「強迫観念」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 強迫観念とは

2025-03-06

業務時間中に仕事以外のことができない

いつどんな瞬間に話しかけられても、PC画面を覗かれても、「仕事してる」と思われる状況でないといけないという強迫観念がある。

から当日の仕事がもうない(=片付いている)状態というのが怖くて、業務フローの粗探ししてでも仕事しようとする。

あと「仕事してるように見える環境」の維持のため、着手ステータスにしてからが長い。

なので依頼対応と問い合わせの一次回答はめちゃくちゃ早いんだけど、仕事は遅い、勝手仕事やす、空き時間に見とけと言われた会社の読み物や配信動画をロクに見ない、会議遅刻する(会議まで5分あると何か着手してしまう)、定時で上がらない(定時前に切り上げられない)などする。

しかも面倒な仕事を後回しにするので、定時直前に着手したりして、結局1時間2時間残業したりする。

毎日残業してると上司からも指摘が入るんだけど、特に改善策とかもなく。仕事はしてるし。

そもそも8時間勤務がルールでなければ7時間30分とかで退勤打刻して帰りたいんだけど、出勤日数×8時間規定なのは上司でどうにかできることでもないし、残業ダメなら社会的に『1日の勤務時間規定は6時間』『2時間はみなし労働』とかして欲しい。つまり6時間で上がっても給料は8時間分出るっていう。みなし残業が許されるならみなし労働も許されないかな。

その2時間業務に関わる勉強とかしたい。私の中で仕事って人のためにやるものなので、勉強って仕事時間中にやる(できる)ことじゃない。マルチタスクできないこともあって、勉強始めたら依頼も問い合わせも気付かなくなるし。でもプライベート時間仕事のための勉強時間入れるのは嫌だし、結局勉強時間は取れない。

あとはアレ、問い合わせって結局なにもなくても待機はしてないといけないので、その間おしゃべりだのマンガだのが許される社会になって欲しい。

そしたら隙間時間にいらん仕事捏造(例:シュレッダー横に放置されてる書類の所有者特定して「これ忘れ物ですか?シュレッダーする書類ですか?」と聞く仕事。なお特定しにくい場合30人ほど巻き込む。迷惑行為)するようなこともないのに。

2025-03-04

https://anond.hatelabo.jp/20250226115227

ゲーム

やっとちゃんと楽しめるようになってきた

子どもの頃は家が厳しくて、あまりできなかった

大人になってから購入しても、

ゲームなんて無駄なことに時間を使っている」

「この時間があればもっと有意義な学びに時間を使えたんじゃないだろうか」

みたいな強迫観念が強くて、ちゃんと楽しめているのか自分でも分からない感じだった

この何かに追い立てられるような「悪いことをしている感」がやっと抜けてきて、楽しめるようになってきた

人生の先が短くなってきて、「やらねばならない(やるべき)こと」という項目が頭の中で減ってきているのかもしれない

2025-02-25

野生の島のロズ ネタバレ感想

あん話題になってない映画だけどこの辺に感想ぶら下げておくかな

ネタバレだけど大したストーリーじゃないかネタバレ知って見ても問題ないと思う

anond:20250216113212

どう見てもラピュタです。本当にありがとうございました

予告見た瞬間に誰もが思うことであるし、

ラピュタロボット兵だけで映画作りたいというのは

クリエイターなら誰もが一度は思うことかもしれない

なお監督ラピュタを参考にしたと言ってるしパンフでも突っ込まれている。

そして映画を見てしばらくすると

どう見てもズートピアです。本当にありがとうございました

という羽目になる。

 

ロボ映画としてはなんも新しい要素がない

どこかで見たことある要素だけで作られたよくできた映画しかない

ラピュタFLYズートピアベイマックスマダガスカルアイアンジャイアントあたりの要素で大体全て説明可能

メインテーマは「感情のないロボットが心を持ってしまったら・・・?」ていうベタすぎて100万回擦られたネタ

今どきそれ正面からやる?

やるんだよ!最高の技術スタッフ予算を使ってな・・・

 

ドリームワークス映画って慎みがないよね

隙間なくアクションギャグを詰め込まなければ映画が持たないという強迫観念を感じる

アクションを派手にするためなら多少設定や整合性無視してもいいだろっていう雰囲気がある

もっとなんも起こらない緩い間とかあってもいいしそこまで激しいアクションにしなくてもって思う

そのへんはピクサーのほうが慎みがあって好きだな

 

途中までは完璧

中盤まではすごい小さい島のスケールのまま終わっていく雰囲気があってそれはそれでよかった

雁の群れが旅立つシーンはクライマックスとしては最高だった

典型的なロボ泣きとして文句ない出来だったし斜めから見てても泣けた

 

いや文句がないわけじゃないよ

急に出てくるハヤブサとか雁の群れの長老とか

なんでお前らだけ急に親切やねんとか

なんか布石うっとけばいいのに

魅力的なキャラとして描かれてはいからそこは些細な問題だったか

 

そこから一段階ギアを上げてスケールを拡大していくんだけど、

見てるこっちのテンションは下がりっぱなしよ

 

あんま好きじゃないところ

まず雁の群れが嵐に巻き込まれてロズの仲間が働いてる農場に逃げ込んだら

戦闘ロボットが襲ってくる展開、おかしくね!?

鳥を駆除するのに設備破壊してどーすんだよ

外部から生物が入ってくると汚染されるからまずいというなら鳥が入れないような設計にしとけよ

簡単には入れない農場キラリの機転で頑張って入った!みたいな場面を少し挟むだけで解決する問題だと思うんだが

その辺雑なところが所詮ドリームワークスなんだよな

「バトルシーン入れるなら派手な方が良くね?」という精神でどんどん頭悪くなっていくっていう

ボスベイビーとかマダガスカルは頭悪くてもいいから、SFやるならもっと慎みを持てよ

その後の展開もロズ1体を回収するのにどんだけドンパチやってんだって話だし

あれぐらい派手なバトルやるなら、地球未来ぐらいかかってないとダメだろ

 

突然出てきたタコロボット面白いキャラだったけど、やっぱりいい悪役って序盤から

積み上げていかないとさ、突然アクが強いキャラ出てくると薄っぺらく見えるよね

ムスカ大佐を見習ってほしい

 

やっぱラピュタってすげーんだよ

ロボット兵が映画の中のほんの一要素でしかなくて

ほんの少ししか出てこないのに強烈な印象を残す

莫大な金かけてラピュタを真似してラピュタ以下の映画を作ってもなー

やっぱメインキャラの造形が他の映画に似すぎてるってのは、比べられても仕方ないと思う

 

オチ全然納得いかない

自分で回収信号を出して散々な目にあったのにまた懲りずに回収信号出して無事回収されましたとさ、で感動するか?

またあのタコロボットが回収しにきたんじゃねーのか?その辺都合よく誤魔化してないか

ラストで体内のコアを投げ捨てたのに特に影響なかったんか?

完全に動かなくなって朽ち果てていくロズ、でもハートはここにあるよ!で終わる方が泣けたと思うがなぁ

 

あと人間側の描写の薄さね

ロズを開発した会社コールセンターの人ぐらいしか出てこなくて、明らかに人間は描きたくありません!ていう描写なんだけど

単に未来社会を描くのが面倒だったようにしか見えないね。少しの描写であってもそこに批評性を持たせることもできただろうに。

あんなんだったら人間文明は滅んでいたっていう話にした方がよほど面白くなったと思う

まあ原作あるし続編もあるから変えられなかったんかな

 

とはいえ、一緒に観に行った子供達は大満足だったから小さい子にはおすすめ

なお、ラピュタは公開当時大コケだった模様

慎みなんかよりわかりやすくパクって盛った方がヒットするってことだね!

2025-02-18

子供産みたかった

結婚したら当たり前に子供を産むと思っていた。子供を産むってことが結婚することだと思っていた。けれどもそんなことはない。子供ができるための行為がこんなにもない。ないうちに病気になった。二度と産む機会に恵まれない。産まなくていいのか、産まなくて普通に暮らしていいのか、現代モラルコンプライアンスとかガバナンスとか横文字よくわからいからどうでもいいけど、子供を産みたかったという本能は生き物として真っ当なのか、もう感情がぐちゃぐちゃしすぎて、たくさん子供をいる人たち尊敬するし世間に産まなくてごめんねって思う。産まなくちゃいけないって強迫観念自分の体から失くしたい。

2025-02-17

anond:20250211233656

甥に対して義弟が厳しくないんなら、育てられ方は関係ないのかな(兄にだけ厳しかったなら更に闇深なんだけど)

ちゃんと育てないと!という強迫観念もありそう

ここは母親としては諦観せずになんとかしてほしいな…

2025-02-15

anond:20250213205218

スピリチュアル自体否定せんよ

人生で一回もおみくじいたことない、テレビとかの占いの結果見て微塵もテンション動かんわ、みたいな人間ほぼおらんやろうし

せやけど、それにのめり込んで他者にも強制する強迫観念じみた姿勢は嫌いやなー

あと似非科学とか反ワクチン自然派(笑)とか宗教とか、普通に危険パターンあるから怖い

自己責任勝手に自滅すんのはエエけど巻き込むなこっち来んな、って話

2025-02-11

マッチングアプリやったら死にたくなった

長くなるので先に伝えたいことを要約します。

・低スペ低年収男性マッチングアプリ空気。誰からも見向きもされない

若いうちから人生絶望して全てを諦めてると、その絶望が残りの人生数十年ずっと続くから若いうちは選択肢やすつもりで恋愛含めて何事も頑張った方がいい。そうでないと20代半ばですら絶望する。

・もしマッチングアプリやるなら冷笑とかしてないでとにかく若いうちからやれ。多分学生のうちにやった方がいい。いい年して初めても可能性は薄い。

以上

以下、蛇足愚痴:

年収400万円程度、26歳で彼女いない歴=年齢、専門卒、身長170cm未満、友達2人だけ、顔はブサメン寄り、体重78kg、片親で母親高齢&軽い統合失調症持ち&体調崩しがちだから実家暮らし(多分、車で1時間圏内なら引っ越せる)。

(「実は自分はマシな方だと思ってそう笑」「全然やり直し効くって言ってもらいんでしょ?死ねカスが」とか言ってください。)

マッチングアプリ登録してるような女性から見たらゴミカスのようなスペックだし、「同じ条件やそれ以下の条件でも結婚してる人いるしお前の努力不足」とか言われるのも分かってる。

から家庭環境終わってて人生苦労しかなかったから俺が負の遺伝子を断ち切るつもりで、学生時代は異性との関わりを断ち、成人してから現実人間恋愛感情とか向けること自体が悪い事だと思って二次元萌えキャラキモオタをずっとやってた。

でも、26歳になって、転職してやっと給料が400万くらいになったら欲が出てきたのか、「二十代のうちに結婚して子を残さなきゃ」という強迫観念に駆られるようになった。

もう反出生主義とか、負の遺伝子とか、親の世話とか、親の面倒とか、親の老後の資金集めとか、そんなもの自分人生食われてそのまま死ぬなんて嫌になって、普通幸せを手に入れたくなった。

それで普段生活だと出会いが発生する場がないからいろんなマッチングアプリを始めてみた。

でも今まで異性に好いてもらうための努力をしてきておらず、年収も高くない自分は、案の定マッチングアプリでも誰の相手にもされない。

いろんなアプリの有料会員になったけど、ほとんどマッチングせず、マッチしてもほとんどメッセージが返ってこない。

どのアプリ顔面偏差値が高い&旅行好き&ディズニー好き&ライブ好きの高スペ女性ばかり。そういう人はもちろんいいねを送っても反応なし。50人に1人くらい、自分と同等かそれ以下のスペック女性いるから、そういう人にいいねを送っても反応なし。そういう方だって高スペ男性狙ってるから当たり前なんだと思う。

プロフィール写真自己紹介文章ネットを参考にいろいろ工夫はしてみても、スペックが上がるわけでもないので効果なし。

前職のストレスで2年で20kg増えたから今は太ってるのでそこも悪いんだと思う。

小さい頃から人生絶望してて金もなくて今も親の老後資金稼ぎマシーンしてる自分には何も積み重ねがないし何も残ってないか人生経験も薄い。

試しに別スマホから捨て垢作って年収1000万円で登録してみたら何個もいいねが来た。

さらに試しに性別女性アカウント作ってみたらクソ適当プロフィールでも何個もいいねが来た。

結局、低年収で低身長イケメンでもない奴がマッチングアプリやったところで意味ない。

そもそもマッチングアプリ結婚までたどり着くのは、マッチングアプリ使わなくても余裕な高スペ人間だけ。(アプリ越しでも相手人間なので当たり前)

良い家庭環境で生まれたやつが良い学習環境を手に入れるし、小さい頃から良い学習環境ちゃん勉強してきたやつが良い学歴を手に入れるし、良い学歴手に入れたやつが高年収になるし、高年収になったやつが良い結婚相手を見つけて幸せな家庭を築く。

学歴なくたって結婚して幸せな人たちは、学生時代から真面目に恋愛に取り組んできたからその結果だし、人との関わり方もうまいし、交友関係も広い。

お前が家庭持ったところで悪い結果が待ってるだけだろとか言われると思うし、努力不足高望みしすぎとか自業自得とか死ねカスボケコラとか言われるのも承知してるけど、

マッチングアプリやってると自分が無価値人間であることをより自覚してしまって本当に辛い。

やってなくても歳とれば取るほど結婚できる可能性が低くなっていくのが辛い。

結局、普通幸せを諦めるのが最適解なんだろうけど、長年抑圧してたのが溢れてきてしまっている今が1番辛い。

現実でも誰からも見向きもされず、SNSでも誰からも見向きもされず、マッチングアプリでも誰からも見向きもされない。

誰か自分を見て欲しい、視線が欲しい、関心を持たれたい、好意を持たれたい。

そんな人が自分以外にもたくさんいるはずだし、そんな人達と肩寄せ合って生きていきたいだけなのにその人達自分からは見えないところにいて、同じように孤独感で気が狂いそうになっているんだと思う。

ただ、そういう人と自分が会ったとして、どうなるかというと「なんやこいつキモいな…」ってお互いに感じてまた独りに戻るんだと思う。

ネットで人と関わるのが容易な今の時代に、ネットですらずっと独りでいる人って、人と関わるチャンスがないんじゃなくて、人と関わるチャンスから逃げていたり、人と関わる苦痛から逃げている人だと思うから自分から人に関わらない受動的な人って自らチャンスをドブに捨ててる人でしかない。

もしくは価値がない人間のくせにプライド邪魔して動けない人。勿論これも自分の事。

家庭環境が悪かろうが幸せになってるやつなんて沢山いるし、家庭環境のせいにしてる時点でダメ人間だ。

この文章だってそう、何を伝えたいのかまるでわからない自分勝手な文章カス人間性が浮かび上がっている。

人生うまくいっているやつは文章を書くのも上手いし字も綺麗だし絵も上手いし歌も上手いし仕事も上手い。

それに対して自分は全部下手。

そして耳が悪い、頭が悪い滑舌が悪い、性格が悪い。人見知り、オドオドしてる、弱々しい。

苦しい苦しい苦しい苦しい。

職場でも馴染めない。

からも好かれていない。

俺はそんなに良くない存在か?そんなに存在価値がないか

俺の頑張りは無意味で無価値不要存在という事なのはわかる。

だったら早く死ねばいいよね、わかる。

俺はこんなにいろいろ感情を暴れさせているのに誰にも何も言われない。社会に俺は存在しない。

誰か慰めてくれ、誰か貶してくれ。誰か俺を殺してくれ。

人生経験:

父親貯金数百万を溶かした挙句借金を残して消えた。障害者の兄が俺の命を狙っている。家を燃やされたことがある。統合失調症の隣人から10年間嫌がらせを受けた。母親貯金ゼロ年金ほとんど貰えないか自分が老後の資金集めてる。

わははは。全部受動的で、何一つ自分で挑んで自分で乗り越えたことがないね〜笑。

人生への絶望を紛らわす為に、某アニメキャラオタク10年間やっていて、つい先日までは幸せだったけど、そのキャラクターに注いだ愛は虚無に消えていって、俺がいくら苦しんでも微塵も返ってくることはないという事実を完全に理解してしまってから生きている気がしない。

普通幸せになりたい人生でした。

2025-02-10

ポケモンスリープ寝返りとかで睡眠タイプが計測されて翌朝のリサーチはそれに応じたポケモンしか出てこないから続けてるうちに同じポケモンしか出てこなくなってモチベ下がるし、またうとうとになる…寝返りしちゃダメだ…みたいな強迫観念でよく眠れなくなった

スマホバッテリーは消耗するし、動作がやけにもっさりしてるし、朝の忙しい時間を費やすほどの楽しさがなかった

この間やめたら不眠は治った

2025-02-03

性上納の話

本当のことなのか、嘘なのか、大筋は本当だけど記憶違いや印象論とごちゃ混ぜになって事実と言えない脚色が多く含まれているのか、単に錯乱しているだけなのか

それは警察とか裁判所とかの、然るべき機関によって明らかにしてもらうなりしてほしい

それはそれとしてこの「性上納被害にあった」という流れはそれ自体がある種の同調圧力を生み出しはじめている気がする

被害に遭った側が「お前も被害に遭ったのだろう、言えよ」という圧力を、加害者とされる側の人間社会的に×さなければならないとでも言うほどの強迫観念に駆られてかはわからないが、週刊誌メディアを通して発信しているような、そんな気がしている

あとこの手の問題について単に某元アイドル「だけ」が悪い、某テレビ局「だけ」が悪い、某取締役「だけ」が悪い、某PなりD「だけ」が悪いと、正義vs悪の構図に落とし込めたがる人が多いけど、本当にその「悪人」さえ社会的に×せば全部解決すると思ってるのだろうか

というか「性上納」って言葉が出てくるくらいだから「上納」するに相応しい方向の人とか関わってたりしない?ある種の慣例として成り立ってなきゃここまで隠されてきた理由にならないと思うけど

いや某芸能事務所の人じゃなくて、もっと国の舵取りをするような人とかさ、くらいは陰謀論を展開するのがインターネットだったと思ってたが……

2025-02-02

理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る⑤

【前】anond:20250202181229

以下、池澤夏樹文学全集には出ていないが、重要な物や自分が読んだものについて書く。

蜻蛉日記

川村裕子訳注で読んだ。著者は藤原道綱母で、夫である藤原兼家に対して激しい執着が描かれている。当時の僕は報われない愛情を扱ったフィクションにどっぷりとハマっていたので、かなり共感的に読んだ。男性が通ってくるのを待たされる側だった女性立場が見えて、あちこちに通う相手がいる光源氏に対しては「お前、お前お前お前!」以外の感想しか出てこなくなる。というか、藤原兼家みたいに、手紙LINEはそこそこまめなくせに、会いに来ない言い訳もやたら細やかで、会ったときも会ったときで真面目な話をせずこちらをからかうばかりという男性結構いるよな。モテる奴ってこんなのばっかってイメージがある(偏見)。

こういう時に面白いのは別の人の感想で、田辺聖子は先に書いた百人一首の本で、道綱母は夫を愛しているくせに、何をされても怒るかわいげのない女なのだと言っている。確かにせっかく通って来たのに寒空の下待たせちゃうんだけれど、つれない人に対してはそれくらいしてやりたくならないか

田辺聖子と考えが違って面白かったのは、「儒教道徳は男女の色気のあるやり取りも批判して世の中をつまらなくする」って発言だ。「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」の解説で述べていたことだ。コンプライアスに厳しい時代の子である自分としては首をかしげるが、彼女にそういわせたのは、おそらく彼女青春と重なった第二次世界大戦空気だろう。

後半は道綱のなかなかうまくいかない恋路が出てくる。

余談だが、平安時代著名人は大抵何らかの親戚関係がある。だから因縁話は大抵どこかとつながっているし、それなら言い出せない思いが積もり積もって怨霊生霊の類が出てもおかしくない気持ちになってくる。

話を戻すと、どうしてモテたり権力を持った人ってどんどん嫌な奴になっていくのだろう。これは推測だが、人間が何か行動をしたとき、多少なりとも権力、少なくとも力を行使するのが理由だろう。力を行使して何かがうまく行くのは喜ばしいが、そのたびに堕落ポイントが蓄積される気がする。つまり政治家であれ社会活動家であれ、世の中を良くしたという実感が少しずつ慢心に繋がっていく。かつては理想燃えて清廉に悪を糾弾していた人が、どんどん人の話を聞かない・フィードバックを受け付けない傲慢な人になっていく。まっとうな批判を受けても、自分が正しいから叩かれるのだと思い込んでいく。そうやって晩節を汚していく。具体例がたくさん浮かぶと思う。

なので、自分が一番偉いわけじゃない、権力も何もなくて謙虚にならざるを得ないコミュニティ所属しないと、どんどんダメになっていくのではあるまいか趣味も含めたコミュニティがたくさんないとおかしくなる。

これは以前、どこかにいたこである

人の話を聞かないことをテーマにしているのがカズオ・イシグロで、読むたびに嫌な気持ちになる。これは褒め言葉である

和泉式部日記

元カレの弟(帥宮敦道親王からアプローチされて、「手枕の袖」というフレーズ和歌を交換してイチャイチャして、遂に宮廷に迎えられるんだけど、巻末に帥宮挽歌群を持ってくるこの構成よ。悲しい。近藤みゆき訳注

注釈者の解釈の精度と深さがすごいので、やっぱり自分文学研究することなど到底できまいと思わされた。どの節で和泉式部感情がどう深まったかなどといった、字面を追ってしか読めない自分にはとても気づかないポイントが多数ある。所詮自分は楽しむことが主である素人である生活の種には到底できまい。

まりにも気に入ったため、メモをした和歌が膨大である。いつか深い悲しみに沈んだときに読み返したら、喪失の痛みにグサグサに刺されながらも慰められるだろう。和歌集は読んでいて面白いのだろうが、短い解説文で背景が説明されているよりも、こういう物語の中に和歌が含まれているほうが、著者と長く付き合ってきた分だけ、心に来るものがある。古典は知を刺激する部分と情緒を刺激する部分があるが、これはかなり後者に寄っている。

やはり文学が好きだが、近頃はあまり読みたいとは思わないのである。久しぶりに三島由紀夫を手に取ってパラパラとめくっていたら、感情を揺さぶられて過ぎてしんどくなってきた。これは好きすぎで苦しいということなのかもわからない。好きすぎて近づけないとこじらせ文学オタクになってしまっているのか。三島由紀夫のことは、近頃は文章が人工的過ぎると思って遠ざけていたのだが、やっぱりこの人、マッチョな肉体の中の繊細な精神がいつもピリピリしているよ。好きだけれど、読み返したくない。でも、生きているうちに「豊饒の海」を読みたい。

ところで、僕はどうも女性の手による日記文学が好きらしい。ドナルド・キーン日本人日記好きを注目すべき事項だとしていたが、僕もその例に漏れない。日記を読み返すのは自己愛だが、いがらしみきおぼのぼの人生相談で「世界で一番面白い本は自分日記」という趣旨のことを言っている。実際、何が自分に刺さったかを振り返ると、将来傷ついたときにどこに戻ればいいのかが見えてくる。

思うのだが、本を読む男性文学少女に憧れるのにも、自己愛という側面がある。もちろん、同じ趣味を持っている人に親しみを持つのは当たり前だけれども、陽キャのような押しつけがましさがないと勝手に期待してしまうのだ。そういう風に、実際に相手がどんな人かを見ようともせずに、活字が好きだという相手属性ばかり見ている。挙句の果てにそんな相手と深い理解に達し、イチャイチャしまくることに憧れる。そういう人間の恋がうまくいかないのは、今になって振り返ってみれば、残念ながら当然であろう(それでもうまくいく恋愛があるという指摘は無視する。認めないぞ、そんなものは)。だから、本は読むけれど優しくないタイプ女性片想いをして、勝手に傷ついてきたことが何度もある。以下、自分片想い歴や、彼女たちからされた非常に失礼な仕打ちを延々と書いたが、阿呆らしいのですべて削除した。客観的に見れば、当時の僕も結構痛い奴だったんだろう。わかっているが、恨みの気持ちゼロにはならない。

やれやれ。こうしたひがみっぽい、すべて主語が「自分」になっている感覚をすべて卒業してしまいたい。こういうわかったような口のきき方も気に食わない。だからこうして、匿名しか書けないような感情をあえて言語化し、脳内から叩き出す。こんな青臭い感情を二度と思い出さなくてもいいように、放流してしまう。

INTERMISSION⑤

困ったことに、他人批判的なことを書いている時にはやたらと楽しかった。悪口依存性のある娯楽だとよくわかる。なので、この悪癖にハマらないよう、かなりの部分を削った。リクエストがあったら出すかもしれないが、原則としてお蔵入りにするつもりだ。そう、恨みつらみなんていくらでも反芻できる。やめよう、やめよう。

実際、これでもまだ意地悪な記述が多い文章だ。すっきりするけれど、かっこ悪いのでそうそう頻繁にやるべきことじゃない。

かに、見苦しい愚痴をこうして捨ててしまうのが増田の使い方の一つではあるのはわかる。すべて吐き出せば身軽になれる。だから、こうして好きなことと嫌いなことをないまぜにした混乱した文章を書いてしまった。ひがみも怒りもドロドロした感情も、一度文章にすれば冷静になって振り返れる。

なんてみっともない文章だろうと思うのだけれど、書いていてこれは私小説の真似事なのだとわかった。かつて書いていた小説は、過去を変形して書き直し、つらい出来事に直接向き合わないようにするための緩衝材にしていた。あるいは、こういう恋がしたいという、ただの感傷マゾだった。だが、ここで過去を直接吐き出してしまえば、自分感情と筆をコントロールできるようになり、新しく真っ当な小説が書けるのではないか。そんな夢想に浸りたくなる。

実際、今は過去出来事よりも、今は自分の中の荒々しい本能暴力衝動をどう扱うかに関心が移りつつある。あるいは、欲望や執着についてだ。読みたい本もこういうテーマの物に近づいている。混乱していた十代と二十代から、三十代を終えそうになって、好みが変化しているのが明白だ。今こそ、良いものが書けるときではないか

最終選考電話がかかってきたのに、そして編集者と話ができたのに、結局は小説家として芽が出なかった悔しさは、ときどき自分をこんな夢想の中に閉じ込める。だから、発作的にこういう長文を書きたくなる。

だが、若い頃は創作によって自分感情を整理できたのは確かだけれど、ある時点で、僕はこのまま創作を続けてもどこにもたどり着けないのではないかという疑いにさいなまれるようになった。それよりは、虚構で変形されない事実直視したほうがいい。事実日記に断片的に書くことでさえ、ひがみ根性を薄れさせてくれる。小説に限らず、何かを言語化して分析するって本当に救済なんだ。

今後読みたいもの

結構読んできたな」と思いながらも、まだまだ読んでいない作品もかなり多い。大学時代から少ない年でも年に一冊か二冊くらいのペースで古文を読んできたので、そのペースなら生きているうちにもうちょっと読めるだろう。直近で気になっているのは(「カンタベリー物語」のように海外文学は別として)、池澤夏樹リストにあったもの神話物語歴史書それから江戸時代物語だ。

まず、他のところでも述べた通り、「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」がある。特に日本霊異記」はKADOKAWA現代語訳を出している。それから神話物語でいえば「風土記」がある。これも角川ソフィア文庫で出ているので読みたい。

歴史ものでは「大鏡」「栄華物語」がある。それから吾妻鏡」も気になっている。この並びから大河ドラマを想起するだろうが、あまり関係はない。とはいえ自分は「ニンジャスレイヤー」が流行っているときにもまず「ニューロマンサー」に手を伸ばすような人間なのである。ただし、めっちゃ長い。

あとは「東海道中膝栗毛」。パラパラとめくったら、原文でもギリギリ読めそうな、しかし読むのには時間がかかりそうな、近い時代であるが故の厄介な文体であった。そう、なんでもいいので月に十冊は必ず読むという漠然とした目標など放棄して、精読したほうが良い読書ライフが送れるのだが、手を出すかどうか迷ってしまう。というか、これも含めて、原文で読むか現代語訳で読むかは迷う。なるべく原文に当たりたいのだが、池澤夏樹日本文学全集現代語訳が訳者個性も含めて面白かったのと、意地を張って原文にこだわって、中身を浅くしか読めなかったら嫌なのとで、迷っているのである

好色一代男」「春色梅児誉美」もそのうち。寛大な気分のときになら、色男の生涯につきあってやっても良い。他の近松門左衛門とかも。

あとは、時間をかけて和歌を楽しむ。「万葉集」とか「新々百人一首」とか。

あとは、「御伽草子」とか。「青砥稿花紅彩画」とか。

まとめ

読書ログをたどりなおすと、自分がその時に何を感じていたのかを想起できる。読んだときの喜びも、読んだ当時感じていた閉塞感も、どちらも生々しく想起してしまった。だから卒業したはずの怨念に対して、こんなに愚痴ってしまっている。

同時に、自分感受性ゆっくり時間をかけて変化してきたのもよくわかった。一つの強迫観念に凝り固まっている時には、何を読んでも同じ感想を持ってしまうのだろうけれど、十年かけていろんな本を読んでいくと、自分に起きた変化が見えてくる。これから古典を読み続けるだろうし、さらに十年経ったらどんな感想を持つかが楽しみだ。

そして、自分にどんな変化が起きたか、いつかこれらの本を読み返して、確かめてみたい。

かに、かつて読んだときほど心惹かれなくなってしまうことも多いだろう。現にあらすじを振り返っただけで、「なんでそんなにハマったんだ?」と感じるものあった。これは寂しいことだが、既に興味を失った作品があるということは、自分が変化したこと意味する。むしろ、生きていくにつれて成長していくのなら、興味がなくなる物が出てくるのが当然だ。この寂しさは歓迎すべきものだ。実際に、ある作品に心惹かれていた理由が、既に卒業してしまった不安だとしたら、当の作品が色あせて見えてしまうのも無理はない。個人的な収穫は、叶わぬ恋の歌だけでなく、生きているが故の寂しさを歌った歌に好みが移り変わってきたとわかったことだ。

叶わない片想いをするだけが人生ではない。ただ生きていること、目の前の相手に耳を傾けて敬意を払うこと、それが文学以上に自分幸せにしてくれる。

そして、僕を大切にしてくれる人のことだけを考えて暮らしていきたいのである。これは創作よりも遥かに尊く、最も創造的なことだ。

以上。

理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る④

【前】anond:20250202175752

11:好色一代男 島田雅彦 訳[新訳] 雨月物語 円城塔 訳[新訳] 通言総籬 いとうせいこう 訳[新訳] 春色梅児誉美 島本理生 訳[新訳]

この中では雨月物語しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。

村上春樹海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタお化け屋敷的なジャンプケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ

これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話説教臭い割に好きだ。

ところで、東京創元社編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化け妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。

ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。

菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。

ところで小泉八雲朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないかなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたかなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。

というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。

12:松尾芭蕉 おくのほそ道 松浦寿輝 選・訳[新訳]与謝蕪村 辻原登 選[新釈] 小林一茶 長谷川櫂 選[新釈] とくとく歌仙 丸谷才一 他

これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズクラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。

そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界圧縮できるかだ。しかしながら、短歌枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。

短歌与謝野晶子俵万智穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。

俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的ものが好きらしい。

俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。

こうしてみればわかると思うが、平安時代文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。

古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。

ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダル裏切られるかわからいからだ。それこそ明治文豪クズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴イケメン歌手実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。

やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップマインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。

   古典

 古典の作者の幸福なる所以兎に角彼等の死んでいることである

   又

 我我の――或は諸君幸福なる所以兎に角彼等の死んでいることである

侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。

とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間身分上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。

こういうことを考えている時は大抵は体調不良ときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこから入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。

さて、池澤夏樹全集では、これ以降の巻では明治作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。

ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキー中島敦ポーラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。

なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。

INTERMISSION④

さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品自分に刺さるかを整理すると、知識豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情論理的言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥共喰い」とか、時代は下るが西村賢太苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。

芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初から意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹作品結構な頻度で、的外れ批判をしてくる劇団員女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香コンビニ人間」については前回のエントリ名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。

理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分属性性格が近い人の文章面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのとき自分に刺さって面白いのと、今の社会必要としているのとは、まったく違うので、話題小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。

脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品しかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編からしか得られない栄養素があるのと同じだ。

なお、僕は大体漫画を買うとき短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン出身漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。

というか、みんなあれだけ長編少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。

なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代経験相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエファイナルファンタジーなどの多くの作品プレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。

とはいえ少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである

こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親見出しいるからだ」とか、古い時代フェミニストの「私に反論するとしたら、あなた女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。

自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチ自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。

意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。

2025-01-28

買えもしない量の漫画を気になったからといってやみくもに試し読みする癖がある。

よってあるときふと記憶残滓みたいな形で脳裏漠然とした像が浮かんで「これなんて漫画だっけ」ってもやもやすることが多い。

そういう漫画毎日いくつもあって、調べる時間が出来るまでの間ずっと頭の中で調べるつもりの漫画の像を反復している。

反復するのは、そういうのを忘れたとき今度は「何調べようとしてたっけ」というもやもや理由が変わるだけで、もやもやの量が減りはしないどころか余計厄介なことになってしまうから

結局ほとんど四六時中何調べるかを考えている。

これはおそらく単なる強迫観念だと思う。外出前にコンロの消し忘れを何十回も確認しないと気が済まないような態度の対象が、私の場合たまたま漫画になってしまってたというだけの話だと思う。

たまたまと言ったのは、これは漫画がそれだけの熱量で好きだから執着しているというのでなく、偶然によるこのような形での強迫観念形成が先にあるだけだからだろうと考えているからだ。

それだけ漫画が好きなのだという気持ちもないではないが、理性的に考える限りそれは錯覚なのだろうと思っている。

世の中で騒がれている推し活に身を投じている人は一見推し思考支配されていそうだが、その実多少はオンオフの切り替えができていると思われる。

しかし私は仕事のような集中しなければいけないときだろうがなんだろうが記憶の反復作業で上の空で、そのくせオタクと呼ばれる人ほど自分の関心事への造詣が深いわけでもない。

それは結局、思い出したいタイトルとか表面的な知識確認するだけで与えられた時間を使い切ってしまうのが常で、内容面を深く知るところまで着手できないからだ。

ほんと、有能な仕事人間から見ても、オタク的なことに全振りしてる人から見ても、なんだこの一見支配されているほどサブカルにのめり込んでいるように見えるのに中身はただのポンコツな生き物は、って見られるような存在からため息が出るよ。

なりゆき全く漫画に無関心な人よりは詳しい場合もあるだろうがそれはただの強迫観念副産物であって、「魚にくわしいさかなくん」みたいなようには到底アイデンティティになるようなものじゃないんだよなあと。

一言言うなら漫画含めあらゆる業界にはアテンションエコノミーとか情報量に物を言わせて判断能力錯乱させるみたいな手法を使うのはやめてほしい。

まりコンテンツ過多で一個人デジタルデトックス等でどうにかすべき規模の問題ではなくなっていると思う。

2025-01-22

筆者は男だけど=女はなぜ成立するか

男は男がインターネット過半数だと思っているので、筆者が男だということは周知の事実だとして、わざわざ自分性別を書かないんだよね。

逆に女は、自分が女だと明示しないと信じてもらえない。だから性別カミングアウトしないと信じてもらいないという強迫観念がある。

からもう筆者男だけどの時点でダウトなんだよ。

イタコ論法がどうとか、お気持ち表明だけで何か言ったような雰囲気を出しているとか以前に、性別カミングアウトという所作がこのうえなく女らしいんだよな。

本当に男を騙りたいんだったら、性別カミングアウトなしに女に対してマンさん呼びを徹底すれば、少なくとも増田においては成立する。そこまで書けば誰も元増田が女だと思わないだろう。

まぁ、男騙りをする理由の大半は女の擁護目的から騙り目的としてもマンさん呼びをしてしまっては本末転倒なのかもしれんが……

anond:20250122191802

2025-01-18

以前付き合っていた人を忘れられない

アラサー女、恋愛経験はその人のみ。

その人とはマッチングアプリ出会った、わたしにはもったいないぐらいの人だった。今思えば。

から恋愛感情というものを抱いたことがなくて、付き合ったのも何度か会って不快感がなかったからという単純な理由恋愛感情での好きという気持ちも、好きな人という感覚も正直今に至るまで理解していない。

加えてわたしセックスに1ミリも興味がなかった。恋愛感情も乏しいし、その人とセックスしたいという感情もない。相手がどうだったかはわからないけど、少なくともわたしはそういうことがしたいとは思ってなかった。キスなんて想像するだけで汚いな、おぞましいなって思う(潔癖の気もある)

別れたのはわたしが体を壊してしまたことが理由だが、その引き金になったのは付き合っていた時のストレスだったと思う。

わたし視点からすると相手に半ば強引なところがあった。わたしの予定をなにも聞かずに予定を入れる、予約する、段取りを決める。こっちの都合もあるんだから相談してほしかったのに、全て向こうがリードして決めたがっていたように思える。

わたしもそこで指摘すればよかったんだけど、何せ初めて付き合ったひとだったからどうすればいいかからなかったってのもある。泊まりの予定をこちらの都合も聞かずに入れられた時は本当に冷や汗をかいた。付き合ってる人たちが泊まってやることなんてわかりきってる。だけどそれを想像するだけで怖い。結局やんわりと断ることしかできなかった。向こうからしてみたらせっかく考えて提案したことを断られてフラストレーションが溜まっていただろうなあって思う。ごめんね、本当に。

そこから次第に誘われるたびには最終的にはセックスしなければならないという強迫観念に駆られるようになって、夜まで遊ぶ予定を避けるようになってしまった。これも相手からしてみたら本当にイラついたと思う。今思えば相談すればよかったのに相談できずに、結局ストレスから体を壊してその人とはお別れすることになった。

こちから別れを告げた時に「別れたくない、話し合いたい」と言ってくれた彼の提案を一蹴したのはわたしだ。もう自分のことでいっぱいいっぱいで、なにも考えられなくて、突っぱねてしまった。今思えばそこできちんと話し合えばよかったのにってとてつもなく後悔している。

そこから日が経って体調も良くなり、あの頃のことを懐かしく思うようになった。後にも先にも付き合ったのは彼ひとりで、彼が自分との未来を考えてくれていたことが今になって思い出される。あの時きちんと話し合いをしていたら、別れずに済んだのだろうか。いまも付き合っていたのだろうか、はたまた結婚していたのだろうか。それとも性の不一致、性格の不一致から別れる道を選んでいたんだろうか。

今でも、彼に連絡してしまう。もう一回話したい、もう一回会いたいと。既読はつくけど、返信は来ない。また話したいって、今さら思ってしまうんだよなあ。

もし、もしこれを見ていたら返信だけでもしてほしい。わたしがどう思ったのかは前にも伝えたから、それについてどう思ったのか教えてほしい。もう一度話したい。

2025-01-08

ディズニーランド入園ゲートを潜るとき

ディズニーランド入園ゲートを潜るとき、人は皆、一瞬だけ子供に戻る。夢と魔法王国という言葉が、これほど残酷に響くことはない。なぜなら、私たちは帰り道には必ず大人に戻らなければならないことを知っているからだ。

シンデレラ城の前で写真を撮る家族連れを見ていると、どこか切なさを覚える。父親スマートフォンを構え、母親は小さな娘のポーズを直している。娘は無邪気に笑っているが、両親の表情にはどこか焦りが見える。完璧な一枚を撮ろうとする強迫観念に似た何か。SNS時代私たちは思い出すら演出しなければならなくなった。

アトラクションの待ち時間は、人生のものだ。目的地にたどり着くまでの退屈な時間を、私たちスマートフォン雑談で紛らわす。待つことが苦手な現代人は、ファストパスプライオリティパスという抜け道を探す。でも、待つことにも意味があるのかもしれない。隣に並ぶ見知らぬ人との何気ない会話、恋人との内密時間、友人との他愛もない冗談人生本質は、むしろこういった「待ち時間」の中にある。

夜のパレードは、人生の縮図だ。光り輝くフロートが通り過ぎるとき、観客は歓声を上げる。でも、その輝きは一瞬で通り過ぎ、後には暗闇が残る。次のフロートを待つ間、人々は携帯の画面で撮った映像確認している。実際に目にした光景より、画面の中の記録に執着する。まるで、今この瞬間より、思い出の方が大切だとでも言うように。

園内で働くキャストたちは、完璧笑顔を絶やさない。彼らの仕事は、夢を売ることだ。でも、その裏には厳しい研修規律がある。人生もまた然り。表舞台の輝きの影には、必ず見えない苦労が隠れている。それでも彼らは笑顔を見せ続ける。それが仕事から?違う。誰かの人生に、小さな魔法をかけることができるから

閉園時間が近づくと、人々は急いで最後の買い物を済ませる。高価なぬいぐるみや、すぐに食べ切ってしまお菓子。何を買っても、園の外に出れば、ただの商品に過ぎない。でも不思議と、その時の高揚感は本物だ。私たちは知っている。この非日常空間が、明日には思い出に変わることを。それでも、あるいはそれだからこそ、最後の一瞬まで夢を見ていたいと願う。

ディズニーランドは、嘘とも本当ともつかない空間だ。造り物の城と、作られた笑顔。でも、そこで感じる感動は確かに本物。人生もまた、そういうものなのかもしれない。真実虚構が混ざり合い、それでも確かな何かを残していく。帰りのゲートをくぐるとき大人たちは小さなため息をつく。明日からまた、現実が始まる。でも、ポケットの中の使い切ったチケットは、確かにそこにあった魔法の証として、しばらくの間、財布の中に残されることだろう。

2025-01-07

ていうか去年の都知事選で大きく票を伸ばした石丸伸二って、前広島県安芸高田市長って事は、官製婚活をやめてリベラルからちやほやされていた人じゃん

あの時こいつを持ち上げていた人達って、都知事選の時にこの事を指摘したか

この事実だけでも官製婚活反対派はリベラルに見せ掛けた新自由主義者であり、美名の下に弱者を踏みにじる自己責任論者だと分かりそうなものだが。

こいつをちやほやした過去反省した人はいたのか?

都知事選石丸現象とは何か 「脊髄反射的」なメディア報道リスク

https://www.asahi.com/sp/articles/ASS7Q3DBCS7QULLI002M.html

特に広島県安芸高田市長石丸伸二氏は、都知事選後もメディアに出続け、同時にそのあり方について批判の矢面に立たされ続けている。

結婚強迫観念なくす」安芸高田市長が考える少子化対策https://mainichi.jp/articles/20230106/k00/00m/040/261000c

少子化対策目的の「官製婚活」はなぜ終わったのか。20年に就任した元銀行員石丸伸二市長(40)は「結婚しないといけない、子どもを持たないといけないという強迫観念をなくしたい」と言う

anond:20250107094952

イベントではない=時間制限がないんだから別にいつ手を付けてもいいんだよ

追いつくとか、追いつかなきゃダメみたいな強迫観念を捨てたらいいだけだと思う

そりゃ考察者として先端を走りたいとか全キャラ背景を知ってる状態でメインシナリオやイベ会話を聞きたいとかならコンテンツ制覇率は大事かもしれんが

ソシャゲみたいに全コンテンツ最新に追いついてなきゃランキング競争で不利みたいなことはないわけだし妥協余地はあるだろう

そういう意味では自己管理に委ねられてて各々のペースで消化計画を立てられるゲーマーになってくださいという圧はあるかもしれんな

2025-01-03

本当に何もできない人間で、追い込まれても何もしなくなってしまった。youtubeを見てるけど何もおもしろくないし、どちらかというと苦痛だ。ネトフリを契約しているのに観ることができない(謎の強迫観念?でネトフリのホームフィード以外は見ないように自身が動いてしまう…なぜ?)。

で思ったのが、手を動かしたときに「やるか(Lv1)」という気持ちは起こる。ボクサーのジャブのようにどちらが先ということもなく、ほぼ同時だ。これはもう技なんだな。タスクに対してジャブを打つのって。

おそらく、作業してくと「やるか(Lv2)」になってく。そうなるとタスク完了後に次のタスクに着手できる。

そんでもってジャブを打つための起点になるのが「スケジュール」だ。そいつにケツを叩いてもらって敵を見定めジャブを打つ。

からその「スケジュール」にケツを叩かれても何もできなくなってんだっつーの!田中OUT

シンプル失業しました。助けてクレメンスアラビアのロレンス

2024-12-29

嫌いなゲームを遊ぶモチベーションがわからない

エルデンリングっていう日本ではあんまり有名じゃない会社が作ってるゲームがあるんだけど、そのゲームプレイヤー、なんかどいつもコイツ過去作が面白かっただの、敵だけ楽しそうだの、会社がクソだみたいな話をずっとしてんのな

じゃあやめればいいじゃん、なんで遊ぶ上に嫌いな会社に金落とすのよ

最後までやらないといけない!エンディングが見たい!とかでも、今って普通に実況とか、なんなら声無しのプレイ動画とかがいくらでも出てくるし、タダで見れるじゃん

嫌いだしやりたくないけど最後まで自分でやらなきゃ、って思ってるんだったらそれは病気じゃん、強迫観念じゃん

なんなの?アレ

2024-12-22

好きな相手がいれば結婚したくなるのかもしれないけど

相手がいるわけでもないのに結婚したいというのは理解できない

結婚になにを夢見ているんだろうか

義務感・強迫観念結婚しなくてはならないと考えている人が結婚したいと言うのは理解できる

2024-12-14

anond:20241214085320

同じでいいんじゃね。

あと強迫観念が食べて満たされてやっと安心出来てる表情を見て「このキャラは美味しそうに食べる」って言う連中のことも正気かよって思ってる。

2024-12-08

23歳男オタクvs結婚強迫

結論

結婚ができる気がしない」一方で、「結婚し」なければならないという強迫観念がある。

なるほど「気の合う人間生計を共にすることによって得られる利益享受(共有)」するのは幸せことなのだろう。少なくとも周囲の大人たちはその信念を奉じて生きてきたようであって、同時に、幸せな家庭人生活を送っているようにも見える。

一方で、私は「結婚ができる気がしない」。先述の通り「結婚し」なければならない、という観念があって、かつ、「気の合う人間生計を共にすること」に対し何らの疑念を持たないにもかかわらず、である。私は夫としても、あるいは父としても、その適格性を著しく欠くように思われる。

どうしてこの結論になったのか、振り返ってみる。

スペック

23歳・早慶政経法のどっか・4年(浪人した)

実家:都外。奥多摩山中やどこぞの島よりは皇居に近い。

上っつら:少なくとも面と向かって悪し様に言われたことはない。中学生と比べると大きく、高校球児の中なら目立たず、プロ野球選手に混じれば小さく見える(はずだ)。人並みには気を遣っているつもりでいる。

私には2つの強迫観念がある。そのうちの1つは「結婚しなければならない」というものだ。もう片方についてはあえて述べない。

かかる珍妙にして時代遅れ時代錯誤と言うべきだろうか?)の価値観を、いつから我が身のものとしてしまったのか、詳細な事情記憶していない。ただ、誰かの「家を継げ」とか「孫の顔を見せろ」という種の明確な言葉あってのことではなかったことだけは、はっきりと断言できる。他者からの影響が思い当たらない、本能的に自然発生したと説明するほかない感情からこそ、我ながら奇妙だと余計に思う。ともあれ、私が「結婚しなければならない」という価値観に囚われていることだけは確かだ。

結婚の前提条件を思い切り単純化するとして、最低限パートナー愛情喚起する資質を有すること、とした場合、幸いにもその適格性はあると考えられる。何度か愛されたことがあるからだ。それが私の外形的諸条件に起因したものだったのか、はたまた精神領域と関連するものだったのかは今となっては知る由もない。もっとも、その辺の機序はよく分からないし、検討する実益にも乏しいように思われるから、詳細には立ち入らない(拒絶されたこともある。少なくとも愛されたことの同数はある。こちらの方が問題としてはるかに重大だと思う)。

あるいは大前提として、そもそも私は他人たる異性を心から愛すことができるのか、という根源的な問題も考えうる-イエスだ。中学校高校(・予備校)・大学と、それぞれの段階で心から愛した/希求した女性は、少なくとも一人ずつは存在した。逆に言うと、何人もの異性とすれ違う中で、(性的昂奮は別として)特別な心情を惹起するに至った人々は、極めて少数しか存在しなかった。

結婚に対して、心理的阻害要因存在しない-少なくとも大きな問題はないはずだ。むしろ結婚しなければならない」というくびきに囚われているのだから、前のめりでさえあるべきだ。にもかかわらず、私は「結婚できる気がしない」。

長くなりすぎた。問題本質を簡潔に述べる。「結婚できる」と思える人に巡り会えない。

私の愛情の抱き方は、一目惚れに近いものがあると思われる。顔がどうとか精神性がどうとかではなくて、いつの間にか好きになって、彼女(たち)の自慢のアピールポイントや隠したい欠陥といった具体的な要素には一切立ち入ることなく、総体として「好きになって」しまう。このことは、私が好きに"なりうる"人々を類型化することを非常に困難にしている。酸いも甘いもというと身も蓋もない言い方だが、彼女のどこに惹かれて好きになったという具体的な点の説明ができない以上、共通点見出してその特質を有する人々を探す、ということのしようがない。慣用句的に言うなら「恋は盲目」ということなのだろうか。

逆に、「総体として」好きにならない女性存在する。むしろ「好きになった」人々が極々僅かな例外にすぎないのであって、今まで出会ってきた何千何万という人々のほぼ全てはこちらにカテゴライズされる。この「好きにならない」人々の中にも、もちろん友人(であると信じたい)は何人か存在するし、有り難いことに好意を抱いてくれた人もいる。私が「好きになった」人々と何らかの点で似通っている人もいた。しかし、私はこの範疇の人々に親愛以上の心情を抱くことができなかった。提供できる親切は、親しき友人としてのものが上限だった。否、それすら私の怠惰ゆえに、とんでもなく低いレベルのものにすぎなかったとも思う。

「愛することができる」人を探すために、アトランダム努力はそれなりに重ねたつもりだ。他学部開講の講義に片っ端から出てみる。同年代の異性が多いバイトを探す。時には友人に紹介を頼んだこともあった。マッチングアプリだってした。並行して2、30人の知らない異性とパラレルに知り合うある意味刺激的な生活を3ヶ月ほど続けた-何人かの「友人」と知り合っただけに終わった。いいねの数が身長を優に越してしまったあたりで、少なくともパートナー探しではない別の作業になってしまった気がして、やめてしまった。

これから先の人生で、心から愛することができる女性に巡り合える気がしない。おそらく巡り会えないのだろう。仮にいるとしても、既に「売り切れている」可能性すらある。私はもう23なのだ!私は恋愛市場上のまさに完全な敗者として、20代前半の若者が集まる場所としては日本で最も大きな部類に入る学舎を去ることになる。偏差値市場上の敗者として押し込められて、恋愛市場上の敗者にして立派なインセルとして出荷される。

結婚自体可能ではあるのだろう。「結婚しなければならない」という心情へのアンサーとしては、最も安直だが直裁な解決策でもある。私一人で家庭全体を食べさせることができるかどうかは別として、その大部分を担うことに対しては、現実として可能であろうし、別段おかしなこととも思わない。

ただ、私は、結婚生活しろ親としての生活しろ、その本質の一側面は自由の縮小であると強く信ずる。期待や喜びの総量をはるかに上回る失望と失敗の連続であろうと確信している。いざ焼かれる時にどう思っているかは別として、存命中常に家族とやらに関する何らかの心配をし続けていることだけは確かで、幸せな家庭生活というものが仮にあるとしたら、それは常駐する100の心配事と同時に0.01の安寧を自覚できるかそうでないか、という程度の話でしかないのだろう。

そのとめどない苦難の道程を、愛することのできない人と共に歩いて行けるのだろうか?より直接に言う。「妥協できるのだろうか?」決して少なくはない人々が「できる」ことは知っている。それどころかたった100年前、それこそがセオリーだったことも知っている。ただ、私は「できる」とは思えない。途中で投げ出してしまうという確信がある。親しき友人としての親切が上限で、それを超える困難と直面したら、逃げ出す。「結婚しなければならない」という私のエゴと人としての欠陥ゆえに、罪のない他人のことをこれ以上不幸にしたくない。

諸先輩方はどのように折り合いをつけたのだろうか。「後から好きになる」ようなことがあったのだろうか。「子供が生まれたら変わる」のだろうか。はたまた「みんな結婚してるから、流れに合わせてそれっぽく振る舞ってるだけで、相手特別感情はなかったし、何なら今は少し幸せに感じることだってあるよ」というのが真実なのだろうか。もしそうなら、どれほどよいのだろう。

鬱屈とした諦観けがある。"愛することすらできずに"家庭を放り出し、エゴのために他人を有形無形に傷つけたクズ烙印を押されるよりは、生涯部屋のアガベサボテンどもと共に、好きな音楽映画世界観だけに閉じこもって、屈折した強迫観念を胸に秘めたまま朽ち果てて死んだ方がマシだ。最大多数の最大幸福希求するなら、それが社会的に最善でもあろう。闘争領域本来、縮小されるべきなのだ

泣き言を書き散らし、日記とすることで、何らかの整理がついたように思う。この乱文を書く直接の動機となった、『22歳女オタクvs結婚願望』 https://anond.hatelabo.jp/20241207175805 の筆者が良きパートナーとなりうる人と巡り会えることを切に祈り貴女可能だと思う。私はそう確信するし、本心からそう願っている)、終いとする。

2024-12-03

ロングコートダディの不運と松本人志呪い

思えば今年はキングオブコントでも、ロングコートダディさんは盤外の裁定のためにうっすらヘイトを買っていた感がある。私の主観だが、Twitterとかでも同じように見る意見が当時、散見されたのを覚えている。

花屋モンスターカスタマーネタは無論、兎さんの卓越した演技力もあってめちゃくちゃ完成度の高いコントだったと思う。ただ、爆発的な笑いがドンとあるというよりニュアンスの笑いだし、ライブの時とオチが変わって劇的になった(元は事故に遭うくだりがなくて、つくらせた花束店員さんにプレゼントして「好きな人への贈り物だから完璧にしたかったんです」みたいなことを言って普通にフラれる)代わりに兎さんのあの客の態度の悪さが物語上で回収・解消されなくなってモヤモヤが残る、手放しに「大好き!」とは言えないネタだった。あの点数はちょっと高すぎたと思う。

なぜロコディさんにあん高得点がついたのかと言えば、私は「令和ロマン松本人志呪い」だったと見ている。

今年のキングオブコントは、M-1に先立つ「松本人志審査員席に居ないお笑い大会」として、ちょっと観測気球的なポジションにもなっていた。

審査員長枠のプレッシャー番組中でも口にしていた飯塚さんはじめ、審査員たちは(というか制作陣が)心のどこかで「松本がいなくてもちゃんと公正で権威ある審査ができた」実績をつくらねばという強迫観念を抱えていたと思う。

から、「トップバッターはとりあえず様子見の基準点」という、例年通りの定石が打てなかった。なぜなら去年のM-1松本失脚直前のM-1で「トップバッターでウケた令和ロマンちゃん高得点を取って3位に入り、そのまま優勝した。それがネットなどの評判としても概ね、納得できる結果と受け止められている」事実があるためだ。

から彼らはロングコートダディに低い点数をつけることができなかった。「去年のM-1は出順に関係なくちゃんとした評価ができていたのに、今回のKOCは……」と比較されたくないからだ。

のしわ寄せを喰らったや団さんあたりが本当に気の毒だった。

や団さんは、あまりにも出来が良く、そしてそこまでの認知度がなかったところからインパクトだった「2022年自分たち」も越えないと飯塚さんが良い点をつけてくれないという、あまりに重い十字架も背負わされてて本当にかわいそう)

今年は「賞レース審査」で、ロコディさんは悪目立ちすることが多いなぁ……。

2024-12-01

anond:20241201223439

丁寧な暮らしアカウントではないけど、そういう系のYoutuberの女とも付き合ったことあるけどアレ系は強迫観念というか一種精神病自己承認欲求の塊でああなってる感じだから実態はひどいもんだぞ

インスタにいい写真を上げるために30分写真を取り続けたり、使いやす家具より褒められやす家具(●●さんが言及した、XXが使っている)を選ぼうとしたり、こっちの要望は一切通らない一種宗教だし気に食わないとヒスからかなり劇薬だったぞ

2024-11-27

浪人率に男女差があるという事実女性差別として報じる日本

見方を変えれば、男は浪人というリスクが高い状況に追い込まれがちだ、そうでなければ人生設計が困難であると報じることもできるはずだ。

しか日本ではそうしない。なぜか「リスク回避することができる余裕のある女という性別」を取り上げ、やれジェンダー格差がどうだと説法を始める。率直に言って狂っている。

なぜ女は浪人しないのか

理由簡単で、浪人せずに現役で合格できる大学に入っても、人並みの人生を送ることができる公算があるからだ。

難関校への受験以外の選択肢存在し、そちらに人が一定流れるというだけの状況に対し、ジェンダービジネスに脳を支配された人間は「そうせざるを得ないジェンダーバイアスがどうのこうの」と言い始めてしまう。

男にとっても女にとっても、浪人は避けるべきだという認識に相違はないはずだ。だというのに、男は浪人武器というように扱われることの腹立たしさよ。そんなに浪人がしたければ勝手にしていればいいだろう。

世の中の女たちは、自分浪人をしなくても人並みの人生を送ることができる、学歴という箔がなくても生きていくことができる、そう信じることができているのだ。それの何がいけないのか。それの何を是正するべきなのか?

そもそも浪人がしやす環境を促進」って口に出してなお、自分おかしいことを言っている自覚はないのか?そんなに浪人がしたいのか?それとも学習塾癒着しているのか?浪人せずに難関校に現役合格することが1番だというのに。何かを履き違えてしまっていることに気が付かないのか?

なぜ男は浪人するのか?

その一方で、男は学歴という箔がなければ今後の人生を送ることができないと、そう信じて浪人選択している。彼らにとって、現役で合格できる大学入学した後の人生は「避けるべきだ」と考えているからだ。

もちろん浪人選択した全員が救われる訳ではない。一定数の人間は、自身が受け入れたリスクを背負って社会から退場していく。それは妥協して現役でも合格可能だった「避けるべき大学」にいくことかもしれないし、あるいはそれすらも捨て去り引き篭もることかもしれない。しかしながら世間はこのような、性別特有リスクを背負った人間を「自己責任」として見放そうとする。理由簡単で、彼らを救済することがビジネスにならないからだ。

オブラートに包まずに言ってしまえば、彼らは大学受験という名のパンニング皿から零れ落ちた砂利に他ならない。彼らは砂金ではなかったのだ。そして金でなければ拾い上げるものもいない。それ故に放置され、将来は閉ざされ、社会に認められていないために伴侶も得られず、されども人生は終わらず、先の見えない灰色人生を送る。これが、はてな大人気の弱者男性子供部屋おじさんというやつだ(現代社会はこの手のスラングに富む)。そして、そのうちのいくらかは未来絶望して首を括るかもしれないし、失うもののない無敵の人となって社会に反抗するかもしれない。しか社会はこれを気に留めない。金に目がくらんでいるからだ。社会は砂金を求めて、男性を「選別」していく。そうして砂利は捨てられていく。

これが「浪人のしやす環境」の実態だ。実際は順序が逆で、「浪人しなくては生きていけない」という強迫観念と、それを抱かせるには十分な選別社会を目の当たりにしているからこそ、男は浪人するのだ。浪人「せざるを得ない」状況に置かれている人間を捕まえて、やれお前は恵まれているだのと捲し立てることの残酷さが、少しは理解できただろうか?

男を社会的選別にかけることをやめれば浪人社会解決する

と口酸っぱく主張したところで、誰も受け入れてくれはしないだろう。誰だって上澄みを掬いたいからだ。社会というのはそういう形をしている。いや、生命のものが、そういう仕組みで成り立っているのだ。雄が雌を求めて競争し、敗者は淘汰される。私たちがしていることは、サバンナライオンと大差ないのかもしれない。敗者が地に伏せ積み重なった地平を、私たちは踏みしめている。ジェンダービジネスはそんなことも忘れさせてしまったに違いない……

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