢献できるのであれば、筋が通っており、あなたの行為は愛になるのです。
 指導者的愛によって人を導き、相手に変化を要請している場合と、自己の都合や利益のために人を利用している場合とを、はっきり峻別しなくてはなりません。
 そのためには、「自分のためだけに仕事をしてはいないか。周りの人たちのことを考えているか」ということを常に点検する必要があります。
 そのような点検の結果、問題がないのであれば、その仕事は大いにやるべきです。部下や協力者たちに大いに仕事をしてもらえばよいのです。
(103~106ページ)

上司が部下を使って仕事をするときには、指導者的愛と、エゴのための自己実現とがある。

そして、その違いは「動機」にある。

ほんとうに相手をよくしていこうとしているのか、それとも手柄をすべて自分に帰するためにやっているのか──。

すでに部下を持っている人は、あまり意識してないことが多いかもしれませんね。

でも上司の立場になったら、いつも自分の心を振り返って点検しつつ、部下とともに仕事を進めていかなくてはいけない。

そういう心構えを、今日はわかりやすく教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『感化力』

大川隆法著

 

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オウムみたいな大変な事件起こした団体もあったし、宗教っていうと、怖がられたりするんだよね。だから、宗教だって最初は言わないで、方便で伝えていった方がいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学は、「これ以外は決して信じてはいけない」というような小さな心は持っていません。「これ以外に正しいものはない。他のものはすべて邪教である」と、破折をするような団体もありますが、そこがいちばんの邪教であるという問題もあるわけです。
 幸福の科学は正しい団体として、誠意を持って、智慧を持って、愛を持って、人びとに伝道することを本則とします。
 ところが、今の邪教の多くはそうではなく、人を騙して連れてきて、取り込んでいくということをします。そして、かなり洗脳した段階で、「実は〇〇だ」と正体を明かすのです。あるいは、騙して連れてきて、暴力団でもないのに、何人かで囲み、「入会しなければ帰さない」というようなことをします。また、脱会しようとする人に対しては、「脱会すると崇りがある」と言って脅すのです。
 このようなことをするのは邪教です。当会は、こうした邪教とは一線を画したいのです。一緒にしないでほしいのです。私たちは正々堂々と、仏法真理を仏法真理として、多くの人びとを生かす道を説き、それを伝えたいのです。
 みなさんに、自信のある人間になってほしいのです。誠心誠意、自信を持って人びとに道を説ける人になってほしいのです。
(140~141ページ)

騙しのテクニックで、取り込んでいくような不正なことをする邪教とは一線を画したい。

正しい宗教である幸福の科学を信じていることに、自信をもってほしい。

そして、誠心誠意、また正々堂々と、教えを伝えることができる人になってほしい──。

大川隆法先生のこの熱い願いを、念いを、私たちは真正面から受け止めて、仏法真理をお伝えする活動をしていきたいものだと、改めて私は思っているのです。
 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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親が仕事だって、家にはいつも誰もいなくて、小さい頃からずっと、カギッ子だったんだよね。家のなか、なんだかガチャガチャしてて、親が学校行事に来てくれたこともなかったし。なんだか自分が邪魔ものだった気がしてて、誰も愛してくれてないのかなあって、ずーっと心に引っかかってるんだ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向けの書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 今は、働いているお母さんも多い。七割ぐらいのお母さんはそうかもしれないね。(中略)ただ、人間の能力には限界がある。働いているお母さんが、専業主婦のお母さんと同じように、家の中のことをできるわけはないよね。もし、それができるなら、お母さんの能力が他の人の二倍あることになる。(中略)
 そうでなければ、どこかに、うまくいかないところ、しわ寄せが出てくるはずだね。それは、君たちから見れば、「手ぬきをされた。」ということになるかもしれない。(中略)
 けれども、そういうふうにお母さんが働いているのは、いろいろな理由があって、何か働く必要があるからなんだ。
 お父さんの給料だけでは、生活するためのお金が少し足りないので、働かなければいけないお母さんもいる。
 中には、能力や才能があるために、仕事をやめることができないお母さんもいる。職業で自分自身のキャリア、経験をつけて、世の中の役に立つことをしたいと思っているお母さんもいる。
 いろいろな理由はあるけれども、お母さんは、働くことによって何かを得ているわけだね。
 でも、その結果、失うものも当然ある。それは、家庭で使える時間が減ってくるということだ。
 そうすると、子どものほうは、やはり不満がたまってくるよね。(中略)
 いろいろと不満が出てきて、親子でけんかをするようになり、家庭の不和が起きてくることもあるんだ。
 また、お母さんがつかれていると、お父さんともうまくいかなくなることが多い。(中略)
 けれども、子どもにとっては、家庭がどうしてそういうふうになったのかは、自分自身が大人になってみないと、本当は分からないものなんだ。(中略)
 子どもの不満がたまってくると、それが夫婦げんかの種になることもあるんだ。(中略)「子どもに手がかかりすぎるために夫婦がうまくいかなくなった。」ということもあると知らなければいけないんだね。
 だから、(中略)子どもだって、「自分でできることは自分でしなければいけない。」ということなんだ。
 例えば、家の用事でも、お母さんができないときには、君にできることをすることだね。買い物など、ついでにできることがあれば、やってみよう。
 お父さんのことでも、何かできることがあったら、やってみよう。
 それから、君が弟や妹のめんどうを見てやれば、親はずいぶん楽になるよね。
 勉強でもそうだよ。自分ひとりで勉強ができずに、いつも親に見てもらわなければいけないようでは、親にふたんがかかってしまうね。だから、自分で勉強できるようになるのは良いことなんだ。
(67~76ページ)

お母さんが働いているのは、いろんな理由があるが、専業主婦と同じようにできるわけはない。

子供にとっては手ぬきをされたように思え、不満がたまって来て、親子や夫婦の不和まで起きてくることがある。

その理由は、自分が大人になってみないと分からないものだが、子供も、自分でできることは自分でするし、家事のできることは手伝いするようにしなければいけない──。

ちょっと前に、働く母親のために、「子育てと仕事の両立」に関するお教えをご紹介しましたけれど、今日は、そういう家庭で育っている子供のためのお教えを、ご紹介してみました。

要は、子供であっても、子供なりの「与える愛」を実践していく気持ちがあれば、幸福への道を歩んでいくことができるって。

そんなことを、子供にもわかるようにやさしい言葉で語って下さったのではないかと私は理解しているのです。 

 

『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著



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