元増田だけど。
同期の間で思い出としてゲームの話が出てもついていけない…
実はお金の無駄と言いつつ、プレイステーションが3世代ぶんちゃんとある。捨ててなかった。
なのに、今更になって夢中になるようになった。まあ、今更とかそういう基準ではないのだろう。
これまでは、ゲームやってて楽しかったはずなのに、熱中するほどではなかった。
今は、はまる。
今ではさすがにそんな事も思わなくなったけど、それでも時々もの凄い怒りや恨みの感情が押し寄せてくる事があって、そうなると今まで対人関係で起こった嫌なことを全部思い出して、
ああなんで自分だけこんなに人から嫌われてるんだろう、こんなに嫌がられながら明日からどうやって生きて行けばいいんだろう、皆から無視されてる避けられてる、もう死にたい。
ってなる時がある。
ここでいう「自分だけ」って、世の中で自分だけという意味ではなく、自分の周囲で自分だけって事。
前に聞いたら舐められてるからだって事みたいなんだけど、本当に面白いくらい自分だけ攻撃されるんだよね。
もしかして他の人も自分の目に入らない所で言われてるのかもしれないけど、少なくとも言ってくる人のTwitterやFB見てると明らかに私の事を言ってる。
そういう事が本当に我慢できなくて、趣味や主義思想、好きな作家やゲームでもなんでもいい、自分の価値観を押し付けて来て、受け入れられないと批判する奴らと仲良くやっていけない。
誰だってそうかもしれない、私の場合、そういう人達と上手く距離を取ることができない。
距離を取ろうとするとキレられて、絶縁に至ってしまう。
なんで私は人間関係が破綻しちゃうんだろう。他の人は「距離を置けばいいよ」と簡単に言って、自分に都合のいい時だけ仲良くしちゃうのに。
他の人はできてる事が自分にはできない。
そして対人関連のストレスだけが溜まっていく。他人は自分を嫌いだ、だからあんなに酷い仕打ちを平気でする。他人は自分を利用しようとしかしない、助けを求めてもスルーされる。
自分の味方をしてくれる人は居らず、誹謗してくる人の味方はいる。
辛い、本当に辛い。
今度知人が結婚するそうだ。
結婚相手の紹介を兼ねて飲みませんかと誘われた。
しばらく考えた後、欠席しようという結論になった。
仕事の納期があるというのもあるけれど、少しだけ、会いたくないなという気持ちもあった。
ただ、同年代の同僚や道行く人達を見るからに、きっと友人たちもしっかりとした大人になっていると思う。
私はどうだ。学生時代から何も変わっていない。それどころか、停滞していて見苦しいばかりだ。
化粧をしてもお洒落をしても自分が綺麗になるとは思えないし、頑張ってしようとしてみても鏡を見てすごく気持ちが悪くなる。吐き気がする。
マナーとして化粧やそれなりの格好をしなくちゃいけないのは分かるけど、自分がそれをするというのはおかしい気がする。
それは周りから見たらただの子供の我侭で、「ああ、あいつは子供のままなんだな」と鼻で笑われているのだろう。
過去一度だけ付き合った人がいたけれど、好きで一緒に居た、と言うよりは周りからの煽りを受けて勢いで付き合ったようなものだった。
何をするにも一緒で、休みの日は多い時はメール3桁をやりとりして、というのが抑えつけられているようで怖くて1ヶ月で別れた。
別れてから2年くらいしてまた付き合いだした。好きだ、というよりも寂しいからくっついたという感じだった。
中学生みたいな付き合い方しかできなくて、手をつないで触るだけのキスをして、距離が離れてからはskypeで顔を見たり、話をしたり。
ルールをふたりで決めてskypeで話をしていたけれど、それがだんだんと面倒になった。話が合わなくて、会話が続かなくなったからだ。
それからまたごめんなさいを言って別れた。私の我侭で別れたようなものだった。
きっと知人は綺麗になって恋をして愛を知って、素敵な人と結婚するのだろう。
それはとても極普通なことで、とても喜ばしいことだ。
だけど、私は一体何なんだ。
綺麗になることもなく、人を好きだと思うこともなく、一体何をしているのだろう。
こういう時によく、中学時代の先生が通信簿に毎回書いていたことを思い出す。
「人ともっと関わりなさい」と。
綺麗になることの大切さや、人を好きになることを覚えたんだろう。
本当に、なんでこんな人間になったんだろう。
最近、気づいたことがある。
思えば今まで母親と似たような女性と付き合ってきた。高校時代は母親とどことなく目や鼻立ちが似ている女の子(しかも母親と同名)、大学時代は母親と全体的な雰囲気が似た女の子、そして社会人になった今は母親と顔立ち、しゃべり方、ともにそっくりな女性と付き合っている。彼女は最近髪を切って一段と母親と似るようになってビビっている。
母親は昔から世話焼きだった。大学入学と同時に実家を出て一人暮らしを始めたあたりからその勢いは強まった。社会人となって2年ぐらい経つが世話焼き具合は衰えない。母親の世話焼き具合を少々鬱陶しいと思う反面で、無意識的に理想の女性として頭に刷り込んでいたのかもしれない。
もう1つ考えられることとしては、世の男はみんな潜在的にマザコンではないかということだ。俺も多くの世の中の男と同じくマザコンだったということなのかもしれない。
子供が断定しているのは子作りという親の行為ではなく、「自分は不幸である」という自分の感情についてである。
いつになったら本音で話せるようになるのかなぁ。
いつになったら敬語で会話しなくなるのかなぁ。
いつになったら涙を見せれるようになるのかなぁ。
いつになったらケンカできるようになるのかなぁ。
いつになったら友達になれるのかなぁ。
いつになったら恋人に…
奥では、別なサルが、ひっくりかえって寝ていました。
そして、見ていると、サルが、檻の外の笹に手を伸ばして、
笹をつかんで、それをちぎって口にくわえて、他のサルの前にいき、
攻撃のような感じでアタックしていったら、そのサルが反撃して、
攻撃されたサルが笹を奪って、口にくわえていました。
その後、サルは笹を食べました。
サルは笹を檻の外から引っ張るときに、なんか、動きづらそうでした。
なにか、動作的に制限がかかっていて、苦しそうな、感じがしました。
木を飛び移るのは制限がかかっていないように見えましたが、
引きちぎるのには制限がかかっているように見えるのが不思議に思いました。
あとは、しばらく、見ていたら、こちらに放尿してきたので、
はてなブックマーク - 【動画】「たかじんNOマネー」 橋下が無双状態…水道橋博士が途中退席、大谷顔面痙攣
http://b.hatena.ne.jp/entry/alfalfalfa.com/archives/6598905.html
TM2501
たかじんがいないと評論家のポジショントークだらけになって「そこまで言ってい委員会」も然りだけれど、評論家ってあれだねぇ…。全く
だん‐てい【断定】
[名](スル)
1 物事にはっきりした判断をくだすこと。また、その判断。「証言を虚偽と―する」「―的に言う」
はん‐だん【判断】
[名](スル)
1 物事の真偽・善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること。「適切な―を下す」「なかなか―がつかない」「君の―にまかせる」「状況を―する」
けん‐り【権利】
一般的に言って、知らないことについて断定することはできない。何故なら知らないが故に正しい判断を下せないから。
必然、断定する権利は断定する対象について多少なりとも知っている者のみにある。
子どもは自身の出生を全く知っていないし原理的に知り得ない。子どもには自身の出生に関してその真偽・善悪を見極め、自分の考えをはっきりと定める資格も能力もない。
誰かと友達になろうと行動に移せるのは、その先に幸福だったり自分の利益になるという確信があるからだろうけど、
一時的にはそう思えたこともあるにせよ、それがいつまでも持続したためしがないので誰とも友達になろうとは思えない。
幸せになるのも不幸になるのも生まれたことが原因ではない。
どう生きたか、どう感じたかで幸せか不幸かが決まるものである。
でも生まれなければ、不幸にならないじゃないか!と言われればそのとおりだが
それを言い出したらキリがない、生物が誕生しなければ、地球がなければ、宇宙がなければ・・・
幸せか不幸かは、どう生きたかどう感じたかで決まる以上、全てが自分の責任である。
不幸だからといって、自分以外のせいにすることこそクソである。
責任転嫁も甚だしい。
生まれたことによって負うものとして『死』があるが、『死』=不幸ではない。
でも、不幸な死は存在するが、それもその人が、どう生きたか、どう感じたかで決まるものだ。
よって、子供を生むことは全くもって悪ではない。
世の中に生まれた物は全て、生み出された物の都合とは関係なく生み出される。
生み出したものは、生み出された物がどうなるかについて本来は全く責任なんて無い。
ただ、結果が悪い要素を含む場合、どこでなら止められたのか?という点に
これはもうどうしようもなく。
人権とかノーマライゼーションとか言っても、やっぱり障碍者は生活につらいことがあるし不利も多いし、家族も負担が大きい。
例えば障碍者への義務教育費用と言うのは、健常者の10倍は税金がかかってる。
本人も不幸だし、周りの人も不幸だ、これは社会努力でどうやっても同じにはならない。
足がない人と足がある人は、どうやっても違うのだ。
足を失った人は、どうやっても陸上選手にはなれない。マラソンを趣味にすることも出来ない。
選択が人生の幸福を生むことを考えれば、最初に選択肢がないというのは、何を詭弁で論じても幸福ではない。
だからといって、障碍者がいなくなるかというとそんなわけはない。
障害者の数が少なければ、少ないからといってないがしろにしかねないとも思える。
不幸な人間が何も対策されず見過ごされるのは犯罪や自殺や乞食など、社会不安を引き起こしかねない。
健常者にとって、将来のことを考えても、社会維持のためにも社会福祉は必要だ。これは人権だけの話ではない。
障碍者が健常者のおかげで生きているなどといっても、殆どの場合、その金は金持ちの払った税金がまかなっている。
私がしていることなど本当のところ殆どない。多くの人が同じくそうだ。
700万以下だったかの低所得層は取られる税金よりもむしろ国家支出の恩恵の方が多きい、だからといって金持ちに感謝しろといわれれば腹立たしいだろう。
好きで低所得なのではない。金持ちが何故それを言わないかといえば商業ベースが多いからでもアリ、低所得層の方が数が多く政治権力的に強いからかもしれない。
ただ、それだけで私のような低所得層は何の気もせず往来を歩けるのだといわれると、多少情けない。やはりそこは、人の倫理であるほうが誇らしい。
クリスチャンだけど。
「神なんていない」を受容する気は無いけど、
「恨まれるためにいるのかもな」は比較的受容できる。
何故って?
その恨んでる瞬間、その人は孤独ではないだろう?
隣人知人家族を傷つけるくらいならば、君のように「いない」と思いながら「(本人にとって)いないはずの仮想相手」を恨んだ方が、
現実的に害は少ないと思ってさえいる。
この世だけがすべての人にとって、隣人を傷つけるよりは、そうしない方がずっといいだろうさ。
それは宗教が違うってことであって、例えばこのような話題で怒りを起こすようなクリスチャンは沸点が低すぎると思ってくれね