OTOTOY EDITOR'S CHOICE Vol.102
OTOTOY編集者の週替わりプレイリスト&コラム(毎週金曜日更新)
夏を待つ
いつからか、行ける限りライヴには行ったほうがいい、という取り決めに近いものが自分のなかに存在している。途端に紙切れと化したandymoriのチケットが原因のような気もしている。あの時の、バンドというより生きること自体があっさり途切れるものなんだな、という感覚。その記憶が今のいままでついて回ってきている。それもあってか、バンドの活動休止やメンバー脱退に対する自分の反応は結構単調だ。2020年から続けざまに発表される脱退・活動休止の数々は、これまでのものとは系統が違ってくるからやるせなかったけど、それでもぼんやりとそうか、、くらいに思っていた。
今週GEZANがベースのカルロス脱退を発表した。そうか、と思いながら高円寺には行かずそのまま帰り、友人のインスタでアコギをぶち壊すマヒトゥ・ザ・ピーポーの姿をみる。人だかりができているようだった。日本の特定のアンダーグラウンドな音楽に接している人にとって、まあ若い人に限っての話かもしれないけど、GEZANは特別な存在だと思う。あらゆるコミュニティのハブになりながらどこにも寄りかかりすぎることなく、触れたもの全てからインスピレーションを得て誰も思いつかないorやろうとは到底思えないことをやりきってしまう。セミ・ファイナル・ジャンキー、全感覚祭、BODY ODD…体験することに意味を持たせるイベントをきっかけに新しく知る音があったし、場のパワーに圧倒されていた覚えがある。それぞれが、一発思いついたアイディアとか行動力とか、そういう鮮やかなものだけじゃなくて、もっと気が遠くなるような多くの人とのやり取りや発注なんかの地味なことの積み重ねからできたものだったはず。高円寺ドムスタの天井が突き破られた時、焦るメンバーと後からどこかからやって来て笑っていたマヒトゥ・ザ・ピーポーの対照的な反応がなんかよかったのとか、覚えてる。いつも挑戦的で行く先を決めてしまわないバンドはこちらから見ると最高に美しいけれど、ギリギリのバランスで保たれていたんだろうというのは想像に難くない。だからこそGEZANは特別であり続けて来たのだろうとも思う。そのフロントマンである彼が、闇雲にうねり粉々にしたアコギの上に突っ伏す姿はなんだか象徴的だった。袋小路に入り込んでどうにも行かない今のどこに希望ってあったんだっけ? それでも今は冬だ。夏が来れば、、とかふざけたことを考えている。夏は赤がよく似合う。